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アヴァンセ

1 :エシクスト :2014/03/11(火) 13:09
Juice=Juice。
ともかりん。
とか。
2 :-1- :2014/03/11(火) 13:11

昔から願ったものは叶わなかった。

小さい頃、欲しかった外国製の熊のぬいぐるみは、別の流行りのお人形になったり、
行きたいとせがんだディズニーランドは大人の事情というやつで、近所の寂れた遊園地になったり。

とにかく私には、なにかが足りなかった。

それは運というものなのかもしれないし、ちょっとしたタイミングなのかもしれない。
でも、そういうものって、自分ではどうしようもないもので、次があるさ、と唇を噛みしめて
また願いを紡いできた。

3 :-1- :2014/03/11(火) 13:11
そんな矢先に、新しいグループ結成。
レッスンを終えてみんなで呼び出されて、カメラが回っていたから何かの撮影だとは思っていたけれど、
まさかこんな展開が待ってるなんて思ってなかったっけ。

しかもさほど話したこともない人たちとの組み合わせ。
唯一ずっと一緒だった2人のうち一人は、去っていくというオマケつき。
気持ちがついていけなくて当然なのに、過ぎていく日々は待ってなんてくれない。

与えられるものを全部を受け入れるしかなくって。

だったら、この状況も全部受け止めていかなきゃ。
そうやって頭を切り替えれば早かった気がする。

私がしっかりしなきゃって。
キャリアが長い分、ちゃんとしてないと、きっとこのグループはダメになる。
そんな危機意識さえ感じて。
せっかく掴んだチャンス、ふいになんてしたくない。

それは普段の集まりでも、ダンスレッスンでも変わらない。
みんながバラバラにならないように必死だった。
リーダーなんてまだいなかったから。
3つ以上も年上のメンバーに、どうやって話しかけていいかもわからなかったけど。

4 :-1- :2014/03/11(火) 13:12
「由加ちゃん、そこ、ちょっと振り遅れてる」
「えっと…、ごめん、教えてもらってもいい?」
「もちろん」
「あ、待って、みんなで合わせよ?」

紗友希が声をかけてくれてみんなが集まる。
その時…―――ふと、視線が一瞬奪われた。
ずっと一人、無言で鏡と向かい合っていた人に。

まるで私の視線にも気づいていないみたいで、表情は真剣そのもの。
長い髪は後ろで束ねられてて、すっきり見える顔の輪郭が、長い手足が、
柔らかそうな身体の輪郭が、私と違って成熟するのに近づいた女性のそれ。
それだけじゃない。
その唇から紡がれる声が、どれだけ甘く、でも力強く響くかも私は知ってる。

そのぜんぶが私にはないもので。
だから、ついいつも追いかけてしまうんだ。
無意識でも、意識していても。

「朋ー! 一緒に合わせよ〜!」
「あ、はい」

紗友希の声に、ぱっとこちらを向いたその人、朋――金澤朋子、は
一瞬だけ私たちと視線を交わらせて、こちらに小走りで駆けてきた。

5 :-1- :2014/03/11(火) 13:13
正直な話、私はこの時はあんまり朋のことをよく思ってなかった。

研修生になってさして時間も経たずに選抜されて。
それ以前の経歴も、目に眩しいものだったし。
まるで、明と暗。
どれだけ努力しても届かない私と、天性の才能でクリアしていく朋。
これで意識しないなんで誰ができる?

でも卑屈になんてなりたくなくて。
ここからスタートなんだから、一緒にやっていくメンバーなんだから、と振り切る毎日。
多分、透ける気持ちは態度にも出てるかもしれない。
他のメンバーより交わす言葉が、一番朋が少ないだろうから。

6 :-1- :2014/03/11(火) 13:13
「わーたしーが ゆーまえー なーら」

どうしても遅れてしまう由加ちゃんに、みんなで合わせていく。
その間も、極力朋を見ない。
でも吸い寄せられるように、鏡越しに映って見えてしまうその姿は、基本もまだまだだし、
何回も同じ場所を間違えちゃったりしてるけど、あたりが柔らかくて視線を持っていかれる。

あぁ…、あんな風にすればカッコいいかもしれない。
強引に身体を動かすんじゃなくって、もっと、朋みたいに。
そこまで考えて、頭を振ったっけ。

「朋は大丈夫?」
「あ、大丈夫です」

紗友希ちゃんの声かけに、短く答える声も拾ってしまう自分が嫌だ。
控えめな声と敬語。
年下の先輩って一番扱いにくいだろうに、朋はこうして礼儀をわきまえていて。
だから、余計自分の心が醜く思えて、浮き彫りにされてくるんだ。

7 :-1- :2014/03/11(火) 13:14
なんでもっと素直に話しかけたりできないんだろうって。

きっと人より潔癖なところがあるんだ。
異質な何かを拒む気持ちが強かったり。
ちょっとしたきっかけさえあれば、きっとうまく行けるだろうに、それができない。
他の研修生の子たちのようには、朋が相手だというだけで振る舞えない。

「わーたしーが ゆーまえーなーら しーていーいのにーっ!!あーできたーっ!」

それでも頼りにされて、できないことができるようになっていく姿を見るのは嬉しい。
自分が教えているなら尚更。
私を必要としてくれているんだってわかるから。

ほら、由加ちゃんがマスターして笑顔が零れると、私まで嬉しくなる。

うわーっと手を叩いてちらりと鏡を見て、ふと止まる。

朋が由加ちゃんに向けた笑顔が、本当に嬉しそうで無邪気なものだったから。
あんな笑顔、見たことない。
少なくとも私の前では。
でも。
ふっと私と交わった視線に、また控えめな笑顔に戻って。

8 :-1- :2014/03/11(火) 13:14
あの笑顔は、由加ちゃんにだけ向けられるものなんだって…気づいてしまったんだ。
それは多分…同じ境遇で選抜された意識と、年上メンバーだからっていう共通点が
させるものなのかもしれない。
でも、確かに私は…踏み込めない『何か』を感じてしまったんだ。

自分から遠ざかっていながら、なんて勝手なんだろうって思うけれど、
その突き崩せないものに、苛立ちを感じてしまっていた。

一声かければいいだけだったのに。

「朋、一緒にしよう」って。

9 :-1- :2014/03/11(火) 13:15


*****

10 :-1- :2014/03/11(火) 13:15
それでも転機は突然訪れる。
なんの前触れもなく。
構えていた自分がバカみたいに、あっけなく。

「う〜〜…」

メジャーデビューが決まった夏。
たまりにたまった夏休みの宿題と格闘する毎日。
それは、ちょっとした仕事の合間である、今でも。

エコ政策のために、28℃で設定された事務所の会議室で、一人うなりながら
テーブルに広げたプリントとにらめっこ。
まさに、ちんぷんかんぷんな数式の羅列を目の前にかれこれ20分もこうしてる。

根っからの文系なんだ。
古文・漢文なんか調べるのは得意だし、作文だってすでに終わらせた。
でも、どうにも、この数学というものが苦手でしょうがない。
そもそも数学のテストで褒められる点数を取ったのはいつまでだったか。
それほどまでに絶望的なのだ。

11 :-1- :2014/03/11(火) 13:15
「紗友希ぃー、数学教えてー」

離れたソファーで横になってiPhoneを弄っていた紗友希に声をかける。
途端にしかめっつらが飛んできて。

「はぁ? さゆきにわかるわけないじゃん」

そんな自信満々に答えなくても。
仮にも高校生なのに。

「あ、でも」

思い出したみたいに、身体を反転させた紗友希は、
あの人懐っこい表情で、ちょいちょいっと私の対角線上にいる背中を指さした。

「朋、数学得意だって」
「朋が?」
「うん、テストとかほぼ満点取るぐらい」
「うそ、ほんとに?」

意外だよねぇーなんてケラケラ笑いながら、また身体を反転させてiPhoneに
目を移す紗友希は、それ以上のことは言わなかった。
要するに、教えてほしいなら自分から行け、ということだ。

12 :-1- :2014/03/11(火) 13:16
おずおずと改めて、その背中を見る。
音楽でも聞いて集中しているのか、耳元から下がるイヤホンのコードが時々揺れてる。

どうしよう?
由加ちゃんにきいてもいいんだけど、あいにく今スタッフさんにうえむーと呼ばれていていない。
いつまでも先延ばしにもしたくないし…うん、行くか。

カタンと、椅子から立ち上がって集めたプリントと筆記用具を胸に抱いて歩み寄る。
そして声をかけようとして気づく。
いつもと雰囲気の違う朋に。

「朋?」
「…あ、はい? なんです?」

気配に気づいた朋は、イヤホンを外して私を見上げてくる。
やっぱり。
そりゃあ雰囲気違うわけだ。

「朋って、メガネだったっけ?そんな視力悪いの?」

いつもの大人びたクールな目元が息を潜め、どこか真面目な佇まい。
そのレンズ越しの目が、「あぁ…」という声と一緒に細められて、照れくさそうに口元が緩む。

13 :-1- :2014/03/11(火) 13:16
「実はそうなのですよ」

そう言って親指と人差し指で「ちょっと」を表現してみせる。
今日少し寝坊してしまいまして、レコーディングだけなのでメガネで来てしまいました。
そんな言葉と一緒に。

「問題ありそうなら、コンタクトにしますよ」
「あっ、ううん、なんかすごい新鮮だったから」

そうですか?と小首を傾げながらメガネをかけ直す朋。
うん、なんだかちょっと雰囲気変わる。
一枚ガラスが間に入っただけなのに、ちょっと距離感がとれる感じで緊張が解けた感じがしたし。
それ以上に、私の知らない朋の一面が見れた気がして、なんだかむず痒い気持ちになった。

「私も近視なんだぁ」
「コンタクトなんですよね?」
「うん。でも、朋の方が悪そうだね…」
「どうかな。あ、それで、なにか用があったんじゃないんですか?」
「あっ、そう」

手の中にあるプリント一式を突き出すようにして、軽く頭を下げる。

14 :-1- :2014/03/11(火) 13:16
「あのね、数学の宿題、教えてほしいの。朋、数学得意だって聞いたから」
「宿題ですか」
「うん、あっ、迷惑なら全然かまわないよっ」
「いえいえ、暇していたところですから」

すっと、自分の隣の椅子を引いて「どうぞ」と促される。
それから少しだけ自分の椅子との距離を取る。
それを確認して、私は「お邪魔します」と隣に腰掛けた。

「見せてもらえます?」
「うん」

手の中のプリントやら筆記用具を、朋の前に広げる。
軽く頭をポリポリかいた朋は、一気に集中するようにプリントを手に取って問題に目を通す。
その真剣な目が、メガネの淵から垣間見えて…目を奪われてしまった。

15 :-1- :2014/03/11(火) 13:17
「因数分解ですね」
「うん」

キリっとした眉だから、逆に目の印象は甘く映って大人っぽい。
不機嫌そうにちょっとツンと上がった唇は、私より厚くって柔らかそう。
ふんわりゆるく巻かれた髪とか、その全部が私と対照的。
きっとこういう人が、自然と人の視線を集めていくんだろうな…。

「シャーペン借りますね」
「あ、うん」

視線はプリントに向けたまま、話しかけられてドキリとする。

なに考えてんだろう。
これじゃあ、ファンの人と同じ目線だ。
しかも、いい印象ばっかり持ってるわけじゃないとか。
性質が悪すぎ。

はぁ…こんな風に私が思ってるって、朋は知らないんだろうな…。

16 :-1- :2014/03/11(火) 13:17
「宮本さん」
「っ、な、なに?」
「ぜんぜん関係ないんですけど、前髪切りました?」
「えっ? あ、うん、なんで?」

ぱっと顔を上げれば、朋もプリントから私に視線を移して、やおら手を伸ばしてきた。
えっ、と突然のことに肩をすくめて軽く身を引くけど、そのまま指先が顔に伸びて。

「少し、ついてる」

鼻先を、細い中指が撫でて、離れた。
その一瞬に柔らかい笑みを浮かべて。
ぱらりと小さな髪が足元に落ちていくのに気づかないぐらい、その笑みに釘づけになった。
こんな風にも…笑うんだって。

でも、はっとすれば…胸に広がるもやもや。
宮本、さん?
もう…。

17 :-1- :2014/03/11(火) 13:17
「朋」
「はい?」
「宮本さんはやめて。ほんとは敬語もやだ」

そこ。
いつまでたっても抜けない敬語と、苗字呼び。

わかるよ?キャリアとか考えたら、そう子供じゃない朋の性格からして
自然と出ちゃうものなんだって。
でも、それってなんだか、いつまでたっても距離が縮まらない気がして。
仲良く、なれない気がして、気に食わない。

私たち、同じグループのメンバーなんだよ?
ずっとずっと、一緒にやっていくんだよ?
由加ちゃんみたいに、話してきてよ。
そんな気持ちさえ浮かんでくる。自分の事を棚に上げて。

むっと唇を尖らせるみたいにして、ゆるぅく朋を睨んでみたら、朋は意外そうに片眉をあげて。
ううん、レンズの奥の目もパチパチ何度かさせて。
それから、ふっと息を吐き出すように小さく吹き出し、くすくす笑い出したんだ。
なんでよぉ。

18 :-1- :2014/03/11(火) 13:18
「なによーなんで笑ってるの?」
「いえいえ、可愛いなぁと思いまして」
「あっ、ちょっと今バカにしたでしょ?」
「違いますって」
「むー、ほらまた敬語」
「仕方ないじゃないですか」
「もー」

自然と声のトーンが上がって、向こうにいる紗友希が、iPhoneからちらりと一瞬顔をあげて
仲良いねー、とさして興味ない声をかけてきた。
その声に、一度顔を見合わせて、それからお互いに肩を震わせて笑いあう。
まだどこか、朋は遠慮したみたいだったけど、やっと一緒に。

そのことが嬉しかった。
あぁ、こうして近くで見ると、朋って笑うと顔をくしゃっとさせてあどけなくなるんだね。
いつも大人っぽくて、クールでつまらなそうな顔をしてるから、全然わからなかった。
ううん…、そんな顔にしか私はさせてなかったんだ。

こうやって、構えずに話しかければ朋はいつだって応えてくれるんだ。
邪険になんかせずに。
壁は薄くまだあると思う。
でも、私からちゃんと向き合えば、きっと朋は。

19 :-1- :2014/03/11(火) 13:18
「さ、おしゃべりはここまでで、宿題片付けちゃいましょう」
「はーい、お願いします」

ねぇ、朋。
今までの自分を今ちょっと反省してる。
もっと早く、こうやって話しかけていれば…距離、縮まっていたのかな。
うえむーみたいにはできないけど、素直に甘えてみたら、もうちょっと違う位置にいたのかな?
今からでも…大丈夫?
全然知らないあなたのこと、知っていきたい。
私の事も知っていってほしい。

「どこらへんまでならわかります?」
「えっと…ぜんぶわかんない」

だから全部教えて。
その甘い声で、鋭くも柔らかな瞳で。
そんなに優秀な頭じゃないから、何度も何度も反復しなきゃダメだけど。
もっともっと、朋の色んな顔が見たいから。

ふむ、と、どうやって教えようか顎に手を当てて考えてる朋の横顔を見ながら
そんなことを考えていたけど、それは内緒にしておこう。
まだまだ、色づいてきた気持ちに…名前はつけられなかったから。

20 :エシクスト :2014/03/11(火) 13:19
本日ここまで。
21 :-2- :2014/03/12(水) 05:37
一人っ子っていうのは、いつだって親の愛情を一身に受けていて。
心配もいっぱい、応援もいっぱいで。
でも…だからこそ、手に入らないものも…いっぱいだったと思う。

昔から、聞き分けはいい方だった。
ううん、聞き分けっていうか…どこまで踏み込んでいいのか、
どこで我慢した方がいいのか、そういうのが自然とわかる方だった。

だから…本当に欲しいものができた時に、「欲しい」というタイミングがつかめなくなって。
タイミングだけじゃない、それを口にした時の反応が怖くなって。
ただ笑顔で時間が過ぎていくのを見つめるのが上手くなった。

そんな自分が嫌だと思うけれど…、ずっとそうやってきた今となっては、
どうやってその自分の殻を打ち破っていいのかもわからない。

それでよしと思っていた。
思っていたのに。
22 :-2- :2014/03/12(水) 05:38
「とーもーっ!!」
「あぁっ、もう、やめなさいってば」
「なんでなんで!」
「あー…うるさーい…」

ぼんやりと床に座って柔軟を入念にしながら、視線は声を追いかける。
その先には、脚をケガしたとは思えないほど元気に朋の腕にまとわりついてるうえむー。
ダンスレッスンで疲れた身体を休めようと腰を下ろした朋に、文字通り襲い掛かっって。
ちょっと倒れこめば最後。じゃれたまま、身体の上に跨って構ってアピール。

すごいよなぁっていつも思う。
同い年とは思えない。
あの無邪気さ、というか天真爛漫さは末っ子気質からくるものなのか、
それとも生まれ持ってのものなのか…とにかく、そのパワーには私でさえ圧倒される。

ただ、うえむーの矛先は、決まって由加ちゃんか朋で。
2人とも存分に甘やかしてくれたりするからなんだろうけど、なんとなく胸がもやっとした。
別に私も同じようにしてほしいってわけじゃないけれど、なんというか…。

23 :-2- :2014/03/12(水) 05:38
「いいかげんに降りなさいってば」
「やだ!朋冷たいっ、もっと構って!」
「十分構ってるでしょが…。…あっ、危なっ!」
「わぁっ!」

あっ。
バランスを崩して肩から落ちそうになるうえむー。
それを、朋が咄嗟に身体を起こして抱き込むように助ける。
一瞬の出来事。
でも、それが瞼に焼き付いた。

あまりにも、朋が必死にうえむーの身体を抱きしめて守っていたから。
自分の身体を床にうちつけてしまっているのに、そんなの気にしていないみたいに
腕の中のうえむーにケガがないか確認して…、ほぉっと大きく安堵の息をこぼして。

そして。

「ふざけるのも大概にしなさい」
「あいたっ」

ゆっくり身体を離すと、ぺしっとうえむーの頭をはたいて立ち上がったんだ。
ふらふらと、そのままペットボトルを手に取って喉を潤してる。

24 :-2- :2014/03/12(水) 05:39
その一連の出来事が…、なんだか面白くなくって。
自分でもわかるぐらい不機嫌に、背を向けて立つ朋を見つめてしまった。

わかってるよ?
うえむー、ケガしてるしレッスンにも加われないから気にかけてあげてるって。
でもさ、私とすっごく対応違くない?
私だって、うえむーと同い年だよ?
もっと、こう、気にしてくれてもいいじゃない。

「朋のいじわる…」
「えっ?朋と何かあった?」
「えっ!? あっ、由加ちゃん、ううんっ、なんにもっ」

はっと顔をあげたら、すぐ近くて由加ちゃんが不思議そうな顔をしていて驚く。
聞かれた?今の。
大丈夫、だよね。
一瞬だったから。

25 :-2- :2014/03/12(水) 05:39
「どうかしたの?」

すぐに表情を作って、身体を寄せる。
そしたら、額からこぼれた汗を一度指先でぬぐってから、へへっと笑って上目づかいで
私を見つめてきたんだ。
ちょっとハの字に下がった眉が、可愛い。

「あのね、ちょっと、振りの確認してもらいたくて」
「あ、うんっ、ぜんぜんいいよ? どこ?」
「えっと…」

どうしても、ダンスとなると経験と実力がものを言う。
研修生として、リズム感やバランスを培ってきた私や紗友希と違って、
新しい曲に入った時、由加ちゃんはまだまだ遅れてしまう。
一生懸命になればなるほど、焦ってパニクって動けなくなるほどの緊張しぃだし、
私でフォローできることはなんだってしてあげたい。
そう思わせるだけの人徳を由加ちゃんは持っていた。

26 :-2- :2014/03/12(水) 05:39
「ここで、指先を伸ばして…」
「こう?」
「うんうん、それで顔を前に」
「あっ、そっか! ありがと、佳林ちゃん」
「ううん」

ぱぁっと花が開くみたいに柔らかく笑う由加ちゃんは、可愛い。
おっとりしたお姉さんみたいで。
でも、その笑顔の奥に芯の強い部分があること、私は知ってる。
一番年上だから、もっとしっかりしなきゃって気を張ってるのも。

でも、悟らせないように、一生懸命。
ううん、一人だけ…由加ちゃんが寄りかかってる人がいる、ね。

27 :-2- :2014/03/12(水) 05:40
ちらりと視線を戻して、とらえる。
そう、朋だ。

私も朋より年上だったら、もっと素直に距離を縮めることができたのかな?
頼ってよ、とかさらっと言えたかもしれない。
逆に、朋も構えなかったかもしれない…。
年下の先輩にどうしていいか…なんて、それこそ悩むことなんてなかっただろうし。

「2人、面白いよね」
「えっ?」

どきりとした。
突然の由加ちゃんの声に。
ぱっと振り向けば、小動物みたいな人懐っこい笑顔で、ちょんちょんっと人差し指を立て
私の視線の先にいた、朋とうえむーを差してきた。

「朋、妹多いし、慣れてるし」
「そ、うだね」

そういえば、朋には3人妹がいるんだったっけ。
兄妹がいるってどんな感じなんだろう?
私にはわからない。

28 :-2- :2014/03/12(水) 05:40
でも、そうか…立場がなければ、きっと私も妹さんのように接してくれたのかも。
…それでよしと思えばいいのに、何故だろう、もどかしい気持ちがこみ上げてくる。
妹、という位置に。
でも、思ったところで苦笑してしまった。
妹のように接してもらえるところにもいないのに、何考えてんだろって。

「呼んでみよっか?」
「えっ? なんでっ」
「いいからいいから」

いたずらっぽい笑みを浮かべる由加ちゃんに戸惑う。
どうして、突然…っ。
わたわたすれば、可愛いなぁ、佳林ちゃん、なんて小さく言って。

「うえむー、朋ー」
「なにー、ゆかー」
「ちょっとー」

まだ懲りずに朋の腕を取ってブラブラさせていたうえむーが、
由加ちゃんの声にウサギが耳を立てて反応するみたいにこっちに振り向いた。
追いかけてくるのは、ちょっと不機嫌そうな顔をした朋。
由加ちゃんと、私をそれぞれ見て…薄く口を開く。
けど、そこから言葉が紡がれる前に、うえむーに腕をひっぱられるように進みだして
「あぁ…もぉ…」という嘆息の声が漏れた。

29 :-2- :2014/03/12(水) 05:41
近くに来れば、嫌でも意識してしまって構えてしまう。
そんな私に気づいたかそうじゃないのか、由加ちゃんは軽くぽんと腕のあたりを叩いて。

「うえむー、脚のケガは大丈夫?」

さりげなく会話を振ってくれたんだ。
こういうところが気遣い屋さんの由加ちゃんだからできるところなんだろうな。
私じゃ、うまく話せない。
その由加ちゃんに、うえむーはパっと目を輝かせて。

「ゆか、やさしーっ! 朋も見習えー」
「えぇっ? 最初に言ったじゃん」
「心がこもってないのー」
「いやいやいや、なんでそういうこと言うかな」

やっぱりゆかが一番やー、なんて言いながら朋の腕を離して、優しいお姉さんに
飛びかかるうえむーは、本当に末っ子気質だなぁって思う。
でも、許される雰囲気があるから…悔しい。
何をしても、可愛く映るもん。
私も…何も考えずに飛びついていけたらどれだけいいだろう?
思ったところで、それは叶わない。
ましてや、相手が遠慮してるって分かってるし。

30 :-2- :2014/03/12(水) 05:41
「…どうかしました?」
「え? あ。ううん、なんでもないよ」
「そう?」

じっと見つめてしまったせいか、ちょっと眉を寄せて顔を覗き込んできた朋にたじろぐ。
どこか強い色を持った朋の瞳は、心の奥まで見透かされそうで。
まだ、そうやって踏み込まれるのは困っちゃうんだ。
知りたいと、距離をつめたいと思っているくせに。
…自分のわがまま加減に溜息がでちゃう。

「あのね、佳林ちゃんに振付け教えてもらってたの」

ひょいっと、うえむーを腰に巻き付けたまま由加ちゃんが朋の方に笑顔で囁く。
多分、囁いてるって意識はないんだろうと思う。
もともと密やかな声色だからそう聞こえるだけで、本人にはきっと普通の声なのかも。
そんな由加ちゃんに、髪を揺らして視線を向けた朋が「あぁ、なるほど」と軽く何度も頷いた。

31 :-2- :2014/03/12(水) 05:41
「朋は大丈夫?」
「うちは高木さんにきいてるから」
「そうなんだ?」

遠慮のない返事。
敬語じゃない慣れた会話。
わかってたけど、やっぱり改めて目の前で年上二人の会話を聞くと、ちょっと寂しくなる。
寂しい…というか、なんていうか…居心地が悪くなる。

「佳林ちゃんはさ、すごく的確だし丁寧だし、ためになるよ?休憩中しか聞けないしさ」

気を遣ってくれてるのかな?
こういうところが由加ちゃんの尊敬するところかもしれない。
何でもないみたいに、さりげなく人と人を繋げようって背を優しく押してくる感じが。
嫌味じゃなくって、本当に柔らかいあたりで包んでくれて。

32 :-2- :2014/03/12(水) 05:42
その直後だった。
ふっと視線をまっすぐ私に向けた朋が、なんのためらいもなく手を伸ばしてきて。
えっ、と首をすくめれば「ちょっとすみません」と言いながら、さらに伸びてくる…指先。
寄り目になりながらそれを目で追えば、水を含んで重くなった前髪を撫でるようにかきわけられた。

あ…、とそこで気づく。
遠く、向こう側の鏡に映った自分の髪はぐしゃぐしゃで。
もともと、くせっ毛だからこういう時、わかめみたいに踊っていて。
直す余裕もないぐらい夢中になってたんだと。

かぁっと火照ってくる頬に俯けば、頭の上でくすりと小さく笑みがこぼれる音。
それから…あの、甘く静かな声が耳に流れ込んできたんだ。

「休憩も立派な仕事ですよね。確認も大事だけど休めるときには、休まなきゃ…ね」

今、顔をあげたら、朋はどんな顔をしてる?
見てみたい。
でも、今、私の顔は見られたくない。
自分でもわかるぐらい…心臓の鼓動が胸を打って、身体中の血液が一気に顔に集中しているから。
こんなの、私じゃない。
すくなくとも、朋の中にいる、宮本佳林じゃないはずだから。

33 :-2- :2014/03/12(水) 05:42
と。

「あっ!なぁーにーっ!?仲間外れにしないでよぉーっ!」

救いの声は、意外と近くで響いた。
紗友希だ。
みんな固まってるのに気づいたみたいで、わーっと声を上げて突進してくる。
そのまま、「危ないって」と苦笑する朋に、がばっと背中から覆いかぶさって笑ってる。

「かなとも、飲み込み早いよねぇー」
「えぇ? そんなことないですよ。覚えるのに必死ですもん」
「でも紗友希より身体動いてる」
「いやいや、高木さんが教えてくれてるからなんとかなってるんですよ、ありがとうございます」
「いいやつだなぁーかなともぉー」
「重いですってば」

いつのまに、こんなに仲良くなってたんだろう?
やっぱり…高校生っていう共通点があるからなのかな?

だとしたら、私はどこで朋と共通点を探せばいいんだろう?

34 :-2- :2014/03/12(水) 05:42
子供っぽい私。大人っぽい朋。
話ベタな私。頭の回転が早い朋。
勉強嫌いな私。勉強好きな朋。
なにかが足りない私…。なんでも、持ってる…朋。

……やめよう。
卑屈になんかなりたくない。
きっと、辛かった想いも全部私のためにあるものだから。

それに…悔しいけど、そんな朋の事が――― 。

「宮本さん? どうかしました?」
「…ううん。それより朋」
「はい?」
「―――『宮本さん』は、やめて」

嫌いで、好きだから。

困ったみたいに眉を上げて、由加ちゃんに振り向く朋は、
「そうだよ?」と告げるような由加ちゃんの視線に、ふむ、と一度苦笑いして、

「善処します」

と、子供っぽく笑ってくれて…また、私の中で一つ、嫌いで好きな朋が増えた気がした。

35 :エシクスト :2014/03/12(水) 05:43
本日ここまで。
36 :名無飼育さん :2014/03/12(水) 17:15
ともかりん好きなのでのめりこんでしまいました。
続きも楽しみにしてます。
37 :名無飼育さん :2014/03/13(木) 02:22
ともかりんってなんでこんなにキュンキュンするんでしょう。
すごく好きな文体です。続き楽しみにしています!
38 :-3- :2014/03/13(木) 05:52
いつの時代だって、新人アイドルというのは忙しい。
しかも『アイドル戦国時代』なんていわれているなら尚のこと。

昔のように、選んでくれるのを待っていればいいわけじゃなくって
私達から逢いに行かなきゃ、知ってもらえない。
だから例にたがわず、私達5人もあちこちを回ってPR活動を展開していく。

いつも私とうえむーは、その年齢から年長2人のどちらかと行動を共にしていた。
最近では、ひところ昔よりお互いの距離は縮まってきているし、
そんなに緊張することもなくなったと思ってる。
うえむーなんて、由加ちゃんにここぞとばかりに甘えて、困らせてたりもするし。
私も…勉強を見てもらえる分には、仲良くなったと思ってる。

そして、今日は。

「宮本がCDを渡して、金澤が握手で」
「わかりました」
「途中休憩挟むけど、体調が悪くなったら言って」
「はい」

――― 朋との活動。

39 :-3- :2014/03/13(木) 05:53
マネージャーさんから、これから向かう場所と説明を受けて、
早速移動の車に乗り込めば、二人で並んで座る。

「今日はよろしくお願いします」
「あっ、うん、私も。朋とは初めてだね」
「だね」

ぺこりと頭を傾けて笑いかけてくる朋に、私もならう。
こういう時、さりげなく言葉をくれるのはありがたい。
うまく話しのきっかけがつかめなくて困る方だから。

「移動までまだ時間かかるから、自由にしてて」
「あ、はい」

前の方から聞こえた声に、二人で頷く。

40 :-3- :2014/03/13(木) 05:53
それからしばらく、他愛のない話をふたりでしていたんだけど、
車が高速に上がる頃には、お互い口数も減って。
なんとはなしに、私は携帯を、朋は音楽をイヤホンから聴き始めていたんだ。

こういう時、静寂と車の振動って心地よくって。
朋ともう少し話したいな、って思っていたのに…気づけば私は、連日の疲れもあって
うつらうつらと…瞼を落としていたんだ。

完全に意識を手放す時、ふっと、朋に名前を呼ばれた気がするけど…。
そのまま返事を返すことはできなかったっけ。

41 :-3- :2014/03/13(木) 05:53


*****


42 :-3- :2014/03/13(木) 05:54
目が覚めた時、最初に気づいたのは…朋の匂い。
ふんわりとした柔らかな、朋の独特の匂い。

ゆるりと瞼を開いて、その正体に気づく。
くるりと私の身体に、ずり落ちないようにかけられた朋の上着だった。

そういえばちょっと肌寒い。
空調がきいてないんだろうか?
反射的に、上を見上げてしまった。

それから、最近ずっと着ているお気に入りらしい朋の上着は、
やっぱりというか、私には似合わないなぁなんて
まだ回らない頭でぼんやり考えながら、隣に視線を移す。

反対側の手すりに肘をついて、頭を支えているけれど、
車の振動に合わせてカクカク揺れている。
寝ている…?

43 :-3- :2014/03/13(木) 05:54
「朋…?」

呼んでも返事はない。
寝起きでかすれた声のせいかと思って、もう一度呼んでみたけれど結果は同じだった。
ただ、髪の隙間から見える顔はひどく疲れたような表情で、規則正しい寝息を立てている。

いつもはキリっしている眉も、今はその息を潜めて、
あどけなさの残る素顔をさらけ出しているようにみえた。

44 :-3- :2014/03/13(木) 05:54
18歳。
はたしてその歳が、大人か子供か。
問われれば、きっと私は「大人」だとこたえると思う。
実際法律の枠に閉じ込められた子供の中に、朋は当てはまらないし、
3歳という年齢差からくるものかもしれないけれど、朋はまさに自分の思う「大人」だったから。

決して、感情で動いたりしない。
理知的で、自制心をしっかり持ち、周りをよく見て客観的に自分を見つめて行動している。
後先考えないメンバーが多い中で、それはやっぱり特異に映って、
年上二人には敵わないと実感させられるんだ。
競うモノでも、争うモノでもないのだけれど、わずかばかりの焦りがいつも付きまとう。
私もしっかりしなくては、と。

45 :-3- :2014/03/13(木) 05:55
ただ、その度に朋は言う。
「宮本さんは、いまのままでいいんですよ」と。
頭を、ぽんぽんと撫でるようにして。
その意味を、子ども扱いしてるんだ、なんていつも思っているけれど。
時々…ふと思うんだ。

今のままでいい、という朋。
それは…大人になれず、背伸びしてからまわっていればいい、というからかいなのか。
それとも…もっと何か…、私じゃ理解できない何かを言葉を濁して伝えているのか。
いつも、朋がそうやって私に言ってくる時、その瞳は深く揺れているから。

言っていい事、言わない方がいい事。
そういうことの区別がわかっている朋は、いい大人で、ズルい大人だと思った。
46 :-3- :2014/03/13(木) 05:55
「あ…」

ふと目をやれば、眠る前にしていた時と同じイヤホンが耳で揺れている。
どんな曲を聞いているんだろう?
多分、朋のことだ、今回の新曲を熱心に聞いているんだろうけど。

好奇心に突き動かされるように、そっと手を伸ばす。
とん、と一度車が大きく揺れて、指先がその髪に触れてどきりとするけれど、そのまま静かに。

そろりと片方を外して、自分の耳につけてみて…止まる。
音は、何もなかった。
聞いている間にバッテリーが切れたのか、はたまた、最初から聞いてなどなかったのかはわからない。
でも、朋は無音の世界で一人車に揺られていたんだ。

47 :-3- :2014/03/13(木) 05:55
起こしてくれれば良かったのに。
すっと耳元に戻して溜息をつく。
私では、時間つぶしにもならないのか、と。

自分でもわかっている。
一生懸命話そうとすればするほど、くだらなくて寒く、
とりとめのないことばかりに付き合わせてしまっていることに。
それでも、聞いてほしいんだ。
そして、聞かせてほしいと思う。
些細な事でも、きっと朋を知る大切なものだと思うから。

ふぅ、と。
短く溜息をついて、むくれながら朋を見る。
うえむーだったら、もっと気にかけてくれた?
もっと、フランクに接してくれた?
返事は来ない。
当たり前だけど。
だよね、と、自分のカバンに手を伸ばして……気づく。

48 :-3- :2014/03/13(木) 05:56
外ポケットに、落ちないように深く差し込まれていたスマートフォン。
確か、眠る前、私は端末を弄っていた。
時間つぶしにはゲームなんてやるのがいいと思って。
でも、そうだ、途中で眠ってしまった。
だとしたら…、手の中にあるはずのものがどうしてここに?

答えなんてすぐに、結びついた。
朋、だ。
こうして、上着をかけてくれたことを考えても、手から落ちそうになったのを
ここにしまってくれたんだなんて容易に浮かぶ。

49 :-3- :2014/03/13(木) 05:56
その時、どんな顔をしていたんだろう?
やれやれ、なんて笑っていた?
戸惑いながら、しまってくれた?
想像するだけで、少しだけ胸が温かくなる。
私のためにしてくれたんだって、自惚れじゃなくって確かな事実に。

「ありがと、朋」

小さく呟いて、私のコートをそっと身体にかける。
一度小さく身じろぎした朋だけど、かすかに口元が緩むだけで
また眠りに吸い込まれていったようだった。
その様子が、不謹慎にも可愛く映って…、くすりと笑うと、私ももう一度瞼を閉じたっけ。
鼻先まで、朋の上着を引き寄せながら。

50 :エシクスト :2014/03/13(木) 05:59
本日ここまで。

>>36 名無飼育さん
ありがとうございます。ともかりんの微妙な関係、自分も好きです。

>>37 名無飼育さん
ありがとうございます。ともかりん見ていて楽しいですよね、自分もです。
51 :-4- :2014/03/14(金) 05:21
苦手意識を持たれているっていう自覚はあった。
きっと、同じクラスにいたら絶対話さない友達、そんな感じで。
でも私たちはクラスメートでもなければ、友達でもない。
言ってみれば…同志・戦友だ。
その関係を強制されたとしても、目指す所はおんなじのプロ集団。

だったら、個人のそんな気持ちをなんとかするのもプロ。
その点、私は長くこの世界にいたからか、切り替えは早い方だったと思う。
思うところはたくさんあっても、きっとそれは表に出してないはず。

そして……朋も。

時々わざと距離を置きたがる節はあったけど、
それでも仲良くやっていると思う。…思いたい。
こうして、一緒に行動すれば、それは…そんな気持ちは顕著に表れるんだ。

52 :-4- :2014/03/14(金) 05:21
「佳林ちゃん」
「うん?」
「次のサービスエリアで一度休憩するみたいなんで、一度外にでません?」
「あ、うん、そうだね」
「ずっとだと息が詰まるでしょう?」
「んー、かも」

答えて、ちょっとマズったかなって思った。
息が詰まる。
その意味を掴みかねて、なんとなく答えてしまったから。

うちといて、息が詰まるでしょう。そういう意味だったのか。
それとも…本当に、ずっと車の中だから疲れるでしょうという意味なのか。

なんとなく後ろ暗い気持ちになって、朋をチラリと見たけれど、
朋こそなんにも思っていなかったみたいで、私の視線に「なに?」と
不思議そうな顔をしてみせたんだ。

なんでもないよ、と取り繕うけど、絶対おかしく映った。
だって、いつもはクールな眼差しが、何かを察したように細められ、
口元も緩められたから。

53 :-4- :2014/03/14(金) 05:22
「つまんないこと考えてません?」
「わっ」

こつん、と、軽くノックするように頭に落とされた拳に首をすくめる。
そっと当たった部分を手で押さえて、むぅっと膨れて見せれば
こともなげに涼しい目で一瞥される。

「わかりやすいね、佳林ちゃん」
「そんなことないもん…」
「ま、いいけど。せっかく一緒の仕事だし仲良くしましょうよ」
「………うん」

にっこり笑われれば、なんにも言い返せない。

54 :-4- :2014/03/14(金) 05:22
なんだかんだいって、朋は私やうえむー、きっと紗友希も含めて
年下の扱いが上手いんだと思う。
存分に甘えてくるうえむーには、適度なアメとムチを。
わいわいやってくる紗友希には、昔からの友達みたいに気兼ねなく。
そして、色々複雑に考えすぎる私には、飄々と。

由加ちゃんとは、立場もあるし、わーっと騒いでいるところは見たことないけど
多分、私達とは違った落ち着いた話とかしてる気がする。

こうしてみれば、なんて不思議な人なんだろうって思う。
だから…それが一つの魅力にもなるのかもしれない、とも。

ねぇ、そういう朋の一面を、もっと知りたいって思うのはおかしい?
私といるときは、やっぱりちょっと距離がある気がするから
気おくれしてしまうんだけど。

教えて…欲しいな。
もっと、朋のこと。
55 :-4- :2014/03/14(金) 05:22


*****


56 :-4- :2014/03/14(金) 05:23
「うぅーっ、寒いぃ」
「だねー。早く戻ろう」
「うんっ」

サービスエリアで、簡単な飲み物を買って駐車場を2人身体を寄せてあるく。
びゅうっと風が吹けば寒さに身が縮こまる。
喉の保湿のためにマスクをしているから、きっとはたからみたらヘンテコな2人かも。
でも、とにかく今は早く車に。
寒さで凍えそうだ。

と。
その時。

私は下を向いていたから、気づかなかった。
前方から、観光バスから降りてきた男子高校生の何人かが、わっとこっちに向かっているのが。
それに加えて…、私達と同じように、窮屈な空間からの解放感で気が緩んでいることにも。
旅の途中っていうのは、誰だって気持ちが高揚するもので。
その高校生たちも、そうだったんだ。

お互いを小突きあったり、ちょっとふざけてオーバーリアクションで笑いあったり。
その動きは、最初は小さくても、進むにつれてどんどん道幅をとって。

57 :-4- :2014/03/14(金) 05:23
「お前、ふざけんなよー」
「なんだよお前もっ」

そんな声を耳にして顔を上げた時には、遅かった。
ふざけあって、大きくよろめいた高校生の身体が目の前に迫っていて。

ぶつか…!

「危ない…!」
「っ!」

一瞬だった。
がちんと固まってしまった私の身体を、隣から凄い力で誰かが引き寄せて。
でも、突然だったのか、その人も身体を半回転させるようにして…。
すぐそばを、高校生の腕が通り過ぎて行ったんだ。
あのまま進んでいたら、きっとその腕に弾かれて転んでいたかもしれない。

緊張のせいで心臓がバクバク大きな音を立てる。
でも、それよりも…私の目は、すぐ近くにいるマスク姿の人に奪われた。

58 :-4- :2014/03/14(金) 05:23
「とも…」

鋭い視線。
寄せられた眉。
風にあおられて、軽く舞う前髪。
腰から引き寄せられたせいで密着しているから、そんな小さな表情もぜんぶ見えた。

「朋、も、もう、大丈夫、あの、ありがと」

呼びかけてみたけれど、視線は前を向いたままだ。
そう、去って行こうとしている高校生の背中に向けられたまま。

腰に回された手は、逆らうことを許さないぐらい強くって。
まるで私の声が聞こえていないみたいだった。
思わぬそんな、きょっと感情的な朋の一面に、目を丸くしてしまう。

59 :-4- :2014/03/14(金) 05:24
こんな朋、知らない。
いつもは、ほら危ないよ、なんてからかうみたいに、にぃっと歯を見せて笑って。
ぶつかりでもしたら、ほら、ね、なんて鼻を鳴らすみたいに呆れてみせるのに。
今は不機嫌なのを隠そうともせず、マスクの下で聞き取れない苛立ちをこぼしてる。

朋…?
胸に広がる不安に、そっと肩口を掴んでいた手に力をこめた。
ふっと、近くを車が通り過ぎて、髪がさぁっと流れる。
その隙間から私の視線にやっと気づいた朋は、ハっとした後、バツが悪そうに目を細めて。
それから、やんわりと腰から手を離して少し距離を置いたんだ。

こういう時、どう声をかけたらいいんだろう?
色んな頭の中の引き出しを探るけれど、答えは出てこない。

でも、朋は…やっぱり、大人だった。

60 :-4- :2014/03/14(金) 05:24
「まだまだ頑張らないといけないですね」
「えっ?」

飄々とした声。
まるで、さっきのピリピリした空気なんてウソみたいに。
ほら、今もチラリと見える朋の目が笑ってる。

「あの男の子たち、全くの無反応でしたよ?」
「だから?」

謝らせるぐらいの強さを持て、とかそんなこと言われるのかなって思った。
朋ならしかねない雰囲気だったし。
でも、わかりません?と可笑しそうに小首を傾げる朋は、かわいらしい女の子で、
不本意にも見とれてしまった。
そして、続けられた言葉に、がん、と頭を殴られるような感覚に陥る。

61 :-4- :2014/03/14(金) 05:24

「知名度ゼロってことですよ、うちら」
「あ」

そこで思い至る事実。
きっと、あの男の子たちからしたら、ただのヘンテコな女の子2人。
よもや、テレビカメラの前で、歌って踊ってるアイドルなんて思いもしなかっただろう。
そういうことなんだ。
だから、頑張らなきゃなんだ。
あぁぁ…と、大げさにうな垂れて、ずーんと沈む気持ちを表せば、くっくっと笑いながら
背中をぽんぽん叩いてくる朋。

「がんばらなきゃだ」
「うん…」

朋は、こんなときでもプロだった。

62 :-4- :2014/03/14(金) 05:25
それでも…やっぱりさっきの顔が頭から離れない。
あれは…プロの顔なんかじゃなかった。
もっと言ってしまえば…、敵意さえむき出しの感情だったと思う。

ねぇ、朋。
もしかして、私の事を守ってくれたの?

黒く不思議に揺れる瞳を見つめてみるけれど、まっすぐ前だけを見据える朋から
答えが返ってくることはなくって。
そっと俯いて私は溜息をこぼすしかなかったっけ。

63 :エシクスト :2014/03/14(金) 05:25
本日ここまで。
64 :-5- :2014/03/15(土) 05:17
なんだ、こんなにも簡単なことだったんだ。
そんな風に思ったのは、咄嗟の行動から。
本当に、些細なきっかけ。
でも、私には、簡単で難しかった、大きなきっかけ。

65 :-5- :2014/03/15(土) 05:18


*****


66 :-5- :2014/03/15(土) 05:18
SATOUMI・SATOYAMAのイベントが始まって。
私達5人は揃って楽屋に顔を合わせ…るはずだった。

「あれ? 朋は?」

紗友希が、なんとはなしに緑のトレーナーに着替えながら尋ねてきた。
同じように頭からトレーナーを被っていた私は、乱れる髪を耳にかけながら首を振る。

「ねーうえむー、朋知らない?」
「しらなーい。あ、でも由加がマネージャーさんに呼ばれてた」

いや、由加じゃなくって、朋だよ、と呆れたように笑う紗友希に、
うえむーはもう一度、わかんなーい、と気のない返事で答えて近くのソファーに寝転んだ。
猫みたいだよね、と思う。
くりっとした目とか、甘えたなクセにご主人様がいないとそっけなかったり。
もちろん、そのご主人様は、由加ちゃん。
最近べったりだよね。

67 :-5- :2014/03/15(土) 05:19
きゅっとトレーナーをパンツの中に入れて、鏡の前に座る。
まだ時間はあるけど、確か物品販売に参加する予定だったはず。
確認したくて由加ちゃん、と呼ぼうとして、あ、いないんだったと気づき、
今日のステージで歌う曲の確認をする。
ちょっと5人の立ち位置を見たかったんだけど、仕方ない。
それに私には、鞘師さんの代わりに和田さんとの曲を任されていたんだった。
挨拶にでもいった方がいいだろうか、そう悩んでいたその時だった。

こんこん、と軽くノックされる扉。
と同時もガチャリと開いて、がたがたと人がもみくちゃになるように入ってくる。
一人は…マネージャーさんで、あれ、一人は由加ちゃん。
そして、最後の一人は、その由加ちゃんに肩を貸してもらって、おぼつかない足取りの朋だ。
よく見れば、朋は松葉杖をついてる?

68 :-5- :2014/03/15(土) 05:19
「朋、どうしたの!? えっ? 骨折とかした?」
「静かに、騒がない」

ばっと、手際よくトレーナーをパンツに押し込んで駆け寄ったのは紗友希。
ちらりと私に視線を向けたのを見ると、きっと過去の出来事を思い出してる。
そう、デビューだって時に骨折をして迷惑をかけてしまった私の事を。
でも、その視線にむっとするよりも先に、私も明らかに困惑した頭で朋に歩み寄った。
その後ろから、この上なく心配そうな顔をしたうえむーを背中に乗せて。

「金澤、ちょっと捻挫で安静が必要だから、今日のステージは椅子に座っての参加ね」

捻挫…!?
本当に?
その、骨折とかじゃない?

口元を指先で覆うようにして、朋の顔をうかがう。
嫌な具合に心臓が鳴って…頭がかぁっと熱くなりながら。
そんな私に気づいた朋は、や、本当に捻挫、と情けなく笑って、ごめんね、と唇だけで謝ってきた。

右足首全体にまで、ぐるっと包帯が巻かれて履いているのはクロックス。
今日はみんな白いシューズで統一されてるから、そのちょっとした違いが際立ってて痛々しい。

69 :-5- :2014/03/15(土) 05:19
「立ち位置とか、もう時間ないし、金澤の所だけ空けて歌ってね」
「あ…はい」

マネージャーさんの事務的な言葉に、ちょっとだけ腹が立つ。
私の時には感じなかったけれど、今日に限って。そんな簡単に言わないでって。
朋の場所が空くって、それだけでも不安になったりするのに。

あるものがない。
それって、その立場になってみないとわからないものかもしれない。
でも、そのことを「仕方ない」とかそういう感情でくくられるのがたまらなく嫌だった。
それが…第三者からの言葉っていうのが輪をかけて。

「じゃあ、あと宮崎、よろしく」
「あ、はい」

本当に忙しいんだろう。
マネージャーさんは腕時計を確認して、足早に部屋を出て行ってしまった。
残された私達は、ちょっとどうしていいのかわからない動揺した空気に包まれる。

70 :-5- :2014/03/15(土) 05:20
「とりあえず、朋、座ろう」
「うん、ごめん」

由加ちゃんの肩を借りながら、近くの椅子に腰を下ろそうとする朋。
まだ松葉杖が上手く使えてないから、本当に足元が危うい。
気づいた時には、背中に乗っけてたうえむーから抜け出して
さりげなく私は朋の腰に手をあてて支えていた。

「ありがと」
「ううん」

すぐ近くで謝られて首を振る。
いつもの勝気な眼差しが、少し自信なさげに見えて…きっと一番参っているのは
朋の方なんだって…それだけでわかった気がする。
そんな風に見えないように、笑ってくれてるけど…至近距離で見てる私にはわかるんだよ。

私だって…辛かったもん。
遅れていく感覚。
迷惑をかけてしまう感覚。
そういう気持ちに、泣きそうになったぐらいだから。

71 :-5- :2014/03/15(土) 05:20
「えっと、とりあえずそういうことなんで、ステージでの歌は朋は離れた椅子で歌のみ。
私達はいつも通りに、ね」
「りょーかい」
「ご迷惑おかけします」
「いやいや、しゃーない、こういうのはね」

うえむーと紗友希が、なんてことないよ、と明るく振る舞う。
それに倣うように、うんうんと頷けば、由加ちゃんは、にっこり笑って朋の肩を叩いた。
顔を上げて由加ちゃんに笑いかける朋も、少し元気が戻ったみたい。

「じゃあ、これから物品販売に行くけど、迷子にならないようにね。特にうえむー」
「うわっ、ひどーい」

むぅっとするうえむーに、一気に和む。

まだイベントは始まったばかりだし、気は抜けない。
でも、こうして5人でいる時に安心感を抱けるようになったのも…この頃からかもしれない。
朋には皮肉な事かもしれないけど、メンバーのケガをきっかけに仲良くなっていっている節が、
昔から私達にはあるような気がしてならなかったっけ。
72 :-5- :2014/03/15(土) 05:20


*****


73 :-5- :2014/03/15(土) 05:21
ステージでの歌が終わって、楽屋へと戻ってくる。
大きな声援と、歓声に嬉しい気持ちがするけれど…私の中ではそれ以上に心配が上回ってて。
嫌でも目に入る、朋の松葉杖でひょこひょこ歩く姿。
マネージャーさんが支えるから、私達はただ下がることだけを優先しろって言われたけれど、
本当だったら手を差し伸べたくてしょうがなかった。

それに…物品販売の時に、たくさんの人が声をかけてくれて。
「朋を支えてあげてね」とか「元気づけてあげてね」とか、言われた言葉少はなくない。

それだけで実感する。
朋の重要性、立ち位置、それから…人気。
でも、不思議と卑屈になんてならなかった。
それ以上に…、言い知れない温かいものが胸にこみ上げてきて。

みんなも朋を心配してくれてる。
私もそうなんだよ。
朋が心配。
そんな風にみえないかもしれないけど、とっても心配なの。
もちろん顔には出さないけど、そういう気持ちでいっぱいだった。

74 :-5- :2014/03/15(土) 05:21
「お疲れ様。次まで時間あるしゆっくりしてね」

マネージャーさんの言葉にうなずく私達は、自然と朋の周りに椅子を固める。
それを見て、部屋を出て行こうとしたマネージャーさんは笑っていたっけ。
部屋、もっと広々と使っていいんだよ、なんて。
でも、私達は、はーいと返事をしながらも、離れることはしなかった。

「朋、痛い?」
「んー、痛みは、ほとんどないんだよね」
「でも、すっごい包帯じゃん」
「なんかね、大げさにされちゃって」

くすくす笑いながらうえむーと紗友希に答える朋は、ちょっと疲れているように見えた。
色んな人から心配されて、気を遣われて、笑顔で答えて…。
きっと私達より体力とか使ってるんだ。

75 :-5- :2014/03/15(土) 05:22
「ね、私飲み物買いに行くけど、みんなどうする?」

ぱん、と小さく手を合わせた由加ちゃんに、みんな視線を向ける。

きっと、私達は…少しずつ、結束力が高まってる。
そう思えた。
だって…、その声に、紗友希が「あ、一緒に行く」と言って、
うえむーも「行く行く」と由加ちゃんに飛びつき、そして…私も、うん、と頷く。
最後に「じゃあ、うちも」と言いかけた朋に、

「「「「朋は留守番」」」」

と見事に4人の声が揃ったから。

わかってたんだ、みんなも。
朋が疲れてるって。
ただでさえ慣れない場所に、慣れない姿。
それに加えて、色んな人に声をかけられたら笑顔で返すしかない私達。
疲れない方がおかしい。

だから…少しでも休んで欲しかったんだ。
誰にも気兼ねなく、ゆっくりと。

76 :-5- :2014/03/15(土) 05:22
「いやいやいや、みんな行くのに、うちだけって…」
「朋、もうちょっと自分の置かれてる状況を考えた方がいいよ」
「そうだよ、悪化しても困る」

えー…、と渋る朋に、いつもは甘えっ子のうえむーが、ぽんぽんっと朋の頭を叩いた。
その姿が、なんだか妙に面白くって、隣に立っていた由加ちゃんに寄り添って笑ってしまったっけ。
ねーおかしいね、なんて由加ちゃんが一緒になって笑えば、眉を寄せてわざとらしく唸ってみせる朋。

「わかりました。じゃあ、金澤は待ってます」
「何か飲み物のリクエストは?」
「じゃーリンゴで」
「おっ、りょーかい」

おどけて額に手を当てる紗友希に朋も、お願い、と敬礼するように手を当てて返す。
扉を閉める瞬間まで、朋は笑顔で私達を見送ってくれていたっけ。

77 :-5- :2014/03/15(土) 05:22


*****


78 :-5- :2014/03/15(土) 05:23
…しまった。
やってしまった。
気づいたのは、自販機の前に立ってからだった。

「お財布、忘れた」
「えっ?」

緑トレーナーに、上着を羽織っていたんだけど、そのポケットに入れていたと思っていた財布は
実はカバンにしまい直したのを忘れていたというミス。
こんなギリギリになって気づくとか、自分のうっかり加減に溜息が出ちゃう。

「あかりの貸そうか?」
「あ、ううんっ、いい。取ってくる」

そう遠い場所の楽屋じゃないし。
みんなにごめんね、と声をかけて今来た道を走って戻る。
あぁ、もう、せっかく朋にゆっくりしてもらいたかったのに。

79 :-5- :2014/03/15(土) 05:23
心の中でごめんなさいごめんなさい、と目を閉じて謝って、ドアノブに手をかける。

と。
その時。
カターン!と大きな音が中から聞こえた。
えっ、と思って固まる。
待ってっ、もしかして、中で朋が倒れてる!?

「朋!」

思いっきり扉を開けて中に駆け込む。
その視線の先に、――― 倒れていた。

松葉杖が。

80 :-5- :2014/03/15(土) 05:23
「えっと…はー…い?」

それから、背中から聞こえる、ちょっと困ったみたいなアルト声。

・・・・・・・・・・え?

恐る恐る振り返れば、ちょうど扉が開いて死角になる部分で、
唖然とした表情で立ち尽くす朋と視線がぶつかった。

えっと、これって。
いわゆる私の、早とちり?
うわぁ…、なんか、恥ずかしい…。

「佳林ちゃん…飲み物買いに行ったんじゃなかったっけ?」
「うっ…あの、お財布忘れちゃって」
「なるほど」

そこで、口の端を上げて、にんまり笑ってくる朋。
嫌な予感。

81 :-5- :2014/03/15(土) 05:24
「もしかして、今心配してくれました?」
「えっ、あ、いや…それは…」
「うちが倒れてるとか、思っちゃったり」
「…うぅ…。うん…」

恥ずかしさに俯いてしまう。
全部やっぱり見抜かれてた。
そのまま、とんとん、と、片足けんけんで私の前に来た朋は、ふむと頷いて。

「じゃあ、戻ってきたついでに、松葉杖取ってもらっていい?」
「え?」
「あ、だめ?」
「う、ううん、だめじゃない」

わたわたとしゃがんで、転がっている松葉杖を拾う。
それから朋に差し出せば、ありがと、となんの含みもない笑顔で受け取ってくれた。

ちょっとだけ…拍子抜け。
きっと朋のことだから、何か一言二言、からかい口調で言われると思っていたから。

82 :-5- :2014/03/15(土) 05:24
「なんかさ、佳林ちゃんの事言えないね」
「え?」

かつん、かつん、と慣れない歩き方で椅子に座る朋が背を向けたまま小さく呟いた。
ふふっ、と自嘲気味に笑いながら。
ううん、気味じゃない。
本当にちょっと自分に呆れてるんだ。

その姿に、少しだけびっくりした。
いつも弱音なんて吐かない朋が、そんな風に言うなんてって。
でも、わかる。
その気持ち。
だから。

「そうだね。人の事言えないよ」
「お、手厳しい」

いつも通りに、普段通りに話しかける。
それがきっと一番ありがたいんだ。
ほら、いつもの朋の調子に戻ってきた。
にやりと、目を細めて笑って見せる、私のよく知る朋に。

83 :-5- :2014/03/15(土) 05:25
「ていうかさ、なんであんなところに立ってたの?座ってなきゃだめじゃん」
「あー、いや、上着を取ろうかと」
「本当に転んでたらどうしたの?」
「いやいやいや、それは心配しすぎでしょ」
「もうっ!」

ぽんぽん言葉が返ってきてむくれる。
だめだ。やっぱり朋には口で勝てない。役者が違いすぎる。
はぁ、と大きく溜息をついて、自分のカバンから財布を取り出すついでに、
朋の荷物の上に置いてあった上着を手に取る。
この間、私にかけてくれてたあの上着を。
ふわりと匂いが鼻をくすぐって、一瞬あの時の記憶が甦ってきて戸惑ったっけ。

「はい」

ぐっと右手を突き出して、朋に上着を差し出す。
意外そうに目をぱちぱちさせた朋は、それでも笑顔で片脚で踏ん張るようにして立ち上がり。

84 :-5- :2014/03/15(土) 05:25
「ありがと…っ、て、あ…!」
「わぷっ」

ぐらり、と一度身体をよろめかせた。
慌てて身体を支えるように抱きとめようとして、ぐっと朋の肩口に鼻先を押し付けてしまう。
反動で、私の背中に朋の腕が回ったのがわかった。
ちょうど…すっぽり私の身体を抱きしめるみたいに。
ううん、これじゃあ、お互いに抱き合ってるようにしか…。

上着が足元に落ちたのには気づかなかった。
それ以上に、朋の身体の柔らかさを捕まえて、がちんと思考が止まってしまったから。

少しばかり身長が高い朋の髪が頬をくすぐる。
それから、柔らかな感触とあたたかな温もりに眩暈を覚えた。
とどめに、甘い匂い。
朋特有の、香水なんかじゃない甘い素肌の匂い。
でも踏ん張る。
私が倒れたら、朋も一緒に巻き込んでしまうから。
それだけは回避したい。
もう、心臓は早鐘のように鳴って、身体中の血液は沸騰してるかのように熱い。
早く時間よ過ぎて、と思う反面、もう少しこのままでと思う自分がいて、頭は軽くパニックだ。

85 :-5- :2014/03/15(土) 05:26
「ごめん、大丈夫?」
「…うん…」

ぐっと左脚を踏ん張って、私の肩に両手を置いて離れる朋は顔を歪めてる。
もしかしたら、右脚を痛めたかもしれない。
でも、気を遣ってあげられる余裕が、今は、ない。

「顔、真っ赤だね、そんなにうち重かった?」
「そっ、んなことない、けど。うん、大丈夫」

そう?と首を傾げて顔を覗き込んでくる朋にうろたえる。
至近距離で見る朋の目は、不思議な引力でも放っているかのように吸い込まれそうで。
わっと目を逸らせれば、きょとんと一度瞬きをして、何かに気づいたように朋はくつくつと笑いだした。

「かわいー佳林ちゃん」
「かっ、らかわないで。ほら、座る!」
「はいはい」

ちょっと強引に椅子に座らせて、床に落とした上着を拾い、ついっと目の前に差し出す。
何にも言わずに、むっと眉を寄せて。
朋の事だ、何かを私が言うだけで今の状況を楽しみながらからかってくることは明らかだったから。

86 :-5- :2014/03/15(土) 05:26
「ありがと」
「じゃ」

ちょっと悔しくって、短くそれだけ言うと扉に向かう。

「あぁ、佳林ちゃん」
「なに?」

その背を引き止めるように、素早く上着を羽織った朋は。

「気持ち、楽になりました。佳林ちゃんがいて良かった」

なんの他意もない笑顔で告げてきた。
それに、一瞬ポカンとしてしまう。
毒気を抜かれるとでもいうのか…なんというか…。
だからかな、気づけば知らぬ間に口は動いていた。
考えるよりも先に。

87 :-5- :2014/03/15(土) 05:26
「朋」
「はい?」
「朋は大事な人なんだから、もっと気をつけて」

うん?
待って、今なんて言った私。
大事な、人?
えっ? いや、違う、そうじゃなくって。
大事な、そう!あのっ大事なメンバーだからってことで。

「ふははっ、うん、ありがと、素直に嬉しい」

わたわたしてしまう私を尻目に、朋は心底可笑しそうな笑みを零しながら
そう答えて「飲み物買っておいでよ」と促してきたんだ。

違う、そうじゃないっ。
朋の思ってるようなそういう意味じゃないっ。
そう言いたいのに…なぜか言葉は出ずに、火照る頬に困りながら
私は部屋を逃げるように出るしかなかったっけ。

後から考えて、朋に感じていた距離がすこし無くなったって思ったのは、
この時からかもしれない。
それだけ…、ケガが一つの転機になっていたんだ。
私達だけじゃない。

いつだって、私達のグループは。

88 :エシクスト :2014/03/15(土) 05:27
本日ここまで。
89 :名無飼育さん :2014/03/15(土) 15:57
更新お疲れ様です。
ともかりんのこれからの関係がどうなっていくか・・・
すごく気になります。
次回も楽しみにしてます。
90 :名無飼育さん :2014/03/16(日) 00:50
更新が毎日の楽しみです。徐々に近づいていく距離感にドキドキしています。
91 :-6- :2014/03/16(日) 05:27
深い…深い闇の中にいた。
右も左も、上も下もわからない。
ただ、その中に、私はぼんやり立ち尽くしていて。
誰か、と声をあげたはずなのに、混沌と広がった闇に、その音は飲み込まれて消えた。

見えない視界は、どんどん不安を連れてくる。
ううん、ちょっとした孤独もつれてきて…、嫌な具合に胸が鳴る。

どこかに誰かがいるかもしれない。
そう思って、一歩踏み出した時…足元がもぼうっと光り輝いた。

わっ、と。
軽く後ろに下がれば…。

目の前に広がる見覚えのある場所。

ここは…。
そうだ、いつもダンスレッスンをしている練習場だ。
どうして…?

92 :-6- :2014/03/16(日) 05:28
おろおろと立ちすくんで、周りを見渡した時…誰かが突然目の前に現れた。
知ってる。
この人。
そうだ、研修生の時から大好きだった…。

「タケちゃん?」
「かりん」

一気に安堵の溜息が漏れる。
良かった、一人じゃない。

「どうしたの?こんなところで一人で」
「一人…? あぁ、そうなんだ」
「タケちゃん?」

違和感。
それを瞬時に感じ取って、タケちゃんに歩み寄る。
けれど。

93 :-6- :2014/03/16(日) 05:28
「ごめん、かりん」
「え?」
「もう行かなきゃ」
「行く? 行くってどこに?」
「さよならなんだよ。もう一緒にいられない」
「ま、待ってっ!なんでっ!?」

手を伸ばすけど、もう遅い。
駆け出していくタケちゃんの背中は、振り返ることなく一瞬光り輝いた空間に溶けて消えた。

なん、で…?
どこに行っちゃったの…?

「かりん?」
「え? あっ、フクちゃんっ!」

茫然とする私に、今度は優しい声。
いつの間にいたのか、すぐそばで心配そうにしている。

「あのねっ!今、タケちゃんがいて、でも、走っていっちゃって!」

もう必死で腕を取って訴えた。
ずっと一緒にいてくれた人だから、ぜんぶを伝えたくて。
でも…。うんうんと聞いてくれているフクちゃんの顔は、どんどんと寂しげになって。

94 :-6- :2014/03/16(日) 05:28
「かりん…」
「なに…?」
「ごめん、私ももう行かなきゃ」
「ど、どうしてっ?」

もうすがっていた。
タケちゃんがいなくなって、フクちゃんまでどこかに行ってしまって…
帰ってこないっていう、どこか確信めいたものがあったから。
今、手を離したら、きっともう…戻ってこない気がしたんだ。

「い、行かないでっ!」
「ごめん。でも、もう決まったことなんだ?」
「何が…?」

聞いちゃいけないって。
頭のどこかでサイレンが鳴ってた。
その答えを聞いたら…ぐっと心の奥の奥、
だれも触れることを許さない場所に閉じ込めた想いが、決壊するって。
そんなふうに何かが告げていて。

でも、私は聞いてしまった。
私も…わかっていた答えを。

95 :-6- :2014/03/16(日) 05:29
「デビュー、決まったの。私」

あぁ…。
足元から崩れ落ちるって、こういうこと。
ずうん、と。
身体中が泥に捕まって、身動きがとれなくったみたいな感覚。

「ごめんね、かりん」

するりと、私の腕を抜け出して…タケちゃんのように光の先に消えていくフクちゃん。
それを確かめて…うなだれた。

なんで…こんな記憶が今になってよみがえってくるの?

両手で顔を覆うけど、過ぎゆく人は止まらない。

「デビュー決まったの」
「宮本さん、私、モーニング娘。に…」
「ごめん、私、研修生やめるんだ」
「かりんならきっといつかデビューできるよ」
「親がさ、やめなさいって」

96 :-6- :2014/03/16(日) 05:30
嫌だ…っ。
嫌だ嫌だっ。
この記憶達は嫌だ!

大好きで、憧れていた、大切にしていた人たちを次々と連れて行ってしまう。
私を…一人にしてしまう…!

どうして?
どうしてこうなるの?

みんな…みんな、私が仲良くなれば…去って行く。
誰かは前を走り、誰かは…背を向ける。

あと何回、この出会いと別れを繰り返せばいいの?
いつになったら…私は、光の中に走っていける?

みんな…待って。
置いてかないで…。

誰か…おねがい…


――― 助けて…!

97 :-6- :2014/03/16(日) 05:30


*****


98 :-6- :2014/03/16(日) 05:31
「…りんちゃん…。起きて、佳林ちゃん…!」
「…っ!!」

誰かの声と、強く身体を揺さぶられる感覚でハっと覚醒する。
でも、その視界の先も、真っ暗で…動揺を隠せない。
思わず大きく頭を振って目を背けて…、そこで、やっと気づく。

自由に動く手足。
瞬きをしても変わらない静かな世界に。

今のは…夢…、だったの?

嫌にリアルな感覚だったけど、そうだ…あんな空間実際にあるわけない…。

それからやっと今の自分の状況を確認する。

そうだ…今はハロープロジェクトのコンサートで各地をまわっていて…。
ライブ後、今日はホテルに泊まることになって…。
メンバーとじゃんけんして部屋を決めて…確か私は2人部屋に…。
…! そうっ、2人部屋に朋と…!

ばっと起き上がれば、すぐそばで膝をついている朋と視線が交わる。
こんな真っ暗闇でもわかる、真剣な目をしている朋と。

99 :-6- :2014/03/16(日) 05:31
そっと、私の表情を確かめて、朋はベッドサイドの電気に手を伸ばして明かりをつけた。
途端に、胸の中に燻っていた黒い影が振り払われていく。

「大丈夫? うなされてた」
「うん…」

膝を抱えてうなだれる。
久しぶりに見た、苦い過去の夢に。

もう、大丈夫だと思っていたのに…。
過去は沈めて、進んできたんだって…前に歩き出したんだって思っていたのに。

「お水、飲む?」
「あ…うん、ありがと…」

差し出されたミネラルウオーターのペットボトルを、フタを開けて飲み干す。
カラカラに乾いた喉に、ちょっとむせれば、とんとんと優しく朋は背を叩いてくれた。
そのまま、知らぬ間に額にびっしり浮いた汗をさりげなく拭ってくれる指先は
心地良くて…目を細めてしまったっけ。

視力が弱いせいで、朋を見つめるけれどぼんやり映っている。
メガネでもかければいいんだろうけど、あいにくそんな気力もない。

100 :-6- :2014/03/16(日) 05:31
「怖い夢でも、見ちゃったとか?」

夜の静寂を気にしてか、囁くように聞いてくる朋。
その声色に、優しい色がにじんで見えて…うっと喉の奥が詰まる。

心配してくれてる。
他でもない、私を。
でも…。

でも、その優しさが、怖い。

「大丈夫、なんでもない…」
「そう?」

こくん、と。
精一杯のつよがりで頷く。
でも。

朋はわかっていた。
全然私が大丈夫じゃないことにも。
…助けてほしいと、心の奥で悲鳴を上げていたことも。

101 :-6- :2014/03/16(日) 05:32
ふむ、と一度小さく頷いて、何も言わずに私のベッドに腰掛け…
身体を包むように抱き寄せてきたから。
そのまま、背中をさする手の温もりは…、弱った気持ちに、今一番…嬉しくて…辛くて…。

「…っく…、ひっく…」
「大丈夫。怖がらなくていいんだよ。夢はただの夢だから」

目の奥がじんじん痛んだと同時に、ぽろぽろと涙が零れた。
一度こぼれたら止まらない。
感情の糸が切れたように…溢れ出す。
朋に向かって…溢れだす。

「うちがついてる。大丈夫」
「…っ…、うぅ…」

いつもの朋からきいたことのない、早口ながら静かな声に、胸が締め付けられる。
ぎゅぅっと、苦しく…切なく。

本当は泣くつもりなんてなかった。
こんな、素の自分をただの夢に振り回されて曝け出すなんて、思ってもなかった。

102 :-6- :2014/03/16(日) 05:32
でも…。
だったらどうして…その決心が崩れたのか…。
なぜ涙が溢れてきたのか、その理由はもうわかっていた。

この優しい人を手放したくないんだ。
ずっと一緒にいてほしいんだ。
そりゃあ、時々がっかりすることとか、むっとすることもあるけれど、
それでも…朋には私の隣にいてほしい。
そう切に思ってる。

でも…過去の記憶が、そんな私を見えない糸でがんじがらめにして嘲笑う。
願っても叶わなかった数々の記憶が。
頑張って、努力して、自分を奮い立たせて、それでも手が届かなかった事に、何度涙した?
そうやって心砕かれるなら、最初から願わなければいいじゃないか、と。

103 :-6- :2014/03/16(日) 05:33
それに…夢で去って行った人たちの共通点が私を苦しめる。
そう…仲良くなればなるほど…、サヨナラしていってしまったみんな。

だから、ずっとセーブしていたのに。
どんな人でも、仲良くなり過ぎないように。
気持ちを多く傾かせないように。
なのに…、強固な鎧で固めていた心は、グループ結成頃からパキパキと音を立てて崩れゆき…
心の一番柔らかな…裸の部分を置いてけぼりにし始めたんだ。

そうさせた張本人は…今も優しく私の背を撫でて伏し目がちに口元を緩めてくれている。

でも。
そう。
今ならまだ間に合う。
まだ、遠い私たちの関係だから。
ううん…朋に、ぜんぜん届いてないって、そう思うから。
だから、固く固く、心を閉じ込めて気持ちを捨ててしまえば…、朋に近づかなければ、きっと。

104 :-6- :2014/03/16(日) 05:33
「声、我慢しなくていいんだよ」

なのに…。
そんな一言でまた私の柔らかな部分に触れてくる。

だめなんだよ。
それじゃあ、だめなの。
朋とずっと一緒にいたいから…だからダメなんだよ…っ。

ふるふると。
強く首を振って両手首のあたりを顔に押し付けて、声を殺す。
お願い、これ以上優しくしないで。
じゃなきゃ、私…。

「強情だなぁ…佳林ちゃんは」
「朋に…言われたくない…」
「それ心外」

憎まれ口も心地いい。
耳に届く言葉は全部私を思ってくれてるものだから。
決して強くなんてない私に誰よりも早く気づいて。

105 :-6- :2014/03/16(日) 05:34
何度も「選ばれず」打ちのめされて、心折れない人なんていないんだ。
私だって、胸を貫く痛みをたくさん味わった。
その度に…表情を失って…年相応のことができなくなって…。

そんな私を、朋は見抜いて…いつもこうして素の私をひっぱりあげてくれてた。
そんな人だから…。
だから。

「も、大丈夫」
「…には見えないんだけど」
「いいの。お願い、もう、離して」

やんわりと背を撫でていた手を払い、ぎゅっとそのまま両手で朋の腕を取る。
涙は次から次へと溢れて止まらない。
悲しみが止まらない。
でも、離れなきゃ。
サヨナラしたくないから、離れなきゃ。

106 :-6- :2014/03/16(日) 05:34
正面から見つめる朋は、こちらがはっとしてしまうぐらい憂いた顔をしていた。
ううん、少しだけ…困ったような寂しさを滲ませているような。

この顔は…私、よく知ってる。
そう、これは……―――「選ばれなかった」私が落とした顔…。
どうして…朋が…?

もう少し私が大人だったら気づけたのかな。
でも、この時の私は、ただの子供じみた言い訳だらけで作った女の子だったんだ。
離れるのが一番の解決法だなんて勘違いして。

「もう、こんな風にしないで…」
「迷惑?」

そんなことない。
嬉しい。
朋の意識が私に、私だけに向いてるっていうこの瞬間が。
でも…、怖いの。
嬉しいから、怖いんだよ。
なくなってしまうその瞬間が。

だから。
お願い……離れて。

107 :-6- :2014/03/16(日) 05:35




「――― うん、迷惑」




108 :-6- :2014/03/16(日) 05:35
けれど、朋は…やっぱり朋だった。
こんな言葉を放ったのに、いつもの…朋だったんだ。

「そっ、か。わかった。じゃあうちはもう起きるけど、時間あるしもう少しちゃんと寝なね」

まるでなんにもなかったみたいに、にっこり笑ってぽんっと私の頭を軽く撫でた。
そのまま、ポリポリと頬のあたりを指先でかきながら立ち上がり、無造作に掴んだお財布を持って
「ちょっと出てくるね」と部屋を出て行ってしまった。

後になって、その時、朋も深く傷ついていたんだって知るけれど、
この時の私に、気づいてあげられるだけの余裕なんてどこにもなかったんだ。

109 :-6- :2014/03/16(日) 05:35
「ともぉ…」

本当は、こんなこと言いたくなんかないんだよ?
でも…もう、サヨナラはしたくないから…。
たったら遠い、ただのメンバー同士でいれば、お仕事だけで一緒にいるんだって
割り切ればいいんじゃないか。
それが正しい。
きっと正しいんだ。

ごめんね、朋。

そう呟いて、私は枕に顔をうずめて…やっと声を出して泣いたんだ。

110 :エシクスト :2014/03/16(日) 05:38
本日ここまで。

>>89 名無飼育さん
ありがとうございます。2人の関係お付き合い下さればありがたいです。

>>90 名無飼育さん
ありがとうございます。二人の距離感、自分もドキドキしています。
111 :名無飼育さん :2014/03/17(月) 02:15
切ない!かりんちゃんの不器用さが胸に染みます…
112 :-7- :2014/03/17(月) 05:37
週末が来るたびに、私の心は大きく揺れた。
そう、コンサートがくるたびに。
どれだけ避けていても、同じグループだったりしたら嫌でも顔を合わせることになるし。
あれ以来…、朋と会話らしい会話をしていなかったから。

避けてる…以上に、避けられてる。
きっと。

そう思ったところで、なんにもできない。
する、資格なんてない。

「あれー? きー、朋はぁ?」
「さぁ? 由加とどっか行ったんじゃない?」
「もぉーっ、つまんないーっ!」

楽屋に響くうえむーの声を遠くに聞いて、ぴくりと身体を揺らしてしまう。
過剰すぎるって自分でもわかっているけれど、『朋』という単語に、いちいち胸が騒いだんだ。

自分から遠ざけておいて避けられて当然なのに、いざそうされるとショックを受けて。
心のどこかで、朋なら許してくれるんじゃないかって勝手に思い込んでた。
そんなのあるわけないのに。

113 :-7- :2014/03/17(月) 05:37
「お邪魔しまーす!今日はよろしくお願いしますーっ!」
「あっ!タケちゃんだぁっ!」
「うわっ!ちょっ、かりんー危ないー」

挨拶に来てくれた大好きなタケちゃんに飛びついて、嫌なことを振り切ろうとすればするほど
寂しげに私から離れていった朋の背中を思い出す。

なにかを理解して、受け入れ…その上で離れた朋。
その存在が、とても小さかった。
私より背は高いはずなのに、頼りなくって消えてしまいそうだった。
そうさせてしまったのは…私なんだ。

迷惑だ…なんて、なんで言えたんだろう。
ずっとずっと、朋は私を気にかけていてくれたのに。
それを、知っていたのに…。
あの時の自分の喉を、ナイフで引き裂いてしまいたい。
それぐらい、後悔で押しつぶされてしまいそうだった。

114 :-7- :2014/03/17(月) 05:38
「にぎやかだね」
「あっ!ゆかー、ともー!帰ってきたーっ!」

…っ!
耳に飛び込んできたうえむーの声に、緊張が走る。
それは、タケちゃんの腕を掴む手にも力が自然と入って、「かりん、ちょっと痛い」なんていわれて、
ごめんね、と乾いた笑いで誤魔化してしまった。

「どこ行ってたん?」
「んー、ちょっと℃-uteさんやBerryzさん達と喋ってきた」
「そうなん?」
「うん、朋と矢島さん似てるねーとか」
「へー、あ、でも確かに言われればそうかも」

うえむーと紗友希は、にこにこと笑いながら近づいて話してる。
先輩ばかりだし、なかなかまだ慣れない場所だから、こうしてメンバーで
固まってしまうのはしかたなくって。
でも、逆にそれが今…私を苦しめる。

まだ、今日という日になってから…朋と話してない。
それどころか…まともに顔も合わせてない気がする。
そんなので、今こうやってメンバーだけでいるなんて、つらすぎる。

115 :-7- :2014/03/17(月) 05:38
「あ、かりん、あたしもう帰んなきゃ」
「あ、うん、ありがとタケちゃん」
「ん」

タケちゃんも、その空気を感じたのかな。
みんなに軽く、頑張ろうねって手を振って楽屋を出て行ってしまった。
残された私は、居心地の悪さを感じながら自然を装ってみんなに近づく。

「りんか、なんか元気ない?」
「えっ?」
「あ、それさゆきも思った。ちゃんとご飯食べた?」
「あ、うん、大丈夫、緊張してるだ…け…」

返事と同時に顔を上げて…、言葉を失った。
ううん、身体の自由が、奪われた。

116 :-7- :2014/03/17(月) 05:39
だって視線の先。
今しがた入ってきた…朋が、なんともいえない表情で私を見つめていたから。
にこにこした由加ちゃんが隣だったから、余計その顔が際立って…動けない。

深く、どこかを傷つけて痛めているのに、悲しいかな、その痛みに耐えるだけの
強さを持ってしまって諦めに似たような目で、寂しげに俯いて笑う。
そんな人に共通の…何かが、目の前の朋にもあるように見えた。

じっと私をみているはずなのに、そこには私は映っていない。
焦点が向いていないんだ。
いるのに…、いないようにされてる。

違う、そうじゃない。
されてるんじゃない。
…させているんだ。
他でもない私が。

117 :-7- :2014/03/17(月) 05:39
「と…」

呼びかけるように名前を口にしようとした。
その瞬間、ぴくんと肩が揺れて、朋の表情に陰りが見えた。
それでも…ちょっとだけ無理したように笑って。

「あー…ちょっと金澤出かけてきまーす」

おどけたように、それだけ言って扉の向こうに身体を翻して行ってしまったんだ。
引き止めようとした言葉が出るよりも早く。

「えぇーっ、早く帰ってきてよー?」

うえむーの抗議の声に、はいはい、なんて短く答えて消えていく。
でも…その声も、心なしか元気ない。
それがまた、私の胸の奥をギリギリと締め付けた。

118 :-7- :2014/03/17(月) 05:39
どうしよう…。
こじれてしまった関係。
ううん、こじれさせてしまったこの関係。
どうやって直したらいいんだろう?

朋なら大丈夫、なんて一瞬でも思った自分の頭を殴ってやりたくなる。
誰だって傷ついて当たり前なんだ。
あんな風に言われて、拒み続けられたら。

なんて私はバカだったんだろう…。
ごめん…、ごめんね、朋。

119 :-7- :2014/03/17(月) 05:40
「佳林ちゃん?」
「…っ、由加ちゃん…。あ、あのっ!」

落ち込んだ私に気づいたのか、それとも今視線を追いかけた朋の様子が気になったのか
由加ちゃんは、私と出て行った朋を交互に見て…話しかけてきた。
その柔らかい眼差しに、弱った心が一気に流れていきそうになる。

でも。
待って。
ここは楽屋だ。
うえむーも紗友希もいる。
そんな中で、朋となにかあったなんて言ったらどんな反応される?

「どうかした? 私に何か相談?」

人の気持ちがわかる、という由加ちゃんはきっと様子のおかしい私達に気づいてる。
そのうえで、話しやすいように促してくれてる。
すぐにでも、吐き出してしまいたい。
楽になってしまいたい。
でも…それはここでは叶わない。

120 :-7- :2014/03/17(月) 05:40
「あっ、ううん…、あの…、そう!今日のホテルの部屋割りを聞きたくて」

なんてことはない言葉だと思う。
うえむーも紗友希も、あ〜そうだねー今日は?なんて軽く乗っかってくれてるし。
でも。
返ってきた言葉に…私は愕然とした。

「……、朋と一緒は困る?」
「…え…?」

由加ちゃんには珍しい、探るような視線。
ううん、ちょっとだけ…咎めるような…そんな目。
どうしてそんな…。

そこまで思って、気づく。
由加ちゃんは…大抵うえむーか朋と一緒にいることが多い。
うえむーに対しては、どこか保護者のように色々心配している姿が多いけど、
朋は…、そう、やっぱり年長同士だから、私達年下ではわからない話をしていることもあったりした。
そんな中で…、朋が何かを由加ちゃんに相談していてもおかしくなんてない。
私達の事を…知っていてもおかしくない。

121 :-7- :2014/03/17(月) 05:41
思わず身構えてしまった私。
それを確かめて、一度瞬きをした由加ちゃんは、いつものふわふわした笑みに戻っていた。
まるでそんな空気なんてなかったみたいに。

「ごめん、イジワルだったね。今日は朋は一人部屋で、私と佳林ちゃん、うえむーと紗友希ちゃんだよ」
「そ、うなんだ」

朋は、の部分を強調された気がするのは間違いじゃないと思う。
ぽん、と一度軽く私の腕に触れて、うん、と頷かれたから。

「えーっ!?うえむーと一緒なのぉ?」
「きー、いっしょーっ!」
「あーもーちょっと、ほんっと早く寝てよね?」
「ええやんー、一緒に遊ぼう!」
「ほらほら、静かに」

まだ何か言いたげだった由加ちゃんだけど、わーっと騒がしくなった二人に
困った笑顔で向かっていってしまった。

122 :-7- :2014/03/17(月) 05:41
いつもの楽屋。
いつもの風景。
そのはずだった。
でも…、一人、いない。
いつもの一人がいない。

それだけで、こんなにも私の心は沈んでしまうなんて。
結局この日、一度もライブで朋とアイコンタクトがとれることは一度もなかったっけ。

123 :エシクスト :2014/03/17(月) 05:43
本日ここまで。

>>111 名無飼育さん
ありがとうございます。佳林ちゃんはいつでも複雑に考えすぎな気もします。

124 :名無飼育さん :2014/03/17(月) 16:14
引き込まれました…
続きが気になるっス!!
125 :-8- :2014/03/18(火) 05:20
ぽすん、と。
仰向けにベッドへ身体を投げ出して天井を見つめた。
額のあたりに手の甲をつければ、自然とほの暗い気持ちが胸に広がっていく。

困ったみたいに楽屋を出て行った朋の姿が、瞼に焼き付いて離れない。
あんな風に…ちょっと逃げるように去って行くのを今まで一度も見たことがなかったから。

いつだって飄々として、レッスンで怒られようと、何か失敗したことがあったとしても
顔に出して周りに悟らせるようなことは、絶対になかった。
どんな時でも…、ううん、特にメンバーがいる時には絶対に。

126 :-8- :2014/03/18(火) 05:20
なのに…あんな…。

ぎゅっと瞼の上で両腕をクロスして、固く目を閉じる。
胸に浮かぶのは…後悔と罪悪感、それとちょっとした…悲しみ。

私のせいだ。
私が、朋の笑顔を奪った。
私が…、朋の優しさを…踏みにじったんだ。

自分がされたら…どう思う?
心配して、なのに、突っぱねられて、迷惑だなんて言い放たれたら。
もう…、二度と話しかける勇気なんてなくなっちゃう、絶対に。

それでも、朋は…立場が許さないから…。
だから…。

127 :-8- :2014/03/18(火) 05:20
「私…最低だ…」

と。
そこで、洗顔所の扉が開く。
わわっと思って慌てて起き上がれば、そんな私を確認して柔らかく笑みを浮かべている由加ちゃん。

寝間着に着替えて、ノーメイクの由加ちゃんはいつも以上に困った顔に見える。
本人はいたって普通顔らしいから言わないけど、垂れ下った眉が可愛いよね。

「ごめんね、もう寝る?」
「あ…うん…もうちょっとだけ」

そう?と、胸に抱くようにしていた洗顔セットやら歯ブラシを荷物にまとめる由加ちゃん。
その背を見つめて…ちょっとだけ苦しい気持ちになった。

128 :-8- :2014/03/18(火) 05:21
朋と…何かあったって、きっと気づいてる。
ライブ前、もっと問い詰められたりするかと思ったぐらいだし…。
『朋と一緒の部屋じゃ困る?』なんて、核心をつかれたりしたから。

それでも、きっと…言わないのが、由加ちゃんの優しさの形なんだろうね。
そうやって、リーダーだからって強引にしない由加ちゃんが好き。
私達の自浄力を信じてくれてるっていうか…無理に揺り動かさないでいてくれるから。

でも…もう、一人で抱えるのが…私には限界だった。
どうやったらいいのかも、わからないんだから。

129 :-8- :2014/03/18(火) 05:21
「…ねぇ、由加ちゃん」
「うん?」
「あの…、あの、ね? 昼間の…ことなんだけど」

派手にどもって、俯いてしまう。
こんなに人に相談するのが緊張するなんて思わなかった。

でも、そんな私に、由加ちゃんはゆっくり振り返ると…うん、と一度頷いて。
向かいのベッドに座って正面から私を見つめてくれたんだ。

どうぞ?
ゆっくり話してみて?
私でよければ。

そんな柔らかい空気が肌に触れる感覚。
あぁ…きっとこういうのが、私達のようなグループのリーダーに必要なものなんだろうな…。
他のグループのリーダーじゃ、きっとこんな雰囲気は出せない。
由加ちゃんだから、ある空気。
それが今は、ありがたい。

130 :-8- :2014/03/18(火) 05:21
「私…ダメなんだ。思い込みが強いっていうか、決めつけちゃったら簡単に
気持ちの切り替えができないっていうか…」
「うん」

どこから話せばいいんだろう?
思って…苦笑した。
ぜんぶ。
そう、ぜんぶ話さなきゃ、きっと伝わらない
朋のようにすれ違うのは、もう嫌だ。

「怖い…夢を見て」
「夢?」
「うん…。研修生だった時の。大好きだった人たちがどんどんデビューして去ってって
仲良くしていたお姉さんや友達は…やめていっちゃって…。すごく辛くって…」
「うん…」

そっと私の手を取って両手で包んでくれる由加ちゃんの温もりが、心に沁みる。
勇気が…わいてくる。
大丈夫、ちゃんとぜんぶ聞いてくれるって、安心してくる。

131 :-8- :2014/03/18(火) 05:22
「みんな…みんな、私が仲良くなれば、いっつもいなくなっちゃうの。仲良くなれば、
サヨナラがやってきて…。一緒にいたいって思っても、どれだけ願っても…いつも
その願い事は…叶わなくって」
「うん」
「だから…私、仲良くなりすぎなければいいんだって、そんな事考えちゃって、
それで…だから…私…」

きゅっと瞼を閉じて唇を噛みしめる。

朋の事…傷つけた。
傷つかないわけない。
意味も分からず遠ざけられたら。
ごめん、ごめんね…朋。
私、短絡的すぎた。
子供だった。

132 :-8- :2014/03/18(火) 05:22
「そっか…。うん、そうだったんだね」

やっぱり優しく私の手を包んだままの由加ちゃんは、ふんわりした笑顔で
うんうん頷きながら聞いてくれた。
それから、少しだけ視線をくるっと部屋に回して。
言葉を慎重に選ぶように、静かに問いかけてきたんだ。

「佳林ちゃん?佳林ちゃんが今願っている事は…脆くて壊れやすいものですか?」
「…わからない」

脆い…のか、わからない。
私が今願っているのは…いい関係で、このままずっと一緒にいたいってことで。
メンバーはもちろんだけど…朋と、ずっと一緒にいたいってことで…。

「じゃあ…、仲良くしたい人は、そんなに脆い人ですか?」

はっとした。
続けられた質問に。
それはまるで…私の胸の内を全部見抜いているものに思えたから。

あぁ…でも。
由加ちゃんだもん。
そうであって…おかしくない。
だったら…、これ以上隠しても、仕方ないのかも。

133 :-8- :2014/03/18(火) 05:22
「…違う、と、思いたい」

朋は…そうじゃないって、信じたい。
突然いなくなったりなんてしないって、信じたい。
あの、なんでもないような笑顔で、大丈夫だよって、つまんないこと考えすぎ、って笑って。
そうやって、私のそばにいてほしい。

そんな私に、何を見たんだろう。
由加ちゃんは、ぽん、と一度手の甲を叩いて意識をひっぱりあげてくれた。
変わらない、微笑みのまま。

「その気持ちがあれば、大丈夫」
「え?」
「佳林ちゃんの願い事…願ってきたことは、もしかしたら叶わなかったことばかり
だったかもしれないけれど…――― 今の自分は嫌い?」

今の…自分?
それは…今、Juice=Juiceのメンバーとして立っている私の事、だよね?
言われて、思い起こす。
今までのことを。

134 :-8- :2014/03/18(火) 05:23
エッグになって…研修生になって、その時お姉さんで大好きだった人はデビューしていき、
後輩にも追い抜かれ、尊敬していた人は去って行った。
そして今、自分は『ここ』にいる。

望んだ道のりじゃなかったかもしれない。
でも、今、私はここにいて…みんなといて、大変なことも多いしガッカリもするけど楽しい。
どれだけ辛いことがあっても、同じことを一緒に頑張って乗り越えて笑ってくれる人がいて
すごく楽しい。

あぁ、そうか…。
それが、うん、それが答えなんだ。

今の自分は――― 嫌い、だけど、大好き。

表情の変わった私に気づいたのかな、
由加ちゃんは、うんうん、とまた大きく頷いて包んでいた手を私の膝に戻してきたんだ。
それから…どこか感慨深げに見つめてくる。

135 :-8- :2014/03/18(火) 05:23
「…似た者同士だなぁ」
「え?」
「自分じゃなくって相手のことを先に考えたりして…」
「?」

顔を上げれば、ちょっとだけいたずらっぽい目で…でも優しく私に笑いかけてる由加ちゃん。
でも、私の問いには「へへへ」と流して、何かを思い出したように、軽く手を打った。

「朋がね、何か話したがってたよ?」
「朋…が…」

今その名前は、やっぱりちょっとした緊張を連れてくる。
どんな気持ちでいたんだろう、とか、呆れた?とか、
嫌な感情がぐるぐるしちゃって。

「一人部屋だし、行って来たら?」

「あ、でも遅くならないようにね」なんて背中を優しく押されるけれど、
ぐずぐず手の中で指を弄るしかできない。

だって迷惑じゃない?
突き放しておいて、ひどいやつなのに。
きっと、いっぱい傷つけたのに、今更って…。
今浮上した気持ちが風船の空気が抜けるみたいに、萎んでいくんだ。

136 :-8- :2014/03/18(火) 05:24
「正直、言うとね」
「…?」

動きださない私に、由加ちゃんは、うんとね、とわざと私の意識を自分に向ける。
どんどん、ドツボにはまっちゃってる私を引っ張り上げるみたいな、ふんわりした顔で。

「朋、いつもずっと心配してた。無理して明るく振る舞ってるかもって」
「え…?」
「でも、自分が言っても困っちゃうかもだから、由加ちゃん気にかけてやってって」
「そんな…」

朋は…そういう人だ。
何があったかなんて言わなかったんだ。
それはフェアーじゃないから。
ううん、私の性格をよく理解しているから。

プライドだけが高くって、弱い部分なんて見せたくなくって。
構ってほしくて、構って欲しくなくって。
そういうの、全部理解してくれてたんだ。

137 :-8- :2014/03/18(火) 05:24
それに…苦手意識は私『が』だったから。
朋も多少持っていたかもしれないけど…それ以上にずっと私が持っていたから。
だから…いつも距離を確かめてくれていたんだ。
ちょうどいい距離を。ずっとずっと。

迷惑、なんて言ってしまったのに。
自分の方がよっぽど傷ついたはずなのに…、私の気持ちを大事にしてくれてる。
いつもいつでも。

「だから、安心させてやって? …ちょっと最近…寂しそうにもしてたし」
「寂しそうに…」
「意外と朋、世話好きなんだよ。お節介なときもあるけど。うえもーにもだけど
特に……佳林ちゃんのこと、結構いつも心配してるように私には見えるんだよね」
「え…っ」

不器用だよね、ちゃんと「心配なんだ」って言えばいいのに、と上品に笑う由加ちゃんは
とってもお姉さんで…妹を心配している眼差しだった。
こういうところが…リーダーなんだろうなって思ってしまったっけ。

138 :-8- :2014/03/18(火) 05:24
これだけの気持ちを届けられて、私はなにやってるんだろう?
先輩なのに、ちっともそんな風にふるまえなくて迷惑ばっかりかけて。
仕事じゃなくなった途端、子供じみたわがままで振り回して。
受け止めてほしくて…、離れたくなくて。

でも、どうやったって、私はまだ子供で。
朋や由加ちゃんのようには振る舞えない。
だったら、それでいいじゃないか。
今は…せめて、メンバーの前だけでは…それでもいいじゃないか。
だって、そうであってほしいと…思われているんだとしたら…、ほんの少し…
素直になってみるのも、悪くない。

まだ、燻る気持ちはある。
でも、せめて…心から心配してくれてる人の前では…ただの宮本佳林に戻っても
いいんじゃないかな。

139 :-8- :2014/03/18(火) 05:25
「…いってきます…!」
「うん、そうだね、それがいい」
「由加ちゃん、ありがとう」
「私はなんにも。いってらっしゃい」
「うんっ」

腰を上げて、カードキーを手に取ると扉へ駆け出す。
振り返れば、たちあがって両手を軽く握って一度頷いてる由加ちゃん。
その声にならない応援に頷き返して…私は朋の部屋へと向かったんだ。

140 :エシクスト :2014/03/18(火) 05:26
本日ここまで。

>>124 名無飼育さん
ありがとうござます。宮本さんがんばれ、ということで。
141 :-9- :2014/03/19(水) 05:22
私にとってのタケちゃんは、大好きな人。
わーって一緒になって楽しいことをしてくれて、気兼ねなく話せる人。
ぎゅってハグしてもらえるだけで、あったかい気持ちになって嬉しい気持ちになる。

…私にとっての朋は…、嫌い…だったけど、大好きな人。
一緒に遊んでくれることなんてほとんどないし、気もいっぱい遣っちゃうし、
私にないものをたくさん持ってて、時々からかうみたいに私に触れてくる困った人。

でも、わかってるんだ。
朋が、そうやってイジワルしてくる時って、大抵私が孤立しそうになってる時で。
誰よりもキャリアが長くて、でも、ぜんぜん大人じゃない私を気にかけて、
わざとそういうことをしてきてるんだって。

そういうの、最初はぜんぜんわからなかった。
でもね、朋と一緒にいる時間が増えて、気づいたんだ。
それが…朋なりの優しさだったんだってことも。

そして…手を繋いでもらえるだけで、あったかい気持ちになって…切ない気持ちになる自分に。

タケちゃんとは違う『大好き』があることに。

142 :-9- :2014/03/19(水) 05:23


*****


143 :-9- :2014/03/19(水) 05:23
はやる気持ちに後押しされて、朋の部屋の前まで来たけれど。
急に理性が落ちてきて、怖くなった。

もし、「なにしに来たの?」とか言われたら?
話してもくれなかったら?
いや、多分お仕事のことを考えてそんなことはしないだろうけど、
きっと、そんな気持ちにはさせてしまうかもしれない。

うじうじと悩んでしまったらドツボにはまるのが私の悪い癖。
人のちょっとした評価とか、どう思われているのかとか、そういうのが無性に気になる。
やめなきゃって思えば思うほど、また自己嫌悪に陥って悪循環。

ううんっ。
ちゃんと朋と話すって決めたんだ。
行こう…!

144 :-9- :2014/03/19(水) 05:23
ピンポン

震える指で、朋の部屋のチャイムを押す。
中から漏れるチャイムの音と、パタパタという軽い足音に緊張が増すけれど。
一呼吸おいてガタン、と、ちょっと慌ただしく開いた扉と、中から現れた人に虚をつかれた。

お風呂あがりなのか、うっすら上気した頬。
しっとりと水を含んだ髪が、肩にかけたタオルの上でゆるく跳ねて。
メイクを落として幾分幼くなった輪郭に、レッスン着として使ってるTシャツ姿。
その全部が、いつもの朋とぜんぜん印象が違って、戸惑ってしまったんだ。
一言で言うなら…可愛い。

でも、私の顔を驚いたように見るやいなや、眉をしかめて通路をキョロキョロ見渡す朋。
えっ?えっ?と私も視線の先を追えば、もう一度まっすぐ目を見つめられる。
145 :-9- :2014/03/19(水) 05:24
「ひとり?」
「え、あ、うん。朋と、ちょっとお話がしたくて」

そこで渋い顔をする朋。
むっとしたように唇が軽く結ばれて、どこか不機嫌に目を細めてる。
どうしたの?と視線で促せば、はぁ、と肩を揺らすぐらい大きなため息をひとつ。

「そうなんだ? でも、あとで由加ちゃんにも言っとくけど、こんな時間に一人で
外に出ちゃダメだよ?」

小声の早口で言い終わらないうちに、かたんと背中で扉を受け止めるようにして
朋は中に入るように私を促してきた。

あぁ…心配してくれたんだ?
でもさ、このホテルのこの階層はみんな関係者ばっかりだし、大丈夫だよ。
マネージャーさんの部屋だってすぐそこだ。

146 :-9- :2014/03/19(水) 05:24
「朋、心配性」

くすりと笑って、朋の前を横切ると、一瞬口を開きかけて…でも何かを思い直したように首を振り
ふいっと扉を閉めるように私に背を向けて、「かもね」と言葉をよこしてくる。
こういうところが朋らしいというか…。

行動する前に、考える。
それができる人なんだ。
ちょっとだけ、それが羨ましくて…寂しい。
なんて言葉を飲み込んだのか、いつだって気になってしまうから。
朋の考えてること、思ってること、そういうのをいつだって知りたいって思っちゃうから。

147 :-9- :2014/03/19(水) 05:25
「どうぞ、適当に座って?」
「うん、お邪魔します」

促されて、近くのベッドに腰掛ける。
くるっと部屋を見渡せば、すっきりしたスペースだらけ。

まるで私と正反対かも。
どうしても片付けることが苦手な私は、散らかりん、なんて呼ばれるほどに
それはひどい部屋の使い方をしてしまう。
うえむーと一緒の部屋にでもなったら、マネージャーさんに大目玉をもらいそうだな。

「なにか飲みます?」

ふっと追いかけるようにやってきて、小さなテーブルの前で頭を拭きながら尋ねてくる朋に視線を向ける。

ふわりと部屋中に漂うシャンプーの匂いは、朋らしいスっとした涼しいもので。
丸みを帯びた身体の曲線にちょっと羨望の眼差しを向けてしまうかも。

148 :-9- :2014/03/19(水) 05:25
身長もきっと止まってしまって、幼児体型の私と違って、
朋は確実に成熟した女性のそれに近づいていってる。

きめ細やかな肌に、ほっそりした指先。
服の上からでも分かる柔らかそうな胸のふくらみ。
最近何か始めたのか、スっと締まったホディライン。
すらりとした脚は、ほどいい脂肪と筋肉があって…触れてみたいほど。
もちろんしないけど、それほど魅力的だと思った。

ないものねだりだな、と苦笑して「なにかあるの?」とあたりさわりない言葉を返す。
一瞬私の視線が朋を追っていることに気づいたのか、不思議そうな目をした朋だけど、
気にする様子もなく、カタカタと机の引き出しを探り出す。

149 :-9- :2014/03/19(水) 05:25
「んー、備え付けの…コーヒー・紅茶・緑茶に…、あぁ、あとは」
「?」
「カリカリ梅」
「それはいらない」

即答して、思い出した酸味に眉を寄せて喉を鳴らせば、「残念」なんて言いながらクスクス笑われる。
もう…、すぐに人で遊ぶんだから…。
でも、なんか一気に空気が変わった気がする。
それには感謝。

じゃあ、さっきコンビニで買ったんだけど、なんて言いながら朋はインスタントココアを取り出して
手際よくカップを用意して、お湯を注ぎ始めた。
途端に、部屋いっぱいに甘い香りが漂って…気持ちが落ち着く。
あんなに、ここにくるまで緊張していたのに一瞬で。

150 :-9- :2014/03/19(水) 05:26
「どうぞ?」
「ありがとう」

熱いから気を付けて、と手渡されたコップを両手で受け取って、息を吹きかける。
鼻をくすぐる香りがくすぐったい。
一口含んで喉を通せば…、ほっとする。

と、そこで、視線を感じて顔を上げる。
ぶつかったのは、柔らかな笑みをうっすらと唇にのせている朋。
机に軽くもたれかかるようにして、片手でカップを持っているけど、じっと私を見つめてる。

「な、なに?」
「いや? 久しぶりにちゃんと金澤のことを見てくれたなぁって思いまして」
「そっ、そんなこと」

ない、とは言えなかった。
言ったところで見抜かれてる。
あれだけ、そう、言い方はアレだけど、逃げ回っていたんだから。
そのうえで、きっと朋なら「そうですか」なんて、嘘につきあってくれるだろう。
それだけの器用さと聡明さを持ち合わせている人だから。

151 :-9- :2014/03/19(水) 05:26
ゆらゆら揺れるカップに目を落として…、ふと思う。
朋は、どうしてこの道を…この職業を選んだんだろう?
アイドルが好き、というのは知ってる。
でも、その根底にあるものを知らない。
オーディションに受かってチャンスを貰って、そこから研修生になって…。
その時、何を思っていた?

そこまで思って気づく。
私……、なんにも知らない。
朋の事、なんにも知らないじゃないかって。

優しくて、勉強もできて、声が大人っぽくて、時々子供っぽい意地悪をしてきて。
でも、そんなうわべしか知らない。
普段、どんなことを考えていて、どんなことで悩んで、どんなことか嬉しいのか…悔しいのか。
朋のそういうこと…、ぜんぜん考えもしなかった。

152 :-9- :2014/03/19(水) 05:27
……ううん、違うね、考えないようにしてた。
自分と対極にいるように見えた存在が…苦手で。

でも、それじゃいけないって。
気持ちを頑固にいつまでも引きずってなんていられないから。
違う…そうじゃなくって。
今、すごく、知りたいって。
朋の事、もっと知っていきたいって思うから。

「…ごめんなさい。この間も、ひどいこと言って。」

静かに目を閉じて頭を下げた。

見ないようにして。
避けて。
遠ざけて。
そうやって…傷つけて、本当にごめん。

こんなことで私がやったことはチャラにならないけど。
それしかできない。

153 :-9- :2014/03/19(水) 05:27
そしたら…、密やかに溜息をつく気配。
追いかけてきたのは、ぽんぽんっと軽く頭を撫でてくる感触。

「ま、元気そうで良かった。竹内さんのおかげかな」

竹内さん…、タケちゃんのおかげ…。
違う。
そうじゃない。
タケちゃんじゃない。

なんでだろう?
朋の口からタケちゃんの名前を聞いただけで、ざわつく胸。
かっと頭の後ろの方が熱くなって、言い知れない気持ちがこみあげてくるんだ。
その名前のわからない感情のまま、離れて行こうとした手を?まえるように袖を掴んだ。

154 :-9- :2014/03/19(水) 05:27
「違うよ、そうじゃなくって…っ、ううん、タケちゃんもだけど、でも、朋が心配してくれたからだよ?」

上手く言葉がでない。
こういう時にまとまらない思考をそのまま出しちゃう自分が恨めしくなる。
ただ、どうか伝わって、と情けなく朋を見つめるしかできない。
ひどいこと言ったけど、朋が心配してくれたこと、嬉しかった。
悪夢からひっぱりあげてくれたこと、嬉しかったんだよ?

私の視線に何を見たのかはわからない。
でも、朋は軽く天井を見上げるように、あー…と視線を中空を彷徨わせて。

「まぁ、そうだね、ちょっぴり心配したかも」

そうやって、肩をすくめて笑って見せたんだ。
見たこともない、屈託のないその笑顔に…呆ける。
朋が、こんな顔するなんて、と。
でも、それも一瞬で、にやっと歯を見せるように目を細めてみせると、私の手を自然に外して

「今日は、やめてって、迷惑って言って避けないんだ?」

なんて言ってきたんだ。

155 :-9- :2014/03/19(水) 05:28
またそうやってすぐにイジワルを…っ。
わっと言いかけて…止まる。
そうやって朋はいつだって私の反応を面白がってるけど…実は…。
そう…気づいたんだ。

私が感情をあらわにして、怒ったり、拗ねたりするのを見て朋はいつも嬉しそうにしてる。
最初はイジワルだなって。そうやって私の反応見て楽しんでるんだって思ってた。
けどね、違う。
違ったんだよね?

昔から…この世界にいる私は、自然と大人の人たちの顔色を窺うようになって。
どこまで先輩であるお姉さんたちに甘えていいのかも、計算してた。
そうしているうちに…我慢するのが当たり前になって、どうやって気持ちを伝えて
いいのかばっかり気にするようになって…、なんにも考えずに話すこともできなくなってた。

そんな私を…朋は見抜いていたんだ。
だから、時々こうやってわざと私の気持ちを揺り動かしてくる。
「今のままでいい」と言った朋の意味、やっと理解できたんだ。
自分の前では…中学三年生のただの宮本佳林でいていいんだよ、と。
そう言ってくれていたんだ、ずっと。

156 :-9- :2014/03/19(水) 05:28
まったくさ…、朋ってほんっとにわかりづらいよね。
由加ちゃんみたいにまっすぐ伝えてくれればいいのに、それをしてくれなくって。
でも、それさえもきっと、私に気を遣わせないためなんだろうなって。
そう思うのは、きっとうぬぼれなんかじゃない。

だから。

すっと息を一度吸い込んで、ちょっとだけ澄まして言ってやったんだ。

「もう、避けるのやめたの。自分に素直になろうって思って」
「へー」

ちょっと意外そうに眉を上げて、それからココアを口にする朋に少し笑みがこぼれる。
いつまでも、思いのままになると思ったら大間違いなんだからね、朋。

「それに。これからはちゃんと朋の事、しっかり見ようと思って」

小さく反撃をしてみる。
ううん、私なりの精一杯の反撃を。
でもやっぱり朋は、そんなことで動じる人じゃなかった。
えー?なんて、くすくす笑いながらカップの中に視線を落としたままだった。

157 :-9- :2014/03/19(水) 05:29
「それはちょっと怖いな」
「なんでよぉっ」

いやだってさ、なんてますます可笑しそうにする朋に、立ち上がってすり足で近づくと
ぽくぽく肩を叩いて拗ねて見せる。
ちょっと勇気を振り絞ってみた反撃も、簡単に流してしまわれていくのも、ちょっと悔しくって。

「ま、よそ見ばっかりして転ばないようにね」

このお話は終わり、とばかりに私の額にデコピンを落とす朋は、残りのココアを飲みほして
洗面所へと下がって行ってしまう。
むぅっと膨れて見せても、目だけで笑って。

158 :-9- :2014/03/19(水) 05:29
よそ見、なんてなんでそんな。
朋のいう事は、時々抽象的すぎてよくわからない。
タケちゃんのことでも言ってるんだろうか?
そんな、誰かに嫉妬するような人に見えないし、
大体そんな感情で私を見ているわけじゃないってことも知ってる。
ただ、なんとなく腑に落ちなくて、

「と、朋しか見ないもん!」

消えた背中に言い放つ。
サーッと流れる水音。
それに紛れて聞こえたのは「いやいやいや、ちゃんと周りも見てほしいんだけど」なんて声。
まったく、ほんとうに朋ってわからない。
どうしたらこの人を繋ぎとめておけるんだろう?
多分、その答えは因数分解と一緒で、丁寧に展開していかないとわからない。
公式とか覚えていない私には。

159 :-9- :2014/03/19(水) 05:30
「もう帰る」
「ん、じゃあ一緒に行きましょうか」
「そんな子供じゃないよ」

戻ってきた朋に、目は合わせずに言えば、まぁまぁなんて軽い声と一緒に
カードキーと携帯をその手に持って、返事も待たずに扉へ向かっていく朋。
こう、有無も言わせないところが、またちょっとムっとくる。
なんでも自分のペースに持って行って。
でも。

「うちが―――」
「え?」
「―――心配なんです」

重なった声に顔を上げる。
心配?
朋が、心配、してくれてるの?
思いがけない本音に、真意が掴めなくってその背を見つめるけど、返事はなかった。

160 :-9- :2014/03/19(水) 05:30
「さ、どーぞ」
「……うん」

廊下に出れば、スマートに鍵を閉めて前を歩き出す朋。
大人びたその背中は、私より大きくて…見ているだけで安心感がこみ上げてくる。
守られてる。
そういう意識が、今十分に伝わってきていたから。

「ねぇ、朋」
「はい?」
「また、こうして二人でお話とかしてくれる?」
「………」

ちょっとした間。
戸惑っているような困っているような、そんな感じじゃなくって。
ただ言うならば、どうしよっかな、と楽しんでいるような空気。
焦れて、ねぇ、と背中から服を引っ張れば、ふっと笑みを浮かべて。

161 :-9- :2014/03/19(水) 05:30
「佳林ちゃんが、素直でいい子にしてたらね」
「なにそれ」
「そのまんまの意味」
「わかんない」
「わかるようになったら、お話しましょう」

むぅ、と膨れるけれど。
もう部屋はすぐそこだ。

由加ちゃんには、何て言おう。
ちゃんとお話したよ、とでもいうべきかな。
ぼんやり考えていたら、目の前の背が立ち止まって。
盛大な溜息を全身で表して「いや…違くって…あーもー…」と呟きながらくるりと振り返った。

162 :-9- :2014/03/19(水) 05:31
「あー…今の取り消し」
「え?」
「うちで良ければ、いつでもどうぞ」
「えっ?」
「だから今日は、しっかり休んでね。おやすみ」
「あっ」

ぽん、と頭を撫でて去って行く朋は、両手を組むみたいにして、もう振り返らずに行ってしまった。

一体どんな心境の変化があったのか。
でも、いいと言った。
いつでもどうぞ、と。
それは、なんだか…朋に踏み込むことを赦された気がして…。
にんまりと頬が緩んでいくのを隠せなかったっけ。
もちろん、由加ちゃんに「いいことあった?」と、意味深な視線を向けられたのは言うまでもなかった。
163 :エシクスト :2014/03/19(水) 05:31
本日ここまで。
164 :名無飼育さん :2014/03/20(木) 00:18
かりんちゃんが少しずつ素直になってきましたねー。
つづき楽しみにしてます。
165 :-10- :2014/03/20(木) 05:36
どれだけ変わろうと決意したところで、それはすぐにできるわけもなくって。
ぼんやりとした眼差しで、机にだらしなく上半身を投げ出しながら楽屋の一角、
ソファーに方を眺めてた。

ステージ前だし、慌ただしい廊下に出るよりはこうしてグループで固まる方が居心地がよくって。
そんなにキャリアがあるわけじゃない私たちは、こうしてのんびりすることが多い。
その中でも、一番甘えんぼのメンバー、うえむーはこういう時その色が濃い気がする。

今もほら。
ソファーに座って歌割りを確認していた朋に飛びつくように抱き着いて、
そのまま膝の上に頭を乗せて。
ちょっとめんどくさそうにしている朋なんか気にせず、ニコニコとその顔を見上げてる。

166 :-10- :2014/03/20(木) 05:37
「こら、ちょっと降りてうえむー」
「やだー、ともー相手してよ」
「十分したし。あーもー」
「へへっ、朋、いい匂いするー」

くんくん、と。
朋のお腹のあたりに顔をうずめるうえむーは本当に楽しそう。
いつものことだからかな、朋も諦め半分に「はいはい…」なんて頭を撫でながら
やっぱり視線は歌割りを真剣に眺めてる。
真面目だよね、なんだかんだ言って朋は。

でも…。
なんだか、もやもやしてくる。

わかってる。
うえむーは、なんにも考えずにこういうことする子だって。
特に何か思うところがあるわけじゃなくって、末っ子気質なところがそうさせているんだってことも。

それに対する朋だって、なんだかんだ言いながらもお姉さんだからって意識からか、
色々言うけど優しくて。
邪険にしながらも、本当に追い払ったりは滅多にしない。

167 :-10- :2014/03/20(木) 05:37
なんでもない、姉妹みたいに光景。
そう、思うはずなのに。
なんだか、つまらない。

じゃあ、私もーっていけばいいだけなんだろうけど…。
由加ちゃんや、紗友希にはいけるのに、相手が朋ってだけで…それができない。

はぁぁ…と、溜息をついて、腕に顔を乗せる。
意識し過ぎてる、そんな自分がたまらなく嫌で。

「損な性格してるよね」
「えっ?」

ふいに頭の上で聞こえた声に顔を上げる。
いつのまにいたんだろう?
特徴的な、ふんわりした笑顔で私の後ろに立っていたのは由加ちゃんだ。

168 :-10- :2014/03/20(木) 05:37
なんていうか…由加ちゃんって時々油断ならない。
知らず知らずのうちにそばにいたり、ズバッと切り込んだ意見を言ってきたり。
人の気持ちがわかる、なんて前に言ってたけど、突然こうやって言われるほうはひやりとするんだ。
正直、心臓に悪い時もある。

今だって…。
誰に向けての言葉?
その目線は、朋とうえむーを見てるけど…、なんだか…ちょっと、
私に向けられた言葉に思えて、ドキリとしてしまったんだ。
私の気持ちが透けて見えてしまっているのかって。

「そう、だね」

何の気なしに、それだけ答えてもう一度ソファーの二人を見た。

ちらりと壁にかけられた時計を確認した朋が、ふぅ、と一度息を吐いて、
それからうえむーの身体を揺さぶっている。

169 :-10- :2014/03/20(木) 05:38
「ほら、そろそろ準備だから起きて」
「えー」
「えー、じゃない。早く起きな」
「ちぇー」

ぴょこんと弾みをつけてソファーから立ち上がったうえむーは。
それでも、視線の先に私の後ろに立っていた由加ちゃんを見つけて。
「あっ、じゃ、私先に行ってるねー…」と、慌てたみたいに扉に向かっていく
その背中に「ゆかーっ!」と飛びついて出て行ってしまった。
甘えさせてくれる人を、よくわかってるなぁ…。

「じゃ、さゆきもー。二人もはやくねー」
「あ、うん、すぐいく」

続いて出て行ってしまう紗友希に私も立ち上がって、頷く。
ぱたぱたと自分のメイク道具を鏡の前に置いて、
よしっと気合入れに鏡を覗き込んで…固まる。

歌割りの紙を軽く折りたたみながら、朋が私の後ろで顔を覗かせていたから。
肩ごしに鏡を覗き込んで私の顔を見つめてきてる。

170 :-10- :2014/03/20(木) 05:38
「な、なに?」
「んー、いえいえ、今日も元気かなーと思いまして」
「げ、元気だよっ、大丈夫」
「ちゃんと寝れた?」
「寝たもん。朋が寝ろって言ったから」

そう、とそっけなく返事をする朋だけど、一向に私の後ろを離れてくれる気配がない。
それどころか…、一歩大きく踏み出して、私の耳元へと唇を寄せてきたんだ。

ふわっと香る朋の匂いにたじろぐ。
なんだろう…私と違って、どこか…甘い匂い。
香水とかそういう類じゃなくって、朋独特の…匂い。
自然と心拍数があがってきて、頬が熱くなって…気づかれないようにしたいけど、
きっと、この近距離だし…バレてる。

171 :-10- :2014/03/20(木) 05:38
「佳林ちゃん…」
「…っ…」

耳に当たる息がくすぐったい。
それだけじゃなくって、なんか、こう、ぞくぞくっとしてきて…一気に全身まで熱くなってくる。
でも。

「ここ」
「えっ?」
「ちゃんと片付けてから来てね」
「…へっ」

続けられた言葉は、とっても軽く、おかしそうな笑みを含んだものだった。

片付けて…?
って、わわっ。
そうだっ、いつもの私の悪いクセがここでも。
そう。
どうしても私は片付けるのが苦手で。
楽屋になるとそれが一番顕著に現れちゃうんだ。
今もほら、雑然としてしまっている机を、ちょんちょんっと指さされてる。

172 :-10- :2014/03/20(木) 05:39
あぁっ、もうっ!
恥ずかしい…。
と一緒に、胸に膨れ上がるのは、むぅっとした気持ち。
一人でドキドキしてバカみたいじゃない。

「もぉぉっ!!朋のイジワルっ!」
「おっと。じゃ、お先」

ばっと振り返って腕を振り上げれば、わざとらしく逃げる素振りをして
早足で楽屋を飛び出していってしまった。

まったく…。
膨れっ面で、朋の消えていった扉をみつめる。

やっぱり朋はイジワルだ。

でも、そのイジワルが嬉しいと思ってしまうから、私もどうかしてる。
朋に構ってもらえて嬉しいって思ってるから…本当に。
これじゃあ、うえむーのこと言えないかも。

ふっと見上げた鏡に映った自分は、情けなくも笑顔で…参ったな…なんて思ってしまったっけ。

173 :-10- :2014/03/20(木) 05:39


*****


174 :-10- :2014/03/20(木) 05:39
舞台裏の鏡の前に立って、慌ただしく人が行き交う中、衣装を最終チェックする。
ハローのコンサートも今日で最終日だし、失敗だけはしたくない。

信じられないけれど、今日の私は今までで一番最高のコンディションで。
研修生のみんなからの激も、笑顔で受け止められる。
もちろん、…必要以上にタケちゃんに甘えることもない。

ふぅ、と一度緊張を隠すように息を落とす。
大丈夫。
いつも通りに。
私なら、大丈夫。

ないものねだりはもうやめた。
私は、私にしかできないことを前向きに頑張るだけ。
私らしくやっていくことで、悲しい選択もあるかもしれない。
でも、そうやって突き進んでいけば、この手に掴むことができるかもしれないものも分かったから。

175 :-10- :2014/03/20(木) 05:40
「かーりんちゃん」
「わっ、ゆ、由加ちゃん?」

へへへ〜と独特な笑みを浮かべて、鏡の中の私を見つめるみたいに
肩口に顎を乗っけてきたのは由加ちゃん。
くりっとした目が、今はへにゃんと優しげに細められててなんだか緊張が解ける感じ。
あ、でも…。

「由加ちゃん、右腕大丈夫? 痛めてたよね?」
「あー、うん、ありがと、大丈夫。ちょっとご迷惑おかけしますがお願いします」

ぺこん、と頭を下げるのも可愛らしい。
いえいえ、こちらこそ、なんて笑いあえば、あ、そういえば、なんてポンと手を打ってくる。
なに?

176 :-10- :2014/03/20(木) 05:40
「朋にも、すっごく言われた、腕大丈夫かって」
「朋も…」
「ほんとうに心配性だよね、普段あんなにそっけないのに」
「うん…」

昨日のホテルでのことが自然と脳裏をよぎって…笑みがこぼれる。
そうだね…、朋って見た目に寄らず意外と心配性で、世話焼きさん。
いつもはなんでもないように、飄々としてるから、その変わり身に困っちゃうぐらい。
でも…それが、朋。
知れば知るほど、開いていた距離が縮まる感覚に、今は心地よささえ感じてる。

「ね、佳林ちゃん」
「えっ、あっ、なに?」

ちょっと意味深に、ふにゃふにゃ笑ってくる由加ちゃんに身構える。
いつもふわんとしているリーダーは、唐突に核心に触れてくるから油断ならない。
特に、私達メンバー間には敏感だったりするから。
その警戒はビンゴだった。

177 :-10- :2014/03/20(木) 05:41
「今度の欲しいものは、努力次第で絶対手に入ると思うよ?」

そっと耳打ちされた言葉に、固まる。

欲しいもの…?
それは…。
欲しい、人ってこと?
どこまで…由加ちゃんは知ってるの?

上手く返事ができずに、真顔のまま由加ちゃんに振り返るしかできない。

「…え?」

かろうじて出た言葉は、動揺を隠しきれなくて。
くすりと可笑しそうに、由加ちゃんは上品に笑って…いたずらっ子のような目で私を見つめてきた。

「時間かかりそうだけど、頑張ることに慣れてるでしょ? 佳林ちゃん」

ぽん、と。
背中を押されて、わわっとたたらを踏みながら前に進めば、その先にいた背中に鼻からぶつかる。
ごめんなさいっ、と謝ろうとして…気づく。
けだるげな瞳、ふっくらした唇、目鼻立ちのハッキリしたその人は。

178 :-10- :2014/03/20(木) 05:41
「朋」
「暗いんだから危ないよ、気を付けて。鼻、痛めてない?」
「大丈夫だよ…」

軽く眉を寄せて顔を覗き込まれて、うっと顎を引く。
この真剣な目に弱いんだ。
じーっと見つめられれば、自然と視線は泳いでしまうし。

「ふざけすぎて転ばないようにね」
「だって、今のは由加ちゃんが…!」

ゆるい抗議の声を上げて振り返り、にこにこ笑顔の由加ちゃんを指さす。
でも大人の余裕なのか、ひらひら手を振られれば…なんにも言えない。

がんばって。

そんな風に小さく口が動いてるのも見えちゃったから。

絶対バレてる。
私の気持ち。
むっと唇を結んでみるけど、頬が熱くなってくるのは止められない。
今このステージ裏が暗くて良かったと思ってしまったっけ。
誤魔化すように、ぽくぽく朋の肩を意味なく叩いた。

179 :-10- :2014/03/20(木) 05:42
「なぁーんですか?」
「…なんでもないっ」
「すぐ拗ねないでくださいよ、ほら、もうすぐ始まりますし」
「わかってるもん。っていうか、朋」
「はい?」
「敬語やめて」
「はいはい…」

やれやれ、と眉を上げて笑って見せる朋は、やっぱり大人だ。
噛みつかれても軽くあしらう余裕があって。
でも…、今度は誰かにぶつからないように、さりげなく私の手を繋いでくれて。

その手に力をこめてみたら…、握り返してくれる?
それとも、振りほどかれる?
こんな些細なことで悩んじゃう自分が嫌になるけれど…。

180 :-10- :2014/03/20(木) 05:42
がんばれ、と。
背を押してくれた由加ちゃんに…少しだけ勇気を貰って、
きゅっと握られた手を温もりを確かめるみたいにゆっくり握ってみた。

一瞬、力の抜けた朋の手は…、何事もなかったみたいにその手の力に応えるみたいに
握り返してくれて…前を向いて表情はわからなかったけど…嬉しい気持ちになったっけ。

「手」
「え?」
「佳林ちゃんの手、あったかいね」
「そ、そう?」
「赤ちゃんみたい」

むっ。
それは、からかってるでしょ?
わっと口を開こうとするけれど、

「でも、安心するし、金澤は佳林ちゃんのそういう所、気に入ってるんですよ」

―――― へ?

続けて言われた言葉に、ぽかんとしてしまった。

181 :-10- :2014/03/20(木) 05:43
「さ、本番です、いきましょう」
「あっ、待ってっ! 今もなんて言ったのっ、朋」

さっさと手を離して行ってしまおうとする背中に、ちょっと声を張り上げてしまう。
何人かのスタッフさんが振り返って、わたわたと口元を押さえれば、
唇に人差し指を立てて一瞬私を制し、しょうがないなぁって顔で振り返る朋。
そして。

「宮本さん? 本番ですよ、行きましょう」

にぃっ、と歯を見せるようにして笑って見せたんだ。
んーもー、イジワル…。
でも…いつか。

そう、いつかきっと捕まえる。
まだまだ、掴めない朋の心も…、なにもかも。
何年かかっても、この願いだけは、絶対にかなえてみせるって思えるから。

だから…、私が大人になるまで、待っててほしい。
ほんのちょっと、霞む未来に急かしてくる幼い自分を感じるけど、
ゆっくりゆっくり、追いかけるから。
私は私のままでいいと言った、朋のいいつけを守るように。

弾ける光の中に飛び込んでいく背中を追いかけながら、そんなことを思ったけれど、
伝えるのは…また今度。

182 :エシクスト :2014/03/20(木) 05:43
本日ここまで。
加えて、このお話はこれで終わりです。ありがとうございました。
機会があれば、またお願いします。

>>164 名無飼育さん
ありがとうございます。佳林ちゃんは素直になったら一直線な気がします。

183 :エシクスト :2014/03/20(木) 05:43



184 :エシクスト :2014/03/20(木) 05:43



185 :名無飼育さん :2014/03/20(木) 08:20
お疲れ様です!終わりですか!?
うわあ、まだふたりの先が気になります!
もしかしてかなともも…?という展開だったんで。
またいつか続きを書いてくだされば嬉しいです!
186 :名無飼育さん :2014/03/20(木) 21:20
完結本当にありがとうございます。
kntmの時点も見たいですね。
次回作を期待せずにはいられません!
187 :エシクスト :2014/03/26(水) 16:17
>>185 名無飼育さん
お付き合い頂きありがとうございました。
かなともさんとの続きは機会があれば書かせて頂きたいと思います。

>>186 名無飼育さん
完結にありがとうございました
kntmさんからすると、みんな大好きで終わりかねませんが機会があれば、はい。
188 :エシクスト :2014/03/26(水) 16:19
スレが残っていることもあり、もう一本お話を。
金澤さんと宮本さん主体で、アンリアルを。
少し長くなります。
189 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:20





闇はどこまでも深く、流れる月日の中でどんどん心さえも蝕んで。
強く胸に浮かび上がったのは、積もり積もった憎しみだけ。
人間を、世界を、すべてを。

救われたい気持ちは、とうに捨てた。
愛されたい気持ちも、そして、ついには絶望も捨てた。

すべてを捨てたのに、それでも捨てられなかったのは、―――憎しみだけだった。





190 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:20


*****


191 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:21
雨が近いのか、アスファルトの匂いが鼻をついた。
空の色も広がった雲で覆われ鉛のようで、頭上に迫ってきている。
それでも眼下の世界は、溜息が出るほど騒がしく、色とりどりのネオンが目に眩しい。

午後9時。
この街…いや、この国では、まるで夜も昼も関係なく人が溢れ行き交っている。
特に国の中心となる都心ならばそれは必然で冷めた空気が色濃く、
例えばもしここで誰か一人の人間が発作的な病で倒れたとしても、誰も目もくれずに歩いていくだろう。
そういうところなのだ。

その人間の流れを眺めるがごとく、ずいと天に伸びるほど高いビルの屋上に2つの影があった。
危なげなく手すりに両足をそろえて立っているのが、実に不思議な光景の2人だ。
いや、正確には、1人と1匹か。
ひどく白い肌が印象的な少女と、その肩に器用に座っている黒い仔猫である。

年の頃は、おそらく14、5だろう少女は、同年代の若者達が好みそうな小説の類から
抜け出してきたかのような衣を纏っている。

黒く高めのヒールの革靴に、そう、ちょうどラテン服とでもいうのだろうか、赤と黒を基調とした
左肩を?きだしたコルピーニョに、大胆に素足を大腿部までさらしたバタ・デ・コーラ、
ワンポイントのように、髪飾りにネックレス、手首へのシュシュ。
おそらく、着る者によっては扇情的なイメージを膨らませるものとなるだろうが、
皮膚も薄く、あまりにも「幼い」少女には、一種の異様さを醸し出していた。

192 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:21
異様さは何も、その いでたちからくるものばかりではない。
一番の要因は、その手に持たれたものだろう。

夜闇の中でも冷たくぎらりと光る、大きく弧を描くように屈折した刃。
その刃渡りは肩幅よりもさらに長く、そこから伸びる柄の全長はゆうに少女の身長を越えるだろう。
全体を見渡せば、圧倒的な存在感を漂わせているそれは…大鎌だ。
振りかぶられれば、その切っ先は何物も断ち切ってしまうだろう鋭さを覗かせている。

きっと少女を見た者は、こう呼ぶ。―――『死神』と。

それほどまでに、少女の存在はこの世界から「ういて」いたのだ。

その少女の肩で、子猫が軽く首を回した。
ひどく人間臭い仕草だが、少女は気にした様子もなく、ただ眼下の一点を見つめている。
無表情に、見失うことなく、追いかけるように。
広がるのは、遠くを行き交う人間の頭である、ただの黒点だらけだ。
まるで蟻のようだとも思う。
規則性のないように右往左往する分、性質は悪いが。

やがて追っていた黒点は、隣をすいと横切ったもう一つの点に吸い寄せられるように方向転換した。
そのままつかず離れず動く2つの点は、仲良く踊っているようにも見える。
実際には無関係な点同士なのだが、頭上高くから眺めると、そのようにしか見えない。

193 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:22
しかし、それはやはりただの客観的なものにすぎず、
意志を持った黒点は、徐々にその本性を現し始める。
遠く離れた少女の位置からでも確認できる、冷たい刃を手の中で一瞬光らせて。

「行くよ」

聞こえた声は、少女には似つかわしくないほど艶のある声だった。
それもそのはず、声の主は少女ではない。
では誰か。

喧騒の中でも、はっきり甘く耳に届いたその声は、少女を行動に移らせるには十分なほど。
反応するように、こくり、と頷くと同時に、軽くビルの手すりから一人と一匹は跳ねた。
そう、少女は、こともあろうか、この街一番の背丈を誇るビルから飛び降りたのだ。
優雅に、ひらりと。
その影を追ったのは、不気味なほどに輝いた大鎌の鮮やかな残像だった。
194 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:22
高木紗友希は、必死に通りを駆け抜けていた。

危険だ。
思った時には遅かった。
逃げきれない。
そう頭の奥で警告音が響いている。

何故こんな日に限って、こんな道を通ってしまったんだろう?
そう思ったところで遅い。
もう、その道を通ってしまっていたのだから。

ネオン街とも言えるこの街の通りは、昼間とは様相を一変させ夜は一気にほの暗い空気に包まれる。
犯罪だって多発している通りとして有名なほどで。
分かっているから遠ざけていたのだ。

だがしかし、今日に限って塾の講師が解放してくれなかった。
ゆうに受講時間が過ぎようとも。
頭の出来がいい方ではないのが仇となったのかもしれない。
回転は速いと、クラスメートには言われるが、
それがイコール勉強の出来に繋がるかと言えば、そうではないのだ。
そしてその結果に加えて、いち早く帰宅したいとはやる気持ちが、
いつもは遠ざけていた危険な近道へと導いてしまったのだ。

195 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:23
迫ってくる不穏な影に気づいた彼女、紗友希は、すぐに人通りの多い道を駆けた。
確か、スクランブル交差点も駆け抜けたはずである。

これだけの人が行き交うのだ。
年頃の女の子が男に追われているとみれば、誰かしらが声をかけてくれるだろうと。
しかし、その淡い期待は見事に裏切られる。

何故なら、このご時世、みな自分の身が可愛いのだ。
他人に干渉して被害を被るのは勘弁願いたいと思うのが自然の流れで。
その流れを無視するものは、すべからく不幸になる、それぐらい紗友希にもわかっていた。

わかっていたのにあえてそれにすがってしまったのが、彼女の最後の選択ミスだったのだろう。
駆ける間に何件かあった交番にでも飛び込めば、避けられた事態だったのかもしれないが
今となっては後の祭りだ。

「なん、で…っ!」

誰も気づかないのだろう?
振り返り、確実に迫っている男を確認して、胸が嫌な具合に鳴るのを感じた。
昼間ならば救いがあっただろうか?
しかし、あいにくの時刻に、天気。
その色濃く落ちた闇の色が、男の手に握られた物を曇らせるには絶好だったのだ。

196 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:23
いや、物だけではない。
その異端なその姿もだ。
ちらりと確認して、紗友希は身の毛がよだつのを感じた。
爛々とした目は焦点が定まらず、荒い息に唇の端からだらりと涎が落ちている。
ぼさぼさ頭に、伸び放題の無精ひげ。もう少し小綺麗な姿なら20代男性かと思えたが
年齢も、その容姿のせいで判別できない。

ただ紗友希にわかったのは一つだ。
相手は自分に殺意を抱いている、ということ。
その風貌から、まともな思考を持ち合わせていないのだろう。
もしかすると薬の類に侵されているのかもしれない。
その男のゆるりと上げられた口角に、腹の奥から苦いものが逆流してきそうで直視できなかった。

獣だ。
脳裏に浮かんだ。
逃げても、確実に狙ってくる獣だ。

「たす、け…!」

あがる息に任せて声を乗せる。
が、誰も振り返らない。
だから逃げる。
そして、限界を迎えた全身の筋肉が悲鳴をあげて、脚がもつれた。
あっ、と思った時には遅く、裏路地手前で紗友希は派手に転んだ。
持っていたカバンの口が開いて、明日の塾で提出だったプリントやメイク道具が散らばったが
それを手に取りカバンにしまうだけの動作は、もうできなかった。

197 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:24
キシキシキシ、と。
蟲の泣くような耳障りな歯ぎしりが至近距離で聞こえて、びくりと身体が震える。
そして…こみ上げてきたのは恐怖、絶望。
チェックメイト。
ここで終わりだと、頭の中で誰かが高らかに告げていた。

反転させた身体、視界。
その先に、迫っていた獣が怯えた獲物に鋭いナイフの切っ先を伸ばしてきていた。
じゃり、じゃり、と、地面を擦る足音に諦めに似た気持ちが紗友希の胸に広がる。
こんなところで。
思ったところで仕方ないことなのかもしれない。
誰にだって死は突然なのだ。

「んぐっ」

ぐっと掴まれた咽喉から、ひゅうという音を絞り出しながら獣を見つめる。
これが最後の景色とは、なんて惨いものなのだろう。
その手のナイフに切られるのか。痛いだろうな、血が出るだろうな。
走馬灯のようにクラスメートと笑いあっていた昼間の景色が脳裏を流れる。
振りかぶられたナイフに、覚悟を決めて紗友希は目を閉じた。

だがしかし。

198 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:24
「ぐぅ…あぁ…っ!」

次いでくるはずの痛みは来ず、代わりに耳に届いたのは獣の苦しげな呻き。
何事かと眉をひそめながら片方の瞼を開いて、慄いた。
紗友希の目の前で、獣は、くたびれたワイシャツの胸元をかき抱き苦しみだしていた。
よほどの痛みが伴っているのか、額から大量の汗を噴き出している。

尋常じゃない。
本当に狂っているのだ、この獣は。
けれど、好機だ。
今なら。

「ふんっ!!」

尽きたはずの力を振り絞って、獣の腹を蹴り飛ばす。
虚を突かれた獣は、カエルのひしゃげたような声を上げてゴム人形のように吹き飛んだ。
二度、三度と地面を転がって、なお痛みにもがき苦しむように呻いている。

逃げられるか?
瞬時に紗友希の頭に浮かび上がる期待。
が、その期待に反して、身体の自由がきかない。
あれだけ駆け抜けて、全身の筋肉が疲弊しきっていたのだ。
それでもあの蹴りを繰り出せたのは奇跡に近い。

199 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:24
歯噛みして、獣との距離を取ろうと後方へジリジリと全身で下がる。
今は苦しみ悶えているが、いつ襲い掛かるかわからないのだ。
そうだ、携帯があった。
今のタイミングなら、誰かに連絡ぐらいはできるかもしれない。
何故思いつかなかったのか。

ところが。
その携帯を見つけて落胆した。
今、全力で遠ざかってしまったがために、その携帯からも離れていたのだ。
きっと最初に転んだ時、カバンからプリントと一緒に転がり出てしまったのだろう。
無慈悲にも3mは離れているそこは、今獣がうずくまっているその場所だった。

手詰まりだ。
愕然とした瞬間に、視線の先で獣がまた這い上がりこちらへと歩み寄ってくるのが見えた。
ここまでか。
ふぅ、と頭上をふり仰ぐ。

そして、見つけた。

徐々に大きくなっていく黒点を。

200 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:25
刹那、なにかが、男の背後に、すとん、と降り立った。
もっと紗友希に空想力があったのなら、素晴らしい表現ができたかもしれない。
が、しかし、残念ながらその点に関して彼女は実にリアリストだった。
だから、脳裏に浮かんだのは、見たままの通りだった。

――― 『変な女の子と黒猫が落ちてきた』と。

あっけにとられていたのは一瞬だった。
再び獣が迫ってきていた。
焦点を合わせた時には、もう目前に浅黒い腕が伸ばされていた。

「がっ…!」

ろくな防御もできずに再び咽喉元を掴まれる。
頭に一気に込み上げてくる熱に、喉から胸にかけて電流のように走る痛みに、
紗友希は今度こそ声帯を傷つけたと、遠い意識で感じた。
こんなことならカラオケでもっと歌いまくっておくんだった、とつまらない考えさえ浮かんだくらいだ。

201 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:25
霞む視界に、獣の背後に立つ影に手を伸ばした。
藁にも縋る思いで。
だがしかし。
その視線に気づいたはずだろう少女は、微動だにしなかった。
まるでその視線の意味がわからないとでもいうように、
まっすぐこちらを見据えたまま表情を変えもしない。
その無表情が、なぜか目の前の獣より恐ろしく見えたといったらおかしいだろうか?

「ぁ…っ…ぁ…!」

意識が遠のく。
視界が点滅する。
反射で目の奥が熱くなり、涙が溢れだす。
もうもだめだ、と意識を手放そうとしたところで、突然世界が一変した。

いや、正確には獣が紗友希の身体を突き飛ばしたのだ。
そして再び、苦しげに胸元を押さえてその場にうずくまる。
なんなのだ、こいつは…。
自分は人形ではないのだ、なのに、そう何度も掴んで離して、なにをする。
忌々しげに顔を上げ、叩きつけられた身体よりも、痛む喉を押さえながら獣に視線を向けて、
見なければよかったと後悔した。
向けた視線の先の地面一体に、獣から吐き出された内容物が「散らかって」いたのだ。
催せば早く、目を背けて何度もせき込んだ。

202 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:26
じり、と。
最後の力を振り絞るように獣から遠ざかって、涙混じりに振り返る。
その先で――― 信じられない光景を見た。

自分の助けの声に微動だにしなかった少女が、一歩、また一歩とこちらへ近づいていたのだ。
その目は相変わらず何も映していないようだったが、どこか使命感のようなものが感じ取れた気がした。
そしてそれは間違いではなかった。

キィンという音が聞こえたのは、咽喉を圧迫されたことによるただの耳鳴りかと疑ったが、そうではない。
紗友希は確かに見た。
少女の右手に握られた…大鎌が、一度ぐぅんと円を描くように振り回されて空を凪いだ。
それによって届いた音なのだ。
身の丈よりも大きな大鎌、なのにそれを片手で回した少女。
それだけでも不可思議な光景なのに、目を凝らしその肩に乗った黒猫が不気味さを際立たせた。
次の瞬間、その不気味さは色を濃くする。

「とも」
「うん、来るよ、かりんちゃん」

なんの冗談だと紗友希は何度か瞬きをして目を見張った。
でも冗談でもなんでもない、今、間違いなく黒猫が言葉を発したのだ。
少女の呼びかけに答えるように。
その可愛らしい姿には似つかわしくない、甘く深い…それでもはっきりした口調で。
203 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:26
でも、気を取られたのは一瞬だった。
それ以上の出来事が、今目の前で始まっていたのだから。

「なに…これ…」

やはり潰してしまった声帯からは、かすれた声しか出ない。
けれど今はそれがありがたかった。
変に音を出して…「そいつ」に飲み込まれてしまいたくなかったから。

広がったのは炎。
それも紫色の業火。
獣の最期の一鳴きとも言える咆哮と共に、その背から一気に立ち込めたのだ。
事切れたのか、獣はぴくりとも動かない。
それに反比例して、炎を勢いを増していく。
なにかを形作っているのか…もやもやと脹らんでは固まり、また膨らむ。
やがて、その姿を確認できた時、紗友希は驚愕した。

それは――― 人だった。

輪郭はぼやけているし、目鼻なども分からない。
けれど、頭・身体・手足がちゃんとそこにあって、人間以外の何物でもなかった。

204 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:27
自分は、ついに恐怖からおかしくなってしまったのだろうか?
一瞬そんなことが頭に浮かんだが、そうではないと紗友希はかぶりふる。
意識はしっかりしているし、なにより今も残る頭や咽喉の痛みがこれを現実だと伝えている。
ならばいったいこれは、なんなのだ?
何に自分は巻き込まれてしまっているのだ?

その答えは、思いのほかすぐに出されることとなった。

炎の向こう側にいた少女が、なんの躊躇いもなくこちらへ飛びすさぶと大鎌を振りかぶったのだ。
その切っ先は鋭く炎を頭部から引き裂き一閃し――― 再びキィンと一度鋭い音を響かせた。
刹那、紫の炎は憎しみに駆られたように周囲へ大きく広がり、絶叫を撒き散らし、掻き消えた。
獰猛な魂、それが紗友希の人型の炎への印象だった。
それはのちに当たらずとも遠からずの主観だと知るわけだが、この時それを知る由もない。

205 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:27
「あなたは…一体…?」

尻餅をついて、見苦しい姿なのはわかっていたが紗友希は尋ねずにはいられなかった。
この不可思議な現象の説明が欲しいのだ。
でなければ、頭の整理も、心の平穏も取り戻せない。

それに対しての少女はただ紗友希を一瞥しただけの、最初の印象そのままだった。
無表情。
作り物めいた陶器のような肌。
それに見合わない赤と黒の衣に…大鎌。
可憐さはあるが、いろんなものが欠けている人形のようだ。
そんな少女から、望む回答が得られる気がしなかった。

が。
声は意外な方向から向けられた。

「次、行くよ」

少女の肩にいる黒猫だ。
今度こそ紗友希の聞き違いじゃない。
やはり、その猫が喋っていたのだ。
その口調と頷いた姿から、少女を操っているのはその黒猫に思えた。

206 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:27
「ね、ねぇ!」

思わず張り上げた声。
あ、と思ったが、咄嗟のものだったのだから仕方ない。
それに対して、面倒くさそうに振り返ったのは、予想した通りというか、黒猫だった。
紗友希の全身を、ふむ、と一度見渡して、くすりと笑みをこぼしてみせた。
その笑みのなんと邪気をはらんだことか。
思わずぞくりと背筋にうすら寒いものが走ったぐらいだ。

「なんだっけ? この世界では『死神』? そういうたぐいのものなの、うちら」
「しに、がみ…?」

黒猫が振り返ったことで、少女も紗友希に視線を向けた。
やはり何も映っていないその瞳に、おののく。
死神だという言葉の魔力のせいかもしれないが、少女の掴めない雰囲気に圧倒されていたのだ。

207 :T.高木紗友希 :2014/03/26(水) 16:28
「ま、そういうことで今日の事は忘れなさい。じゃ」
「えっ、ちょっ、待っ」

言葉が終わらないうちに、黒猫の身体は突然巻き付くようにたちこめた黒い霧に消えていった。
残された少女も、紗友希への関心を失ったように、黒猫と同じくふわりと立ち込める黒い霧に
抱かれるようにその存在を消していった。

なんなのだ…今日という日は。
襲われて、死にかけて、死神に出逢っただって?
そんなことを誰に言えば信じてもらえるのだ?
忘れる?きっとそれが一番いいのかもしれない。

だが、この生々しい感触を腹の底に沈めるなんて、紗友希には無理そうだった。
そう、非科学研究会と新聞部の兼任部長として高校生活を送っている紗友希には。

そして、部員による――とはいえ3人だけしか在籍していないのだが――
夜の闇に溶け込んで消えた死神少女と黒猫を追いかける日々が、この出逢いを境に始まった。

208 :エシクスト :2014/03/26(水) 16:28
今回更新はここまでです。
209 :名無飼育さん :2014/03/26(水) 23:54
引き込まれました
続きを楽しみにしてます
210 :名無飼育さん :2014/03/27(木) 08:08
新作ですか!楽しみです♪
雰囲気一変ですね、続き待ってます。
211 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:32
再会に必要なものは何か。
わりと真剣に考えている自分がいることに、部室でひとり、紗友希は驚く。

あれほどまでに危険な目に遭ったのだ。
遠ざけて当然なのに、それ以上に勝るほどの感情が避けることを許してくれない。
いや、持って生まれたその感情…好奇心、探求心の強さのせいとでもいうべきなのか。

昔から、紗友希にはそういう節があるのだ。
なぜ空が青いのかに始まり、宇宙の端はどうなっているのかやら、
果てには宇宙人はいるのかまで納得する回答が欲しくて、それに費やす労力は惜しまない。
まさに、謎を謎のままで終わらせたくない。
その性分が、非科学研究会と新聞部の部長兼任という形で表れているのはいうまでもないだろう。

212 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:33
「うーん」

唸り声ひとつあげて、だらしなく前かがみに席に着いたままくるりと2Bの鉛筆を指先で回す。
受け取りそこねた鉛筆は、カランと木のいい音を立てて机の上を転がった。
いや、机の上に広げたA2の原稿用紙の上といった方が正しいか。
鉛筆の行方を目で追いかけた紗友希は、盛大な溜息と共にその紙の上に顎を乗せる。

あれから自分なりに覚えている範囲で、原稿に出来事をまとめ書いてみたのだ。
しかし、思い出そうとすればするほど、緩やかに恐怖で固められた記憶を流そうとする意識が
細部を霞がからせてどうにもペンが進まない。今では、恐ろしく歪んでいた男の顔と、
少女の能面の顔、それからありふれた黒猫の顔しか思い出せないくらいだ。
もっと何かあったはずだと、首をひねって奮起しても同じことで、ついには余白だらけの原稿に
溜息をついた。

「あー、くやしー」

恐怖感は思い出せても、肝心なところが全部抜けていては記事どころではない。
あきらめるべきなのか?
深追いするなということなのか?
では、この胸のもやもやはどうやって解消してやればいいのだ。
もんもんとする紗友希だが、救いは意外なところから現れた。

213 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:33
「こんにちはーっ!」
「失礼しまーす」

がったん、と扉の大きな音を立てて室内に入ってくる2つの影。
確認しなくても声だけで紗友希にはわかる。
非科学研究会兼新聞部という特異な活動に邪険にすることもなく、
2つ返事で賛同し、行動を共にしてくれている大切な部員たちだ。

「おっそかったねぇー」
「これでも急いで来たんだよぉ?」

むぅっと膨れる紗友希を、どぅどぅと鎮める仕草をしながら困った笑顔を向けるその人は
宮崎由加、高校三年生で紗友希の1つ上だ。
本当に困っているわけではない。そういう顔立ちなのだが、どうも由加自身のその
おっとりとした性格と、大病院の令嬢という家柄からか、誤解されることが多いようだ。
じつの所、根はしっかりとしているし、こうと決めたことは頑としてを貫き通すほどの
頑固さを持ち合わせていて、紗友希でも手を焼くことがあったりするのだが、
それは由加の良い所でもあるので捨て置くのが、いい関係を保つ秘訣なのだろう。

214 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:33
「それに途中でさ、うえむーが屋上に猫がいるーなんて騒いじゃって、寄り道を
させないように来るだけで大変だったんだから」
「もー、授業終わったらまっすぐ来なさいっていつも言ってるじゃーん」
「だってーほんとにいたんだよー?」
「はいはい」

健康を広げた机に両手をついて、ぴょんぴょん飛び跳ねる落ち着かない姿でいるのが
植村あかり、中学三年生、元気印の15歳だ。
その容姿は15歳にしては整っていて、数年後の美しさの片鱗を覗かせているほどで。
それで性格が伴えば、人を寄せ付けない雰囲気さえ感じたのだろうが、
意外にもそうではなく、名前のとおり明るく天真爛漫、くわえて天然。
それに輪をかけての甘え性なのが、周囲に冷たい印象を与えることもなく
愛されている部分なのかもしれない。
このなんともアンパランスな2名が、紗友希にとって大切な部員だ。

215 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:34
「あれ?うえむー、なんかまた身長伸びた?」
「んー?わかんないー」
「うわぁ…なんか紗友希どんどん差が出てくるよ」
「私も、もう抜かれそうだもんねぇ」
「高等部入ったら、もっと伸びそうだし」
「かもー。きー可愛いよー」
「こら、頭を撫でるなぁ!先輩を敬えー」
「えー?」

中高一貫校でもある紗友希たちの学校は、都内でもちょっとした名の通る名門校で
自由度の高いところでもある。
規則たる規則はもちろんあるが、自主性を重んじる校風だけに、それはあまり
生徒には形を成さないものでもあるかもしれないが。
事実、あかりが先輩である二人にタメ口をきいている時点で、そういうことである。

216 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:34
「それで?きーは何してたん?」

関西弁交じりにあかりが、机に広がった原稿にずずいと顔を近づけてくる。
そういえば大阪の地に住んでいたと以前言っていたか、とふいに思い出しながら
紗友希は、うーん、と唇を突き出す格好で再び顎だけを机に乗せて唸った。
そんな2人の後ろから、ひょいっと由加が顔を覗かせて、文面に小首を傾げたみたいだった。

「都内に死神出現、ご注意を!…って、なにこれ?」
「いや、そのまんまなんだけど」
「話がみえへんー」
「あぁ、もう」

ここまできたら仕方ない。
どうせ部の活動だ。
2人にもちゃんと説明しなければならないのだから。
けれど、どこをどうやって話せばいいのだろうか?
あの不思議な感覚や、消えかけている記憶ではちゃんと話せる気がしない。
それに、信じてもらえるかもわからない。猫が喋っただの、人型の炎が切られただの。
渋る紗友希に、それでもあかりと由加は。

217 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:34
「こういうん、写真とかあったら一発やねんけどなぁ」
「そうだよねぇー」

生真面目にも記事を読んだのか、真剣そのものの表情でそんな言葉を告げる。
のほほんと、由加を巻き込んで。
あぁ、もう、まったくこの二人ときたら。
思わず頬が緩むのを紗友希は抑えられない。
こうでなくっちゃ。
いいや、こういう二人だからこそ、部に誘ったのだ。

「でもさ、もう一度同じ場所に行っても逢えるかわからないじゃん?」

というか、もう一度あの場所に行くには、かなりの勇気がいる。
無事だったのが不思議なぐらいの出来事だったし…、正直思い返すだけで足がすくむ。
もちろん二人には気取らせたりしないけど、本心は…あの場所には戻りたくないのだ。

218 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:35
「えー?面白そー、あかり、行ってみたい!」
「こぉら」

いつの間に用意していたんだろう?
またその場でぴょんぴょん飛び跳ねだしたあかりの頭を、由加が軽く紙を筒状に
丸めたもので、ぽかりと一叩きした。
当然、ぶぅっと頬を膨らませてあかりは由加を睨みつけるけど、この辺は年の功。
まったく気にした様子もなく、うーん、と腕組みをして何かを考え込んでいる。

こういう時に、やはり由加は大人だと思う。
わっと騒ぐときは、にこにことして雰囲気を楽しんでいるが、締めるところは締め。
紗友希でも手を持て余すあかりを、なんなく諌めてくれたりする姿は頼もしいの一言だ。

「少し整理してみようか」
「え? あ、うん」

決して強くない言葉だったが、逆らえない何かが由加の声色にはあった。
真実を求めたいなら、ちゃんと手順を踏もう。
そんな意志が透けて見える。
だから、紗友希も大きく頷いて椅子に座り直した。
なんにもわからないみたいにきょとんとしているのは、あかりだけでそこには苦笑。

219 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:35
「どういう状況で逢ったの?」
「んーと…」

記憶をたどるのは、時間が経てばたつほど難しい。
ちょっとした糸口さえ、するりと手の先から逃げていくみたいで。
それでも、大事なことだ。
ゆっくり、ゆっくりでいいから…思い出せ…。
昨日は…そう…塾の日だった。
それがすべての始まり。

「塾帰り…9時頃だったかなぁ、早く帰りたくて、いつもは通らないちょっと危ない道を通って、
なんか気づいたら変な男に尾けられて…逃げてたら裏路地で襲いかかられて」
「この死神に助けられたの?」
「ううん、そんなんじゃなかったなぁ」

あれを助けたとは言い難い。
そう、あれは助けられたというよりも…

「なんていうか、人を切るのを仕事にしているみたいだった。
紗友希の事、まったく見てなかったもん」
「仕事…」

うーん、と顎に手を当てて唸る由加は、ますます顔を困ったようにさせて。
今度は本当に困っているのだと理解する。
これだけ不可思議な事だ、体験した当事者がすべてを理解できてないのに、
紗友希のなんとも要領を得ない説明で理解しろという方が難しい。

220 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:36
「ねーねー、死神の仕事ってなにー?」

なんとか話に参加したいのか、あかりが由加の背後から腰に手を回して
上目づかいに加わってくる。
こういうところが甘え性だな、と紗友希は思う。でも憎めない。
由加もそれは一緒で、ぽんぽんと頭を軽く撫でて。

「本の話でいうなら、まぁ、魂を奪う事?」
「んー、人を呪う事とかも?」

根本的に、死神についての知識が少なすぎる。
まぁ、大体紗友希たちの知識の中では、死神は骸骨で黒衣を纏って、大鎌に
カラスを携えている…ぐらいなもので。
たしかに骸骨ではないにしても、赤と黒の衣に、カラスの代わりに黒猫を、
そして一番のポイントである大鎌は持っていたが。
それでも謎だらけだ。

「ねー、それっぽい所、かたっぱしから行けばいいんじゃないの?」
「そんな無茶な…あ、でも、それっぽい所かぁ」

あかりの言葉を一度否定して、それでも思い直す。
確かに一理ある。
よくよく考えてみたら、あの通りだって夜ともなれば昼間と違い、不気味な
空気に包まれていたし、似た環境で同じことが起これば…可能性はなくない。

221 :T.高木紗友希 :2014/03/29(土) 06:36
「死の近い場所かぁ…」
「由加の病院とか!」
「そりゃあ、ある意味死は近いかもしれないけど」

とそこまで言って、紗友希はわたわたと口元を抑える。
病院という場所の意味と由加の手前、不謹慎だと気づいたからだ。
けれど、由加は気にした様子もなく「いいんだよ」と目だけで答えた。

「こういうこと本当はよくないんだけど、病院、来てみる?」
「え?いいの?」
「無駄足になるかもだけど、確かに病院ってそういう噂堪えないから…、
看護師さんとかに色々聞いてみてもいいかも」
「行くーっ!あかり、行くーっ!」

あかりはただ由加と一緒にいたいだけじゃないか、という言葉を飲み込んで
溜息で由加を見上げる。
その視線の意味に気づいた由加も、へへっと笑みを漏らして応えるだけだった。

222 :エシクスト :2014/03/29(土) 06:36
今回更新はここまでです。

>>209 名無飼育さん
ありがとうございます。続きにもお付き合い下されば幸いです。

>>210 名無飼育さん
ありがとうございます。一気に雰囲気変わりますがお願いします。

223 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:10
どちらかというと、病院という場所は苦手だ。
どうしても注射やら、苦い薬やらというマイナスのイメージが、幼い頃の
記憶に刷り込まれていたりするからなのだろうが、大人へと足かけしている
今でもそれは拭えない。

「今日は木曜日だから、少し人が多いかな」
「そういうもの?」
「うん、木曜日って、ここ以外の医院とかはお休みが多いから」
「あー、月曜日の美容院みたいな?」
「そんな感じかも」

そういうものなのか、と紗友希は頷き、鼻をつく消毒液の匂いのすることもなく、
清潔感溢れるロビーを歩く。
前を歩く由加は、腰に腕を巻きつけているあかりを気にする様子もなく、
慣れたように、患者や職員に挨拶を交わして一番奥の階段へと歩を進めていった。
どうやら、関係者用のものらしい。

「今更だけどさぁ、やっぱ病院ってマズかったかなぁ」
「えー?」

ここにきて怖気づいたというわけではないが、なんとなく紗友希はバツの悪さから
小さく呟いた。どうしても特異な場所だけに、例えば外科病棟と内科病棟の空気の
違いが敏感に感じ取れて、なんとなく勢いだけで来てしまったことを後悔したのだ。

224 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:11
「きー、やだ?」

ぴょこんと由加の後ろから、顔を覗かせるように首を回してきたのはあかりだ。
整った顔立ちゆえに表情が少し変わっただけでもわかりやすく、
今はそう、どこか心配そうに紗友希を見つめてきている。
もしかしたら、ここへ来ることを勧めて、少しばかりの責任を感じているのかもしれない。
そうではないと、軽く笑みを浮かべて首を振ったが、気持ちを隠せた自信はない。

「そんなに重く受け止めなくていいんだよ?ちょっとした社会見学だと思って、
患者さんへのボランティアに来たんだーって思えばいいんじゃないかな?」
「由加ちゃん…」

ね?とあかりを追いかけて振り返った由加は、両手をぽんぽん合わせるようにして
笑顔を向けてきた。くせなのだろうか?よく由加は身振り手振りを合わせて感情を
表してくる。それがちょっとコミカルにも見えて、場が和むのだが、今はそれが一番
効果的だった。
少しばかり後ろ暗い気持ちがあったのだが、それがすっと流れていく感覚がしたのだから。
ありがとう、といえば、気にするなとばかりに、またにこりと笑い歩を進める。

だがしかし、と紗友希はこっそりと溜息をついた。
あかりが提案してくれた病院という場所。
確かに、死と向き合う場所では大いにあるのだが、都内だけでもどれだけの
病院があるのか。そんな中で、この由加の病院に少女が現れるという保証は
どこにもない。
行動せねば何も起こらないとは言うが…尚早すぎただろうか。

うな垂れるように足元に視線を落とし、それでも奮い立たせるように首を振り
顔を上げ前を行く二人を見た瞬間。
225 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:12
――戦慄が走った。

あの子だ―――!!

一瞬目を疑った。
けれど、鮮明過ぎる記憶が間違いないと告げている。

可憐なはずなのに、能面のように表情のなくした幼い顔。
細い手足に、色の白さが際立つ肌。
その肩に、黒い仔猫。
ただ一点、昨夜の記憶と違うのは、その身に纏っていたのが赤と黒の衣ではなく
ありふれたセーラー服を着ていたということだ。
けれど、間違いない。見間違えるはずなどない。
確かに「あの」少女だ。

「きー?」

呼ばれて、紗友希は我に返る。
息をするのも忘れてしまっていたのか、動悸が嫌に早く耳につく。
それほどまでに、衝撃だったのだ。

が。しかし。

「あ、あれ…っ!?」

一瞬。
本当に一瞬だった。
呼ばれた声に、あかりと由加へ視線を向けて、そして戻した先に…少女はいなかった。
いやだが、確かに今そこに…、と混乱してしまう。
226 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:12
「どーしたのー?」
「顔真っ青だよ…?」
「い、いたの!! 今!そこの廊下を横切るみたいに!死神の女の子が!」
「え?」

それだけで通じたのか、由加が軽く駆け出して廊下の先を確認する。
しかし、先ほど紗友希が確認した後で、答えは見えていた。
あえて口にせず、首を振るだけにしたのは由加の優しさなのだろう。

見間違いだろうか?
いや、そんなことはない。
あれだけ鮮明に目に焼き付けた姿だ。一度見ただけでも強烈な印象。
それをたった半日そこらで忘れるほど、紗友希は「抜けて」いない。
もちろん、由加やあかりだってそれは知っている。

「間違い、ないのかな。ここで、逢えるかな…」

独り言のように呟いた由加は、何かを思案するように真剣な眼差しを床にさまよわせる。
見守る紗友希に、あかりは一人きょとんとしたように背後から抱き着いた。

「本当はこういうのよくないんだけど…カルテ、拝借する?」
「え…っ」
「もしかしたら、その女の子の逢いに来た相手がわかるかもだし」
「でも…」

思わず紗友希の咽喉から掠れた声が出る。
信じられずに目を瞬かせたほどだ。
カルテを…、だなんて、そんなこと世間一般で許されるはずがない。
誰かに知られることとなれば、手が後ろに回ることだって容易に想像できる。
それなのに今、由加がさらっと言ってのけたのだから。
227 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:13
紗友希は戸惑う。
確かに真実を追いかけたい。
しかし、ここまでしてよいものか、と。
おそらくここが別れ道だ。
それでも追いかけたいと思うなら。

「きー…?」

不安げなあかりが、肩から顔を覗き込んでくる。
幾分背の高いあかりだからこそできるのだが、圧し掛かってくる重みが、
心の負担にも感じられて、紗友希は息苦しさを覚えた。

「紗友希ちゃん? …一度学校に戻ろうか?」

急ぎ過ぎたか、と由加は笑顔を取り繕って歩み寄ってくる。
プレッシャーを与えすぎたことに少なからず責任を感じているのも事実で。
だがしかし。
紗友希は、静かに首を振った。

「ううん、行こう。調べさせて」
「いいの?」
「うん、ここまで来たんだもん。あの子は確かにここにいる。捕まえたい」

息をまく紗友希は、精一杯の強がりもこめて由加を見つめた。
不安、怯え、心配。色んな感情が渦まいている。
それでも、勝る好奇心が最後には胸の中で広がったのだ。

その目の意志の強さに、由加は今までで一番の優しさを込めた笑顔で応えた。

228 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:13


*****


229 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:14
都内の緊急指定病院として建ち、由加の祖父が院長を務めているここは、
外科・内科はもちろんのこと、婦人科・産婦人科も完備していることもあって、
木曜日であってもひっきりなしに患者が押し寄せてくる。
何度か耳に喧しいほどの救急車のサイレンが届いて、その度に反射的に
窓を覗くあかりに苦笑したぐらいだ。

その喧騒を見下ろせる場所に位置した、資料保管室で、紗友希たちは
ファイルの山と睨めっこをしていた。それだけの病院なのだ、たとえば
ここ一ヶ月の内科のカルテ一つ取っても膨大な量で、眩暈さえ覚える。

「死神」が目星をつけそうなのは…と、大まかに区分して、初診の外科・
整形患者を避け、内科・救命救急に絞ってはみたものの、それでも溜息が
出るほどの量なのだ。

「ねー、見つかったー?」

一番最初に飽きて、投げ出したあかりが呑気に紗友希に尋ねてくる。
まったくの戦力外であるが、憎めないのは人徳か。

「無理…ちょっと休憩しよ?」
「うん…」

大きく伸びをして、紗友希は隣に座っていた由加へと声をかけた。
けれど、由加の反応は鈍い。
いや、鈍いというよりは集中しきっていて、こちらの声が届いてないように見えた。
ふっと、由加の向こう側のテーブルに積み上げられたファイルの山を見てたじろぐ。

230 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:14
自分でさえもまだ1山 目を通しただけなのに、すでに由加はその10倍もの資料に
目を通していたのだ。環境から、こういったものに触れる機会が多いとしても、
こんなにも進めるものなのだろうか。

「それ、ぜんぶ読んだの?」
「うん」
「うっそ…。てか、どうやったらそうサクサクできるのさ」

少々げんなりした風を装って訊いてみた。
そこで、ほっ、と顔を上げた由加は、ぱちぱちと瞬きを何度かして紗友希に振り返る。
あぁ、そうか、と何か納得したように、うんうんと自分の中で頷いて。

「死神が現れたってことは、死の近い人ってことだよね?」
「まぁ、そうなるかな」
「しかも、簡単に成仏できなさそうな人」
「ま、まぁ…」
「はっきり言えば、怨霊にでもなりかねないぐらいな人」
「ま…」

的確ながら、淡々ととんでもないことを言う由加に、紗友希はうすら寒いものを感じた。
可愛らしい容姿だからこそ、余計にそれを際立たせている気もする。

「だったら、普通に外来にくる人って省いていいと思う。紗友希ちゃんが見た死神さんの
歩いていた場所は救命病棟につながる廊下だったし、救命病棟の患者さんから探すのが
一番いいかなって。あとは…、ちょっと困った患者さんにはスタッフさんが簡単な目印を
カルテに残してるの。それをピックアップすれば…」

231 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:14
才あるものは爪を隠す、とはよく言ったものだが、それは相手が才あるものか否かを
判断できる者だけが言うセリフであって、そうでないものは、爪が見えてから初めて
その相手が才あるものなのだと気づくのだろう。
この場合、「この手のこと」に関して、由加はまさにそれであった。
紗友希は、少し感動さえもしたぐらいだ。

「この人はどうかなぁ」

たくさんのカルテの山とは別に置かれていた1つのファイルを、由加はテーブルに広げた。
どのページかわかるように、ドッグイヤーされているのに紗友希は少しばかり苦笑したが。
それでも差し出されたものへ目を通して、息を飲む。
なになにーと背中に張りついてきたあかりに気づかぬほどに。

「一昨日、救急搬送されてきた自殺未遂の男性51歳。家族で練炭による無理心中をして
自分だけ助かって、自暴自棄になったのか傷害を起こしたの。でも、相手が少し武道の
心得があったみたいで返り討ちにあって、今意識不明の重体。今晩がヤマなんだって」

最後は内容から少し憚られたのか小声で由加は告げた。

「どう、かな?」
「う、うん…」

知らず知らずのうちに、渇いていた咽喉に変なくぐもった声が出てしまって紗友希は
慌てて生唾を飲み込んだ。
その背のあかりは、いまいち状況がわかっていないようで、首ふり人形のように
由加と紗友希の間に視線を飛ばしている。

232 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:15
決定権は、紗友希にあるようだった。
由加もそのつもりだったし、だからこその最後の問いかけなのだ。

紗友希の親族は全員存命で、人の生死など、昨夜にしか出くわしたことがない。
ましてや、突然の出来事だったのだ。
それを、冷静に見つめて、事に及ぶものを捉えることができるだろうか。
あの美しくも冷酷さを含んだ少女を、捉えられるだろうか。

問いかけたところで、どうしようもない。
なにを今更。
ここまで来てしまったのだ。
ならば、信念に従って、突き進むだけである。

「その患者さん、見れる?」

緊張を含んだ声に、由加はふんわりとした笑顔で頷いた。
その柔らかさに、紗友希は少しだけ自分の胸につかえていたものが
落ちていった気がした。

233 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:15


*****


234 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:15
少しばかり、紗友希は後悔していた。
カルテを探している間に、時計はゆうに夕刻をすぎ、夜へとのびていて、
中学生であるあかりを長く付き合わせてしまったと、疲労が見える姿を確かめて
しまったから。
その季節から、夜闇が広がり始めれば早く、きっと時間の感覚なんてすぐ狂う。
こんな昼も夜も分からぬ白い空間なのだから。

廊下を進む途中で、あかりに帰宅を促してみたのだが、笑顔で首を振ってきた。
そうだろうな、とは思ったもののこのままでいいわけもなく、電子機器を使える場所で
ひとまず自宅へ連絡させたが、あいにく留守電だったようで、また連絡するという
一言でここまで来てしまった。

腕時計は、20時を指さんとしている。
今日のうちに帰れるだろうか?
ふっとよぎった声は、頭をふってかき消した。
自分が決めたのだから、と。

招かれざる来訪者に、白い影達、もといスタッフは露骨に顔を歪めた。
だがしかし、一番後ろを歩く由加を認めた途端に、その成りを潜め軽く会釈をし
次々と道を開けていく。

235 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:16
「いつもこーなん?」

気づいているのか、そうでないのか、あかりはただ一言由加に尋ねる。
少しばかりボリュームの大きな声に紗友希は、しーっと唇に人差し指を立ててみせたが
あかりには、なんのことだかわからなかったようで、もう一度由加に振り返っていた。
苦笑ひとつで応えた由加は、ここでは静かにね、とだけ告げて慣れた様子で
近くのドクターに声をかけた。

由加と顔見知りなのかそれなりに仲の良いドクターは、一度だけ紗友希とあかりに
訝しい表情をしてみせたが、どうぞ、と快く隔離されていた部屋の手前ガラスまで
導いてくれた。
初老ともいえる年齢のそのドクターは、ここの責任者でもあり、由加の祖父に
なにかしらの恩義を感じているらしく、大抵の由加の願いは聞き届けてくれるのだと
後で知ることになったが、この時は道を開いてくれる気前良いドクターという認識
しか紗友希にはなかった。

「騒がないようにね」
「ありがとうございます」
「ちょっとした飲み物や食べ物は、そこの冷蔵庫にあるから自由にしていいよ」
「なにからなにまで、すみません」
「院長にもよろしく」
「はい、それはもう」

やれやれ、という表情で部屋をあとにするドクターに、満面の笑顔で応えた由加は、
ふぅ、と一度息を吐いて、紗友希たちに視線の先を示す。

236 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:16
「ここからなら何か起こっても見えるよ」

確かに、由加の言う通りここならば、あの患者の一挙一動が見えた。

大きなガラス張りの部屋で、その向こう側に隔離されたあの患者のみが見える。
カルテで確かめた経緯から、きっとこの個室に隔離されて24時間体制で看護
されているのだろうことは容易に分かった。

ご丁寧に、通された部屋にはテーブルにソファー、ちょっとした寝具まであって
休憩室代わりにもなっているのかもしれない。
患者の前で寝るとは悪趣味この上ないが、いつだって病院という場所は
「空き」がないもので、こういうのも仕方ないのかもしれないと紗友希は納得する。

それに、逆に三人には好都合なのだ。
こうしてスタッフの目を気にすることもなく、「その時」を待つことができるのだから。

「あのひと?」
「うん」

あかりが興味津々にガラスから患者を覗き見る。
並んで紗友希も立って確認した。

237 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:16
51歳という年齢よりも老けて見えるのは、ここに来た経緯から気のせいではないだろう。
その男性の身体には様々なチューブが取り付けられており、口元には酸素マスク、
ピッピッ、と規則正しい電子音はチューブの先にあった電子機器から聞こえている。
まさに…少女が現れるなら、と不謹慎ながら紗友希は思った。

次の瞬間、ぞわり、と何か冷たいものが背中を走った。
水をひたりと肌に落としたような、そんな。
同時に、紗友希は大きく目を見開く。

目の前の意識がないはずの患者が苦しみだしたのだ。
途端にけたたましい電子音が部屋に鳴り響く。
だが、それよりも。

「き、きた…!」

紗友希の視線の先、患者の足元で揺らめいた空間が、黒い霧を伴って
歪みを生み出していく。禍々しい、という表現が正しいか。
そこから現れた影は…まるでずっとそこにいたかのように微動だにせず患者を
見つめている。
その肩に、あの黒猫を乗せて。

「だ、だれ…!?」
「あの猫…」

由加とあかりは、戸惑いの声をだすしかない。

238 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:17
「この子だよっ!死神!!」

けれど紗友希は、はじかれたようにカバンからカメラを取り出すと部屋を飛び出した。
こんな場所からの撮影はできない。
もっと間近で、誰も文句を言わせない決定的なものを撮ってやる。
もはや執念とでも言うべきものが、紗友希をつき動かしていた。

信じられないことに、個室で起こっている事にスタッフは誰一人として気づいて
いないようだった。あれだけの電子音が鳴り響いているのに、だ。
これも死神の仕業なのか、と歯噛みする。
けれど逆に好都合だ。
邪魔は来ない。

「ちょっと、あなた!何やってるの!」

さすがに個室の手前で看護師に引き止められた。
ここまできて、と渋い顔をしてしまう。
が。

「いいんです、彼女、知り合いです」

後ろを駆けて追いかけてきた由加が、看護師に短くそう告げた。
みればあかりも、髪を乱しながら続いている。
えぇ?と、困惑気味な看護師だったが、由加のことを知らないわけでもなく、
私が責任もちます、という決め手とも言える由加の言葉に、場所を譲った。

239 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:18
そして飛び込んだ個室で…、がちんと三人の足は止まった。

なに…? なにが起こってる…?
いいや、紗友希は知っている。
これは、昨夜の光景と一緒だ。

ピー、と耳をつんざく電子音。
動かなくなった患者。
その胸元のあたりから、ずるりと伸び上る…炎。

それは紗友希が見た、あの紫色に立ち込める人型の炎だ。
意志を持ったように、それは大きく膨らんでは揺らめいて。
その姿を見据えるのは、あの日と同じ妙な出で立ちの少女と猫。

広がった光景に、あかりが、わっ、と小さな声を上げて口元を押さえた。
そのまま由加の胸元にしがみついたのを見て、少しだけこの場にあかりを
連れてきたのを後悔した。

あまりにも現実離れしたものなのだ。
始めて見るその衝撃は、紗友希は身をもって知ってる。
敏感に状況を察した由加は、さっと視界を遮るようにあかり胸元に引き寄せて、
紗友希の後ろへと下がる。
それに感謝しつつ、一歩前にでた。

240 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:18
「見つけたよ!死神!」

こちらを向け。そうすれば、決定的な写真が撮れる。
飲まれてしまいそうな雰囲気に、足が竦むのを奮い立たせて紗友希は
カメラを向ける。
けれど…、少女は振り向かない。
まるで声が届いていないかのように、いや、そこに紗友希たちが存在して
いないかのように、背を向けたまま、ただ悠然と炎を見つめている。

反応したのは…昨夜のように、肩に乗った黒猫だった。
ちらりと紗友希と二人を一瞥して…、呆れたように軽く息をこぼし…、
そして少女の視線を追うように炎へと向き直る。

「ちょっ、ここまできて、それはないでしょ…!」

思わず口から出た言葉と一緒に、ふつふつと怒りがこみあげてくる。
紗友希の都合なんて少女たちには関係ないのだが、ここまでの苦労を
無駄になんてできるわけもなく、少々むきになってしまっていたのだ。

恐怖心なんかにやられてる場合ではない。
ぐっと一度拳を握って、それから紗友希はカメラのファインダーをのぞく。
ピントはもちろん背を向けている少女に。
記憶が確かならば、この後彼女は。ほら。

241 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:18
右手を真横に突き出すようにすれば、それに反応するように黒い霧が腕に纏わりつく。
そのまま、何かを招くようにくるりと指先を回して…それは現れた。
少女の身体に見合わない、いびつで鋭い威圧感を含んだ、大鎌。

それを、ぐるんと大きく一度旋回させて身構えると少女は炎をもう一度見上げた。
じりじりと後退する炎を、逃がさないとばかりにまっすぐ見つめるその瞳。
でも、やっぱりそこには何も感情がないみたいに見て取れて、紗友希は無意識に
生唾を飲み込んでしまう。

でもチャンスだ。
今なら、ずっと撮り続ければ決定的な瞬間も撮れる。
そう思えば早かった。

カシャン、カシャン、と。
何度も小気味いい音を立てて紗友希は写真を撮り続ける。
同時に部屋に何度もフラッシュがたかれて、眩い光があたりを照らす。

と、そこで不思議なことが起こった。
まったく動じなかったはずの少女が、ぴたり、と動きを止めたのだ。
まるで、時が止まり身体が固まったように、瞬きもせず。
振り上げんとしていた大鎌さえ、動かない。

なんだ…?どうしたのだ突然。
もしかして…フラッシュに驚いて?
そんな、ただの光だ。
けれど… ――相手が死神だとしたら、光を恐れるのは当然なのか?

242 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:19
「チッ!」

戸惑う紗友希に、舌打ちをしてみせたのは黒猫だった。
忌々しげに、炎とこちらを交互に見て、それから――。

「あっ!」

――― 一瞬だった。

身を翻して、床へと降り立った黒猫が、音もなく紗友希に向かって地を蹴り、
腕へ飛びかかってきたのだ。不意をつかれて、思わぬ黒い影に反応できず、
手の中のカメラは紗友希の手からするりと落ち、ガシャン、と大きな音を立てて
床に転がった。

「かりんちゃん!」
「!」

そのまま首だけを回して大きく声を上げた黒猫に、はじかれたように少女は
炎を改めて見据えて大鎌を振り上げ、跳ねた。

だが、しかし。
この僅かな時間さえ、炎には十分すぎる「隙」だった。
まるで、一連の行動を嘲笑うように愉快にくるりと部屋を一度めぐり、
壁をすり抜けるようにして掻き消えてしまったのだ。

「チッ、ややこしいことに…! 行くよ!」

毒つくように吐き捨てる黒猫は、素早く少女の肩に戻ると呼びかける。
それに頷く少女は、再び黒い霧を纏って今掻き消えた炎を追いかけるように
壁をすり抜けていってしまった。

243 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:19
……一体、何が起こっていたのだ…。

三人の頭に浮かぶのは、――― いや、この事態を体験している紗友希は
想像していただろうが――― そんな言葉と困惑だった。

由加もあかりも、信じていなかったわけではない。
けれど、やはり聞いていたことと、自身で見たことでは受け止め方が違うのだ。
さらに加えて…揺らぐ空気など、生々しく体感までしてしまった。
これで、戸惑わない方がおかしいだろう。

けれど、時は止まらない。
今、こうしている間にも、少女たちは炎を追っている。
黒猫の思わぬ反撃のせいで十分とは言えない証拠物件なら。
今、紗友希がしなくてはならないのは―――。

「追うよ!!」

全力で、彼女たちの影を追うことだ。

「あっ、ま、待って!」
「あかりも行くー!」

半歩遅れて固まっていた由加とあかりも、カメラを持ち上げ部屋を飛び出す紗友希を
慌てて追いかける。

恐怖心はある。
だが、それにも勝る好奇心があった。
元来三人は、そういう部分が似ていた。
だから、こういう事態でも、うまくいっているのだ。

244 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:20


*****


245 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:20
駆ける中、それほど遠くには行ってないはずだ、という由加の指摘は当たっていた。
壁からすり抜けていった方向からして、由加が示した場所は裏手の駐車場で。
その推測通り、異様な雰囲気を撒き散らしている物体はそこに浮いていた。

何度見てもおぞましい、紫色で揺らめいている人型の炎。
それを徐々に距離を詰めるように、悠然と歩いて向かっていく少女と黒猫。
どう見ても炎の方が有利に見えるはずなのに、圧倒的な威圧感が少女には
あるように見えた。それは、その手の大鎌を差し引いたとしても、なにかしら
そう思わせるものがあったのだ。

事実、炎は少女を恐れている。
襲い掛かるという前兆がまったく窺えないほどに。

「紗友希ちゃん…っ」
「!」

あかりを腕にまきつけたまま、背後から投げられた由加の声で紗友希は我に返る。
そうだ、写真だ。撮らなくてはここまで追いかけてきた意味もない。
何故そこまでこだわるのだと言われれば、なんともいえないが、
しいて言うならば、「意地」のようなものが、紗友希の胸を支配していたのだ。

ここまで来たのだ。
絶対、今を逃したらもう出会えない。
そんな気までしていたのだから。

246 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:20
再びカメラを構える。
ファインダーを覗けば、再び大鎌を構えて歩み寄っていく少女。
今度こそ、捉える。

カシャン、カシャン、と。
連続で落ちる機械的な音は、夜闇に再び光を何度も放っていく。

途端に。
再び少女の動きが止まった。
ぴたりと、また。
まるで一時停止で止められた映像のように。

その瞬間、再び訪れた好機を逃すまいと、炎は大きな音を立てて舞い上がった。
けれど、今度こそそれを許さなかったのは、黒い小さな影。
少女の肩に乗っていた異様な存在感を放っていた、―――黒猫だった。

「ったく! かりん!」

きゅっと伸び上るように器用に肩の上で立つと、ふわりと風で膨らんだ髪の
先にあった少女の耳になんのためらいもなく噛みついた。それは少女の
意識を戻すため、と思われた。
が、そうではない。
何故なら少女は、そのわずかな動作にも反応を示さなかったのだから。
ならば何故か。
紗友希の疑問の答えは、すぐに目の前に広がる。

247 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:21
「な…に…?」

由加の胸で視界を遮られているあかりの声はない。
戸惑いの声は、由加から。
そして、紗友希も息を飲む。

浮かび上がるような、黒猫に噛みつかれてついた少女の耳たぶの赤い点。
そこから滲みあがってくる…血の痕を黒猫がぺろりと舐め上げた瞬間、
広がったのは、黒い霧。少女の肩から。いや、黒猫からというのが正しいか。

瞬間、鋭い疾風を纏うように、黒い霧は次々黒猫の姿を覆う。
そのまま少女までをも巻き込んで、一迅の風が二人を中心に吹きすさぶ。

あまりの突風に、三人は目元を隠すようにして怯んだ。
そして、再び視界を開いた先に―――、少女と…その隣に立つ「彼女」がいた。

「あれは…誰…?」

声がかすれる。
信じられない姿に。
だが、いや、しかし。

先ほどまでは、黒猫がいた。
なのに今少女のすぐ隣、紗友希たちの目の前にいるのは、完全に「人」ではないか。
混乱する頭は、ただ目の前のものだけを認知させる。

248 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:21
少女と同じく赤と黒の衣。
相違があるとすれば、膝上まで伸びた黒いブーツに白く滑らかに映る腹部の肌を
見せながらも、両肩まで覆うように伸びたコルピーニョ。
そして少女と対称的に、肉感良く、すらりとした太腿に流れるバタ・デ・コーラか。

なによりも、息を飲んだのは出で立ちよりもその容姿だ。
ふんわりと緩くウェーブがかった髪に、ワンポイントの赤黒い髪飾りが映える。
目鼻立ちは彫りが深く、はっきりとしていて、強い色を称えた瞳は深く惹きこまれそうだ。
ふっくらした唇にシャープな輪郭は、なんとも言えない妖艶ささえ滲ませている。
年の頃からすると、きっと少女よりは年上なのだろうと、容易に窺わせた。

そんな女性が突然現れて、驚かない方が無理だ。
当然、紗友希も、茫然としてカメラを下してしまう。

その気配を感じ取ったのか、彼女はチラリとこちらを一瞥したが、
再び炎へと向き直り、鋭い視線を向ける。

様相一変、彼女の姿をとらえた炎は、こちらからでも見て取れるぐらい動揺と、
狼狽えるようにして、空へと高く舞い上がっていく。
一刻も早く、この場から逃げんとするのがわかるほどに。

けれど彼女は冷静だった。

すっと左手を差しのばし、何かを招く仕草をする。
と同時に、腕へと巻き付く黒い霧。
そこだけ空間が違うかのような歪みを起こしながら。
その中から何かを握る形を彼女がとれば、少しばかりの重量感を伴っているのか
黒い霧が大きく揺らめく。
確かめるように彼女が強く「それ」を握りしめ、ぶん、と大きく一度空を薙ぐように
すれば纏っていた黒い霧は一気に掻き消え、姿を現した。
249 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:22
あれは…と、紗友希が目をこらし確認する。

三日月のような特徴的なフォルムのそれは…弓だ。
けれど、なんと「いかつい」のだろう。
鉄(くろがね)でできているだろう、特徴的なハンドル部分やグリップ。
先端にリムが大きく沿って、彼女の身の丈と同等ばかりの大きさで威圧感を
含ませている。

あれを弓とは呼ばない。
そう、紗友希の知識が正しいならば、あれはアーチェリー競技で使う「ボウ」だ。

まさかあれで?
その紗友希の驚きをよそに、彼女が行動に移したのはすぐだった。

差し伸ばした右手に絡みつく黒い霧から、一本の矢を掴みとると、
慣れた手つきでボウにセットする。
その間にも炎は遠ざからんと、高く高く舞い上がっていく。
今では紫の点のようだ。

けれど、彼女は動じない。
離れていく炎を確かめるように一睨み。
それからカツンとブーツのかかとを鳴らすように、軽く脚を肩幅まで開き深呼吸をひとつ。

250 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:22
「…逃がさない」

こぼれた言葉は強い意志を秘めて。
ギュ、と弦であるノッキングポイントに矢をつがえると、すいっと天へとボウをかざす。

ギギギ、と引かれる弦。
その度に、ぶるぶると軋むように震える彼女の腕。
だがしかし、ギリっと歯を噛みしめるようにして眉間を寄せると、ためらいもなく―――

――― ギン、という鈍い音を立て、放った。

瞬間、ヒュン、という鋭い音と共に一筋の光となって異なものを追いかける矢。
頭上に飛ばされたはずなのに驚くことに、勢いを落とさない。
ぐんぐん伸びあがって、空へと突き抜けていく。
獲物を捉えた弾丸のように。

炎に感情があったのなら、きっとそれは「恐怖」で彩られていただろう。
逃げても逃げてもふりきれないのだ。

まさに白刃。
迫る切っ先は、確実に仕留めにかかっている。
キラリとしたものが、刻一刻と詰めにかかって、自身に刺さるビジョンが数秒後に
形になるのがわかる。
それほどまでの…威圧感。

紗友希には見えない。
なにがどうなっているのかもわからない。
けれど、彼女はじっと天を見つめている。
どこか確信をもった眼差しで。
そして、それはすぐに結果を伴って。

251 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:23
ザッという鋭い音が虚空に響く。

と同時に、紗友希たちの元に、獣のような咆哮と熱風が駆け抜けた。

びりびりと肌を刺すような感触に、耳を押さえ肩をすくませるほどの。

それを合図に、目の前の彼女と少女は…静かにその手のものを黒い霧へとかき消した。
そのことが示すものは…終わりだ。
すべて片付いた、ということだ。

途端に、あたり一帯が静寂に包まれる。
虫の音さえも届かぬ夜闇に、耳が痛みそうだ。

ほんの数十分の出来事。
しかし、なんて密度の濃い時間だったのだろう。
さりげなく振り返った紗友希の視線の先にいる、由加とあかり、二人は疲労の色濃く、
まだ動揺が収まりきらない様子で、じっと…紗友希の後ろに立つ二人を見つめている。

追いかけるように少女たちに振り返って…緊張が走る。
今しがた矢を放った彼女が、くるりとこちらへと向き直り盛大な溜息をこぼしたのだ。
ついで腰元に手をおけば、紗友希はちょっとしたバツの悪さを覚える。

何故だか、そう歳は変わらない風貌なのに、何か、そう、言い知れない壁のような
ものを感じた。相いれない…空気、そういったものが…ひしひしと伝わってきたのだ。
それは、正面からその姿を確かめると尚のことで。

252 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:23
深く、闇にも鋭く映る瞳に、少女と同じぐらいに白い肌。
そのふっくらと柔らかな唇は、今はどこか不機嫌に歪められていて。
ふんわりした髪に、すっと伸びた手足は、何度見てもほどよい脂肪を乗せ
艶やかさがある。
気怠げに目を細めている姿は…、少女より彼女の方が「死神」にみえた。

「あなたたちは…一体何者…?」

紗友希は、再びそう尋ねずにはいられなかった。
昨夜のように、思考がどうしても追いつかないのだ。
こんな現実離れした出来事を、受け止めろという方が無理なのだが。

しかし、それに対する彼女の反応は、冷ややかなものだった。
ふぅ、と小さくうつむき加減に息を吐き、かつんと踵を鳴らしながら
紗友希へと歩み寄り。

「前に言ったと思うけど? …それより、これ以上さっきみたいに邪魔するなら…」

目の前に立たれて、紗友希はちょっとした身長差に怯む。
僅かな違いのはずなのに、雰囲気に飲まれてしまったのだ。

軽く、一歩下がろうと足を浮かせる。
が、それよりも早く、彼女は腕を伸ばし…紗友希の襟元を掴むと、
ぐっと引き寄せてきた。
思わぬ力と至近距離で見る整った顔に、ぐぅ、とくぐもった呻きが漏れる。
けれど、彼女は顔色ひとつ変えず。

253 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:24
「あなたの魂も、闇に送るよ」
「っ!」

それだけ言い放ち、とん、と強く紗友希の身体を後ろへと弾いたのだ。
慌てた由加とあかりが、駆け寄りその身体を受け止める。
だが、それさえも興味ない様子で一瞥した彼女は、お友達もね、と付け加えた。
どこまでも冷たい声で。

「とも」

その絶対的支配の中にあった空気を変えたのは、彼女の後ろに立っていた少女の声。
凛とした、耳に涼しい声だった。
ともすれば可愛らしい印象なのに、その無表情がすべてを台無しにしているようだと
紗友希は改めて思う。

その声に、とも、と呼ばれた彼女は目だけで反応し、もう一度だけ紗友希たちへと
向き直った。最後の警告だ、と言わんばかりの億劫な眼差しで。

それから、何事もなかったかのように踵を返し、少女の隣を歩き出す。

まるでそれを待っていたかのように…あの黒い霧が立ち込め…みるみるうちに
2人の姿は掻き消えていってしまった。

残された三人は…、何も言えずにそれを見送るしかできなかったのだ。

254 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:24


*****


255 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:24
「失礼しましたー」

人気もまばらになった放課後、すっかり意気消沈した声で紗友希は職員室を後にした。
担任に呼び出された時に、大体の予想はついていた。ついてはいたのだが…
ここまで徹底してされるとは…、明らかに扉を開けて入った時と今では、
表情に雲泥の差があるだろう。

「あっ、きーっ!」
「紗友希ちゃん…!」

咄嗟に表情を明るく取り繕うが、さすがに二人には内心を見抜かれただろう。
いや、あかりはどうかわからないが、すくなくとも由加には。

「どうやった?」
「んー、まぁ、一度部室に戻ろっか」

ここで話すには、少々気が重い。

256 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:24
非科学研究会兼新聞部の部長として呼び出された紗友希は、昨夜の一件を
こっぴどく担任と顧問、そして教頭に絞られることとなった。

病院側からの通達もあったことから、ちょっとした学校問題にまで発展しても
おかしくなかったぐらいらしい。
院内の業務妨害に、患者のプライバシー侵害、さらには、あかりという
義務教育課程の生徒を、夜間外出させたことを加えても、保護者会や軽く
警察沙汰になるほどで。それをなんとかおさめたのは…、由加だったようだ。

さすがに、その惨事に令嬢が加担していたとあって、病院側もありていに言えば
「穏便に」済ませましょうということで、

「非科学研究会と新聞部の活動無期限停止になった」

そういうところに落ち着いたのである。

腑に落ちない点は多々ある。
が。
それ以上の事をしたという認識もあって、紗友希は黙って引き下がるしかできなかった。
事実、人の生死に不躾にも踏み込み、場を荒し、トドメは…一般的に見て「奇天烈」と
呼ばれても仕方ない言い訳しかできなかったのだから。
写真が残っていれば…と、思ったところで仕方ない。
何枚かがちゃんと記録を刻んでいたはずなのに、そこにあるべきものがなかったのだ。

257 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:25
暗室で愕然としたものだ。
ちゃんとカメラは動いてた。
なのに、一枚も写っていなかったのだ、「彼女たち」が。
要するに…、チェックメイトである。

「どうするー? あかりたち、これで終わりー?」

つまらなそうに机に顎を乗せて、手近にあった鉛筆を指先で転がすあかりは、
可愛らしく唇を突き出して、目一杯不満を口にする。
まったくこの子は…と、内心思ってしまうが、巻き込んだのは紗友希だ。
ならば、その尻拭いをするのも…もちろん紗友希でなければならない。

とはいえ、正攻法に異議申し立てをしたところで、教師連中が一度横に振った首を
縦に振るとは毛頭思えない。
それぐらいはわかるほどに、紗友希は「賢かった」。
ならばどうするか。
一計を案じた紗友希は、職員室を去る際に、一番仲の良い田中教諭へあるものを
頼んで受け取っていたのだ。そして、それが今、手の中に。

「そーんなワケないじゃん、こんなことでへこたれる紗友希じゃないよ!」

威勢のいい啖呵のような口上と共に、あかりの鼻先に一枚のプリントを突き付ける。
何事かと、目を瞬かせたあかりは、そろりと紗友希の手からそれを受け取って。

258 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:25
「部活動申請用紙? なになにー? かいき…くらぶ?」
「古きを捨てて新しきを得る!昔の人も言ってたでしょ?」
「それを言うなら、古きを温めて新しきを知る、だよ?」
「あれ? そうだっけ?」

ひょい、と、あかりの手からそのプリントを取った由加が視線はそのままに
紗友希に告げる。
勉強は、そんなに得意ではないから、専売特許の由加にはおどけて逃げる。

「でもさぁ、そんな上手く部になるかなぁ。きー、怒られたばっかやん」

奪われたプリントにさほど興味はなかったのか、だらしなく机に身体を伸ばして
あかりは由加を見上げる。
が、そこで、あかりは珍しいものでも見たように目を開いた。
なにか、と紗友希も追いかけるように由加を見て、納得する。
実の所、これを紗友希は狙っていたのだ。

「面白そうだね。うん、怪奇倶楽部かぁ…、正式に部になれば夜もちゃんと
届出を出せば動けるねぇ。うんうん、いいかも」

一気に由加の目の色が変わっていく。
元々、こういった不思議な現象などが好きなのか、よく図書館で紗友希さえ
理解できない分厚い怪奇書物を借りているぐらいなのだ。
それを知っていたからこその部の名前なのだが、ここまで興味を示すとは、
嬉しい誤算、といったところだろう。

259 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:26
「なんとかなる?」
「なんとかなる、じゃなくて」
「なんとかするー」

紗友希、由加の言葉を引き継いで美味しい所を持って行ってしまうあかりに
場の雰囲気が一気に和む。
一時は活動停止という、いわば廃部を宣言されたというのに、つくづく三人は
馬が合う。

「生徒会長にまっかせなさい♪」

それが決め手だった。

あれほど、こっぴどく絞られても堪えなかったのは、最大のジョーカー・
生徒会長宮崎由加を紗友希たちは持っていたからだ。
最後の切り札は、本当に最後だという時に使うからこそ効力を表す。
それを知っていたからのすべての行動だと、2人が知ったらどう思うだろう?
いや、きっと笑って拍手していたことだろう。

「絶対、部にしてあげるから。ならないとかそんなの教師の頭が固すぎる」
「ははは…」

教師より、なにより、由加を敵に回してはいけない。
紗友希はひっそりと胸の中に誓った瞬間だった。

260 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:26
「そうと決まれば、資料集めからやね!」
「なんの?」

なんて愚問。
そんなことは1つに決まっている。
くすりと、いたずらっぽい笑みを滲ませて三人は顔を突き合わせると、
一息で言い切った。

「死神の資料ー!」

それは高らかな声で、あの二人への宣戦布告のようにも聞こえるほど
強くはっきりしたものだった。

261 :T.高木紗友希 :2014/04/04(金) 15:27
「そういや、屋上にねー」

「資料って図書室にあるかなー、由加ちゃん知ってる?」
「んー…多分、国立の図書館に行った方がいいかも」

「聞いてよー、屋上にさー」

「取り寄せとかは?」
「その方がいいね、帰ったら連絡取ってみる」
「よろしくー」

「だーかーらーっ」

「うえむー、ちょっと静かにーっ」

「もー。屋上に猫がいたんだよーほんまにー…」

あかりの声は、くしくも二人の耳に届くことはなかった。
後になって、それが、紗友希にとっての最大の凡ミスだったのだろうと気づくのだが
それはまた本当に後の話である。

「あの黒猫が…女の子と一緒に…」

262 :エシクスト :2014/04/04(金) 15:28
本日はここまで。

と同時に「T.高木紗友希」は、ここで終了です。

大量更新、失礼しました。
263 :名無飼育さん :2014/04/04(金) 16:51
更新お疲れ様です!!
うわぁ、かなともさんムチャクチャカッコいいです…。
そういえば彼女はアーチェリー経験者だったのを思い出しました。
あーりーのラストがどう繋がるかこれからも楽しみにしてます!!
264 :名無飼育さん :2014/04/06(日) 10:03
J=J好きなので凄く面白いです。
文体も好きです。
佳林ちゃんとkntmの不思議さが小気味よくて今後が楽しみです。
更新待ってます。
265 :名無飼育さん :2014/04/10(木) 00:31
田中教諭の出番はありますか?
266 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:10





むせかえる異臭の中、劣情に飲み込まれて自分の上で揺れる人間。
それを眼前に見つめてもなんの感情もなかった。
いや、憎しみ以外は。

もちろん、そんな人間にくれてやる涙も、痛みも、声さえもとっくにない。
貪るなら貪るがいい。
快楽に溺れて、欲を吐きだし、穢して穢して穢して。

贄なんて名ばかりの監禁・拷問は幾度となく繰り返される。
くだらない日々の繰り返し。

そうだ、一度だけしてみるか。
そう思ったのが、憎しみの具現化させるきっかけだった。
すいっと、伸び放題だった爪の切っ先で、目の前で汗を滴らせている浅黒い喉元を掻っ切って。

瞬間、噴き出したのは生暖かい体液。
どろりとした粘着質な。
暗闇でもわかる不可思議な感覚。

激しい絶叫と共に人間は文字通り「のたうちまわって」事切れた。

あっけない。
なんだ、こんなに簡単に。
脆く。

それが人間。
愉快な気持ちはない。

それでもただ浮かんだのは――――憎しみだけだった。





267 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:10


*****


268 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:11
さぁっと、冷たい風が駆け抜けていく。
寒梅の頃とはよく言ったものだが、少々身を刻まれるような痛みを伴うその風は
比較的防寒には優れない、柔らかな体毛で覆われた猫には堪えるものである。

加えてこの場所。
高台を目指したのだが、意外にもこの街の一番の身長を誇る場所は、ありふれた学校で、
その屋上から、くるりと首を回せば小高い山々を背に、そしてくすんだように広がった
ビルや繁華街という中心部分を眼下に一望できた。

「へぇ、ここ学校の屋上って街全部が見渡せるんだね」

ふむ、と風にあおられながらも、目を細めて告げる黒猫は、少女の肩の上で身じろいだ。
猫が喋る、というなんとも不思議な光景だが、乗せている少女は顔色ひとつ変えずに
眼下に広がる鈍った街並みを静かに見下ろしている。
猫に興味がないわけではない。
だか、しかし、あったからといってそれを表現する方法を少女は「知らなかった」。
いや、教えてくれる者がいなかった、というべきなのだろうが、それはまた別の話だ。

269 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:11
「…、誰か来る」

不意に囁いた猫に、気配を感じ取った少女が向かってくる何かを確かめるように
校舎へ繋がる扉に視線を向けた。
次の瞬間。
バタン、と大きく軋んだ音を立てて勢いよく開く扉と、

「あーっ!やっぱり!昨日の死神ーっ!」

負けないぐらい大きな声を上げて飛び出してくる、学生服の少女。
さらりと腰元まで伸びたストレートの髪が今は風にあおられて舞っている。
いや、ここに続くまでの階段を駆け上がったせいかもしれないが、少し乱れている
という方が正しいかもしれない。
それでも、目の前でとらえた少女と黒猫の姿に、息を弾ませながらも満面の笑みを
浮かべて疲れなど微塵も感じさせない。

その少女に、二人は見覚えがあった。
忘れたくても、最初の出逢いが出逢いだっただけに、半ば強制的に記憶の中に
刷り込まれている存在。
そう、不躾にカメラを構えてきた…紗友希といったか?あの少女とともにいた…
「うえむー」ことあかりだ。他に由加という子もいたようだが、印象に残っているのは2人だった。

270 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:12
「なぁなぁっ、何してるん?」
「なぜ関西弁…」
「あ、きのーと違う服ー、これ近くの学校の制服だー。いつもあの格好してるんと違うんや?」
「いつもあんな格好してたら怪しいでしょうが」
「でも、猫は猫のまんまなんやね」
「うるさい」

次々と飛んでくる質問に、煩わしげに猫が答える。
顔に見合わずあかりの性格は直球ストレートで、まるで邪気がない。
だからこそ、返事を返してしまったのだろうが、それを早速後悔するほどの
賑やかさで猫はひっそり溜息をついた。

が、そんな姿などお構いなしに、あかりはぴょんぴょんと弾んで少女に近づく。
それからじーっと顔を覗き込んで、無表情にも瞬きを返した少女に、にまっと
笑って見せ、音が出るほど勢いよく右手を差し出した。

「あたし、植村あかり!うえむーでもあかりでもなんとでも呼んで!」

普通であるなら、その意味がその動作一つで伝わったかもしれない。
だがしかし、少女の経験の中でそうされたことは一度としてなく、無表情に
差し出された手を見つめるだけだった。
その肩で、猫が軽くあしらうように口を開く。

271 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:12
「あー、そういうの、この子わかんないから」
「えー?」

わからない、と。その意味こそ分からないというようにあかりは首を傾げる。
一度ひっこめた手をまじまじと見つめ。ならばと。
今度は強引に、少女の手を取って両手で握りしめた。

「あーくーしゅ! これで仲良し!」

その勢いに、少女はぐらっと一度よろめき、あかりの顔と自分の手を交互に見つめ。
肩に乗っていた猫は、わっ、とバランスを崩し地に飛び降りた。

「………なかよし?」

聞きなれない単語だったのか少女は瞬きを何度かして、あかりを見つめた。
反応があったことが嬉しいのか、あかりはぱっと頬をほころばせて、繋いだままの
手をぶんぶんと勢いよく上下に振って見せる。

「そう!仲良し!一緒にいて楽しいねーっ、助け合おうねーってやつ!」
「……………」

それには少女は応えない。
ただ、かくかくと揺れる身体もそのままに、やはり不思議そうに繋がれた手を
見つめるだけだ。
その様子に、やれやれと溜息をついていた猫は―――。

272 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:12
突然ぴんと両耳を立たせて顔を上げる。
それから小さく「かりんちゃん」と呼びかけると、同じく何事かに気づいていたのか
ぱっとあかりの手を離すと、すいっと眼下に広がる街の一点を見据えた。
なにかの信号でも受け取ったのか、二人の表情は――とは言っても少女は
無表情なのだが―― 険しい。

「なになに?どうしたん?」

状況がつかめないあかりは、首振り人形のように少女と猫の間で視線を彷徨わせる。
説明しなければならないのか?と渋い表情になった猫は、それでも飄々とした空気で
少女の肩に戻ると、ふふんと鼻を鳴らした。

「遊び時間はおしまい、じゃね」

そこまで言って、少女を促そうとし…思いとどまる。
この不思議なあかりという存在は、自分達の事を追いかけてここにきた。
ということは、見えているのだ、自分達が。
それはとても稀なことで、しかも少女になんのためらいもなく踏み込んできてる。
これは…吉と出るのか凶とでるのか…。
悩みの種が一つ増えたことで、整理がつかない脳内そのままにごちった。

273 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:13
「つーかさ、うちらのこと追いかけすぎ。本来意識しないと普通の人間には
うちらの事なんて見えないんだからね」
「えー?なにー?難しい事言われても、あかりにはわからへんー」
「あ、そ」

さして返事は期待していなかったのか、猫はそれだけ言って少女を促す。
途端に二人を包むように黒霧が現れ、全身を意識ごと誘われていく。
すべてをかき消されていく瞬間、「もー、また戻ってきてやー」という、あかりの
拗ねた声が聞こえた気がした。

274 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:13


*****


275 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:13
――― 獣臭い。
むせ返るような体臭の滲んだ室内で、最初に黒猫――朋子が感じたのはそれだった。
次いで嫌悪感。じりっと後頭部を焦がすような苛立ちを含ませるほどの。

少女――佳林と共に黒霧に抱かれ次に現れた場所は、薄暗くも濃いマゼンタで彩られた
ホテルの一室のようだった。
普通のホテルであれば、きっとこのような仕様ではない。
このホテルは「そういう」ホテルだ。
知識たる知識はおぼろげにしかないが、直感的に朋子は察した。

そして。
目の前の光景に、心の中だけで溜息をつく。

散乱した衣服、けぶる空調、乱れたベッドに放り出された女の肢体。
ちらりと視線を向ければ、下卑た笑みを浮かべてタバコをふかしている男が
ベッド下の床であぐらをかいている。

投げ出されたような女は、その身に起きた行為の生々しさを表すように
虚空を見つめる瞳は赤く、頬には幾筋もの涙の痕。
相当な「乱暴」をされたのだろう、白い肌にはミミズ腫れのようなものが
無数にも膨れ上がり、血の跡さえ見える。
散らばった体液には、さすがに朋子でさえも眉を顰め、げんなりしたほどだ。

276 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:14
まるで抜け殻のようだと、溜息一つをこぼして…、朋子は無意識に佳林の耳に
かじりついていた。途端に口の中に広がる鉄臭い血液。けれど、それは…
朋子にとっての、一種の「麻薬」。人間へと形を変える起爆液がそれだった。

こくん、と。
咽喉を落ちれば、一気に身体中の細胞たる細胞が沸騰したかのように熱をもち
暴れまわる。耳につく心臓の鼓動に息苦しさを感じながら黒霧に巻かれれば、
一気に五感が鈍っていく。猫としての本能的な野生が剥がれ落ちていく。

落ちてきたのは、人としての感覚。
地に立つ二本の足、幾分重く感じる重力。
そして…、自分が自分であるという、不自由さ。
くっと拳を一度握って瞬きをすると、静かに息を整えて、目を開く。

高くなった視界は、佳林の肩よりも眺めは最悪だ。
だが、そんなことはどうでもいい。
朋子には、そんなことはどうでもいい。
ただ、「仕事」をするだけだ。

277 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:14
今この場に似つかわしくない二人が現れたというのに、その場の人間は
誰一人として、気にした様子はないようだった。
いや、違う。
「見えていない」のだ。

朋子が先にあかりへ告げた言葉は、その通りなのだ。
意識がなければ、二人は見えない。
その存在自体、逸話として語られることはあっても「ある」者として捉えられた
試しがないのだから。よほどの強い思念を持って見つめなければ見えないのだ。
だからこそ、あかりたちの存在は面倒なのだが。

「おい、そろそろ引き上げようぜ?」
「だな。金目の物だけでも頂いてくか?」
「そうだな」

床に座り込んでいた男たちが灰皿にタバコを押し付けて身支度を整えはじめる。
それを横目で見つつ、抜け殻のような女を確かめ…朋子はさりげない動きで
佳林の視界を遮るように前に立った。
別にそんな必要などないのだが、朋子の胸の中に残った、わずかばかりの
「人間臭さ」が佳林がこの場にいることを良しとしなかったのかもしれない。
そう思ってしまう自分に、嘲笑う気持ちがこみ上げてくるのだが。

278 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:14
「ここはいい、うちがやる」
「……………」

なんの感情も見えない佳林の視線が、背中に向けられるのを朋子は感じた。
なにかを期待していたわけでもなんでもなかったので、それは無視する。

「かりんちゃんは、あの子のいた屋上にでも戻って街の形を覚えてな」

それにここはこれから、惨状になる。
口には出さないが、朋子たちがここに誘われた時からそれは確定された事象だ。
出なけれは、死神は簡単に人間の前をうろつかない。

「………、うん」

鈴のなるような凛とした声は、朋子の耳に響いて消える。
ほんの少しの冷たさを伴った、黒霧の中へ。

素直な子は好きだ、と朋子の口元が緩む。
いや、従順な子、というべきか。
面倒な手間など考えなくていいし、なにより自分の言う通りに動く。
だからこそ、朋子は…佳林以外の人間が嫌いだった。

279 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:15
佳林がいなくなったことで、どこかしら心に余裕が出来た朋子は、すぐ近くの壁に
背を付け腕を組むと、「その時」を待った。
ただの傍観者として…今は。

「なんだよ…、やっぱガキだな…金もほとんどねぇ」
「カードは足がつきやすいし、触るなよ?」
「わーってるって。まぁ、美味しい思いさせてもらっただけでも良しとするか」

気分の悪くなるような嫌な笑みを張り付けて、男たち2人は女のバッグの中身を
ひっくり返しては、物色していく。
それらしい金品があれば、粗っぽくジャケットスーツのポケットに押し込み、
そしてまた物色。
野良犬と変わらないな、と朋子は鼻を鳴らす。
いや、野良犬の方がいらぬ知恵がない分まだましか。

「おい、次はもっと若いの頼むわ。そっちの方が反応いいし」
「お前ロリコンかよ。わかった、夕方あけとけよ、探してくる」
「おう」

そこで一人の男が部屋を立ち去った。
カジュアルな服装ではあるが、小奇麗にしていたところを見て、こうして「獲物」を
連れてくるのが役目なのかもしれない。
だか、そんなことはどうでも良かった。

280 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:15
…そろそろか。
とん、と軽く背の壁を押してすっくと立つと、腕組みはそのままで残った男を見据える。
その男はまだ物足りないのか、女の元へと近づきその肌に触れようと手を伸ばしたのだ。
だが。それより先に反応したのは、抜け殻となっていた女だった。

「ッ!!」
「うわっ!」

まるで電気に当たったかのように、はじかれたようにベッドから飛び起きる女。
その反動で男は床に尻餅をつく。
一瞬の隙がそこで生まれて、一糸まとわぬ姿のまま女は反対の床へと崩れ落ちた。
そして―――見つける。

「ンのあまぁ…」

ゆらりと腰を上げる男。
だが朋子の視線は、女に向けられた。
あるものを手にとった、女に。

キラリと光るそれは…カミソリの刃だ。
バッグを物色するために散らばったもののなかに、入っていたのだろう。
落ちた衝撃で、カバーしていたものは外れ、今は剥き出しの鋭い刃だけとなっていた。
男がここで気づいていれば…というのは愚問だろう。
朋子が、ここに呼び出されたのだ。
ならば、それは、回避できない。

281 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:15
「こっちこいよ!!」
「ッ!!」

ぐん、と喉元を掴む男。
が、しかし。
次の瞬間。

「あ?」

鋭い光が一閃、部屋のマゼンタを切り裂いた。
いや、切り裂かれたのは…薄くも浅黒い男の喉元の皮膚だ。

その場所を朋子は目を細めて凝視する。
人間の首元には前に2本、後ろに2本の計4本の太い血管が通っているという。
1本切れただけならば、きっと助かる手立てもあっただろう。
しかし、2本となれば、それは致命傷に至り、まず助からない。
そう、助からないのだ。

瞬間、文字通りあたり一面へと噴き出す体液。
切られた反動で真横を向いた男は、きっと何が起こったのかわかっていない。
分かった時点で、出血死だ。
なんて幸せな最期なんだと朋子は皮肉にも笑った。
痛みなどを感じる間もなく、脳への伝達さえ遅れ、気づいた時には死。
罪もない人間が窒息など苦しみ絶えていくことだってある世の中なのに、ラッキーじゃないか。

282 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:16
そして、不幸は、女だ。
朱に染まった全身に、痙攣しながら床に崩れ落ちた男を眺め。
絶望の瞳で一度天井を見上げる。
本当ならば、その目の奥には…朋子の推し量れないほどの「何か」があったかもしれない。
希望・夢、そんな言葉が大嫌いだったが、同情はしてしまうぐらい、今の女は哀れだった。

そろそろ、か。
腕を解いて、朋子は俯き加減に左腕を突き出す。
途端に空間が歪み、その先から目的の物・ボウを掴むと、薙ぐようにして黒霧を振りほどく。

その動作の間に…―――女は涙を流しながら、自身の喉元をかっきった。

そして…――― 顔を上げた朋子は、右手の先から取り出した矢を弦につがえる。
今度こそ、何の感情もなく。

紫の炎は、荒々しくその場を旋回するものと、たよりなく揺らめいては勢いをなくしていくもの。

この世界へと降り立つときに、朋子は聞いた。
想いが強すぎる魂たるものは、命の審判がされる場所に送られることなく怨念となって
その場にとどまり、世界に歪みをもたらすものと変わる。
それを射抜くことを使命とせよ。そうすれば―――。

先の言葉を首をふってふりきる。
そんなことはどうでもいい。
朋子は、朋子の思うようにこの自由を謳歌するだけだ。
ただ、それだけなのだ。

283 :U.鞘師里保 :2014/04/10(木) 12:16
すい、と。矢の切っ先を荒れる炎へと照準する。

「いつの時代も変わらない愚かな人間の末路、か」

ギン、と鋭く放つ。
確実に射止めるように。
もちろん外れるなんて未来はなく、荒々しい炎の中心をえぐっていくように突き抜ける。
同時に部屋に響くのは、断末魔。
憎しみに駆られた獣の咆哮。
けれど、朋子は表情を変えない。
何の感情も宿らない眼差しで、炎を見送るのみだ。
そして。
タン、と炎を貫いて壁に刺さった矢は、次の瞬間黒霧に巻かれて跡形なく消えた。

次いで、右手を震わせもう一本矢をとりだし弦につがえる。
照準はもちろん、所在無げにゆらめく、もう一つの炎。

怨霊になんて成りうるのかと思えるほど弱々しい炎だ。
だがしかし、紫に燃えあがっている以上、野放しにはできない。
この地にとどまらせるつもりも、朋子には毛頭ない。

「…逝きなさい。ここにもう、あなたの居場所はない」

再び矢を放つ。
射抜かれた炎は、小さく悲鳴を上げるように空気を揺るがし、さして掻き消えた。

感慨などなにもない。
この一連の作業だって、始めて短くはないのだから。
ただ、少し…、朋子の胸の奥底にある空虚感のようなものが揺れた気がした。

284 :エシクスト :2014/04/10(木) 12:17
今回更新ここまで。

>>263 名無飼育さん
ありがとうございます。植村さん、意外キーパーソンとなりそうです。

>>264 名無飼育さん
ありがとうございます。今後も小気味よくいけたらいいなと思います。

>>265 名無飼育さん
田中教諭、個人的に好きですがおそらく出番はないです、ごめんなさい。

285 :U.鞘師里保 :2014/04/23(水) 06:12

佳林が朋子の言いつけを破ったことは一度としてない。
いつ、いかなる時も共にいて、肉体的なものは別としても、
そう精神的に「離れる」ことがありえないからなのだが。

黒霧に抱かれ、言われた通り、あかりという少女がいた場所へと
立ち戻ろうと身を任せる最中…、ふと意識がさらわれた。
ほんの一瞬、わずかに意識を引っ張るものだったのだが、
それは佳林の動きを止めるには十分で、どこか、昨夜のような感覚に似ていた。
そう、紗友希から向けられたフラッシュのような。

あの瞬間、何がどうしたのだと思ったところでわからない。
ただ身体が硬直してしまったのだ。
眩しい光に、胸の奥がひどく痛み、その意味に混乱して。
きっと佳林に朋子ほどの知識が「流れて」いたのなら、理解することもできただろうが
あいにくと、それは今の佳林には叶わぬことで、
ただ不可思議な感覚に翻弄されるだけだった。

そして、今も。

286 :U.鞘師里保 :2014/04/23(水) 06:12
ふわり、と。
黒霧を振り払い降り立ったのは、平日の午後だというのに人に溢れた通りだ。
通りといえば聞こえはいいが、過ぎゆく足はあまりなく、
一定の感覚で、点々と人だかりができている。

なにかと一度くるりと佳林は首を回して確かめた。

道化師の格好でパントマイムをするもの。
ギターを弾き鳴らすもの。
マジックをするもの。
歌声を披露するもの。
さまざまな人間がいた。
いわゆるストリートパフォーマンスなのだが、佳林にはわからない。

287 :U.鞘師里保 :2014/04/23(水) 06:13
その不思議な光景の中で、意識を吸い寄せられたのは――― 一人の少女だった。
年の頃は14、5才だろうか?あかりとさほど変わらないように見える。
しかし、その体型たるや、あかりとは比べ物にならない程洗練されていた。
女性としてではなく、くるくるとその場を跳ね音楽に身を任せるに、だ。

引き締まった脂肪に筋肉。決して硬さはない。ないが、無駄なところもない。
伸ばされる手は指先まで神経が研ぎ澄まされている。
地を蹴る脚も、力強い。
体幹がしっかりしているのだろう、どれだけ跳ねても身を翻してもバランスが
崩れることが一度としてないのだ。
そして流れるようなステップ。複雑な動きが重なっても顔色ひとつ変わらない。
まだ柔らかさには欠けていても、ダイナミックに全身を使い、
小柄に映る身を、そうとは感じさせない。

288 :U.鞘師里保 :2014/04/23(水) 06:13
なんて自由な姿なのだろう。
思ったままに身体を動かし、思ったように笑顔を向ける。

印象的なのは、その目だ。
涼しげな切れ長の瞳。
ともすれば冷たい印象さえ受けてしまうはずなのに、楽しげに緩む唇と一緒に
細める仕草が、どこか悪戯っぽいものに見えて人を惹きつけた。
佳林を――惹きつけた。

気づけば佳林は、その少女のそばで立ち止まり、食い入るようにすべてを
見続けていた。ひとつひとつの動きも、歌声も、そして、笑顔も。

朋子の言葉は頭の中で響いていた。
けれど、佳林はこの時初めて…その言いつけを守らなかった。
それほどまでに…少女に…少女の魂に惹かれたのだ。

289 :U.鞘師里保 :2014/04/23(水) 06:14
ぷつりと。
音楽が途絶える。
と同時に、佳林と同じように少女を見つめていた何人かが軽く拍手をし、
近くの缶の中へと僅かばかりの銭を落としていった。

「ありがとうございます、またお願いします!」

耳に届いた少女の声は、イメージよりもしっかりとした重みのあるものだった。
そのまま缶を手に取り、中身はさして確認することもなく近くに置くと、
咽喉の渇きを潤すように、ペットボトルの炭酸飲料を大きく傾けた。
何度も上下する喉元は、佳林に視線を釘づけにし、また、満ち足りた視線を
ただまっすぐ追いかけた。

そこに何か意味があったわけではない。
本当に、ただ、なんとなく惹かれたのだ。
自由な、少女に。

その視線に――― 少女は、振り返った。
ありえないはずなのに、佳林の存在を見つけたのだ。
以前朋子が言ったことは正しく、意識しなければ二人は見えない。
なのに、だ。

290 :U.鞘師里保 :2014/04/23(水) 06:14
「こんにちは」
「……………」

声をかけられて、ただ見つめる。
ここに来てから、佳林はまったく微動だにしていない。
それを一瞬不思議そうに首を傾げた少女は、それでも臆することなく佳林へと歩み寄る。
人懐っこい笑顔で、そうするのがあたりまえのように。

「ダンスとか、好きなの?」
「……………」

額から流れた汗が、輝いている。
頬もうっすらと上気していて、どれほど激しいダンスだったのか物語るようだ。
けれど、その疲れを微塵も感じさせない少女に、佳林はただ瞬きをするだけだった。

291 :U.鞘師里保 :2014/04/23(水) 06:15
「ま、いいや。あたし、鞘師里保」
「……………」

差し出されたのは右手。
吸い寄せられるようにそれを見て、佳林は視線を揺らした。
見覚えのある合図に。

この合図は、そう、握手だ。
つい先ほどのあかりが脳裏によみがえってくる。
仲良しと言っていた。一緒にいて楽しいとも。そして――。

あかりに強引に握られた手は、妙な感覚を佳林に流してきた。
嫌悪でもなく、憎悪でもない。
いうなれば、胸のあたりが温かくなるような、いいしれないものだったのだが
その感情の名前を佳林は知らない。
だが…不快ではなかったその感覚。
だから。

292 :U.鞘師里保 :2014/04/23(水) 06:15
「……………」

そっと、少女――里保から差し出された右手に、佳林は自分のそれを重ねた。

「よろしくねっ」
「……………」

こくり、と。
頷けば、笑顔で里保は佳林を見つめてくる。
それを見つめて佳林は思った。
やはり、不快ではない、と。

朋子以外の物に触れられてそう思ったのは、あかりを含めて里保が二人目だった。

293 :エシクスト :2014/04/23(水) 06:16
本日ここまで。
ちょっとした性的描写を含みますので落とします。
以降ochi更新とさせて頂きたいと思います。
294 :名無し読者 :2014/04/26(土) 18:06
おお、続ききてた
ochi更新になっても読み続けます
295 :U.鞘師里保 :2014/05/25(日) 17:28
里保がこうやってストリートパフォーマンスを始めたのは、もう一年も前からだ。
それまで通っていたダンススクールを辞める時、両親は猛反対した。
理由はもちろん、里保が辞めた先に見つめたい夢が、あまりにも不透明で危ういものだったからで
親としては当然の反応だと誰もが言うだろう。

「みんな反対したんだけどさ、私、自分のダンスがどこまで通用するか知りたくて」

子供の夢はいつだって危うい。
だからこそ、大人は経験に基づいて言って聞かせる。
けれど、子供からしてみればそれこそ机上の空論で、里保もまたそう思う一人だった。
何事も、自身でやって失敗するまで、それが危ういものだったのだと気づかない。
だから…その熱意に最後は里保の両親が折れた。

「色んなオーディションとかあるじゃない。あーゆーの受けたいって思ったんだけどお金が
必要だったりしてさ。これ以上親に迷惑かけらんないし、こうやってここで稼いでるってわけ」

援助は、得られただろう。
子の夢を応援しない親はごく稀で、里保の親もその枠には当てはまらないのだから。
ただ、それを良しとしなかったのは、里保の中にある幼くも強い意志とプライドだ。

自分で決めた道なのだ。
ならば、それを切り開くのも自分でなくてはならない。
自立心が強い、といえばそれまでだが…やはり最後まで突き詰めれば「意地」なのだろう。

296 :U.鞘師里保 :2014/05/25(日) 17:29
「あ、ごめん、私の話ばっかりで」
「……………」

やりすぎただろうか、と里保はこめかみのあたりを掻く仕草と一緒に照れくさく笑う。
それから手元の炭酸飲料で喉を潤すように口をつけた。
それをただ佳林は無言でみつめるだけだった。

年の頃は自分と変わらないだろう、と里保は佳林を見やる。
どこかで見たような学校の制服を着ているが、生憎そういったことには疎くてよくわからない。
ただ、自分のダンスを見て、足をとめてくれた。
それだけがすべての印象だった。

好きなのだろうか? 踊ることが。
それとも、物珍しかったのだろうか?自分が。
何故だかわからないが、里保は佳林に少なからず興味を持ち始めていた。

自分と違って、可愛らしい女の子のくくりにされるだろう顔立ちに、細く白い手足。
その唇からは、どんな音が発せられるのだろう?
見た目通りの声なのだろうか?
それとも、自分のような芯の通っている声?

同年代の友さえ捨てて今ここにいる里保にとっては、無理もないことかもしれないが
佳林の存在が、どこか特別に思えてしかたなかったのだ。

297 :U.鞘師里保 :2014/05/25(日) 17:29
「ねぇ、あなたの夢は?」

ふいに問いかけてみた。
好奇心の波が、とどまることを知らずに佳林へと流れるがごとく。
けれど佳林は、じっと変わらずに見つめ返すだけで言葉が発せられることはない。

怖がっているのだろうか?
それとも何かの病気なのか。

こういう時に、気の利いた言葉のひとつでもかけられればよいのだろうが、
里保はどうにも昔から人見知りの体があり、こんな場面が苦手だった。
だから、精一杯の笑みで言葉を待つ。
佳林の言葉を。

「……………」

それに対して、佳林はゆらりと瞳を落とした。
質問をされるということがなかったのだから、答えるということも難しいのだ。

――― 夢。
その実態のないものに、期待を置いたことも考慮したこともない。
だからやはり…返事はできなかった。

きっと記憶を辿れば、ひとつは出ただろう。
が、それは「考えるに値しない事柄」なのだ。

第一、朋子が良しと思わないだろう。
だから佳林は考えることをやめた。
佳林のすべては、朋子で形成されているといっても過言ではないのだから。

298 :U.鞘師里保 :2014/05/25(日) 17:30
「ねぇ、君たち」

ともすれば気まずい空気に沈んでしまった二人に、意外な方から声がかけられた。
先に反応したのは里保だ。
ついと視線を向けた先、ちょうど佳林の後ろへ立つようにして、一人の男が笑みを浮かべている。
白いシャツに黒いジャケットを羽織った、一見してどこにでもいるような出で立ちだ。
その頬に、ちょっとしたひっかき傷のようなものが見受けられたが、とくに気になるほどでもなく
里保は、申し訳程度に頭を下げて見せた。

「僕、こういうものなんだけど」

器用にジャケットの内側から一枚の小さな紙を差し出してくる男は、やはり笑みを浮かべている。
その笑みには妙な威圧感があり、どことはなしに逆らえない雰囲気があった。
それに後押しされるように、里保を手を伸ばし、その紙をうけとる。
それはちょうど、佳林のすぐ肩口でされて、やっと佳林は男の方へと顔を振り向かせた。

「○○エンターテイメント事務所…?」

呟くような里保の声は佳林の耳に届いていた。
いたがしかし、佳林は男から視線を外さない。

299 :U.鞘師里保 :2014/05/25(日) 17:30
見覚えがあったのだ。その笑みに、頬の傷に。
里保が身構えるも、逆らえないと感じる笑み。
けれど佳林には、それは軽薄で卑しいものにしか映らない。
その理由はすぐに記憶をたどって、理解する。

先ほど見た男だったからだ。
ほの暗い部屋で、情事に乱れた跡が濃く残ったにおい。
朋子が去れ、と言ったあの場に、確かにその男がいた。
もっと言ってしまえば…、その後の朋子の意識から流れる映像が邪な者であることを
嫌というほどに伝えていた。

「君たち、芸能とかに興味あったりしない? 歌とかダンスとか」
「えっ?」
「よかったらさ、この後うちの事務所のオーディションがあるんだけど来てみない?」
「オーディション、ですか?」

里保はどちらかというと慎重な方だ。
それに、こういった世界に簡単に飛び込めるほど甘くないことも知っている。
自分の実力が、伴っているかそうでないかも幼心にわかり始めてはいた。
だからこそ、この魅力的な誘いには首を縦にすぐ振れなかった。

300 :U.鞘師里保 :2014/05/25(日) 17:31
「うん、君のダンス、見せてもらったけどまだ荒いよね」
「え…?」
「でも、センスを感じる。まだまだこれから伸びる要素がたくさんありそうだ」
「センス、ですか?」
「うん、だからうちの事務所の見学だけでも来てほしいなって」

こういった時の、大人は巧みだ。
どうすれば相手の興味をひけるのかも、狡猾なほどに知りえている。
もっといってしまえば、マニュアルなどというものが存在さえするのだから、
どれだけ、夢というものが甘く見られているのかわかったものではない。

そして子供は、不憫だ。
知るすべさえも、昨今、親の情報操作で奪われ、にわかの知識では追いつかず…、
正しい知識を得ることなく、絡み取られ…いいように貪られる。
気づいた時には…、堕ちて朽ちた後だ。

「そのオーディション、今日で最後なんだ」
「今日で…」

この言葉がすべての落とし穴なのだろうと…、朋子がいれば鼻で笑ったかもしれない。
人間は良くも悪くも時間で動く。あなたが最後なのだ、という特別感、今しか手に入らない
という優越感、それをくすぐり罠に落とす。いわば常套手段なのだが…。
男の声に耳を傾けていた時点で……里保はもう、捕まっていた。

301 :U.鞘師里保 :2014/05/25(日) 17:31
「覗くだけでもいいんですか?」
「もちろん。嫌ならその場で断ってくれてもいい」
「…あの、じゃあ、少しだけ」
「そうこなくっちゃ。じゃあ、簡単な地図を渡すね。2時間後にきてくれると助かる」
「はい…!お願いします」
「良かったらお友達も一緒に」
「……………」

佳林は応えない。
ただ、じゃあ、と去って行く男の背中を見送るだけだった。

「ねっ!良かったら、あなたも一緒に来ない?」
「……………」

目を輝かせる里保は、きっとこれからに思いを馳せている。
「もしかしたら」、「たぶん」、「きっと」。
そんな不確定で不透明な希望を夢見て。
もう少し、佳林に朋子ほどの心があれば、違う未来へ導く道もあっただろう。
が、佳林は佳林だ。朋子ではないし、なれない。
それは、どうあっても覆らない事実だ。

黙ったまま見つめてくる佳林を肯定ととった里保は、笑顔で手を差し伸ばし、
定められた運命への道を歩き出してしまった。

302 :エシクスト :2014/05/25(日) 17:31
本日ここまで。

>>294 名無し読者さん
ありがとうございます。内容からochiですがお願いします。

303 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:26
一瞬の出来事だった。

地図に記されていたビルの一室に赴いた里保と佳林が、その扉を開いた瞬間に、
まるで獣が飛びかかるがごとく、二人の男におのおのその身体の自由を奪われ、
近くに投げ出されたのだ。

ぎしり、と軋む音を耳に、弾力ある鈍い痛みを感じて咄嗟に閉じた瞼を里保が開くと
一面赤の世界が広がる。
いや、すべては壁の塗装と照明だ。
だがしかし、そののっぺりとした色は里保の胸に、大きな緊張を与えるには十分で、
慌てて自分の身に起こったことを理解しようと、頭をかぶりふった。

一面の赤は、いやしくも輝くマゼンタ。
むせ返りそうなほどの、キツいムスクのようなアロマの香り。
背に感じるのは、シャリシャリとしたベッドシーツ。
そこに自分の身が投げ出されたのは判る。

ガラスをふんだんに散りばめられた照明の類は、およそオーディションとなる場所には
相応しくなく、まるでここは…、欲望を吐き捨てる場所特有の危険な匂いがする場所ではないか。

304 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:26
そう、自分は佳林を連れてオフィスビルに入ったはずだ。
なのになぜ、こんな内装の場所にいるのか。

理解しようとしている。
いや、もう判っている。
頭では分かっているのだ。

自分は…欺かれた。…騙されたのだ。
くしくも、『夢』とするものを利用され…嘲笑うように、
今、奈落の底へ落とされんとしているのだ。

浮かぶのは絶望。後悔。嫌悪。
何故自分は見誤ったのか。
そうはなるまいと、慎重に行動していたはずなのに。
そんな輩が、ゴロゴロしているのだと知りえていたのに…。
一時の感情に流されて、道化のように動き、そして、朽ち果てるのか。

305 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:27
「上玉じゃん。子供連れてくるとかよー」
「俺に任せてりゃこんなもんだよ。つーか、アイツ連絡ねーし」
「はぁ?」
「お前の前に呼んでた奴、電話にも出ねーの」
「いいじゃん。その分俺が引き受けるって」

不快な会話が耳元で囁かれる。
その間にも、卑しい笑みを顔に張り付けた男が、里保と佳林に圧し掛かってくる。
そうされれば最後、男の力に逆らうことなど無理な話。
それぐらいは理解できるほどに、哀しい子供だった。

「くっ、やめてよ…! いやぁッ!!」
「そういうなよ。大人しくしてた方が、痛まないぜ?」
「離…して…ッ!!」

ぎりぎりと頭上に締め上げられる腕。
咄嗟に蹴り上げようとした脚は、それより先に割られ入り込まれる。
毅然と睨みつめた瞳に向けられたのは、好奇な色を滲ませた獣の笑み。

抗えない。
なにも、できない。
これが、自分の辿る末路なのか。

306 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:27
憎々しげに、顔を逸らせ…里保は気づく。
隣で、同じく男に圧し掛かられている佳林の存在に。
いや――― その視線に。

佳林は…、男を喉元に埋めながら抵抗もなく、ただじっと里保を見つめていた。
顔色一つ変わらないその表情は、人形のようで…不気味ささえ感じる。

何故、自分を見つめる。
何故、抵抗のひとつもしない。
何故…、この状況を受け入れている。

ぞくりと、腹の奥から溢れる『違和感』に、今は男よりも佳林が恐ろしく感じた。
普通ではない、とさえ感じる存在。
こんなときなのに、一言も発さないその姿は、何を思っているのか。

けれど…、里保はそれよりせねばならないことがあった。
佳林へ。

307 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:32
「………ごめん…!」

告げた瞬間、瞳から涙が零れた。

悲しいのではない。
ただ、悔しかったのだ。
自分の浅はかさが。自分の軽率さが。
そして…自分のせいで佳林を巻き込んでしまったことが。

貪られるように服の上から胸元を掴まれ、揺すぶられる中…佳林にわずかな変化があった。
軽く目を開き、里保の声に…眉を寄せ…、何度か瞬きをしたのだ。
まるで…言葉の意味がわからない。どういうことなのだ?と問うように。

が、佳林の思考は――― そこまでだった。

308 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:32
「――― なに、やってるの? 戻ってなって言ったでしょう?」

低く、苛立ちさえ含んだ声が足元で響いた。
その声に反応したのは、ただ一人。
……佳林だ。

「――― とも」

里保へと向けていた視線を、すっとそちらに向けてつぶやく。
滲み出始めていた感情は…その瞬間、閉じられた。
逐求める心は、―――止められた。

朋子の声によって、佳林は…佳林に戻る。

黒霧が部屋中に撒き散らされる。
朋子の意志のままに、その姿を巻き込んで。
ゆらりと、その身体を抱くようにかき消せば…、次に現れたのは
…佳林の食われていたベッド頭上。

309 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:33
「ひっ!? な、なんだこの女…!!」

追いかけた佳林の視線の先に、無作法にも革靴を履いたままの朋子が直立しているのに
気づいた男は、身体を震わせて佳林から身を離した。いや、飛びずさったというが正しいか。
無理もない。
射抜くほどの鋭い視線に、腰元に手をつける高圧的な姿、そして…あの出で立ち。
突然現れたそんな者に畏怖を抱かない方がおかしいのだ。
それは、里保と、里保に絡みつかんとしていた男も同様に。

「お前…!どこから入った…!?」
「さっさと起きなさい」

男の声など耳に届かぬとばかりに、朋子は自分を見上げている佳林にそれだけ告げる。
頷く佳林は、一度だけ里保に振り返り…軽く瞼を閉じると、黒霧に身体を溶かした。
そして次に現れたのは…、ベッドより離れたちょうど里保の足元。
隣に朋子を連れて。

その佳林の姿の、なんと禍々しいことか。
朋子に倣う出で立ちに、両手に持たれた大鎌。
くるりと円を描くように回して背後におろすも、佳林のその視線はなんの感情も持たずに
ただじっと、ベッド上に向けられている。
否、男二人に向けられている。

310 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:33
一見すれば、くりっとした瞳はあどけなく可憐ささえ映し出すだろうに、
今は、能面のような表情に不気味さが際立ち、鳥肌が立つほどだ。
それほどまでに…里保には、佳林が『異質な者』に見えた。
いや、事実、異質なものなのだが…、先ほどまで自分についていた少女とは
思えない変貌ぶりだったのだ。

本能的なものなのだろうか、里保の身体が小刻みに震える。
もはや今は襲い掛かってきた男よりも、佳林の方が恐ろしい。
きゅっと乱れた衣服の胸元を掴み、ただジリジリと遠ざかることしかできない。

その動揺は、男たちも。

「なんだよあいつ…、おい…っ、どうなってんだよぉ…!」
「知らねーよ…!とにかく逃げるぞ…!絶対アイツやばいって!」

昂揚感も一気に消されたのか、引きつる顔もそのままにベッドから飛び降りると、
足を何度も取られ転びかえりながら、我先にと男たちは扉から飛び出していってしまった。
が。
待っていたかのように、廊下に響きわたるは何人もの足音と…野太さを含んだ声。

311 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:34
『警察だ…! おとなしくしろ!』
『婦女暴行、殺人の容疑で逮捕する!』

朋子が手を回したわけではない。
だが、あれだけの大事があったのだ。
警察も事が起こってしまっているのだから腰を上げざるを得ないのだろうし、
男たちの口ぶりから、幾度となく起こっていた事件でマークされていて
ビル管理者が通報するに容易い状況を作った、ただそれだけなのだろう。
欲するがままに手に入れたものへの代償、それが高くついた、ということだ。

しばらくすれば、この場も検証などが入り騒がしくなる。
未遂ながらも被害に遭った里保がいるのだから、今日という一日が落ちるのは遠そうだ。

「……行くよ、もうここに用はない」
「……………」

踵を返すような朋子に、軽く頷いた佳林はその手の大鎌を黒霧に消し去る。
そして、後に続くように身体を反転させた。

312 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:34
「ま、待って!!」

それを止めたのは里保だ。
まだ震える身体。
拒むような視線。
怯える気持ちは抑えきれない。
しかし、今止めなければ、佳林とはここで二度と会えなくなるのではという、
焦燥感に似た気持ちだけで引き止めた。

「……………」

ただ、それだけだったのだから、言葉は続かない。
呼び止めて、何をきこうとしたのだ、と思ったところで何も浮かばないのだ。
必死になって頭の中を整理するが…、

「あなたは…なに?」

口をついたのは、悲しいかな、その程度の言葉だけだった。
出てしまった言葉は取り消せない。
取り繕う言葉も、その性格から里保にはわからない。
ただ、もどかしく佳林を見つめるだけだ。

313 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:34
もちろん、その里保にかけてやる言葉も…佳林にはわからない。
なに、と問われるのは初めてではない。
けれど、それに対する答えは…佳林にはなかったのだ。

…欠けているのだ。色んなものが。
だから。

「…、そんな簡単に人間を信じるもんじゃないよ」

朋子が代わりに告げてやる。
佳林の思うところと違う言葉だったとしても、すべてを終わらせるように。
里保の佳林への興味を断ち切るように。

一層騒がしさを増していく外に、すい、と視線を向けた朋子は溜息無交じりに
佳林を一瞥し、最後にと言葉を投げつけた。

「あなたは運がいい。その運でつかんだ命、大事にしなね」

瞬間、黒霧に紛れて朋子は消えた。
あとは好きにしろ、と佳林を残し。

314 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:35
「……………」

残された佳林は、やはり里保を見つめるだけだった。

朋子の言いつけを守らなかった結果がこれなのだ。
これ以上、「裏切る」わけにはいかない。
だから…、瞼をそっと伏せると…、朋子を追うように――― 静かに消えた。

その直後、部屋へと流れ込んできた警察によって、里保は保護されたのだが
この不可思議な出逢いを…その後において、一度たりとも忘れることはできなかった。
315 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:35


*****


316 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:36
眼下に広がるのは、からから回る赤いランプと耳障りなスピーカーの声。
そして、保護という名で車の中に身を押し込まれていく…里保の姿だった。

雑居ビルでの一連の騒動だけに、好奇の眼差しが次々と向けられているが
こんなのものは、きっとこの街では取るに足らないものなのだろう。
一瞥した人間は、また日常に溶け込んでいくように歩を進ませていく。

ばさり、と。コルピーニョをはためかせる様に、強い風が吹き抜けていく。
それを全身に受けながら、佳林は静かにただ一人だけを目で追っていた。
もちろん里保だ。

突然、離れ去る形となったことで、動揺とはいかないにしても、
いくらかばかりの、言い知れない気持ちが佳林の中に浮かびつつあったのだ。
まだ形にならないそれは消化不良で、ただただ里保を追いかける。

きっと里保には佳林は見えない。
小さな箱にその身を詰めこまれてしまえば、近くの建物の屋上にいようとも
捉えられないだろう。それ以前に、今の状況を把握さえしていないかもしれない。
そうすれば…人間というものはよくできたもので、記憶を上塗りしていくのは
時間の問題だ。そう…佳林という者がいたという記憶さえ。

317 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:36
それが『別れ』なのだと、今の佳林には、まだ理解が難しい。
だが、しかし…、背後に立つ朋子はすべてを理解していた。
佳林の、その気持ちさえ。

「ねぇ」
「……?」
「なんで臨戦態勢とってたの?」

臨戦態勢、とは。
もちろん、そのいで立ちのことである。
朋子のそれが猫の姿からの変異ならば、佳林のそれは…この黒衣に刃なのだ。

何故か。
問われて佳林は、今一度眼下を見つめた。
すでに里保を閉じ込めた箱は、低いうなり声をあげて走り出さんとしている。

その小さな身体に見合わない程の躍動感あふれるダンスだった。
なにより、その笑顔が輝いていた。
ただ、ほんの少しの時間だけだったが、そこには惹かれる何かがあったのだ。
佳林の、心の奥底に眠る…何かを揺さぶるほどの。
それに。

318 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:37
刃を黒霧に消し、何も持たぬその手をゆっくり見つめる。
確かにあったぬくもりは…、今はない。
けれど、そこには大きな意味を残してくれた。
佳林が、朋子からは得られなかった大きな手のひらの意味を。

「握手、仲良し、した」

きゅっと軽く拳を作って見せれば、まだその手に何か感触が残っている気がした。
もちろんそんなことはありはしないし、馬鹿げた行動なのかもしれない。
それでも、そうしたいと思ったのは…佳林の中に芽生え始めた初めてともとれる『感情』だった。

朋子にはわかる。
だから笑い飛ばすようなことはしない。
しないがしかし。
代わりのように、腰に軽く手を置くと俯きざまに盛大な溜息をこぼした。

319 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:37
「……もっとまともな学習が必要だね、佳林ちゃんには」

良しとは思わない。
佳林が新しいことを覚えることに、朋子はこれからだってずっと。
だが摘み取る権利もない。
知りたいと思うのであれば、好きにするといい。
自分では、なにもしてやれない。
そう思うからの言葉だった。

その選択が、のちに朋子自身を…また佳林を苦しめることになるとは思いもしなかったが。

今一度と、その手のひらから眼下を見下ろした佳林の瞳は、
走り出した一台の箱を…いや、その箱の中で何かを探す里保をみつめていた。

もう二度と二人の視線が交わることはないだろう。
それでも、佳林は里保の姿がみえなくなるまで見続けていた。
それしか、できなかった。

320 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:37


*****


321 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:38




突き抜けるような青空の下、静かに街を見下ろす少女と黒猫。
もうこの場に馴染むかのようなその姿だが、その愛らしい姿とは裏腹に視線は冷然たるものだ。
どこかその達観した眼差しは、いつでも道義を外れた者を捕えんとしているように見える。
それが二人の存在理由なのだから当然なのだが、容姿だけを見ると勿体ないと思う者も
少なくないだろう。
そして、それを思う者が、突然の来訪を告げる。

「いたいたーっ!」

ガシャン、と、重い屋上扉を力いっぱい開いて飛び出してきたのは、二人が確かめずとも
もう感じ取れるようになった人物、そう、あかりだ。

「うるさいのが来た…」

猫らしからぬ肩を落とすという行動と、うんざりという口調で朋子は佳林の肩から一瞥する。
この手の人間は、一番苦手なのだ。
聞き分けという言葉を理解せず、無謀で向こう見ず。
そういう人間のそばにいると、必ず厄介ごとに巻き込まれるものなのだと知っているのだから。
こういう場合は退散するに限る、と朋子は佳林の肩から飛び降りようとして。

322 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:39
「つっかまーえたっと!」

それより先に、駆けてきたあかりの腕の中に閉じ込められた。

「ちょ、やめさない…!」
「えーから、えーから」
「よくない!」

いくら未成熟な子供の力とはいえ、猫一匹の力など たかが知れている。
どれだけ身を捩ろうと、強くその胸に抱かれてしまえば逃れることは難しい。
観念した朋子は、恨めしくあかりに目を向ける。
が、それさえも可笑しそうに笑って見つめるあかりは、正面から朋子を覗き込み。

「ちゃーんとしてなかったからさ。はいっ、猫ちゃんも、あーくーしゅっ!」

強引にその右手をぶんぶん振って見せたのだ。
反動で朋子の身体は、何度か弾む。

323 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:39
あかりの強引さは、今までかかわってきた人間にはないタイプだ。
だからこそ、厄介だと朋子は思う。
こういう人間は、どう思われようが我が道を突き進み、必ず周囲を巻き込む。
しかも、不思議なことにこの世にはそれをしても許される人間がいたりするのだ。
まったくこれだから人の世は…と嘆息したところでもう遅い。
朋子は、いや、朋子と佳林は『巻き込まれた周囲』だった。

「あーもー…」

うんざりだと、天を仰ぐ。
と、そこに響いたのは、凛とした声。

「とも、握手、仲良し」

今それをここで言うか、と非難の眼差しを声の主、佳林へ朋子は向ける。

「違う、それ、ぜんっぜん違う」

それでも佳林は首を傾げてみせるだけだ。
判っていないのだ。
だからどう言っても仕方ない。
仕方ないがしかし。
どうにも納得しがたい気持ちが、朋子の中でもどかしく渦巻くのだ。
それをありのままに教えてやればいいのだろうが、あいにくその気が朋子にはない。
佳林に「これ以上」教えてやるつもりはないのだ。

324 :U.鞘師里保 :2014/05/30(金) 12:39
「えー?なになにー?」

何も知らない子供はもう一人。
首ふり人形のように、朋子と佳林を交互に見つめてくる。
それに対して、佳林は改めてあかりと朋子を指さし「仲良し」と答えて見せた。
その瞳に僅かな光がともったのを、誰もが見落としてしまったのが残念な事象だ。
一瞬、わずかながらも確かに色を持った佳林の瞳は、何を見たか。
それを知るのは、まだ先の話だ。

「だから違うって」
「そう!仲良しやねーっ!」
「なぜそうなる!」
「ええやんっ! みんな仲良しーっ!」
「仲良し、みんな、仲良し」
「あぁ…もー…やだ…」

まだ冬の季節を感じる冷たい風が、ただただ三人の声を興味深そうに包み込み
吹き抜けて行っていた。

325 :エシクスト :2014/05/30(金) 12:40
本日はここまで。

と同時に「U.鞘師里保」は、ここで終了です。

326 :V.道重さゆみ :2014/06/19(木) 06:20





慈悲など求める意志さえなかった。
そこに価値などないと知っていたから。

冷たい地面に寝転がり倦怠感に瞼を閉じる。
そろそろ寿命が尽きようとしているようだった。

随分、骨ばってきた関節や、浮き立つアバラ。
かさつく唇に落ちくぼんだ瞼が、すべてを物語っている。

どうやら思わぬ行動が怒りを買ったらしい。
ほとほと人間の勝手さに呆れる。

贄であって贄でない者。
ならば生死も人間が操るのか。

それでも薄れていく飢餓感の果てにあったのは、やはり、―――憎しみだった。





327 :V.道重さゆみ :2014/06/19(木) 06:20


*****


328 :V.道重さゆみ :2014/06/19(木) 06:21
きゅっ、きゅ、と。
器用にまとめられていく佳林の髪。
それを見つめながら、溜息をついたのは近くに鎮座している黒猫、もとい朋子だった。
朋子にそんな行動をさせるのは、佳林以外にはただ一人、あかりだ。

どれだけ邪険にしてもあかりは折れない。
それどころか、どんどん自分達の領域へと入ってくる。
今となっては、この屋上という場所で共に時間を過ごすのが当たり前のような
流れになっていて、どうしたものかと考えるのも面倒になってしまうほどだ。

もともと人と接することがそんなに得意ではないからか、強くも言えない朋子は
ただただ呆れ気味に、あかりのおもちゃと化している佳林を見るだけだった。

と。
ふいに自分の足元に散らばっているものを見渡す。
それは、あかりが持ってきた小さなビニールのポーチの中身なのだが、
目新しいものの数々に、ちょっとばかりの好奇心がくすぐられた。
美容というものにさして興味をもっていないせいか、朋子にはわかりえない
不思議な小物ばかりで。

器用にそれらを手にとっては、佳林の髪へと留めていくあかりの姿は
いつものどこか抜けているようなイメージの人物とは違って見えたものだ。

329 :V.道重さゆみ :2014/06/19(木) 06:21
その小物の中で目を引いたものが一つ。
小さな長細い、紙のような…不思議なもの。

「ねぇ」
「んー?」
「これなに?」

そろりと腰を曲げて、口先で咥えてあかりに示してみれば、佳林の髪をまとめる
手を軽く止めて、朋子に振り返ってくる。
そのままじっと、目をこらすようにして顔を近づけてくるあかりに、朋子は少しだけ
目を瞬かかせた。至近距離で見れば、思った以上に整っていた顔で。
さらりと流れた髪は、上質な絹糸のように軽く朋子の頬をくすぐる。
それになにより、きょろりとした瞳が澄んでいる上に大きく、猫のようにしっかりしたもの
だったのだ。猫である朋子が思うのもおかしいのだが。

「あー、これはね、絆創膏」
「バンソーコー?」
「そ。ちょっとした切り傷とか、そのテープを張っておけばバイ菌バイバイできるの」

ちょっと待ってね、と軽く佳林の髪をピンで仮留めすると、あかりは朋子の口からそれを
摘み上げ、ぴり、と包装を破りシートを軽く外してみせた。
そのまま自分の手の甲にあるホクロを隠すかのように張り付けて、ほら、こんな風に、
というように朋子にみせてやる。
まるで子供への説明みたいで癪ではあるが、気にした様子もなく笑顔で示してくれた
あかりに、朋子は素直にふむ、と頷いて理解したことを表した。

330 :V.道重さゆみ :2014/06/19(木) 06:22
「ふーん…、人間って色んなものを作ってきたのね」

素直な感想だった。
朋子の知っている人間という生き物は、私利私欲にまみれた末路に立つ者しか
知りえなかったのだから、こういう発見は興味深いものだったのだ。
ふふん、と、朋子の反応に満足したのか、再びあかりは佳林に髪へと指先を滑らせる。

それにしても…、と。
朋子は、なされるがままの佳林をちらりと見た。
映る横顔は、いつもと変わらないように見える。
まっすぐただ正面をみつめ、およそ感情らしい感情なんて見当たらない。
きっと、今あかりにされていることもなんなのか理解していないのだとも思う。

けれど…先日、あの雑居ビルの世闇に立っていた佳林には確かな「感情」があった。
それを見過ごすほど、朋子は「抜けて」いない。
まだまだ遠いその知識なのだろうが…、このままここに留まるということはつまり、
佳林がそれを覚えていく可能性が高く、朋子にとっての悩みがまた増えるのでは
と少しばかり陰鬱な感覚に囚われたのだ。
しかし…佳林に入ってくる情報を遮断するなど、朋子にはできない。
だから…また厄介だと溜息が零れてしまった。

331 :V.道重さゆみ :2014/06/19(木) 06:22
「ていうかさ、こんなとこいていいわけ?」

むっとする気持ちのまま、その元凶の一端を持っているあかりに冷たく尋ねる。
がしかし、あかりは事もなげに笑顔で応えてくる。

「今、自習時間なの」
「じしゅう?」

聞きなれない言葉だと朋子は首を傾げる。
それを見て、ふっと噴き出したのはあかりだ。
きゅ、と、左から流れ落ちる佳林の髪を器用に編み込み、ゴムで留め。

「猫に言っても仕方ないか…って、あれ?元は人間なの?それとも猫が本当?」

素朴な疑問だった。
本当はどちらなのだろう、と。

普段あかりが見慣れているのは猫の姿だ。
佳林の肩にちょこんと乗って、愛らしい姿とは対照的に大人びた口調で
あれこれと指図や憎まれ口を呟いて。

けれど、あかりは知っている。
人間の姿をして、夜闇に現れた朋子を。
あまりにもインパクトが強くて、忘れることの方が難しいと言ってもいい。

332 :V.道重さゆみ :2014/06/19(木) 06:23
軽く首をひねって唸る。
好奇心旺盛なあかりは、なんでもすぐに追いかけたがる癖をもっていた。
それゆえに…今は、佳林と朋子がその餌食となっていて、とにかくなんでも
知っていたいという欲求が止まらないのだ。

「ねー教えてよー、なんでそんな変な格好になってんのー?」
「あーもーうるさーい。人間の子供ってやっぱメンドクサイ…」
「失礼なっ! これでも、もう中学三年生なんよー?」
「わかんないけど、あなた見てる限りそのナントカ三年生は子供だね」
「むーっ!!」

ああいえばこういう。
朋子の言葉はまるで容赦なくあかりを撃ち落していく。
それにいちいち反応さえしなければいいのだが、むきになってしまうあたり、
やはりあかりは、朋子の言うようにまだまだ子供だった。

すい、と。朋子はあかりを無視するように佳林を見る。
あかりに自由にされている佳林は、無表情に前だけを見つめている。
一見すれば、どこも変わりなんてなくて、朋子の良く知る姿だ。
だが…。
と、そこまで考えてすべてを溜息で飲み込んだ。
何度となく考えたところで仕方ない。
最近深く考えすぎるクセがついてしまったか、と苦笑してしまう。

333 :V.道重さゆみ :2014/06/19(木) 06:23
「よしっ!出来たっ!」

あかりの手を合わせる音に反応して、ぱっと再び朋子は顔を上げる。
みれば満面の笑顔で、ちょこちょこと指先で佳林の髪に触れ整えている。
全体を見渡して、ふむ、と一度軽く瞬きをした。

あかりの人形となっていた佳林の髪が、左側だけ編み込まれる形で
綺麗にまとめられていたのだ。
いつも切っ先が風に揺れて唇で食むこともあったが、きっとこれなら
そんなこともなく、乱れる心配はないかもしれない。
ぼんやりそんなことを考えながら、朋子はあらわになった頬の輪郭を見つめる。

驚くほどに白く、薄い皮膚。
それでも十二分に柔らかさを滲ませていて、きっと情を持ったものなら
一度は触れてみたいと思うかもしれない。
あどけないその表情は、あかりと同じ年頃だろうに、その振る舞いは、
自分のようにアンバランス。

もっと違う環境にその身があれば…。
胸に浮かんだ想いは口には出さない。
叶えてやることもできないのだから。
334 :V.道重さゆみ :2014/06/19(木) 06:23
「…とも」

不意に、すっくと佳林が立ち上がる。
わっと、後ろにいたあかりが後ろによろめくのが見えた。
そこで朋子は我に返った。

仕事だ。
頭を切り替えなくては。
一度猫らしく背中を伸ばす仕草をして、佳林の肩へと飛び乗る。
印象の違う佳林の顔立ちに、ちらと視線を向けるのは一瞬だけ。
ぱっとあかりに首を回して、猫には似つかわしくない笑みを浮かべて。

「じゃね、子猫ちゃん」

からかい口調で言葉を投げて、黒霧へと一人と一匹は身体を溶かして消えた。

「なによぉーっ、子猫は自分やんかー」

拗ねたようなあかりのその声は届いたか。
ただ、屋上を吹き抜けて行く冷たい風に乗って、さらりとあかりの髪が舞い踊っていた。

335 :エシクスト :2014/06/19(木) 06:24
今回更新はここまでです。
336 :名無し読者 :2014/06/19(木) 22:21
お、続編ですね
お待ちしていましたっ
337 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:39

*****

「お疲れ様でしたぁ〜」

緩い、ふんわりした声で、道重さゆみは遠すぎる夜明けの時刻に店をあとにする。
今日の売り上げも、上々だった。
固定の客が多くついてくれていることもあるが、それでもこの店No,1とされるさゆみの
人気たるものが大きいだろう。

大きな瞳に白い肌。
長身ながら、細身の輪郭が女性らしさを醸し出して。
そして、流れるような美しい漆黒の髪。
挑発的な言葉の中にも、相手の本心をすくい上げるような誘うような話術。
そのすべてが、天性の才能のようだった。

「…真っ暗、か」

ふぅ、と深く溜息をついて空を見上げた。
けぶるように仄暗い空は、都会の街に溶けるように霞んで見える。
星が見えることなんて、願っても無理なのだろう。
もとより、見えたとして願うことなどもないのだが。

あと、どのくらいこの仕事を続けるのだろう?
『ホステス』とくくられるこの仕事は、自分に合っているとは思っていない。
それでも、そこから抜け出すことを考えたこともなかった。
だがしかし…、最近になって胸にこみ上げてくる違和感を否めないのだ。

いや、実際には違和感などではなく…罪悪感だ、と、苦笑する。

「寄り道、してこっかな」

言葉は軽い。
が、その足取りは泥に取られるかのように重かった。

338 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:40





さゆみの脳裏に、こびりついて離れない出来事がある。
それはちょうど進路を決めるという高校三年の秋。
あの日も、今日のような灰色の空が広がっていた。

昔からさゆみは、美容に興味があった。
それこそ、毎日鏡を覗き込み、街で店に並ぶさまざまな化粧品を見て歩くぐらいには。
顔なじみのショップ店員まででき、ちょっとしたメイクやコーディネートならプロにも
負けないテクニックを覚えているほどで、親も舌をまくほどだった。

だからその道へと行くのだろうと、親しい友人は皆一様に思っていた。
けれど、予想に反してさゆみは短大への道を選んだのだ。

学力もほどほど、近郊で、費用もさしてかからない。
理由は、なんのことはない、『友達に誘われて』だ。

周囲に告げれば、皆が驚いたが…次には頷いた。
そうだよな、と。
現実はそう甘くはない、ならば正しい道だよな、と。
さゆみ自身も、そうだと思ったのだ。
未練はあるが、浮いた不安定な道よりも、と。

だが一人…、ただ一人だけ、さゆみに異を唱えた者がいた。
亀井絵里、さゆみの幼馴染であり、一番の友人である。

絵里は、さゆみと違い地味だった。
目立つこともなく、クラスにいても控えめで、卒業すれば思い出してもらえるかも
判らないぐらいの印象の薄さで。
いじめられることはないにしても、さゆみとは対照的で、一緒にいる姿に他の友人も
不思議がるほどだった。

それでも、さゆみは絵里が好きだった。
笑った瞬間の、くしゃりと目が無くなってしまうぐらい楽しそうな顔も。
唇の端から、ちらりとのぞく特徴的な歯も。
ふんわりした雰囲気で、さゆみの悩みを うんうん、と頷いてきいてくれる姿も。

その絵里が。
おそらく、さゆみが知る限りでは初めて…叱りつけてきたのだ、自分を。

339 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:40
おそらく、さゆみが知る限りでは初めて…叱りつけてきたのだ、自分を。

最初は静かに会話が進んでいたと思う。
話題は、そう、進路だった。

ずっとさゆみの話を聞かされていた絵里は、さゆみが美容専門学校に行くものだと
信じて疑わなかったのだろう。
短大への受験を告げた瞬間、文字通り表情を失い…、次に顔を赤らめて激怒したのだ。
温厚で、ただの一度だってさゆみに意見たる意見をしなかった、絵里が。

「なんで…!? さゆ、ずっとそういう仕事に就いてみたいって言ってたじゃん」
「え、でも、夢と現実はやっぱり違うでしょ。学歴とかちゃんとしたもの欲しいし」
「学歴…。それ。本当にさゆに必要?」
「どういう意味?」
「これから先、その学歴が絶対必要な夢に就く? とりあえずのものなんてきっと
時間の無駄だよ?」

胸の奥底にしまったものを絵里に暴かれて、さゆみは言葉に詰まった。

不確かな『夢』に、さゆみは不安を覚えた。
自信はあった。
美容をとことん極めていける、と。
けれど、それが現実になりそうな所で…万が一…という黒い想いがこみ上げてきたのだ。

プロの世界は甘くない。
もし、自分が潰れてしまったら。
そう思うと、足がすくんだのも事実で。
だから滑り止めの感覚で短大への道を決めた。

そのすべてを絵里は見抜いていた。
そのうえで、さゆみに告げたのだ。
大切な何かを。

けれど…その時のさゆみには、心えぐられる言葉の数々に、それを考える余裕はなく。

「絵里にはわかんないよ…! もう決めたんだからほっといて!」
「さゆ…!」

相談をしていたファストフード店から、逃げるように飛び出した。

どうしてここまで言われなければならないのか。
他人に。
ただの友達だからといって。
こんなにも、泣きたくなるのは初めてだ。

340 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:41
渦巻く気持ちは、どんどん目の前を曇らせて…心を曇らせて…。
追いかけてきた絵里さえも遠ざけた。

「さゆ、待って! ちゃんと聞いて!」
「もういいよ! 絵里は応援する気ないんでしょ!?」
「違う! さゆがちゃんと決めたことなら応援する!けど…!」
「もうやめてよ!!」
「あ…!」

―――― 一瞬だった。

横断歩道の手前で、腕を掴まれて激しい口論。
何も聞きたくない、と遠ざけて振りほどいた指先。
点滅していた信号には気づかなかった。
自分の力が、思ったよりも強かったことにも。

とん、と、離れた絵里の身体は、軽くたたらを踏んだ足元しか見えず。
顔を上げた時には…、その姿は弾かれたように、車道に放り出されていた。

あ、という声は出なかった。
ただ、目を見開くしか。

長距離輸送のトラックが、右から左へと流れた。

よろめいていたのは絵里の身体。

そう、よろめいていた、はずだった――― が。

次見た姿は、まるでマネキン人形のように方向違いに曲がる身体と。

遠く、数十メートルは跳ばされ…道路に叩きつけられる姿だった。

341 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:41

全く何が起こったのかわからない。
が、しかし、トラックは止まらず走り去って。
転がり ぴくりとも動かない絵里だけが、クリアに目に焼き付いた。

瞬間、さゆみは震える身体を腕で抱きしめてその場を逃げた。
咽喉元にせりあがってくる何かを抑え込みながら。

そうやって自宅に戻って部屋にこもり、頭から毛布をかぶっていた。
これは夢だ。
現実じゃない、と祈りながら。

そうではない、と、事実を伝えられたのは…翌日の朝刊だった。
とても小さな記事だった。
ひき逃げとして、トラック運転手が捕まったこと。
目撃証言はなく、さゆみの存在はなかったものにされていたこと。
そして…絵里が、重体、と記され、生きている事を。

しかし…、と。さゆみは苦く息を吐いた。
あれを生きているとは、決して言わない。

何も知らぬ顔で見舞った時、さゆみだからと絵里の両親に面会させてもらった。

その先にいた絵里は…、全身をチューブで縛り付けられ、
辛うじて機械で延命している――― 植物状態だったのだ。

けれど、その姿を見て感じたのは…情けないことに…『安堵』だった。

誰も、さゆみを見ていない。
誰も、原因になったことがさゆみとの口論からなのだと知らない。
きっと、自分が誰にも言わなければ…真実は、見つからない。

酷い嫌悪感を抱いた。
そんな自分に。

だから―――。

ほんのわずかな夢さえも、見るのをやめた。

342 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:42





「それ、罪滅ぼし?」
「!?」

白一色の世界の中、病室の扉を開けようとし…突然、背にかけられた声に身体が跳ねた。
持っていた小さな封筒を取り落してしまいそうになるぐらい。
わっと、振り返って声の方に視線を向けて…息を飲んだ。

清楚な制服の見知らぬ少女と、黒猫がまったくの無表情で自分を見つめていたのだ。
もちろんその少女と黒猫は、佳林と朋子なのだが…さゆみに知る由もない。

「だ、だれ…っ?しかも猫が喋っ…」
「静かに。ここ、病院でしょ? 静かにする場所なんじゃないの?時間外らしいし」
「…っ」

きゅっと口をつぐんで、佳林と朋子を睨みつけるさゆみは、しばらくそうしていたが
こんな時間なのだ。そういうことがあってもおかしくないのかもしれない、と首をふる。
それから、どうでもいい、とばかりに溜息を吐いて、手の中の封筒をじっと見つめた。

「それ、あなたが稼いだお金でしょ?」

朋子の指摘に、一瞥しただけでさゆみは目を閉じる。

そう、この手にあるものは、さゆみが働いて稼いだお金だ。
けれど、そうであってそうでない。
自由にしていいお金なんかじゃない、と、どこかで戒める自分がいるのだ。

絵里の事故の後、過失とされて保険会社からのお金がおりた。
それは脳死判定というチェックから、十分な医療費用となり
家族の負担は最小限なものになるほどだった。

だからこそ…罪の意識は大きく。
なかったことにされるのが、さゆみ自身を苦しめているのだ。
何かしなければ、そんな意識からの…行動が、これだった。

343 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:43

「そういうの、家族はたまんないんじゃないの?」

朋子の言葉は、どんどんさゆみの心を抉っていく。

一度見舞いの時間が絵里の母親と重なった時、笑顔で迎えてくれた後、
気付けばテーブルに置いてあったそのお金について「気味が悪い」と告げられたこともあった。
そして…絵里の事故には何かあるんではないかと、余計な胸騒ぎまで
おこさせてしまったこともあったのだ。
だからこそ、時間外に偽名まで使い、足を運ぶようになったのだが…。
いつかは…知られてしまうかもしれない、と焦燥感さえ最近抱いていたりするのだ。

「ほっといてよ…」

絞り出すような声は、朋子にかろうじて届いていた。
だからなのか、朋子は少しばかりオーバーなほどに溜息をついて。

「ま、あなたの決めたことだし。けど、置いてくならさっさとした方がいいかもね」
「え?」
「もうすぐ母親がここにくる」
「…っ」

朋子の言葉に、さゆみは通路に首を回した。
と、同時に、佳林がちらりと目線を肩の朋子に移した。
まったく無感情だったはずの、その佳林の目には…しっかり光が宿っていたのだが
朋子は気づかないふりをする。

「じゃ、またね」
「あ…っ!」

ただ、その言葉を最後に朋子は佳林を連れて黒霧へと姿を消した。
あとは自分で決めろ、とでも言うように。
逃げるも、逢うもさゆみ次第だと。

344 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:43

どうする…。
さゆみは内心焦っていた。
いつものように封筒を置いて去るべきか…向き合うか。
きっとまだ時期尚早だ。
何度となく、絵里の母親が、娘の姿に涙している姿を見てきた。
あの心の傷は、ちょっとやそっとでは癒せないほど深いだろう。

けれど…。
さゆみは唇を噛んで強く目を閉じる。

もし、自分が同じ立場なら…不条理な現実を呪う。
そのうえで…真実を知りたいとも思うはずだ。

事故、そう告げられて、真っ先に嘘だと否定したのは絵里の母親だ。
身近で見守っていたのだ、自分の娘が不用意に車道に飛び出すなんて
考えられないと。
非情な警察という機関の人間は、事実だと告げるだけだったが、それでも
引かなかった。

それに…薄々、この封筒の主が事故に関係していることに気付いている。
だったら…もう、潮時ではないのか?

許しを請うつもりなんてない。
けれど、そう…罪は罪なのだと…心のどこかで告げてしまいたいと、悲鳴を上げているのだ。
もう…吐きだしてしまいたいと。

ならば…。
現実は残酷であっても。

345 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:44





346 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:44

「出て行って…ッ! 二度とここにはこないで!!」

突き飛ばされたのは身体。
話があると連れ出した休憩室の、冷たく硬い床に転がるようにさゆみはうずくまるしかない。
次いで投げつけられたのは…封筒。
重みのあるそれは、容赦なくさゆみを痛めつける。
心も体も。
そうして、逃げるように去って行ったのは、優しかった絵里の母親だった。

判っていた。
こうなるだろうことは。
許される以前に、すべてを壊してしまうだろうと。
今までの年月、積み上げてきた絵里と絵里の家族との信頼の形を、ただの一瞬で。

それでも…告げざるを得なかった。
疲弊していたのは、家族だけではなく…さゆみもだったのだから。
どこかで、この生ぬるい流れを断ち切りたかったのだ。
それが…エゴだったとしても、だ。

その結果――― やはり、すべてを手放してしまった。

不思議と後悔はない。
ただ、ぽっかりと胸に穴があくような虚無感が広がるだけ。
大切な存在に、見放されたように。
自分という存在を、消されてしまったように。

347 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:45

「…言わなきゃ良かったのに」

聞こえた声には、返事をせず…さゆみは封筒を手にとり立ち上がる。
もちろん声の主は…朋子だ。
先刻のように、佳林の肩に乗り…静かにさゆみをみつめている。
なんの感情もないように。

「なに?言って楽になりたいとか思ってたの?」

決して棘のある声ではない。
ないがしかし、なんとさゆみには重い言葉なのだろう?

実際そうなのだ。
朋子の言葉の通りなのだ。
だから…悔しい。
他人に、踏み込まれることが悔しい。

もう少し、さゆみに周りを見る余裕があれば気づけたかもしれない。
朋子は決して冷たく見下していたわけではないことに。
どこか、そう、憐憫を含ませた眼差しを向けていたことに。

けれど、こみ上げてくる激情はさゆみの冷静さを飲み込んで、一気に溢れた。
成長を止めてしまった心が悲鳴をあげるように。

「そうだよ…偽善だよ、ただあたしは いいことをしているんだって思いたかっただけだよ!」

響く声は廊下を震わせる。
けれど止まらない
誰にも言うことはないと思っていた、胸の奥底に沈ませていたものが
一気に溢れかえっていたのだ。
否定されて、突き放されて、そこまでされて…砕かれた心が今弾けて。

348 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:45

「だって、そうでもしなきゃ、何もなかったことにしちゃうじゃない!
悪いことしたのに、それ忘れて、もっと悪いことしそうじゃない!!」

自分だけは覚えておかなくてはと思ったのだ。
誰もが事故だとしていることでも、本当は違うのだと。
絡まった糸が、ハサミで冷たく切り落とされた結果なのだと。
発端は、自分にあったのだと。

でなければ、未来は変わっていた。
自分は間違っていると思った道へと進んだかもしれないが、絵里は違った。
他人から見れば、どうということはない人生かもしれない。
けれど、絵里だけが歩むことが出来た道があったはずなのだ。

だから。
自分のすべては…絵里のために。
たとえ歪んだ気持ちだとしても、それだけが今のさゆみを支える想いだった。

「あなた無茶苦茶…」

溜息交じりの朋子の声は呆れかえったもの。
それに対して、さゆみの昇りきった熱に曇った思考は怒りを爆発させた。

「アンタたちに何がわかるのよ!」

衝動的な行動だった。
拒絶されて突き返された手の中の封筒を、感情のままに投げつけていたのだ。

重くずっしりとしたそれは、鋭く飛び…佳林の首元をかすめていった。
瞬間、赤く鋭い一線がじわりと白い皮膚に浮かび上がり、
その傷口を覆うように、わずかな出血が始まる。

349 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:46

「あ…っ」

さすがに理性が落ちてきたのか、さゆみはハっと我に返ったように佳林を見た。
その傷口は僅かながらも、滲んでいく表面は痛々しい。
なのに、顔色ひとつ変えないかりんはじっとさゆみを見つめている。
痛みはないのか、と尋ねるさゆみの視線に応えたのは…、とん、と傷口のある
肩口へと移動してきた朋子だった。

「この子に痛覚なんてないから気に病む必要はないけど…」

そこで、赤い舌を差出し佳林の首元に浮かぶ傷口を一舐めする朋子は。
次の瞬間、軽く風を起こしながら黒霧に抱かれ…人の姿で現れた。

「本当に後悔したくないなら、病室に今から戻った方がいい」

あまりのことに目を丸くするさゆみだが、朋子の言葉にすべての疑問を押しやった。

病室に戻れ。
絵里の元へと戻れ。
それはなぜか。

「え…?」

掠れた声で訊きかえせば、軽く腰元に腕をついて目を細める朋子。
どこか厳しく、それでもほんの僅かな憐れみを含ませて。
それが意味するのは何か。

「今日、命日になるから」
「は? 何言って…」
「信じる信じないはあなたの自由」

なにを言っているのだと、さゆみは思う。
命日だと?
まさか。
こんな変な姿形をした者に何がわかるのだ。
だが、何故だろう。
妙な威圧感と、絶対的な何かがその存在に見えた気がしたのだ。
まるでそう…人の生き死にさえ動かしてしまうほどの…人外ななにかが。
佳林と、朋子に。

350 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:46

素性を明かしてしまえばすぐなのだろうが、それをしないのが朋子なりの
意地悪なのだろう。
元来、人間というものに嫌悪感を抱いている朋子らしいといえば、それだけだが。

「…っ!」

さゆみは弾かれたように、駆けだす。
ただの間違いであれば、それでいい。
けれど、しかし、本当に命日というならば。
その最後の時に、自分は絵里のそばにいなければならない。
そう、確かに思ったのだ。

「……………」

駆け出して行った背中をちらりと見て、佳林は朋子に視線を向けた。
いつもの無機質なものではなく、瞬きをし…先刻のように確かな色を持って。

351 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:47

どうして?
とも、そんなこと、いつも、いわないのに。

まるでそんな言葉が込められているように。
だがしかし、それに気づいているはずなのに朋子はおどけたようにするだけで
佳林に振り返りはしなかった。

「きまぐれだよ」

そしてただ、去って行ったさゆみの後ろ姿を見送る。
もう少し佳林に感情を読み取ることが出来たなら、わずかながら朋子がさゆみに向けた
ものがなんなのかを知ることが出来ただろう。
続けられた言葉からも。

「偽善だとわかっていても、それを最後まで苦しみながらし続けた人間を蔑むほど
うちは終わってない」

佳林は小首を傾げる。
けれど朋子はそれ以上噛み砕いて説明などしない。
深く自分に触れさせたりしない。
そんなところは、意地が悪い。
けれど。

すっと右手を握り、また開いた先に何かを持って、朋子は佳林に近づいた。
それは…あかりといた屋上で朋子が興味深く見つめていた、あの絆創膏だ。
いつのまにか一枚拝借していたのだろう。
それをピリ、と包装を外し…、何も言わずに佳林の首筋に残る赤い線の上へと
張り付けた。使い方は間違っていないはずだ、と朋子は確かめつつ。

佳林にとって、それは初めての経験であり、朋子からの接触としても初めてに近かった。
思わぬ行動に、朋子の瞳の奥を見つめた。
けれどやはり朋子は一瞥するだけで。

「…行くよ」

さらりと背を向けると黒霧へと抱かれるように消えて行った。

佳林は軽く指先で絆創膏に触れる。
ただのビニールだ。
なのになぜだろう、ほんの少しの温もりが残っている気がした。
朋子の、ぬくもりが。

「…うん」

返事はもう、朋子には届かない。
けれど、佳林は胸に落ちる言い知れない感情に瞼を閉じて…朋子を追いかけ消えていった。

352 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:47





荒げた息のまま、病室の扉を開ける。
幸いなことに、絵里の母親の姿はない。
ただ、室内には呼吸を助ける機械音が響き渡っているだけだ。
その稼働している音に、さゆみはほっと息をつき、絵里のそばへと歩み寄った。

顔色は変わらない。
人形のように微動だにしない姿も。
けれど、確かに生きている。
現実には生かされている、というべきかもしれないが、さゆみは信じない。
確かに、絵里は、生きているのだ。

そっと膝をつき、シーツに投げ出されている手を両手で包み込む。
記憶の中にある温もりはない。
けれど、じんわりと伝わる感触は安心をくれた。

そう、いつだって、絵里の存在はさゆみにいろんなものを与えていた。

不安に潰れそうな時も、あの柔和な笑みでなんでもないように笑い飛ばし。
憤りを感じる出来事には、唇を尖らせて我が事のように共に感情を露にしてくれた。
哀しく痛む胸には、そっと言葉なく寄り添って。
間違ったことには、弱くも強い信念で正しさを与えてくれた。

そうだ、正しさを与えてくれたのだ。
なのに、その優しさを知っていながら拒み遠ざけた。
その結果が、これなのだ。
どれほど後悔しても、さゆみの心をどろりとしたものが捉えて離さない。

けれど、もし正せるならば―――。

そう、いつも絵里がさゆみへと告げていた、励ましの言葉のように、もう一度。

353 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:48

「絵里…」

ぎゅっと、手のひらを握る。
朋子の言葉があったからではないが、この存在と離れるなんて考えたくないのだ。
どうか、目を覚ましてほしい。
その願いがいつか届くと信じている。

…想いというものは、ほんの僅かなチャンスとなって表れることもある。
それを掴めるか否かは…、今まで歩んできた選択肢がすべて関係していることも。
そんな言葉を脳裏に浮かばせながら、部屋に漂う空気となって、佳林と朋子は
さゆみを見下ろしていた。

「お願い…絵里、目を…」

――― かすかな変化だった。

指一本が一瞬意識を捕まえるほどの。

だからさゆみは、見逃しかけた。
けれど、そのチャンスを落とさなかった。

ぬくもりが、さゆみの両掌で動いたのだ。

弾かれたようにさゆみは絵里の顔を覗き込む。

「絵里…!? 絵里…!!」

反射なんかじゃない。
続けて僅かながらも、指先がまだ手のひらをくすぐっているのだから。

「だっ、誰かを…!」

わっと立ち上がろうと、さゆみは背を伸ばした。

その瞬間を、佳林も朋子も見届け…、そっと朋子は目を伏せた。

時が、きたのだ。
逃れられない宿命の時が。

354 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:48

「―――― ?」

さゆみは、違和感を感じた。

ただただ熱い、背中の一点。
そこから大量の蟲が体内に入り込んでくるような感覚。
むず痒さと、それを後から追いかけてくるような、激しい痛み。
手足の末端は、ぴりぴりと痺れ、力が入らない。
その感覚は、押し込まれるように…全身に。

呼吸が上手くできない。
ひゅう、と喉の奥が鳴っている。
ぽっかりと身体に穴でもできてしまったのか、酸素が全部抜けている気がするほどに。
けれど、こみ上げてくる異物感に咳き込み…気づく。

目の前の白いシーツに広がったのは、鮮血だった。

瞬時に脳が働き出す。

あぁ、そうか、と。

ちらりと背後に視線を送って、何故か深く納得してしまった。

「あんたのせいで…! あんたさえいなければ…!」

記憶の中にあった、優しげにさゆみに微笑んでいた絵里の母親。
それが今はまるで鬼のようだ、と。
不謹慎にも笑みが漏れた。
きっと無意識の中の意識が、緩やかにさゆみの意識を痛みから解放しようとしているのだろう。

355 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:49

文字通り、背後に立っていた絵里の母親の手によって…さゆみは背中を貫かれていた。
じんわりと背から突き抜けて見えている切っ先は、おそらく見舞い用の花を裁つハサミだろう。
その鋭さは、下手な包丁より残酷で。
じんわりと胸元を朱に染め上げては、さゆみの意識を奪っていく。

朋子の告げた『命日』とは、絵里ではなく…さゆみのものだったのだ。
それを理解したところで、もう遅い。

けれど、さゆみに憎しみの感情はなかった。
胸に広がるのは…何故か安堵。
断罪される自分への、安堵だった。

誰にも咎められることがなかった。
それがどれほどまでに苦しかったか。
自暴自棄になることもあった。
いっそ、自殺さえしてしまえれば良かった。
けれど…そんな勇気さえもなく、ただただ震える毎日。
もう…限界だったのだ、さゆみ自身が。

ざくり、と。
引き抜かれた冷たい刃は、再びさゆみの背に突き立てられる。
痛覚が最初に麻痺してしまったのか、それだけは幸いだった。

ただ、伝えたかった。
絵里を、見て、と。
待ち続けていたのはさゆみだけではなく、この母親だってそうなのだから。
けれど、哀しいかな…、溢れるのは黒く濁った液体ばかりで言葉は続かない。

356 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:50

もう一度、背を抉られる。
けれど、視線は絵里に向けたままだ。
最期なら。
これが最期となるのなら、絵里の姿を見つめていたい。

…どこで間違ってしまったのだろう。
走馬灯のように、こみ上げてくる思い出たちは、優しくさゆみを包んでいく。

いつだって一緒だった。

あぁ、そうだ、絵里は…さゆみにずっと言ってくれていた言葉があった。

ただ、その言葉を信じて進んでいれば…こんな結末はなかったのかもしれない。

『さゆは、さゆのままでいいんだよ』

にっこり笑った柔らかな顔は、どれほどさゆみの支えとなっていたか。

いや、

『ううん、さゆは、さゆのままがいいんだよ』

どれだけ背を押してくれていたのだろうか。

さゆみはひとつだけ悔やむ。
途切れていく意識の中で。
絵里が目を覚ます最初に、さゆみ自身はそばにいられないだろうことに。

最後の力で振り返れば、ぎらりとした赤い目で涙を流す鬼が…刃を振り上げ―――

「さ…ゆ……?」


―――― 咽喉元を、一閃。


……これでいいのだ。
これがきっと、自分のしてやれる最後の事。
か細く耳に響いた声の主のために…さゆみという存在が、なくなること。
それがきっと…未来をつくる。

朱に彩られた世界を遠くに…、そこでさゆみの意識は、事切れた。

357 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:50





358 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:51

惨状だった。
けれど、床に降り立った佳林と朋子の表情は変わらない。
幾度となく見つめてきた、人間の欲の先にある姿だったから。

ただ、部屋の中空を彷徨う紫の炎を見つめるだけ。
頼りなく揺らめいては、くるくるとベッドの周りで円を描くそれは…さゆみの。
哀しいかな、亡骸となった自身に寄り添うように、繋いだ手に近づいては離れるを
繰り返している。
まるで、…さゆみのもので、同じく朱に染まってしまった絵里を守らんとするように。

くるりと。
佳林は腕を回し、大鎌を黒霧から取り出す。
どういう状況であれ、狩らなければならない魂なのだから。
だが。
一歩踏み出そうとした佳林の前を遮ったのは、朋子だった。

すっと見上げた佳林は、ほんのわずかに眉をあげる。
朋子の表情が憂いたものに見えたのだ。
それが憂いだとは理解せずとも、朋子の心の機微が…佳林の何かを揺さぶったのだ。

ぶぅん、と。
今度は朋子が黒霧から、ボウを取り出した。
ここは自分が、そういうことなのだろう。

「…あなたはきっかけを作った。けど、ここにいても、もうこれ以上は何も変わらない。
……逝きなさい」

ぎりり、と矢を絞る。
ぶるぶると震える腕は、込められた朋子の想いか。
佳林にはわからないが、…わかりたいと…思う気持ちが芽生えていた。

タン、と放たれた矢は、獲物を外すことなく。
小さく悲鳴を上げる炎を貫いて…掻き消えた。

359 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:51

仕事の終わり。
だがしかし、朋子は動かない。
その背に、佳林は視線を送る。
どうしたのだ?と尋ねることができればよいのだろうが、
あいにく佳林には、その知識がまだなかった。
だから、ただただ、見つめるだけ。

気付いた朋子は、振り返りふっと口元を緩めて。

「だから、きまぐれだって」

それだけ告げて、佳林の横を通り過ぎると黒霧に消えて行った。

「さゆ……さゆ…?」

か細い声は、ベッドから。
佳林は追いかけるように視線を向け、ただ見つめる。

朱に濡れた絵里が、焦点定まらない瞳で、ただ手の温もりに呼びかける姿を。
そして…物言わぬ抜け殻となった…さゆみを。

その瞬間、わずかに…佳林の胸が痛んだ。
それがなんという感情なのかは理解できなくとも、確かな何かを感じたのだ。
けれど、それを教えてくれる存在は…いない。

ただ、見ているのが苦しい。
放心し、床にうずくまる母親さえ、胸を痛ませる。

それでも…どう表せばいいのかわからず…佳林は朋子の後を追って…黒霧に消えた。
いや、正確には…その場を逃げたのだが、それに気づくのは今ではないのだろう。

360 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:51





361 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:52

「どこに住んでるん?」
「……………」
「いくつなん?」
「……………」

肌寒い風が今日は吹き抜けている。
揺れるヒゲに、そう感じながら、朋子は学校の屋上フェンスから街を見下ろしていた。
背後では、いつものようにあかりが佳林に向き合って質問攻めをしている。

何度となく繰り返されているその姿に、朋子は溜息をつくだけだ。
佳林にあかりの質問が届いているとは思えなかったし、佳林自身、無表情に
あかりを見つめているだけだったのだから。

所詮佳林は…『そういうもの』なのだ。
わかっているが、べつの存在理由を見出してしまいそうな自分に少し嘲笑してしまう。

「あの猫、なんて名前? いつも呼んでるやんね?」
「……………」

やれやれ。
この質問は しばらく続きそうだ、と朋子は伸びをひとつ。
返事など…

「……………とも」

え?
朋子はわが耳を疑った。
今鼓膜を震わせた声に。
いや、だがしかし。
聞き間違えるなんてことはない。

362 :V.道重さゆみ :2014/07/25(金) 14:52

驚きに振り返ってみれば…、佳林は朋子を指さし見つめていたのだ。
涼しげな瞳が、朋子と交差する。

「そぉなんや! とも、っていうんや!あのイジワル猫」
「……悪かったねぇ、イジワルで」

対称的にあかりは、ぱっと顔を綻ばせて佳林に笑顔を向ける。
それが少し、朋子に冷静さを落としていった。

佳林が、誰かに反応した。
自分以外の者に。
それは良いことなのか、はたまた否か。
判断をつけかねる。
けれど…、きっと、この波は…止まらない。
そういった確信が朋子の中にあった。
だから。

「ま、いいんじゃないの…」

佳林の瞳をじっと見つめ、それだけ告げると…また背を向け街を見下ろした。

佳林は、自分のものではない。
自分のものではないが…。

相反する気持ちは、表にだせない。
闇に…飲まれてしまいそうで。
ここに降り立つときに、告げられた言葉に…墜ちそうで。
だからただ。

「そしたら、あなたのお名前は?」
「……佳林」

小さく響く、鈴の音のような声を風の中に溶かして朋子はただ目を閉じた。


363 :エシクスト :2014/07/25(金) 14:55
本日はここまで。

と同時に「V.道重さゆみ」は、ここで終了です。

>>336 名無し読者さん

ありがとうございます。励みになります。
亀&大量更新で申し訳ないです。

364 :名無し読者 :2014/07/30(水) 22:25
更新キテタワー!
読み終わったあとに目から大量の汗が……
365 :W.小田さくら :2014/08/08(金) 12:57





――― 自由があったならどうしただろう?

最後の刻に脳裏に浮かんだ。

この運命を打ち破っていただろうか?

少なくとも…言いなりにはなってやることはなかった。

そう…、あがいてあがいてそうやって生きてやった。

きっと。

――――― 心の自由があったなら。





366 :W.小田さくら :2014/08/08(金) 12:58


*****


根本的に甘えるのが上手いのだろう、と朋子はひとつ頷く。

誰、などとはもう愚問で。
くるくると器用に佳林の細く繊細な髪を編み込みながら、鼻歌を響かせているあかりは
朋子の無言の視線をものともせずにマイペースを保っている。

授業中だろう、と注意するのはもう諦めた。
それほどまでに、朋子と佳林の領域にあかりはどんどん踏み込んで、こちらが
折れる他なかったのだ。

佳林は佳林で、あかりの好きなようにされていて言葉をかける気にもならない。
つねに自分と一緒にいる必要などないのだ、と判っているから。
だから…時が来るまでは好きにさせる。
それが良いことなのかは、最近になってわかりかねているのだが。

367 :W.小田さくら :2014/08/08(金) 12:58

「できたーっ!」

不意に上がったあかりの声に、朋子は視線を上げた。
そこには、淡い紫色の華を象った髪飾りが、冬の風に凛として揺れていた。
雪のように白い肌の佳林だからこそ、そのたった一輪の華は鮮やかに色づいて目に眩しい。

「りんか、可愛いーっ!」

ぱちぱちと手を合わせるあかりは、本当に嬉しそうで朋子は苦笑いをひとつ。
と、そこで素朴な疑問を投げかける。

「ねぇ、なんで『りんか』なの?」

そう。
佳林が名乗ったその日から、あかりは佳林を『りんか』と呼ぶ。
あだ名、というものがあることは知っているが、何故普通に呼ばないのか疑問だったのだ。

「えー? だって、かりん、やろ? かりんかりんかりん…かりんか…で、『りんか』!」
「いやいやいや、意味がわからない」

どれだけ強引な話なのだと朋子は呆れる。
どうにも、あかりにはそういったセンスがない。
これでもし、自分の本名など明かせば、とんでもない事になっていただろうと身が震えたものだ。
今は佳林が告げた「とも」で定着してはいるが。

「えーの! 」

むっとしたように朋子をひと睨みするあかりだが、頬を上げるとぽっと出るエクボが可愛らしく
怖い、というイメージは到底だせないだろうな、と少しばかりおかしく思ったものだ。

と、そこで、校舎からチャイムが鳴り響き、あかりが「あっ」と短い声を出して散らばらせていた
メイク道具などをかき集めてポーチの中に押し込んでいく。
その様子に、佳林が振り返ってあかりを見上げる。

368 :W.小田さくら :2014/08/08(金) 12:59

「あ、りんかそれ、そのままでええよ? めっちゃ可愛いから」
「……………」

言われて髪飾りに触れる佳林。
にっこりそれに笑顔で応えると、あかりはバタバタと、じゃあね!と校舎へと続く扉に
吸い込まれていった。

「…へんな子」

そんなに慌てるぐらいならここに来なければいいのに、と嘆息する朋子だが、
すっと隣に立った佳林のもの言いたげな視線に、とん、と地を蹴り肩へと跳び乗った。
なに?と見つめ返せば、軽く小首を傾げ、そして。

「…『かわいい』?」

意味が分からなかったのだろう。
朋子に請うように佳林はそう呟いたのだ。
その瞳に、確かな色を滲ませて。

「………似合ってるってことだよ」

そうやってじっと見つめられて無視することもできず、やれやれと溜息をつき
苦笑しながら告げてやる朋子は、

「ま、いいんじゃない?」

髪飾りをくるっと見回して、その肩から黒霧に抱かれて掻き消えた。
興味がないわけではない。
ないがしかし、佳林の好奇心に付き合うには朋子には躊躇いがあったのだ。

「………似合ってる。可愛い…」

残された佳林は、そっと手で髪飾りに触れ…、

「お花をつけると、可愛い。似合う、んだ…」

言葉をひとつ噛みしめるように、口元を一瞬ゆるめて…朋子が消えた肩口を見つめていた。


369 :エシクスト :2014/08/08(金) 12:59

本日ここまで。

>>364 名無し読者さん
ありがとうございます。
金澤さんの言葉はどこか屈折していて、理解した時にはこういう事も…と、
作者自身も少しばかり胸が痛くなるお話で恐縮でした。

370 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:32
はじめは靴箱の上履きがなくなっていた。

よくよく探せば、ご丁寧にハサミで切り刻まれた自分のそれが、目に付く教室のゴミ箱へと
捨てられていて、あぁ…そういうことなのかと小田さくらは絶望感と一緒に理解した。
つまりは、いじめのターゲットに自分がされてしまった、ということだ。

相手にしなければ…というのが常なのだと、さくら自身わかっていた。
きっと堪えれば、相手もいつか諦める。
それか、静かに時が過ぎ去るのを待てばいい。

そう思っていた。
が、例外だってあるのだ。
主犯格は一人であったとしても、相手が大多数であれば、尚の事。

深く静かに広がっていく遊びという名のいじめ。

持ち物が無くなるのは諦めた。
休み時間には手洗い場で過ごす。
授業中に、教師に当てられ応えれば「聞こえません」と嫌がらせを受けただ俯く。
体操着が無くなったり、破られているのも溜息で捨てた。

そうやって何も行動しないことが、次へ次へと進ませ…ついに。

階段口で、背後から誰かに突き飛ばされた。
たった一瞬の出来事だった。

あっ、と思った時には二、三段弾むように足を滑らせ、そして…転落。

持って生まれた運動神経のおかげか、大事には至らなかったが…それよりも
傷ついたのは…心だった。
聞こえたのだ、確かに。
突き飛ばされる瞬間の、「しねばいいのに」という密やかな声と…転落したさくらの
耳に残るほどの愉しそうな笑いが。
一人や二人じゃない、それが深くさくらの心を抉って…激しい動機と眩暈を誘った。

371 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:33
このままでは、きっと殺される。
そう危機感を覚え、担任へ相談した。
親には…恥から言えず。

「えー、最近小田さんの周りで迷惑行為があるみたいです。皆さん、心当たりが
ある人は慎むように。こういったことは、近年犯罪として受け取られるケースもあり
状況によっては、警察機関への連絡だってありえますよ」

ホームルームで告げられた言葉に、しんと静まり返った教室。
これで収まるなら、と、さくらは安堵した。
が、しかし。

それがまた…事態を悪化させることになり…、見えなかった殺意は今となっては
見える殺意となって、日々さくらを苦しめだしたのだ。

「告げ口とかサイテー」
「お前、うざいよ」
「何様?」

聞こえた言葉はそんなだったか、もう思い出せない。

その日から、靴箱に虫の死骸が入らない日はなかった。
机の中には、得体のしれない液体がばらまかれてていることも。
冗談半分に、服を破かれることだってあった。

駆けこんだ職員室では、担任のこれ以上はどうしようもないのだという突き放す言葉に
すがる場所さえ失った。

372 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:34

大人に見放された子供は、その狭い視野の中でもがき苦しみ…涙にくれる。
知識も、助けの求め方もすべてが断たれてしまうことの恐ろしさを、大人は
すべてが後手後手になって気づくのだという。
警察機関であったとしても、それは論外ではなく、事が起きてからでしか動けず
民事不介入が鉄則だからこそ、さくらにはなんの救済にもならなかった。

食事も咽喉を通らなくなり、親が心配し学校を休ませるようになった。

ふっくらしていた頬は、削ぎ取られたように痩せ…目の下には安眠を妨げられて
浮き彫りになってしまった隈が広がる。
疲弊しきった心では、親の声も届かず…、ついにさくらは一つの決断を胸に浮かばせた。

『もう、終わりにしよう』、と。

373 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:34


*****


374 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:34

久しぶりに足を向けた学校は、なんの代わり映えもなく冷たい印象だけを見せて。
そのことにさくらは、なんの感慨もなく溜息を一つだけ零した。

やり残したことはたくさんある。
やりたかったことだってたくさん。
けれど、そのすべてを奪われてしまうぐらいなら…心だけは。
まだ自分が自分でいられる心だけは守っていたい。
それさえ壊れてしまえば、もう意志なく思うがままにされてしまうのだから。
それだけが、さくらの足を校舎へと向かせたのだ。

どうせなら…自分という存在を皆に刻み付けてやる、と。
歩を進ませたのは、屋上だ。

「あ、小田ちゃん、おはよー」
「………おはよう」

誰かとすれ違った。
誰だったか。
柔らかな笑みだ。
ふっくらした頬が、あたたかみある眼差しが眩しい。
あぁ、けれどもうどうだっていい。
きっと彼女にも、私は「可哀想な子」なのだから。

不思議そうな顔をする、その少女の隣をすり抜けて階段を上っていく。
まだ何言かを背に投げ追いかけてきた声は無視した。

もういいのだ。
終わりにしたいのだ。
だから、構わないで、と。

375 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:35
ガタン、と。

大きな音を立てて、屋上の扉が開く。

ここにくるのは初めてで、冷たい冬の風に煽られる身体が痛んだ。
くるりと視界を回せば、街を一望できるその場に、少しばかり感動をした。
こんな場所があったのだなぁ、と、感歎の溜息さえ漏れる。
けれど、それだけ。

ここはそんな場所じゃない。
もう、私にとってはどうでもいい、死出への場所なのだ。

ゆっくりと手すりを持つ。
錆びた感触が手のひらに伝わって、妙にリアル。
下に視線を下せば、遠近感が鈍っているのかすぐそこに感じる地面。

このまま落ちればコンクリートだろうか?
痛いだろうな。
どんな音がするのかな。
あぁ…怖いな…嫌だな…。

この後に及んで、そんな気持ちが膨らみ苦笑する。
けれど決めたのだ。
もう解放されるのだ、と。

生唾を一度飲み込み、ぐっと手すりを乗り越えようとして―――固まった。

376 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:35
「あの子かと思えば、珍しい来客だね」

先刻まで影も形もなかった黒猫が、すぐそこの手すりに、ちょこんと座っていたのだ。
それにこともあろうか、その猫はさくらを見つめて言葉を発したのだ。
驚かないわけがなかった。

それだけではない。
ちょっと視線をずらした先に、この学校のものではない制服を着た少女が、その丈より
随分大きな鎌を手に持ちこちらを見つめていたのだ。
まるで人形のような無表情で。

「だっ、誰…!?」
「さぁ、誰だろう? 今のあなたには必要ない情報じゃない?」

声は猫から。
どこまでも冷たく突き放すような声で…途端に教室での感覚が蘇り、喉の奥から
何かがせりあがってくる。けれどもう、それをコントロールすることは容易かった。
人間何かを諦めてしまえば、こんなにも楽になるんだ…などと考えてしまうほどに。

「なに?飛び降りる気?」
「だったら…なに?」
「ふーん…」

自然と猫と話している自分に驚く。
けれど、とうに『不自然』という感覚も麻痺してしまっている。
それに最後だ。
こんな会話をするのも。
ならば、最後の会話が黒猫だなんて、おかしくてお似合いじゃないか。
そんな気さえ、さくらの胸には広がったのだ。

377 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:36
「人間っていい御身分だよね」
「は?」

すとん、と。地に脚を落とした猫は、さくらの横を通り過ぎ少女の肩へと飛び乗った。
目で追いかけて…なんと奇怪な二人だろうとあらためて思う。
まるでそう…大きな鎌に黒猫は…死神のような…。

「こんな、物が溢れた世界でも、自由な世界でも不自由なんだって捨てて求めて捨てて求めて。
で、なに? 貰った命まで簡単に捨てちゃったりして、新しい命になろうっての?」
「な、なんにも知らないくせに…」
「ま、そうだ。あなたのことなんてわかんない。あなた自身しか」
「…っ」

どうしてか猫が至極正論を並べているようにしか思えなかった。
すべてを見つめていたような、それでいて、この先どうすればいいかもすでに
判っているかのような…それが腹立たしくて、睨みつけるしかできない。

その猫は、風にふわりと広がった少女の耳元に小さく齧りつき、その身体を
巻き起こる黒い霧に一度溶かした。
なんなのだ、と。なにが起こっているのかわからない。
わからないがしかし、再びさくらの前に現れたのは…猫ではなく…人だった。
威圧感を滲ませた、自分より背丈の高い。
その人…朋子は、まっすぐ射るようにさくらをみつめる。
どこか憎しみにも似た色を含んで。

378 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:36
「あなた、本当にその選択でいいと思ってるの?」
「…とも…?」

思いがけない言葉だった。
少なくとも、佳林にとっては。
誰かの生死に干渉するということに嫌悪すら持っていた朋子だからこそ。
なのに今、自らそれに巻き込まれようとしている。
その過去を、一度だって佳林は見たことなどなかった。
だからこそ…、朋子を見つめてしまう。
その視線に気づいている朋子は舌打ち一つで苛立ちを零す。

「なによ…、もう、どうしようもないんだもん…。逃げられないし、誰も助けてなんて
くれない。もう、死ぬしかないのよ…!」
「…ッ」

さくらの言葉に、朋子は一歩距離を詰める。
そして。

パン、と。

渇いた音が、屋上に響き渡った。

一瞬、さくらには何が起こったのかわからない。
けれど、じんじんと熱を持っていく左頬が、振り切られた朋子の腕が、
自身がその手で頬を払われたのだと気づかせた。
よろり、と、一度よろめけば、現実に思考が戻ってきて、じんわりと目の奥が痛みだす。

379 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:37
「あー…なんかムカついてきた」

朋子の声は、いつもの冷たさを含んだそれではなく、はっきりとした感情の色を見せている。
そしてそれは…紡がれた言葉にも。
滅多に垣間見ることもできなかった、その胸の内を乗せて。

「アンタの命だし、どうしようが自由だけど、アンタその選択するまでにやること全部やった?
必死になって生きた?ボロボロんなって抵抗したわけ?」

ぎり、と、歯を食いしばるようにして さくらに厳しい視線を送る朋子は、必死に怒りを抑えている
ように見えた。一息に言葉を流してしまうほど、それはとても感情的なもので、さくらには
返す言葉さえ浮かばない。
これほどまでに、自分に何かを言ってきたものが今までいただろうか?
いや、きっといやしない。
それは家族さえも、告げてくれることなどなかった言葉だ。
はなから 親というものを信じなかったさくらにはあたりまえのことなのだが。

「…とも?」

はっとしたのは朋子だ。
佳林の呼び声に、一気に冷静さが落ちてくる。
まだ頭の奥の方で燻るような熱をなんとかやり過ごすように、瞼を閉じて大きく息を吐く。

らしくない。
そう思う。
けれど、止められなかった。
簡単にすべてを投げ出そうとするさくらへの怒りを。
自分ならば…、と、重ね見た現実はもう手に入ることもないのに。
馬鹿げている。
自分はこんな人間ではないはずだ。
そう、落ち着け…、と自分に言い聞かせ、ようやっとさくらを正面から見据えた。

380 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:37
「…死ぬことに比べれば、苦しみなんてなにもない。これ、持論」

何を言っているのだ。この期に及んで。そう思う。
が、言わずにはいられなかった。
そして、すぐに後悔する。
いらぬ世話など焼くタイプではないのだ、と。

「…あと任せる」

軽く舌打ちをして、それだけ佳林に告げると朋子は姿を黒霧にかき消した。
追いかけるのは容易いだろう。
けれど、それを朋子は望んでいない。
それぐらいの機微を読み取るぐらいには、佳林にはできるようになっていた。
こと、朋子に関してだけなのだが。

「なんで…そんなこと言われなきゃなんないわけ…?あたし、頑張ったよ…?」

崩れるように膝をつき、顔を歪ませるさくらに、佳林は視線を向けた。
さくらがどのようにしてこの決断をしたのかわからない。
それを知ろうという気持ちも薄い。
が、…朋子から流れ受けた感情からすれば…佳林がさくらに抱いたものは「怒り」だった。
その名前を、まだ知るよしもないのだが、確かにそれは形になって…今放たれた。

381 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:38
「あなたは頑張った気になっているだけ」

すっと、大鎌を下すと静かにさくらを見下ろす。
自分とさほど体格は変わらないはずなのに、随分小さく見える身体。
その姿に、ほんの少しの憐れみを抱いたが…それさえも、佳林にはわかりえないものだ。
ただ…、最後に、と事実だけを伝える。

「あなたは死なない。…もう、死なない」

確定された事象だ。
朋子がこの場から去った時点で…いや、それ以前に、二人がさくらの存在を認知していなかった
段階でさくらに死など訪れることはなかったのだ。

さくらは応えない。
ただ、地に手をついてわななくだけ。
その姿に、佳林から告げる言葉はもう何もなく。
そっと静かに瞼を閉じて、朋子の後を追って掻き消えた。

握ったのは拳。固く固く。
ぎり、と音を立てたのは奥歯。
軋むほど強く噛みしめた歯が、そうさせていたのだ。
そして、最後に握りしめられたは拳。
表面が白くなるほどの力を込めて。

382 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:38
それは生命力。
たとえそこに含まれている感情が綺麗な物とは言えなくとも、生きたいという執着心の表れ。
それを今、やっとさくらが剥き出しにする。

強く耳に、胸に残ったのは…皮肉にも朋子の言葉。
『死ぬことに比べれば、苦しみなんて何もない』。

ならば…とことん、やってやろうじゃないか。
素直に死んでやるなんて、それこそ愉快に笑われる。
だったら、あらがってやろうじゃないか。
無視できない程に、立ち向かってやろうじゃないか。

ゆらりと、傾ぐ身体のまま立ち上がったさくらは、後ろで束ねていた髪を解く。
強い風に煽られて、なびく髪は自由に舞う。
逆にそれが心地よい。

さぁ、行こう。

踏み出す一歩は、ここに踏み込んだ一歩よりも力強いものだった。

383 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:38


*****


384 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:39
ざわざわ、と。
耳障りな声が響く。
けれど気にする心など、とうに捨てた。
どうせ、自身の容姿の事だろうと察するに容易く、さくらは反応する気にもならない。

ただ、着席しようと机に赴けば死を意味するような落書きがマジックで描かれていた。
以前の さくらなら激しい動機と息苦しさに襲われて、涙さえ浮かべていたかもしれない。
だがしかし…、今のさくらの胸に浮かんだ言葉は、ただ1つだ。

『くだらない』

軽く溜息をついて、文字を消すのも億劫でさっさと次の授業のテキストを机に広げた。
それにしても、とさくらは頷く。
今見た文字に見覚えがあったのだ。
あれは確か、クラスメートの…鈴木香音のものだったか。
なるほど、と、呆れたように視線を向ける。

とりわけ香音は人気者、というわけではない。
ないがしかし、人懐っこい笑みが受け入れられて可愛がられるのだ。
何故そんな香音が、さくらにこのようなことをしているのかわからない。
わからないし、もうわかろうとも思わないが、やられているばかりでは
そろそろ済まないのだと、胸が疼いた。
きっと、様子から見て、クラスメート全員が、いまやさくらの『敵』だ。
ならば。

385 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:39

「ねぇ、この文字、鈴木さんの文字よね?」
「えっ? あっ、し、しらないっ」

隣の生徒に笑って声をかける。
ついでに両肘をついてみせたりして。
狼狽えたのはその生徒だ。
いや、教室全体がシンと静まり返ったほどだ。
逆にさくらはそれを狙っていた。

「え? なにあなたもしかして、鈴木さんのことが好きなの?うわっ、それで庇ってる?
知らなかったぁ、それはごめんね。恋愛感情持ってるんだったら言えないよねぇ」
「なっ、何言ってるの!?」

さくらは知っていた。
その生徒には想いを通わせている生徒がクラスにいることを。
クラスを観察するには、いじめられている時間は十分すぎるほどだった。
誰が誰に好意を抱いているか。
そして、鈴木のポジションも。

決して容姿が賞賛されるほどの美貌というには遠い鈴木は、その性格で
クラスを束ねていた。
皆がそれを知っている。
なら、そこに付け入る隙は十分にあったのだ。

「なに? もう寝たの? ほら、首元に」
「やめてよっ!違うわよ!あんな子になんで!…あっ」
「ふぅん。そっか、あなたは鈴木さんが嫌いなのね」

まず一人。
さくらは冷めた目で笑う。

「あなた、すっごくスタイルいいのに、え? もしかして鈴木さんに従ってるの?
あ、そっかあなたもあの子が好きなのね。ま、別にあたしはいじめられてもいいけど
この先捨てられたら大変ね、あたしの二の舞だ。ってか私と喋ってるし、どうなるかな」
「…っ!」

もう一人。
なんだ簡単なことだった。
人の心を操作するのは、こんなにも簡単なんだ。
ほら見渡せば、クラスは凍り付いたようにさくらに怯えている。
そこに香音がいないのが、悔やまれるほど。

386 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:40
さぁ、次だ。
そう思った瞬間。

「あ、小田ちゃん、おはよー帰ってきてたんだね」

誰かがポンと肩を叩いてきた。
振り返って、瞬きをする。
彼女は…そうだ、先ほどもさくらに挨拶をしてきた…。
にこにこ笑顔に柔らかな面持ちの…そう、確か…。

「佐藤、さん」

佐藤優樹だ。

「なんかみんな怖い顔してるんだけど…どうかした? それより、宿題してきた?」
「え、ええ…」

どうしてか、優樹の語り方は毒気を抜くように柔らかくほの温かい。
一瞬にして空気が変わるような。

「おはよー」

続けて入ってたのは、声だけでわかる、香音だ。
そうだ、彼女を仕留めなくては。
そう確かに思う。思うがしかし…、目の前の優樹に意識はさらわれしまう。
さくらをさくらと認めて話してくれている優樹に。

387 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:40
それに…――― なんとなく、どうでもよくなってしまったのだ。

ちらりと見れば、先ほどさくらに心抉られた者達が青い顔のまま香音のとりまきの方へ
駆けて行き…、何かを囁くと香音から遠ざかるように教室を連れ立って出ていく姿が
あった。
それほどまでに、強烈な印象を与えたのだ、さくらは。
ならば…事態は、また一転することだろう直感的に感じ取る。

どうなっていくかは、神のみぞ知る、だが。

ただ、さくらには、目の前の優樹がいる。
それだけで…よいと思ってしまったのだ。

人の心とは、所詮そういうものなのだ。
どれほどに黒く淀んだものでも…根底にあるものが変わらないのであれば、
たった一握りの幸せで、すべてを許せてしまう。
さくらのように。

「ねー、まーちゃんに数学みせてよっ」
「はぁ、しょうがないですね…今日だけですよ」

溜息交じりにノートを出せば、天真爛漫な笑顔で受け取る優樹。

その優樹が、だれにも左右されずに自由な心を持ち、いじめにも加わらなかったから
開けた世界なのだとさくらが知るのは…もう少し先の話になるだろう。

388 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:40


*****


389 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:41
眼下の街を見下ろす朋子の視線は鋭い。
苛立ちさえも含ませて、唇は不機嫌そうに結ばれているほどに。

心に波風を立てられたことに腹が立った。
またそう思ってしまった自分に、朋子は一番腹が立ったのだ。

人間に心動かされるなんて、と。

ざわつく気持ちが、ぴりぴりと周囲に電気を放つようにして、きっとこの場に
彷徨う魂の一つでもあればすべてを壊さん勢いで射止めただろう。
それほどまでに、朋子は気が立っていた。

…と。
その朋子に触れる手があった。

細く白い指先。
それが、ふんわりと巻かれた朋子の髪を撫で…何かを落として離れたのだ。
誰、などとは愚問だろう。
朋子に触れる事をためらわない者など知れている。
佳林だ。
何か、と朋子が振り返れば、くりっとした瞳と視線が交差する。

390 :W.小田さくら :2014/08/26(火) 10:41
「とも、かわいい」

言われた言葉に、眉を寄せた。
かわいい、などと言われるとは心外なのだ。
だかしかし、すぐに納得する。
佳林がかわいい、と称したのは朋子の事ではなく、今朋子の髪へと落とした
あかりにつけてもらっていた髪飾りのことだ。

自分がいった言葉を、そのまま口にした、それだけか。
なるほど、と。一つ嘆息する朋子は、そっとその髪飾りを手に取って眺める。
華を象ったそれは、凛とした雰囲気を漂わせていて、寒空の中にも優しい色がある。

どう見ても、それは朋子に、というより。

「こういうのは…」

さらりと。
佳林の髪が風になびいた。
それをすくい取るように手のひらであつめ、耳にひっかけてやると、追いかけるように
手の華を飾り付けてやった。
白く薄い皮膚に、花開いたようで、よく似合っている。
だから、そのままの気持ちを、朋子は告げた。

「かりんちゃんがつけるから、可愛いっていうの」

ここで佳林に八つ当たりするのは間違っている。
いや、それ以前に…、苛立つ気持ちが今朋子の中には僅かばかりにしぼんでしたのだ。
だから、ほんの少しの笑みを浮かべて…逃げるようにその場から消えた。

残された佳林は、静かに髪飾りに触れ…朋子の笑みを噛みしめる。
嫌がられたわけではない。
そう、感じて…瞳に色を宿せると…。

「とも、も、可愛い」

口元を緩めてそれだけこぼし、朋子を追いかけるように黒霧に佳林も消えていった。


391 :エシクスト :2014/08/26(火) 10:42
本日ここまで。

と、同時に「W.小田さくら」は、終了です。
392 :X.新垣里沙 :2014/09/24(水) 20:36





信じない。
信じるものか。

人間なんてろくなものじゃない。

業の塊。醜い生き物。
救う価値などない。

憎い。
すべてが憎い。
憎んでやる。

消えゆく瞬間、確かにそう心の叫びを吐きだした。

そのはずなのに、手を伸ばしたのは、裂けた岩場から見えた…

――――― 太陽のわずかばかりの光だった。






393 :X.新垣里沙 :2014/09/24(水) 20:36
ばたばたと、強い風があかりの手の中にあったものをはためかせる。
わっ、と大きな声を上げながら、持っていかれまいとする姿はまるで子供で、
佳林は騒がしさに瞬きを何度か繰り返した。
その膝の上で、耳をぴりりと震わせながら丸くなる黒猫は、もはや言うだけ無駄と
悟ったように寝たふりで無視を決め込んでいる。

「今度新作が出るねん!」
「…?」
「これ!」

きらきらと目を輝かせたあかりは、ずいっと佳林の鼻先にその手の中のもの…
チラシを広げてみせてきた。
やはり何度かの瞬きで応えた佳林は、軽く首を傾げてしまう。
その反応が、意にそぐわないものだったようで、あかりは唇をつんと尖らせた。

「ケーキ! 今超人気のお店があんねん。そこで今度新作発表するんやって」

きっと、同じ年頃の女の子ならばこういったものに飛びつくのだろう。
だがしかし、佳林にその感覚は判らない。
ケーキという物自体、ちゃんと見たことがないのだから仕方ないのだが。

「あかり、ここのケーキ好きなんよっ、生クリームは苦手やけど甘さ控えめとか
そういうのもたくさんあるし」

もう頭の中は、ケーキでいっばいなのだろう。
中空を頬を綻ばせて見つめるあかりは、年相応の女の子だった。
と、そこではたと現実に戻る。
その切り替えというか、思考の『飛び方』に、まだ佳林はついていけない。
朋子も、だ。

394 :X.新垣里沙 :2014/09/24(水) 20:37
「そういえば、死神ってケーキとか食べるん?」

もはや、あかりの中で『死神』というものは馴染みの友達のような位置なのか
佳林に臆することなく、ずずいと顔を近づけてくる。
そう面と向かっていわれれば、僅かに困惑してしまう。
けれど、この屋上で出会いを重ねて、なんとなくだが佳林はあかりのペースに
居心地の悪さよりも、心地よさを感じ始めていたのも事実で。
本心でわからないのだ、と、ふるふると首を振ってみせた。

「そうなん!?もったいないなぁっ!人生の半分ぐらい損してるでそれ!」

人生と呼べる生き方をしていないのだから損も何もないのだが、と、
僅かに佳林は眉を下げる。
それを口に出せばいいのだが、それだけの『知識』はまだ佳林にはなかった。
だから、解釈する側のあかりが自由に受け止めるだけで。
この時は。

「じゃあ、今度食べようよ!」

食べる機会がないだけなのだと受け取ったようだった。
ケーキを食べる、という行為が果たしてどのようなものなのか佳林にはわからない。
食欲というもの自体が欠落しているのだから、当然なのだが。

ただ、あかりの提案を少しばかり受け入れようとしている気持ちは否定できなかった。
だが、いいのだろうか…、自分が…という意識がこみ上げてくる。
結局答えの出ない心に、佳林は、自身の膝の上で身体を丸め寝たふりを決め込んで
いる朋子を窺った。
その瞬間、あかりが渋い顔をする。

395 :X.新垣里沙 :2014/09/24(水) 20:37
「りんかぁ、いちいちイジワルともに訊かんでええやん。りんかのことやで?」

自分の事。
あかりはそう言う。
しかし、実際…佳林に自由なんてないのだ。
すべては朋子で作られている世界なのだから。
それを知ったら、あかりはなんと言うのだろう?

そんなどうでもよい事が頭をよぎったことに、佳林自身が驚いた。
一体自分は最近どうしてしまったのだ、と。
流れてくる朋子の心に感応することはあっても、こんな自分の意志たるものは
今までなかったはずなのだ。
なのに…。

困惑する佳林に、静観を決め込んでいた第三者がやっと顔を上げた。
朋子だ。
だか、それは助け船を出すとは到底遠い、事務的なものだったが。

「おしゃべりはそこまで。行くよ、かりんちゃん」

ぐいっと膝の上で一伸びしてみせて、とん、と地に降り立つと背を向ける。
いつもの朋子だ。
だが、そのいつもの背中が、軽く佳林の胸にちくりと痛みを走らせたのだと
朋子が知ったならどう反応しただろう。

「…うん」

結局佳林は、朋子の思うがままに動く者なのだ。
すっと立ち上がって、朋子を追いかけるようにフェンスヘ歩いていく。

ただ、その2人に向かって、不満の声は遠慮なく投げつけられた。
なんにも知らないからこそ、あかりが遠慮なく。

「もー忙しないなぁー、もう少しりんかと一緒にいさせてやー」

その声は朋子に届いたか。
ただ、黒霧に巻かれる瞬間、僅かに苛立ちを表すかのように、ぴんと立った
尻尾がぶわっと総毛だっていた。

396 :エシクスト :2014/09/24(水) 20:38
本日、ここまで。

397 :名無し飼育さん :2014/10/05(日) 21:24
自分の色をもちだしたかりんちゃんが今後どうなるのか楽しみにしています。
398 :X.新垣里沙 :2014/10/13(月) 06:36

最初の夢を諦めるのは容易かった。
次の夢を探すためのきっかけとなったのだから。
そして、共に追いかけようとしてくれる笑顔があったから。

399 :X.新垣里沙 :2014/10/13(月) 06:37




菓子職人・新垣里沙として、海外でもそこそこ名の知れていた彼女が一線が退き、
パティシエ&ブランジェを育てる専門学校の講師となって3年が経とうとしていた。
目まぐるしくも充実した生活で、里沙自身が満足感ある日々だと実感している。

元来、誰かの笑顔のために働いていたいと思っていた里沙にとって、天職ともいえる
この業界は、一部の才ある者と…それを支える者とで出来ているのだと実感したのも
講師へと立場を変えてからだっただろうか。

「新垣先生、さようならー」
「はい、さようならー。デザイン、ちゃんと作っておいでよーっ」
「はーいっ」

厳しくも優しい性格は、生徒からの信頼も厚く、それがまた里沙の責任感の強さへ
繋がっているようでもあった。
それが時に嬉しくもあり、辛くもあった。

何故なら…――― 彼女には味覚がなかったのだから。

400 :X.新垣里沙 :2014/10/13(月) 06:37

気付いたのは幼き日。

大きな…とても大きな天災が、幸福の中にあった里沙と里沙の家族を飲み込んだ。
後に大きな記事となって新聞紙上を賑わせた大震災たるもので、その被害たるや
目を覆いたくなるようなものであった。

あちこちで上がった火の手。
崩れ落ちる家屋。
おさまらない揺れに、寒さ突き刺す冬という季節が重なり。
不幸にも…、里沙は父、母、そして妹を亡くし…、混乱の中災害孤児として施設に
引き取られることとなった。

それでも、里沙は健気だった。
時同じくして孤児となった者達にも笑顔で話しかけ、世話を焼き、年上のものには
率先して話を聞きに行く。
時に邪険に扱われたりもしたけれど、その姿勢はちゃんと見る者に何かを伝えていて。

「なぁ、あたし高橋愛。あなた凄いしっかりしてるね」

奉仕活動として、園庭の花々の手入れをしていた里沙に一人の少女が声を
かけてきたのだ。
汗に滲む額を拭って顔を上げて、きょとんとしてしまう。
あまりにも、目の前の少女が楽しそうに笑っていたから。
鼻の頭をくしゃっとさせて、にっと白い歯を見せて。

401 :X.新垣里沙 :2014/10/13(月) 06:38

「え、ごめん、早口で聞き取れなかった。なに?たかしゃい?」
「違う違う。たかはし、あい」
「あ、高橋さんね」
「愛でいいよ」
「いや、それは…、じゃー愛ちゃん」
「あたしも名前でいい?」
「うん、新垣里沙」
「じゃー…マメ」
「待って全然名前じゃないじゃんそれ。しかも結構失礼」
「あっはははっ」

始まりの出逢いから、不思議だった。
けれど、不思議だったからこそ、何か…惹かれあうものもあったのも事実で。
気付けば里沙はいつも愛と共に行動していた。
喧嘩という喧嘩もしたし、悲しい出来事に涙を流すこともした。そして…それ以上に
楽しい事も共に。

402 :X.新垣里沙 :2014/10/13(月) 06:38

そうやって時間を共有してきたある一日のことだった。

いつものように食事の時間。
里沙がもっとも苦痛を感じるそれが、この時だった。

鼻腔をくすぐるのは、とてもかぐわしいもの。
それこそ食欲をそそる、温かな。
が、しかし、手を合わせて口に含めば…それはただの固形物でしかなく。
ただ、咀嚼・嚥下を繰り返し…栄養を摂取するだけの時間だと…里沙は認識していた。

天災の後遺症だろう、と医師は告げた。
あれだけの規模のものだったのだ。
味覚ぐらいで済んだ、と逆に喜ぶべきだと里沙は受け入れていた。

なのにその日。
大きな転機が訪れたのだ。

「なんやマメ、いつもそんな怖い顔して食事してるん?」

びくりと身体が跳ねた。
ひょい、と肩口から顔をのぞかせたその人に。

「愛ちゃん、いきなり声かけたら びっくりするでしょが」
「いや、声かける気ぃなかったんやけんど、マメがすんごい顔してたけ」
「すんごい顔って」
「なんか怒ってるみたいやが」

403 :X.新垣里沙 :2014/10/13(月) 06:39

怒っている。

そう言った。
それは間違いではないかもしれない、と里沙は思う。
心の臆測で、どうしようもない事象だったのだと判っていたとしても、それでも
捨てきれない何か強い気持ちが燻っていたのが否定できなかったのだから。
それは、過ぎゆく毎日のなかで、うっすら積もっていく雪のように静かに固く
姿を現してしまっていたのかもしれない、と里沙は自嘲した。

かたんと、隣の席に座った愛は、頂きます、と小さく手を合わせて同じものを口にする。
その姿のなんと幸せそうなものだろうか、と里沙を目を細めた。

ほおばる、という表現がぴったりなほど口の中に食べ物を詰めこみ、味を楽しむように
何度も頷きながら噛み、飲み込むのを惜しむようにごくりと喉を鳴らす。
時に笑顔でつまみ上げる物は、本当に自分のものと同じなのかと疑ってしまうほど
輝いて見えたし、何より…愛の食べる姿に、食欲をそそられたのだ。

404 :X.新垣里沙 :2014/10/13(月) 06:39
「ん? なんや、マメ」
「………それ、美味しい?」

聞いた瞬間、しまったと顔を顰めた。
美味しいか、なんて、とんでもないことだ。
案の定、愛は、じぃっと里沙の顔を見つめ不思議そうにしている。

「ごめん、なんでもない」

取り繕って、もう一度自分の皿を見つめる。
なのに、なんて味気ない皿のものなのだと落胆してしまう気持ちは拭えない。

「好き嫌いあるの?そんな風には見えんがやけんど」
「好き嫌いなんてないよ」

あぁ、そういう解釈をしてくれたのか、とほっと里沙は息を吐く。
嫌いなものを美味しそうに食べる愛、それを見ているのだ、そういう考えは無知ゆえに
ありがたい。ならばそれなりの切りかえしもできる。

405 :X.新垣里沙 :2014/10/13(月) 06:40
「あまりにも美味しそうに食べるから、ただのパンでもそんなに凄いのかって思ったの」
「ただのパンて。美味しいに決まってるがし。食べられるものはなんでも美味しい」
「単純だなぁ、愛ちゃんは」
「馬鹿にしよるんか?」
「違うって。羨ましいって思っただけだよ」

本心だ。
真実を伝えてないだけで、なんでも美味しい、幸せだと思う愛は羨ましく…妬ましい。
そう思ってしまう自分を恥じてしまうが、毎日顔を突き合わせるようになり、同じ
テーブルで同じものを口にするようになって…次第に、胸の奥底に押しやった
見つめたくない気持ちが里沙の心をじわりじわりと苦しめはじめたのだ。

406 :X.新垣里沙 :2014/10/13(月) 06:40

「マメは美味しいって思わんのん?」
「美味しい…」

愛の言葉はいつもまっすぐだ。
それがまっすぐすぎて、他の子に邪険にされることもあるほどに。
悪気なんてないと里沙は判っている。
本当に思ったままを口にしていて、そこには嘘も偽りも捻じ曲げた気持ちも存在しないし
こそこそと陰で何事かを囁くものよりも、ずっと単純明快で気持ちいいほどなのだと。
だからこそ、心地よくて…不快で。

「美味しいなんて思ったこと、一度もないよ」

ほんの少し割れた心の隙間から、とろりと本心をこぼしてしまっていたのだ。

ご馳走様、と。
じっと言葉なく見つめてくる愛から逃げるように席を立つ。

いつもは一品も残さず綺麗に完食する里沙は、はじめてこの日、食事を残した。
後にも先にも、里沙が食べ物を無駄にしたのはこの日だけであった。

407 :エシクスト :2014/10/13(月) 06:42
本日ここまで。

>>397 名無し飼育さん
ありがとうございます。
そうですね、少しずつ自我を持ち始めた彼女、見守っていただければ幸いです。
408 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:08
「豆」

呼ばれた声に、びくりと身体を震わせて里沙は振り返った。
そこにいたのは、予想通りの人物、愛だ。
もとより、里沙のことをこう呼ぶ者は、愛だけなのだから当然なのだが。

「なに、愛ちゃん。今創作の時間でしょ? さっさと自分の所にもどりなよ」

促して、自身は机に広げている画用紙に器用に色鉛筆で色づけをしていく。

あの食堂での一件以降、里沙は愛と話すことを避けてきた。
いや、同じ空間で行動すること自体避けてきていた。
あれやこれやと詮索されるのは好きではないし、されて、万が一にも味覚について
尋ねられれば、過去に触れなければならない。
そこまでするつもりも、勇気もないのだ。

なのに、愛は引かない。
いや、引かないというよりも、初めからそんな意識ないのだろう。
なんのためらいもなく、作った里沙の壁を軽々と越えてくる。

「なんや、豆。絵、巧いがし」
「ちょっ、愛ちゃん、人の話聞いてる?今創作の時間、戻りなってば」
「違うか。絵が巧いのもほやけど、色の使い方が巧いんやが」
「愛ちゃん〜〜〜」

こうなってしまえば、どうにもならない。
大きく一度溜息をつく里沙、うな垂れるように頭をふる。

409 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:09

一緒にいた期間が長くないのに、そんな中で里沙が気づいた愛の特徴。
そう、愛は基本的に人の話を聞かない。
聞いているように見えて、ただ「聞こえている」だけなのだ。
それでも普段のそつなくなんでもこなす姿勢が、周りにはその欠点を曇らせて
優等生として見られているのだ。
なんて得な性格なんだろうと思う。
自分は努力しても、影の立役者としての立場精一杯なのに。

けれど里沙自身、悲観はしていない。
日の当たる場所は元々苦手なのだから。

人には役割がある。きらびやかな世界でしか生きられず、またそれを求めれば
手に届く太陽のような者と。
その影でしか生きられず、それでも自分の世界を確立して突き進む物。
どちらかというと、愛は前者で里沙は後者なのだろう。
だから…どれだけ突き放しても、惹かれる様にまた寄り添ってしまう。

「さっさと戻りなってば愛ちゃん」
「なぁ、豆は手先器用じゃろ?」
「は?なに突然」
「色の使い方とかも、よう知ってる」
「もしもーし、愛ちゃーん?聞こえてますかぁー?」
「そやで相談があってな」
「だめだもう、聞いてないよこの人」

まるで漫才。
そんな2人を遠巻きで見ていた者達が、くすくすと小さく笑みを漏らしていて、
里沙はまた頭を振ってうな垂れる。
愛といると、どうにもペースが崩されてしまう。
なのに、邪険にできない。
心の傷に触れられた時も、愛に当たるよりも、逃げる事しか頭になかったのだから。

410 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:09

「あーしにはセンスがないんやがし」
「はぁ? これまた突然なにさ?」
「けど舌には自信があるんよ」
「………」

ぴたりと止まった。
舌に、自信がある。愛はそう言った。それは触れられた傷への応酬なのか?
嫌味なのか?と。おそらくは自分に味覚がないのを、愛には感づかれたはず。
だからの会話なのかと。
けれど、愛の言葉は止まらない。
まるでそこは、そんなに重要なことじゃないんだとばかりに話は進んでいく。
だから真意がつかめない。

「ちょっときぃ」
「はっ!? いや待って愛ちゃんっ、今授業…っ」

強引過ぎる。
腕を掴まれて、部屋から引きずられるように連れ出される中、里沙は天を仰いだ。
なのにその腕を振りほどけないのは…その強引さが、食堂でのことを帳消しに
してくれるような、いや、なかったことにしてくれるような心地よさがあったからだと
それを知るのは、まだ先のことだ。

411 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:10





「なんじゃこりゃー…」

目の前に広がったものに、里沙の第一声はそれだった。

つれてこられた場所は調理室。
甘い匂いに誘われるままに足を踏み入れてみたはいいが、そこにあったものは
想像していたものでなんてなく。

「ひっどい…。これ創作の時間だし…愛ちゃんが作ったケーキ?」
「失礼や豆。どう見てもケーキやがし」
「いやいやいやいや」

それはどう見ても、ケーキというよりは…コケのような塊にしか見えず。
青いパウダーのような、振りかけられたものが、余計に食欲を…減退させていく。
呆れて里沙は溜息をつくしかできない。
食べ物に緑や青はご法度だ。
それぐらい、ちょっとした知識があれば誰だって知っている。
なのに、隣に立つ友人ときたら、これでもかというほどの間違った主張をそれに施し、
しかも里沙の言葉に、不満さえ持っている。

412 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:10
「食べてみ? 美味しいでな」
「いやいやいやいや…」

それを食べろというのか、と里沙は後ずさる。
確かに食べられないことはないだろう。
何を使ったかはわからないが、味見をしたであろう小皿に残った少量のケーキが
残っていたのだから。
いやしかし、だからと言って進んで食べるというのは無理な相談で。

「大丈夫やて。一口、な?」
「あぁ…もう…」

強引に、別の小皿に取り分けられたケーキもどきを押し付けられて、里沙は頭を
抱えたくなる。だが、今までの経験上、愛はここまですると最後まで里沙を逃がさない
ことを知っている。

南無三、と心の中で唱えて、覚悟を決めた里沙はフォークで僅かばかりを刺し
口の中に放り込む。
途端に口内に広がったのは…予想に反して優しく香しい匂いと、程よいスポンジの
弾力だった。モチモチとした食感はパサつくこともなく、しっとりとしていて舌触りも
心地良い。
緑のクリームがしつこいかと思えば、パウダーがほんの少しひんやりとした冷たさを
残してくれて、後味もさっぱりしている。

413 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:10

「えっ、嘘、上手い」
「そやから言ったがし。なんや信じてなかったんか」
「いやだって見た目コケの塊じゃんこれ」
「インパクトあるやろ?」
「お菓子にインパクトとかいらないし」
「ははっ」

鼻の辺りを くしゃりとして笑う愛は本当に楽しそうで。
里沙の心にあった、先日の苦い気持ちがほろほろと溶けていく感じがした。
そうなのだ。
愛の笑顔は見ている方が、つられてしまうような明るい力を含んでいる。
それに救われた気持ちになった。

「それでな、豆にお願いがあるんや」
「なに、もう知ってると思うけど、あたしには味覚ないんだからね?」
「あ、やっぱりないんや」
「軽っ」

けれど今その軽さが里沙にはありがたい。
流れるような会話の中に、ぽつりと入り込んだもののようだったから。
特に気にした様子もなく、愛もその先を急ぐように一枚のチラシを里沙の前に
差し出してきた。

414 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:11
「なにこれ」
「有名な製菓学校主催のコンテスト」

紙の上に踊っている文字は楽しげで、色とりどりで。
何枚か貼られている写真は、見るだけでも楽しめる程素晴らしい菓子の数々だった。

「や、それがなに?」
「これの一般応募に、あーしも出ようと思って」
「はぁ!?」

このコケで!?
本気なのか、と里沙は驚愕する。
瞬時に脳裏に浮かんだのは、衝撃的な「何か」をつくり審査員の凍り付くような顔だ。
こんなものを、自分以外の人に出すつもりなのか、と疑いたくなるほどに。

「ちょっと愛ちゃん、冷静に考えよ」
「考えたし。ほいでこれに優勝してパティシエールになる」
「愛ちゃ…」

それは無理だ、と言いかけた言葉を飲み込む。
引き寄せられるほど、きらきらとした愛の瞳を見てしまったから。
夢は叶うと信じて疑わず、必ず掴むのだと決めた人にだけある輝き。
それが今、目の前の愛にもあるように思えた。

415 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:11
そうだ、一度だって愛は、諦めるという事をしなかった人だったと思い出す。
それこそ、突き放した里沙を引っ張ってこんなことまでさせるぐらいに強引にでも。
けれど、しょうがないと思わせるその人徳。
最後には笑顔にさせてしまう人柄。
それは一種才能。
輝ける一部の人だけが持ちうることができる才能。

里沙は、自分がその立場になれるとは思っていない。
それぐらいの自己判断は冷静にできるぐらい、精神的には大人だった。
けれど、助ける事なら出来る。
サポートとしての自分の位置は、そこいらにいる人間より優れていると自負しているほどに。
ならば…自分がするべきことは…ひとつなのではないかと思う。

味覚はない。
けれど、色彩感覚や、コーディネートすることには自信がある。
それに愛の作るケーキに感動した。
自分でも、その技術を学んでみたい。
ならば…。

416 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:12
「それで? あたしに何して欲しいのさ」
「さすが豆、話が早い。二人の合作でケーキを出品しよう!」
「あぁ、やっぱり、そういうめんどくさいことを…」
「ほやかて、豆も好きやろ? こういう創作って」
「はぁ…」

愛と二人で何かを創る。
それはきっと楽しい事だろう。
想像するまでもなく、里沙の心はもうそこにとらわれている。

「わかった、やろう」
「そう来んと!」
「ただし、条件」
「何」

きっとうまくいく。
そんな予感は十分にしていた。
愛の、才能の片鱗は、本当に驚くほどだったのだから。
まだまだ羽ばたける。
大きな世界に。
それさえも確信している。
その時に、自分は重荷になりたくはないのだ。

センスは天性のものも多分に関係してくる。
けれど、努力次第でそれはカバーできるものだ。
けれど…味覚はそうはいかない。
致命的な欠陥だ。
判っている。
だから。

417 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:12
「……出るからには優勝して夢を実現すること。留学もできるんでしょ?
もし行くことになったら、愛ちゃんが行くこと。で一流になること」
「何言ってるがし…!豆も一緒に」
「あたしは行かない」

行けない。
メッキで隠したものは、いつかは剥がれるのだから。

「その代わり、この協賛してる学校に通う。それで絶対に腕のいい菓子職人に
なってみせる。だから、そうなったら、2人で1つのケーキを出して売り出す」
「豆…」
「それが今回出る条件」

渋る愛は、何度も共に行こうと里沙を説得する。
けれど、愛だって判っていた。
どうやっても無理なことがあるのだと。
それが…味覚のない、パティシエールの誕生だ。
だから…。

418 :X.新垣里沙 :2014/10/29(水) 06:12
「わかった」
「うん、まー、言ってもアレだ。まず優勝しないことには何にも始まんないけど」
「え? 豆は優勝出来ん思いよるん?」

信じて疑わない目。
そんな目に見られれば、里沙だって焚き付けられて当然だった。

「まさか。運をつかむ力は愛ちゃんに負けないんだよ、あたし」
「そう来んと」

大人が見れば、青い夢だと笑ったかもしれない。
そんなこと、できはしまいと一蹴さえしたかもしれない。
けれど、2人の夢は本物で。その先を見つめることもやめなかった。

それが――――

世界的に有名なパティシエール・高橋愛を作る一歩となったのだった。


419 :エシクスト :2014/10/29(水) 06:13
本日ここまで。

420 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:54
「また高橋さん、新作を出すんだって」
「凄いねぇー」

講師として慣れ親しんだ菓子教室で聞こえた声に、里沙は軽く咳き込みながらも口元を緩める。
遠くの地で成功を掴んでいる友人を誇らしく思いながら。

コンテストでの優勝は、2人を別つものだったが、もとより里沙は承知の上で参加したのだし
愛もひとつでも高みを目指す姿勢そのままに、単身本場の厳しい国へと旅立った。
かならずの再会と約束を誓って。

その中で一時、里沙にも光が当たることがあった。
愛が海外で活躍すれば、おのずとたどり着くコンテストの存在。
そこで、里沙の存在を無視できぬほどの才ある色彩とセンスを表していたのだから。

何度か誘いもあった。
海外店舗で勉強してみないか?と。
けれど、それをすべて里沙は首を横に振って断った。
過ぎた望みなのだと、自分自身が一番判っていたし、なにより…自分の成功よりも
『約束』が大切だったからだ。

それでも食い下がる先方に、渋りながらデザインを差出しそれが海外でも里沙の
名前を広がらせるきっかけになることはあった。
けれどそれだけで、次の一歩は絶対に踏み出さない。
それを皆が不思議がったものだ。
手を伸ばせば、絶対的な成功があるのに、と。

だが…いつか叶える愛との約束、それだけのために自分は存在する。
そう言っても過言ではないほどに、里沙の中では生きるすべてになっていた。
いや、それだけが…すべてだった。

421 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:55




けほんけほん、と。
何度かせき込みながら、マンションの扉を開け帰宅する。

今年の冬も寒さが厳しく、それに加えて年度末への忙しさから里沙自身、少しばかり
疲労感を拭えない日々が続いていた。
思えば、もう少し早く医者にかかっていれば、…避けられたことなのかもしれない。
けれど…里沙には時間がなかった。

「あと…二日…」

すいと見上げた壁掛けカレンダー。
そこに記された二日後の赤丸と、大きな文字にふっと笑みが漏れる。
『愛ちゃん、帰国』の文字に。

別れて幾何の時が過ぎた。
もうお互いに成人し、社会的な独立だって果たしている。
あの…寒く辛い施設へと戻ることは二度とない。
けれど、その生活の大切さをお互いに知っている。
あの頃があっての、今の自分達なのだということも。

だから。

一ヶ月前の愛の連絡に、里沙は…ただ頷いた。

『災害孤児の為の作品を作りたい』

収益は全国の施設に、と。

422 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:55
何を綺麗ごとを、と笑う者もいただろう。
愛ほどの世界的に有名なパティシエールの名を汚すと心配する声だってあったはずだ。
けれど、それをすべて一蹴しての提案を里沙にしてきたのだ。
ならば…里沙は最大限の助力を。
それが約束に繋がるのだから、と信じて疑わなかった。

それから、忙しい日々をぬっての作業。
味覚のない里沙には、武器はそのセンスと色彩能力だ。

何度となく色んな食材を試し、失敗し、また探し求め…そしてメモを取る。
地道な作業は、ゆっくりと…里沙の身体を内側からじわじわと痛めつけていた。
無理もない。
講師の傍ら、食材の交渉・偵察・探索。そのすべてを一人でしていたのだから。
そしてついには。

「……あとは…、色を塗って、渡せば…」

帰宅して、コートを脱ぐことも忘れ、テーブルの上に広げていたスケッチブックに飛びつく。
ふらつく頭も、何度も咽喉からこみあげてくる咳の感覚も無視し。
そうやって一心不乱に、色鉛筆を走らせていく。

423 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:55
瞼を閉じて想像する。
温かな部屋。
笑顔に囲まれた家族。
そしてテーブルに並ぶ…自分と愛のケーキ。

それらはとても24色の色鉛筆でなんて表せられるものではない。
けれど、伝えたい。
たとえ…自分が、ここで朽ちてしまっても、愛に、愛にだけは届くように。

どのような材料を使ったのかは全部記した。
調合配分も、それこそ事細かに。
誰が作ろうと寸分違わないように。

だからあとは…最後の完成の色づけだけ。

「もう…少し…」

目が霞む。
頭はガンガンと熱いのに、身体は芯まで冷え切って震えてしまう。
手先が震えてしまう。
けれど、どうか、これだけは…とすがりつくように紙に色鉛筆を突き立てる。

424 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:56
その部屋に風が僅かに揺らめいた。
里沙のすぐ背後に、異質な何かが立つ気配。

あぁ、ついにお迎えか…などと、思った里沙は悲しい笑顔を拭えない。
そのまま、背後に振り返らず声だけかける。

「もう少し…待ってくれないかなぁ…あたしを連れていくの…」
「………」

受けた声の主は…、無言で瞬きを数回。
肯定とも否定ともとれない態度で、ただただ肩に乗せた黒猫と里沙の背を見つめてくる。

まるで自分達が来るのを判っていたかのような人間に逢うのは初めてだった。
そう、佳林と朋子の存在を受け入れている人間に逢う事自体も。

「これさ…これを塗れば…もう……」

きっと里沙にはもう目の前が見えていない。
あらぬ方向へとと色鉛筆が滑ろうとするのを、なんとか止めるしかできていないのだから。

そこまでの執着心。
それを目の当たりにして、佳林の胸は不思議に音を立てた。
今までどれほどの人間の最期を見ても感じえなかった、何か熱いものが、腹の底から
ぐぅと押しあがってくるのだ。

425 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:56
僅かに瞼を閉じる。
それが…合図だった。

「――― かりんちゃん」

次に視界を開いた瞬間には…里沙は静かに事絶えていた。
眠るように、さきほどの苦しげな息が嘘のように穏やかに。

とん、と床に降りた朋子が溜息一つをついて佳林を見上げてくる。
すべきことを、と促すように。
それを受けて…、佳林は大鎌を取りい出し…はたりと止まる。

「…かりんちゃん?」

訝しい眼差しは朋子から。
けれど、佳林は じいっと前を見据えて動かない。
里沙の背を見つめて動かない。

いや…違う。
里沙の背より、するりと立ち込めた炎を見つめていたのだ。
いつものように紫色に揺らめく炎を。

けれど、佳林は見逃さない。
紫に舞い上がる炎が、ほんの僅かな数秒だけ…朱色に変わるのを。
それが意味するのは…、邪心ある魂の中にまだ残る純真な魂の証。
佳林と朋子が、狩ることを許されない、純真な朱色の魂だ。

もし…このまま、純真な魂のまま、逝くことができるなら…それは幸福な最期ではないか?
難しいことは佳林にはわからない。
けれど、里沙は死を受け入れていた。
ただ一点の、願いに悔いを残し。
もし、その想いを繋ぎとめているものを最後まで見届けられたなら、あるいは?

426 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:57
「…とも」
「?」
「かりん…かりんは…」

佳林が大鎌を下し、黒霧にかき消したのと朋子が感づいて何かを言いかけたのは同時だった。
けれど、朋子の言葉は音になる前に掻き消えて…溜息に溶けた。
2人は繋がっている。
肉体的なものでなくても、精神的なものからすべてが。
だから朋子には佳林の考えることがすべてわかる。
だからこその…溜息だった。

きっと止めても無駄なのだと朋子は思う。
ほんの少し前ならば、こんなことになるとは思いもしなかったのに。
どこで間違ってしまったのか、それを悔いてももう遅い。
もう…佳林は、止まらない。

「…好きにすれば?」

だから…、それだけ告げて黒霧に掻き消えた。
佳林がすることは正しいとは言えない。
魂の選定に携わる者が、その逝く道を指し示すなんておかしいことこの上ないのだから。
けれど、止めることはもう出来ない。
それが判って与えた、朋子なりの、自由だった。

427 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:57
「とも……」

急に心細さが佳林の胸に迫る。
朋子がいない、その中で自分の意志を通す。
それがどれだけ重大なことなのか、心の奥底で何かが警鐘を鳴らしていたのだ。

けれど、決めた。
この魂は……狩らない、と。

すっと、机に突っ伏した里沙の手から色鉛筆を抜き取る。
余白はもう僅かだった。
あとひと塗りさえすれば…完成だったのだ。
ならば、そこを色づければ。

不意に、朱色の魂が佳林の周りを頼りなくも揺らめいて旋回する。
心配するように。
その炎に気付いた佳林は、そっと手を伸ばし…近くに導いた。

「近くで…、見て、て」

それだけで炎は安心したように、佳林のそばに止まる。

見とめた佳林は、丁寧に丹念に余白を塗っていく。
初めての色鉛筆は、持ち方なんてわからない。
ただぎゅっと掴んで、それでもはみ出さないように輪郭をなぞらえて。
慎重に、慎重に。

そうして……完成したスケッチブックに――― 炎はまた大きく旋回を始めた。

「どう、ですか?」

尋ねる佳林を褒めるように優しく身体の周りを巡って。

「…あなたの夢は、叶いましたか? ならば…さよなら、です」

狩るものが狩られるべきだったもの者へ挨拶なんて、滑稽なのかもしれない。
けれど、佳林はそうは思わなかった。
そのことが起こした、新しい選定の方法だったと…朋子はいつか気づくか否か。

ただ、嬉しげに消えていく里沙の魂は…佳林に微笑んでいるように見えた。

428 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:58





429 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:58
「じゃじゃーん!! りんかっ!見て見て!」
「………」

寒さが日に日に増す屋上に、これでもかと喜ぶ声をあげたのは、あかりだった。
その手に持っていた小箱を、ちょこんと座った佳林の前で開けて見せてニコニコしている。

「これが噂のケーキ!」
「ケーキ…」
「そ。このケーキねぇ、世界的に有名なパティ…パテ…パティシ…」
「パティシエール…?」
「そう!その人が新しく発表した新作なんよ!」

勢い余って箱の中で倒れかけるケーキ。
視線を落として確かめた佳林は、その色合いに見覚えがあった。
…里沙の…ケーキだ。

「りんかは知らんかもしれんけど、高橋愛って超有名な人がいてな?今回のこのケーキを
ブランド化して、世界中に広めようってしてるんやって。えーとねえ…『Risaブランド』ってさ」
「………そう」

Risa、その言葉を耳にして、佳林は胸に温かいものを感じ取る。
通じた想いに、全身がじんわり熱をもつようで…心地よく、けれど不可思議な感覚で
戸惑いさえ感じる程に。
それが、嬉しい、というものなのだと知るには、もう少し時が必要だった。

430 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:59
「たださ、収益は全額災害孤児のためにーって言われてて、欲のない人なんやなぁって
あかりは思ったんやけど…まぁ、色々あるんかな」

あかりの感想は至って簡単だった。
難しいことは考えない。
ありのままを受け止める。
単純明快で、その性格のために佳林も救われている事があるほどだったものだ。

「よしっ!じゃー食べよう! …よいしょっと、はい!りんか、あーん」
「…?」
「落ちる!はよ食べて!」

言われて戸惑う。
鼻先に差し出されたのはケーキを刺したフォーク。
これをそのまま食べろということなんだろうが…、物を食べるという習慣がないから
どうしていいのかわからないのだ。
困って、朋子をちらりと見るが、やはりというかすぐ背後で寝たフリを決め込んでいるのか
全くどうにもならない。

ならば、と。
おずおずと口を開き、あかりの差し出すケーキを受け入れた。

食感は不思議で、柔らかさと滑らかな舌触り。
軽く噛みこなしてみればほろりと崩れる形が、面白くはある。

「美味しいやろっ!」

美味しい。
その感覚は判らない。
わからないが、きっとあかりの笑顔をみるだに、このケーキという食べ物は
きっとそうなのだろうと頷く。

「……うん」
「りんか的にどんな味?」

味…問われて、口の中のものを飲み込んだ。
もちろん後味さえわからない。

431 :X.新垣里沙 :2014/11/02(日) 09:59
どう説明すればいいのか、困り果てて頭をもたげてしまったその時。
すぐ背後にいた朋子が、溜息交じりに一度伸びをして佳林の肩へと飛び乗った。
ふっとかかる肩の重みに、振り向けば、唇とも頬ともつかない場所についていた
クリームをぺろりと舐め上げられる。
交わった視線は一瞬。
次の瞬間、朋子はあからさまに顔をしかめて、今しがた舐めてきた舌をべっと垂らしてみせた。

「…なにこれ甘すぎ…。砂を吐くぐらい、とにかく甘い」

ほんの少し前までなら、佳林はその言葉を無言で流していた。
朋子と佳林は根本的な所が違っていて、朋子が『既に在った者』なのに対して
佳林は『作られた物』なのだから、すべてが違っていて当然なのだ。

しかし…今は。

朋子の心の機微たるものが読み取れるほどには、満ちてきていた。
容器の中に溢れるとばかりはいかないにしても、それなりの液体が…溜まっていたのだ。

助け船をだしてくれた。
朋子は佳林に。
つっけんどんな態度だとしても、そういうことなのだきっと。

だから…あかりに向きなおり、伝える。

「あまい」
「え、いやそれ、今ともが言った言葉やんっ」
「すなをはくぐらいあまい」
「だーかーらーっ!」

わしゃっと髪をかきあげるあかりは、あぁ、もうと天を仰ぐ。

それを見ながら、軽く顔を背けてくつくつ笑う朋子に、疼く胸を押さえながら、
佳林もそっと口元を緩めて、色鮮やかなケーキを今一度眺めていた。

432 :エシクスト :2014/11/02(日) 10:00
本日ここまで。

と、同時に「X.新垣里沙」は、終了です。

433 :Y.福田花音 :2014/11/30(日) 06:22





―――光は囁いた。「転生の時は来た」と。

―――闇は囁いた。「我の手を取れ」と。

そして…選択の先に一つの自由を手に入れた。
自分自身で、初めての自由を。
制約に縛り付けられていても、1つの自由を。

その制約のひとつが、付けられたヒトカタ。

………ずっと独りだった。
だから距離感とか、どうしていいのかもわからなかった。
しかも自分のすべての記憶をもちあわせている、いわばもう一人の自分。

自由の中の不自由。
まさにそれ。

そのヒトカタを…彼女を引きつれて、降り立った地表は…憎しみの感情を濃くしたんだ。

けれど、それと同時に、………憎しみ以外の感情も…色づかせたんだ。






434 :Y.福田花音 :2014/11/30(日) 06:22


*****

435 :Y.福田花音 :2014/11/30(日) 06:22
自分の中に燻り始めた苛立ちに朋子はもう気づいていた。
その正体にも。

この地に降り立ち、どれだけの月日が流れただろう。
その中で、色んな人間の死を見つめ続けてきた。
繰り返し繰り返し。
それはとるに足らない事象に一つで、朋子にとっては何の関心にもならず、
あぁ、そういうものなのだ、やはり人間は。という再確認になるだけだった。

が、しかし、だ。
どういうことだろう。
ここ最近を振り返れば、なんとも自由にならないことばかりで。
ついには、傍らに置いておいたはずの佳林さえも、思い通りにならなくなっている。
何故こうなるのだ、と。
遠い昔に捨て去った心が、じわじわと胸の中をかき乱し、ついには蝕み始めて。

それでも、朋子は理知的な方だった。
制御のきかない心のままに辺りに撒き散らすことはしない。
最後の最後で、必ず自分をコントロールする。

だからこそ、苦しいのだが。
そういう性分なのだから、仕方がない。

436 :Y.福田花音 :2014/11/30(日) 06:23
「なぁ、りんかー、とも、どうしたん?なんかピリピリしてる」

月が替われば、季節の匂いもゆっくりと進みだす。
けれど、この場所には相変わらずの冷たい風が吹きすさび、ぶるりと身体を震わせ
厚手のコートに身を包んだあかりが、朋子の小さな後ろ姿を見つめながら、隣にたつ
佳林にボソリと尋ねていた。
猫である朋子には、ささいな言葉も届いてしまうのだから、小声なんて無駄なのだが。

その言葉に、じっと朋子を見つめるもう一つの視線は、どこかせつなげで。
見つめ返してはいないのに、朋子はまた苛立ちをほんの少し募らせた。

総毛立つ、とはまさにこういうことなんだろう。
わっさりとした毛が鋭く立っているのだから。
一見すると可愛らしくも見えるが、その内側の感情に触れたならどれだけの傷を
負うだろう?それほどまでに朋子は今『荒んで』いた。

437 :Y.福田花音 :2014/11/30(日) 06:23
「あ、わかった」

が、その心の機微を読み取ることができないのが、子供の特権。
もちろん、あかりもその一人で、朋子の姿にポンと手のひらをうった。

「もうすぐ春が近いし、はつじょーきや!」
「違う、ぜんっぜん違うし」

思わず語気まで荒げてしまう。
いつもは苦笑して終わらせられることも、今日はできない。
こんな感情をぶつけるのは間違っている。
そんなことは判ってる。
だから、朋子は。

「かりんちゃん、行くよ」

僅かな生命の揺らぎをここぞとばかりに感じ取って、佳林に促した。
むすっと唇を尖らしているあかりには目もくれず。
ここにいると、ますますおかしくなってしまう。
それだけはわかっていたからの判断だ。

佳林にそれはどう映ったのか、ただ、何も言わずにあかりと一度目を合わせ
それから朋子の隣に立ち、肩の重みを待つ姿にそれは感じとれなかった。

朋子はそれでいい、と飛び乗って思う。
佳林はそれで、と。
従順に自分に付き従い、ともに…黒い霧に抱かれる。
それだけでいい、と。

438 :Y.福田花音 :2014/11/30(日) 06:24
が。
動き始めた歯車はとめられない。
佳林自身が動かしたものを、朋子はとめられない。

「ともー、喧嘩とかして りんかを泣かせたらあかんでー?ともの所有物じゃないんやから」

こうして、あかりが見てとれるほどに変わった佳林を。

それがまた―――

「…なんにも知らないくせに…!」

―――腹だたしい

歪む顔に激情がこみ上げてくる。
けれど、それが言葉になる前に、固く瞼を一度閉じて深呼吸をする朋子。

そう、あかりは何も知らないのだ。
ならば、責められるものではない。
だから。

「行くよ」
「……うん」

続く言葉を飲み込んで、少女と猫は…今日も黒霧へと消えていった。


439 :エシクスト :2014/11/30(日) 06:24
本日ここまで。
440 :Y.福田花音 :2014/12/23(火) 06:26
彼女は――― 福田花音は、その時をじっと待っていた。

一見すれば穏やかに口元を結んで聖書のページをめくる花音は、聖女にも見える。
その場所が、鉄格子に囲まれ太陽の光さえも届かない刑務所という場所でなければだが。

なぜ彼女が収監されたのか。
関わった人間には、鮮明に脳裏にこびり付くほどの事象が浮かぶだろう。

成人をまもなく迎えるのを前にして、彼女の手は赤に染まりすぎていた。
数を数えて、ざっと8人もの命を無残にも切り捨ててきたのだから。

最初の事件は、彼女がまだ年端もいかぬ中学生の頃。
通っていた学校の飼育小屋にいたうさぎがすべて死んでいた。
当時は外部の人間が、快楽の為に手にかけたものだろうとされていたが、その実
すべて彼女の手によるものであった。
その事実が明るみに出るのは、くしくも彼女が収監されてのことなのだが。

441 :Y.福田花音 :2014/12/23(火) 06:26
第二の事件は、すでに…人の生命を絶つという惨たらしいものへとエスカレートしていた。
それは彼女が高校にあがってばかりの頃で。
被害者を知るものなら、みなが口をそろえて言っただろう。
絵にかいたような好青年だった、と。
成績も上位で、スポーツにも長けていたし、なにより人当たりのよい青年だった。
その青年が、文字通り『中身を引きずり出される』という姿で発見されたのは、朝の教室に
太陽が差し込んだ清々しい始まりの時間であった。

警察の必死の捜索もむなしく、包囲網が狭まってはいたが、状況証拠のみでの逮捕は
昨今の失態続きの警察機関では踏み切ることもできず、彼女は見逃された。
それが、次の悲劇を呼ぶことになった。

一度に2人の人間が次にその餌食となった。
夜の繁華街、素性など訊かぬその晩限りの人間が集う街で、路地裏にバラバラになった
人の肉塊。一見すれば、野良犬の飯ともとれるそれだったが、陽に照らされて見えて毛髪に
その場に居合わせた人間は震撼した。

442 :Y.福田花音 :2014/12/23(火) 06:27
そうやって、狭まっていた包囲網の中、彼女の逮捕令状が出され…夜闇に紛れていた
彼女は捕えられることになった。

が…余罪を追及して頭を抱えたのは警察機関で。
彼女は、そのほかに3人の人間も手にかけていたと後に自供したのだ。

もちろん…彼女に下されたのは…『死罪』。

けれどそれさえも彼女は笑顔で受け止め…裁判中、被害者家族が激しく取り乱したのが
鮮明に残る事件の一つとなった。

そんな彼女には、その残忍な手口とまったくのでたらめな被害者の関連性から1つの
異名がつけられていた。

『シリアルキラー』と。

443 :Y.福田花音 :2014/12/23(火) 06:27




444 :Y.福田花音 :2014/12/23(火) 06:27
花音にとっての世界は、いつだって灰色に染まっていた。
どんな心の機微さえ感動を与えず、ただただ変わらぬ日常に溜息をつく。
それだけで良かった。
けれど…それがまるで打ち砕かれるような転機が目の前に転がり落ちてきたのは…
そう、彼女の手が朱にそまりきった高校生の頃だった。

「ねぇ、あなた、福田花音、って言うんだね」
「…誰?」

誰だろう?と、誰もいなくなったはずの教室で一人次の授業、英語の視聴覚室への移動準備を
していた花音は首を傾げた。

すらりとした長身。
流れるように艶やかな黒髪。
健康的な褐色の肌は、まるで花音と正反対でその頬に浮かんだ笑みも上品で柔らかい。
知っているはずなのだが、いかんせん花音は人の顔と名前を覚えるのが不得手だった。
記憶の中に、彼女の姿はない。
いや、おそらく記憶する人自体がないのだろうが。

445 :Y.福田花音 :2014/12/23(火) 06:28
「ひどいなぁ。私、和田彩花。これでも学級委員なんだけどなぁ?」
「そう、それはごめんなさい。それで何か用?」
「一度ちゃんと話してみたいって思ってたんだけど…わっ、クール。けど…すごく魅力的ね」
「…?」

ふわりと彩花の手のひらが花音の真っ白な頬を撫でていく。
その感触はたとえるなら、懐かしく温かな母親に触れられるような…柔らかさがあった。
無条件に自分を褒め、たっぷり愛情で包まれていた幼き日。
それが崩れ消え去ったのはいつだったか…。
けれど、そんな意識を溶かすように鼻孔をくすぐったのは、シトラスを含んだフレグランスの香り。
まるで教室という空間が、別次元に弾かれたかのように錯覚するほどの心地良い…香り。

瞬時に、花音の脳には危険信号が送られる。
こうやって自分に触れてくる人間は危険だ、と。
まるで絡め取られるような意識。
持っていかれる心。
このままでは、引きずられる、と。

446 :Y.福田花音 :2014/12/23(火) 06:28
「それに…とっても…可愛い」
「…っ…、やめ、て」
「やめていいの? あなたの目は、そう言ってないよ?」
「意味、わかんない…っ」
「本当に?判らない?あなた自身の事よ?」

指先が頬を撫で、唇をなぞらえていく。
ぞくりとする感覚は、いったいなんなのか。
それを考える思考は、緩やかに彩花によって停止していく。

「花音、って呼んでいい?」
「…気安く…呼…」
「…いい?」
「………」

まるでコールドリーディング。
弱く請うような声が、花音の胸の奥をくすぐってくる。
彩花の言葉に、従うように…信号が全身に送られていく。
頷くわけにはいかない。そんなことは花音にはわかっていた。
けれど。

447 :Y.福田花音 :2014/12/23(火) 06:29
「寂しいんだよね? もっと自分を見てほしいんだよね?」
「…っ」
「あなたは素敵よ? 特別なものを持ってる。私にはわかる。あなたのこと、みんなは全然
判ってない。もっともっとあなたはみんなから認められても、愛されてもおかしくないのに。
どうして気づかないのかしら?」
「和田、さ…」
「彩花、でいいよ」
「あや、か…」
「なぁに…?」
「あたし…、あたしは」

誰の心の中にもある、ぽっかりと穴の開いたような空虚感。
それが花音の場合、人より大きかったのだろう。
それを埋めるすべが判らず、ただ一時でも忘れたくて生を絶つという快楽に身を任せ続けた。
僅かばかりにも、それは穴を塞ぐ手立てになり…また次を渇望してしまう手立てとなってしまったが。
だからいつまでたっても…穴は埋まらない。
渇ききった心は、求めることをやめない。

そんな中で、出逢ってしまった彩花という存在。
無条件で自分を認めてくれる。
理解してくれる。
そんな存在が…特別になるのは――― 刹那な時で十分だった。

448 :Y.福田花音 :2014/12/23(火) 06:29
「花音…辛かったね。いつも苦しんでたんだね。けど私がいるよ?私があなたを見つけた。
みんながわからないのは、きっと私があなたを見つけるためだったんだね。だから…これからは
私があなたを愛してあげる。あなたの特別を全部愛してあげる」
「彩花…、本当に…?」
「えぇ。あなたを全部、私が受け止めてあげる」

その甘美な声の魔力は、一気に花音の渇ききった心に一滴の水を落とし、細胞の末端まで
幸福感を染み渡らせた。
ただ一滴の潤い。
なのに、信じられない程の幸福感を与えたのだ。
それほどまでに、すり減らされ尖りきった心。
だから…流れるのも…早かった。すべて、彩花のものになるまで…時間はかからなかった。

それが際限のない欲望に変わるとも知らずに。

ただただ、この時は…伸ばされた彩花の両腕の中に抱かれるだけしか…花音にはできなかった。

449 :エシクスト :2014/12/23(火) 06:29
本日ここまで。
450 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:50
花音は、極端に接触を拒む。
触れられることへの嫌悪感が、人一倍強かった。

幼き日の記憶の奥に閉ざされた、忌まわしい日が関係していたが、それには蓋をし、
悟られることなく生きることを選んだ花音は、きっと人の目には完璧な少女に見えただろう。
ただ一点、人を寄せ付けない雰囲気さえ除けば。

実際彼女は成績優秀で、ほんのわずかな狂いも許さない程、計算能力に優れていた。
それがすべて…『仮面』なのだと気づいたのは…、彩花だけだった。

「ねぇ、花音。何をそんなに警戒しているの?」
「…なにも。彩花の前では、何も」
「ううん、違うよね?私にも差し出してない心があるよね?」

ぞくりとした。
放課後の教室に、2人だけ。
それだけでも特別を感じずにはいられないのに、あまりにも彩花は甘美な声で、
指先で、花音の頬に触れてきたのだから。

着席していた花音の目の前の机に腰掛けて見下してくる彩花に、まったく高圧的ものはない。
ないがしかし、逃げることも許さないというような何かがそこにあった。

451 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:50
「私には全部ちょうだい? どんな花音も愛してあげるから」
「…っ」

じっとりと手のひらに汗がにじむ感覚がして、花音は慌てて机の下に手を隠し握りしめた。
妙に身体が熱く、喉が渇いていく。
心臓の音は雷鳴のように大きく胸を打ちつけ…苦しさに息まで乱れていく。

こうして自分に触れてくるものを拒んで、守っていたのに、と花音は固く瞼を閉じる。
でなければ、自分は自分でいられないのだから、と。

「花音」
「…っ、…っ」
「ゆっくり…息をしてごらん?」
「…っ、あや、か…っ」

不意に頬に触れたのは、濡れた唇の感触。
何事かと目を開けば、すぐそこにきめ細やかな彩花の笑み。
すぐさま瞳の奥まで覗き込まれて、うっと顎を引くがもう遅い。
するりと、彩花の指先が花音の顔の輪郭をなぞらえ、唇をもどかしくなぞり、
追いかけるように、弾力ある彩花の唇が花音のそれと重なった。

452 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:51
「…っ!」
「……いや?」
「…そんな、こと、ない」
「ほんとに? 怖くない?」
「彩花は…怖くない」
「じゃあ…怖かったのは、だぁれ?」

怖ったのは…誰か。

どくん、と一度大きく脈打つ心臓。
そして、弾かれる意識。

過去へ、弾かれていく、意識。

453 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:51




覚えているのは断片的ながらも、色鮮やかなある一日。
忌まわしく、忘れたくても忘れられない、おぼろげながらも生々しい記憶の一日。

夏休みの蒸し暑い真昼の出来事だった。

いつも花音は外出先から戻ると、冷凍庫を開けバニラアイスを頬張るのが日課だった。
その日も、仲の良い友人に別れをつげ、何も変わらぬ時を過ごそうとしていた。
だが…、何も変わらない時のはずなのに、その日は何故か父親が帰宅していたのだ。

仕事は?と尋ねるも返答はなく、虚ろな眼差しでリビングのソファーにうな垂れるように
座りこみ、酷く酒を煽りながら がしがしと頭を掻き毟り、異様さだけが際立っていた。

もしも、花音が、エリート公務員であった父がリストラされたという意味を理解し、
絶望の先に起こりうる事象が読めれば、取りうる行動は変わっていたかもしれない。
もしも、この日この時間に母親がいれば何かが変わっていたのかもしれない。
もしも、この時の異様さに外へと逃げ出していれば、変わっていたかもしれない。

けれど、もしも、はすべて過去で、起こってしまった過去は覆らない。

454 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:51
「花音」と名前を呼ばれた気がした。
冷凍庫の扉が開けっぱなしになっていたと思う。
その時の箱に入ったバニラアイスが、何故か自分の顔のすぐ隣に転がり落ちていた。
気づけば花音の視界は、不思議な模様で彩られた見慣れぬキッチンの天井と、
鬼のような形相で、荒く息を吐く、父親の顔で埋め尽くされていた。

何が起こったのか。
理解するには花音はあまりに幼すぎた。
ただ、そういう行為が自分に降りかかっているのだと気づいた瞬間、抵抗たる抵抗も
できないところまで進んでいたのだ。
やめて、と声が出たのかどうか。
腕をつっぱったのかどうか。
それさえも、あやふやな記憶。

ただ鮮明に今でも覚えているのは、激しく身を引き裂かれるような下腹部の痛み。
浅黒い父親の肌から、ぽたりぽたりと自身に降りかかってきた汗の不快感。
そして、揺れる視界で見た、すぐ顔の隣で溶けていく、袋に入ったままのバニラアイスだった。

455 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:52




「花音、可哀想」
「…っ、…っ」

意識が引き戻されたのは、シトラスの香りが花音を包み込んだからだった。
やんわりと、壊れ物に触れるように彩花が花音を引き寄せたのだ。
一気に肺に入り込んでくるそれは、かき乱された心に落ち着きを与えていく。

「苦しかったね。けど、もう過去よ」
「…っ、け、ど…過去は変わらない…」

絞り出した声に、悲しげに目を伏せた彩花は…それでもにこりと微笑んだ。

「そう、過去は変わらない。けど、未来は変えていける。花音の手で」
「私の、手で…」
「その手を…私が握っててあげる。だから…私のものでいて?」
「彩花の、もので…」

こくりと頷く彩花は、まるで女神のようだった。
すくなくとも、花音の記憶の中に、これほどまでに自分を大切に想ってくれる人は
いなかっただろう。

だから…―――― 受け入れた。

彩花のすべてを受け入れた。
そして、彩花のすべてを、守りたいと願った。
過ちを犯してでも、守りたいと願ってしまった。

456 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:52





457 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:52
「あの人…少し困ってるんだよね」

彩花にそんな相談をされたのは、ひと月ばかり経ったある日の放課後の事だった。
あの人、とは? など考えることもなく思い至るほど、花音は彩花の事に敏感だった。

最近、彩花にアプローチをする異性がいるのを知っていた。
女子高に通う二人なのだから、校舎の中までは踏み込んでは来ないが、正門に立ち
彩花が通るのを毎日のように待っているのだ。
それを、彩花は快く思っていないという。

「好青年、っぽい、けど?」

探るように、花音は彩花を窺った。
花音の言う通り、その彼はいま時には珍しく髪を染めることもせず、制服も着崩すなどなく、
身長だって高いし、爽やかさを滲ませるような人だった。
その彼を、困ってるとは、本当なのか。
彩花の真意が見抜けず、困惑してしまう。
しかし…彩花が困っているというのなら。

458 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:53
「見た目はね。けど、ちょっとお話してみたら、強引な所があってさ。ほら」

言いながら彩花が、シャツの袖をまくり上げた。
そこには、紫色に鬱血した皮膚が痛々しくも広がっていた。
形からして、強い握力で握られたのだろう、くっきりとした手形が男性の大きさを物語っていた。

途端に、花音は息苦しさに襲われる。
息苦しさだけではない。
かたかた、と。
全身に震えがこみ上げてくる。
抑えるように両腕で肩を抱けば、その腕ごと包んでくれる柔らかなぬくもり。
彩花だ。

「ごめん、こんな話して。大丈夫よ?忘れて、花音」
「け、ど…」
「大丈夫。私なら、大丈夫よ?」

その声のなんと心細いものか。
花音の胸には、もはや自身の記憶の傷痕の痛みなどなくなっていた。
代わりに…、彩花に対する狂おしいほどの愛おしさと…業火のように胸の奥で膨れ上がる
憎悪が、すべての思考を支配していたのだ。
そして出された、一つの答え。

彩花のためなら――― なんでもできる。

それが…すべての惨劇の始まりだった。

459 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:53





460 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:54
福田花音は、シリアルキラーなどではない。

それを知るのは、和田彩花と、

「こんにちは」
「…ついにお迎え? 黒猫が喋るなんて、面白いわね」
「ま、似たようなもんかな」

死神とされる佳林に、朋子だけだろう。

「たくさん、手を染めたんだね、あなた」
「そう? もう少しやれたと思うんだけど」

朋子の含み言葉にも、花音の笑顔は変わらない。
さながら、正義を貫き通し、それを誇りに思っているかのように。

461 :Y.福田花音 :2015/01/17(土) 16:54
「で? 私のお迎えはいつ? 今なの?」

これほどまでに死を受け入れている花音に、なぜ佳林と朋子が呼ばれたのか。
疑問に思うことなど、2人にはなかった。
何度となく、そんな魂を見つめていたのだから。

――― そう、至極、簡単な理由だ。

コンコン、と。
扉を叩く音がし、花音は二人から視線をそらす。
小さな窓枠から見えたのは、灰色の制服に身を包んだ監視官。
そして告げられたのは、端的な一言。

「福田花音、謁見だ」

はい、と短く返事をし立ち上がった花音は部屋の扉をくぐるまで笑顔だった。
それを見て、溜息をついたのは朋子だ。

そう、2人にはわかっていた。

――― 死を受け入れがたい、憎しみの魂に花音は引きずられるからだ、と。


462 :エシクスト :2015/01/17(土) 16:54
本日、ここまで。
463 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:23
「久しぶり」

ふわりと。
花音の周りの空気が色を変えた。柔らかな暖色系へと。
謁見の場、ガラスの向こう側に静かに微笑むその人の姿を目に留めて。

「彩花」

名前を呼べば、それは甘くも広がりを見せ、この場に似つかわしくないほどの
温かな風さえ呼び込む。
それほどまでに、彩花は花音のすべてだった。

「来なくていいのに」
「ううん、だって花音がいるんだもの」
「…ありがとう」

なんて優しいのだろう、と。
ただ、この場だけを見る者は思っただろう。
だがしかし…、すべては―――

「それに、花音の報告したいことがあって」

ただ一人の女の子が―――

「なに? 聞きたい」

―――― 紡ぎ出していたストーリー上のものだったとしたら、どうだろう。

464 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:24
優しさも。
傷を覆うような愛情も。
寄り添うぬくもりも。
与えた甘い言葉も。
すべてが―――、

「私、結婚するの」

――― 彼女の思い描く未来への『計算』だったとしたら。

彩花の言葉は、花音に届いたか。

「子供も出来たんだ」

愛おしく腹をさする手は、いつかの日花音に向けられた手のひらのようだった。
それを見て、花音は心の中だけで息を零した。

あぁ、私はあの手を求めていたのか、と。

無条件の愛情が欲しかった。
誰の手からも守ってくれる手が欲しかった。
すべてを許して、寄り添ってくれる手が欲しかった。
母親のような、柔らかく抱きしめてくれる手が欲しかった。

なにより…彩花が欲しかった。

465 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:24
けれど、それは―――― もう叶わない。

彼女は一人いってしまった。
花音が手を差しのばしても、届かない場所へ。
花音を置き去りにして。

そこでようやく、思い至った。

―――― 自分は『利用された』のだ、と。――――

「そう。おめでとう彩花」

なのに花音は笑顔だった。

「ありがとう。祝福してくれるのね?」

心から祝福した。

「もちろん」

当然だと思った。

「花音がいてくれて良かった」

そう、自分がいたから彩花は幸せだと笑うのだから。

「嬉しいよ、彩花がそういってくれるなんて」

自分がいなければ、その幸せは手に入らなかったのだから。

466 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:25
「大好きよ、花音」

私も好きだ。誰よりも彩花が。だから――― 憎い。

「私も大好き」

憎いのだ。これから先、彩花を苦しめるだろう相手の男が。

「もう、ここに来るのは最初で最後にするね」

悔しいのだ。自分の居ぬ所で、彩花が苦しむだろうことが。

「うん。私の分も幸せになって」

幸せになってほしいのだ。彩花には誰よりも。自分のそばで。

「ありがとう。じゃ」

ならばどうすればいい? 自分はここから動けない。ならばどうすれば。

「さよなら」

そうだ、肉体はなくとも呪う方法はいくらでも。魂だけでも彩花のそばに。

「さようなら、花音」

そう――― この肉体では、さようなら、彩花。

467 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:25





468 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:25
「おまたせ」
「おう。終わったのか?」
「えぇ。全部」
「じゃあ、車回してくるからここで待ってろよ」
「えぇ」

男は、軽く彩花の身体を引き寄せて微笑むと足早にパーキングへと駆けて行った。
それを見送る彩花の、なんと冷たくも美しい微笑みか。
達成感、そんなものさえ滲み出るかのようだ。

ひゅう、と。
その彩花の髪をなびかせるほどの風が一度吹いた。
と、同時に、彩花の背後に二つの影。

赤と黒の衣を纏った…、佳林と朋子だ。

「ねぇ」
「…何かしら?」

突然の声かけなのに、彩花はたじろぐこともなく振り返り笑みを浮かべた。
まるで、佳林と朋子の存在に気づいていたかのように。
それに、一度眉を顰め、それでも朋子は言葉を続ける。
黒猫の姿でなく、人としての姿で…対等の目線で。

469 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:26
「彼女、あなたの大切な人だったんじゃないの?」
「えぇ、大切な人だったわよ?それこそ本当に最高の人」

だったら何故か、とは朋子は尋ねない。
敏感に感じ取ってしまったからだ。
彩花は――― 『からっぽ』なのだと。

実際、和田彩花という人間は、福田花音と同じように心にぽっかりと穴があった。
完璧な優等生の仮面の下に、花音と似た境遇、過去があり…同類を求めた。
その先にいたのが花音であり…おそらく最大の被害者は…花音だったろう。

だから手に取るように花音の行動がわかっていた。

どうすれば自分の元に来るのか。
どうすれば自分の思い通りに動くのか。
どうすれば――― 優越感の中で、自分が幸せを掴めるか。

そして、終わらせる方法も。

「だから…私が幸せにならないと、花音が可哀想でしょ?」

パッパ、と。
短い車のクラクションが鳴らされ、彩花は柔らかな笑みを朋子に向けて背を向けた。

「じゃ、さよなら」

その背に、黒く怪しい煙が見えたが…、朋子たちがそれを狩るのは遠い未来の話なのだろう。

470 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:26
「やれやれ…」

呆れたように溜息を零しながら朋子はごちる。
こんな人間に会うこともしばしばあったが、間違いなく彩花は特異な方だろう。
心の渇きを埋められぬ、憐れで滑稽で、それでも美しい悪魔、といったところか。

ふと、そこで朋子は眉をしかめた。
彩花に向かってではない。
その彩花の背を見送る佳林を見とめてだ。

まるで射抜くように鋭い眼差し。
ともすれば、怒りさえ滲ませた表情をその顔にはのせている。
今まで朋子は、こんな佳林の姿を一度として見たことはあっただろうか?
いや、こんな感情を見せるとも、思い寄らなかっただろう。

471 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:26
「佳林ちゃん」

ぐっと、僅かに力を込めた手でその肩を掴めば、何事もなかったように瞬きをして
朋子を見上げる佳林。
そのくりっとした瞳は、今まで朋子が見ることを避けていたもので…軽く舌打ちした。
感情、その色が確かにそこにあったのだ。
人間のもつ、あの感情が佳林に。

「この間からおかしいよ、佳林ちゃん」
「…?」
「人間なんかに深くかかわらない方がいい、わかった?」

戒めのつもりだった。
それで佳林は理解するだろうと。
今までがそうだったように、佳林にとってと朋子の存在は絶対だったのだから。
けれど。

472 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:27
「でも…」

小さく声が響く。
それだけでも朋子には驚きだった。
だが、続けられた言葉に―――

「朋も、人間、だったんだよ?」
「…ッ!」

―――― 愕然とした。

まさか佳林の口から、そんな言葉が出るとは思わなかったのだ。
いつも朋子に付き従い、反論たるものなど一切なく、それその通りだとばかりに隣にいた存在。
いや、彩花が思う花音のように…どこか…『都合のいい存在』と思っていた佳林から。

相当に、酷い顔をしていたのだろう。
佳林は僅かに動揺したように瞳を揺らし「……ごめん、なさい」と俯き呟いた。
その姿のなんと人間臭いことか。

473 :Y.福田花音 :2015/01/19(月) 06:27
時間は止められない。
それは、この世界が動き続けていて、人の心に触れ行く限り仕方のない事。
そんなことは朋子には判っていた。
そう、あかりと出逢ってから、変わり続けていく佳林を見ていたのだから。
苛立たしくも、止められない…『もうひとりの自分』の姿を。

くしゃり、と朋子は前髪をかき上げて佳林から数歩離れる。
止められないのならば…、流れに乗るしか、ないのだろう。
受け入れるなんて毛頭無理だと思っていたことに。

「あ…あはは…っ、そうだったね、うん、そうだわ。謝ることない。事実なんだし」

くつくつと身体をくの字に折り曲げながら朋子は笑う。
悲しげに見つめる佳林に瞳から逃げるように。

だが…いつまでもそうしてばかりはいられない。

鋭く感じ取った死の匂い。
惑う魂の気配。
それは始まりの合図。
朋子と佳林がすべき審判の。

「じゃ、その人間を送る仕事に行こうか」

ぽん、と、軽く朋子は笑みを顔に張り付けたまま佳林の背を叩く。
そのまま黒霧へと消えていく背を見つめて…佳林は、ちくりと胸を痛ませながら…
追うように掻き消えた。

474 :エシクスト :2015/01/19(月) 06:28
本日、ここまで。
475 :名無飼育さん :2015/03/02(月) 01:18
待ってます。
476 :Y.福田花音 :2015/03/07(土) 06:41
「看守ー!!」
「医者を呼べ!!」

世界が一変するとは、こういうことなのだろう。
そのように冷静に今の状況を見つめていたのは、おそらくは朋子だけだった。

毀れた心の末路には二つの道があるのだ。
砕けた想いに感情が追いつかず、ただ涙に伏せ消えていくものと、そして。

「福田花音…!」

―― 憎しみの業火に焼かれ、狂喜にすべてを飲み込まれ堕ちていくもの。

けたたましいサイレンが異常を知らせたのは、朋子と佳林が彩花と別れたあの瞬間だった。
幾人もの人間が入れ代わり立ち代わり花音の個室を駆けまわり、事の重大さを知らせて
いたが…朋子と佳林は部屋に姿を現した瞬間にすぐ、それを体感することなった。

目を覆うような惨状。
いや、地獄というものが存在するのなら、まさに今この瞬間、ここに『ある』ものがそれだろう。

477 :Y.福田花音 :2015/03/07(土) 06:42
福田花音はすでに事切れていた。
彼女のあの柔和な笑みの仮面に欺かれた職員は、拘束具を施さなかった。
それがすべての明暗を分けたのだ。

古典的とも言える、舌を噛み切るという行動に花音は出た。
どれほど屈強な心の持ち主だろうと、躊躇いさえ浮かぶ選択。
なのに、花音には踏みとどまる形跡もなく、見事に肉塊として舌を噛み切り捨てた。

人間が舌を噛み切って死に至るか。
―――、至れる。
それは決して失血して、というものではなく、噛み切られた舌が胃と肺の経路である
咽頭へと勢いよく巻き付くことによって呼吸の道が塞がれてしまう、いわゆる窒息の形で。

自ら破滅に追い込む行為に向かう者には、優しい結末など訪れたりはしないものなのだ。

478 :Y.福田花音 :2015/03/07(土) 06:42
朋子は眉を寄せて奥歯を噛みしめた。
隣に立つ佳林も、険しい眼差しで正面を見据えてる。
その足元には、強く負荷をかけるように踏みしめて。
そうでもしなければ、はじき飛ばされてしまいそうになるのだ。
部屋の中心に存在する、そのものから吹きすさぶ暴風に。

今までに見たこともないほどの、大きく膨れ上がった人型の炎が、君臨していた。
そう、まさに君臨していたのだ。
その炎から轟々と獣の咆哮のような腹に響く音が放たれ、鼓膜を震わせる。
憎しみの心に呼応した荒れ狂う暴風は、次々と朋子と佳林の身体を刻むように突き抜けていく。

この嵐の中、近づくのは至難の業に思えた。
おそらく、一歩でも近づけば遠慮なくこちらを攻撃してくるだろう。
すべては、自らの目的の為に。

そう、肉体という柵から解き放たれた花音には、目的があった。
彩花の側に存在するすべてを食いちぎるという。
何者も自分の女神である彩花に触れることを許さないという、狂った意志のもとに。

だがそれは許されない。
決して許してはいけないものなのだ。
だから―――。

479 :Y.福田花音 :2015/03/07(土) 06:42
「佳林ちゃん、行くよ」

静かに朋子は佳林に促す。
頷く佳林は、黒霧より大鎌を、ぐうんと一度回し取りい出した。

が。次の刹那。
花音からの一撃が繰り出される。
まるで宣戦布告とばかりに。

「ぐ…ッ!」

身構えるよりも早く、強い気流を操るように鋭い突風が佳林の身体を弾き飛ばした。
小さく繊細な身体は成す術もなく吹き飛ばされ、一気に後方の壁に叩きつけられんとする。

「佳林ッ!」

それを阻止したのは朋子だった。
瞬時の判断で黒霧に消えると、佳林と壁の間に再び現れダメージを軽減させたのだ。
だが、しかし、その威力は朋子の想像をはるかに超えていて、全身を切るような激痛が走る。

480 :Y.福田花音 :2015/03/07(土) 06:43
「痛つぅ…」
「とも…!」
「集中…しなさい…! 今までのとワケが違う」

佳林が支えようと伸ばした腕から逃れ、自らの身体を庇うように抱きしめた朋子は、
膝を折りながらも目を細め前方の花音を睨んだ。
まるでせせら笑うように見えるのは気のせいではないだろう。
肉体を失くしたことで、解放された心が童心のように今この場を楽しんでいるのだ。
それが…朋子には腹立たしい。

「恨み・憎しみ・悲しみ・苦しみ・それから…殺意。その全部が入ってた容れ物が、
人間なんだよ…。佳林ちゃんが向き合う、魂なんだよ」

佳林へ告げる言葉は、どこか朋子自身にも向けられている言葉のようにも思えた。
事実、朋子の中に生まれ始めた佳林の変化への戸惑いが、ちょっとしたミスを呼び
こんな体たらくを晒してしまっているのだと、僅かながらにも思えて仕方なかったのだ。

『ともも、人間だったんだよ』―― その一言が耳の奥にこびり付いて離れない。
今まで考えることも放棄していた事を、佳林の口から告げられて茫然としてしまったのだ。
今ここに、『ここ』へ送り出したものがいたのなら、花音以上に嘲け笑ったことだろう。

振り切らなくてはならない。
目の前の魂を狩ることだけを考えなくては、ここで『消えて』しまうかもしれない。
自分も佳林も。
それだけは、不愉快だ。

481 :Y.福田花音 :2015/03/07(土) 06:43
痛めた脇腹のあたりを庇いながら佳林の隣に立ち、憎々しげに朋子は花音を見つめた。
感情に翻弄されてはいけない。
使命を果たす、淡々と。
それだけだ。
ぐぅんと、伸ばした右手に黒霧が絡みつき、薙ぐように空を切ってボウを取り出す。

「佳林ちゃん、うちがバックアップする。必ず逝かせて」
「とも…」
「あんなのがのさばってたら、他の魂が引きずられて世界の均衡が保てない」
「……うん」

間違いなく花音は、今までで一番の狂気の塊だ。
朋子が、見るのは。
そう、朋子が、見るのは。
つまりそれは…。

「――― うちみたいなやつは、一人で十分」

朋子の呟くような言葉に、佳林は一瞬はっとした表情で朋子を仰ぎ見た。
そこに表情はない。
毅然とそこに立ち、花音に照準を合わせている姿だけだ。
だから、佳林も。

「…うん」

一度手を離れた大鎌を黒霧から呼び寄せ、力強く握ると身構えた。

482 :エシクスト :2015/03/07(土) 06:44
本日、ここまで。

>>475 名無飼育さん

ありがとうございます。
483 :Y.福田花音 :2015/04/30(木) 17:22
「行くよ…!」

低く言い放った朋子に、瞬時に佳林は反応する。
見えるから攻撃されるのだ。
ならば、と、自身の身体を黒霧にかき消し花音の元へ駆け出す。

異変に戸惑ったのは花音だ。
手に持つものから、狩りゆく方は朋子ではなく佳林だとすぐに判断がついた。
いわば朋子はどうとでもなる者。
そう高を括っていたのに、その佳林の姿は目の前から消えたのだ。
どうすればいいのか、その一瞬の迷いに空白が生まれる。
それこそ、朋子が計算した通りの姿だった。

「くッ!!」

一斉射撃。
まさにその言葉がふさわしいほど、朋子は矢継ぎ早にボウに矢をセットしては
次々と花音に向かって放っていく。
身の丈以上にも膨れ上がった、憎悪に満ち溢れた炎を、端からジワジワと削るように。

一本、二本、三本…、伸ばす腕に絡みつく黒霧は、主の命に従うように、白銀の鋼を
朋子に委ねていく。
それを確実に、花音の急所へ迫るように放つ。
たとえ大きな炎の揺らめきも、止まらない攻撃には形を崩していくしかないのだ。

484 :Y.福田花音 :2015/04/30(木) 17:23
が、花音はそれを黙って受け入れるような者ではなかった。
やられたことはやり返す。
やられかけたこともやり返す。

冷静さを取り戻すように状況を確かめ、照準を佳林から朋子へ移す。

―― が、それこそが、朋子の本当の狙いだったのだと知るのは、僅か後。

「佳林ッ!」

花音から放たれる暴風が治まりきった瞬間。
鋭い朋子の一声に応えるように、佳林が黒霧を振り払って姿を現した。

花音の、『頭上』に。

「――ッ!?」

花音が佳林を仰ぎ見るが、遅い。
すでに振り上げられていた大鎌は、もう花音の『目』の前に。
そして。

「――――――ッ!!!」

文字通り、花音は…一刀両断されたのだ。
頂点部中心から、ばっさりと。

485 :Y.福田花音 :2015/04/30(木) 17:23
そのなんと鮮やかな切り口か。
炎が割れる、などという現象がまことにあるのだと、誰が信じよう。
それほどまでに、佳林の一撃は、芸術性までものぞかせたのだ。

普通の魂なら、もう形さえ残らない。
が。
花音は…『普通』ではなかった。
ただでは飲み込まれない。飲まれてなるものか、と。
送られる者へと、一撃を受けてもなお、成り下がらなかった。

もはや執念。
その感情を、けたたましいほどの咆哮に乗せ撒き散らし、――目の前の佳林へ。
最後の…本当に最後の悪あがき。
が、魂を込めたそれは、鋭い炎の矢となって佳林に放たれた。

「…っ!」

振り切った体勢で、身を守ることもできぬ佳林は…その炎に身を――

「ッ!?」

――― 焼かれる寸前に、強く強く抱かれた。

誰、などとは愚問。
この場で佳林の身を守ることが出来るものなど、一人しかいない。

486 :Y.福田花音 :2015/04/30(木) 17:24
「とも…!」

目の前が紅蓮の炎で広がっていく。
けれどすべて朋子の背後の出来事だ。
守られた佳林は、茫然とその身にかかる負荷に戸惑うばかりだった。

抱かれた腕はギリギリと痛いほどで、視界の端に見えた朋子の唇は強く
噛みしめられている。
鼻をつく焦げた臭いは、どれほどの痛みを朋子へと与えているのか。

やがて、事切れたように花音の意志を失った炎は…跡形もなく消え去っていった。

残されたのは。

「とも…っ!とも!」

まだ佳林の身体を強く抱いたままの朋子だった。
否、抱いているのではない。
支えにしているのだ。
事実、足元の力は抜け、今にもその場にくずおれてしまいそうな体勢となっている。
気付いた佳林は、しっかりと朋子の身体を受け止めようと手を伸ばす。
だが。

487 :Y.福田花音 :2015/04/30(木) 17:24
「…ったく…、なんでこうなっちゃうかなぁ…こういうの…うちのキャラじゃないってのに」
「と、も…っ」
「佳林ちゃんが人間だったら…絶対見捨ててやるのに」

それはつまり、と佳林が問おうとするより早く、朋子の身体が軽く音を立てて変化する。
人型は一瞬にして消え去り、そう、黒猫の姿へ。
そしてそのまま…床へと崩れ落ちた。

「とも…!とも!!」

膝を折り朋子を抱き上げるが、返事はない。
それどころか微動だにしない。
途端に、佳林は混乱した。

こんなこと初めてだった。
いつも自信満々に隣に立ち、弱い部分など微塵も見せなかった朋子が今動かない。
息はあるがしかし、まったく動かないのだ。
どうすればいい。
どうしたらいい。
わからない。
その知識が、佳林には『なかった』のだ。
ならば…?
488 :Y.福田花音 :2015/04/30(木) 17:25
「とも…っ、かりん、どうしたら、いいの…?」

胸にこみ上げてくる感情に戸惑う。
抑えきれない身体の震えに、思考が停止していく。
けれど、それではどうにもならない。
佳林に人間の知識などない。
なら、どうする。
人間の知識を得るには…?

そこで、思い至る人物。
彼女なら、あるいは。
考える猶予などもうなかった。
ただただ、佳林は朋子の身体をかき抱き、黒霧に誘われていった。

489 :Y.福田花音 :2015/04/30(木) 17:25




490 :Y.福田花音 :2015/04/30(木) 17:26
いただきます、と植村あかりは特等席の屋上でちょうど弁当を広げた瞬間だった。
突然目の前の空間が歪み、屋上一面に黒霧が広がったかと思うと、その中から駆け出す
人影。わっと思った時には遅い。至近距離で現れる人物に仰け反って、手の中の
弁当は無残にも、地面へと散らばっていった。

「わっ、わっ!」

嘆息と落胆で地面を見つめて、むっとしながら顔を上げ…――― すぐ呆然とした。
夢か何かではないのかと、瞬きを何度もしてしまう。
それでも変わらぬ景色に、ごくんと生唾を飲み込んでしまったぐらいだ。

「うえ、むら、さ」

たどたどしく名を呼ぶ声。
小さくか細い、頼りない声。
それだけならあかりはこんな表情にならなかったろう。
その声の人物が、よく知る少女・佳林であったこと。
そして…その佳林が、あの彫刻のように物言わぬ少女だった佳林が…

「りん、か…、泣いて、るん…?」

今は、剥き出しの感情そのままに、その頬を涙で濡らしていたのだ。
痛々しいほどに歯を食いしばり、きつく眉を寄せ。
なんて『人間らしい』姿なのか。
あかりには、あまりのことに言葉がでない。
が、いつまでも呆けてもいられない。
ふるふると、一度頭を振って気持ちを奮い立たせると、佳林の肩に手を置いて
顔を覗き込んだ。

491 :Y.福田花音 :2015/04/30(木) 17:26
「どうしたん!?りんか…っ」
「うえ、うえむら、さ」
「うえむーでいいよ…!本当にどうしたん…!」

軽く両肩を揺さぶって、気づく。
佳林が、その腕の中に一等大切そうに何かを抱いていることに。
黒くふんわりとしたその姿には、あかりも見覚えがあった。
あったがしかし…記憶の中のその姿はこれほどまでに、弱っていただろうか?
もっと言えば、佳林に大人しく抱かれているような者だったか。
その疑問の答えはすぐに。

「とも、が、動かない…っ、うごかないの…っ」

広げられた佳林の腕の中。
あかりは目をみはった。
艶やかな毛並みは今はなく、所々焦がされたようにちりぢりになっている。
それだけではなく、生々しい朱に染まった皮膚が息づくように覗いている。
お世辞にも、その姿にすぐさま『大丈夫』とは、あかりでさえも言えなかった。

492 :Y.福田花音 :2015/04/30(木) 17:27
「どうしたん…!?酷い怪我!!病院に連れていかんと…!」
「びょう、いん…?」

聞き慣れぬ単語に佳林は、瞳を揺らす。
何度も狩るために訪れた場所も、今までの佳林には記憶に蓄積されるものでは
なかったのだ。
その佳林に、あかりは瞬時に頭を切り替える。
知らないのならば、知っているものが導くだけ。
自分が、佳林と朋子を導かなければ。
強い使命感は、すぐ行動へ。

「どっちがいいんやろ…動物病院?普通の病院?あーもーいいやっ!由加んとこ行こ!」
「ゆか…?」

佳林の瞳から溢れる涙はとどまることを知らない。
捨てられた子犬のようにあかりを見つめる眼差しと一緒に、痛々しく滲んでいる。
あまりにも悲しいその姿に、あかりは居たたまれない気持ちを抑えられずに
強く、佳林を朋子ごと抱き寄せた。

「だいじょうぶ!!絶対助かる!!あかりに任せて!」
「うえむー…」
「あんだけ可愛げないんやで?根性だけはありそうやん!ともを信じろ!助かる!」

こくりと頷く佳林に、あかりは、うん、と強く何度も背を撫でて応えてやる。

「行くよ!来て」
「…うん…っ」

弾かれたように屋上を飛び出していく二人の腕の中で、僅かに朋子がにゃあと鳴いた
声は、吹きすさぶ風に紛れて耳に届くことはなかった。

493 :エシクスト :2015/04/30(木) 17:27
本日、ここまで。
494 :名無飼育さん :2015/06/05(金) 22:14
続きが気になります!!
495 :Z.矢島舞美 :2015/07/28(火) 06:00





とも。
呼ばれて、ずっと邪険にしてた。
とも。
目の色を確かめられて、遠ざけた。
とも。
感情を覚え始めて、戸惑った。
とも。
確かな形を成した心に……諦めた。

憎み続けることを、諦めた。





496 :Z.矢島舞美 :2015/07/28(火) 06:00


この病院に足を踏み入れるのは、佳林にとっては二度目だ。
いや、もっと行ってしまうならば踏みれたというよりは、呼ばれたのだが。
そう思えば、ここへ建物本来の目的の為に来るのは初めてなのだろう。

「りんか!こっち!」

病院の廊下を全力で駆け抜けるという、常識的に考えていかほどのものかという
行動をとるあかりだが、時は一刻を争う事態なのだ、と佳林も続く。
今頼りにできるのはあかりしかいないのだ。
この世界の理を知らない佳林にとって、あかりは救世主となりうる存在なのかも
しれないという意識しかない。
その腕に抱く、黒猫の命運をすべて委ねるに値する、存在なのかも、と。

「あっ!ゆかっ!」
「? あーりー?」

真っ白な世界の中で、褐色の健康的な肌を惜しげもなく晒した存在が
廊下の先の角から曲がり来た。宮崎由加だ。
あかりの姿を確認するやいなや、怪訝な表情で隣の佳林にも目を向けてくる。
思わぬ場所にいる、思わぬ組み合わせなのだろう。

497 :Z.矢島舞美 :2015/07/28(火) 06:01
「あんねっ!ともが怪我したみたいでねっ!どうしていいかわかんなくて!」
「とも? その子?」
「違うっ!こっちはりんかっ!」
「あーりー…、少し落ち着いて話そうか?」

今にも食らいつかん勢いで、鼻先まで顔を寄せてくるあかりに、由加はにっこりと
微笑んで、軽くその背をぽんぽんと二度ばかり弾ませた。
非常事態な時ほど冷静な対応を、まさにそれが目の前の由加にはあった。
だからこそ、院内スタッフも、『院長の娘』以上の信頼を置いているのだろうが。

「この子!りんか!で、この猫!とも!どっかで大怪我して、ともが動かない!」
「うんうん」
「助けて!」

何とも要領を得ない説明なのがだ、これがあかりの精一杯なのだとわかっている
由加は、瞬時に頭の中で言葉を噛み砕き理解していく。
大きく何度も頷いては、佳林と朋子を見比べあかりの言葉を最後まで聞いていた。
そして、そっと朋子を覗き込む。

498 :Z.矢島舞美 :2015/07/28(火) 06:01
朋子には、自然治癒の力はある。
人間の速度よりも早く。
が、しかし、それでも追い付かない深い傷は、まだ癒えず朱に熟れた皮膚を
覗かせ、お世辞にも大丈夫とは言えない姿だった。

「あーりー、残念だけど」
「なにっ!?助からんのん!?」
「そうじゃなくてね? まず、ここにきたのがちょっとしたミスかな」
「どういうこと!?」
「ここは、人を相手にする病院。動物はちょっと無理、かな」

至極もっともな意見だった。
どう考えても、この場で猫の治療は不可能だろう。
朋子が人の姿であれば、話は別なのだが。
だがしかし、今の朋子に人になれという言葉は、届きはしない。

がくりとうなだれるあかりは、佳林に向き直り次の案を伝えなければならない。
猶予たる時間は、ないのだから。
が、しかし。

499 :Z.矢島舞美 :2015/07/28(火) 06:02
「…本当ならね?」
「え?ゆか?」
「タイミングが良かったよ。なんとかなるかもしれない。ちょっとこっち来て?」

どういうことなのか、と尋ねるよりも前に、由加は二人を連れて歩き出す。
いや、小走りに駆け出す。
それほどまでに、朋子の容体は危険なのだ。

「ゆかっ」
「しーっ。ここ病院だよ?静かにね」
「けどっ」

食い下がるあかりに、しょうがないなぁとひとつ笑った由加は、あのね、と切りだす。
歩みは止めない。スタッフルームに続く関係者通路を横切り、その奥まで駆け出して。

「今ね、私の大学の先輩だった人が来てるの」
「その人がなんなん?」
「その人は、獣医さんなの。だから診てもらえるんじゃないかなって」
「獣医っ! りんかっ!なんとかなるかも」

ぱっと目を輝かせるあかりに、佳林は状況が読めない中でも頷く。
なんとかなる、とは朋子が助かるのかもしれないという意味が込められているのだけは
理解できたから。

500 :Z.矢島舞美 :2015/07/28(火) 06:02
「だけどね、あーりー? あなたも」
「え?」
「病院に動物を…ましてや、傷を負った子を連れてくるのは厳禁。二度とだめだよ?」
「ごめん…」

あかりの姿に、佳林もぺこりと頭を下げる。
そしてふっと、心の中だけで納得した。
動物でだめならば、今度は人の姿の朋子を連れてこよう、と。

どうにも佳林の考えには、あかりとの時間が長かったせいか、ズレた意識が
組みこまれつつあるようだった。

501 :エシクスト :2015/07/28(火) 06:03
本日、ここまで。

>>494 名無飼育さん
ありがとうございます。
更新遅延しております、申し訳ないです。
502 :Z.矢島舞美 :2015/11/27(金) 05:34
獣の匂いがする。
それが、建物に足を踏み入れた佳林の感想だった。
動物ではない、獣のの、と。
しかし今は、と腕の中で小さく身じろぐ朋子の命が最優先だった。

由加が、あかりと佳林を導いたある一室にいたのは、長身の一人の女性だった。
フォーマルなスーツを身に纏い、長い髪は後ろで一つに束ね、見るからに清楚感
溢れる女性。
細身ながらも、しっかりした骨格は女性の柔らかさより、アスリートのような形を
生地の上からも連想させるようで、小柄の佳林はその女性へと歩み寄ることに、
ほんの僅かな躊躇いが浮かんだ。
けれど、あかりの信頼する由加が紹介した人間だ。
今は、それにすがるしか方法はない。

503 :Z.矢島舞美 :2015/11/27(金) 05:34
由加は手短に女性を紹介した。
彼女は、矢島舞美。
獣医として努めて、まだ日は浅いが、腕は確かであると。
端的ながらも、わかりやすい言葉で告げたのは時を争うからなのだろう。
その事に、佳林は感謝しつつ、そっと腕の中の朋子を彼女の前に差し出した。

言葉もなく、ただ、朋子を差し出しただけの佳林に、女性、舞美は何も言わずに
朋子に視線を落とすと、常時持ち歩いているのかゴム手袋を素早く身に付けた。
それから、そっと朋子の傷口に触れていく。
意識さえ落としているのか、朋子は触れられようが傷口を深く探られようが、
動きもしない。それどころか呼吸も荒く、佳林の不安は募っていくばかりであった。

504 :Z.矢島舞美 :2015/11/27(金) 05:35
「ひどいね、どうしたのこの子」詳しく告げるのは後回しだと判断した舞美は
状況確認だけに努めて佳林とあかりへ言葉を投げる。だがしかし、説明を、という
のは佳林には酷な話で、気づいたあかりが結論だけを急ぐように割り込んだ。

「助かりますか?」苦笑したのは由加だ。その様子から、いつもあかりの唐突さに
振り回されているのだろうと推測できるほどに。けれど、舞美は率直だった。

「んー、正直難しい。でも、やるだけやってみようか」できないと公言はしない。
けれど、大丈夫と安直な請け合いもしない。そして、手は尽くすと約束する。
その簡明直截な性格が、舞美が信頼を得て獣医として成功しているといっても
過言ではなかった。事実、舞美の所には早朝・深夜問わず患者が訪れるのだから。

そうして、4人は、舞美の開く病院へと飛び込んだ。
受付にいた女性が何事かと顔を上げたか、舞美を確かめて慣れたように部屋の
準備を始めた所を見る限り、こうした場は少なくないのだろうと佳林は頷く。
信じる、という言葉の意味を佳林はまだ理解できていない。
けれど、この時確かに、佳林は舞美を信じて、朋子を信じた。
それに気づくのは長くあとの話である。
505 :エシクスト :2015/11/27(金) 05:36
本日、ここまで。
少しずつですが、進ませて頂きたいかと。
失礼します。
506 :Z.矢島舞美 :2016/01/23(土) 09:52
時間を要すれば要するほど不安は募る。
それが不安というものなのだと理解できずとも、胸の奥に黒く煙のようにたちこめるものが
冷静さを欠くものなのだと佳林が感じるほどには、落ち着きを取り戻していた。

ただ、それでもずっと自分の背を撫でてくれているあかりの存在が大きいのだが。
そのあかりの背もまた、由加の手によって撫でられている。
人間というものは、身体の一部分に触れることを許した人間が側にいることで安心を得る、
何度かその姿を確かめていたが、自身にそれが巡って初めて気づくのは不思議なものだと
佳林は目を伏せた。

手術中を知らせる赤いランプは、頭上で煌々と存在を主張している。
まるで、朋子の血液のようだと思ってしまう。
もし、審判である自分達が『死ぬ』という事象に巻き込まれたらどうなるのか?
どうなるのか…? 思いめぐらせる佳林は、一瞬にして身が竦んだ。

507 :Z.矢島舞美 :2016/01/23(土) 09:52
『死ぬ』というものが、こんなにも身近にあるものだと知らなかったからだ。
それがまさか、自分の半身ともいえる朋子に降りかかるなどと毛頭考えも及ばなかった。
自分とは違う、『在った』ものが失くなる。消える。その衝撃に胸が抉られるようだった。

人間は脆い。
心も身体も。
そんなことはわかっていた。
わかっていたがしかし…朋子にはそれは当てはまらないと勝手に決めつけていた。
人間ではないから、と。
そう、人間ではない。
元・人間だったから、と。

けれど今その考えが覆されそうになっている。
自然治癒さえ追いつかない、花音から負った傷。
人間でないものからの傷だから、治らない?
だったらこのまま?

508 :Z.矢島舞美 :2016/01/23(土) 09:53
一体自分はどうしてしまったのだろう、と頭の奥が熱くなり混乱を招いてくる。
じんわり広がった黒いシミのようなものが、佳林の理解不能な思考を嗤うがごとく
どんどん迷路へといざなっている。
どうして自分が朋子と共にいることになったのかと疑問を持ってしまうほどに。

「…っ、矢島さん」

その思考を断ち切ったのは、赤の消灯と扉の向こうから出てきた舞美の姿だった。
由加が、すっと前に出て促すように首を傾ける。
続く、佳林とあかりは舞美の言葉を聞き逃さないようと寄り添う。

それぞれの表情を見てとった舞美は、安易な笑顔はふりまかない。
不安を払拭できるだけの結果が、そこに含まれないとわかっていたから。
事実、一瞬佳林の視界に見えた部屋の中にいた朋子は、ぴくりとも動いていなかった。
509 :Z.矢島舞美 :2016/01/23(土) 09:53
「どうですか?」
「んー」

由加の言葉は抽象的だ。
それはあかりと佳林、2人を思っての事なのだと舞美にも理解は出来た。
だからこそ、言葉は慎重かつ…的確なものでなければならない。
獣医として。

「傷が深くて、抑えるには抑えたけど、あとは…あの子次第だね」
「とも、次第…?」
「ともって言うの?あの子」

こくりと頷いた佳林は、虚ろな眼差しでただただ舞美を見つめる。
そこに含まれる感情があるとすれば…その濁った瞳と同じく…『虚無』だろう。
絶望でもなく、悲哀でもない、虚無。
それを埋める者が…朋子なのだと、気づくに容易い。
舞美も、その一人だ。

510 :Z.矢島舞美 :2016/01/23(土) 09:54
「そっか。うん、そうだね、とも次第だね。生きたいって頑張ってくれれば大丈夫かな」

生きたい。
その意志が朋子にあるのかどうか。
もとより、命という概念のない立場にいるのだから、生きたいという言い方は、まったく
当てはまらないのだが、それでも佳林の胸に深く響いた言葉だった。
いままで共にいて、朋子の感情を汲むことは度々あった。
あったはずなのに、根底にあるものを佳林は理解さえしようとしていなかったのだ。
もし、この場で自身を捨てても良いと、朋子が思っていたなら?
同体である佳林の存在は…。

「ありがとうございます」
「ううん、今日はここに泊めて24時間様子を見るからね」

何も言えず中空に視線を落とす佳林を見てとって、由加がそっとあかりとともに
背を撫でた。ここまでだよ、と告げるように。
実際、ここからは由加たちがどれだけしようと朋子次第なのだ。
それをわかっているから、あかりも口を挟めず…ただ佳林の腰を引き寄せるだけだった。

生と死、その審判を下す者が狭間をさ迷うとは…と、きっと朋子なら笑ったろう。
その表情を懐かしく思うほどに、佳林は心の行き場をなくしてしまっていた。
511 :エシクスト :2016/01/23(土) 09:54
今回更新はここまでです。
512 :名無飼育さん :2018/07/08(日) 16:28
続きが楽しみです。

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