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Only you ― その笑顔のために【最終章】

1 :雪月花 :2011/12/24(土) 23:16
こんにちは、雪月花と申します。

亀井さん、田中さんが主軸の『Only you―その笑顔のために』のつづきになります。
前スレはこちらです
ttp://m-seek.net/test/read.cgi/water/1315098208/

本スレは急に最終章の途中から始まっていますので興味のある方は前スレからお読み下さい。
無駄に長いうえに駄文ですが、お付き合いいただけたら幸いです。
2 :Only you :2011/12/24(土) 23:21
ふたりの泊まることになったホテルは駅から徒歩15分ほどの場所にある小さなビジネスホテルだった。
素泊まりでダブルベッド、温泉に入りたいという絵里の願いを叶えることはできなかったが、こんな祝日に観光地で宿泊できることにふたりは感謝した。
夕食を済ませたふたりはホテルへチェックインし、交互にシャワーを浴びた。

彼女の浴衣姿を見るのは、いつだったか、さゆみの予約したビジネスホテルに宿泊したとき以来だ。
女性は、和服を着るとその可愛さが倍増すると言うが、あれは事実らしいとれいなはその身をもって自覚した。
絵里の浴衣姿はよく似合う。ビジネスホテルにあるような浴衣でもそうなのだから、普通の赤やオレンジ、紺色の浴衣はもっと似合うのだろうなとれいなは思った。
来年の夏は、地元の小さな花火大会にでも良いから参加したいなとぼんやり考えた。
来年……いや、来る、絶対にその日は来ると、急に弱気になりそうな自分を奮い立たせてれいなは言った。

「次はもっと良い旅館に泊まるっちゃん」

れいなは絵里の浴衣姿に見とれながらも、そう話を振った。

「れーなオススメの宿?」
「ちょっと奮発して素敵な旅館に泊まるっちゃん。夕食も超豪華にして。海鮮盛り合わせとか」

髪を乾かし終えた絵里は、ベッドに座るれいなの横に座り、「楽しみにしてるね」と微笑んだ。
3 :Only you :2011/12/24(土) 23:21
だが、それきり、会話が途切れてしまった。
急に、なにを言えば良いのか、分からなくなってしまった。
なにを言っても、どう足掻いても、絶望的な結末しか見えなくて、れいなは迷う。
迷うな、止まるな、進め、走れ。いつだって、いつだってれなはそうしてきたじゃないかと思うのに、此処まで来て、れいなは初めて足踏みした。
確かに甘い空気が流れているにもかかわらず、れいなの心は暗かった。

絵里はボンヤリと窓の外を見ていたが、なにかを思い立ったように立ち上がり、部屋のドアの方へと歩いた。

「絵里…?」
「…ちょっと、出てくるね」

れいなが迷ってなにかを言う前に、絵里は廊下へと歩いて行った。
ちょっと出るって、何処に?
こんな夜中に?
こんなに雪が降って寒いのに?
4 :Only you :2011/12/24(土) 23:22
「いやいやいや!」

れいなは思考を戻して慌てて絵里と自分のコート、そしてマフラーとホテルの鍵を掴み、廊下へと出た。
鍵をかけて足早に絵里の背中を追うと、絵里はエレベーターを待っていた。
れいなはそんな絵里の横に並び、そっと肩にコートをかけてやった。絵里は「ありがとう」と言うとマフラーも受け取り、そのままエレベーターに乗り込む。

「雪、見たいの…」

フロントへとエレベーターが降りていく中、絵里はそっと呟いた。
れいなも自分のコートに腕を通しながら絵里を見つめるが、その言葉の真意が掴めなかった。
絵里は曖昧に笑うと、フロントを無視して外へと歩いて行く。れいなはフロントに「ちょっと買い物」と伝えると、支配人は軽く頭を下げ「行ってらっしゃいませ」と呟いた。
5 :Only you :2011/12/24(土) 23:22
---

6 :Only you :2011/12/24(土) 23:23
日光の夜はとても寒かった。
コートの下は1枚の浴衣しか着ていないのだから、当然といえば当然かと思いながられいなは真っ暗な夜空を見上げた。
先ほどよりも強くなった雪が絵里とれいなの上に舞い落ちる。

そういえば、最初に絵里とキスを交わしたあの日も、こんな風に雪が降っていたなとれいなは思い出した。

絵里をちらりと見ると、彼女もまた呆然と、街を白く染める雪をただ見つめていた。

ああ、いま、彼女はなにを想っているのだろう。
7 :Only you :2011/12/24(土) 23:23
雪は不思議だ。
音もなく静かに降り積もり、街の色も空気も変えてしまうのに、手の平の温もりに触れてしまえば、一瞬にして溶けてしまう。
ほんの一瞬の生命を散らすその切なさが、人の心を捉えて離さないのかもしれない。

雪を黙って見つめる絵里は、単純に美しいのだけれど、怖かった。
白い天使として地上に舞い降りてきて、街を美しく染めるのだけれど、地面に落ちれば一瞬で消えてしまうその雪の生命が、瞬間、絵里と重なった。
そんなことはない。絶対にそんなことはないとれいなは言い聞かせるように頭を振る。違う、絵里はそんな儚い存在なんかじゃない!
8 :Only you :2011/12/24(土) 23:24
「絵里もさ、消えちゃうのかな…」

絵里の声が闇夜に響いた。白の吐息とともに空気を震わせた音は、れいなの心を射抜く。

「この雪みたいに、あっさりとさ」

れいなはそこで、唐突に理解した。

ああ、不安なのは絵里も一緒やっちゃん。
そんなの分かってはいたことだけど、直接聞くのが怖かったんだ。
絵里の未来。これからの未知なる道。進む先に見える暗闇は出口までも覆い隠すから、不安で怖くてしょうがない。
心臓に抱えた時限爆弾。いつ破裂するかも分からないそいつがあるから、絵里は生きていくことを怖がってしまったんだ。

だけど、だけどね絵里―――

れいなは横に並んだ絵里の左手をぎゅっと握りしめる。外気にさらされて冷たく悴んでいたけれど、確かな温もりがそこにある。
9 :Only you :2011/12/24(土) 23:24
「雪はさ、確かに落ちて消えるもんっちゃん」

言葉を選ぼうとか、なにか伝えようとか、そういう想いはなかった。ただれいなは、此処にある気持ちを素直に口にした。口下手やけん、どうか、どうか聞いて。

「でも、そんな寒い冬を越えて、温かい風が吹いて春が来るっちゃん」

れいなは知っている。
雪が舞い降りて溶けて、その冬の厳しい寒さを知らないと、春は来ないことを。消えそうになりながらも、小さい蕾は確かに存在していることを。

「春にピンク色の桜が咲き誇って、風に乗って舞い落ちて、そして夏の太陽が輝くっちゃん」

れいなは知っている。
“春の雪”とも呼ばれる桜はその瞬間に輝き、生命を散らしたあと、それを受けて夏の太陽は天井に居座って高く輝くことを。

「そしてギラギラしとぉ太陽を、秋の風が涼しくしていくやん」

れいなは知っている。
夏のあの暑さを忘れさせるような秋風は、人をもの哀しくさせ、それと同時にどうしようもなく優しくさせることを。

「風とともに紅葉が落ちて、また空からは冷たくて綺麗な雪が舞い降りるっちゃん」

れいなは知っている。
赤や黄色く色づいた葉が風に舞い、柔らかい夜は徐々に寒さを増し、雪白の月と星が夜空に輝き、再び雪が世界を覆うことを。
10 :Only you :2011/12/24(土) 23:25
「全部全部、消えるんやなくて、次の季節に逢うための約束っちゃん。そうやって、季節は巡っていくと」

れいなは知っている。
それは変わることのない世界の法則であることを。
ひとつの季節も時間もとどまることはなく、ゆっくりと巡っていく。絶えずそうして世界は巡り、色を変えながら時間は過ぎ去っていく。
瞬間を切り取ることはできても、時間は止まることなく前へと進む。まるい地球はずっと回り続ける。
それがたったひとつの、世界の法則。

小難しいことは言わんよ絵里。
ただ季節は巡るってだけやけん。
だから、だからさ、絵里―――
11 :Only you :2011/12/24(土) 23:25
「消えるとか、消えるとか言わんで……」

お願い、お願いやけん、信じて。
あなたは此処で消えたりなんかしない。
あなたはきっとずっと生きられる。
これから先、なにが起きてもふたりで一緒に生きていけるのだと。
どうか、どうか、信じて―――。

「愛しとぉよ、絵里。ずっと、ずっと愛しとぉ……」

れいなは絵里を正面から抱きしめた。
雪にまみれて冷たくなった体は、一瞬にして温もりに包まれる。
12 :Only you :2011/12/24(土) 23:26
「っ…れーなぁ……れーなぁっ!」

真っ直ぐなんだ、どこまでも。
れいなは迷っても立ち止まっても、ときに挫けてその膝を折ったとしても、必ず立ち上がってまた歩き出す。
自分が強くない子どもだとれいなは知っている。その子どもであるが故の無茶苦茶な自由さも、思い通りにならない不自由さも知っている。
しかし、だからこそ、此処に在る単純な絵里への想いだけを貫こうとしている。
いつだって、いつだってれいなはそうだ。
世界でただひとりの絵里のために、心から想う絵里のその笑顔のために、れいなは走ってくれる。

「絵里……絵里…絵里っ!」

ただ、ただれいなは絵里に生きていてほしかった。
手術成功の確率が40%だとしても、手術をしない場合の生存平均年齢が19才だろうとしても。どんな形でも良い、ただ生きてほしかった。
次の季節も、その次の季節も、またその次も。来年も再来年もその次の年も、ずっとずっとずっと。
春に咲く見事な桜も、夏に輝く暑い太陽も、秋に吹き抜ける優しい風も、冬に輝く雪白の月も、
あの空の色を、あの風の声を、あの鳥の囀りを、あの光の屈折を、
ずっとずっと、あなたとふたりで見て、聞いて、感じていたいから―――。


小さなふたりのささやかな願いは、白い吐息とともに空気に溶けて、消えていった。
13 :Only you :2011/12/24(土) 23:26
---

14 :Only you :2011/12/24(土) 23:27
絵里とれいなは手を繋いだまま、部屋へと戻った。
暖房の利いた部屋は一瞬でふたりを暖め、コートをあっさりと脱がせてしまう。

「れーな…」
「うん?」

コートとマフラーをハンガーにかけ、振り返ったその瞬間、れいなは絵里に右腕を引っ張られ、そのままベッドへとダイブした。ボフっという音とともにベッドが軋む。
れいなが驚いているのも束の間、絵里は両手で頬を包み込んでキスをした。合わせるだけのキスはあっさりと深くなり、ふたりはどちらからともなく舌を絡めて相手を求めた。

「ふっ…んっ…」
「えりっ…絵里ぃ……」
「あっ…れー…なぁ…れーな…」

もう数え切れないほど交わしたキス。なんど口付けを交わしても、あなたにもっと触れたいという欲望はおさまらない。
際限のない欲望を、願いという名前で誤魔化してはいても、結局根底にあるのは、あなたに触れたいという気持ち、ただそれだけだった。
互いの名を呼びあって長いキスが終わると、絵里は照れたような顔をして笑った。
れいなが優しく笑って絵里の髪をそっと撫でると、絵里は一瞬の間を置いて口を開いた。
15 :Only you :2011/12/24(土) 23:28
「手術、受けるよ」

その言葉にれいなは目を見開く。
絵里は真っ直ぐにれいなを見つめ返す。その瞳は、何処までも真っ直ぐで、何処までも強い。大きな瞳はもう、揺れていない。

「ずっと、怖かったの。手術中に目が覚めなくて、死んじゃうことが怖いんじゃなくて…」

絵里はれいなに両腕を伸ばし、れいなの顔を引き寄せて囁いた。

「れーなに逢えなくなることが怖かったの」
「絵里……」
「れーなに触れられなくて、キスできなくなるのが怖かったの」
16 :Only you :2011/12/24(土) 23:28
此処にある確かな温もり。
何物にも代えることが出来ない優しさに、もう逢えなくなってしまうことが怖かった。
このシアワセを手放してしまうことが、不安でしょうがなかった。

「だけど、やっぱりこれからもれーなと生きていきたいの。一緒に笑って、いろんな世界見て、一緒に走ったり、サッカーもしてみたいの」

それは、あの日、空港でワタナベに叫んだ言葉だった。
れいなという人に逢えた奇蹟。好きな人とともに未来を歩んでいきたいという決意。そのために絵里は、未知なる路へ足を踏み出そうとしていた。

「晴れた日には手を繋いで。雨の日には傘をさして。こんな雪の日でも、ずっとれーなと歩きたいの」

絵里は真っ直ぐにれいなを見つめて伝える。
それは最後にして最大の決意。此処へ辿り着くまでにどれだけ遠回りしてきたのだろう。
だけど、絵里は揺るがない気持ちを抱いた。
いつでも真っ直ぐに愛をくれるあなたに、真っ直ぐな想いで応えたかった。

「絵里…」

れいなが不安そうな瞳で絵里を見つめる。生きてほしいという願いは同じだから、れいなは迷う。
だが、絵里はそんなれいなの声を聞いたのか、想いを掬うように軽くキスをして、言葉を紡いだ。
17 :Only you :2011/12/24(土) 23:29
「れーなが絵里に教えてくれたんだよ?」
「え?」
「なにも知らなかった絵里に、れーなは教えてくれたの」

れいなは絵里に教えてくれた。
生きる喜びを、前に進む勇気を、立ち止まらない強さを―――

れいなは絵里に教えてくれた。
朝の光の眩しさも、透き通る風の心地良さも、天に広がる空の青さも、人の心の優しさも、流す涙の痛みも、零れる笑顔の美しさも、この胸を焦がすような恋も。

れいなは絵里に教えてくれた。
交わすキスの切なさも、触れられる愛しさも、確かに此処に存在する、あなたへのどうしようもないほどの想いを。
同性とか異性とか、そんなものを簡単に飛び超えてしまうほどの気持ちを。
それが、愛だってことも。

全部、全部、絵里が知らなかったことを、見ようとしなかったことを、本当に大切なことはなにかを教えてくれた。

だから絵里は迷わない。
またあなたに逢うために、絵里はいま、怖がりながらも歩き出すから。
18 :Only you :2011/12/24(土) 23:29
「絵里、こう見えて嫉妬深いし、我儘だから、手術成功しちゃったられーなのこと振り回しちゃって大変かもだけどね」

れーな。いま、ようやく気づいたよ。

私、こんなにれーなが好きだったの。
れーなに逢うまで、「常識」とか「当然」とか、そういった世間の考えに凝り固まっていたのに、いつの間にか、ただ単純に想いを貫こうとして一歩、踏み出したの。
こんなに人を好きになるなんて思ってもみなかったの。

ねえ、れーな。れーなのおかげだよ。
れーなを好きになって、れーなのことを想って、れーなの温もりを感じることがこんなにもシアワセなことだって、絵里、知らなかったから。
19 :Only you :2011/12/24(土) 23:30
そうして絵里は「うへへ」とだらしなく笑った。
その笑顔が、あまりにも美しくて、だけど切なくて、胸がぎゅうと締め付けられたれいなはなにも言えなくなり、思わず口付けた。
触れるだけのキスは甘く、それなのに何処か、しょっぱかった。

こんなにも真っ直ぐに愛してくれている。その気持ちが痛いほどに伝わる。
生きたいという願いが、ただ隣で笑っていたいという想いが、れいなと絵里をふわりと優しく包み込む。

「…れなの人生も、れなの持ってるもんも、全部、全部、なんもかんも絵里にやる」

れいなはそう言うと、絵里を強く強く抱きしめた。
もう二度と、離さないように、たったひとつの隙間も埋めるように抱きしめる。

「絵里が此処に居てくれるっちゃったら、なんもいらん。だから、だから…」

体も声も、涙で震えてしまっていたけれども、れいなは必死に言葉を紡いだ。

「れなと一緒に生きてほしいと、絵里―――」

涙で滲んだその声はとても小さくて、だけどとても強いもので、絵里は真っ直ぐに受け止めて「うん」と答えた。
絵里のその答えもまた、涙で滲んでいた。

成功の確率とか、生存平均年齢とかどうでも良い。
此処に在る願いを、どうか掬い取ってほしかった。
傲慢な願いか、身勝手な欲望かと言われても構わない。好きな人の人生を祈ることが罪だというのならば、甘んじて罰を受けよう。それだけの覚悟はある。
だから、どうか、どうか彼女を助けて下さい。
れいなは絵里の生きている温もりを確かめるように、彼女を強く抱きしめた。
20 :Only you :2011/12/24(土) 23:30
---

21 :Only you :2011/12/24(土) 23:31
「れーなぁ…」

電気を消し、絵里を抱きしめながら眠るれいなの耳に、絵里の甘い声が入って来た。れいなはもぞもぞと動く絵里を見つめた。

「……引かないでね?」

絵里が弱々しくそう囁くので、れいなは抱きしめた腕の力を弱め、できるだけ優しく「うん?」と返した。

「もし、絵里の手術成功したらさ」
「うん」
「……絵里と、絵里と…えっち、して……くれる?」

最後の方はもう、聞こえるか聞こえないかくらいの声量だった。
絵里の発したその言葉に、れいなは目を丸くして絵里を見つめた。絵里は自分で言って相当恥ずかしいのか、顔を真っ赤に染めて暴れ始めた。

中学生のとき、体育倉庫で襲われかけた絵里が、自らそんなことを言うなんて思ってもみなかった。
それだけ絵里が、れいなを好きでいてくれているということがその言葉から伝わった。
苦しみと痛みの過去を乗り越えてれいなと前に進もうとしているのだというなら、れいなはそれに応えたくなった。
だけど絵里に言われた言葉を噛み砕いたらどう考えたってれいなも恥ずかしい。絵里の姿は愛しいのだけれど、赤面するのをおさえることはできない。

いつだったか、彼女の病室で見た上半身を思い出した。
余計なぜい肉などひとつもついてない真っ白な肌は何処までも綺麗だった。彼女のすべてを明らかにしたいと、唐突に思った。
いやいや、そんなことヘタレな自分にできるわけないと思いながらも、照れ隠しのようにれいなは「ニシシ」と笑った。
22 :Only you :2011/12/24(土) 23:31
「なんならいますぐでも良いっちゃよ?」
「っ…ばかぁ……」

耳元に近づいてれいながそう囁くと、絵里は肩を荒々しく叩いた。
おいおい全然容赦ないんだなとれいなは苦笑しながら、絵里の叩く右腕をつかみ、軽くキスをした。

「手術成功したらするっちゃん」
「……ほんと?」
「ほんと」

そうしてれいなは再びその耳元で「だけん覚悟しちょって」と呟くと、絵里は顔を真っ赤にしながらも、「うへへぇ」と笑った。
もう、ふたりに涙は流れていない。
23 :Only you :2011/12/24(土) 23:32
「れーなぁ…」
「んー?」
「うへへぇ、呼んだだけぇ」

む。なんだその小学生みたいな遊びと思いながらも、れいなは怒ることなく、優しく微笑んで絵里の頭を撫でる。さらさらした絵里の髪からは良い香りがした。

「絵里ぃー」
「うん?」
「呼んだだけっちゃん」
「知ってるぅ」

む。なんだそのリアクションはと思いながらも、れいなはいつものように「ニシシ」と笑う。その笑顔がどうにも愛しくて、絵里も目を細めて笑い、れいなの頬に手を伸ばす。
すべすべで透明感のあるれいなの肌が羨ましくて、絵里はちょんちょんと人差し指で頬を触る。

「なんよぉ」
「んー、なんもぉー」

そうして絵里はクスッと笑い、れいなの首に腕を回しぎゅうと抱きしめた。なんど抱きしめても、なんどキスしても、この胸の高鳴りは消えない。
ああ、絵里、恋してるんだなって感じるよ、れーな。
24 :Only you :2011/12/24(土) 23:32
「れーなぁ」
「んー?」
「好きだよぉ…」

なんの衒いもなく真っ直ぐに出てきた言葉に、れいなはドキッとするが、それでも真っ直ぐに返した。

「れなも、絵里ンこと好いとぉよ」
「うん、絵里も好きぃ」
「ニシシ。れなも好きっちゃん」

照れとか、恥じらいとか、そういうものは一切なかった。
いま、この瞬間にあなたが好きだと伝えることがすべてだと思った。
たった二文字の想いを伝えるために、なんども遠回りをしたけれども、いま、いまこの瞬間、伝えよう。


私は、あなたが、大好きです―――


外の雪は静かに降り続けたが、朝になるまでにはすっかりやんでいた。
朝陽に照らされて雪はキラキラと光った。
それはまるで、ふたりの決意を見守るかのように、何処までも真っ白く輝いた。
25 :Only you :2011/12/24(土) 23:34

26 :Only you :2011/12/24(土) 23:34

27 :雪月花 :2011/12/24(土) 23:36
此処までになります
最終話が近いのでネタバレ防止含めてちょっとだけ隠しました

あと更新も数える程度ですがどうぞ最後までお付き合い下さい。
28 :名無飼育さん :2011/12/25(日) 18:11
あぁ〜結局読みながら泣いてしまいました。T.T
絶対大丈夫、大丈夫だよって信じて
絵里の手術が成功すて二人がもっとシアワセになれるように願います。
そして作者様!エリクリスマス!
29 :名無飼育さん :2011/12/25(日) 21:28
切なく、辛い、胸が痛む状況でありながら、
一方で心が暖まる甘い話にもなっていて、
本当に作者様天才だなって思います!!

れーなの登場シーンがカッコよすぎ!
最後の絵里が可愛すぎo(≧▽≦)o

この話が終わってしまうのは、本当に淋しいですが、
はやく平凡な幸せが2人に訪れますように。
30 :雪月花 :2011/12/26(月) 23:12
年末はホントに忙しいです、雪月花です。
帰省前の最後の更新になりますので、次は年明けです。


>>28 名無飼育さんサマ

いつもコメントありがとうございます!
はわわ、泣いていただいてありがとうございます つД`)・゚・。・゚゚・*:.。
願いも想いも、みんな一緒ですね。ふたりがどうなるか、最後まで見守り下さい。


>>29 名無飼育さんサマ

天才という言葉は勿体なさすぎます…恐縮です、ありがとうございます。
このふたりは作者補正がかかっていますので、ひたすらカッコ良くて可愛いですw
最後まで温かく見守っていて下さい。コメントありがとうございました!


今回の更新は最終話になります。
ふたりの歩んだ軌跡を見守っていて下さい。
31 :Only you :2011/12/26(月) 23:13
12月29日は朝から天に黒い雲が居座り、いまにも泣き出しそうな天候だった。絵里はぼんやりと窓の外を見つめながら、降らないと良いなあと思った。

「亀井さん、そろそろ行きましょうか」

病室に入って来た看護師の言葉に絵里はドキッとしながらも、「はい」と返した。
すぐ傍にいた絵里の両親も心配そうに絵里を見つめるが、絵里は気丈に「だいじょうぶ」と呟いた。
絵里は、看護師たちの持ってきたキャスター付きのベッドに乗せられ、ゆっくりと手術室へと向かった。

「絵里っ…」
「さゆ…」

病室の外には、さゆみや里沙、そして愛が心配そうな顔をして見つめていた。
看護師たちは一礼した後、ゆっくりと絵里を運んでいく。その横に3人は付き添って歩く。

「カメ、絶対だいじょうぶだから、がんばって!」
「うへへぇー、絵里がんばるっ」
「うん。さゆみも信じてる」
「あーしら待ってるからな」

それぞれ励ましの言葉をかけると、手術室に入る直前に「これ以上は…」と看護師に言われ、3人と両親は足を止めた。
最後になにか言葉をかけるべきか悩んでいると、荒々しい音が聞こえてきて思わず振り返った。
32 :Only you :2011/12/26(月) 23:13
「絵里っ!」

そこには、いままさに部活を終えて急行したばかりのれいなが立っていた。
空港に現れたあの日と同じように、息を切らした青いユニフォーム姿のれいなを見て、相変わらず、ヒーローは遅れてくるものだなとさゆみが苦笑していると、彼女は叫んだ。

「れな、れな待っとーけんな!」

手術室の扉が閉められる直前のその言葉は、確かに絵里に届いていたのか、絵里は小さく左腕を上げた。
その指には、れいながあの日にあげたシルバーの指輪が光っていた。

「うん、待っとーとぉ」

絵里の小さくも強い言葉が響いたあと、手術室の扉は閉められた。
ああ、微妙に間違っちょっちゃよ、その博多弁とれいなは一瞬だけ苦笑し、赤く染まった手術中のランプを見つめた。
33 :Only you :2011/12/26(月) 23:14
「緊張、してますか?」

手術台に寝かされた絵里は、ワタナベとT大のアサノに優しく声をかけられた。

「大丈夫ですよ。絶対に」
「…はい」

絵里が精一杯の笑顔を見せると、ゆっくりと麻酔がかかっていき、絵里は瞼を閉じた。
その瞼の裏には、確かにれいなのあの笑顔が浮かんでいた。
34 :Only you :2011/12/26(月) 23:15

ねえ、れーな。

絵里はシアワセだったよ。
れーなに逢ってから、楽しいことばっかりだったから。

絵里はれーなに、何もしてあげられなかったのに、

れーなは絵里に、たくさんのシアワセをくれたね。


れーなはいっつも、絵里の為に走ってくれたね。

れーながボールを追いかける姿、すっごく好きだったよ。



ねえ、れーな。

目が覚めたら。

もう、覚めないかもしれないけど

もう一度、目が覚めたら


35 :Only you :2011/12/26(月) 23:16

12月29日16時33分――― 絵里の手術が、いままさに始まった。


36 :Only you :2011/12/26(月) 23:16
---

37 :Only you :2011/12/26(月) 23:16
「れーな、29日は部活ちゃんと出てね?」

日光から東京へ帰る電車の中、絵里はふとれいなにそう伝えた。
そんなことを言われると思っていなかったのか、れいなは狼狽したが、絵里は気にせずに続ける。

「そんな顔しないで。部活終わってからゆっくり来てくれればいいから」
「で、でもっ…」
「最後の大会もあるんだし、今年こそは優勝して欲しいの。だから、ね?」

れいながなにか言いかけたとき、絵里はその唇を人差し指でそっと塞ぐ。
真っ直ぐな彼女の微笑みに、れいなはなにも言えなくなった。

「そんな寂しそうな顔しないで」

分かっている。自分が此処でこんな顔をすることは、絵里を不安にさせるだけだということが。
なんとか頷いて笑おうとするのだが、どうしても笑うことができなかった。
絵里はれいなの心の声に気づいたのか、ぎゅっと握りしめられている手に、そっと自分の手を重ねた。

「絶対、またお早うって言って。絵里を起こしてね、れーな」

そうして微笑む絵里も、少しだけ瞳に涙が滲んでいた。
ああ、彼女はやっぱり強い。こういうところは、れいなよりもひとつ年上の女の子なんだと実感した。
38 :Only you :2011/12/26(月) 23:17
れいなは強く頷くと、カバンの中から小さな箱を取り出した。
絵里がきょとんとしているのも気にせずに、れいなはその赤い箱を絵里に向ける。

「1日遅れやけん、絵里の、18歳の誕生日に…」

れいなはそっと箱を開けた。
そこには、小さく銀色に輝く指輪がひとつあった。

「誕生日、おめでとう…」

絵里はれいなの言葉に目を見開いたが、直後に細めて嬉しそうに笑った。
れいなは微笑んだ絵里を認めたあと、指輪をそっと、彼女の左手の人差し指に嵌めた。

「薬指には、将来嵌めてやるけん、いまはこれだけな」

れいなが照れながらもそう伝えると、絵里は愛おしそうにその指輪を見つめ、天上にかざした。
全体がシルバーであり、中心に小さな石のついたシンプルなデザイン。そんなに高くもないし、質だって良くはない。
それでも、れいなが絵里のために精一杯の想いを込めてくれたのなら、それ以上のものはなかった。

「ありがとう…れーな…」
「どういたしまして」

そうして微笑む絵里は何処までも綺麗だった。ああ、もう、こんな人の隣いられるなんて、そんなシアワセそうそう落ちてないとれいなは思った。

「なあ、絵里」
「うん?」

だから、何処までも真っ直ぐな言葉を、れいなは渡した。

「生まれてきてくれてありがとう」
39 :Only you :2011/12/26(月) 23:18
その言葉は確かな温もりをもっていて、絵里の心に沁み渡った。
暗くて、寂しくて、なにも楽しくなかったあの日々。れいなに出逢うまで、なんの意味も持っていなかった人生。生まれてこなければとなんども思ったあの日々。
だけどいま、隣に居るれいなのおかげで、絵里の人生は輝き始めた。なんでもない日常の風景が、こんなにもキラキラしているなんて思ってもみなかった。

「れーな…」
「んー?」

だから、何処までも真っ直ぐな言葉を、絵里は返した。

「絵里と出逢ってくれてありがとう」

ずっと陳腐だと思っていた。
あなたに逢うために、なんて、そんなのは幻想で、小説の中の話に過ぎないってずっと思っていた。

でも、いまならハッキリと分かる。
絵里はれいなのために、れいなは絵里のために生まれてきたんだと。
この出逢いは、互いの人生を変えるための、偶然ではなく必然だったのだと。

愛し、愛されるために、此処に居るのだと。
40 :Only you :2011/12/26(月) 23:18
「絵里……」
「れーな……」

愛することは愛されることと同じで、愛されることは愛することと同じだ。
ただそれは、自分の中にある想いを、些細な優しさを、素直な感情を伝えることなんだ。
今日も、明日も、ずっとその先の未来も、あなたが笑っているように願うことが、あなたのシアワセを祈ることが。
この出逢いに感謝することが、あなたの名前を呼ぶことが、あなたをただ信じて生きることが。


人はそれを、“愛”と呼ぶはずだから―――


そしてふたりは笑顔で手を繋いで、藤本総合病院へと向かった。
最後の最後まで、ふたりはその手を離さなかった。
41 :Only you :2011/12/26(月) 23:19
---

42 :Only you :2011/12/26(月) 23:19
19時46分―――
手術開始から3時間以上が経過しているが、大きな動きはなかった。
絵里の両親は黙って椅子に座り、床の一点を見つめていた。母親の方はその両手を合わせ祈っているようにも見えた。
里沙は震えながらも黙って椅子に座り、その肩を愛がそっと抱いていた。さゆみは手術室のランプを見つめ、そっと目を閉じた。
そのとき、廊下をだれかが走ってくる音がし、れいなは思わず立ち上がった。

「亀井さんっ」
「先生…」

その声に両親が立ちあがった。
やって来たのは、朝陽高校の絵里の担任の安倍と元担任のサトウ、そしてOGの美貴であった。
5人はしばらく話したあと、黙って手術中のランプを見つめた。

れいなはふうと息を吐き、椅子に座り直した。

―闘っちょっちゃよな、絵里も…

この扉の向こうで、絵里はたったひとりで闘っている。
絶対に、絶対に逃げてはいけないと、れいなはぎゅっと拳を握り締めた。
43 :Only you :2011/12/26(月) 23:20

なあ、絵里。

絵里はシアワセやったんかなぁ。
れなは絵里を笑顔にできたんかなあ。

絵里に逢ってから楽しいことばっかりやった。

やけんそれは、れなだけやったんかもしれんね。


れなはいっつも、走ってばっかりやったね。

絵里のことを追いかけて、ずーっと走ってばっかり。


だから絵里。

目が覚めたら。

絶対、大丈夫やけん。

もう一度、目が覚めたら


44 :Only you :2011/12/26(月) 23:20
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45 :Only you :2011/12/26(月) 23:21
1時39分―――
手術が始まり、実に9時間が経過していた。
なんどか手術室から看護師が出てきたものの、未だに大きな変化はなく、絵里が出てくることもなかった。
絵里の両親やさゆみたちは、交代で食事を摂ったが、れいなだけはその場から動かず、ただ手術室を睨みつけていた。

「休まないんですか?」

れいなはふと降ってきた声に顔を上げると、そこには絵里の父親が立っていた。
その手にはホットココアが握られており、れいなは素直に「いただきます」と受け取った。

「絵里も、闘ってるんで…」

その言葉に絵里の父親はなんどか頷き、れいなの隣に座った。
プルトップを開け、珈琲を啜ると、父親は「はあ」と深く息を吐いた。
この人もまた、闘っているんだよなと当たり前なことを再認識すると、れいなもホットココアに口をつけた。

「あまり無理はしないでくださいね」
「大丈夫です、れなは」

そう言ったとき、れいなの隣に座って眠っているさゆみの毛布がズレ落ちた。れいなは苦笑しながらも、それを掛け直してやる。
日付はもう12月30日に変わり、手術開始からもうだいぶ時間も経っている。
さゆみをはじめ、里沙と愛、そして美貴も眠りにつき、絵里の母親も疲れた顔で座っている。
安倍とサトウは22時ごろまでいたのだが、年末はなにかと忙しく、どうしても仕事があると、再び学校に戻っていった。
46 :Only you :2011/12/26(月) 23:21
「…少し、良いですか?」

絵里の父親はそう言って立ち上がり、窓の方を指差した。れいなも素直にそれに従う。
そのとき、何処かで雷が鳴った。朝から崩れそうな天気だったが、日を跨いだ直後からとうとう降り始めた。
雪にはなる様子はなく、冷たくて静かな雨がただただ降り続けていた。

「大丈夫ですよ、絵里は」

窓際まで歩くと、父親は唐突に切り出した。

「あの子は強い。いや、強くなったんです。あなたのおかげで」

父親の言葉にれいなは思わず首を振る。

「れなは、なんもしてません…振り回して、迷惑かけて…れなのせいで」

実際、自分が絵里になにをしてやれただろう。
絵里と出逢い、徐々に惹かれていき、付き合うようになって、自分勝手な理由で別れて。
自分の本当の気持ちに気づいて空港で絵里に想いを告げて、また付き合うようになって。
果たして今日の今日まで、自分は絵里になにをしてやれただろう。

「一昨日やって、急に日光に行くなんて…」

ワタナベの言うように、結局は、無理をさせただけなのかもしれない。
体を酷使させて、絵里の生命を削っていただけなのかもしれない。
絵里と一緒にいることで、れいなはいつも笑顔でいられたけど、果たして絵里は、れいなと一緒にいることで、笑顔でいられただろうか?
47 :Only you :2011/12/26(月) 23:21
「あの子はもっと子どもであるべきなんですよ」

れいなの迷った心を見透かしたように、父親はハッキリと言い放った。

「小さい頃から、絵里には制約ばかりさせてきました。
鬼ごっこはダメ。徒競争もダメ。遠足もできればやめてくれ。部活は絶対に禁止。外に遊びに行くにも親の許可が必要でした。あの子は普通の女の子なのに」

窓の外はなにも見えなかった。
それなのに父親は遠くを見つめながらポツリポツリと語る。彼には、いつかの絵里の姿が見えているのかもしれない。

「すべてを諦めてしまったあの子は『大人』でしたが、本来はもっと反抗的な子どもであるべきなんです。逃げたかったら逃げても良いはずなんです」

いつだったか、絵里の家からの帰りの車中で父親に似たようなことを言われたことを思い出す。
それは、絵里を『大人』にしてしまった自分たちへの後悔と、『子ども』に戻してくれたれいなへの感謝の気持ちが入り混じった言葉だった。

「れいなさんが勇気をくれたんですよ。本当の意味で、“生きる”勇気を」

そうして父親はふっと笑った。
その表情は、やっぱり娘の絵里にそっくりだった。
それでも、父親のその拳は握りしめられ震えていたので、れいなは黙って頷きながら窓の外を見つめた。
相変わらず窓を雨が叩く。いつまでも降り続くその様子は、絵里の心そのもののようだった。
48 :Only you :2011/12/26(月) 23:22
3時10分―――
遂に手術開始からもうすぐ12時間を経過しようとしていたが、まだ赤いランプが消えることはなかった。
成功確率が40%以下という時点で難航することは覚悟していたが、此処まで長時間に及ぶとは想像していなかった。
れいなもなんどか、心臓手術に関してインターネットで検索したことがあるので、素人ながらにある程度は理解できている。
あまり時間が長引くことは、決して良いことではない。特に、絵里の心臓は弱っているのだし、長時間になればその体力も危うい。
此処まで来ると、もはや最後は精神力の勝負かもしれない。最後は、絵里の生きたいという想いの強さが成功か失敗かを担っているのかもしれない。

れいなは溜息を吐いて手術室を睨みつける。
既に起きているのは、父親とれいなしかいないが、ふたりとも一言も発しないまま、ただ黙って手術が終わるのを待っていた。
あの赤いランプが消えたとき、絶望じゃなく、必ず希望が見えるはずだと、れいなは信じていた。
49 :Only you :2011/12/26(月) 23:23

れーな。れーなっ。


遠くで絵里の声が聞こえた。
その声は何処かフワフワしていて掴みどころがない感じがした。それもまた、絵里らしいなと思った。


れーなぁ、起きてよぉ。


相変わらず甘くて舌っ足らずな声だと思う。
「れいな」のことを「れーな」なんて発音するのは世界中探したって絵里しかおらんちゃろうな。


絵里を起こすって言ったじゃんかぁ。れーなが寝ちゃって…


そうしてちょっとだけ寂しそうな顔をする絵里。
あれ、れな寝てると?気付かんかったっちゃん。


でも、れーなも眠いんだよね。絵里のために、いっつもがんばってくれてたもんね。うへへぇ、寝顔も可愛いよ


その声は、甘いんだけど、やっぱり寂しそうだった。


おやすみ、れーな。


なあ、おやすみてなんよ、絵里。
待て、待つっちゃ絵里。れな、起こすって約束したっちゃん!絵里、絵里、絵里ぃっ!!
50 :Only you :2011/12/26(月) 23:23
れいなは声にならない声を上げて目を覚ました。
肩で息をし、背中にはイヤな汗がべっとりと張りついていた。

「夢……?」

れいなは思わず時計を見た。

4時38分―――
手術開始から遂に半日が経過していた。いつの間に眠ってしまっていたのだろうとれいなは頭を振った。


―おやすみ、れーな


夢の中で残した絵里の言葉が頭をよぎった。
まさか、まさか、まさか。
最悪の事態ばかりが想定されてうんざりするが、れいなには祈る以外に他なかった。
彼女の笑顔を、あのだらしなくてバカみたいで、だけど世界でいちばんの笑顔を、どうか護って下さいと、信じてもいない神にれいなは祈った。

降り続いていた雨は上がり、暗い空は徐々に紫色を帯びてきていた。
もうすぐ空が赤い色に変わるであろうそのとき、手術中のランプがふっと消えた。
それを認めたれいなと絵里の父親がほぼ同時に立ち上がると、手術室の扉がゆっくりと開く。
手術マスクを外したワタナベやアサノがゆっくりとそこから現れた。背中に一筋の朝の光を受けたその姿は、れいなには、ただただ神々しく見えた。
51 :Only you :2011/12/26(月) 23:24

ねぇ、れーな。

なぁ、絵里。

もう一度、目が覚めたら



―――ふたりで笑って、何処までも走りたい



ささやかな、たったひとつのふたりの想いは、風に運ばれるようにふわりと舞い、朝陽に輝く街へと走っていった。
52 :Only you :2011/12/26(月) 23:24
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53 :Only you :2011/12/26(月) 23:25
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54 :Only you :2011/12/26(月) 23:25
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55 :Only you :2011/12/26(月) 23:26
試合終了のホイッスルが鳴り響くと同時にれいなは天を仰いだ。
OG戦の日は毎年良い天気だなと思いながら、チームメイトとハイタッチを交わしていく。

「先輩たち強すぎですよ…」

青いユニフォームを着た後輩のひとりがそう呟いたので、れいなはその肩を叩いた。

「れなたちやって現役ン頃はそうやったよ。でも、先輩たちに勝たんと優勝はできんよ」

それを聞いて後輩は大袈裟に肩を竦めたが「努力します」と笑った。
すると同じオレンジ色のユニフォームを着た美貴がからかうように話しかけてきた。

「さっすが、全国大会で優勝した先輩は、アドバイスも厳しいねぇー」
「からかわんで下さいよ。あのときは運も良かったんですって」

れいなたちは高校3年生の夏の総体で、見事全国優勝を果たした。
万年、準優勝チームと陰口を叩かれたこともあったが、最後の最後に、れいなは落ち着いてPKを決め、見事に優勝をもぎ取ったのである。
朝陽高校サッカー部としては6年振りの全国制覇に、優勝直後は取材が殺到し、その次の年の入学希望者は僅かながらも増加した。
推薦入試で入学したれいなとしては最後に漸く役目を果たせたなとその肩の荷を下ろした。
ちょっとは強くなれたのかなと、れいなはふうと息を吐いた。
56 :Only you :2011/12/26(月) 23:26
「れいなぁ、エキシビジョンしようぜ!」

そんなとき、オレンジの10番である吉澤ひとみが声を上げたのでれいなは振り返る。
グラウンドには既にボールがセットされており、朝陽高校の絶対的守護神と謳われた紺野あさ美が苦笑しながらキーパーの位置に構えている。
これは勝負しろということなのだろうかと理解すると、客席が再び盛り上がった。
相変わらず、この高校のOG戦はお祭り騒ぎだなとれいなは苦笑しながら、チームメイトに背中を押され、駆け足で向かった。

「れいなって、こんこん相手に1本もシュート決められなかったんだろ?」

挑発するような言い方にれいなはムッとしながらも、事実であるが故になにも言い返すことはしなかった。
そんなれいなの心境を知ってか知らずか、吉澤はニコニコしながらボールをれいなに渡した。

「1本勝負な!」

その声に観客たちはワッと盛り上がった。
相変わらずこの人は観衆を乗せるのがうまいなと思いながら、れいなはボールをセットする。
確かに、全国大会で優勝しながらも、れいなは現役中に、あさ美からゴールを奪うことはできなかった。
最初の推薦入試から、自分がOGとなってこのOG戦に参加する今日の今日まで、悉くシュートを止められてきたのである。
やっぱり、最後くらい勝ちたいとれいなは思い、ふうと息を吐いて天を仰いだ。
57 :Only you :2011/12/26(月) 23:27
目を閉じると、歓声が遠くに聞こえる。
世界には自分とサッカーボールしかないようなそんな錯覚に陥る。

こうやって観客の声援を浴びながらあさ美と対峙するのは何年振りだろう。
最初の推薦入試以来だから…ああ、もう考えるのも億劫っちゃん。

れいなはふと、その推薦入試の日を思い出していた。
確かあの日、彼女はずっと自分のことを屋上から見てくれていたことを思い出し、れいなは屋上を見た。
もう、彼女はそこにはいない。それは当たり前のことなのだけれどそれが無性に哀しかった。

「アホぅ…」

そう呟いて再び目を閉じると、れいなにはハッキリと聞こえた。


―れーなぁっ!


何人もの歓声が飛び交う中、ハッキリと耳に届いていたのだ。
彼女のあの、甘ったるくて舌っ足らずの優しい声が―――

ああ、これはもう重症かもしれないなとふっと笑い、れいなは「っしゃ!」と叫んだ。
それはあの日と全く同じような声であり、いつの間にかあの日にタイムスリップしたかのような錯覚に陥りそうになった。
58 :Only you :2011/12/26(月) 23:27
ホイッスルが鳴ったあと、れいなは軽く助走をつけた。
左脚で踏み込み、右脚インサイドで蹴ったボールは真っ直ぐに飛ぶ。
虚をつかれたあさ美は右膝をぐっと曲げてジャンプした。だが、最後の最後にボールはさらに伸び、精一杯に伸ばした右腕のわずか数センチ上をボールは通過する。
もうそこしかないというような場所にボールは吸い込まれていき、ネットを揺らした。

「っしゃあぁ!」

れいなの雄叫びがグラウンドに響いたあと、観客たちが一気に歓声を上げた。
漸く決められた安堵感と、よく迷わずにあんなど真ん中に蹴り込めたなと自分の度胸を褒めてやりたくなった。
大歓声が巻き起こり、拍手を送る観客たちの中で、れいなはたったひとりの彼女を見つけた。
そう、優しくて可愛くて笑顔が綺麗で、たぶん世界でいちばんの彼女を、れいなは見つけたのだ。

「れーなぁ!」

笑って手を振る絵里に、いつものように「ニシシ」と笑って右腕を突き上げながら歩み寄ると、絵里は嬉しそうに笑ってれいなに飛び込んできた。
まさか抱きつかれると思っていなかったれいなは「うぉ!」と腰を反らす。

「絵里、ちょぉ離れんしゃい!」
「やーだーぁぁ、うへへぇー」
「こ、公共の場やろうが!」

れいなは抱きつかれて嬉しいんだけれども、いかんせん場所が場所であり、恥ずかしかった。
OG戦という、周りはれいなの知り合いばかりのこの状況で抱きつかれるのは…やっぱり耐えがたい。
59 :Only you :2011/12/26(月) 23:28
「こら、カメ!公共の場なんだから離れなさい!」

元生徒会長である里沙が呆れたような声を出して絵里を叱るが、絵里は全く意に介せずにれいなを強く抱きしめる。
ほら見ろ、やっぱりガキさんには怒られたやんとれいなは思うが、そんなこと知ったこっちゃないと言わんばかりに絵里は「うへへぇ、カッコ良かったですよぉ」と笑う。

「まあええやんか、相変わらずのラブラブっぷりで」
「さゆみも藤本さんに抱きつきたいのー」

同じく元生徒会長の愛や、元クラスメートのさゆみがそうやって冷やかしの声を上げていたような気がするが、なんだかれいなにはもうどうでも良くなってきていた。
恥ずかしさとか照れとか、そういった感情は確かに此処にあるんだけれど、なんだかそんなことを飛び越えるくらいの喜びが胸に溢れているのだから。

れいなはそっと、宙ぶらりんになったままの腕を絵里の背中に回し、ぎゅっと抱きしめた。
すると、絵里もそれに気づいたのか、嬉しそうに笑い、れいなの肩に顔を埋めてその感触を確かめていた。
60 :Only you :2011/12/26(月) 23:29

ずっとずっと、この感情はあなただけに向かっていた。


絵里、絵里のためやったら、れなは何処までも走っちゃるけんな。


れーな、れーなはいままで絵里のために走ってくれたけど、これからは絵里も走れるんだよ。


ずっといっしょに走っていこう、これからも。
朝の光を浴びて、綺麗に咲く花を見て、優しい風に吹かれながら、この広い青空の下、未知なる路を、ずっといっしょに歩いていこう。



あなたのその、笑顔のために―――

61 :Only you :2011/12/26(月) 23:30


Only you―その笑顔のために 了


62 :Only you :2011/12/26(月) 23:30
本章構成

Only you―その笑顔のために
>>2-213 第1章
>>219-311 第2章
>>316-553 第3章
>>560-568 田中れいな生誕記念:そんなシアワセ
>>574-782 第4章
>>789-908 第5章
>>860-867 ライサバ1年記念:果てない約束
>>913-982 最終章
>>950-962 亀井絵里生誕記念:思い出とこれからと

Only you―その笑顔のために【最終章】
>>2-61 最終章
63 :Only you :2011/12/26(月) 23:31
作中使用曲
そうだ!We're ALIVE!
SONGS
女が目立ってなぜイケナイ
Only you

登場順 すべてモーニング娘。より


参考BGM
モーニング娘。
KinKi Kids
キリンジ
その他、素晴らしいアーティスト様
64 :Only you :2011/12/26(月) 23:32



読んで下さったすべての方々に感謝をこめて


65 :雪月花 :2011/12/26(月) 23:33
Only you―その笑顔のために 完結でございます。
感想やご批判は受けつけておりますので、コメントを残して下さるとありがたいです。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


2011年12月26日 雪月花
66 :名無飼育さん :2011/12/27(火) 00:27
感動で胸いっぱいです。
最後は、やはり涙が溢れてきました。
本当に素敵な物語をありがとうございました。

絵里もれいなも、その他の登場人物も、
みんな繊細で、、、あー言葉が浮かばない!
ほんと、大好きなお話でした!
ありがとうございます!

とーっても贅沢なこと話ですが、
また作者様のれなえりを読む事ができればなーなんて思います。


ありがとうございました。
67 :名無飼育さん :2011/12/27(火) 02:14

初めてコメントを残させていただきます。

これまでずっと、このお話を追い進める中で、沢山泣きました。時にはこの作品の訴えに、時には我を重ねて、泣きました。

色々なものが、沸き上がって来るようでした。忘れていたとても大事ものを思い出せました。真意の訴えにいっしょになって身震いしました。
生きていくことへ知恵や力も、ただ無垢なる胸の高鳴りも、沢山、このおはなしの内から頂きました。ありがとうごさいました。

なんだか作者さまの力量がせいか、終盤はこれを「れなえり」だとはすっかり忘れおりました。


でも、このおはなしの更新と共に心を浮き彫りにしていくような毎日は、とても快かったです。

ありがとうごさいました。
68 :名無飼育さん :2011/12/27(火) 12:33
最高でした!!!
とても奥深く、作者様のこの作品への思い入れの強さが伝わってきました。
毎日毎日更新されてるかチェックするのが日課でその度にワクワクしてました。
れいなにとっても絵里にとっても、そして自分たちにとっても『ハッピー\(^∇^)/』な終わり方で良かったです。

また作者様の素敵なれなえりが読めることを祈っております。
only you完結おめでとうございます!!
そしてお疲れ様でした!!
69 :名無飼育さん :2011/12/31(土) 18:59
完結、おめでとうございます!
ついに終わったんですね。
約3ヶ月間ニヤニヤしたり泣いたり…この小説のおかげで本当に楽しかったです!
ハッピーエンドーになってよかったんですが、
一方、もうれいなと絵里、さゆ、愛ちゃん、ガキさん、他の皆に会えなくなるのがすごく寂しいですね。
明日からまた初めから読もう。(笑)

上の方々も言った通りいつかまた作者様の新しい「れなえり」を読めばいいなぁ〜と思います。
こんな素敵な小説を書いてくれて本当に本当にありがとうございました!


70 :雪月花 :2012/01/05(木) 15:55
新年明けましておめでとうございます、雪月花です。
ガキさんの卒業の発表は正直ショックでした…
娘。のリーダーであるガキさんの姿を残り少ない期間ですが目に焼き付けておきたいです!


>>66 名無飼育さんサマ

温かいコメントありがとうございます。
この作品の登場人物はみんな好きなので、作者補正がかかり過ぎてることは否めません…w
とにかくれいなと絵里の話をひとつつくることができて、いまはホッとしてます。
次回作については…検討中ですw お付き合いいただきありがとうございました。


>>67 名無飼育さんサマ

初めてのコメントありがとうございます。
設定が高校生でしたので、青春という、恥ずかしくも熱い一瞬の出来事を書きたかったです。
「れなえり」ではあるものの、いろいろな人の物語が書けたらと思っていたので、泣いて笑っていただき本当に嬉しいです。
自分もこの作品を書いていてとても楽しかったです。ありがとうございました。


>>68 名無飼育さんサマ

いつも覗いていただきありがとうございます。
物を書くのは好きなのですが、まさか此処まで長くなるとは思ってなかったですw
れいなと絵里の物語をひとまず区切りをつけられて良かったです。
また何処かで会えることを私も祈っております。ありがとうございました。


>>69 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます。
初投稿から3ヶ月の間、見守って下さった読者の皆さんには本当に感謝しております。
この物語はひとまず区切りになりますが、何回でも読んでいただけるような話になると嬉しいです。
次回作については構想中ではありますので、また逢えたら嬉しいです。ありがとうございました。


Only you―その笑顔のために 最終更新になります
在り来たりなエピローグですが、どうぞお付き合いください。
71 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 15:58
ケータイのアラームが鳴り、絵里は布団からもぞもぞと手を伸ばした。
寝ぼけながらもケータイを止めると、時間は9時を少し過ぎたところ。今日は休日であるのに特に意味もなくアラームをかけてしまったのだなと絵里は苦笑した。
絵里はぐっと伸びをしてカーテンを開けた。朝の光りが優しく室内に入り込んでくる。ああ、今日も良い天気だなぁなんてボンヤリ思った。
窓を開けると春の風が舞い込んできた。温かくて優しい風が頬を撫でるのだけれど、起きぬけの体には少し冷たくて、絵里はくしゃみをしそうになった。


なんだか、本当に理由はないのだけれど、絵里はれいなに逢いたくなった。
暫く逢っていないような、だけどついこの間逢ったようなそんな気がするのだけれど、絵里は逢いたくなった。
72 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 15:58
ケータイを開くと、待ち受けにはれいながいた。
あの心臓の手術に成功した直後、絵里のお見舞いに来てくれたれいなとふたりで撮った写真だった。
れいなは顔をくしゃくしゃにして泣きながら、絵里に抱きついて「お早う」と言ってくれた。だから絵里も涙を堪えた精一杯の笑顔で「おはよ」って返したんだっけ。
またあなたに逢えたその奇蹟に感謝しながら、ずっと抱き合ってたなあって、絵里は顔が自然と綻ぶのを感じていた。
待ち受けに写真撮りたいなんて言ったら、れいなは最初、嫌がっていたんだけれど、絵里がどうしてもって言ったら、渋々ながら撮ってくれた。
少しだけ照れ隠しのように視線は外してるけど、でもしっかりと、絵里のその肩は抱いていてくれた。

絵里はふとそんな出来事を思い出しながら、メール作成画面を開いた。
れいなのことだから、まだ寝てるか、起きていたとしても朝食は絶対に摂らないんだろうなと絵里は苦笑した。
73 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 15:59
軽く朝食を摂って再び部屋に戻ると、ケータイが光っていた。
果たして送信者はれいなであり、その文章はたったの一文「何処か行こうか」というものであった。
絵里は自分の頬が緩んでいることを自覚しながらも、れいなに早速返信を打った。
74 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 15:59
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75 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:00
待ち合わせである駅前に少しだけ駆け足になりながら絵里は向かった。
春の風が前髪を通り過ぎていき、せっかくセットしたのにと絵里は右手でおさえた。
こんな些細なことで揺れる自分が恥ずかしくて、だけどれいなに逢いたくて仕方なくて、絵里は顔が綻ぶのを抑えきれないまま駅へと向かう。

駅のロータリーには既にれいなが待っていた。
いつものように音楽を聴きながら、そして大きめのサングラスをつけて、絵里のあげた水色のピアスをつけて、傍から見たら、ちょっと怖い人。
ホントは優しくて可愛い女の子なんだけど、れーなは見た目で判断されちゃうからなと、絵里は小走りにれいなに近づいた。

「れーなっ」
「お、今日は珍しく遅刻せんかったね」
「むぅ。絵里だってたまにはがんばるんですぅ」

絵里がそう反論すると、れいなはいつものように八重歯を見せて「ニシシ」と笑い、サングラスを外してくれた。
大きめのサングラスの奥からは、やっぱり大きめの瞳が現れて、その真っ黒な輝きがとても綺麗で、絵里はちょっとの間、見とれてしまう。
76 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:00
「なん?」

れいなはそう言って小首を傾げる。
あ、最初に逢ったときも、そうだったね。あのOG戦の日、れーなは絵里に「なん?」って聞いたんだけど、前はいまよりもちょー怖かったんですよ!
今日みたいに小首なんか傾げてくれなかったし、全然怖くて俄然強めな絵里もビビったんですから!

「なんもぉー」

そうして絵里がれいなの手を握って来たので、れいなもそれ以上は追及せずに、絵里の手を優しく握り返した。
その指には、あの手術直前にもらった、シルバーの指輪が輝いていた。
77 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:01
「絵里は何処行きたい?」
「んーとね、れーなの好きな場所」
「いっつもそれやん」

れいなはそう苦笑しながらも当てもなく歩き出す。
デートする時、絵里はいつも「れーなの好きな場所」とか「れーなの行きたい場所」って言うっちゃん。
絵里はそれで楽しいと?なんて聞こうものなら「れーなと一緒だから何処でも楽しいの」なんて可愛いことを口にすると。
そんなこと言われたら……まあ、悪い気はせんっちゃん―――

「だって、れーなと一緒だもん」

ほら、今日もそうやって言い返した。
ああもう、相変わらず可愛いなあなんて思ってしまう自分は、やっぱり絵里に甘いんだろうかなんてれいなは今さら心配になった。
だけど、絵里の笑顔を見ていたら、なんだかそれでも良いかと思ってしまって、自分もいつの間にか笑顔になって、歩き出していた。
78 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:01
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79 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:01
ふたりはそうして歩いていると、いつか来た噴水のある公園にやって来ていた。

「此処、春には桜が咲いて綺麗っちゃん」

れいながそう言うと、絵里は眼を見開いて驚いた。
最初に此処に来たときは、噴水と何本かの木とベンチしかない質素なものだと思っていたのだけれど、いまは桜が満開に咲き誇り寂しくなくなっていた。

「さーくーらー!」

絵里はそう言うと、れいなと手を離し、桜の木へと走った。
満開といっても木は数本しかなかったため、名所とまでは言い難いが、それでも立派に咲き誇る姿は見事であった。
ピンク色の花びらが優しく舞い降り、噴水と光りによって織り成すコントラストは、ひとつの芸術とも言えた。

桜の木の下で、目を細めて桜を見つめる絵里の姿は、やっぱり愛しかった。
彼女にとっては、いま、世界はとても綺麗に見えているんだろうなとれいなは思う。
生まれつきの心臓病というハンディキャップを背負い、決して楽しいとは言えない幼少期を過ごし、中学校ではイジメにさえあった。
残酷な運命しかくれなかった絵里の世界は、れいなが想像する以上に、暗く曲がったものだったのだろう。

だけど、漸く絵里は自分で自分の世界を切り拓いたのだ。
あの、成功率40%以下といわれた難関の手術を乗り越え、絵里はいま、此処で生きている。
れいなの隣で、優しく微笑んで、厳しい寒さの冬を越えて咲いた春の桜を見つめている。
そうだ、彼女もまた、暗く厳しい冬を越えて、人生という名の花を咲かせようとしているのかもしれないなとれいなは思った。
80 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:02
れいなは絵里の隣に並び、絵里と指を絡ませた。
絵里もなにも言わずに優しく微笑んで、その指を絡ませる。

「桜ってさ、綺麗なんだけど、やっぱり散っちゃうのが寂しいよね」

絵里は満開の桜を見ながらそう言った。
繋がれていない左手をそっと開くと、そこに舞い落ちた桜の花びらがそっと乗った。

「桜は散るけん、また来年咲いてくれるっちゃん」

いつだったか、手術直前に日光へ「修学旅行」した時にれいなが絵里に伝えた言葉と近い言葉を再び出した。
雪が溶けないと桜は咲かない。そして桜が散って夏の太陽が輝く。そうして季節はずっと巡るのだと。

「うん。次の季節への約束、だよね?」

絵里がにこやかにそう言うので、れいなは照れながらも頭をかいた。

「咲いて散るのは一瞬やけん、出逢いは永遠なんかも知らんな」

一瞬でも、永遠。
それは、隣で笑っていられるこの時間と同じだと思う。
長い人生で見たら、本当にたった一瞬のこの出来事、今日という日なんて忘れ去られてしまうくらいの刹那の時間。
それでもふたりは此処で生きている。心に刻まれたこの時間は、一瞬でも永遠なんだと思える。
永遠なんて、ずっと陳腐な言葉だと思っていたのに、それすらもいまは愛しく思えてしまう。
81 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:03
「…なんか、れな若いっちゃね」

昔から思っていたのだけれど、れいなは考え方が若い気がする。
まだふたりが高校生の頃、門限のある絵里を送りに行きながら、ずっとこの時間が続けば良いなんて思っていた。
どうしようもないくらいに若くて、絵里のためならなんでもできるとか思っていた、無茶苦茶な17歳だったんだなとれいなはいまさら思う。
しかもそれが数年経ったいまでも変わっていないのだから、なんだか情けなくなった。れいなはやれやれと頭をかいた。

「若くていーじゃん」

すると、そんなれいなの心の声に気づいたのか、絵里は手をぎゅっと握りしめて笑った。

「今日が、これからの人生でいちばん若い日なんだしさ」

絵里の真っ直ぐで柔らかい笑顔にれいなは射抜かれる。
ああ、やっぱりこういう感性は、彼女の方が上なんだろうなと実感した。れいなは「そうやな」と笑ってまた桜を見上げた。
ピンクを身に纏った花びらは、風に吹かれて何処かへと流れていった。
82 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:03
---

83 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:04
「なあ、絵里」
「うん?」
「今日さ、れなン家泊まる?」

公園をあとにして、軽く昼食を摂りながられいなは絵里に聞いた。
絵里はその質問に目を丸くしながらも、返す。

「それは…つまり……?」

絵里が少しだけ頬を赤く染めたので、れいなも慌てて否定した。

「いや、違う。そういう意味やなくて。ほら…あの…」

手術の前日にふたりが交わした小さな約束。
その日からずいぶん時が経っているのだが、いまだに互いにその一歩を踏み出せないでいた。
なんどか家に泊まりに行ったこともあるのだが、それでもなぜか、互いに遠慮をしてしまい、キス以上の関係には至っていない。
れいなが慌てて否定するので、絵里は優しく笑って「泊まるぅ」と答えた。
その回答にれいなは食後の珈琲を噴き出しそうになった。そ、それはOKということデスカ?と考えながら口元を拭う。
84 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:04

だけど、とも思う。

まあ、いっかとも思ってしまう。


別に、今日明日で終わる関係じゃないっちゃし、ゆっくりふたりのペースでやっていけば。


今日、絵里が家に泊まって、なにもなくても、それはそれで良いや。


れいなが優しく微笑むと、絵里も同じように微笑んだ。
桜が優しく舞う、恋深き春の日。隣にいるあなたが笑っている。何物にも代えることが出来ない、かけがえのない一瞬の空気。

それは、何処にでもあるような、当たり前だけど、シアワセの風景。


ああ、もう、好き―――


なんだか無性にそう呟きたくなるような、春の日だった。
85 :春 ビューティフル エブリデイ :2012/01/05(木) 16:05


fin



86 :雪月花 :2012/01/05(木) 16:06
Only you―その笑顔のために 無事に脱稿いたしました。
飼育では初投稿ということでしたが、見切り発車をしてしまったために、だらだらと長くなってしまいました。
娘。にハマったのは『Only you』からだし、絵里は1年前に卒業している、いまさられなえり、
ふたりとも高校生だしでダメだしされる点は満載ですが、ふたりが好きという想いだけで書いてみました。

れなえりは基本的に絵里が病弱でれいなが奔走するって形が多いので、新鮮味がないというのも反省点です。というか素晴らしい過去の作品に影響を受けまくっています…
実際の絵里はもっと元気でアホでPPPだし、れいなだってもっと乙女で可愛いので、今度はそういうふたりが書けたら良いかなと思っています。

一応、次の作品の構想もあるのですが、またスレッドを立てたら此処に告知します。
もし少しでもこの作品を気に入って下さった方がいらっしゃったら、また見に来てやって下さい。
この作品は此処で一応の終わりですが、彼女たちは遠い世界でいまも生きています。どうかまた、必死に青春して、前向きに生きようとしている彼女たちに逢いに来て下さい。
ツラいことも哀しいこともたくさんあった作品ですが、きっと最後は笑顔になれる…はず?ww

本当にありがとうございました!
87 :雪月花 :2012/01/05(木) 16:08
从*´ ヮ`) <絵里ぃ


ノノ*^ー^) <れーなぁ
88 :雪月花 :2012/01/05(木) 16:09
从*´ ヮ`)ノノ*^ー^) <うへへぇ



从*・ 。.・)<…ずっとやってろなの、バカップル
89 :雪月花 :2012/01/05(木) 16:10

ではまた、次回作で逢いましょう!
2012年1月5日 夕陽の射す自宅にて 雪月花
90 :名無飼育さん :2012/01/05(木) 21:29
最終更新乙でした。
久々に読み応えのある作品に出会えたのがうれしかったです。
主役の2人も他の登場人物も巧く生かしてるのが印象に残りました。

次回作の構想もあるようですが、スレの容量がかなり余ってるので
新スレ建てないでここを利用してはどうでしょうか?
91 :名無飼育さん :2012/01/07(土) 23:57
エピローグの更新、ありがとうございます。
もう二人に会えない寂しい気分が少しなくなったんですね。
でもこれが本当の最後って… Y.Y
明日からはまた初めからゆっくり読もう。
あ!そして他のれなえりが好きな仲間にも絶対オススメします。*^^*
今までありがとうございました!

そしていつかまた新しいれなえりに会える日も待ってるよ。



92 :名無飼育さん :2012/01/22(日) 02:22
いま読み終わりました!

単純なれなえりだけでなく、全ての登場人物の想いが伝わってきて、それが切なく泣けました!
痛くもあり、切なくもある心情が、とにかく胸に迫ってきて感動しました

いつかまた、雪月花様の新しい作品に会えたらと思っています
本当にありがとうございました!
93 :雪月花 :2012/01/29(日) 07:57
お久しぶりです、雪月花です。
数学女子学園を見てさゆれな熱が湧き上がっておりますw
あ、全然れなえり熱は冷めてませんので大丈夫ですよw


>>90 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
周囲の登場人物も丁寧に描いていきたかったので、そう言っていただけると嬉しいです。
確かに此処のスレかなり残ってますのでこっちに続けて書いていきますね。


>>91 名無飼育さんサマ

本当に温かいコメントをいただき、作者も嬉しいです。この作品を末永く愛してやって下さい。
また新しい長編を構想中ではあるのですが時間が限られているので、細々と短編で繋いでいこうかなと思ってますw
もしよろしければまたお付き合いくださいね


>>92 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
恥ずかしくも輝いていた青春の一瞬ってこんな感じなのかなと思いながら書いてました。
病気って制約がなくても、ふたりはたぶんラブラブかと思いますw


生存報告兼ねて短編をひとつ投下します。かなり微妙ですがw
94 :だいじょうぶだよ :2012/01/29(日) 07:58
「もー、そんなに泣かないの」

そう新垣里沙は言うのだが、目の前の彼女、生田衣梨奈はなかなか泣きやまない。
里沙はほとほと困りながら衣梨奈を見つめる。

「だっ、て…新垣さん……」
「生田にはフクちゃんも、鈴木も鞘師もいるでしょ?」

できるだけ優しく言っても、衣梨奈は首を振り、泣くことは収まらない。
里沙は「うーん」と頭をかき、すっと立ち上がった。
その気配に気づいたのか、衣梨奈はようやく里沙と目を合わせる。彼女の瞳には大粒の涙が浮かんでいた。

「ちょっとなんか買ってきてあげるから、ね?」

その言葉を聞き、なにかを言いかけた衣梨奈を振り払うように、里沙は部屋を飛び出した。
扉を閉めたあと、彼女はまた泣き出しただろうかと気になったが、振り返らずに、そのまま廊下を歩く。
95 :だいじょうぶだよ :2012/01/29(日) 07:59
里沙は「はぁ」と息を吐き、簡易休憩所でココアを片手に天井を仰いだ。
自分で決めたこと、自分で決めた道。
11年という長い間、モーニング娘。に在籍し、みんなと一緒に活動をしてきた。

楽しいことばかりではなかった。
加入当初から、覚えることはたくさんあったし、先輩についていくだけでも必死だった。
なんども先輩から怒られ、それでも里沙は、同期である高橋愛や紺野あさ美、小川麻琴らとともに前に進んだ。
その後、後輩である6期メンバー、亀井絵里、道重さゆみ、田中れいなが加入した。
問題児と言われながらも、彼女たちも娘。の一員であることを自覚し、ともに切磋琢磨してきた。
7期メンバーの久住小春、8期として光井愛佳、ジュンジュン、リンリンと加入し、娘。を巡る状況も大きく変わった。
なんども世間の逆風に遭い、このままモーニング娘。として活動していけるのだろうかと悩んだ。

だが、その度に、リーダーである愛と話し合い、中間管理職の絵里に相談し、仲間と笑い、泣き、此処まで走って来た。
なんども挫けそうになったが、決して立ち止まることはしなかった。
メンバーの絆は消えることなく強くなり、史上最強の8人と言わしめるほどのパフォーマンスを誇った。
新メンバーが大勢加入し、新生モーニング娘。が発足し、いままで以上に頑張っていこうと決意した。
96 :だいじょうぶだよ :2012/01/29(日) 07:59
「…そっかぁ……」

里沙はふっとそこで気付いた。
いままで何人もの先輩や後輩の卒業を見てきた。
小春、絵里、ジュンジュン、リンリン、そして、同期である愛。
その度に何度も泣いたし、寂しくなると思ったし、卒業しないでほしいとも思った。

―みんな、居なくなっちゃうんだもん…

最後の同期である愛が卒業したとき、里沙はふいにそう口にした。
置いていかないでと思った。

だけど、寂しいのは、自分だけではなかった。
自分が卒業することを決めて、メンバーに話して、後輩である衣梨奈が泣いている姿を見て気づいた。

「卒業するって発表するのも、寂しいんだね…」

いま分かったよ、愛ちゃん。
愛ちゃんが私に卒業するって言ったとき、私もたくさん泣いた。
置いていかないでって思ったけど、愛ちゃんだって、寂しかったんだね。

置いていかれる方と、置いていく方。
どちらがという問題でもなく、どちらも寂しいのだと、里沙は気付いた。
97 :だいじょうぶだよ :2012/01/29(日) 08:00
「ガキさん…」

ふいに聞こえた声に、里沙は顔を向けた。
そこには6期メンバーであるれいながいる。

「そっち、座っていい?」

れいなの小さな声が休憩所に響き、里沙は断る理由もなく、どうぞと手で示した。
その言葉に素直にれいなも従い、少しだけ距離を置いて隣に座る。
10月に行われたミュージカル以降、急速に話すようになった里沙とれいな。
そこまでも別に仲が悪かったわけではないが、あのミュージカルを契機によく話すことが多くなったふたりだった。

「…生田、泣いとった」

れいなの発した言葉に驚くこともせず、里沙は「そっかぁ」と口にした。
9期メンバーである衣梨奈は本当に里沙を慕っていた。
今年のお正月のメールは「明けましておめでとうございます」ではなく「今年も新垣さん推しでいきますから!」という決意表明だった。
まったく、困った、だけど可愛い後輩だと思い、里沙は自然と笑顔になれる。

「生田には、フクちゃんとかいるから、だいじょうぶだよ」

里沙は持っていたココアに口をつけ、少し先の床を見つめる。
慕ってくれていること、泣いてくれることも本当に嬉しい。だけど、彼女にはこれからも娘。を引っ張っていってほしかった。
10期メンバーの加入でいつまでも後輩ではいられなくなった9期メンバー。
個々人のスキルアップはもちろん、先輩としての自覚を、9期全体で持ってほしかった。
だから里沙は、あまり慰めることもせず、敢えて衣梨奈を置いて此処に来た。
98 :だいじょうぶだよ :2012/01/29(日) 08:00
「…れなには、さゆがおった」

ぽつりと呟かれた言葉に里沙は顔を向ける。
れいなは顔を上げ、里沙を真っ直ぐに見つめる。彼女の大きな瞳が、少しだけ揺れた。

「絵里にも、れなとさゆがおったよ」
「うん」
「愛ちゃんには、ガキさんがおった」

れいなの言葉の真意を掴むことができず、里沙は次の言葉を待った。

「ガキさんやって、泣きたかったら、泣いていいっちゃん」

優しくかけられた言葉に、思わず里沙は目を見開く。
どうして急にそんなことを言うのだろうと口を開きかけるが、その前にれいなは続ける。

「同期は、もう、おらんけど…ガキさんには、れなも、さゆも、9期の生田やっておる」
「………」
「後輩を頼っても、良いっちゃよ?」

れいなの言葉は真っ直ぐに里沙を射抜き、里沙の瞳からは涙が零れ落ちていた。
知らない間に、里沙は自分を追い詰めていた。リーダーだから、最後の5期だから、ひとりでがんばろうと思ってしまっていた。
気丈に泣かずにいようと思い込んでいたけれど、決してそんな必要はなかったのかもしれない。
99 :だいじょうぶだよ :2012/01/29(日) 08:01
「いまのガキさんには、生田が必要っちゃないと?」

先輩としての自覚を持ってほしい。だから里沙は敢えて衣梨奈を必要以上に慰めようとはしなかった。
だけどそれは、自分が甘えてしまうことを恐れたのかもしれない。
衣梨奈の優しさに触れて、情けなく泣いてしまうことを怖がってしまい、衣梨奈を置いてきたのかもしれない。

「…田中っちには、分かっちゃうんだね」
「ん……れなは、経験しとるから」

そうしてれいなは照れくさそうに笑った。
彼女の笑顔を見て、里沙は気付いた。

そっか、田中っちは、カメの卒業を見てきたんだもんね。

最愛の同期である亀井絵里の卒業。
れいなの叶えたかった夢。
行かないでほしいという想い、だけど、それでも、と、れいなは泣きながらも絵里を送りだした。
絵里の想いを、知っていたから―――。

里沙は優しく微笑み、ココアを飲み干した。
そして缶をゴミ箱に捨てると「ありがとう」と呟き、衣梨奈のいる楽屋へと戻った。
れいなはその背中を見つめながら、ふうと息を吐く。

「…れなやって、寂しいっちゃん」

れいなはだれにも聞こえないような声でそう呟く。
当たり前なのだが、だれが相手であっても、卒業は寂しい。
だから、泣いている衣梨奈を見て、どうしても放っておくことができず、珍しくお節介をしてしまったのだ。

れいなはやれやれと立ち上がり、楽屋へと戻る。
ああ、ガキさんにはアホカメもおるっちゃんって言うの忘れてたと思いながら、れいなは頭をかいた。
100 :雪月花 :2012/01/29(日) 08:04
ガキさんの卒業発表という事で「だいじょうぶだよ」でした。
生ガキとれなえりで書きたかったのに微妙になって申し訳ないです。

こういう感じで短編をつらつら書いていきますー
ではまた
101 :名無飼育さん :2012/01/31(火) 09:18
和解ヲタのヲレ歓喜w
102 :名無飼育さん :2012/02/01(水) 22:15
この2人の最近の雰囲気らしくて良いですね〜
生存報告ありがとうございます!
短編楽しみに待ってます。
103 :雪月花 :2012/02/11(土) 23:10
寒波襲来に負けそうな雪月花です
春はまだ来ないかなあ…


>>101 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
和解ヲタさんが此処にもいるんですねw ガキれなは普通に好きな組み合わせなのでちょこちょこ書けたらなと思ってます
また機会があれば覗いて下さいね!


>>102 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
リボーン以降、本当にふたりの距離が一段と近づいたみたいでなんだか嬉しいです。
更新頻度は低いですがひっそり頑張っていきますw


今回も思いつき短編です
れなえりじゃなくて申し訳ないです…
104 :視線の先の恋 :2012/02/11(土) 23:12
譜久村聖は携帯電話を操作する手を止めてはぁと楽屋の机に伏した。

「どうしたの、聖ちゃん」

隣で飴玉を舐めながら雑誌を読んでいた鈴木香音は、不思議そうに聖を覗きこむ。
その表情はあどけない中学生そのままで、聖はふっと微笑んだ。

「ううん、だいじょうぶ、なんでもないよ」

そうして聖は誤魔化したが、9期メンバーの中で実はしっかり者の香音は、その言葉に疑問を持った表情をする。
しかし、それを口に出すことはせず、「そっかぁ」と笑い、また雑誌に目を戻した。
自分よりも年下なのに、気遣いやさんだなあと聖は携帯を見つめる。
そのとき、楽屋の入口が騒がしくなった。

「だーかぁーらぁ、うるさい!」
「なんでですかぁー」

ああ、相変わらずだなと思いながら、聖はちらりと視線を向けると、果たしてそこにはリーダーの新垣里沙がいた。
彼女の右腕には、同期の生田衣梨奈がべったりとくっついている。
傍から見れば微笑ましい光景であると思うけど、それなのに、心に引っ掛かってほどけないこの気持ちは、なんだろう?
105 :視線の先の恋 :2012/02/11(土) 23:12
「そうそう見て下さいよ、これ!」

そう言うと衣梨奈はいちど里沙から離れ、自分のカバンの中から写真入れを取り出して見せた。

「これが最近のお気に入りなんです」
「あんたまた買ったの?」

衣梨奈の手にしている写真入れには、モーニング娘。のメンバー、主に里沙の生写真が入っている。
わざわざショップに行って買ったりする気持ちは、去年卒業した亀井絵里の大ファンである聖も分かる。
分かるのだが、聖の絵里への気持ちと、衣梨奈の里沙への気持ちは、何処かに乖離がみられるような気がした。

「もー、言えばもらえるんだから」
「それじゃ意味ないんですよぉ!」

自分で買うことに意味があるのだと衣梨奈は主張しながら、この新垣さんが良い、あ、これも可愛い、やっぱりシルバーのときは良いですね!と力説する。
里沙も半ば呆れながら、「はいはい」と彼女の話を聞いてあげている。
迷惑そうな顔をしているけれど、内心、とても嬉しいんだろうなというのは、雰囲気を見ていれば分かる。
一応、リーダーという立場上、それを表に出すことはしないんだろうけど。
106 :視線の先の恋 :2012/02/11(土) 23:13
里沙が卒業するまであと3ヶ月。
もうすぐ春のコンサートツアーも始まるし、リハーサルや練習に追われる日が続いている。
そんな中で、衣梨奈が里沙を慕ってよく一緒にいる光景をなんども見かける。
時間がないことを自覚しているのか、1日1日を大切にしようとしているのか、衣梨奈は暇さえあれば里沙と一緒にいる。
それは微笑ましい光景だし、先輩の田中れいなや道重さゆみも、「ホントに生田はガキさんが好きやねえ」と呆れていたほどだ。

だけど、聖は時々不安になる。
里沙が卒業してしまったとき、衣梨奈はどうなるのだろう?
頼れる先輩であり、自分が心から慕っていた人が目の前からいなくなって、衣梨奈は大丈夫だろうか?
それは彼女自身も気付いているのかもしれない。
だからこそ、その不安を埋めるように、衣梨奈はいつも以上に里沙にくっついている。
卒業してしまってからは、いままでのように頻繁に会えることはないのだから。

それでも、聖は心配だった。
本当にいまのままで良いのだろうかと。

この話をだれかにしたことは一度もない。
後輩の10期メンバーでさえ、衣梨奈の暴走ともいえるべき行為を笑って見ているくらいである。
そんな中、「衣梨奈が心配だ」などと言おうものなら、それこそ「KY」のような気がした。
107 :視線の先の恋 :2012/02/11(土) 23:13
だいたい、どうしてこんなに衣梨奈のことが心配なのだろう。
同期で、1年間同じ光景を見てきて、ツラいことも楽しいことも経験してきた。
それだけの人のはずなのに。


「もぉー、暑苦しいっ!」


楽屋の端の方では、未だに衣梨奈と里沙がなにやら言い合いをしている。
里沙も怒るような言い方をしているが、その言葉尻はとても明るくて楽しそうだった。
もうすぐ居なくなってしまう温もりを、少しでも胸に刻めるようにしているのだろうかと聖はぼんやり思う。



それは微笑ましくて、何処か寂しい、視線の先の光景だった。
108 :視線の先の恋 :2012/02/11(土) 23:14
最近は生ガキとPONPONにもハマってますw
まだ掴みきれてませんけど…難しいなあ

ではまた次回まで。
109 :名無飼育さん :2012/02/14(火) 18:26
雪月花さんと好みが一致しているようで嬉しいです
次回更新も楽しみにしてます!
110 :名無飼育さん :2012/02/14(火) 23:51
ガキさん卒業後の生田を同期が支えてほしい
そう思います
111 :名無飼育さん :2012/02/22(水) 01:43
この短編好きです
112 :名無飼育さん :2012/02/22(水) 01:44
sageるの忘れてましたゴメンナサイ><
113 :名無飼育さん :2012/02/22(水) 12:58
早くれなえりが読みたーい(´∀`)
114 :名無飼育さん :2012/03/03(土) 14:01
生ガキもPONPONもガキれなも大好きですw
それぞれの気持ちが複雑だなあと思いながら読んでました
作家さんのペースでまったり待ってます。
115 :雪月花 :2012/03/08(木) 18:51
先日娘。の春コンに参戦してきました雪月花です
9・10期の成長が著しく、凄く楽しかったです!


>>109 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
おお、同志がいてくれて嬉しいですw
更新頻度は低めですが、ちょくちょく覗いて下さると嬉しいです


>>110 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
えりぽんにとってガキさんは大切な先輩なんだろうなっていうのは凄く伝わります。
ツラくなったら同期のフクちゃんとかが支えてくれたらいいなあ…


>>111 名無飼育さんサマ
好きと言ってもらえて小躍りしてますw がんばりますw
また遊びに来て下さい!


>>112 名無飼育さんサマ
ノノ*^ー^)<ドンマイですw


>>113 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
私もれなえりが書きたいですw なかなか更新しませんが宜しくお願いしますw


>>114 名無飼育さんサマ
コメントありがとうございます!
まだ掴みきれていない組み合わせですが、ぼちぼち書いていけたら良いなと思ってます
亀更新ですが宜しくお願いします


久々に更新します。れなえりなのに、しょーもない話ですw
116 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:52
明日は久しぶりのオフかぁと、れいなは鼻歌交じりに夕焼けに染まった道を歩く。
この時間帯に仕事が終わったことはラッキーだった。今日は久しぶりに自分で料理をつくろうかとれいなは考える。
いちど家に帰って、冷蔵庫の中を確認して、なにを買ってくるかを決めよう。
肉じゃがとか、ハンバーグとか、家庭的なものでもつくろうかと、れいなはマンションの階段を一足飛びに駆け上がった。

自分の部屋の前に着いたとき、れいなは「おや?」と思う。
中から僅かではあるが光りが洩れていることに気付いた。朝出かけるときに消すのを忘れていたのだろうかと、れいなは鍵を差し込む。
鍵を回した瞬間、手応えがなかった。鍵が、開いている―――
此処で考えられる可能性はふたつ。
ひとつは鍵をかけ忘れて仕事へ行った。
そしてもうひとつは……

れいなはその考えられる可能性に期待を込め、ドアノブを回した。
117 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:53
「おっかえりー、れーなぁ!」

果たしてその可能性は当たることになった。
玄関先で相変わらずだらしない笑顔を零した絵里が両手を突き出して待っていた。

「ただいま、絵里」

れいなはその笑顔に釣られ、自分も顔が綻んでいく。
なぜ今日れいなの家にいるのか、その理由も分からないけれども、ただ彼女が此処にいるだけでシアワセな気持ちになれる。
なんと単純な思考なのだろうと思うけれども、結局、笑っているのだから、仕方ない。

「れーな、お仕事お疲れ様ですっ!」

絵里はそうしてヘラヘラ笑ったかと思うと、れいなに飛び込んできた。
そう、文字通り飛び込んできた。
れいなの肩に絵里の顎が乗り、背中に両腕が回ることで、彼女の体温を直で感じた。
卒業したあの頃よりも少しだけ伸びた髪からは、ふわりと良い香りが漂う。
ちゃんとご飯を食べているのか心配になるような細い腕や脚が服から見える。

れいなは細い絵里の体を抱きしめ返しながら、いつものくせで、絵里のうなじにかかった髪の毛を指先でかき分ける。
現れた白い首筋には、少しだけ傷んだあとがあるものの、それでもずいぶん、綺麗になっていた。
これが彼女の努力の成果であり、ちゃんと自分と向き合っている証拠でもあることが分かる。

―がんばってるんやね…絵里……

れいなはほぼ無意識のままに、その首筋に唇を落とした。

「んっ…」

チュッという甘い音のあとに聞こえてきたのは、世界でいちばん、甘い声。
れいなは逢えなかった日々を思い返すように、その時間を埋めるように、ひとつひとつ丁寧にキスをしていく。
それがくすぐったいのか、絵里は小さな声を上げながらも体を捩る。
118 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:53
「れーな…」
「うん?」

絵里はれいなの両肩に手を置き、彼女と向き合う。
キスをされて蒸気した顔はほんのりと紅く染まり、優しく微笑んだその瞳は柔らかい。

「ご飯にする?それかお風呂にする?」
「ふぇ?」
「それともぉ……わ・た・…」
「ちょぉっと待った!」

新婚夫婦のような定番のセリフが飛び出てきそうになり、れいなは思わず絵里を引き剥がす。

「うぇ〜、なんだよぉ?」
「な、な、なんだよやなくてさ……」

こ、こんな場所で言うことやなかやろ!
そういうセリフはせめてベッドで…ってそれもいかんって!
つーか絵里、なん、な、え、な、ええ?!

「絵里は、お仕事で疲れたれーなに、ちゃんとご飯つくって待ってたんですよ?」

れいなの心の葛藤を知らずに、絵里は小首をかしげて見せる。
そういえば今日の絵里の格好は、ジャージ上下にエプロンをつけている。
何処からどう見たって、料理をしていました、という服装なのだが、それが余計に新妻のように見えてしまう。
てか、ちょっと待って絵里…

「だから、ご飯か、お風呂か…それともぉ」
「分かった。お風呂。れなはこれからお風呂いくけん」

言いたいことは山のようにあるが、これ以上彼女に話させていたらなにを言い出すか分からない。
れいなはブーツを脱ぎすて、絵里の横を素通りし部屋に上がる。キッチンの方からは確かに良い匂いがする。
ダンスレッスンで体を動かしたあとであるため、この匂いは充分に食欲をそそる。
だが、いちど自分の考えも整理するためにも、まずは時間稼ぎのためにシャワーを浴びようとれいなはコートを脱いだ。

「うへへぇ、じゃあ絵里待ってるねー」

風呂に入る準備をするれいなの背中に、絵里はそう声をかけた。
鼻歌交じりにキッチンに立ち、鍋の中を覗きこむその姿に、れいなは図らずもときめく。
さて、これはどうしたものかと思うが、頭をかきながらひとまず脱衣所へと向かった。
119 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:54
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120 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:54
シャワーを浴び終え、ジャージに袖を通しても、れいなには分からないことがひとつあった。
それは、絵里が此処にいる理由だった。
確かに絵里とれいなが付き合って時間も長いし、合い鍵なんてとうの昔に渡しているから、彼女が此処に来るのは当然といえば当然だった。
絵里がまだ娘。に所属している頃は、一緒に此処から職場へ向かうこともあったくらいだ。不自然なことはなにもない。

だが、絵里が卒業してから、絵里がれいなの家に来る回数は減ったし、来るときは必ず連絡を入れていた。
ふたりの時間が重なることが減ったため、すれ違わないように時間を調整して逢っている。
それでも、絵里の誕生日であったり、なにかの記念日でない限り、逢う機会は少ないのが現状だった。

さて、今日は3月8日。
なんの日だろう……?まさかなんかの記念日やったっけ?

当然、絵里とれいなの誕生日ではない。
付き合った日でもない。ホワイトデーはもう少し先、バレンタインデーはもう終わった……。
考えられるのは……なんだろう?付き合って1000日記念とか?いや、絵里に限ってそんなの覚えているわけがない。
あとはなんだ?初デート記念日?いつよ、初デートって……
じゃあ…初エッチ記念……ない、ない、ない、ない!あっても良いけど、ない!

れいなは頭をタオルで拭き終え、コットンに化粧水を染み込ませていく。
考えられる限りの答えを予測したものの、全くなにも浮かんでこない。
まさかれいなだけが忘れている大切な日じゃないだろうかと記憶の底に潜るが、どうもしっくりくる答えがない。

れいなはコットンを頬に貼りつけて乾燥を防ぎながら必死に考える。
此処はひとつ、絵里と話しているなかでさりげなく探るかと、情けない自分を恥じながらも、れいなはキッチンへと戻った。
相変わらず嬉しそうな顔をしながら、絵里は料理を皿に盛っていた。
おぉ、今日はロールキャベツっちゃねと、れいなは自然と笑顔になっていた。
121 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:54
「はいはい、座って座って」

絵里に促され、れいなはテーブルに着いた。
コンソメの良い香りが食欲をそそる。
娘。にいたころは満足に料理もできなかった絵里である。これをつくったのはあの亀井絵里ですと言っても信じてもらえない気がした。

「いっただきまぁす」
「いただきます」

笑顔の絵里に釣られ、れいなも手を合わせる。
ロールキャベツに箸を入れると、柔らかく煮込まれたキャベツはあっさりと割れた。
立ちこめる湯気が余計に食欲をそそり、れいなは小さく切ったあと、口に運んだ。
優しい味が広がり、ホッとする。

「美味しいっちゃん」
「でしょー。絵里ちゃんがんばったもん」

自分の偏食について、れいなはちゃんと自覚している。
朝食はほとんど取らないし、その日の食事を野菜ジュースで済ませることもしばしばある。
食べられるものだけ食べ、ハンバーガーも1/4程度しか食べないでいると、目の前にいる絵里が怒ったことがある。


―――つぅかさ、ハンバーガー1個くらい食えよ!


―――れーな、死ぬよっ?!


そうして怒られてから、一応は努力して食べるようにはしている。
特に絵里の前では、ちゃんとした食事を摂るようにはしていた。
もし自分だけしかいなかったら、ロールキャベツなんてつくらないし、食べないんだろうなとれいなは思う。
122 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:55
「そういえばさ」

絵里の声が聞こえ、れいなは思考を止め顔を上げる。
彼女は白米を頬張りながら笑顔を向けて来た。

「良い先輩やってるんだって?」
「へ?」
「下の子が小さいから」

絵里の言葉を噛み砕き、れいなは「あー」と思い当たる。大方、同期のさゆみから聞いたのだとは思う。
9期・10期メンバーが加入し、モーニング娘。の平均年齢はぐっと下がった。
小中学生が多いせいか、楽屋はいつもうるさくて楽しい。

「みんな子どもやけんね。小学生もおるし」
「佐藤さんと工藤ちゃんでしょ?一緒にかくれんぼしてあげてるんだって?」

からかうように話す絵里にムッとしながらも、れいなは言い返すことはしない。事実であったから。

「絵里に似て天然やけんねー。扱いに困るとよ」
「むぅ。絵里は天然じゃないですよ!」

絵里は「天然」と称されたことが気に食わなかったのか、あひる口をさらに突き出してきた。
相変わらずプルプルの唇だなぁとボンヤリ思いながら、れいなは舞台のセリフを返した。

「天然の人ほど、自分は天然じゃないとぉー力説するっ。そーゆー法則があるんですよぉ」
「なっ…それ、絵里のセリフぅ!」
「んじゃ、ぽけぽけぷぅ?」

れいながさらにからかうと、絵里は頬をふくらませ、すねたようにロールキャベツを口に放り込む。
やれやれ、相変わらずこういうところは子どもっちゃんと、れいなも白米を口に運んだ。
1人じゃないというだけで、こんなにも食事は美味しくなるっちゃねと、自然と笑顔になっていくのを自覚していた。
123 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:55

―聞けんかった……


れいなは1人、頭を抱えてベッドに座り込んでいた。
食事を終えた絵里はお風呂に入ってくると脱衣場へと向かった。
その間にれいなは片付けと歯磨きを済ませたのだが、肝心の「此処に来た理由」を聞き出せずにいた。
久しぶりに逢ったせいで、話に花が咲き、絵里がいる理由を聞くタイミングを逃した。

―今日何の日やったっけー?

れいなは慌てて手帳を取り出すが、日付の横には仕事の予定しか書いていない。
1年前の今日はどうだったのだろうと、最初の方のページをめくるが、特に目新しい情報はなかった。
ならばと、1年前のメールを検索してみたが、こちらも手掛かりなし。
此処まで来ると、もはや打つ手はなかった。

本当に今日はなんの記念日でもないのだろうか?
だとすれば、絵里が此処に来た理由は本当に気まぐれということで良いのだろうか?

「分からん……」

れいなは思考を止め、ベッドに横になる。
そんなに深く考えなくて良いことかもしれないが、どうしても考えてしまう。
というのも、れいなは一度、絵里を泣かせてしまったことがあったからだ。

ふたりが付き合い始めて1年目の記念の日、れいなは朝から仕事をしていた。
昼を過ぎたあたりで絵里からメールが来ていたのだが、れいなはそれに返事をすることはなかった。
急ぎの用事ではないだろうと携帯を開かずに仕事をこなし、気付けば夜の10時を回っていた。


―――忘れちゃってたよね、やっぱり……


日を跨ぐ直前にきた絵里からの電話で、れいなは一気に青ざめた。
今日が何の日かということを失念していた自分に後悔し、急いで絵里の元へ向かった。
124 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:56
「焦ったなあ…あん時は」

れいなはぼんやりと天井を見上げて呟く。
付き合って初めて迎えた記念日は、絵里を泣かせて散々なものになった。
だから、というわけではないけれど、その日以降、れいなは絵里とちゃんと向き合うようになった。
いま思えば、付き合った当初、れいなは「恥ずかしいから」とか「照れるから」と理由をつけては絵里になにもしてこなかった。
気持ちをぶつけることも、手を繋ぐことも、キスを交わすことも、本当に少なかった。
絵里はその度に「へたれーなぁ」と言っていたけど、思い返せば、寂しそうに笑っていたっけ。

「泣きそう……やったんよね」

絵里はいつも、泣きたくなるのを堪えていたのかもしれない。
なにも言わないれいなに対して、抱きしめてくれないれいなに対して、キスをしてくれないれいなに対して。
それに加えて、付き合って1年目のあの日を忘れたことが、本当にショックで、絵里は号泣した。
いつもいつも不安に苛まれて、本当にれいなが自分を好きでいてくれるのか分からなくて、
それでもれいなを信じていた絵里にとって、その瞬間は絶望的なものだったのだろう。


―――っ……絵里、だけなの?


―――好きなのは……絵里だけなの?


どう考えたってれいなが悪いことは分かっていた。
絵里をあんなに泣かせるまで、それに気付かなかった自分は、へたれや鈍感を通り越して病気だと思う。
もう嫌だった。
こんなに胸に溢れるほどに「好き」という気持ちがあるのに、それを伝えられずに泣かせてしまうことが。
好きな人の笑顔で泣く、哀しい涙を見るのは、嫌だった。
だかられいなは、黙ったままではあったが、絵里が泣きやむまでずっと抱きしめていた。
なにか言ってやるべきだったのだろうけど、それを言葉にすることは出来なかった。
ただ、絶対に離すことはなく、好きだという想いが伝わるように、ずっとずっと抱きしめていた。
125 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:56
「……変わっとらんのかなあ…」

れいなは右腕で目を覆った。
絵里はずっとれいなに真剣に向き合ってくれていたのに、れいなは目を背けていた。
だから、ちゃんと向き合おうとあの日に誓った。もう、泣かせたくなかったから。
でも、実際はどうなのだろう。
絵里と付き合ってもう何年も経つけど、本当に、れいなの気持ちはちゃんと絵里に伝わっているだろうか。
未だに、「好きだ」とか「愛してる」とか、そういう言葉を素直に伝えるのは難しいのだけれど。

結局のところ、自分はあの日から成長していないのかもしれない。
絵里はいまでも、ずっと不安なまま、れいなのことを待っているのかもしれない。

「……こんなんの何処が好きやっちゃろ」

自分の不甲斐なさに苦笑しながられいなは体を起こした。
いま、うじうじと悩んでも仕方がない。ただ、泣かせたくなくて、笑顔が見たくて、好きだと伝えたかった。
絵里がれいなを好きな理由なんて分からないけれど。
好きでいてくれるのなら、それに甘えるんじゃなくて、ちゃんとこの気持ちを伝えたかった。

「お待たせぇ〜。お風呂上がったよぉー」

そうして部屋に入ってきたのは、メガネをかけて頭をガシガシとタオルで拭いている絵里。
いままでのれいなの鬱屈とした考えを吹き飛ばしてしまうような明るい声に、れいなは思わず苦笑する。
こうして変わらずに、一瞬で花を咲かせてしまう絵里が好きだった。
それはさながら太陽で、さながら春の風だ。

れいなはふっと笑い、立ち上がる。
「うん?」と軽く小首を傾げた絵里をよそに、ぐいと体を引きよせて抱きしめた。
身長は絵里の方が高いから、れいなが絵里に抱きついている形になっているが、それでもれいなは絵里を抱きしめた。
126 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:57
「れーな……?」

抱きしめた絵里の髪からはシャンプーの香りがした。
一瞬で優しさと温もりに包まれるこの瞬間が、れいなは好きだった。
れいなは絵里の背中でぎゅっと手を握り締める。少しだけ早くなる鼓動が、やけにうるさい。

「絵里……」

好きな人の名前を呟くだけで、こんなにも切なくなるんだとれいなは改めて思う。
その度に、自分はこんなにも、絵里のことが好きでたまらないんだと自覚する。
そんな好きな人の前で、「へたれ」だとか「照れ隠し」だとかで、想いを伝えないで良い理由なんてない。

「好いとーよ」

ふわりと言葉が宙に舞った瞬間、絵里は思わず「え?」と漏らす。
れいなは構わずに胸の想いを告げる。

「あんまり…口にせんかったけん、絵里も不安になることも、いっぱいあったかもしれんけんさ」

前後脈絡なんて全くない。
急にこんな話をされて絵里はきょとんとしてしまうかもしれない。
だけど、それでもれいなは伝えたかった。もっと、ちゃんと、誠実に、真っ直ぐに。

「れなは、絵里が好き。大好きやけん……信じてほしいっちゃん」

ケンカしたわけでも、怒られたわけでもない。
ただ、此処に在る想いを紡いでいるだけ。
そんな単純なことをするだけなのに、れいなはいつも、遠回りをしてしまう。大切な人を泣かせて、傷つけて、それでやっと辿り着く。
間違うことも、気付くのが遅いこともたくさんある。
それでもれいなは、ちゃんと伝えようと想いを開く。それだけ、絵里のことが、好きなんだと知っているから。
127 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:57
「バリ好いとーよ、絵里……」

れいながそう言いきると、いままで呆然と立ち尽くしていた絵里の腕がふとれいなの背中に回った。
絵里はれいなのパジャマをぎゅうと握り締め、鼻をずずっと啜った。

「……知ってるよ、だいじょーぶ」

そう言うと、絵里はれいなの肩にぽんと顎を乗せた。

「絵里も……大好きだよ…れーな」

甘い言葉が囁かれ、ふたりの間をふわりと優しい空気が包み込んだ。
言葉じゃ伝わらないこともある。だけど、言葉じゃなきゃ伝わらないこともある。
そうやってひとつひとつ日々を積み重ねていくことが、たぶん、シアワセなんだろうなとれいなは思う。

「いつも、ごめん……ちゃんと、言わんで」
「ううん。だいじょーぶだよ。れーなの気持ち、ちゃんと分かってるから」

そうして絵里は優しく笑う。
この笑顔に、なんども助けられてきたし、なんども甘えてきたんだと思う。
だから、これからはなるべく、ちゃんと伝えていくから。信じて、ほしいっちゃん、絵里。

「ひとつ…聞いても良い?」

れいなが体を離してそう聞くと、絵里は「うん?」と答える。
128 :Anniversary :2012/03/08(木) 18:58
「今日って、なんで…」
「れーなに逢いたかっただけだよ」
「へ?」

れいながすべて言い終える前に、絵里はれいなの質問に返した。
絵里は「うへへぇ」といつものようにだらしなく笑う。

「突然来ちゃってごめんね。でも、どうしても、逢いたかったの、れーなに」

そうして絵里は申し訳なさそうに笑ったあと、「なんかの記念日だと思った?」と聞いた。
れいなの思考回路なんてすべてお見通しらしい。れいなは曖昧に笑ったあと、「まあ…」と素直に返す。

「じゃあ、今日は記念日だよ」

絵里はふにゃりと柔らかく笑ったかと思うと、そう言った。

「ふたりが一緒にいる記念日」

絵里の甘い言葉が降ってきた直後、さらに甘い唇が降ってきた。
彼女は相変わらず「うへへ」としてやったりの表情を浮かべたままれいなを見つめている。
それがなんとなく、これからの日々を重ねていくうえでの大切な気持ちのような気がして、れいなも釣られて笑い、お返しとばかりに唇を重ねた。
129 :雪月花 :2012/03/08(木) 18:59
このあと、予想通り、れいなさんはえりりんをいただいちゃったんですが、その話はまた今度w
ホントにしょうもなくて申し訳ない…
130 :名無飼育さん :2012/03/09(金) 12:12
れなえりー!!!!!

いただいちゃった話聞きたいwww
131 :名無飼育さん :2012/03/11(日) 13:28
ありふれた日でも二人には記念日ですね
132 :名無飼育さん :2012/03/12(月) 13:36
切ないほど甘い…
挿入されたエピソードも素晴らしいです
133 :名無飼育さん :2012/03/13(火) 01:07
ご馳走様でした。
甘ったるくて最高です\(//∇//)\
ありがとうございます!

つつぎ楽しみだなー???
134 :名無飼育さん :2012/04/19(木) 18:11
もう更新しないのかな(;´Д`)
135 :雪月花 :2012/04/20(金) 04:54
最近、娘。DDじゃなく、ハロプロDDだと気付きました雪月花ですw
さすがに小説にするのはまだ難しいですけど、みんな可愛いなぁとしみじみしてますw


>>130 名無飼育さんサマ

いただいちゃった話も書きたいんですけど果たして需要あるのかしら…?と、書けない言い訳にしていますw

ノノ*^ー^)<ちゃんと書いて下さいね?w

Σ 从;´ ヮ`)<え、絵里……


>>131 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
何気ない毎日でも、きっとふたりで一緒にいれば輝いているんでしょうね、このふたりにはw
バカップル万歳、れなえり万歳!って気持ちで書いてますw


>>132 名無飼育さんサマ

久々のれなえりですが、切なく甘くなっているでしょうか?
れいなは絵里のことを大切だし好きなんだけど、どうしても不器用なイメージなのでこうなりますw
また遊びに来て下さいね!


>>133 名無飼育さんサマ

つ、つづきだと…?w いただいちゃった話ですかね?w
まだ容量も多いので、いつかこのスレ内で投下できたらと思ってます。
期待しないで待っていて下さいなw


>>134 名無飼育さんサマ

すみません、長期放置プレイで…w
別の場所でも書いているので時間がなくなっているのですが、此処も更新していきます
ひょっこり顔を出すので、飽きずに見守っていてくれると幸いですm(_ _)m


夜中に勢いで書いてみた9期ものを投下します。
全然キャラが掴めていないし意味不だしアンリアルですが、温かく見守って下さい。
136 :春の約束 :2012/04/20(金) 04:55
春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、この古典の授業中、クラスの大半は夢の世界に旅立っている。
古典担当教師も半ば諦めているのか、生徒らを注意することなく淡々と授業を進めている。

生田衣梨奈もその例外ではなく、春の陽気に誘われて夢の世界に走りそうになっていた。
必死に眠気と闘ってはいるものの、黒板に書かれた意味不明な言葉と、お経のような古典教師の声は、さながら子守唄にしか聴こえない。
ふとノートを見ると、文字と呼べるものはなく、ただそこにはミミズが生息しているだけだ。
瞼も重くなり、段々と閉じかかっている。このまつ毛の上になにか生物が乗っかっているのではないかと勘違いしてしまいそうになる。
さしずめ、「ねむねむ」という名の未確認生物だろうか。

そんなくだらないことを考えてしまうほど、衣梨奈は眠かった。

―いかん、眠い……

衣梨奈はシャーペンを回す手を止め、気分転換に窓の外でも見ようと視線を動かした。
すると衣梨奈の瞳は、自分の左隣に座っている譜久村聖を映していた。
彼女は寝てはいないようだが、授業も真面目には聞いていないようである。ノートを取るペンの動きは止まり、その目線は確かに窓の外に向けられている。
いったい彼女の瞳は、なにを映しているのだろう。

―聖は可愛いっちゃねぇ…

衣梨奈は、ふいに、そう想った。
なにが、とは分からない。なにを以ってしてそう感じたのかは定かではない。
しかし、暖かい春風に髪を揺らし、ぼんやりと外を見つめるその瞳に、衣梨奈の胸が締め付けられる。
ただ純粋に、衣梨奈は彼女を「可愛い」と、想った。

このままずっと彼女を見ていたいと思ったが、さすがにそれはいろいろと問題なのでやめておくことにした。
ただでさえ、人を目で追いかけるクセがある衣梨奈にとって、聖を追いかけるのはさすがに危険だった。
クラスメートから日常茶飯事にからかわれるのは慣れたが、変にストーカー呼ばわりされてはかなわない。
137 :春の約束 :2012/04/20(金) 04:57
衣梨奈が視線を黒板へと戻そうとしたそのとき、窓から入り込んできた風が衣梨奈の前髪を揺らした。
ふわりと暖かい香りを運んだ風は、衣梨奈の心を通り過ぎ、ふいに優しくさせた気がした。


瞬間、衣梨奈の目の前に海が広がった。
真っ青で、光に照らされてキラキラと輝くその海が、眩しくて、美しかった。
突然現れた海であったのに、衣梨奈はなぜか、臆することはなかった。
静かにやってくる波に誘われるままに脚を進め、冷たい水に体を任せてみた。
ふわりと衣梨奈の体は水に浮かび、海の上を漂っていく。心地良い感覚を覚えると、ふいに記憶が邂逅する。

頭に浮かんだ記憶の断片。
そこにはいつも、あの4人の笑顔があった。
この中学校のひとつ下の学年にいる鞘師里保と鈴木香音、そして同じクラスの聖と衣梨奈の4人は幼馴染だった。
昔から、あの4人で夕方まで遊んでいたっけと衣梨奈は思い出した。
いつだったか、4人で鬼ごっこをしたときのことをぼんやりと思い返す。

そのとき、鬼になった衣梨奈は、聖と香音をあっさりと捕まえて、里保を追った。
4人の中でいちばん脚が速く、運動神経も良いと自負していたので、早く里保を捕まえたかった。
というよりも、単に聖に良い格好が見せたかっただけのような気もする。
とにかく衣梨奈は、里保を必死に追い駆けたが、負けず嫌いの彼女をなかなか捕まえることができず、広い公園をずっと走り回っていた。
それはもう、早々に捕まった聖と香音が飽きてしまい、砂場で遊び始めてしまうくらいの長時間だ。

「いい加減に捕まるっちゃ里保!」
「えりぽんになんか捕まらないよー!」

そんな言い合いをして、息が切れながらも日が暮れるまで走り回っていたことを衣梨奈は思い出す。
里保はちっとも可愛げがないっちゃね、昔から。

そう苦笑しながら、再び記憶の海を泳いでいく。
4人で遊んでいると、里保は常に聖の隣をキープして、よく衣梨奈とケンカになっていたような…
その度に香音が「ハイハイ、ケンカしちゃダメなんだろうね」と仲裁に入っていた気もする。
どちらが高く木に登れるかとか、どちらが速く走れるかとか、つまらないことで張り合っていたけど、
それらは全部、聖に良い格好を見せたかっただけじゃないかと衣梨奈は思い返した。

ちなみに、木登り対決のときはふたりして高く登ったは良いものの、怖くて降りることができず、聖と香音に親を呼んできてもらったものだった。
勿論そのあと、親にこっぴどく叱られ、またふたりでケンカしていた気がする。
138 :春の約束 :2012/04/20(金) 04:58

―成長しとらんね、あの頃から…


そう、衣梨奈は苦笑した。
長い間、4人でいっしょに時間を過ごしてきたけど、全く変わっていないんだなと思う。

だけど、いつまで、このままでいられるだろうとふと思った。
同じ中学に入学したけど、これから自分たちはどんな風になっていくのだろう。
里保の頭の良さなら、県下随一の進学校だって入れるだろうし、香音だって充分に目指せるくらいの学力はある。
聖はさほど頭は良くないけど、元々お嬢様だし、女子校に進学ってことだって考えられる。

ケンカも多かったけど、この4人で居ることは好きだった。
いつもくだらないことを言い合っていた4人が好きだった。
別に、だれかが引っ越すわけでもない。このままエスカレーター式に高等部に進学する可能性がいちばん高いことだって分かっている。
だけど、ふいにこんなことを考えるのは、春だから、だろうか―――


「じゃあ委員長、号令を」


古典教師の声に衣梨奈はハッと我に返る。
気付けば授業終了のチャイムが校内中に鳴り響いていた。
委員長の挨拶に従い、衣梨奈は慌てて立ち上がった。

先ほどまで浮かんでいた海はもうなくなっている。
衣梨奈はすっかり浜辺に打ち上げられ、ただひとり佇んでいた。

記憶の扉はもう、閉まっていた。
139 :春の約束 :2012/04/20(金) 04:59
「聖、帰ろっ」

帰りのHRのあと、カバンを肩にかけて聖に話しかけると、彼女は優しく笑って立ち上がった。
そしてふいに窓の外を見る。授業中にも思ったが、彼女はいったい何を見ているのだろう。
なんとなくそれが気になった衣梨奈は、「聖はさ…」と声に出した。

「なにを、見とーと?」

衣梨奈に聞かれ、聖は少しだけ困ったように笑ったあと、「あれ」と指差した。
彼女の細い指の先には、校庭に立った数本の桜の木があった。
先週に見頃を迎えた桜だが、先日から降った桜散らしの雨のせいで、もう随分と、花はなくなっている。
葉桜と呼ぼうにも、すっかりピンク色を纏っている様子はなくなっていた。

「えりぽん、覚えてる?」
「…なんを?」
「去年…じゃなくて一昨年かな。聖たちが中学に入学する前にお花見したじゃん、4人で」

そう言われて衣梨奈は再び、記憶の扉を開ける。
一昨年の春?お花見?4人で…?
いくつかの情報を頼りに扉を開けると、ひとつの過去に行きついた。

そうだ、中等部に入学する直前の春休み、衣梨奈たちは4人でお花見をした。
手作りのお弁当を片手に、近所の公園に行って、日が暮れるまでくだらない話をしていたんだっけ。
でも、どうして急にそれを聖は言い出したのだろうと、衣梨奈は彼女を見つめる。

「またお花見しようねって約束したの、覚えてる?」

その彼女の言葉に、衣梨奈はハッとした。
覚えている。そうだ、あの日、確かに約束した。またこの4人でお花見をしようと、約束を交わした。

だけど、去年は結局、その約束は果たされなかった。
別になぜか理由があるわけではない。ただ、里保と香音が中学生になるにあたり、その準備で忙しかったのは事実だ。
衣梨奈と聖も、2年生に進級する直前にあった試験勉強をしていたので、時間がなかったこともある。

でも、時間をつくろうと思えばつくれたはずだ。
逢おうと思えばいくらだって逢えたはずだ。
それなのになぜか、そうしなかった。
140 :春の約束 :2012/04/20(金) 04:59


どうせ、いつでも逢えるからと考えたからだろうか。


そして今年も、もう花見の時期は終わりを告げようとしている。
その理由もまた、いつでも逢えるからというものなのだろうか。
「また」とか「いつでも」なんて、そんな未来の確証、あるはず、ないのに―――


それとも、他愛のない約束なんて、もうだれも、覚えていないからなのだろうか。


確かにそれは、他愛のない、小中学生の交わした些細な約束なのだけれど、どうしていま、急に思い出したのだろう。
なぜ、果たせなかったその小さな約束に、拘ってしまうのだろう。
そんなの、どうだって良いはずなのに。
別に誰かがいなくなるわけじゃないのに。いまだって、こうしてみんな、此処にいるのに。


それは、春だから?
春という、出逢いと別れの季節がそうさせるから?
それとも、咲いては散り、そして再び咲く桜の切なさが、無性に感傷的にさせるから?


衣梨奈は自然と、右の拳を握り締めていた。
どうしてだろう?どうして、どうして、どうして―――?
考えたって、答えは出ない。
だけど、この胸につっかえた「なにか」があるままでいて良いわけがない気がした。
唐突に、無性に、そう、本当に、突然に、だ。
141 :春の約束 :2012/04/20(金) 05:00
「……まだ、出来るっちゃよ」

衣梨奈は聖の手を取り、教室を飛び出した。
聖は突然の彼女の行動に驚きながらも、彼女に引っ張られるままに廊下を走っていく。
靴箱に辿り着くと、そこにはいままさに帰らんとする里保と香音がいた。

「あ、えりぽん、聖ちゃん」

軽く微笑みながら靴を取り出す香音の横には、眠そうな顔をする里保がいた。

「なんで走ってんの?塾とか?」

里保も香音に倣って靴を取り出している。
なんて良いタイミングと思いながら、衣梨奈はふたりに「お花見するっちゃよ!」と声をかけた。
唐突なその提案にふたりは揃って「はぁ?」と返す。
しかし、そんな彼女たちを無視して、衣梨奈は早く早くと急かし、靴箱を飛び出した。

「ちょっと、えりぽん!」

その背中を慌てて追いかける聖を、ぽかんとふたりは見つめていた。
全く意味が分からない。
なんでお花見なのだろう?もう時期は終わりそうだというのに。説明不足も良いところだと思う。

しかし、頭の片隅になにかが掠める感覚を里保は覚えた。
あれ、前にもそんな約束しなかったっけ?と記憶の扉を開けようとするが、どうしてもそれは開かない。
開くのを待っていては、もう、あのふたりには追いつけない気もした。

「行こうよ、里保ちゃん」

すると既に靴をはき終えた香音は、いつものように屈託なく笑い、里保に手を差しのべていた。
その笑顔は、小さい頃から全く変わっていなくて、里保も自然と笑顔になれる気がした。
そうだ、こんな感覚、昔もあった。
ちょっとだけ背の高いあのふたりの背中を追いかける、懐かしい感覚。
あの背中に追いつきたくて、日が暮れるまで必死に公園を走り回っていた、あの日―――

里保はクスッと笑い、香音の手を取った。
そのままふたりは走り出し、数メートル先を行く彼女らの背中を追い駆けた。



そして4人は並んで、いつかの公園へと走り出す。
暖かい春の風が吹く空の下、些細な約束を果たすために―――
142 :雪月花 :2012/04/20(金) 05:01
なんか夜中に衝動的に思いついたので穴がありまくりで申し訳ないです…
9期もいつかそれぞれの道を行くんでしょうけど、同期の絆とかは変わらないでいてほしいです。
6期が最強と言われたように、9期もそうなってほしいなっていうファンの戯言ですw

ガキさんが卒業するまでにまた投下できればと思っています!
ではまた!
143 :名無飼育さん :2012/04/22(日) 05:44
れなえりも良いけど、これは9期らしさが出てて好きです!
のんびり待ってますよー
144 :名無飼育さん :2012/04/22(日) 23:57
遅ればせながら「Only you〜」の完結おめでとうございます。
絵里とれいなに感情移入して涙することも多々ありました。
最後には2人幸せになってくれてよかった。エピローグのお話も心がほっこりしました。

欲を言えば、2人の初めての夜のお話も読みたい気持ちもありますが、作者様の気分にお任せします。

とにかく素晴らしい作品をありがとうございました。


145 :名無飼育さん :2012/04/23(月) 13:48
青春くさい話大好きです。
9期の4人も個性豊かで元気で大好きです。
146 :名無飼育さん :2012/05/06(日) 16:38
9期メインも好きですよ〜。いつか雪月花さんの10期メインが見られることも期待してますw
もちろんれなえりも、いただいちゃった話も待ってますw
でも無理せずにがんばってください!
147 :雪月花 :2012/05/08(火) 02:45
愛佳の卒業発表があり、急遽中野に参戦してきました雪月花です。
彼女がいちばんツラいんだろうなと思っていますので、とにかく武道館まで精一杯応援していきます!


>>143 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
果たしてちゃんと9期らしいフレッシュな感じが出てますでしょうか…?まだ掴みきれてないので不安です
れなえりものんびり待っていて下さいw


>>144 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
泣いていただいて嬉しいやら照れくさいやら…でも多くの方にこうして愛していただいて本当に嬉しいです!
初めての夜ですか……なんかあのふたりの話ってリアルのれなえりより難しい気がするので期待しないでまったり待ってて下さいw


>>145 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
9期は青春ドストライク世代なので書いてみましたw ホントに元気いっぱいだし可愛いしでこれからも楽しみな4人です!
また遊びに来て下さいね〜


>>146 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
10期はさらにキャラが掴めてないので難しいですがいつか書けたら良いなと思っています。一応構想はあるのでw
いただいちゃった話…なぜこんなに需要があるのだ?みんなエロいのが好きなのか?ww き、気長に待ってて下さいw


今回もれなえりではないです。勢いで書いた光井さんと亀井さんのお話です。
148 :優しい雨 :2012/05/08(火) 02:46
いつからとか、どうしてとか、考えたくもなかったけれど、その笑顔を見ると、伝えてしまいそうになる―――


「久しぶりー」

ドアを開けた瞬間に飛び込んできた笑顔に、愛佳も同じように笑顔を返した。
1ヶ月ほど前にふたりで食事に行ったのだから、さほど「久しぶり」というわけでもないが、
それでも、いままでずっと同じグループに所属していたあの頃に比べれば、確かに「久しぶり」だろうなと思う。

「どうぞ、上がって下さい」

そうして招き入れると、絵里はパンプスを脱ぎ、そのまま愛佳の部屋へ歩いていく。

「オレンジジュースで良いですか?」
「おー、さすが。分かってるねぇ、みっつぃー」

嬉しそうに絵里が応えたのを確認すると、愛佳は冷蔵庫を開ける。
彼女が今日、此処へ来ることが分かったのは昨日のことだった。
昨夜、「明日って空いてる?」というメールを絵里から受け取った愛佳は、大袈裟に肩を竦めながら返事をした。
そのあと、わざわざコンビニに行ってオレンジジュースを買ってきたのは、気遣いではなく、ただの、恋なのではないかと苦笑した。

「相変わらずきれーだよね、みっつぃーの部屋って」

オレンジジュースを両手で受け取った絵里はカーペットに腰を下ろすとそう答えた。
正座を崩したような女の子特有の座り方に、思わず可愛いなぁと思いながら、愛佳はベッドへと座る。

「亀井さんの部屋が汚すぎなんですよ」
「えー。絵里だって最近はがんばってるんですよ?」
「亀井さんのお母さんが、じゃなくてですか?」

図星だったのか、絵里は誤魔化すように「うへへぇ」と笑うと、オレンジジュースを大事にそうに飲む。
まったく、自分よりも年上のはずなのに、ちっともそういう風に見えないのなぜだろうと愛佳は思う。
149 :優しい雨 :2012/05/08(火) 02:47
「みっつぃーってさ…」

そうして絵里は話を切り出した。
その声は先ほどまでのふざけたような色を一切含んでいなくて、愛佳は彼女の真意をなんとなく理解する。
絵里が此処に来たのも、たぶん、「そういう意図」があったからなのだろう。

「真面目、だよね」
「そうですかね?」
「それでもって気遣い屋さんでしょ」

そういうことはよく言われてきた。
モーニング娘。の中でのいわゆる常識人キャラであり、気遣いのできる人。
別に意識してそういう風になった訳ではないが、気がつけば、自然とそんなキャラクターになっていた。
だが、愛佳自身はそう考えることは少なかった。
それはひとえに、自分よりももっと優しく、気を遣える人が身近にいたからだった。

「亀井さんの方が、気遣いできる人ですよ」

愛佳から見て、絵里は不思議な人だった。
自分よりも4つも年上なのに、言動は基本的にフワフワしているし、なにを考えているかもよく分からない。
ラジオやイベントで同じチーム分けされたときは、後輩である愛佳を頼ってくるような人。
ステージ上ではキラキラ輝きを放ち、少年のように駆け回っていたのに、その場所から降りた途端に俊敏さを失う。
あの場所になにを忘れてきたんだろうという姿が、愛佳には不思議で、それでも愛しく想った。
優しくて、周囲に光と笑顔を与えるその姿は、愛佳にはできないことで、それが羨ましくもあった。
150 :優しい雨 :2012/05/08(火) 02:47
「……そういうところがさ」

絵里はそう言うと、半分以上残ったオレンジジュースのグラスをテーブルに置いて立ち上がる。
愛佳がきょとんとしているのも束の間、絵里は愛佳の横に座る。
絵里は愛佳の瞳を真っ直ぐに見つめている。絵里の瞳は黒くて大きい。その輝きに見つめられると、思わず息を呑んでしまう。

愛佳がなにも言えずにいると、絵里の香りに包まれた。
ふわりとした柔らかい感触が広がり、なにが起きたか理解するまで時間を要した。
絵里が愛佳を抱きしめているということに気付いたのは、絵里の腕が愛佳の背中に回ったときだった。

「絵里は心配なんだよ?」

絵里の優しい声が降って来た瞬間だった。
愛佳はたったそれだけのことで体が震えた。
平坦なひと言に隠された、絵里の優しさや気遣い、メンバーへのどうしようもない想いが伝わってきた。
暖かなオレンジ色の温もりは、一瞬にして愛佳を包み込み、優しい雨を降らせて頬を濡らす。
自分の瞳から涙が零れ落ちたのに気付いたのは、その直後のことだった。

「……亀井、さんっ……」

なにか具体的に言われたわけでも、まして怒られたわけでもない。
そこには、慰めも、同情すらなかった。ただそこにあったのは、絵里の心からの想いだけだった。
愛佳のそれとはベクトルの違う想いであったとしても、愛佳は確かに絵里の想いを知った。
彼女はどうしようもないほどに、メンバーを愛し、モーニング娘。を愛している。
だからこそ彼女は、仲間が窮地に立たされたいま、此処に来たのだ。

「……気付いてあげられなくて、ごめんね」

絵里の苦しそうな声に、愛佳は首を振った。
ぎゅうとその背中に腕を回し、絵里の肩に自分の顔を押し付けて涙を零した。
151 :優しい雨 :2012/05/08(火) 02:48
---
152 :優しい雨 :2012/05/08(火) 02:48

愛佳が昨年5月9日に負った「左距骨疲労骨折」という怪我。
その日から今日まで、さまざまな治療を試み、怪我の回復に努めてきた。
モーニング娘。としての活動も一時的に休業し、静養してきたおかげで、11月には松葉杖なしで歩けるようにまで回復した。
完全復活できると信じ、ひたすらに治療をしてきたが、今年4月23日に受けた診察で事態は変わった。

「日常生活に問題はない」が、「以前のような激しい運動をすると再発する可能性が否めない」という診断。

いつかまた、あの輝くステージの上に立てると信じてきただけに、その診断結果に愛佳は悩んだ。
自分がこれからどうするべきか、どうありたいのか、どうしていきたいのかを19歳の彼女は必死に考えた。


そして選んだのが、「卒業」という結論だった。


しかし、その卒業の時期がもうひとつの波紋を呼んだ。
愛佳が卒業する2012年の春ツアー最終日である5月18日は、現リーダーである新垣里沙の武道館卒業コンサートだった。
その日に愛佳も同時に卒業するということがどういう意味を持っているか、愛佳は重々承知だった。
それによって、メンバーやファン、そしてなにより、里沙本人がどういう気持ちになるかも、知っていた―――
153 :優しい雨 :2012/05/08(火) 02:49
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154 :優しい雨 :2012/05/08(火) 02:49
「…だいじょうぶだよ」

ふいに降って来た優しい声に愛佳は思わず顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を見せたくなかったので、ごしごしと目をこすると、絵里は愛佳の体をいちど離し、その手を取った。
絵里は切なそうに、それでも優しそうな表情のまま、愛佳を見つめて言葉を渡した。

「みっつぃーがそんなに心配しなくても、ガキさんはちゃんと、分かってるから」

絵里の言葉に愛佳は目を見開いた。
愛佳は絵里に、なんどか足のことで相談したことはあった。先日食事に行ったときも、その話題になり、絵里は優しく話を聞いてくれた。
しかし、卒業を発表してから絵里に逢うのは今日が初めてであり、いまのいままで、いちども里沙のことは相談していなかった。
それなのに絵里は、愛佳の気持ちを汲み取った。

心に渦巻いていた黒くて大きな闇。愛佳のすべてを呑み込んでしまうほどの虚無の空間は、心を蝕んだ。
10年以上もモーニング娘。に在籍し、メンバーを引っ張って来たリーダーの里沙。
前リーダーで同期でもある高橋愛との同時の卒業も考えたが、新メンバーである9期10期のことを考慮し、娘。に残ることが決まった。
娘。を愛し、人一倍の努力で闘ってきた彼女の晴れ舞台、それが5月18日の武道館だった。
そんな里沙を温かく送り出す側として、愛佳は春ツアーのパフォーマンスを行ってきた。
しかし、それが2週間前になった急遽立場が変わり、同じく送り出される側へとなった。リーダーの里沙と、同じ日に、同じ場所で。

動揺・混乱・困惑・混迷・驚嘆…さまざまな感情がメンバー間でも入り乱れた。
その中には、怒りも当然のように含まれているはずだった。
愛佳は瞬時に里沙のことを考えたが、彼女の顔を、真正面から見ることは叶わなかった。
怒りをぶつけられる方が良かった。どうしてこの日なのだと、どうしてこの場所なのだと、怒鳴られた方が良かった。
しかし、里沙はそうしなかった。しばらくの沈黙のあと、黙って愛佳の頭を撫でた。
その瞳には、微かな涙が浮かんでいて、愛佳はなにも言えなくなり、ただ彼女に撫でられるがままになっていた。

里沙が怒鳴らなかったからと言っても、その心中が穏やかでないことくらい分かっている。
実際に彼女が怒っているかどうかは定かではないが、少なからず混乱していることは確かだった。
その混乱を引き起こしてしまったことが堪らなく申し訳なくなった。
自分の足のせいで、というよりも自分のせいでせっかくの卒業コンサートを壊してしまうことが。
一生に一度の機会を台無しにしてしまうのではないかと、愛佳はだれにも言わずに、その胸の内で葛藤し、塞ぎ込んだ。
155 :優しい雨 :2012/05/08(火) 02:50
そんな愛佳の前に、絵里はやって来た。
いつものだらしのない笑顔を引っ提げて、フワフワした空気を携えて彼女は現れたのだ。

「気持ちの整理は必要だけど、ガキさんだって、みっつぃーの気持ち、ちゃんと分かってるから」

絵里はそう告げると、あのときの里沙と同じように頭を撫でた。
そう、彼女はこういう人なのだと愛佳は理解する。


2011年の春ツアーで、道重さゆみが地元・山口でコンサートをした際に、アンコール後のMCで語ったことを愛佳はふいに思い出した。
それは、彼女らが加入して間もないころの話。
同期の田中れいなが地元・福岡でコンサートをしたときに、会場は水色のサイリウムで埋め尽くされ、れいなコールで沸いた。
大成功だった公演のあとに、さゆみの山口公演が控えていた。
れいなのときは大成功だっただけに、さゆみは不安だった。
ファンの方はさゆみの地元でどのような反応をするのだろうと。自分は受けいられないのではないかと不安に苛まれた。
だが、絵里はそんな彼女の不安をなにも言わずに汲み取った。

―――「いま、さゆが心配してることは、心配しなくても良いことだよ」

たったのそれだけで、さゆみは不安から解放された。
自分からなにも言わずに同期が理解してくれたこと、傍にいて、不安を軽減してくれたことが堪らなく愛しかったとさゆみは語っていた。


そのさゆみの気持ちが、愛佳には分かる。
絵里はなにも言わずとも、愛佳の気持ちを、想いを汲み取った。
同い年の先輩である、大の仲良しの里沙の気持ちを絵里は知っている。知っているからこそ、絵里は愛佳の心に優しく舞い降りた。
だれも悪くないのだと、絵里は愛佳に語りかける。
愛佳の心に寄り添い、そこに巣食った大きな闇に確かな光を呼び込んだ。

亀井絵里は、そういう人なのだ。
そういう人だから、亀井さんの方が優しくて気遣い屋さんなのだと、愛佳は改めて、思った。
156 :優しい雨 :2012/05/08(火) 02:50
「背負いこまないでいいから」
「え?」
「みんな、いるから」

そうして微笑んだ絵里に、愛佳はどうしようもなく胸が痛んだ。
絵里自身、肌を直したい、体質改善をしたいと体の声に耳を傾け、闘っている。
卒業を決めるその瞬間まで、絵里は孤独の中で闘い、そしてメンバーに発表した。

いつだって、そう。
絵里は自分のことは二の次で、周囲の人間の想いに応え、シアワセを降らせていた。
自分の痛みを背負いこんでいたのは絵里なのに、いまもなお、絵里は愛佳のことを心配している。

そういうところが………

「ありがとう、ございます…亀井さん」

愛佳は精一杯、微笑んだ。いまの自分には、それしか出来そうになかった。
この優しさを踏み躙りたくないから、正しく応えられないかもしれないけれど、愛佳は笑った。
涙でぐしゃぐしゃになりながらも、精一杯に笑う愛佳を見て、絵里もまた優しく微笑んだ。

舌っ足らずで、テキトーで、年上なのに頼りない人。
それなのに、だれよりもシアワセになってほしい、優しい人。

いつからとか、どうしてとか、考えたくもなかったけれど、その笑顔を見ると、伝えてしまいそうになる。


亀井さん、あなたのことが、どうしようもなく、好きですと―――


愛佳は心に浮かんだその声を発することはなく、最後の最後までフタをすることに決めていた。
自分の気持ちを汲み取り、闇に光を射してくれた彼女に、これ以上なにを望むというのだろう。
これ以上、彼女を困らせてはいけない。報われないこの恋に、絵里を巻き込んではいけない。
どうしようもないほどの優しさをくれた絵里に、「ありがとう」以上の言葉は必要ないのだと、愛佳は微笑んだ。
157 :雪月花 :2012/05/08(火) 02:55
勢いで書いたので穴開きまくりで申し訳ない…
ガキさんと愛佳の間でどういう話があったのかとかは分かりませんが、とにかくふたりとも温かく送り出したいです。
愛佳は絵里のことを尊敬してるんだろうなって感じがしたので書いてみました。意外と好きな組み合わせなんですこのふたり

Σ从;` ロ´)

暗い話もあれなので、今度は明るい話を投下できればと思います、ガキさんと愛佳卒業までに。
ではまた!
158 :名無飼育さん :2012/05/10(木) 00:06
個人的に大好きな2人の組み合わせです。光井さんが6期の中で本音を出せたのは、実は亀井さんだった、  
そんな気がします。亀井さんも実は気持ちを出すのが不器用な光井さんを理解しているのも。

あんなに気持ちが落ちた卒業をまた味わうとは、思いもよりませんでした。だからこそ彼女の将来が
青空がいつまでも続くような未来であってほしいです。
159 :名無飼育さん :2012/05/12(土) 08:45
リアルだなぁ
こんなことが本当にあったんじゃないかと思える
160 :雪月花 :2012/05/17(木) 02:03
日を跨いだので武道館はもう明日ですね…切ないです、雪月花です。
完全燃焼してほしいなあふたりとも…とにかく温かく送り出したい。


>>158 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!同志が居て嬉しいですw
愛佳の変化にすぐに気付いてくれたのが絵里だったとか……お互いに気遣い屋だからこそ、なにか分かる部分もあったのかもしれないですね
彼女がどうなっていくかはまだ分かりませんが、本当に優しい未来が続いていくことを願っています

>>159 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
夜中の勢いで書いたものですが、そう言っていただけて嬉しいですw
あまり上手い方ではありませんが、今後もちょくちょく遊びに来てくれると嬉しいです


今回も勢いで書いたものを投下しますw
しょーもないですw
161 :やくそく :2012/05/17(木) 02:04

泣いている女の子が目の前にいた。
あんまり彼女が泣くものだから、そっと頭を撫でてやって小指を突き出した。

「ぜったい、また、あいにいくから!」

そうして彼女とひとつの約束を交わしたんだ。夕日が沈みかけた公園で、あの日―――
162 :やくそく :2012/05/17(木) 02:05

---
163 :やくそく :2012/05/17(木) 02:05

飛行機が離陸し、10分が経過した。ベルト着用サインが消えたと同時に田中れいなはシートベルトを外す。
窓から外を見ると、どんどん街が小さくなっていく。
自分が長年育った街、福岡から離れていくことに多少の寂しさは覚える。別に、永久にサヨナラするわけでもないのに。

れいなはひとつ息を吐いてから足元に入れておいたカバンの中を漁る。
手帳の一番後ろのページに仕舞っておいた写真をぼんやりと眺めた。
そこには、幼稚園児のれいなが映っている。そして隣には、同じ幼稚園だった女の子がいる。名前はもう、思い出せない。


れいなは両親の仕事の都合で幼少期を東京で過ごしたあと、福岡へと引っ越した。
5歳で東京を離れてから8年、れいなは福岡から離れたことはないため、福岡の方言が身についた。
れいなには東京で過ごした「記憶」はほとんど残っていない。
だが、断片的に覚えているいくつかの記憶の中には、ある女の子の笑顔があった。
164 :やくそく :2012/05/17(木) 02:06

れいなには仲の良い良い女の子がいた。
たまたま家が近所だったのか、幼稚園でクラスが同じだったのかはは覚えていないが、れいなはその子と毎日のように遊んでいた。
公園に行っては砂場で山をつくり、滑り台をなんども滑り下りたり、ブランコを高くこいだりと、日が暮れるまで遊んだ。

あるとき、その子の帽子が風に飛ばされ、木の枝に引っ掛かってしまったことがあった。
女の子は「どうしよう…」といまにも泣きそうな顔をしていた。

「お母さんに…買ってもらったばかりなのに……」

自分では登ることはできないその木を見ながら、その子はぎゅうとスカートの丈を握り締めた。
れいなは意を決し、「取ってくる!」と叫んだかと思うと、泥だらけになりながら木によじ登った。

「え、でもっ!」
「だぁいじょーぶ。任せて」

れいなはそうして笑顔を見せて、枝を掴み、上へと登っていく。
高い所は特別、得意でも不得意でもなかったが、れいなはその子のために必死に登った。
だが結局、帽子は取れたは良いものの、あまりの高さに足がすくみ、降りられなくなってしまった。

その子は「待ってて!」とれいなの母親を呼びに行き、泣きながられいなは木から下ろされた。
そのあとこっぴどく母親には叱られ、またれいなは泣いてしまったのだが、それは、その女の子にカッコ悪い所を見せた自分への悔しさもあったのかもしれない。
165 :やくそく :2012/05/17(木) 02:07

それから数ヶ月ほど経ったある日、れいなは福岡へ引っ越すことが決まった。
れいなが引っ越してしまう前日、その女の子は泣きだした。
引っ越すのはヤダ。遠くに行くのはイヤと、駄々をこねて泣きだした。
自分の力ではどうすることもできなかったれいなは、そのとき、ひとつの約束をした。

「ぜったい、また、あいにいくから!」

そうしてれいなは指切りをした。
絶対にまた逢いに行くという、無謀とも言える約束を交わした。
166 :やくそく :2012/05/17(木) 02:07
名前も、住所知らない女の子。たった一枚だけ残った写真を見ても、彼女の名前は思い出せない。
母親に聞いても、だれだか分からないと言われ、れいなはほとほと困った。

幼い頃に交わした遠い約束。

それがほぼ無意味であることくらいれいなにも分かっていた。
他愛のない、幼い日の自分がしたことなんて、無効にも等しい。

なのになぜか、れいなは彼女に逢いたくなった。

8年前、泣いている女の子の頭を撫でたときから、それよりももっと前から心に引っかかっていた不思議な気持ち。
それがなんだか分からないのだが、れいなは彼女に逢いたくなった。


そんな中で知った、ある人気グループのオーディション。
もともと歌手になりたいと思っていたれいなは、このオーディションを受けることにした。
絶対に合格したい。あのグループで一緒に歌って踊りたい。
その強い想いは、れいなを最終審査まで連れて行った。

いま、れいなは、そのオーディションの最終審査に参加するため、生まれ育った福岡から離れ東京へと向かっている。
オーディションを受けたのは、間違いなく、歌手になるためであった。
だが、心の片隅では、こうも思っていた。


東京に行けば、有名になれば、彼女に逢えるのではないかと。


―国民的人気グループ、モーニング娘。

その名を知らない人はいないし、今回の最終審査の模様も全国で放送される。
もし、そのテレビを、彼女が見ていたとしたら?
そんな淡い期待をれいなは何処かで抱いていた。
167 :やくそく :2012/05/17(木) 02:07

―って、もう覚えとらんよな、さすがに


れいなは写真を手帳に仕舞い、苦笑した。

8年も前の約束、しかも子どものした他愛のない約束だ。
こっちが名前すら覚えていないというのに、向こうだって忘れているかもしれない。
というよりも、忘れている方が正常であるとも言える。

そもそも、逢ってどうするというのだ。ただ、なんとなく逢いに来ました。なんて話は滑稽すぎる。
8年も逢わない間に顔だって変わるし、性格だってまるきり違う方向になっているかもしれない。
こっちが覚えているだけで、向こうが「あなた、だれ?」なんて言ってしまえば、もうそこで話は終わりだ。

まるっきり、くだらない。
無意味な約束を果たすなんて、バカバカしすぎる。


そう、くだらないと頭では思っているはずなのに、れいなは彼女のことを忘れられなかった。


目を閉じれば思いだす、あの日に見た彼女の涙を―――
168 :やくそく :2012/05/17(木) 02:08

---
169 :やくそく :2012/05/17(木) 02:08

「ふぇっ…れーなと、はなれるの、やだぁ…」

彼女は大粒の涙を流し、しゃくりあげながら言う。れいなは困りながらも彼女の頭を撫でてやった。

「ごめん。でも、れなもさみしい」

そうして慰めても、彼女は一向に泣きやまない。れいなは意を決し、小指を突き出した。

「ぜったい、また、あいにいくから!」

すると彼女は泣くのをやめ、きょとんとした顔を向ける。

「れな、ぜったいあいにいく。やくそくする」

れいなは彼女と小指を絡め、ほぼ無理やりに指切りをした。

―ゆーびきりげんまん うそついたらはりせんぼんのーます!

そう言いきると、彼女は涙をその瞳に溜めながらも、れいなに微笑みかけた。

「うん、まってるね、れーな!」

「うん。待ってて、え―――」
170 :やくそく :2012/05/17(木) 02:08

---
171 :やくそく :2012/05/17(木) 02:10
「間もなく飛行機は着陸態勢に入ります」

いつの間にか眠ってしまっていたれいなはキャビンアテンダントの声に目を覚ます。
目をこすりながら慌ててシートベルトをしめると、窓の外からは大きな街が見えた。
これが東京かとれいなはいまになって緊張してきた。

先ほど見た夢。
8年前のあの日に交わした約束。
れいなはボンヤリと思いだしていた。

そうだ、あのときれいなは、彼女の名前を呼んだのだ。
最後の最後に名前を呼んでバイバイと叫んだのだ。

そうだ、彼女の名前は―――



れいなが約束通り彼女に逢うのは、その2時間後のこと。


そして、ふたりが恋に落ちるのは、もう少し先のこと。


8年という長い間離れていたふたりは、それから8年以上も一緒にいることになる。
逢えなかった時間を埋めるように、ふたりは同じ道を歩き出す―――
172 :やくそく :2012/05/17(木) 02:11

-------

从*´ ヮ`)<っていう純愛ストーリーを考えたっちゃけど、ドラマ化とかならんかな?

从;・ 。.・)<はぁ……

从*´ ヮ`)<小さい頃に離れ離れになったふたりがまた再会する!しかも芸能界で!ぜーったい泣けるっちゃよ!

从;- 。.-)oO(いまどきこんなの売れるわけないの…れいなの頭は中学生レベルなの)


おわれw
173 :雪月花 :2012/05/17(木) 02:12
明るい話を投下したいと思って考えついたのがこんなしょーもなくて申し訳ない…
作者の頭はいつまでも中学生レベルなのですorz

ではまた!
174 :名無飼育さん :2012/05/17(木) 12:42
れなえりー!!
175 :名無飼育さん :2012/05/17(木) 12:58
作者さん、ふり幅広すぎw
こういう意味での中学生レベル嫌いじゃないです
176 :名無飼育さん :2012/05/23(水) 06:58
>幼い頃に交わした遠い約束。
こういう設定大好きです。
感動する話だな…と思ってたら
最後のれいなとさゆのコントで一気に力が抜けましたw
177 :名無飼育さん :2012/07/09(月) 06:07
一気に読ませていただきました!
懐かしい雰囲気の長編と新しい世代の短編とどちらも楽しめました。
れなえりももちろんですが、生ガキやぽんぽんも好きなのでまた更新を楽しみにしていますw
178 :雪月花 :2012/07/21(土) 17:21
ガキさん・愛佳の卒業からもう2ヶ月ですか…長々潜っていてすみません、雪月花です。
遂に6期が1番上の時代が来たんですね…なんだかしみじみします
さゆリーダーの娘。もガンガンに突き進んでほしいです!


>>174 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
れなえりーでございますw れなえり好きなんで今後もちょこちょこ書いていきたいです
もうちょっとクオリティ高いの書けたら良いんですがなかなか…w


>>175 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
微妙なオチで申し訳ないです…m(__)m ホントはもう少し膨らませたかったんですがムリでしたw
だいたい自分の作品は中学生レベルなので懲りずに見ていただけると嬉しいですw


>>176 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます! 微妙なオチで(ry
以前書いた9期もそうなのですが、約束っていう設定は自分も好きです。でも、たぶんこの2人にはそんな過去はないですねw
さゆごめんね、こんな役回りで……w

>>177 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
基本的にDDなのでいろいろ試して書きたいですw ただイチオシがれなえりなので贔屓目ですがw
最近はリーダーと時期エースの話も考えていますが内緒ですw
从*☆ 。.☆)ハァハァ... ノリ;´ー´リ ドキドキ...


今回もまた微妙な話です
主役は一応、鞘師さんですw
179 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:22
「りほりほ〜」

モーニング娘。8代目リーダーの声に振り返ると、彼女は既にアイフォンを構えていた。
鞘師里保はニコッと笑い、額の上でピースすると途端に彼女は嬉しそうに笑った。

「もー、りほりほはすべてが可愛いの!」

そうして彼女―――道重さゆみは満足そうに撮れた写真を眺め体をくねらせた。
里保は目を細めて笑う。さゆみのこういった行動はいまに始まったことではない。
慣れっこというわけではないが、以前より耐性は出来ている。

「みっちしげさーん」
「あー、まーちゃん!」

元気よく楽屋に飛び込んできた佐藤優樹は、勢いそのままにさゆみの背中に抱きついた。

「遊んで下さーい」
「もう、くどぅーはどうしたの?」
「どぅーなんて知らないです」

さゆみが優樹と同期の工藤遥の名前を出すと、優樹はあからさまに不機嫌になり、ふいと顔を反らせた。
また喧嘩したのだろうかと里保が考えていると、音楽を聴きながら田中れいなが楽屋に入ってきた。
180 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:23
「たっなかさ〜ん」
「えぇー、もうさゆみ終わりぃ?」

優樹はれいなのもとへ走り寄るとさゆみは冗談交じりにそう言った。
音楽を聴いていたれいなは優樹の姿を認めるとイヤホンを外し、柔らかく笑った。

「おー、お早うまーちゃん」
「お早うございます!田中さん聞いて下さい!まーちゃん学校の宿題まだなんです」
「いや、まだならさっさとやりぃよ」

れいなが変わったという意見はメンバーからも、ファンからも聞こえてくる。
それは里保もなんとなく理解していた。
以前のれいななら、こうして明るく後輩と話すことなんてしなかった。

れいな自身はひとりを特別好むわけでもないのかもしれないが、彼女の纏う空気は独特のものがあった。
加入当初からモーニング娘。を引っ張るエースであったれいなは、静かでそれでいて熱い空気を背負っていた。
ギラギラとなにかを滾らせ、隙あらば上に駆けあがれるように切れ味の鋭いナイフを忍ばせていた。
それはたぶん、他のメンバーにはあまりないものだったのかもしれない。

「ほら、くどぅーも宿題やっとるやん。いっしょにやりぃよ」

いつの間にか楽屋には遥が入ってきていた。
彼女は優樹には背を向けて宿題を始める。なるほど、ケンカの原因はこれだなと里保は察しがついた。

「えー、まーちゃん遊びたいです」
「いやいやちゃんと勉強しなきゃダメでしょ」

そこでさゆみがもっともらしくツッコミを入れると、優樹も渋々納得した。
181 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:23
遥の隣にちょこんと腰を下ろすと、カバンからくたびれたプリントを取り出す。
遥はなにも言わずにシャーペンを貸してやると、優樹は嬉しそうに受け取って「くどぅー見せてー」と言いだした。

―懲りてないなあれは……

「れいなー、昨日のドラマ見た?」
「あれまだ見とらんとよ。面白かった?」
「うーん、さゆみは微妙かなぁ」

里保はその声の方向にちらりと視線を向けた。
新垣里沙と光井愛佳卒業後、モーニング娘。の最年長は6期メンバーのふたりになった。
さゆみとれいなは全く違うタイプだが、10年いっしょにいるおかげか、コンビネーションは良い。

その要因のひとつとして、最近になってれいなの鋭さが鳴りを顰めたことが考えられると里保は思う。
10期メンバーの佐藤優樹の影響により、れいなは大きく変わった。
彼女は天然なのか、臆することなくれいなに飛び込んでいき、強引にその扉を開けさせた。
そしてれいな自身もまた、そんな優樹を受け入れた。
その理由が里保にはよく分からなかった。

「りほりほ顔怖いよ」

急に話しかけられ、里保はビクッと肩を震わせた。
隣にはさゆみがいて、アイフォン片手に楽屋の様子をムービーで撮影していた。
お願いですからその動画、どこにも流出させないでくださいねとは言わず、里保は「はぁ…」と返す。
182 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:23
「目が細いから、ですかね、怖く見えるの」
「うーん、それ以上になんか考え事してた?」

さゆみの指摘はなかなか鋭く、どう返したものかと一瞬悩んだ。
だが、あまり良い切り返しが思いつかず、困ったように里保は「ウフフ〜」と笑って見せた。
たぶん、愛想笑いはバレている。

「愛想笑い?それとも照れ笑い?」
「照れ笑いです」
「ウソだね、それ」

そうしてさゆみはアイフォンをこちらに向けるとシャッターを切った。
いつの間に動画から静止画モードに切り替えたのだろう。
この人のこういうところは全く以って侮れないなと里保はぼんやり思った。

「さゆみはりほりほのこと大好きだからなんでも分かるんだよー?」
「いやぁ……はぁ…」

里保はさゆみからこういうことをよく言われる。
その度に、どう返して良いのか分からなくなって困る。
それは別に、さゆみから好きと言われることが困るのではなく、だれかから「好き」と言われることそれ自体が困るのだ。

「へへ、飲み物買ってきます」

そうして里保は誤魔化すように笑って立ち上がった。
さゆみはそれ以上は追及せずに「はいはいー」と笑ってアイフォンに向き合った。
里保は楽屋を後にし、長い廊下を歩きだした。
183 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:24

―――さゆみはりほりほのこと大好きだからなんでも分かるんだよー?


先ほどのさゆみの言葉が頭によみがえる。
瞬間的に、どうしてだろうと、里保はふと立ち止まる。
モーニング娘。という職業をしている以上、表舞台に立って歌い、踊り、その輝きを多くの人に見てもらう。
見られるという仕事は、自分を認めてもらうことと同じだと里保は思う。
その過程の中、コンサートやラジオ、握手会等を通じ、「可愛い」とか「好き」とか言われることは多い。
そのときは当然、素直に「ありがとうございます」と返す。

だけど、と思う。
実際、自分の何処が良いのだろうと里保は思う。
目は切れ長だし、寝起きは悪いし、ダンスは確かに幼いころから経験していたが、それでも魅せるという意味ではまだ成長段階だ。
歌に関しても、パートは多いとはいえ、まだ先輩のれいなには技術も到底及ばない。

自分が次世代のエース候補と言われていることは分かる。
モーニング娘。の50枚目シングルとなる「One・Two・Three」ではセンターを任されているし、
昨秋に卒業したエース、高橋愛のパートの多くは里保が引き継いだ。
事務所からも、そしてファンからも期待されていることは分かる。それに応える必要があることも分かる。
エースとして担うべき重圧、自信を持って舞台に立ってパフォーマンスすること、それがいかに重要かも分かっている。

分かっているのに、里保には分からない。
なにがそこまで、「鞘師里保」に惹きつけられるのか。

自分の魅力とか、良い場所なんて、到底分からない。
先日卒業した光井愛佳のソロ曲に「私の魅力に気付かない鈍感な人」というのがある。
そうだとしたら、自分は鞘師里保の魅力にまだ気付いていない鈍感な人間なのだろうかと思わず苦笑した。
184 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:25
「サイダーないなぁ……」

里保はいちど思考を止めて自動販売機の前に佇む。
お目当てのサイダーはなく、なにを買おうかと物色をする。
珈琲なんてまだ大人な飲み物は飲めないし、お茶を買うのもなんだかなぁと考える。
この暑い中でホットを買うなんて選択肢はないし、でもココアのような甘くて喉の渇くものも……と暫く考えた。
飲み物ひとつでここまで真剣に悩むより、もっと考えるべきことはあるんじゃないかと思い、里保は苦笑する。
とりあえず、カルピスでも飲もうかと硬貨を入れてボタンを押した。ガタンという派手な音を立てて缶が落ちてくる。

「あれ?」

缶を手に取って里保は声を出す。
そこにあったのはカルピスではなく、オレンジジュース。しかも果汁100%ではなく、25%と中途半端。

「間違えた?」

確かにカルピスの隣にはオレンジジュースのボタンもあるが、間違えて押したのだろうか。
それとも、業者が間違えてカルピスの棚に入れてしまったのだろうか。
どちらにしても、まるで飲む予定のなかったものを買ってしまい、里保は眉を顰める。

こういうときに店頭販売であればすぐに交換してもらえるが、相手は機械、文句を言いようにも言えない。
わざわざもう1本買うのもなんだかバカバカしく、里保はこのままオレンジジュースを飲むことにした。
果汁は少ないくせに、糖分は多いのか、妙に甘ったるい。
里保は大袈裟に肩を竦め、目の前にある長椅子に座り、廊下を眺めた。だれもいない空間は当然ながら静寂が守られていた。
空虚とまでは感じないが、妙に寂しくなる。

目を閉じて耳に意識を集中させる。
静寂の向こうがわ、遠くでメンバーの騒ぐ声が聞こえた。
あの空間に戻りたいような、それでいて、戻っても、と考える自分がいる。
ひとりが好きというわけではない。
メンバーと話すのは好きなのだけれど、なんと言うべきか、卑屈になってしまう自分がいる。
もっと積極的に輪の中に入れば楽しいのだけれど、常に里保は、そこから一歩引いた場所に立っている。
それが自分の性格だということも分かっている。
185 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:25
「……鞘師ぃ?」

里保は上から降ってきた言葉に目を開いて顔を上げた。
そこには不思議そうな顔をしたジャージ姿のれいながいる。手には大きめの財布を持っていることから、彼女も買い物だろうかと考えた。

「寝とった?」
「いや、寝てないです」
「そっか。目閉じよったし、寝てたンかと思った」

そうしてれいなは笑い、里保に背を向けて自動販売機と対峙した。
鼻歌交じりに飲み物を物色している姿は、何処にでもいるような女の子だと思う。
ふと自分に目を戻す。
脚を開いてドカッと椅子に座り、オレンジジュース片手に目を閉じている姿は、「女の子」には程遠い。

「あれ?」

ガタンという音のあとに聞こえてきたのはれいなの少しだけ不機嫌そうな声だった。
里保はひょいと後ろから覗き込むと、彼女は出てきた缶と自動販売機とを交互に見比べていた。
もしかするとれいなも、違う商品が出てきたのだろうか。

「隣、良い?」

れいなは苦笑しながら里保にそう聞いてきたので、里保もこくりと頷く。
その手に握られていたのは、里保が最初に買いたかったカルピスだった。

「それ、間違えたんですか?」
「え?」
「私、さっきカルピス押したらこれが出てきたんですけど」

そうしてれいなにオレンジジュースを見せると、「そうやと?」と返ってきた。
186 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:26
「オレンジジュース押したらこれが出てきたっちゃん。なんね、入れ替わってとったっちゃね」

れいなはそう言うと、プルトップを上げて、一口飲んだ。
「まぁ、甘いの欲しかったから良いっちゃけんさ」と笑ってみせる。瞬間に見えた八重歯が綺麗だなと里保は思った。

「一口いる?」
「あ、すみません、ありがとうございます」

里保はそうしてれいなからカルピスを受け取る。
果汁25%オレンジジュースよりもよっぽど美味しくて、やはり正解はこっちだったなと思った。
そんなことを考えていると、隣のれいなはクスッと笑った。

「嬉しそうに飲むっちゃね」
「そう、見えました?」
「そう見えたっちゃよ」

里保はれいなに缶を返した。
自分では意識していない顔を見られたことは少なからず問題だなと思う。
特にれいなはプロ意識が高く、常に「見られる」ということを想定している。
里保自身、同じ場所に立っているのだから、もっと意識していかなきゃなと心に思った。

「つか鞘師、なんか考え事?」
「なんで、ですか?」
「いや、メッチャ怖い顔しよったし、さっきも目閉じよったし」

そうしてれいなが聞いてきたので、里保は再びどう返すべきかと考え始めた。
さゆみのときのように誤魔化す方法はもうない。
かと言って、自分の心の内を全て吐露すべきかどうかも、悩ましかった。
187 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:26
「道重先輩の愛情がウザいですか?」
「そんなことないですよ」

れいながからかうように聞いてきたので、里保は大袈裟に手を振ってみせた。
彼女もそれが本心だったわけではないらしく、喉をくつくつと鳴らして笑った。
ああ、こういう風に柔らかく笑うんだな、田中さんも。と、里保はぼんやりと思う。
自分がモーニング娘。に加入する前に観てきたDVDの中の彼女は、こんな笑顔を見せていただろうか?

「鞘師の悩みとか、メッチャ難しそうやねぇ」
「え?」
「あれ、悩みごと抱えてるとかそういう話やないと?」

れいなはカルピスを飲みながらそう答えた。
先ほどのようにからかっているような笑顔の奥には、何処か先輩としての風格というか、優しさも含まれていた。
高橋愛が卒業した秋ツアーの中で、れいなは少し変わったと話したことがあったが、里保にはなんとなく、その意味が分かった。
田中さんは以前よりも、少しだけ他人に踏み込むようになったんだ。

「田中さんって、自分が可愛いって思います?」
「……さゆの話?」
「違います、田中さん自身が、自分を可愛いとか好きとか思うことありますかってことです」

だから、だろうか。里保はれいなに踏み込んだ質問をしてみた。
どういう回答が返ってくるかとか、そんなことを計算したわけではない。
ただずっと、自分の中に引っ掛かっていたものを聞いてみただけだった。
里保には、鞘師里保の持つ魅力とか、惹きつけるなにかの理由が、よく分からなかったから。
188 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:27
「えー、れな結構、自分が可愛いとか思ってるンやけど」

さゆみはもちろん、Berryz工房の嗣永桃子などは自分が可愛いと吹聴している。
その度に、さほど可愛くないと言われるのが一種のネタのように扱われているが、れいな自身も同じように自分を可愛いと思っていた。
加入当初は、可愛くないから可愛くなりたいと言っていたようだが。

「まあさゆみたいにナルシストキャラには向いてないけんね」

そうしてれいなは「ニシシ」と笑い、カルピスに口付けた。
彼女の笑顔は優しくて、何処か里保はホッとする。肝心の悩みはちっとも解決しないのだけれど、なんとなく、そう感じた。

「鞘師は、自分が好きじゃないと?」
「え?」
「れなもさゆも、自分のこと大好きやけん、可愛いとか言うっちゃけんさ。鞘師はあんま、そういうのない?」

れいなに逆に質問され、里保は思わず頷いた。
好きじゃないというよりも、分からないという方が正解だった。
自分の魅力とか、可愛い所とか、好きな場所とか、本当に分からない。
歌もダンスもトークも、顔も性格も寝起きも、良い所なんて浮かんでこない。
さゆみに「りほりほ〜」なんて呼ばれて可愛がってもらえるのは嬉しいのに、どうしてかが分からない。

私のいったい、何処が良いんだと―――


「れなは鞘師ンこと、好きやっちゃけんね」


れいなは唐突に、里保に告白した。
彼女はさゆみと違ってそう言うことを軽く口にする人間じゃないので、里保は思わず眉を顰めた。
すると、里保の言わんとすことを分かったのか、れいなは笑って「好きって、そういう意味やなかよ?」と否定した。
189 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:27
「でも、鞘師はれなよりダンス確実に上手いし、歌やって成長しとぉし。なにより顔可愛いって思うっちゃよ」

真っ直ぐにそう伝えるれいなに、里保は目を合わせられない。
なんて返して良いのか分からなくなる。だって、そんなこと言われたって……

「れなも、最初はそうやったよ」

再びれいなは唐突にそう呟いた。
里保は恥ずかしさを堪えてれいなに向き直る。今度は彼女が照れたように笑い、カルピスを飲んだ。

「自分のこと嫌いやった。高音が伸びんし、体力ないし、ダンスできんし、目つき悪いし、ヤンキーみたいって言われるし」

後半は特にいまも変わってませんよね、なんて言おうものなら烈火の如く怒られそうだったのでやめにしておいた。
里保は黙って頷くと、れいなはそのまま話を続けた。

「同期の絵里とさゆはメッチャ可愛いけん、とにかく歌だけは負けんどこって歌の練習ばっかしよった。
そしたら余計にダンスできんごなって、先生からメッチャ怒られたりしてね」

昔を懐かしむように、れいなは目を細めて話す。
考えてみれば、彼女とさゆみは6期メンバーとして加入し、もう10年間もモーニング娘。として活動している。
10年といえば、里保にとってみれば、人生の2/3以上に当たる訳だが、そんな長期間も第一線で活躍していることが素直に凄いと思った。
当然、10年もあれば、ツラいことも哀しいことも、たくさんあったのだろうけど。

「絵里なんか特に可愛いけんさ、ふとした瞬間に、あ、可愛いって思うし、ダンスもメッチャ上手いけんさ、
なんかもう…なんて言うとかいなね、こう……なん、えっと、れ…れつ……」
「……劣等感ですか?」
「そう、劣等感!そういうのを結構感じよったよ、特に加入して3年くらい」
190 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:28
れいなは「劣等感」という言葉を使って少しだけ得意げに笑った。
その言葉は里保からのアシストがあったおかげなのだが、もちろんそこにツッコミを入れることはしない。
それよりも、れいなもまた、里保と同じように、自分に自信がない時期があったのだと知れたことは興味深かった。
れいなは里保と同じように、加入当初からエースとしての期待と重責を背負い、それに応えてきたのだろうと思っていたから。

「歌い方も10年でメッチャ変わったけんね。どうすればいちばん良い音が出るかメッチャ考えたし、
まあそれで、田中の歌い方はクセがあるから嫌いってファンの人に言われたこともあったけんさ」
「傷ついたり、しませんでした?」
「うーん、そりゃショックやったけん、それでもれながだれにも負けんのは歌しかないって思ったけん、なんとか良い歌い方探しよったよ。
で、いまは高音も伸びよぉし、クセもだいぶ弱くなったけん、結構好きやなって自分でも思うよ」

れいなの目はいつの間にか真っ直ぐに床を見据えていた。
過去の記憶を掘り起こすよりも、自分の在り方、モーニング娘。のエースとしての重責を背負う先輩メンバーの瞳をしている。
その瞳の色は、まさに彼女のカラーである鮮やかな水色そのもので、静かに燃える青い炎を里保は想像した。

「ごめん、話逸れたっちゃね、なんやったっけ?」
「えっと……田中さんは、自分自身が好きかどうかって話です」
「ああ、そう。うん、それで、れなも最初は嫌いやったけん、結構行き詰ったりもしたっちゃん」

れいなも里保と同じように、悩んでいた。
エースとして活躍することを望まれ、ファンの期待を一身に背負い、ステージに上がった。
だからこそ、れいなは、自分がどうして好かれるのか、なにが魅力なのか、いったいなにが良いのか、分からなかった。

「でも、人から好きって言われると嬉しいっちゃん」
「……そう、ですか?」
「自分に自信がないけんさ、それでも変わらずに好きって言ってもらえたら、嬉しくない?」
191 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:29
れいなの言葉に里保は素直に頷けない。
それが分からないから、分からないから悩んでしまう。
面倒くさい後輩と思われても良い。もう言ってしまおうと、里保は口を開いた。

「自分が好かれる理由が分からないんです」
「へぇー…鞘師が?人気あるとに?」
「自分の顔も好きじゃないし、輪に入れない性格も、歌だってまだ高音が出にくいし…」
「寝起きも悪いし?」
「まあ、そうです」

れいながからかうように言うと、里保は素直に認めた。
そんな反応が返ってくるとは想定していなかったのか、れいなは驚いた顔をする。
彼女を見ていると、やっぱり昔の自分を思い出すなと思いながら、れいなは「そうやねぇ…」と遠くを見た。
そういえばこんなこと、前にもあったなぁと記憶を掘り起こした。

「鞘師ってサイダーの何処が好きやと?」
「は?」
「いや、何処が好きなんかなぁって思って」

唐突に質問され、里保は何処だろうと考えた。
シュワシュワと喉越しが良い所?甘い所?それとも単純に美味しい所?
どれも正解でどれも不正解なような気がして、里保は口に出すことを憚った。
するとれいなは里保が答える前に「れなは唐揚げ好きっちゃん」と話を変えた。

「唐揚げはカロリー高いけんやっぱ普通に美味しいし、匂いも好き」
「はぁ……」
「でもさぁ、よくよく考えると、それが好きな理由かって聞かれるとなんか微妙やない?」
192 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:29
れいなの言葉を里保は冷静に噛み砕いた。
なにを言いたいのか、いったい先ほどからの質疑応答でれいなはなにを話したいのか。
よく話が飛ぶ人ではあるが、里保は必死になって話を再構築し、考えた。

「結局さ、好きになるとに理由って必要やと?」

れいなは里保に向き直ってそう答えた。
その瞳は真っ直ぐで、里保は思わずドキッとする。輝いた大きな瞳に吸い込まれそうになった。
目つきが悪いとか言われて悩むようだが、全然そんなことはないと里保は思う。

「だってしょーがないやん、好きやっちゃもん。考えたってある意味で無駄かもよ」
「そんなもん、ですかね?」
「れなは少なくとも、そう思う」

そうしてれいなはいつものように「ニシシ」と笑い、カルピスに再び口付けた。
里保は手の中ですっかり温くなってしまったオレンジジュースを飲む。マズさにさらに磨きがかかり、思わずしかめっ面になった。

「理由が分からんくても、好きって言われて嬉しかったっちゃん」

れいなはカルピスを飲み干したのか、立ち上がり、自販機の隣に設置してあったゴミ箱に缶を捨てた。
カランと景気の良い音がして、缶はゴミ箱に吸い込まれていった。
再びれいなは隣に座り、脚を組んで「嬉しかったし、嬉しいっちゃ」と話した。
何処か遠くを見ているようなその視線に、彼女は記憶を辿っているのだろうかと里保は思う。
れいなと過ごしてまだ1年半しか経っていない里保は、彼女の過去なんて知らない。
どういう想いを抱えて生きてきたかなんて、里保には分からない。
193 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:30

「れなは鞘師が好きっちゃよ」


彼女は再び、里保にそう言った。
笑ったれいなの顔はやっぱり可愛くて、里保は性懲りもなくドキッとした。
れいなは里保の頭に手を乗せると、ぐしゃぐしゃと撫でまわした。髪が崩れるがまあ良いかと思う。
少しだけ小さなれいなの手なのに、何処か安心できた。

「あんま悩まんでよか。笑顔の鞘師が可愛いっちゃけんさ」

れいなは里保の頭を最後にぐしゃぐしゃにすると、ぽんと肩を叩いて立ち上がった。
楽屋に戻るのだろうか、それ以上はなにも言わず、里保に背を向けて歩き出した。
里保は一瞬だけ呆気に取られたものの、缶を傍に置くと、乱れた髪を整える。
別に今日はダンスレッスンだけだしさほど気にすることではないのだけれど。

「あー、もうすぐ集合やけん、遅れんでねー!」
「あ、はい、行きます!」

れいなの声に顔を上げて応えると、彼女は笑って廊下の角を曲がった。
里保は深く息を吐き、再びオレンジジュースを飲んだ。相変わらずマズい。
194 :好きの理由を考えて :2012/07/21(土) 17:30
結局、悩みは解消されたのだろうかと里保は思う。
れいなの言うことは分からないでもない。好きなものに理由なんてないというのも、分かる。
でも、それでもストンと腑に落ちることがないということは、最終的には自分自身で答えを見つけるしかないのだろうなと思った。
自分で広げた悩みの種ならば、それを解決するのも、やっぱり自分自身でしかない。
里保は空になった缶をゴミ箱へ放り、楽屋へと歩き出した。
すると角を曲がったところで、れいなが立ち止まって電話している姿に遭遇した。

「はいはい、明日行くけん、待っとって」

別に立ち聞きするつもりもなかったのだが、里保は思わず立ち止まり、抜き足をして角に隠れた。

「じゃあ、また明日ね絵里」

そうしてれいなは電話を切り、里保に気付かず歩き出した。
里保はその言葉だけで、なんとなく、れいなの先ほどの言葉の意味を理解した。
すべては推測の域でしかなくて、確証なんてないのだけれど。

「好きって言われると、嬉しいんですよね、やっぱり」

里保は前を歩き続けるれいなの背中にそう呟いたが、当然その声は聞こえることはなかった。
私にもいつか、そう思えるときが来るのだろうかと考えながら、里保はれいなの背中を追った。
195 :雪月花 :2012/07/21(土) 17:33
以上になります。勢いで書くと良いことないですね…w
これからの娘。を引っ張っていく2人を書きたかったのになんか微妙になっちゃったw
鞘師さんは扱いづらいけど面白いキャラだからいろいろ書いてみたいです

ではまた!
196 :名無飼育さん :2012/07/23(月) 18:35
感動的(T-T)

最近はさゆれなもキテますよね!
197 :名無飼育さん :2012/07/24(火) 06:40
やっぱりれなえりですね。
些細な描写でも、やっぱれなえりだな、という気持ちになりました。
鞘師さん面白いですよね。これからも楽しみにしてます!
198 :雪月花 :2012/08/04(土) 16:44
真野ちゃんハロプロ卒業は予想はしていましたが卒業ラッシュが寂しい雪月花です。
ショックじゃないと言えば嘘になりますが、アイドルだから「できること」・「できないこと」があって、それが表現の幅を狭めるのも事実です。
真野ちゃんの決めたことですし、最後まで応援していきたいです!もちろん、卒業してからも!


>>196 名無し飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
鞘師さんのキャラがまだ掴みきれてないので全体的にふわふわしていますがw
さゆれなもリアルで仲良いので書いてみたいんですが、試行錯誤中です……がんばります!


>>197 名無し飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
些細な描写じゃなくがっつりれなえり書きたいんですが、いかんせんネタが降ってこないという…w

ノノ+^ー^)<ちゃんと書かないと怒りますよ
从;´ ヮ`)<絵里、顔がマジやん……

……がんばりますw


今回も勢いで書いたもので、れなえりではないです
最年少コンビが初登場します
199 :憂鬱な空と彼女の笑顔 :2012/08/04(土) 16:44

傷つけるつもりなんてなかった―――



「またケンカしたの?」

中等部校舎の屋上で寝転がっていると、少し高めの優しい声が降ってきた。
それが幼馴染の佐藤優樹だと気付くのには2秒もいらない。

「ハルのせいじゃないもん」

工藤遥は体を起こすことなく答える。
風邪を引いたようなハスキーボイスだが、別に風邪ではない。これが遥の長所だと自負している。
そんな遥の答えに満足しなかったのか、優樹は「でも叩いたでしょ?」と返す。

「叩いてない。蹴っただけ」
「おんなじだよー」

優樹は遥の隣に腰を下ろしたかと思うと、遥と同じように寝転がった。
彼女らしくない行動に遥は一瞬きょとんとするが、特になにも言わずにそのまま空を仰ぐ。
夏の空は青くて高い。空気が澄んでいて、点在した白い雲が大きくて、学校のプールよりも広い。
ずっとずーっとこんな場所を泳げたら良いのになんてぼんやり思う。
200 :憂鬱な空と彼女の笑顔 :2012/08/04(土) 16:45
「どぅーは田中さんと似てるね」

優樹は遥のことを「どぅー」と呼ぶ。
苗字が「工藤」であり、あだ名が「くどぅー」になり、短縮して「どぅー」になった。
適当な名づけも良いところだと思うが、概して、嫌いではない。

「それ言われると嬉しい」
「すぐ喧嘩する悪いところがそっくり」

優樹の言う「田中れいな」とは、高等部に所属する先輩の名前だ。遥は密かに、れいなのことを尊敬していた。
そんな彼女に似ていると言われて少しだけ嬉しくなったのに、あっさりと叩き落された。
天国から地獄、上げて落とす。人の扱いがよく分かっている幼馴染に遥は凹む。

「素直じゃないところもそっくり」
「それ田中さんの悪口じゃん」
「違うよ、どぅーの悪口だよ」

いっしょだよって思うけれども、それを言ったら田中さんに失礼だから言わない。
なんで私のほうが気を遣ってるんだと思うけど、これもいつものことだっけ。

「なんでケンカしたの?」

隣に寝そべる優樹が聞いてきた。
答えるつもりはなかったので黙って青空を見上げている。
先ほどよりも少しだけ空が濁った気がする。雲の量も太陽の輝きも、変わっていないはずなのに。
201 :憂鬱な空と彼女の笑顔 :2012/08/04(土) 16:45
「まーちゃんが当てますっ!」
「はぁ?」
「イチ、どぅーの悪口を言った」

たった10秒の沈黙に耐えられなかったのか、優樹は急にそんなことを言い始めた。
しかも原因はそんな単純なものではない。イチイチ否定するのもまた面倒なので、遥は好きにさせておくことにした。

「ニ、どぅーの給食を食べた」

子どもかっつーの。
確かにまだ中学生だけど、そんなの小学校で卒業だよ。

「サン、どぅーに宿題を見せてくれなかった」

それ私が一方的に悪いじゃん。
宿題はちゃんとやってくるよ。間違いもたくさんあって先生に怒られるけどさ。
つか何個答えるんだよ。当てるんじゃなかったのかよ。
202 :憂鬱な空と彼女の笑顔 :2012/08/04(土) 16:46
「ヨン、からかわれてた転校生を助けようとした」

―――え?
遥はぴたりと思考を止める。それが優樹にも伝わったのか、彼女は優しく微笑むと「そっかぁー」と口にした。
その音は柔らかくて、羽根を持っていて、気が付いたらどこかに飛んで行ってしまいそうな空気さえあった。
彼女の口から放たれた言葉は確かに空に舞っている。それはまるで、ひとつの歌のようだ。

「でも蹴るのはダメ。どぅーが女の子だから、とかじゃなくて、手を出しちゃダメ」
「………手じゃないもん、脚だもん」

我ながら苦しい言い訳だなと思ったけれど、口をついたのはそんな情けない言葉だった。
実際、優樹の言うとおりだと思う。

蹴り飛ばすつもりなんてなかった。

ちょっと注意するだけで良かったんだ。口に出して、「やめなよ」って言えば良かったんだ。
203 :憂鬱な空と彼女の笑顔 :2012/08/04(土) 16:46
-------

転校してきて間もなく、まだ学校に馴染めてないクラスメートの女の子がいた。
彼女は地方出身だからか、クラスメートとはイントネーションが少し違って、時折方言も口をつく。
都会の中学生にはそれが面白いのか、彼女になにか話させては笑う。
別にだれも、本気でいじめたりしていたわけじゃない。
でも、女の子は嫌がっていた。自分の故郷の言葉を使うだけで笑われることが。

遥はただそれを見ているだけだった。
黙って椅子に座り、彼女が笑われているのを見ているだけだった。

でも今日は、なんだかそのままでいられなかった。
彼女の笑顔が曇り、影を落としたような瞳を映した瞬間、遥は思った。

彼女がどんな想いで転校したか知らないくせに、
地元の友だちと別れて、涙を拭ってこの学校に来たのに、どうしてその地元を否定されなくてはいけないのだと―――


気付いたときには、囃したてる男子の背中を遥はその脚で蹴り飛ばしていた。
彼は派手な音を立てて机の波にダイブし、鼻からは見事なくらいの一閃の鼻血が垂れていた。

「バーーカっ!!」

そうやって叫んだ瞬間、彼も激昂して遥に掴みかかってきた。
お互いに中学1年生であるため、さほど体力差はない。遥と彼は取っ組み合いのケンカを始めた。
馬乗りになって、髪を引っ張って、制服のボタンを飛ばして、頬を腫らして、ふたりのケンカは教師が止めに入るまでつづいた。
204 :憂鬱な空と彼女の笑顔 :2012/08/04(土) 16:47
-------

「いきなり蹴るのはナシだよー」

反論のしようがない。遥がひと言注意すれば済んだ話だったのかもしれないのに、気付いたときには脚が出ていた。
悪い癖だなとは思うけど、止めようがなかった。
別に良い子ちゃんぶろうとか、恩を着せようなんて思ったつもりもなかった。
なかったけれど、教室から逃げてきた瞬間に見た転校生の顔は、驚きと、哀しみとが入り混じっていて、複雑だった。

「そーゆー優しいとこ、まーちゃんは好きだけどね」
「……別にまーちゃんに好かれても嬉しくないんだけど」

そうして反発すると、優樹はまたくすっと柔らかく笑って言った。

「ほら、素直じゃないところも、田中さんそっくり」

その笑顔は見えないけれど、どうせまた私をからかって遊んでる、小悪魔のような笑みなんだろうなと思う。
案の定、彼女は遥がなにも言い返さないことに気を良くしたのか「うふふっ」と声を出して笑った。
独特なその笑い方、少しだけ鼻につくけど、結局は、嫌いじゃない。
205 :憂鬱な空と彼女の笑顔 :2012/08/04(土) 16:48
遥はため息をついて青空を見る。
先ほど感じたような濁りが失くなって、いつもと同じ「青」が広がる。
あれ、やっぱり気のせいだったかなって少し思ったけれど、それ以上なにかを考えるのはやめにしておいた。

「空青いねー」

隣で笑う優樹の声がする。
黙り続けているのもなんだか癪なので、「うん」とだけ返しておいた。

たったそれだけのことが嬉しいのか、優樹はやっぱり独特の笑い声を屋上に響かせた。

ああ、もう、困ったくらいに空が青い。
206 :雪月花 :2012/08/04(土) 16:52
以上になります。
なぜか唐突に学園物でしたw
9・10期の中等部、5・6・8期の高等部って感じのイメージですw ネタが思いついたらつづきますw

ではまた!
207 :名無飼育さん :2012/08/07(火) 05:06
その学園物続いてほしいです!
208 :名無飼育さん :2012/08/07(火) 21:46
どぅまぁ可愛い。
学パロ好きなので、嬉しいです。
209 :名無飼育さん :2012/08/20(月) 17:45
最年少の2人は初登場なのにどこか懐かしい空気もありますね。
また作者様の新作を楽しみにしています!
210 :石川県民 :2012/08/25(土) 04:29

 初レスさせていただきます。石川県民と申します。

 前レスを含め、今、全部読ませていただきました。
 一言。おもしれー! ちょ、雪月花様天才!!
 作品自体が面白いし、心理描写は上手だし、キャラはしっかり立ってますし!

 失礼ながら、幻板の自レスから雪月花様のご存在を知りましたが、今まで知らなかったことが悔やまれるほどです。
 これからも、ご無理はなさらない程度に頑張ってください。ひっそりとですが、応援させていただきます。

 P.S.れなえりの情事、気長に期待してお待ちします。>135に、「需要あるかしら」と書いておられますが、
ここに一人ワクテカと待っている奴がいます。じゃないと、スレッドの2分の1はれなえり情事の当方はなんなのかと(以下、自主規制)
211 :雪月花 :2012/10/05(金) 17:50
新生モーニング娘。が相変わらず楽しいです雪月花ですw
秋ツアーも参戦したいんですが…果たして行けるかしら……?


>>207 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
学園物は王道ですので、なにかネタがあればつづきますw
また遊びに来てくださいねー


>>208 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
最年少コンビは書いてて楽しいです。現実の方がネタよりも楽しいんですけどねw
ありきたりなネタしかないですが、がんばります!


>>209 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
今回のくどぅまぁは少しれなえりに引っ張られてる感が否めません…w
れなえりが作品づくりの原点なので仕方ないっちゃそうなんですがもう少し努力しますw


>>210 石川県民サマ

コメントありがとうございます!って本人キター!!ww
うへぁそんなに褒められると恥ずかしいッス…w
というか「Only you〜」は完全に「舞い落ちる〜」の二番煎じですけどね…wもっと精進しますw

情事……さぁてがんばってみようかなw


というわけで久々にれなえりです
相変わらずの駄文ですがどうぞw
212 :秋麗 :2012/10/05(金) 17:52
「きみはさらさらだなぁー…」

一瞬、だれが話しているのか分からなくなって髪をとかす手が止まった。
しかし、この部屋にはれいなと絵里のふたりしかいないので、必然的に言葉の主は絵里ということになる。
振り返ると、案の定、絵里がだらしのない顔をしてこちらを向いていた。
ベッドの上で枕を抱えている姿に、性懲りもなくドキッとする。

「なんが?」

ベッドに腰掛けて訊ねると、絵里は「髪がだよぉ」と目を細め、こちらに手を伸ばしてきた。
彼女の指先が、れいなの細くて短い髪に触れる。最近、といっても2ヶ月前に切った茶色い髪が揺れた。
こうして彼女に触れられるのは久しぶりで、くすぐったくて体を捩らせた。

「なんね?」

ちょっと困ったように返すと、絵里はつまらないように唇を突き出した。
全くもって、アヒル口という言葉が似合う。

「触ってみただけだよぉー」

うん、知ってるよと返す前に、絵里はまたれいなの髪を触りだした。
くすぐったいのだけれど、その手を振り払うことはあまりに惜しくてやめにした。
彼女の好きなようにされるのも、嫌いじゃない。

「いー香りぃ」

絵里は目を細めてすっと息を吸ったかと思うと、れいなの肩に頭を乗せてきた。たった少しの重さが心地良かった。
213 :秋麗 :2012/10/05(金) 17:53
「風呂上りやけんね、そりゃ」
「田中さん、今日冷たいですよ?」

今度は一転してすねたように顔を上げ、頬を膨らませた。
いつもの「れいなに対してだけS」という顔だ。「絵里はMだから」なんて言ってるくせに、随分とムチャクチャだと思う。
れいなはクスッと笑って立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。
秋の始まりを告げるような月が出ていて眩しい。
「中秋の名月」当日は、列島を台風が縦断し、空は荒れ模様だったが、今夜は静かな夜だ。
少しだけ欠けた月が天に重鎮し、街中を照らしていた。

「お月様出てる?」
「出とぉーよ、メガネかけぇ?」

メガネをかけることに今でも抵抗があるのか、絵里は風呂上りでも裸眼でいることが多かった。
別に似合ってないなど思ったことはないのだが、そこは個人の考えなのであまり口には出さない。
絵里はごそごそとカバンの中を漁り、目的のメガネを発見した。
たったそれだけなのに、なぜかれいなの部屋が少し散らかった。あとで絶対に片付けさせようと決める。

れいなは窓開けてベランダに出た。
朝夕はすっかり涼しくなり、いよいよ秋が始まるのだなと自覚する。
空気が澄んでいるのか、いつもよりもくっきりと月が浮かんでいるように見えた。
214 :秋麗 :2012/10/05(金) 17:53
「おぉー、綺麗ッ!」

絵里もメガネをかけ、同じようにれいなの隣で夜空を仰いだ。
金色の月を見上げるだけで、なぜか優しい気持ちになれる。
なんだか、随分と青臭いことを言っているんだなと自覚はしていたが、それでも今日はなんだか良い気がする。
どうして今日はこんなに不思議と、胸が高鳴るのだろう。

「月の周期って知ってる?」
「え?」
「周期。どれくらいで満月になるかって話しだよ」

申し訳ないのだけれど、れいなには絵里の言っている意味が分からなかった。ロクに勉強をしてこなかったせいだと思う。
「穏やか」が読めなかったのは自分でも失態だったと思っている。かといっていまさら勉強し直す気にもなれない。
たぶんこういう所がダメなんだろうなと思った。

「……1ヶ月とか?」
「お、正解で〜す!なーんだ、ちゃんと勉強してんじゃん」
「え、そうやと?」

あてずっぽうで放った答えが正解で、れいなは呆気にとられた。
それを見て絵里は困ったように笑い「だいたい15日で新月になって、そっから15日で満月になるんだって」と答えた。
さて「新月」ってなんだっけと必死に中学校の知識を探していると、漸く思い当った。
そうだ、満月の反対で、月が出ているのに見えないという奴だ。どうして見えないのかは……分からないけど。

「だからさ、満月に逢えるのはだいたい1ヶ月後なんだよ」

絵里はそう言うと優しく、だけど何処か寂しそうに笑う。
その言葉の意味も、笑顔の理由も、れいなには分からなくて、曖昧に「そうやっちゃ」と呟いた。
お風呂上がりの体に秋の風は心地良い。だが、そろそろ部屋に入らなくては湯冷めしてしまう。
れいなは絵里を催促するように、そっと隣に立っている彼女の左手を握った。
絵里もまた、れいなの手を優しく握り返す。絡み合った細い指が少しだけ冷たくなって、だけど少し、温かい。
215 :秋麗 :2012/10/05(金) 17:54
「……次に逢えるの、いつかな?」

彼女は相変わらず、欠けた月を見上げながらそう呟いた。
鈍感なれいなは、そこで漸く気付いた。
その言葉は決して、月に向かって投げかけられたものではないということを。
雨に濡れて隠れることがあったとしても、必ず1ヶ月にいちど会える月とは違い、れいなと絵里にはその確証はない。
今日だって本当は、いっしょにご飯を食べて泊まるという約束だったのに、れいなの仕事が遅くなり、ご飯は各自、ということになった。
せっかく3ヶ月ぶりに逢えたというのに、だ。

互いの仕事が忙しいのは悪いことではない。充実した日々を送れていることも事実だ。
だが、そのために互いが合う時間が少なくなり、すれ違う日々が続いているのもまた、事実だった。
寂しいということがワガママであり、仕事があることを恨めしく思うことが贅沢だとも分かっている。
分かっているけれど、どうしようもなく、胸が痛い。

「絵里……」

れいなは握った手を少しだけ力を込めてこちらへ引っ張った。
彼女は素直にその力に従い、れいなの胸元へその体を収めた。
れいなはそのまま、絵里をぎゅうと抱きしめた。正確に言えば、彼女の方が身長が高いから、抱きついているようにも見えるのだが。
3ヶ月ぶりの絵里の体は、以前となにも変わっていない、優しい香りがした。
ああ、確かにこれは心地良いなと、ぼんやり思った。
216 :秋麗 :2012/10/05(金) 17:55
「絵里…ワガママだよね?」
「ううん、そんなこと、なかよ」
「でも……」

絵里がまたなにか言いそうだったので、れいなは笑って否定した。
ぽんぽんと頭を撫でてやると、絵里は一瞬驚いた顔をするが、れいなの笑顔を見ると、だらしなくふにゃりと顔を崩した。

「れなも、逢いたいっちゃ。いっつも、そう思っとーよ」
「ホント?」

絵里の問いに笑って頷いた。
れいなだって、叶うことならば毎日逢いたかった。すぐ隣で笑いあったあの頃のように。
それが叶わない願いだということくらい、分かっていた。
随分と、今日は感傷に浸ってしまう。たまにはこんな日もあって良いのだろうかと思いながら、れいなは絵里の肩に顔を埋めた。
深く息を吸って、絵里の香りに支配される。泣かないようにするのは、必死だ。

「……温かい?」
「……寒いわ、やっぱ」
「へへ、そうだよね」

秋の風は冷たい。ふたりで抱きしめ合っていれば温かいなんて幻想だ。実際にいまもなお、寒い。
そうして寒いのだけれど、ふたりは離れようとはしない。寒さに震えていたとしても、この温もりを、離したくない。
まったく、いつまで経っても学習しない、どうしようもない子どもだと、苦笑した。

「れーな……」「絵里…ワガママだよね?」
「ううん、そんなこと、なかよ」
「でも……」

絵里がまたなにか言いそうだったので、れいなは笑って否定した。
ぽんぽんと頭を撫でてやると、絵里は一瞬驚いた顔をするが、れいなの笑顔を見ると、だらしなくふにゃりと顔を崩した。

「れなも、逢いたいっちゃ。いっつも、そう思っとーよ」
「ホント?」

絵里の問いに笑って頷いた。
れいなだって、叶うことならば毎日逢いたかった。すぐ隣で笑いあったあの頃のように。
それが叶わない願いだということくらい、分かっていた。
随分と、今日は感傷に浸ってしまう。たまにはこんな日もあって良いのだろうかと思いながら、れいなは絵里の肩に顔を埋めた。
深く息を吸って、絵里の香りに支配される。泣かないようにするのは、必死だ。

「……温かい?」
「……寒いわ、やっぱ」
「へへ、そうだよね」

秋の風は冷たい。ふたりで抱きしめ合っていれば温かいなんて幻想だ。実際にいまもなお、寒い。
そうして寒いのだけれど、ふたりは離れようとはしない。寒さに震えていたとしても、この温もりを、離したくない。
まったく、いつまで経っても学習しない、どうしようもない子どもだと、苦笑した。

「れーな……」
217 :秋麗 :2012/10/05(金) 17:57
「絵里…ワガママだよね?」
「ううん、そんなこと、なかよ」
「でも……」

絵里がまたなにか言いそうだったので、れいなは笑って否定した。
ぽんぽんと頭を撫でてやると、絵里は一瞬驚いた顔をするが、れいなの笑顔を見ると、だらしなくふにゃりと顔を崩した。

「れなも、逢いたいっちゃ。いっつも、そう思っとーよ」
「ホント?」

絵里の問いに笑って頷いた。
れいなだって、叶うことならば毎日逢いたかった。すぐ隣で笑いあったあの頃のように。
それが叶わない願いだということくらい、分かっていた。
随分と、今日は感傷に浸ってしまう。たまにはこんな日もあって良いのだろうかと思いながら、れいなは絵里の肩に顔を埋めた。
深く息を吸って、絵里の香りに支配される。泣かないようにするのは、必死だ。

「……温かい?」
「……寒いわ、やっぱ」
「へへ、そうだよね」

秋の風は冷たい。ふたりで抱きしめ合っていれば温かいなんて幻想だ。実際にいまもなお、寒い。
そうして寒いのだけれど、ふたりは離れようとはしない。寒さに震えていたとしても、この温もりを、離したくない。
まったく、いつまで経っても学習しない、どうしようもない子どもだと、苦笑した。

「れーな……」
218 :秋麗 :2012/10/05(金) 17:57
そう呼ぶ声がして、れいなは絵里と見つめ合った。
訊ねられなくても分かる。メガネの向こうのその瞳が口よりも物を語っていた。
絵里は目を閉じる。れいなは少しだけ背伸びをして目を閉じた。唇が重なる。3ヶ月ぶりのキスは、やっぱり甘い。

「寝よっか。風邪引くっちゃ」

その言葉に絵里も素直に頷いた。
次に逢えるのはいつになるだろう。果たして誕生日はいっしょに過ごせるだろうか。年内中にもういちど、逢えるだろうか。
ふたりには明確な形がない分、不安に苛まれることも多い。それだからこそ、信頼できるのは互いの想いだけだといつも思う。
随分と青臭いけれど、それが正直なところだった。

「電気全部消すのやだぁー」

ベッドに潜り込んで早々、絵里はそう言った。
いつも彼女はそうして文句を垂れるので、れいなは渋々豆電球だけはつけっ放しにしておく。
だが、節電が世間的にも叫ばれているいま、それに抵抗するのもいかがなものかと思うので、れいなは敢えて全部消した。
その代わりに、カーテンを半分だけ開けておく。
隙間から入ってきた月明かりに照らされて、部屋がぼんやりと明るくなったような気がした。

「ご不満?」

れいながそう言ってベッドに入ると、絵里は「むぅ」と頬を膨らませた。
いたずらっ子のようなれいなの笑顔が気に食わないのか、「不満です」と返す。
まったく、素直じゃないっちゃねと心で呟いて、毛布をかぶった。
絵里はもぞもぞと動いてれいなにすり寄り、ぎゅうと抱きしめた。力が強すぎて思わず「ぐえ」と声を漏らす。
219 :秋麗 :2012/10/05(金) 17:58
「あったかいです…」
「そりゃ良かった」

そうしてれいなは絵里の髪を撫でてやった。
少しだけ伸びた黒い髪はさらさらで心地良い。れいなの髪をずっと撫でていた絵里の気持ちも何となくわかった。
絵里はくすぐったいのか体を捩らせ、顔を上げた。きょとんとした表情がまた可愛くて、額にキスをした。

「れーなぁ……」

絵里はそう呟いた。
訊ねられなくても、やはり分かる。目は口ほどにものを言う。
離れていても不安にならないように、深く深く刻みたかった。
心にも体にも、離れていても一緒なのだと思えるように、絵里の中にれいなを刻みたかった。

「絵里……」

そうして深く口づけた。
なんどか啄んだあと、するりと絵里の中へと入っていく。ざらりとした舌に触れ、ぴちゃりと音を交わす。

「んっ……」

甘い声が室内に浮かんだ。
欠けた月が空に居座る。秋の夜はゆっくりと深まっていった。
220 :雪月花 :2012/10/05(金) 18:00
すみません>>216はミスなのでお気になさらず……
>>212-215,>>217-219 「秋麗」でお願いしますm(__)m
寸止めで申し訳ないッス…もうちょっと精進しますww

ノノ*^ー^)<もーちょっと読みたかったですよ?
从;´ ヮ`)<あんま作者をいじめんでやって…

最初から最後までは改めてまた書きます…ではまたノシ
221 :名無飼育さん :2012/10/11(木) 21:27
更新乙です
この元歌好きでタイトルでテンション上がりました
222 :名無飼育さん :2012/10/16(火) 18:04
久々のれなえりキテター!!
やっぱれなえりは良いっすなぁ

秋コンは愛知がまだあると思うので行きましょう!
223 :雪月花 :2012/11/29(木) 18:52
PROXY規制中のため、更新のために外(ネカフェ等)に出なくてはならず更新が滞っています雪月花です
そんなこと言ってる間にれいなさん卒業発表がありましたね…寂しいですがバンドも楽しみです!
とりあえず6期最強は変わらないし終わらない!と思うw


>>221 名無し飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
自分もこの曲結構好きなのですが、せっかくの世界観をぶち壊してないか不安です…w
もうちょっと精進しますw


>>222 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
れなえりは良いッスw良いッスという割にあまり更新できなくて申し訳ないです…m(__)m
秋コンはTDCのフクちゃん生誕企画に参加できました!ピンクのサイリウムが綺麗だったなー


今回も毎度のようにしょうもない作品です
以前の>>179-194「好きの理由を考えて」のつづきのようなものです
224 :ネコとハムスター :2012/11/29(木) 18:54
「たなさたぁぁん!」

あと数時間でコンサートが始まるという時、元気良い声に追い駆けられてれいなは振り返った。
軽い衝撃のあと、小生意気な笑顔が追い付いて「へへぇ」と彼女は言った。

「いっしょにお弁当食べましょー!」

彼女―――10期メンバーの佐藤優樹は物怖じせずに先輩に話しかけてくる。
目つきが悪いだの、口が悪いだのと言われ、初対面の人には必ず怖がられるれいなにとっては、それは新鮮だった。
彼女がベタベタと話しかけてきてくれるようになり、れいなは変わったと言われるようになった。
それはメンバーからも、スタッフからも、ファンからも、そしてれいな自身もたびたびブログやラジオで発言している。

「ハイハイ、んじゃ向こうで食べよっか」
「アハハー!はーい!」

なにが楽しいのか、優樹はいつも笑っている。今日もれいなに対して満面の笑みを向けてきた。
れいなもそれにつられて笑顔になる。こんな自分も、嫌いじゃない。
れいなと優樹は並んで椅子に座り、机に弁当を広げた。

「あー、田中さん、いっしょに良いですか?」

さあ大好きなから揚げ弁当を食べようというとき、後方からやって来たのは優樹と同じく10期メンバーの石田亜佑美だった。隣には飯窪春菜と工藤遥もいる。
なんだ、結局10期大集合だなと思いながら「いーっちゃよ。いっしょに食べよ」とれいなは笑った。
225 :ネコとハムスター :2012/11/29(木) 18:55
「どぅー、今日はハンバーグ?」
「うん。から揚げが良かったんだけど、だーいしにとられた」
「ちょっと!盗んだみたいな言い方じゃん。違うからね」
「亜佑美ちゃんが先に書いてたんだよね、“石田のです”ってマジックで」

目の前で繰り広げられる同期の会話を聞きながら、から揚げに手を伸ばした。
ひとつひとつが大きくて、多分今日も全部は食べられない。最終的には遥に上げようとれいなは思う。

「田中さん、ひと口くださーい」
「まーちゃん、先輩に対して失礼だよ」

そんなことを思っていた矢先に優樹からそう言われ、れいなはドキッとしたものの笑った。

「いーっちゃよ。どうせ全部食べれんし」
「わーい!」

そうして優樹の弁当の中にひとつから揚げを乗せてやった。
少しだけ遥が不服そうな顔をしたけど、気にしないことにする。
彼女が自分を慕ってくれているのは分かっていたが、れいなはだからと言って、遥に積極的に話しかけることができない。
先輩として、後輩に話しかけに行く方が良いのだろうけど、れいなはその性格上、自分から行くことができなかった。
だからむしろ、優樹のように扉をノックされるとありがたかった。
彼女は天然なのか、臆することなくれいなに飛び込んでいき、強引にその扉を開けさせたのだ。
226 :ネコとハムスター :2012/11/29(木) 18:56
れいなは昔から「一匹狼」や「孤高」という言葉がよく似合っていた。
特別にひとりを特別好むわけでもなかったのだが、目つきのせいか、言葉遣いのせいか、いつの間にかそう言われていた。
纏う空気が独特で、自分を曲げない性格もその理由のひとつだったのかもしれない。
メンバーと仕事以外でじゃれ合うのは違うと思っていた。仕事とプライベートは分けたかった。
それはいまでも変わっていない。変わっていないのだけれど―――

「……工藤もいる?」
「え?」
「れいなどうせ食べきれんし、あげるよ」

れいなは暫く考えたあと、箸で挟み、から揚げを遥に見せた。
その表情はキラキラ輝いたのだが、急に気恥ずかしくなったのか、「いや、あの!」と紅潮した。
自分を好きでいてくれるのは嬉しいのだけれど、そんなに構えることもないのになと思った。
れいなはいつものように「ニシシ」と笑い、ひょいと遥のハンバーグの上に乗せてやった。

「やったじゃんくどぅー!」
「プレミアだよ!これブログにあげなきゃ!」

すぐに同期たちは囃したて、手にしていたアイフォンで写真を撮ろうとしていた。
遥も困り顔をしながらもその頬は緩んでいる。
れいなは歯を見せて笑ったあと、再び自分の弁当に向き直った。
はしゃぐ10期の声は嫌でも耳に入る。それを聞いているうちに、やっぱり同期って良いなと思った。
「6期最強」とか平気で口にしていたけれど、あれは嘘ではない。
いまは、さゆみもれいなもふたりで上に立つ立場になったために、それを口にすることは少なくなったけれど。
227 :ネコとハムスター :2012/11/29(木) 18:56
「田中さん、いただきます」

遥はそうして箸で掴んでから揚げを頬張った。嬉しそうに食べる姿にれいなも思わず笑顔になる。
再び自分の弁当に目を向けようとしたとき、視界に彼女の姿が入った。
鞘師里保はれいなたちより少し離れた場所に弁当を広げている。周りには同期の姿はない。

「鞘師」

れいなはふと、その名を呼んだ。注意するような声ではなく、ただそこにいる彼女の名を呼んだ。
里保は顔を上げ、れいなの顔を見る。しっかりと目が合ったれいなは左手を振って彼女を招く。

「……いいんですか?」
「全然ッ。おいで」

れいなの声に誘われるように、里保はぺこっと頭を下げ、自分の弁当を持って立ち上がる。
「てとてと」というような擬音語が聞こえてくるような歩き方をしてこちらのテーブルにやって来る姿は単純に可愛いと思った。

「さやしさぁーん!」

れいなの隣にいた優樹はひょいと立ち上がって里保の隣に座った。
べったりとその腕にしがみつかれ、里保も困ったように笑うが、心底嫌がっている様子はない。

「まーちゃんは鞘師さん大好きだよねー」
「お姉ちゃんみたいなんだよね、まーちゃんにとって」

高校生のふたりはそう言って、優樹と里保を見る。
確かに、こうやって真正面からふたりを見ると、本当の姉妹のようでなんだか微笑ましい。
228 :ネコとハムスター :2012/11/29(木) 18:57
「鞘師さんは肉じゃがですか」
「あー……うん。今日はあんまり重いもの食べる気がなくて……」

そうして里保は「肉じゃが弁当」と言う渋いチョイスをしたようだ。
れいなよりも10歳も若いのにもうヘビーなものが食べられないなんてと苦笑しながら、サラダに手を伸ばした。
まだ食べ始めて10分も経っていないというのに、れいなのお腹は膨れ始め、満腹を訴えていた。
よくメンバーからも指摘されるが、どうしてこんなに小食なのか、自分でもよく分からない。


―――れーなっ、死ぬよっ?!


小食だの、野菜ジュースしか飲まないだのと考えていると、決まって彼女を思い出す。
いつも人の食生活に口を挟む彼女だったが、そんな彼女こそ、食生活には気を配るべきだったのだろうなと思う。
ちゃんと規則正しく生活できているだろうかと思いながら携帯電話を開いた。メールは今日もない。相変わらずだなと苦笑して閉じた。


れいなはふと顔を上げ、そこにいるメンバーをなんとなく見る。
飯窪春菜。モーニング娘。10期メンバーの中で最年長。おっとりしているように見えて野心家。お口が達者でいらっしゃる。10期をまとめるしっかり者。
石田亜佑美。ダンスの腕前は娘。内で1・2を争うほど。負けず嫌いだが、最近はスベリキャラでいくのか検討中。なんだかんだでしっかりしていて優しい。
佐藤優樹。ドが付く天然。天真爛漫を絵に描いた人。ワガママで人を振り回すこともしばしばだが、彼女のおかげで娘。の空気は変わった。
工藤遥。現在の娘。最年少。時たま見せる生意気な笑顔が可愛い。しっかりしててもまだ12歳。元気な少年キャラ。線が細すぎる。もっと食べた方がいい。

以上、田中れいなの独断と偏見による10期メンバー分析。
こうして後輩のことをちゃんと見るようになったのも本当に最近だなとれいなは思う。前までは気に掛けることなんて少なかったのに。
野菜ジュースにストローを刺して、吸う。残るは、れいなの目の前にいるひとりだけだ。

鞘師里保。次期エースというよりもエース。期待が大きい分潰れないか不安。孤高。もっと人と関わりたいのだろうけど距離感が掴めない。ハムスター好き。
229 :ネコとハムスター :2012/11/29(木) 18:57
そこまで考えて思考を止めた。
自分でいうのもなんだが、似ているのだと思う。
里保はまるで、昔のれいなを見ているようだ。れいなだって、はしゃぐ輪の中に入りたいのだけれど、入ることができなかった。
あの空気を壊してしまわないか、自分が受け入れられるか、子どものように不安で、怖くて、でも寂しくて、傷つくのが嫌で、ひとりを選んだ。
随分と身勝手でワガママな子どもだった自分。本当は全然、そんなことなかったのに。もっと早く笑って輪の中に入れたらといまでも思う。


―――おいで、れーな。


まるで子猫を呼ぶように、彼女はれいなを呼んだ。
そんな彼女の元に、れいなもまた、頬を紅潮させながらも歩いて行った。
ああ、もう。結局自分は、いまでも彼女が大好きで、その檻の中から出ることはできない。
そんな自分も、嫌いじゃないと思うことでまた、彼女を好きだと思い知って腹が立つ。どう足掻いたって、敵わない。

「鞘師―――」

聞こえるか、聞こえないかの小さな声でその名を呼んだ。
それは里保以外には届いていなかったのか、10期メンバーは何事もなかったかのように会話をつづける。
呼ばれた里保ひとりだけはふと顔を上げた。
そんな彼女に対して、れいなはそっと手を伸ばして、頭を撫でてやった。
一瞬なにが起きたのか分からないというような瞳を里保はれいなに向けた。
突然のことに、周囲にいた遥や亜佑美は「え?」と声を出し、春菜はれいなと里保を交互に見る。
自分たちが会話に夢中になっていたわずか数秒の間に、このふたりになにがあったのかを把握しようと必死だった。
230 :ネコとハムスター :2012/11/29(木) 18:58
だが、れいな自身、なぜこんなことをしたのかはよく分かっていなかった。
ただなんとなく、目の前に座って食事をする里保の頭を、撫でてやりたくなった。
しかもそれが、随分と妙な行動だと自覚しているにもかかわらず、れいなはその手を止めず、里保の髪を撫でつづけた。
さらさらに伸びた黒い髪を指が通り抜けていく。甘い香りが微かに香った気がした。
それが何処か懐かしさを帯びていて、れいなの心を捉えた。

ああ、まただ。とれいなは思う。
また、れいなは過去の記憶に囚われたのだと気付いた。

抜けられない恋の呪縛に苦笑しながら、れいなは「鞘師」ともういちど名を呼んだ。
その名前の向く先は、里保ではないのだと、里保自身は気付いていた。
だが、あまりにも心地良いその指先に、彼女は目を細めて笑い、撫でられるがままでいた。

「ああー、たなさたぁん、まーちゃんも撫でてほしいです!」
「佐藤はだめぇー」
「えええ、なんでですかぁー」

れいなはひとしきり里保を撫でると、手をそっと離した。
急速に失われていく体温が愛しかったが、里保はなにも言わずに黙って目を伏せた。

「可愛い子しか撫でたくないもん」
「まーちゃんも可愛いですよぉ」

そんなふたりのやり取りを見ながら、里保は困ったように笑って頬を紅潮させた。
れいなの言葉の行く先が自分でないことくらい分かっているのに、可愛いと言われたことそれ自体が嬉しくて照れる。
231 :ネコとハムスター :2012/11/29(木) 18:58

―――「あんま悩まんでよか。笑顔の鞘師が可愛いっちゃけんさ」


れいなにこうして可愛いと言われるのは、あの日以来2度目だ。
その度に里保の心は軽くなる。何処か安心できて、優しい気持ちが生まれてくる。
里保にとってれいなは優しい先輩で、憧れる。たぶんそれは、技術的な面だけではないと分かっていた。

「あ、田中さん、ケータイ鳴ってますよ」

遥がそう言ってれいなに携帯電話を渡した。
れいなは振り返って受け取り、表示された着信相手を見た。
瞬間に、困ったように眉を下げて笑う。「ごめん、電話出てくる」と言って立ち上がる。

「たなさたぁん、お弁当食べないんですか〜?」
「もうちょっと食べるけん、手出さんでね!」

優樹の声を背にしてれいなは部屋をあとにした。
また、あの人だろうかとぼんやり思いながら、里保は再び弁当に向き直り、じゃがいもを箸で挟んだ。

「鞘師さん、なんだかほっぺがハムスターみたいですよ」

春菜からそう言われ、里保はそちらを向いた。
優しく笑うその表情に、自然と目尻が下がる。こういう空間が好きだって思いながら、里保はまた、箸を伸ばした。
232 :雪月花 :2012/11/29(木) 19:02
以上になります。
元ネタはれいなさんのラジオだったと思いますw
りほれなは最近キテますw

ではまた!
233 :名無し募集中。。。 :2012/12/01(土) 00:01
りほれなってなんかほっとしますね!

れいなはなんだかんだ里保ちゃんのことかってるし、
気にかけてるなぁって思います。
里保ちゃんもれいなを頼ってる感じがいいです。
234 :石川県民 :2012/12/03(月) 15:06
 更新お疲れ様です!

 まーちゃんは可愛いし、優しい田中さんや
可愛らしいりほりほに鼻血が出そうです。
 ほんのりと感じさせる田中さんを素直にしてくれた人とか!

 次回も楽しみにしてます!
235 :雪月花 :2012/12/08(土) 18:23
ハロプロDDと言いながら最近はフクちゃんが気になって仕方ない雪月花ですw
コンサートでも気付けばフクちゃんを追ってます。今回のリゾナントブルーは必見です!


>>233 名無し募集中。。。サマ

コメントありがとうございます!
ピリピリしつつも尊敬と敬愛があるような感じがするので、このふたり見てると安心しますw
とはいえまだキャラが掴み切れてないのが難点です…精進します。


>>234 石川県民サマ

コメントありがとうございます!
自分の作品づくりの根底がれなえりなので、結局こんな話に落ち着いてしまうっていうねw
もう少しちゃんとしたの書きます…石川県民サマのも楽しみに待ってますよ!


今回は以前に某所で発表したものを少しだけ改訂したものです。
どこかで見たことのあるものかもしれませんが御容赦を…
236 :これも仕事ですから :2012/12/08(土) 18:23
鞘師里保は何年か振りに風邪を引いた。
げほ・ごほと咳が止まらない。熱は計っていないが、汗がからだ中に湧き出て気持ち悪い。だるくて、なにもかもが億劫だった。

「珍しいね、鞘師が風邪って」

寮長にそう声をかけられ、里保は声は出さずに頷いた。
咳に喉をやられたのか、声があまり出ない。時折鉄錆のような味が口内に広がってべっと吐き出す。吐血はしないけれど、気持ち悪い。

「ゆっくり寝てなさいよ」

そうして寮長は枕元に薬とタオル、水の入ったペットボトルを置いて部屋を出て行った。
里保はちらりと壁の時計を目にやる。現在朝の9時過ぎ。とっくに学校は始まっている。
彼女が寝ているのは、自分の通う中学校に隣接された学生寮であり、校庭はほど近い場所にある。生徒たちの声は嫌でも耳に入る。

ガタガタと冬の風が窓を叩いた。この寒い中、体育教師は「健全な精神は健全な肉体に宿る」なんて言って、校庭を何週も走らせる。
別に持久走は嫌いじゃないから良いけれど。この間もクラスで1番だったし。あ、そういえばうちのクラス1時間目が体育だったっけ。
そんなことを考えながら、里保は息を吐いて目を閉じる。
ぐあんぐあんと耳鳴りがして、世界が揺れる。地震じゃないと良いな。たぶん、熱に魘されているせいだ。うん、そうだと良い。

「寒い……」

体はこれでもかというほどに汗をかいているのに妙に寒い。のそのそと起き上がってタオルで体を拭いた。やっぱり寒い。
着替えようと箪笥を開けると、上からどざざと服が雪崩れてきた。ああ、せっかく畳んだのに、と、これまたのそのそと替えの服を探す。
シャツと、あったかいパンツと、ああ、下着も替えなきゃなんか気持ち悪い。
つか気分悪い。頭痛い。フラフラする。熱のせいかな?分かんない。
237 :これも仕事ですから :2012/12/08(土) 18:24
里保は倒れそうになる体をふらつく両脚で必死に支え、自分の着ている服を脱ぎ始めた。
あまりにも気怠いその動きは、酔って帰宅し、母に介抱されながらスーツを着替える父に似ていて苦笑する。

「おとーさん、なにしてるかな……」

ふと、父のことを思いだす。当の本人は恐らく地元で普通に会社に通勤しているのだろうけど、妙に寂しくなる。
それと同時に母のことまで思い出す。まずい、ホントにホームシックみたいだ。
汗でほのかに湿ったシャツを脱ぐとすぐに冷たい室内の空気が肌を撫でた。ぞくぞくと背筋が凍る。
タオルで荒っぽく体を拭き、新しいシャツに腕を通した。
熱に魘されるとロクなことを考えない。さっさと寝てしまおうと、里保は下のパンツも履き替え、早々にベッドに戻った。

「あー……洗濯機……」

毛布をかぶった途端に、脱ぎ捨てた服の存在が気になった。
洗濯籠に入れてしまうのがいちばん良いはずなのに、たった数メートルを動くことが億劫だった。
ため息を吐いたのち、仕方なく放置することに決めた。次に起きたときに入れよう。うん、それで良いやと自分を無理やり納得させる。
耳鳴りは相変わらず続いていたし、頭痛は酷くなる一方だったが、とにかく眠ろうと里保は目を閉じた。
238 :これも仕事ですから :2012/12/08(土) 18:25
-------

滅多に風邪を引かないことが自慢の里保にとって、何年か振りの風邪は猛威を奮った。
断続的な頭痛と耳鳴り、絶え間なく押し寄せる寒気と、それでいて熱い体に体力は奪われていく。

夢と現実の間を何度も彷徨いながら、里保は短く息を吐く。
弱っているせいだろうか、寂しくなって泣きそうになる。両親に、逢いたい。どれくらい逢ってないんだっけ?と思う。
憧れのダンス部に入部するために、里保はわざわざ県外の中学校を受験した。その結果、両親とは離れて寮生活を送っている。
何年経っても、家族は恋しいものなんだ、なんて妙に納得した。
だれかと話したい。逢いたい。逢いに来てほしい。それはずいぶんとワガママだ。自覚はしている。

「っ……あ……」

重苦しい瞼をゆっくりと開けた。
体中が痛い。正確に言えば、風邪の症状のひとつの関節痛なのだろうけど。
ぼやける視界のなか、はっきりと白い天井を映す。ゆっくりと右に顔を傾けて壁の時計を見た。現在12時27分、ちょうど昼休みだ。
そう確認したところで、ぼたりと額に貼っていた冷却シートが落ちた。熱を吸い過ぎて草臥れたそれに苦笑する。
貼り換えなきゃと体を起こそうとしたとき、里保は漸く自分の左手がだれかに握られていることに気付いた。

「うぇ?」

左に顔を傾けて、里保はその人物を確認した。
その人は腰を床に下ろし、上半身だけベッドに預け、規則的に肩を上下させて目を閉じていた。寝ている、のだと思う。此処で?勝手に?ていうか……

「はーなーしーてっ」

残り僅かな体力で左手を動かそうとしたが、それはしっかりと彼女の両手に包みこまれていて抜けない。
代わりに彼女の両手を引っ張るだけになり、それが彼女の目覚めの合図となった。白雪姫のキスかよ、なんて思う。
239 :ko :2012/12/08(土) 18:25
「お、ん?あー、里保、おはよ」

彼女―――生田衣梨奈はだらしない笑顔をこちらに向けてきた。
勝手に部屋に侵入しておいて、勝手に寝ておいてその挨拶はないだろう、なんて思うけど言い返す気力もない。
里保はこれ以上ないほどに顔を歪ませ「なにしるんですか?」と辛うじて言った。

「風邪引いとったっちゃね。クラスに行ったら休みって聞いたけん、来てみたと」
「……いま昼休みですよね?」
「そう。4時間目終わってすぐ来たー」

衣梨奈の答えに里保は言葉を失くす。
いくら寮が学校に隣接しているとはいえ、基本的に校舎内から出るのは校則違反じゃなかったっけ?
しかも、授業終わってすぐ来たって……なんで?

「今朝見かけんかったけん、どうしたっちゃろって思って」
「へ?」
「今日1時間目、里保のクラス体育やったとに、おらんかったから」

1時間目?体育?
そう言われて、自分のクラスが今日の1時間目が体育の授業で持久走だったことを思いだす。
え、ちょっと待って。と里保はそこで思考を整理する。

「なんで、体育って知ってたんですか?」
「え?だってクラスの持久走で1位やったって自慢しとったやん。ホントかなって思ったけん、見とったと」
「ど、どこから?」
「クラスの席。窓側やけん」
240 :これも仕事ですから :2012/12/08(土) 18:26
なんだか、納得したような納得しないような不思議な気分だった。
3年生のクラスから見ていたことは分かるのだけれど、どうしてこの時間帯にうちのクラスが体育だと知っていたのかの説明にはなっていない。
まさか調べた?え、ウソ。そんな面倒なことする?分からない。たまたま?うちのクラスの知り合いを窓から見つけただけ?どこ経由で?
思考がぐちゃぐちゃになっていく。熱のせいか、ロジックが崩壊していく。もう、やめよう。面倒くさい。考えるだけで疲労が増す。
というか、生田先輩……

「離して下さい。熱いです……」
「ああ、ごめん」

里保の言葉に素直に頷き、衣梨奈はその左手を解放した。急速に失くなっていく熱が妙に恋しかった。
「離して」と言っておきながら離されたことを寂しく思うのはずいぶん勝手だなと苦笑する。
そんな里保の気持ちも知らずに、衣梨奈は枕元の薬を見ながら「ごはん食べたと?」と聞いてきた。
里保が素直に「まだ」と言うと、「寮長さんにつくってもらったら?」と薬の入った袋をごそごそと弄り始めた。やめて下さい、それ私のです。

「……食べたくないです」
「わがままやねー。治らんよ?」
「生田先輩だって、ご飯、まだですよね」

精一杯にそう言い返すと、衣梨奈はこちらを見ることもなく「もうすぐ戻るけん、10分でパン食べるっちゃよ」と言った。
その言葉に胸が微かに痛む。そりゃそうだ。ずっと此処に居てくれるわけがない。
だっていまは昼休みで、衣梨奈にはまだ午後の授業もある。校外に出ること自体が異例のことなのだから当然だ。
そんなこと、分かりきっていたのに、どうしてだろう、里保の心が揺れる。熱のせいでは、ない。と思う。

「つか部屋汚いっちゃね…ちゃんと掃除してると?」
241 :これも仕事ですから :2012/12/08(土) 18:27
衣梨奈は立ち上がって部屋を見回す。余計なお世話だと思っていると、彼女はある一点に目を止めた。
なにを見ているのだろうと里保もそこに視線をやると、一気に熱が上がった。
彼女の視線の先には、紛れもなく里保が先ほど脱ぎ捨てたシャツとパンツが置いてある。そこには当然のように、下着も紛れている。
不幸中の幸いは、下着はシャツの下に埋もれていることだった。それにしたって見られて良い理由にはならない。
衣梨奈はこちらに背を向けて、その服を手に取ろうとした。

「やめてっ―――!」

咄嗟に里保はそう叫び、跳ね起きた。全身が重いとか、関節が焼けるような痛みを訴えるとかも関係ない。
「やめて」とは随分とひどい言い草だとは思ったが、出てきてしまった言葉なので仕方ない。
里保がベッドから降りたときには既に衣梨奈は右手で服を取っていた。が、里保の気配に気づいたのか、衣梨奈は振り返り、彼女の体を支えた。
右手に服の塊を持ったまま、衣梨奈は里保を抱きかかえるような形をとる。一瞬、なにが起きたのか、里保には理解できなかった。

「風邪、悪化するっちゃよ?」

彼女に抱きしめられながら耳元に落ちてきた言葉に、全身が震える。熱がまた何度か上がった気がした。
里保は誤魔化すようにその腕から逃れ、服を取り返そうと振り返るが、衣梨奈はそれを見越してかひょいと右手を上げた。
まるで子どものおもちゃを取り上げたかのような笑顔を見せた衣梨奈は、鼻歌交じりに服を洗濯籠に投げ込んだ。
見事なスリーポイントシュート。いや、勝手に乱暴に投げ込まないで。下着はネットに入れたいし。

「はいはい、風邪引きさんは寝るー」

里保は衣梨奈に誘導され、そのままベッドに腰を下ろし、寝かされた。
ともすれば押し倒されているような格好だけれど、反抗も抵抗も出来ず、文句のひとつも口をつくことはなかった。
バカにされているような、子ども扱いされているような、そんな複雑な気持ちはあったけれど、なにも言えない。
毛布をとんとんと掛けられさらに閉口すると、衣梨奈はまた笑う。そのまま前髪を撫でられた。悔しいけど、それが心地良い。
242 :これも仕事ですから :2012/12/08(土) 18:27
「……帰らないんですか?」

唯一出てきた言葉がそれで、里保は自分にげんなりする。
そんな憎まれ口しか言えないことが悔しい。もっと言いたいことはたくさんあるのに、なにひとつ音として外に出ない。
たったのひと言、「お見舞いありがとうございます」っていう大切なものでさえ、心の中から出てきてはくれない。

「そうやね、そろそろ戻らんと時間ない」

見るともう12時48分だった。
5時間目の開始は13時。此処から学校までは走って数分程度だけれど、昼食をとることを考えると、もうタイムリミットだった。
衣梨奈は撫でていた前髪から手を離して立ち上がり、制服のポケットに入れていたケータイで時間を確認した。
「おお、ヤバい」なんて呑気に呟いているけど、そんな悠長なことを言っている場合ではないのではないか。

「じゃ、ちゃんとお昼食べるっちゃよ」

そうして衣梨奈は声をかけるけど、里保はうんとは言わずに、黙って頷くだけだった。
彼女のそんな態度に気を悪くする素振りも見せず、衣梨奈は踵を返した。
すると、箪笥から雪崩てきた服たちに気付いたのか、軽く畳んでくれた。そういう何気ない気遣いが、里保の心を乱して、困る。
衣梨奈は畳んだ服をぽんぽんと叩くと、改めて扉まで歩いた。
しっかりとした足取り、真っ直ぐに伸びた背中、少しだけ揺れる短めの髪、彼女の後姿は、うちの中学校の生徒会長に相応しい。
昼休みに外に出て行くような校則違反を犯したり、ロクに会議にも出ずに屋上でサボったりするような人とは到底思えない。
243 :これも仕事ですから :2012/12/08(土) 18:28
「仕事……」

里保は唐突にそう呟いた。
どうして自分でも、急に言葉を出したのかは理解できなかったけれど、衣梨奈にもその声は届いていて振り返った。
揺れる髪がさらさらで良いな、なんて思ったけれど、そんなことは言わずに言葉を紡ぐ。

「サボってすみません。今日の放課後の会議も、出れなくて」

里保がそう言うと衣梨奈は肩を竦めて笑った。

「副会長はいつも頑張ってくれてるけん、たまにはいーとよ」
「でも……」
「ゆっくり休むのが里保の仕事。分かった?」

そう言うと彼女はまた里保の元に戻り、頭を撫でた。
どうしよう。あまりにもその指先が心地良くて、哀しくもないのに涙が出そうになる。
この人の前では、絶対に泣きたくないから、里保は誤魔化すように、その指先から逃げるように頭を振った。

「てか、いつになったらその敬語、やめてくれると?」
「先輩は、先輩ですから」
「幼馴染やん、小学校からの」
「でも、先輩、ですから」
「頑固やねー」

衣梨奈はそう言うとまた肩を竦めた。
244 :これも仕事ですから :2012/12/08(土) 18:28
里保と衣梨奈は、ついでに言えば高等部1年の譜久村聖、里保の隣のクラスの鈴木香音の4人は幼馴染だった。
聖は吹奏楽部に入部するため、香音は演劇部に入部するため、それぞれ県外であるこの中学校を受験していた。
衣梨奈はと言えば、「聖が行くっちゃったら衣梨奈も行こうかな」とか「制服が可愛いけん」とか言う理由で受験した。
結果的に合格しているのだから、凄いと思う。まして、生徒会長に就任しているのだから、尊敬する。

「まぁいいや。じゃそろそろ帰るけん、大人しく寝てるっちゃよ。また放課後来るけん」
「良いです、来なくて。会議出て下さい」
「副会長がおらんと会議にならんやろ。今日は休み休み」

そうして楽しそうに衣梨奈は笑って立ち上がり、くるりと回転した。
その行動の意味が分からない。ちょっとだけキモい、なんて思ったけれど言わないでおく。たぶん、顔には出ているけど。

「じゃー、またねー里保」

里保の返答も待たずに、衣梨奈は扉を開けて外に出て行った。
ああいうのを、風と共に去りぬと言うのだろうか。相変わらず随分とムチャクチャな人だと里保は思う。
幼いころから、里保はあの人に敵わないと思っていた。なんというか、自分に持っていないものを持っていて、それが羨ましくて、自分が小さく見えた。
才能をひけらかさず、だれにでも心を開く姿が、自分には到底できなくて、眩しい。
まるで“光”のようなその存在に、自然と惹かれる私は、さながら虫のようだと苦笑する。

「ありがとう、えりぽん―――」

里保は漸く口にできた想いをなんども噛みしめながらゆっくりと目を閉じた。
握られていた左手が、撫でられていた前髪が、少しだけ温かい。先ほど感じた胸の痛みが、まだ微かに残る。だけどどうしてか、優しくも思う。
ああ、もう、どうしようと里保は右腕で目を覆った。泣きそうだ。泣いてしまおうか。それもイヤだな。となんどか心で呟いた。

壁の時計はとっくに13時を過ぎていた。
245 :雪月花 :2012/12/08(土) 18:30
以上になります。
>>239タイトル失敗しました申し訳ないですm(__)m
学園物ぽんぽんとかも書きたい今日この頃です。

ではまた!
246 :名無飼育さん :2012/12/11(火) 17:13
あんさんが書いてたのか

最近自分の中で生田株があがってきてたので嬉しいです
ぽんぽん物期待してます
247 :石川県民 :2012/12/29(土) 21:32
更新お疲れ様です。

是非!ぽんぽん書いてください!
激しく希望します!

雪月花さまのペースで頑張ってくださいませ。
248 :雪月花 :2013/01/19(土) 23:27
寒さにへこたれそうだけど先日の雪にテンションが上がった雪月花です
いくつになっても雪は嬉しいし楽しいw


>>246 名無し飼育さんサマ

はい、当方が書いてましたw
自分もえりぽんに最近興味を持ったんですが彼女もまだキャラが掴み切れません…w
ぽんぽんもそのうち投下します


>>247 石川県民サマ

コメントありがとうございます!
学園物ぽんぽんを書いたんですがあまりに気に食わず削除…いつになったら投下できるのやらw
とりあえずがんばりますw


今回はどうしても今日中に投下したかったネタ投下します
勢いで書いたものなので酷い有様ですがどうぞ
249 :冬の約束 :2013/01/19(土) 23:27
たくさんの人が過ぎ去っていくのをぼんやりと見つつ、音楽を聴いていた。
今日も寒い。
今週の頭には都心でもかなり雪が降った。
冬が寒いのは当然だけど、やっぱり苦手だ。雪は、嫌いじゃないけど。

「さぶっ……」

れいなは白いマフラーで口元を覆った。
イヤホンから大音量で流れる曲に集中しようとしても、この寒さの前では到底意味をなさなかった。
コートに入れたケータイを開く。
現在19時48分。
約束の時間まであと12分だが、だれも来ないつもりだろうか。まさかドッキリ?なんて嫌な考えが頭をよぎる。

いや、さゆみは今朝に「仕事が遅くなるかもしれない」とメールが着ていたし、来ないわけがない。
れいなも同様に仕事が入っていたが、都合良く終わり、ちゃんと約束の時間に間に合っている。
「来ない」とか「わざと遅れていく」なんて選択肢はなかった。
口でどれだけ言っていても、結局、いちばん楽しみなのは自分なんだと分かっていた。
だからいまだって、近くにあるコンビニで暖を取ることもなく、こんな吹きさらしで待っているのだ。
250 :冬の約束 :2013/01/19(土) 23:28
「れいなぁー」

その声に落としていた視線を上げた。
前方からやって来たのは声の主、さゆみだった。
白いコートにピンクのマフラー、可愛い耳当ても彼女らしいなって思った。
れいなはイヤホンを外し、「おつかれー」と声をかけた。

「やっぱれいながいちばんかー」
「はぁ?」
「言ったじゃん。れいなは面倒だとか言うけど、絶対10分前には待ち合わせ場所に来るタイプだって」

楽しそうに話す彼女にムッとした。
別に好きでいちばん最初に来たわけじゃない。たまたま都合良く仕事が終わっただけだと言おうかと思ったが、やめた。
どうせ見透かされてるんだ。なにを言っても意味がないことくらい分かっている。
れいなの無言を肯定だと受け取ったのか、さゆみはまた笑い、れいなの横に並んだ。

「あと……8分か。メールとかした?」
「してない。8時過ぎたら電話して」
「れいなが自分ですればいーのに。自分から誘っといて遅刻すっとー?って」

なんちゃって博多弁でからかうさゆみに対し、れいなはまた答えなかった。
今度はそれがお気に召さなかったのか、さゆみは口を尖らせて「へたれー」と口にした。
吐息が白く染まって闇に消えていく。本当に、本当に、冬は寒い。
れいなはポケットに手を突っ込んでひたすら「寒い寒い」と呟き、体を揺らした。
251 :冬の約束 :2013/01/19(土) 23:29
「此処まで来るって思ってた?」

寒さで思考が止まりそうになったとき、ふいに投げかけられた言葉に反応した。
体を揺らすのをやめ、さゆみの方を振り向くと彼女は含みのある笑みをこぼした。

「なんが?」
「私たち。10年もつづけてるって想像してた?」

さゆみの問いの意味をようやく理解した。
憧れの場所にやって来て、自分の立ち位置を見つけるまで足掻いてもがいて、必死になって駆け抜けてきた。
最初のうちは、5年、いやせいぜい3年つづけば良い方だと思っていた。
そうなる前にみんないなくなるだろうなんて考えていた。

でも実際は、ずいぶんと長く、多くの時間を共有していた。
その間にあまりの多くのことが起きて、正直、全部を思い出すことはできない。
嬉しいことも、楽しいことも、哀しいことも、ツラいことも、嫌なことも、悔しいことも、たくさんあった。
だけどそのとき、れいなはひとりじゃなかった。
ちゃんと隣には、大切な同期がいた。

「私、最初に辞めるのれいなだと思ってた」
「卒業じゃなくて辞めるのかよ」
「れいなって問題児だったじゃん。いまもだけどさ」

ホントにひと言多い同期だ。
だけど癇には触らない。
さゆみとの関係性が微妙に変化したのは、去年、もしくは一昨年くらいからだ。

9期メンバーが加入して、リーダーの卒業が決まって、10期メンバーが加入して。
自分たちを取り囲む環境が一気に変化して、いつまでも子どもじゃいられなくなって。
もとから仲が悪かったとか、話すことがなかったわけではないけど、あの頃になって急速に仲が深まったような気がする。
252 :冬の約束 :2013/01/19(土) 23:29
「さゆがリーダーになるとは思わんかった」
「うん。それはさゆみもそう思う」
「音程の取れんリーダーってありっちゃね」
「……最近は頑張ってるもん」

反論するさゆみにれいなは目を細めて笑い返した。
2003年に加入して、たくさんの先輩方を見送って、時には後輩を送り出して、そして同期も、見送った。
気付けばふたりの上にはだれもいない。さゆみとれいなが、頂点に立つことになった。

「はい、8時過ぎましたー」

街は相変わらず人で賑わっているが、肝心の彼女はまだ来ない。
まあ時間通り来るなんて最初から考えていないが、呼び出しておいたのだから今日くらい頑張ってほしいものだ。

「店とか予約しとーと?」
「してなさそー……今日土曜で混みそうなのに」

さゆみはそう言うと手袋を片方外し、携帯電話を操作し始めた。
ガラケーユーザーはもうれいなだけだ。指で滑らかに操作するのも憧れるが、まだしばらくはいまのままで良いや。

「最長どんだけ遅刻したっちゃっけ?」
「4時間」
「……帰る」
「えー。せめて現役ふたりでお祝いして帰ろうよー」

さゆみも彼女が来ないことを想定しているのか、それとも冗談か、れいなのコートを掴んで笑った。
あながち、本気かもしれないと思うあたり、いかに彼女がだらしないかが分かる。
253 :冬の約束 :2013/01/19(土) 23:30
彼女は卒業してからも全く変わってないんだろうなとれいなは夜空を見上げた。


―――6期3人でって夢は、もう、叶えられんけど


れいなはふいに、あの日のことを思いだした。
あの日も今日のように寒くて、だけどとても熱かった。
れいなが同期に誓った、遠い約束。
そしてもうすぐ、れいな自身もこの場所から歩き出すことになる。

「約束…」
「うん?」
「果たせたっちゃろか……ちゃんと」

そうしてれいなはひとり言のように呟いた。
モーニング娘。に加入した当初から抱いていた夢があった。
いつか、いつか6期3人でモーニング娘。を引っ張っていこうという、ずいぶんと壮大な夢。
そんな日が来るなんて、その当時は全然想像もつかなかったけれど、ただ漠然とそんなことを思っていた。

その夢は、同期の亀井絵里の卒業で崩れてしまった。
加入時に持っていた大きな夢はもう叶えられることはない。
だからこそ、れいなは絵里が卒業する日に「約束」をした。


―――これからは、れいなとさゆで、ガンガン引っ張っていくけん


年齢も、加入時期も、キャリアも、れいなとさゆみがいちばん上になった。
約束を果たすための土台はできあがり、ただ我武者羅に今日まで走り抜いてきた。
そしていまも、れいなが卒業するその日まで、ずっと突っ走っていくことになる。
れいなはあの日の約束をちゃんと果たせているのだろうか?なんて、唐突に思った。
254 :冬の約束 :2013/01/19(土) 23:31
「ずーーっと進化していくものだからね」
「え?」
「モーニング娘。ってそういうもんだから。だから、れいなとさゆみも、まだまだ約束の途中、ってとこじゃない?」

さゆみはそう言って笑った。
その笑顔は大人っぽいけど、どこかあのころの13歳のさゆみを彷彿とさせた。
全然違うはずなのに、なんだかちっとも変っていない気がする。
ずいぶんと矛盾したことを感じているのは分かっているけど、れいなはそれ以上は考えずにただ頷いた。

「てことは、もっと頑張らんといかんちゃね」
「ま、卒業まで5ヶ月だし、楽しんでほしいんだけどね」
「アハ。楽しんどぉよ、結構」

れいなはそうして夜空を仰いだ。
いつか見たのと同じくらい、東京の空は明るすぎて星はわずかにしか見えなかった。
寒さに震える雪白の月も真ん丸には程遠い。ただ月は、真っ直ぐにれいなとさゆみを見下ろしていた。
目を細めて深く息を吸い込む。冷たい空気が肺を刺激して、痛いけれど何処か心地良い。

冬は寒いから苦手だ。それは変わらない。
だけど、まあ、こんな夜も悪くないかななんてぼんやり思う。
ああ、ホントにずいぶん丸くなったんだなと自覚して肩を竦めた。

「で、亀井さんはまだですか?」
「だかられいな電話してよ。さゆみお店調べてるから」

さゆみからそう言われ、れいなは渋々電話帳を呼び出した。
255 :雪月花 :2013/01/19(土) 23:31
-------

このあと、絵里は既に自分で予約した店で待っているのだと電話口でれいなを怒った。
なんでふたりして来ないのだと責められたが、「予約した店なんて知らんしメールもらっとらん」とれいなが正論を言うと彼女は一瞬押し黙った。

「連絡、してないっけ……?」
「しとらん。さゆも聞いとらんみたいやけど?」

携帯を持つ手が震え出したのを見たさゆみは慌ててタクシーを呼び止め、強引にれいなを押し込んだ。
絵里の予約した店に入ったのはそれから15分後のことだった。

ご機嫌斜めであったれいなだが、懐かしい顔がヘラヘラ笑って「ごめぇん」と謝るのを見て、その気概を削がれることとなった。
結局はこうなるっちゃなとコートを脱ぎ、3人は仲良く甘いカクテルや梅酒をオーダーし、その10年に乾杯した。
256 :雪月花 :2013/01/19(土) 23:32
以上になります
最後だけタイトル失敗しました申し訳ないm(__)m
6期メンバー加入10年おめでとう!

ではまた!
257 :名無飼育さん :2013/01/25(金) 21:27
あの問題児3人(+1人)が娘。の中核を担い引っ張っていき現在2人残るとは
10年前には思ってもなかったです。
季節とネタと人物の絡ませ方に巧さを感じます
258 :雪月花 :2013/03/18(月) 21:11
春の風が吹き荒れて無造作ヘアになってます雪月花です
遂にれいなラストの春ツアー始まりました!今回も参戦したいけど行けるかな……


>>257 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
音程を知らない問題児がリーダーに、返事のできないヤンキーがエースになるとは想像できませんでしたw
問題児の物語がまだまだ続いていくのを見るのが楽しいです


今回は和気藹々とした学園物ぽんぽんの予定だったのですが
今さら「ステーシーズ」設定をお借りし、勢いで書き殴ったぽんぽんです
嫌な予感がされた方はスルーをお願いしますm(__)m
259 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:12
身震いと同時に目を覚ました。
重たい瞼をゆっくりと開ける。見慣れた白い天井が目に入る。肌寒いのは、なにも着てないせいかと理解する。
右の耳元に甘い吐息がかかったのを感じ、そちらを向く。
彼女が寝ている。ずいぶんとシアワセそうな寝顔だ。右手は腕枕のまま、彼女の頭の下にある。
空いている左手を伸ばして、彼女の髪を耳にかけてやる。

「っ―――」

伸ばした際に背中が痛んだ。
そっと触ってみると、傷ができていることに気付く。昨日引っ掻かれたのか。爪そんなに伸びてないはずなのにと彼女の手を見る。
爪先に皮膚と血がこびりついていた。やっぱり爪はさほど長くはない。相当力を入れたなと苦笑する。
いま何時だろうと枕元の携帯に手を伸ばした。また背中が痛む。

「8時…か」

起きるにはまだ少しだけ早いかもしれない。だが、背中のせいですっかり目は冴えていた。
シャワーでも浴びようかとそっと腕枕をしている右腕を引き抜く。
「んっ…」という抜けるような吐息のあと、彼女が目を開けた。ああ、起こしてしまったか。

「へへ、おはよ…えりぽん」
「ん。おはよ、聖」

衣梨奈は上体を起こし、隣で眠っていた聖に毛布を掛け直してやった。
ベッドの下に落ちているシャツに腕を通す。いまからシャワーを浴びるのになんだか無意味な気がしたが、寒いので仕方ない。
260 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:13
「起きるの?」
「うん。シャワー浴びてくる」
「フフ。じゃあ聖も行く」

聖はそう言うと毛布を剥がし、上体を起こした。
昨日も目にした彼女の裸体がいやでも目に入ってくる。真白い肌と大きな胸、所々に赤黒い痕が残っている。
「力を入れた」と彼女のことを批判したけれど、同じくらい激しいことを自分もしているじゃないかと苦笑した。

「なに笑ってるの?」
「いや。聖は相変わらずおっぱいおっきいっちゃねと思って」
「もー。すぐそういうとこばっかり見て。フフフ」

聖はまた笑った。本当に、彼女はよく笑う。
その笑顔は初めて出逢ったあの日からなにも変わっていない気がした。
衣梨奈は彼女の手を引いて、脱衣場へと向かった。風呂場まで手を繋ぐなんて、初めてだった。
261 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:14

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それがいったいだれの仕業によるものかは分からない。
学者が長年かけて分からなかった問題が、衣梨奈に分かるはずもない。

突然、それはやって来た。
14歳から16歳までの少女たちが、突然狂い死にを始めるという原因不明の奇病が蔓延した。
彼女たちは突然死したのち、2時間から半日以内に再び起き上がる。魂のない屍少女として甦る。
いわば「ゾンビ」として復活した彼女たちに、学者は「ステーシー」と名付けた。
名前の由来もあった気もするが、衣梨奈は覚えていない。

狂い死にをする兆候として、多幸感に満ちて笑い出す「ニアデスハピネス」が起きる。
最初のニアデスハピネスを発症し、1時間から1日、遅くとも7日以内に1度目の死が訪れるらしい。
少女たちを再殺するには、165分割の肉片にするしかない。

どの文献を読んでも、書いてあることは同じだった。
衣梨奈が10歳のころに始まった現象だが、それから5年経ったいまでも、打開策は見つけられていない。
最初の1年は、それこそ世界は地獄絵図のような光景だった。
知人が、姉が、親友が、妹が、クラスメートが、恋人が、突然死して甦り、人肉を貪る。
銃をぶっ放しても、ナイフで滅多刺しにしても動き回る彼女たちを葬り去る方法などないのではないかと絶望した。
だが暫くすると、政府は「再殺部隊」を組織し、165分割にできるチェーンソーが手軽に購入できるようになり、再殺の光景は日常化した。
哀しみは消え去り、憎しみは遠ざかり、狂気さえも、枯れ果てた。
262 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:14
感情が消えるというのは楽なことだ。
食事の味がしないというのは少しばかりつまらないが、もう慣れたものだ。
それに応じてか、食欲がなくなった。年頃の女の子だというのに。
その分食費がかからなくて済むのはありがたい。一応、こんな狂った世界でも、お金という概念はなくならない。
衣梨奈の部屋にある旧型のチェーンソーは、その「お金」で両親が2年前に購入したものだ。錆びつきやすいのでマメに手入れをする。
本来、衣梨奈を再殺するために購入したものらしいが、両親はその直後に蒸発した。
ニアデスハピネスでもなく、ただ衣梨奈が笑うだけで、彼らは憐みの目をこちらに向けていたので、なんとなく、察しはついていた。
まあ仕方ないだろうと衣梨奈はすんなり納得したが、だだっ広い家にひとりで住むのは、少しだけ寂しくも思った。
だからというわけでもないけれど、衣梨奈は聖と住むようになった。
共同生活を始めるうえで、ふたりはひとつだけ、“約束”を交わした。

「えりぽん。今日も図書館行く?」

湯船につかっていた聖がふとそんなことを言った。
衣梨奈は思考を止め、シャンプーを洗い流しながら「いや、行かん」と口にする。

「今日は、散歩しよ」
「散歩?」
「良い天気みたいやし、春やしさ。桜、見に行かん?」

衣梨奈がそう言うと、聖は目を細めて笑った。
「行く〜」と嬉しそうに言ってお湯をぱちゃぱちゃと手で弾く。
彼女はまるで幼い子どものようだ。衣梨奈よりひとつ年上なのに、とてもそうは見えない。
少し前までは、凛とした大人っぽい女の子だったのになとボディーソープを2回プッシュする。
ばしゃっと水が撥ねる音がする。上がるのだろうかと思っていると、背中に柔らかい感触を覚えた。
後ろから抱きしめられていると気付いたのはそのときだ。

「背中、洗ってあげよっか?」
「なんで?」
「ちょっと、痛そうだから」
263 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:15
聖が指の腹で背中についた爪痕を撫でた。
ぞくぞくと快感に震える。

「聖が昨日メチャクチャ引っ掻いたけんね」
「エヘヘ。ごめんごめん。気持ち良かったからついね。ウフフ」

背中に触れる聖の胸が柔らかくてときめいた。
言動は子どもっぽいのに、外見は何処までも大人だ。そういうところは変わっていない。
衣梨奈はボディーソープを染み込ませたタオルを聖に渡すと、彼女はまた笑う。
タオルの感触の前に降りてきたのは温かくて甘い唇で、衣梨奈は再びぞくっと体を震わせる。
ちゅっ・ちゅっと音を立てるようにキスが落ち、引っ掻き傷を舌で舐められた。

「っ…くすぐったい……」
「それだけ?気持ち良くない?」

振り向かないけれど、聖がいたずらっ子のように笑っていることくらい分かる。
少しだけ熱っぽくなった顔を見られるのが恥ずかしくて、衣梨奈はなにも言わず、唇を噛んで堪えた。
聖はすっと後ろから手を伸ばし、顎に触れる。そのまま振り向かされ、キスをした。
甘いキスにすぐに夢中になり、舌を突き出した。

「んっ…んっ、ん、ふっ…あ……」

体が冷えてしまいそうだったけれど、キスをやめるつもりはなかった。
どうせこうやって彼女とキスできるのなんて、あと何回かしかないのだから。
264 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:15

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聖がニアデスハピネスを発症したのは4日前のことだ。
その日、初めてというほどに、衣梨奈に絶望が襲いかかった。
仲の良かった友だちや親戚がステーシー化するのなんて日常茶飯事で、
商店街で再殺が行われているのを見るのもいつもの光景で、道端に細分化された肉片が落ちていて、それをカラスが突っつくのも珍しくなかった。
衣梨奈もいつかああなるのだろうかなんて冷めた目で眺めていた。
それもしょうがないか。この現象は、「かみさまのきまぐれ」らしいしと納得していたのに。

「聖―――」

彼女がシアワセそうに笑い、楽しそうに話す姿を見て唐突に涙が溢れてきた。
感情なんてとっくに失くなったと思っていたのに、涙が止まることはなかった。

「えりぽんなんで泣いてるの?ウフフフ。病院行く?ヘヘヘ、ぽんぽんが痛いの?」

衣梨奈は聖に手を伸ばした。
精一杯の力で抱きしめた。そうすれば、彼女が此処から何処へも行かないような気がしたから。
でも、現実はそうはいかなくて、恐らく何日かすれば、聖に1度目の死が訪れ、そしてステーシーとして甦る。
分かってはいたけど、それでも衣梨奈は、聖を失いたくなかった。

衣梨奈は聖を連れて、街の図書館へと向かった。
悪い頭ではあったけれど、とにかく文献を漁ろうと読み耽った。
ステーシーに関する文献は多いが、どれも似通った文章ばかりでうんざりする。
解決策も、原因も、人類の行く末も分からない。ただただ「かみさまのきまぐれ」という言葉が並んでいた。
265 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:16
分かっている。
どれだけ本を読んだところで、彼女を止めることはできない。
聖に待っているのは、1度目の死と、人肉を求めるステーシー化だ。
分かっている。分かっている。分かっているっちゃよ、聖―――

「私たちってなんでステーシーになるんだろうね?」

図書館に籠って3日目の夕方、彼女は唐突にそんなことを言った。
衣梨奈が首を傾げると、聖も同じように首を傾げて笑う。

「えりぽん分かる?」
「分からん」
「聖も分かんない。ウフフ。かみさまのきまぐれだって。かみさまって暇人なんだねー」

なるほど暇つぶしか、と衣梨奈は本を閉じた。
確かに、この現象に意味づけをすることは無意味なのかもしれない。
原因が分かったところで、それを止める術はないし、いずれこの世界から女は消え去り、そのうち世界は滅びるのかもしれない。
それもまあ、仕方のないことなのかもしれない。
かみさまとやらがそれを望んでいるのなら、抗う術はないのだし。

「かみさまに会ったら聞いとくね。なんでステーシーにするのって?エヘヘ答えてくれるかなぁ?」

窓辺に立った聖は右手を翳し、遠い夕暮れの空を睨んだ。
雲の上、空の向こう、遠い何処かでこの世界を見ているであろうかみさまに聞こえるように、彼女は呟く。
再殺された数多くのステーシーたちは、かみさまの御許へと行くのだろうか。
もしそうだとしたら、かみさまとやらは単にハーレムをつくりたいだけなのではないかと衣梨奈はぼんやり思った。
266 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:17

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春の優しい風が吹く午後、衣梨奈は聖と川辺を歩いた。
キラキラと川に光が反射して眩しい。

「春だねえ」
「うん。春やねえ」
「今年こそお花見したい。桜の下で、ジュース買って、おにぎりとか唐揚げとか玉子焼きとか食べたい」

今年こそ、という言葉に衣梨奈は「あー、去年できんかったもんね」と返す。
去年、「お花見しよう」とふたりは言い合っていたのだが、雨が降ったりタイミングが合わなかったりとで、結局その話は流れてしまった。
そのリベンジができるだろうかと衣梨奈は目を細める。
花見をするには、もう少し桜がほしいものだ。1週間前に東京で桜の開花が認められたらしいけれど、この地区ではまだ2分咲きと言ったところだ。

「この先の中央公園とか咲いとーかもね」
「ウフフフ。じゃあ行こっ!おにぎり買って、ジュース買って」

聖は衣梨奈の手を離し、軽快に走り出した。
待ちきれない子どものように、白いスカートを靡かせて、彼女はどんどん前に進んでいく。
可愛いなあなんて、まるで初恋のように想った。実際、聖は可愛いのだけれど。
聖は振り向かないで走っていく。背中が段々と遠くなる。
思い出したように衣梨奈は追い駆けた。50メートル走は得意だ。すぐに追いつく。
聖の手首を握る。彼女が振り返る。くるりとダンスをするように彼女はステップを踏み、衣梨奈の胸へと飛び込んでくる。

「えりぽん、ねぇえりぽん、ンフフフ」
「なんね、聖」
「フフ、聖ね、えりぽんから“聖”って呼ばれるの好き。もっともっと呼んでほしいの。エッチするときみたいに」
「ちょっ、こんな場所でそんなこと言わんと!」
「エヘヘ。だって、エッチするときのえりぽん、切羽詰まっててセクシーで可愛いの、フフフ」

ずいぶんと恥ずかしいことを言ってくれる。
そもそもセクシーと可愛いっていっしょに使って良いのか?
衣梨奈は頬を紅潮させながら、聖の額にデコピンをする。聖は怒ることなく、また笑う。
やれやれと肩を竦めながら歩き出す。ふたりの手は繋がれたまま、中央公園を目指す。
267 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:17
中央公園にはひとがだれもいなかった。
気の早い花見客の場所取りらしきレジャーシートがふたつ敷いてあるだけ。
肝心の花は、やっぱりまだ2分咲きで、花見をするには、少し寂しい。

「ウフフ。まだまだこれからだね」

聖はベンチに座ると、ぶらぶらと脚をばたつかせながら言った。
桜はこれからの季節だ。とはいえ、公園には20本もの桜の木がある。全部が満開になったら、それは爽快だろう。

「どれくらいで満開かな?」
「うーん、咲いて散るまで1週間くらいやから、あと2日とか3日くらいやない?」
「そっかぁ。じゃあ明日また来よ。明日来て、えりぽんとまたお花見するの」

衣梨奈は「はいはい」と笑い、聖の頭を撫でてやった。聖は嬉しそうに目を細めて笑う。
その仕草は少しだけネコのようだと想った。上品な気品あるネコ。きっと彼女の前世はお姫様なのだろう。もしくは皇族かもしれない。
そんなことを考えながらコンビニで買ったおにぎりとお茶のペットボトルを取り出す。
お花見には早いが、公園でのランチも悪くはない。
衣梨奈が1本のお茶を聖に渡すと、嬉しそうに受け取って口をつけた。

「明日も、明後日も、その次の日も、お花見しよっ」
「アハハ。毎日すると?」
「うん。毎日毎日まーいにち。ウフフ、お花見大好き!去年の分も、いっぱいするんだぁ」
268 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:18
聖は買ってきたおにぎりを頬張った。
ご飯粒が口元についている。衣梨奈が苦笑しながら指で取ってやると、彼女はその指をぱくっと咥えた。

「衣梨奈まで食べんでー」
「ウフフ、食べちゃうぞー。えりぽん食べちゃうぞー!アハハ」

聖がこのままステーシーと化したら、衣梨奈は食べられるのだろうか。
どこから彼女は食べるのだろう。
とりあえず首元に噛みついて息の根を止めるだろう。動かなくなったところを馬乗りになり、肩に噛みついて腕を引きちぎるだろう。
腕を食べたら次は胸元か。母親のおっぱいを吸うように、聖は衣梨奈を貪る。
馬乗りで食べる姿は、まるで騎乗位のようで、少しだけ、エッチだ。聖はエッチなのだ。彼女は意外と、衣梨奈の上で腰を振るのが上手い。
昨日そうやって本人に言ったら、怒った。そうだ、引っぱたかれたんだ。しかも結構強めに。叩かれた右頬が痛かった。

「えりぽん、えりぽん!」
「うん?」
「もう。聖って呼んでよー。聖はいっぱい、いーっぱい、えりぽんって呼んでるのにぃ」

ああ、ごめんと衣梨奈は聖を撫でる。聖はまた嬉しそうに笑う。
昨晩の聖の腰の振り具合を考えてましたとは言えない。また叩かれては敵わない。
衣梨奈は「聖の“み”は、みだらのみー」と口にした。そして案の定、叩かれた。

「バカ!バカバカバカ!」
「聖の“ず”は……“ず”ーはー…」
「浮かばないの?ウフフ。もう、バカ。アハハハハ」

なにも浮かばない自分が妙に間抜けに思えた。全部エッチな言葉に変換しようとしていたのに。見切り発車も良いところだ。
さすがに「ずっちゃってエロい音がする」とまでは言えないし。
“ず”ってなんだよ、“ず”って。
269 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:19
「えりぽんの“え”は、えっちのえー」
「ああ、それ当たっとぉかも」

聖の言葉に、衣梨奈は笑った。つられるように聖も笑った。
公園にはふたりの笑い声が響いた。アハハハハ・ウフフフフ・エヘヘヘヘ。
遠くの方で、チェーンソーが回る音がする。ああ、今日もだれかがだれかを再殺している。
その音をかき消すように、衣梨奈はひときわ大きな声で笑った。


携帯のカメラ機能で10枚ほど写真を撮った。
ツーショット、2分咲きの桜をバックに。よし、可愛い。衣梨奈も可愛い。聖は当然可愛い。

「待ち受けにしよっかな」

衣梨奈はそうして携帯を操作する。
いちばんふたりが可愛く撮れたやつにしよう。

「……えりぽん」

待ち受け画面に設定した直後、隣にいた聖が衣梨奈を呼んだ。
いつものように「うん?」と振り返る。
聖は視線を落としたあと、「ごめん……」と呟いた。
それは、いままでの子どもっぽい声ではなく、昔のようにしっかりとした、それでも優しい声だった。
唐突に、ドキッとする。
270 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:19
「ごめん……いっしょに、お花見、できないや」

顔を上げた彼女は、相変わらず笑っていた。
だけどそれは、多幸感に包まれたニアデスハピネスではなく、困ったときに彼女が見せる、笑顔だ。
子どもっぽい衣梨奈と違い、彼女は大人だ。聖はやっぱり、お姉さんなのだ。

聖の笑顔を見たとたん、衣梨奈は全てを理解した。
理解せざるを得なかった。
だってそれ以外に、解釈の余地なんてないのだから。

するりと携帯電話が手元から滑り落ちる。
拾う時間さえも惜しくて、衣梨奈は聖を抱きしめた。強く強く、背骨がこのまま折れてしまうほどに、抱きしめた。
髪をかき上げ、唇を奪った。
思いやる余裕もなく、口内に割って入り、舌を探し当てた。
聖は逃げなかった。衣梨奈に応えるように絡めてくる。衣梨奈も彼女を蹂躙する。唾液が行き交う。息が短くなる。

「はっ…ん、んっ!ん、ふぁっ…えり……ぽんっ」

抜けるような吐息の中でも、彼女は衣梨奈の名前を呼ぶ。
もうすぐ聞けなくなってしまうであろうその名前は、あまりにも輝きを放っていた。

「っ……みず、ん、聖っ!」

激しいキスに、立っていられなくなる。
先に負けてしまったのは衣梨奈の方だった。
情けないように膝を折り、唇を放す。
聖がそのまま覆いかぶさってきた。どさりとふたりは倒れる。
聖を下から見上げる。長い髪が垂れる。その奥の瞳が真っ直ぐに衣梨奈を捉える。やっぱり騎乗位だ。聖はエッチだ。エッチで、可愛くて、大好きだ。
271 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:20
「守ってね……」
「え?」
「“約束”、ちゃんと守ってね」

彼女の言葉に目を見開いた。
聖との共同生活を始めるうえで、ふたりが交わしたたったひとつの“約束”。
衣梨奈はそれを、果たさなくてはならない。他ならない、世界でたったひとりの彼女のために。

「フフフ。えりぽん。えりぽん。えりぽん」

聖の瞳がふわふわ揺れる。
まるで夢の中に泳いでいきたい子どものように、瞼が閉じかかる。

「聖……聖。聖。聖!!」

行くな。行くな。行くな、聖。
子守唄を遮るように衣梨奈は名前を呼ぶ。だけど、もうすぐ、届かなくなる。

「好きよ。大好き。壊してほしいの。えりぽんに。このまま。ウフフフフ。えりぽん。大好きよ」
「聖っ!衣梨奈も、衣梨奈も聖が好きっちゃ!世界でいちばん、愛しとーと!聖!」

だから、だから行くな。
聖の名前なんて何べんでも呼んでやる。飽きるほど、聖って大声で叫ぶから。
だから、ねえ。だから行かんで。お願い。聖!!

「へへへ。フフ。ンフフフ。好き。えりぽん。フフフフフ。好き。好き。アハハハ」

瞬間、衣梨奈はその口を塞いだ。
もうこれ以上、聞きたくない。彼女の呼ぶ「えりぽん」が大好きだったのに、聞きたくない。
聞いておくべきなのに。もう二度と聞けないその名前を、なぜ塞いでしまったのだろう。
272 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:20
「っ……あ、あっ、えり、ぽ、」
「みずき…んっ、み、ん、みずき」
「フフ。好き、よ。えりぽ―――」

それが結局、最後だった。
彼女は糸が切れたように腕を折り、だらりと衣梨奈にもたれかかった。
衣梨奈の視界に青い空が広がった。もうすぐ夕方がやって来るのか、何処かオレンジを帯び始めた空が、綺麗だった。

聖に、1度目の死が訪れた。
つうと目尻に涙が伝った。感情が失くなったなんて嘘だ。なんでだ。ああ、もう。ウソやろ?

「―――――――!!」

叫ぶことは敵わなかった。
愛しいその人の名を呼ぶことも、慟哭することもできず、口を大きく開けて、声にならない想いを吐いた。

だが、このまま此処で泣いている暇はない。
やるべきことは、まだある。
衣梨奈は聖の死体を押しのけた。立ち上がって見下ろす。聖はもう、衣梨奈の名前を呼ばない。だけどまた動き出す。
そのときはまた、衣梨奈に笑いかける。
ぐっと涙を拭う。彼女は動かない。動かない。ねえ、いっしょにもう歩けんと…?

衣梨奈は落としていた携帯を拾い、此処からいちばん近い家電量販店を探した。
片道15分程度かかるが此処にしよう。いまならまだ、2時間という余裕がある。
衣梨奈は聖をベンチに座らせると、彼女を置いて公園を走り去った。
273 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:21

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衣梨奈はベンチに座り、彼女が目覚めるのを待った。
その手元には、先ほど買ったチェーンソーが握られている。在庫処分らしく、定価1650円から3割引きだった。
世界はオレンジ一色に染まっていた。春はあけぼの、なんて清少納言は言ったけど、夕暮れも悪くないと思う。
だけど、今日の夕焼けはあまり綺麗じゃない。そう思うのは、此処に居るのが衣梨奈ひとりだけだからだろうか。
もうすぐ、ひとりはふたりになる。そして、またひとりになる。正確に言えば、ひとりと肉片になる。
どちらが肉片と化すかは、分からない。

ポケットに入れていた携帯で時間を確認する。
彼女が死んでから、もうすぐ2時間が経つ。
2時間から半日以内にステーシー化すると文献には書いてあった。
夜になるのは避けたい。視界が悪いと面倒だ。公園にライトがつくとはいえ、頼りない。

待ち受けには、先ほど撮ったツーショットがある。
可愛いなあもう。聖は可愛い。
待っているのも暇だしと画像フォルダを開く。
小さな画面の中には、聖が何人もいる。
オムライスを食べる聖、本を読む聖、慣れないパソコンを操作する聖、テレビを見る聖、髪を結ぼうとする聖、ジャンプする聖。
聖はこちらに笑いかける。屈託なく、子どものように、優しく。


―――えりぽんっ


彼女の呼ぶ名前が好きだった。
もう二度と呼ばれないその名前が、まるで画面から聞こえてくるようだった。
274 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:22
「聖……」

画面の中に呼びかける。だけどもう、彼女は答えない。
仕方のないことなんだ。これは「かみさまのきまぐれ」で、抗うことはできない。
そう。仕方がない。だれも悪くないんだ。再殺部隊も、親も、クラスメートも、友だちも、衣梨奈も、聖も。


ふいに、風が吹いた。
春の風は優しく衣梨奈の前髪を撫でる。夜の始まりを告げる風は少しだけ、冷たい。2分咲きの桜が舞っている。
ぴくり、と彼女の指が動いた。
気のせいではない。
注意深く、彼女を見る。
人差し指がぴくぴくと動く。
ゆっくりと腕が伸びていく。沈みかけの太陽を掴まんと、空へと上がる。

衣梨奈は前髪をかき上げ、立ち上がる。
良かった。夕日が沈む前に目が覚めてくれそうだ。おはよう、お姫様。おはよう、聖。ああ、今朝も言ったっちゃねこの言葉。
右手にチェーンソーを構える。まだ歯は回さない。どうせ、電池の無駄だ。

聖はゆっくりと頭を擡げた。
上半身を起こしたあと、のっそりと立ち上がる。
ベンチの上に仁王立ちした彼女は天を仰いだまま、動かない。
オレンジに染まった空を睨んだあと、ガクンと首を曲げた。衣梨奈をその瞳に捉えた。
その瞳には、光はもう、ない。口をくわっと大きく開け、舌をべろべろと動かしている。だが、それでも彼女は、美しい。
275 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:23
「おかえり聖。また、逢えたっちゃね」

震える声を絞り出して話しかけるが、彼女は答えない。
カツン・カツンと靴の音を立て、彼女はベンチから降りる。
聖と衣梨奈は正対する。彼女の方が身長が高いせいか、威圧感は十分だ。
おいおい、ビビるな。ビビると死ぬぞ。死んだらもう、戻れないっちゃよ。

「ハハ。聖はステーシーになってもメッチャ可愛いかよ」

衣梨奈はそう笑いかけ、チェーンソーの電源を入れた。
勢い良く歯が回転する。けたたましい音が公園中に響く。

「聖……」

聖の名を呼ぶが、彼女は答えない。
ぐるぐると喉を鳴らし、衣梨奈を見る。喰らいつくそうと涎を垂らす。目は血走り、衣梨奈を殺そうと忙しなく回転する。
手の骨がボキボキと小気味良くなる。さほど長くない爪が夕陽に照らされて光る。先日切っておいて良かった。あの爪で切り裂かれては敵わない。

「聖ッ……」

それはたぶん、かみさまのきまぐれ。
ある日突然、少女たちが狂い死に、人肉を求めてさ迷い歩く屍少女と化す。

「………なんでや、聖」

それはたぶん、かみさまのきまぐれ。
ステーシーと呼ばれる屍少女を再び葬るには、165分割にするしかない。

「なんでやぁぁぁぁぁっ!!!」

それはたぶん、かみさまのきまぐれ。
すべては必ずかみさまのもとへと繋がっている。
きっと、きっとまた逢えるから、それまで、さようなら。

「大好きっちゃ…大好きっちゃ聖ぃぃぃぃ!!」
276 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:24
瞬間、聖が地面を蹴り上げた。
襲い掛かってきた聖を躱す。動きが早い。うかうかしていると、喰われる。喰われる。喰われるわけにはいかに。
衣梨奈には、果たさなくてはいけない“約束”がある。
聖の左手が鋭く衣梨奈の腹を抉ろうとする。避ける。避ける。一歩引いて、堪え、鋭く回りつづけるチェーンソーを振り翳した。


「もー。えりぽんのバカぁ」


ふいに彼女の声がする。
聖の柔らかくて甘くて優しい、声が聞こえる。
彼女のその包み込んでくれるような、まるで春を思わせるような声が、衣梨奈は大好きだった。


「待ってよえりぽん!」
「えりぽんが彼女だと、振り回されそうだなー。でも、いろいろ連れてってくれそうで楽しそう」
「ほら、えりぽん。野菜もちゃんと食べなきゃダメだよ」
「ねえ見てえりぽん!コレ可愛くない?」
「えりぽんの“え”はえっちのえー」
「フフ。大好きだよ、えりぽん」
「えりぽん。好き。大好き」
「愛してるよ、えりぽん。フフ、恥ずかしいね、改めて言うと」
「ねぇ、えりぽん」
「えーりぽん」
「えりぽんえりぽんえりぽん!」

「えりぽんっ」


脳内に響く声は段々と小さくなっていった。
それに比例するように、衣梨奈のチェーンソーは確実に聖の体を捉え、刻み、バラバラにしていく。
もう彼女は、左腕と右脚の膝を失い、バランスを崩している。
タイミングを逃さないうちに馬乗りになり、胸と腹を切り裂く。騎乗位の聖も好きやけど、やっぱ正常位も好きっちゃよ。
277 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:25
「なぁ、聖ッ……」

ざくざくざくざくと聖を刻む。
バラバラに、肉片に、165分割に。彼女を、聖を、ステーシーを再殺する。
ステーシーの体から分泌される鱗粉は銀色に輝き、まるでハーブティーの香りだった。その香りが心地良い。
2分咲きの桜とともに舞う銀色の鱗粉とハーブティーの香りはまるで幻想のようだった。
これは夢なのか?それとも現実?いわゆる胡蝶の夢?
あれ、その小説書いたのだれだっけ?小説だっけ?格言?故事?忘れたっちゃ。

「っ…みずきぃ!」

衣梨奈の下にいるのは、いつもの聖ではなく、ただの物言わぬステーシーでしかない。
ステーシーは屍少女で、ただ狂ったように人肉を求めて彷徨い歩くだけだ。
こいつに感情はない。言葉も話さない。痛みも感じない。そうやろ?そうやろ?そうやろ?

「聖い!!」

それなのに、それなのに、それなのに、瞼を閉じればいつも、あなたの笑顔が浮かんでは離れない。
あの優しくて可愛くて美人で大人っぽくて、いつも衣梨奈の隣にいてくれた聖の笑顔が、こびりついている。

「聖!」

ケタケタと笑う彼女がぴたりと動きを止め、半分になった右腕を伸ばしてきた。
ぐるぐると回っていた瞳は、ただ真っ直ぐに衣梨奈を見つめていた。肉片としてか、「生田衣梨奈」としてか、分からない。
聖の姿はまるで再殺されることを望んでいるかのようにも見えた。
278 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:26
それはたぶん、かみさまのきまぐれ。きっと彼女に、そんな意志なんてない。
だけど衣梨奈はその瞬間、聖の笑顔を見た気がした。
大人っぽくて、優しくて、衣梨奈の隣にいつもいてくれた、彼女の、聖の「笑顔」を見た気がした。

「ありがとう……ごめん……大好きっちゃっ!」

云うべき言葉はそれしかなかった。
この数年間、彼女とともに同じ屋根の下で暮らし、同じ時間を共有し、衣梨奈は聖に恋をした。
果たしてその恋の形が歪だろうと、構わない。確かに衣梨奈は聖が好きで、聖もまた、衣梨奈が好きだった。
ただ真っ直ぐに心から想っていれば、その形に正解や不正解など、だれが判定できる?
だから衣梨奈は、聖に伝えた。
心に浮かんで消えることのなかった想いを、たったの3つの文節で伝えた。

「――――聖ぃぃぃぃ!!」

衣梨奈は真っ直ぐにチェーンソーで、聖の体を貫いた。
断末魔のあと、肉片が飛び散った。
ハーブティーの香りと銀色の鱗粉が舞い上がる。死肉特有の臭みは全くない。

聖の腕は崩れ落ちた。
それでも衣梨奈はチェーンソーを回し続け、さらに聖を細分化していった。
じゃりじゃりと肉を削ぎ、骨を削ると、段々とその原型はなくなっていった。
周囲に飛び散って蠢いていた腕や脚、指がその動きを止めていく。
ああ、もうそろそろ、165分割できそうだと実感する。
まだ足りないのか。まだ切り刻む必要があるのか。何処を切れば良い?どの骨を砕けば良い?どの肉を刻めば聖は―――


―――えりぽん


顎、額、頬と、できるだけ手を付けなかった顔の部位に歯を突き立てた。
彼女の柔らかくて赤みを帯びた顔もなくなっていく。
アハハ。此処まで来ると、もう、“これ”が譜久村聖だって言っても、だれも信用してくれんよ。
衣梨奈は口角を上げ、チェーンソーを振るう。
まだか。まだ死なないのか。まだ再殺できないのか。これでもか。これでもか。これでもこれでもこれでも。
聖。もう、お願いやから。なあ、聖。ねえ聖。これ以上。もう、お願い。だから。ね、聖。
279 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:26
瞬間、笑った気がした。
微かに残った彼女の口元が嬉しそうに、だけど何処か寂しそうに笑った気がした。
まるで「ありがとう」とでも言うかのように、聖の口元が動いた。
そんなことは科学的には100%あり得ない現象だから、たぶん、衣梨奈の気のせいなのだけれども。

衣梨奈の視界に入っている聖の肉片がとうとう動きを止めた。
ちろちろと羽虫のように蠢いていたそれらはぴたりと動くのをやめ、ただの肉と化した。
ああ、やっと、やっと終わったんだと衣梨奈は悟った。
ぶおんぶおんと不快な音を立てて回っていたチェーンソーを止める。

公園に静寂が残る。
衣梨奈の下には、165以上の肉片と化した元ステーシー、さらには元人間がいた。
もはや原形をとどめていない。
腕も足も手首も、腰も胸も目玉も、何処か飛んで行ってしまった。
これが衣梨奈の愛した人やったっけ。アハハ。もう分からんよ。福笑いなんてできそうやね。

「ね、聖」

衣梨奈は彼女の名を呼んだ。
もう呼ばないと想っていたのに、この肉片に対してもなお、衣梨奈は恋をしていた。
たとえば「時が解決する」という格言に対して、衣梨奈はこの段階では反論せざるを得ない。
だって衣梨奈は今此処で、生きているのだから。
将来の自分なんて保障されていない。衣梨奈はいま、此処で瞬間を生きている。衣梨奈の世界は、此処なのだから。

夕陽が沈んだ。
世界が闇に覆われる。夜が始まるようだ。
ぼたりと大粒の涙が溢れ出した。
それを皮切りに、ぼたぼたと涙が零れ、遂に堰を切ったように衣梨奈は泣き始めた。
280 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:27
「あああああ聖いいいいい!!」

まるで子どものように、衣梨奈は泣いた。
大型ショッピングモールで親とはぐれてしまった迷子のような姿は滑稽だった。
だが、迷子と違い、衣梨奈にはもう、迎えに来てくれる親はいない。
衣梨奈は大切な人を、自らのその手で再殺したのだから。


―――ありがとう


衣梨奈が聖と共同生活を始めるうえで交わした、たったひとつの“約束”。
それは、どちらが先にステーシーになっても、ちゃんと165分割にして再殺することだった。
中途半端な同情はいらない。
愛しているがゆえに、想っているがゆえに、キミを確実に再殺する。
それがふたりが交わした“約束”だった。


―――ごめんね


残された者には残酷な結末かもしれない。
それでも衣梨奈はその“約束”を果たすためにチェーンソーを振るった。
自分以外の人間が、聖の肌に触れるなど許せない。聖に触れるのは、聖が笑いかけてくれるのは、聖に跨れるのは、衣梨奈だけしかいない。


―――大好きだよ、えりぽん……


聖は確かに再殺された。
彼女は今度こそ、笑いかけることも話すこともしない。
衣梨奈の涙はもうしばらく、止まりそうにはなかった。
281 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:28

-------


ばんと勢いよく机が叩かれた。
びくっと顔を上げると、そこには激昂した彼女がいる。

「かんっぜんにアウトです!」
「なんでよー?結構良い出来やろ?」
「全部パクリじゃん!オリジナリティないし、ダメ!ぜーーーったいダメ!」
「パクリやなかよ、おまーじゅって言うとよ」
「とにかく絶対ダメ!!こんなの提出しないで!!」

聖がそう叫ぶと、衣梨奈は困ったように首を捻る。
なにがいけないのかが分からないと言わんばかりに両手を広げ、「もう時間ないっちゃもん」と唇を突き出した。

「中学生がこんなの書くなんて…」
「どこがいかんと?」
「さ、最初の方とか……み、聖とえりぽんが…」

聖はわなわなと手を震わせる。
彼女が原稿用紙いっぱいに書きなぐった「小説」の冒頭では、主人公が恋人と裸で目覚めている。

「エロいかな?」
「え、エロいっていうかやめて!しかも聖の名前出さないで!」
282 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:28
事の始まりは数時間前、聖の家にやって来た衣梨奈が「宿題見てほしいっちゃけど」と言い出したことだった。
衣梨奈によると、先日の現国の授業である宿題が出たそうだ。

「ページ数は問わないので、ひとつの小説を書き上げてくること」

教師がそう言った直後、えええええとコンサートでよく聞くような「エーイング」が教室に響き、衣梨奈は立ち上がってそれを締めたくなった。
もちろんそんなことはしないけれど。
提出期限は3ヶ月後。
自分のオリジナリティのある作品を書いてきなさいと現国教師は楽しそうに笑った。
3ヶ月とは、どれだけレベルの高いものを求めているのだろうと衣梨奈は眉毛を掻いた。

さて困ったと衣梨奈は腕を組む。
朝の読書の時間にメンバーの写真集を見ているくらいで、あまり本というものに触れたことがない。
小説好きのクラスメートは、なにか好きな本の真似から始めてみたら?とアドバイスをくれたが、そもそもあまり本を読まない。
持っている小説はと言えばと本棚を眺めると、真っ先に目に入ったのが、あの小説だった。

それは昨年、自分たちが舞台で演じた作品の原作本だった。
短いながらも濃密で、絶望と悲壮が漂いながらも何処か爽やかなラストに繋がったこの小説が、衣梨奈は好きだった。
改めて小説を読み終えた衣梨奈は、やっぱりこれにしようとパソコンの前に座った。
283 :彼女の笑顔、私の涙 :2013/03/18(月) 21:29

「最初は登場人物は身近な人で良いって友だち言っとったし」
「それにしてもダメ!もう、もう、バカ!」
「衣梨奈これでも頑張ったとよ?」
「頑張ったのは認めるけど、でもダメ!」

聖は彼女の書いた小説を読み終え、頭を抱えた。
オリジナリティのカケラもなければ、所々に中学生が読むには刺激的な描写もある。しかも実在する名前をふたりも使っている。
こんなもの、学校の先生に見せられては敵わないと没収することを決めていた。

「別のにして!」
「なんでなんでー?あ、ちょっとエッチなところ消せば良か?聖のおっぱいのくだりとか…」

衣梨奈がそう言ったとたん、聖は左手を振り翳し、思い切り彼女の頬を引っぱたいた。
ぱん!と景気良い音が響いたあと、「いったーい!」と衣梨奈はのた打ち回った。

「もう、えりぽんのバカー!!」

聖はそう言うと、彼女の書いた小説を持って部屋を出て行った。
その瞳は微かに涙で揺れている。哀しいとか悔しいとか、そういう感情ではない別のなにかが渦巻いていた。

ひとり残された衣梨奈はと言えば、相変わらず痛む頬を押さえながら

「やっぱ聖は可愛いっちゃね」

と、性懲りもなく笑った。
284 :雪月花 :2013/03/18(月) 21:31
以上になります
誤字脱字、他にもいろいろな問題がありますがお許しをm(__)m
今度こそ学園物ぽんぽんを…

ではまた!
285 :名無飼育さん :2013/03/26(火) 21:47
この設定のぽんぽんも悪くないと思う
次回も楽しみにしてます
286 :名無飼育さん :2013/04/27(土) 02:45
作者様の書くりほれながすごく好きです。
自分もれなえりヲタですが
れなえり前提じゃないりほれなも読んでみたいです。
287 :雪月花 :2013/05/29(水) 00:40
れいなさんの卒業式に参戦し、燃え尽きた雪月花です
最後までれいならしく湿っぽくならなかったのが印象的でした
これからのれいなと、LoVendoЯと、モーニング娘。が楽しみです!


>>285 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
ラストは蛇足だろうなと思ったんですがシリアスに走りきれないところが弱みです…
原作のような作品が掛けるようもっと精進します


>>286 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
自分もれなえり好きなので当初はれなえり以外書けないと思っていたんですが意外と書けるものですねw
純粋なりほれなですか……ネタが降りてきたらがんばります


今回は全く間に合っていませんがれいな卒業と鞘師さん誕生日ということでりほれなですw
288 :confession :2013/05/29(水) 00:41
近付いたと思ったら、急に遠くなる。
いつまで経っても、この手はあなたに届かない。


里保はひとつ息を吐いて部屋の中央に立った。
鏡の中の自分と正対する。前髪を少し整えた。やっぱり伸びている。切ろうか、そろそろ。

今日は事務所で雑誌のインタビューをしたあと、軽く打ち合わせをして仕事が終わった。
夕陽が傾き始めたこの時間に仕事を終えるのは珍しい。
そのまま家に帰って、寝るなり宿題をするなり部屋の片づけをするなりと、やりたいことはたくさんあった。
だが、里保はレッスン着に着替えると、リハーサル室へと向かった。
自主練、なんてカッコいいことを言うつもりはないけれど、このまま帰る気にはどうしてもなれなかった。
ズボンの裾を上げ、髪を後ろでひとつに束ねる、いつものスタイル。
ワン・トゥー・スリーとリズムを取り、曲が流れる。
音の頭に合わせるように腕を上げた。流れ出した曲に合わせ、里保は踊り始めた。
289 :confession :2013/05/29(水) 00:42
もうすぐ「その日」はやって来る。
あと半年もある、なんて思っていたのに、気付けばあと数日しかない。
「その日」を越えたら、どうなるのだろう。
なにかが変わるのだろうか。なにも変わらないのだろうか。それとも、変わらざるを得なくなるのだろうか。


―――鞘師


ふと、彼女の声が聞こえた気がした。
幻聴だって分かってる。ここまでくるともはや「病気」だと苦笑せざるを得ない。
こうなったらとことん踊ってやろうと決めていた。
奇しくも先ほどまで踊っていたのはデビュー曲だった。だったら、次はデビュー2曲目にしよう。そして53枚目まで、踊りきろう。


―――エースとして、今後どうしていきたいですか?


繰り返される、質問。
だが、実際、自分に大きな力はない。「エース」だって言われても、歴代の先輩に比べれば、まだまだ小粒だ。
世界をひっくり返すようなことはできないし、流れを大きく変えるような力もない。
290 :confession :2013/05/29(水) 00:43
だから、自分にできることをするしかないんだ。
「あの人」が去っていっても、だいじょうぶと言われるくらい、ちゃんと此処にいるんだって、証明したい。
所詮、私は私でしか、ないけれど。


―――「あんま悩まんでよか」


ふと聞こえた声をかき消すように里保は軽くステップを踏んだ。
重心をずらさないようにしながらも、大きく動き、軸足をしっかりと立てる。
鏡の中の里保が激しく踊る。
曲が終息へと向かう中、里保も徐々に速度を落としていった。
動から静へ。
暴れていたシャツや髪がゆっくりとその動きを止めて落ち着く。

前髪をかき上げ、吐いて天井を仰いだ。
息が上がっている。全力で踊ったせいだろうか。まあ9曲も連続して踊れば当然かと苦笑しながら腰を下ろした。
そのまま大の字に横になる。床がひんやりとして気持ち良かった。汗がついたらどうしよう。タオルで拭けば良いか。

里保はぼーっと天井を見た。
本当に疲れてしまったようだ。このまま夢の世界へ落ちてしまいそうだった。
リハーサル室で寝るなんて滅多にない。そもそもこんな硬い床で眠れるわけがない。
そう思っていたのに、里保の思考はぴたりと止まり、瞼はどんどんと重くなった。

「眠い……」

鞘師里保。中学3年生の14歳。
いちばん眠い時期とはいえ、この睡眠欲はどうしたものだろう。
特技の欄に「激辛料理を食べること」以外にも「何処でも寝れる」って追加しようかと思いながら里保はその瞼を閉じた。
291 :confession :2013/05/29(水) 00:43

-------


「――――ぃ――――おーい」

だれかが私を呼んでいた。
お母さんかな。もうそんな時間?でもベッド気持ち良いんだよね……ってそうでもないけど。

「鞘師―――さーやーしぃ〜」

体を揺さぶられた。
起きなきゃいけない。夢の中から現実へ急いで泳いでいく。水面にぷはっと顔を出すように、里保は目を開けた。
ぼやけた視界の向こう、眩しい光とともに、その人のドアップが飛び込んできた。
お母さん、ではない。
それが、田中れいなだと認めた瞬間、里保は慌てて飛び起きた。

「っ…田中さん!」
「おお、お早う。って、よくこんな硬い床で寝られるね」

里保は乱れた髪の毛を即座に手櫛でとかす。
そんな姿を見てれいなはクスッと笑う。まるで子どものような笑顔に、里保の胸が高鳴った。
292 :confession :2013/05/29(水) 00:44
「なんしよったと?自主練?」
「え……えーっと、そんなところです」
「自主練中に寝るってマジ子どもやね」

れいなは心底楽しそうに笑うと、里保の頬をぺたりと触った。
白くて小さな手に包まれて、動けなくなる。
この人の前では、まだ、緊張する。それは良い意味でなのだけれど。

「で、なに踊っとったと?」
「あー…最近のとか、9期のデビュー曲とか……田中さんは、仕事、ですか?」
「うん。インタビューあったっちゃけど、なんか体動かしたくて寄ってみたと」

そう言うとれいなは鼻歌交じりに荷物を隅に置いた。
レッスン着に派手なジャージの上下、いつものように明るい髪を下ろした姿をしていた。
この人が同じ部屋にいるだけで、空気が変わる。
彼女の纏う“オーラ”は、独特だ。
芸歴の長さとか、場数の違いとか、それも理由のひとつなのだろうけど、果たして自分が彼女と同じ長さ、それを経験したところで、変わるだろうか。
自分に、彼女と同じその“オーラ”を纏えるかは、分からない。

「ねえ、あれやってよ」

ふいに彼女が楽しそうな声を上げた。里保は鏡越しにそんな彼女を見る。
れいなは「どこあるかなー」となにやら音源を探し始めた。
293 :confession :2013/05/29(水) 00:44
「なにを、ですか?」

里保がきょとんとしてそう訊ねると、彼女はいたずらっ子のような笑顔をこちらに向けた。
この笑顔は、明らかになんらかの意図があることを里保は知っている。
田中さんの子どものような笑顔は、本当に無邪気で、そして、可愛い。

「Rockの定義。本気バージョンで」

果たして里保の勘は当たる。
その曲名を聞いた瞬間、一瞬ひやりとした。

「本気バージョンってなんですか」
「だってさ、バックダンサーやとある程度力抜かんといかんやろ?そういうのナシで、本気の、100%の鞘師、見してよ」

喉が一瞬で渇いた。
カラカラになって水を欲していた。
カバンの中に、飲みかけのペットボトルが入れてあったはず。あれ、飲み切って捨てたんだっけ?忘れた。
そうしている間にもれいなは音源を見つけたのか「あったー」と嬉しそうに笑う。

「ねー、やってよぉー」
「いや、踊るのは、いいんですけど…」
「やった!じゃよろしく!」

最後まで言葉を紡ぎきれなかったが、れいなは鼻歌交じりに音源をセットする。
なにがそんなに楽しいのだろうと里保は思う。
この人は、最後の最後まで、その笑顔のままで走り抜けるのだろうか。
「実感が沸かない」なんてウソだと思っていたけど、この人は、本当に実感がないのだと最近気づいた。
ずっと、体が焼けるような熱を帯びた第一線に10年以上も立っていれば、卒業発表からこの日までの半年なんて、一瞬なんだろうな。
294 :confession :2013/05/29(水) 00:45
ひとは死ぬとき、生まれてからの記憶が「走馬灯」として甦るらしい。
れいなもまた、それに似たような記憶が甦ることがあるのだろうか。卒業の、あの瞬間に。

「はい、いくよー!」

彼女の声にハッとした。
背筋が自然と伸びる。条件反射とは恐ろしいものだ。
里保は鏡に正対する。れいなはその姿を後ろから見ている。
なにか、なにか言わなくては、と咄嗟に振り返った。れいなはきょとんと首を傾げた。小動物のような姿に、また胸が高鳴る。

「あの……」

声が震えていた。伝えなくてはいけなことがある気がするけど、なにも言葉にならない。
音源を入れようとしたれいなは、それでも、里保の次の言葉を待つ。
黙って、後輩の想いを汲み取ろうとするれいなは、「ヤンキー」なんて言葉からは程遠い。

「前から見とっていい?」
「え?」
「そんな機会、滅多にないやん」

里保は結局、言葉を紡ぎだすことができなかった。
代わりにれいなは里保の前に回り込み、鏡に背を預ける格好になった。手にはしっかりとリモコンを持っている。

「だ、ダメですよ!」
「はい、サン、ニィ、イチ」

里保が反論する前に、れいなはスイッチを入れていた。
どうしよう、と考えるより先に音は流れ始めていた。
踊らない、という選択肢ははなから存在していないが、動揺で意味もなく脚が動く。
目の前にれいながいるというただそれだけで、こんなにも自分がみっともなく狼狽するのだと気付いた。
レッスン中は、先輩はもちろん、ダンスの先生やスタッフに見られながら踊ることなんて当たり前なのに。
295 :confession :2013/05/29(水) 00:45
そうこうしている間に、カウントを示す音が響く。
里保は顔を上げた。目の前には鏡、視線を少し下げると、尊敬する先輩。
緊張と、憧憬と、ほんの少しの、感傷。
曲頭に合わせ、右腕を高く挙げた。
目指している者が目の前にあって、すぐ近くにあるというのに手が届かないのだと感じさせる。
圧倒的な存在感が、自らを萎縮させ、そして震えさせる。
私はなんという人と、2年間もいっしょにいたのだろうと。


―――鞘師


あなたの呼ぶ、私の苗字。
日本に12世帯しかない、希少な苗字だということは分かっているのだけれど、それ以上に、あなたが呼ぶだけで、特別な存在なのだと分かる。
この希少な苗字に誇りがある。だから、ファンの方からのコールも、名前ではなく、苗字の「鞘師」にしてもらった。
鞘師と呼ばれる心地良さ。
だれよりも、あなたに呼ばれるだけで、輝きを放つ。
鞘師。鞘師。鞘師―――

応えたい。
私の名を呼んでくれるあなたに、精一杯、必死に。
届かない、遠い、存在のあなたに。
296 :confession :2013/05/29(水) 00:46
里保は目を閉じて、ステップを踏む。
加入して1年ほど経ってから、前に立つことが多くなった。
ダンスができるということと、そこそこ歌えるということで、「即戦力」扱いされていることは分かっていた。
だけど、まさか50枚目という節目でセンターに立つとは思っていなかった。
いつの間に、此処まで来てしまったのだろうと心底思った。

それと同時に、その場に立った途端、震えが止まらなかった。
私の前に、だれもいないという、重圧。まっさらに広がった、虚無の空間。
そんなときに横にいたのは、あなただった。


―――笑えるほどのコンプレックスだらけ。大声出して叫んでごまかしたくなる


自分が可愛いなんて、思ったこともなかった。
人より踊れるのは、幼少期よりダンスを習っていたからという、ただそれだけのこと。
小さいころからつづけていれば、私じゃなくても、亜佑美ちゃんやフクちゃんだって、充分、踊れる。
歌だって、そんなに上手くない。高音が出ないことくらい、分かっている。

それなのに、私は節目の枚数で、センターに立った。
あなたを後ろに従えて、サビを切り返す役割を担った。
297 :confession :2013/05/29(水) 00:47
自分から素直に甘えられたら良かった。
後輩の佐藤優樹のように、臆せずにぶつかることができない里保は、輪からいつも少し遠くにいた。
それか、だれかにくっついて、ちょこんと傍にいるとか。
れいなはいつも、そんな里保に気付いてくれた。
たまたまひとりで弁当を食べようとしたときも、れいなはすぐに里保の名を呼んでくれた。


―――「鞘師、おいで」


加入してから2年近く、里保はれいなの近くで歌っていた。
最初は後ろからその背中を見ているだけだったけど、いつの間にか隣にいて、そして少しだけ前に立つ時もあった。
実力差が圧倒的に開いていることも分かっていた。自分が此処に立つべきじゃないとなんども思っていた。
だから、れいなの隣がいちばん心地良かった。
単に安定しているだけでなく、時に激しく、時に優しく、音を自在に操り、自分のものにするれいなの歌が好きだった。

れいなに認められたかった。
実力で、自力で、同じ目線に立ちたかった。
それなのに。それなのに。それなのに。


―――「あんま悩まんでよか。笑顔の鞘師が可愛いっちゃけんさ」


私はいつから、あなたに囚われたのだろう。
あなたのその大きな瞳に、柔らかい声に、優しい感情に、すべてを、持って行かれた。
鞘師はパートナーやから。と言われたことが嬉しかった。
298 :confession :2013/05/29(水) 00:47
だけど少しだけ寂しかった。
私は、パートナーだけじゃなくて、もっと、もっと―――


「かっこいい生き方は出来ないが 誰とどんな風に生きるかわからないのもいいわ」


ふと、CD音源と違う声が聴こえた。
里保はハッと顔を上げる。
彼女が、歌っていた。
れいなは立ち上がり、楽しそうに目を細め、里保に向かって腕を伸ばしていた。


「全身キメキメでいるよりも」


瞬間、里保の瞳に涙が溢れる。
なにが哀しかったのか、なにがツラかったのか、それは里保にも分からない。
だが、その涙を零してしまわないようにぐいっと拭う。そして真っ直ぐにれいなを射抜いた。
れいなの歌に負けないほどの強さで、ステップを踏んだ。


「Gパンで良い本当は」


歌唱力じゃ到底敵わない。オーラだって、れいなと里保では圧倒的な差がある。
だけど、いまの「鞘師里保」が持っているものを、すべて出し切るしかない。
此処で歌ってくれた田中さんに、応えたい―――


「だけど今夜もキメるわよ―――」


そうして、れいなは、笑った。
くいっと顎を上げ、里保を挑発するように、だけど子どもっぽく、笑った。
299 :confession :2013/05/29(水) 00:48
そうだ。これが「田中れいな」だと、唐突に里保は気付いた。
9・10・11期が入って、6期がいちばん上に立って、後輩だらけになって、れいなは変わった。
優しくなったとか、丸くなったとか、そういう風なことをここ2年ほどでよく言われている。
だけど、加入してからずっと、この人には変わらないものがあった。
れいなは、ずっと、田中れいななんだ。
いたずらっ子のように笑って、周囲の人間に目を向けて、ズバズバと物を言って。
そして、加入してからずっと、自分の信念を貫いてきた人なんだ。

里保は今度こそ、その涙を堪えることができなかった。
視界が揺らぎ、れいなの姿が見えなくなる。
だが、もう拭うことはしなかった。
テンポよく刻まれる音と呼応するようにステップを踏む。
基本に忠実に、だけど大胆に。
体の軸をブラさないように、ひとつひとつの振りを大切に、踊った。
れいなが微かに、笑ったような気がした。だけど、その歪んだ視界では、しっかりと確認できなかった。
激しいギターの音のあと、ゆっくりと曲が終息に向かう。
里保はこの瞬間をひとつも逃さないように、丁寧にステップを刻み、最後の瞬間に天高く腕を上げた。


-------


「やーっぱすごいっちゃねぇ、鞘師」

れいなは満足したように手を叩く。まるで夢が叶った子どものようだ。これで里保より9つも年上なのだから驚く。
里保は息を切らしながら天井を仰いだ。肩が激しく上下する。制御せずに踊ったのは、いつ以来だろう。
300 :confession :2013/05/29(水) 00:48
「鞘師のダンス、れな好きっちゃよ」

れいなはそうして里保に笑いかけた。里保はひとつ息を吐くと、れいなと向き合う。
彼女とこれほど近くで話すのは、久しぶりのような気がする。
本当はもっと、話したかった。もっとたくさんのことを教えてほしかった。もっとれいなの歌を隣で聴いていたかった。
たくさんの欲望が、里保に溢れる。
永遠の別れじゃないことも、逢おうと思えば逢えることも分かっている。
だけど、唐突に溢れ出した欲求が、止まらない。

「なんで……」

呼吸が整い始めたとき、里保は声を出した。
れいなは「ん?」と首を傾げる。

「なんで、卒業するんですか」

自分でその言葉を発しながら、なんという愚問なのだろうと思った。
卒業の理由、卒業後の進路、彼女の心境なんて、しつこいくらいに聞いてきた。
ファンに卒業を発表する直前、佐藤優樹は「いやだー」と泣いたし、工藤遥も連られて目を赤くしていた。
これからは9期が支えていかなくちゃいけないと、必死に言い聞かせてきた。
新しい場所へ歩いていくれいなを応援するんだと、頭の中では分かっていた。
それなのに。それなのに、どうしても、心が納得しない。痛々しいほどに、叫んでいる。いまも、ずっと。

「もっと……見ていたかったのに」
「……なにを?」
「田中さんの、背中を……」
301 :confession :2013/05/29(水) 00:48
センターに立ったとき、嬉しかったのだけれど、なにより怖かった。
恐怖を覚えた理由は、前にだれもいないということだけでなく、れいながいないということがいちばん大きかった。
その背中を、捕まえたかった。
実力で同じ目線に立って、鞘師凄いねって言ってもらいたかった。
少しだけ、ほんの少しだけ、れいなに追いついたと思ったのに。それなのにもう、れいなは先に行ってしまう。
どうしてあなたはいつも、手の届かない場所に行ってしまうんですか?

「鞘師のダンス、メッチャ好きよ」

ぐちゃぐちゃになる頭のせいで、里保の涙はいよいよ止まらなくなってきた。
だが、そんな里保を慰めるでもなく、れいなはぽつりと呟いた。
その言葉は先ほどよりも、少しだけ、重い。

「歌も、すっごい成長しとるし、人一倍努力しちょっちゃなって、分かると」

彼女はニコッと笑うと、里保の頭をぽんぽんと撫でてやった。
ヒールを履いていないせいか、れいなの方がずいぶんと小さい。おかげでれいなは少しだけ背伸びをした。
れいなは「鞘師は、だいじょうぶ」とまた小さく呟いた。
だが、里保は激しく首を振る。

「田中さんに、追いつきたかったんです…ずっと、ずっとっ」
「……鞘師は、れななんか飛び越せるっちゃよ、すぐに」
「そんなこと―――」
「鞘師の方が、れなにとっては、遠い存在やったっちゃよ?」

その言葉に、里保は顔を上げた。
ぐしゃぐしゃに濡れた顔はずいぶんと情けなくなっているだろうけど、構わなかった。
れいなはまた、笑いかける。そして優しく前髪を梳いてくれた。細い指先に、微かに、恋をする。
302 :confession :2013/05/29(水) 00:49
「入って来た時から、眩しくて、可愛かったし、カッコ良かった。れなより結構、年下やとにね」

れいなは里保の肩に手をかけた。
小さな手がそのまま、里保の腕を滑り降り、ふたりの手が重なる。

「歌は確かにまだまだやけど、ダンスは絶対に勝てんし、手入れされた髪も、子どもみたいな笑顔も、羨ましかったよ」

れいなは少しだけ躊躇したあと、くいっと力を込めて里保を引っ張った。彼女は素直に、すとんとれいなの腕の中に収まった。
里保の鼓動が早くなる。れいなの方が身長が低いからか、里保の肩に顎を乗せる格好になった。
目を閉じて、彼女の香りをそっと吸い込んだ。ああ、良い香りっちゃ。

「ずっと見とくけん、泣かんで?」

れいなが優しく髪を撫でてそう囁くと、里保は堰を切ったように泣き出した。
伝えたいことがたくさんあった。云わなくてはいけないことがたくさんあった。
だけど、そのどれかひとつでさえも、里保は言葉にできなかった。
田中さん。田中さん。田中さん。となんども心の中で叫びながら、ぎゅうと彼女の細い体を抱きしめた。
折れてしまいそうなほど、華奢なその体の何処に、あれほど人の心を揺さぶる歌を歌える力があるのだろう。

「いつの間にか、れなよりずいぶん大きくなったっちゃね」

それは子どもあやす母親のようで、後輩に夢を託す先輩の姿だった。
里保だってそれを分かっている。
それなのに、「その」一線を越えてしまいたいと、ふいに願ってしまっていた。
ただのパートナーではない、田中れいなの特別になりたいと。叶わない願いを、叫んでしまう。
303 :confession :2013/05/29(水) 00:49
「田中さんっ……私、私、田中さんが……」

精一杯に絞り出した声は、音となることは叶わなかった。
最後の最後まで、想いが喉の奥にへばり付いて届かない。
れいなはゆっくりと里保の体を離した。少しだけできたふたりの距離をじっと見つめたあと、「鞘師」と名を呼んだ。

「ありがとう」

一呼吸置いて、彼女は微笑んだ。
その言葉に付与された意味を、里保は感覚的に察した。
れいなにとっての里保の存在。大切な、大切な、後輩。その後輩に託す、夢と、信念。
里保にできることは、その想いをしっかとり受け取り、繋いでいくことだった。
涙で濡れた瞳を乱暴に拭う。奥二重の目が真っ赤に染まって、明日腫れてしまわないか不安になる。

「田中さん……」
「うん?」

鼻水を啜った。
まだその瞳からは涙が溢れる。だけどもう、その視界は歪んでいない。
里保は真っ直ぐにれいなを捉えた。彼女の笑顔が真正面に映る。
その笑顔が可愛くて、改めてれいなが好きなんだと思い知らされた。

「がんばりますっ」

里保は不器用な笑顔を向けることしかできなかったが、それでもれいなは、笑いかけてくれた。
それは、10年以上も看板を背負って走りつづけてきた姿からは到底想像もできないほどの、優しい笑顔だった。
ああ、やっぱりこの手は、あなたには届きそうもないですと、里保は心の中で呟いた。
304 :雪月花 :2013/05/29(水) 00:51
以上になります
れいなの卒業式のちょっとだけ前の話、のつもりですw

改めて、れいなさん卒業おめでとう!鞘師さん誕生日おめでとう!

ではまた!
305 :名無し募集中。。。 :2013/05/30(木) 00:38
違和感のないりほれな、いいですね!

なんとなく想像できて、まるでのぞいてきたかのような。

さゆれなラジオで、鞘師が泣いた、って話もしてたし。

鞘師はきっと背負ってくれるでしょう。期待したいですね。
306 :名無し募集中。。。 :2013/06/23(日) 00:48
れいなが娘。のダンスレッスンを見て帰ったという話を聞いて
こことダブってしまいました。妄想が広がりますw

りほれな大好きです。
りほりほにはれいなを振り向かせて欲しいものです。
307 :雪月花 :2013/07/16(火) 01:24
ステーシーズにつづき「ごがくゆう」もなかなかお気に入りの雪月花です
手放しに絶賛はできないものの、彼女たちの将来が楽しみな舞台でした
こうなると俄然秋ツアーが楽しみなのですが果たして今回はいつ行けるのやら…w


>>305 名無飼育さんサマ

口には出さないけどお互いに意識し合っていた部分はあったんじゃないかなと思います
れいなさんにとっての鞘師さん、鞘師さんにとってのれいなさんは、互いに特別だったんじゃないかなと…まあ妄想ですがw
鞘師さんは気負いしすぎそうなのでそこら辺をメンバーでフォローしてほしいなと思います


>>306 名無飼育さんサマ

れいなさんは必要以上に現メンには絡まないでしょうけど、レッスンを見たとかそういう話を聞くとなんだか嬉しいですw
りほれなは自分の中でかなり好きな組み合わせなのですが、片想いが基本なのでどうなるかまだ分かりませんが…w
今後もまったり見守っていて下さい


今回は肩の力を抜いて、生田さんと譜久村さんのお話です
308 :夏の恋 :2013/07/16(火) 01:26
連日猛暑がつづいていた。
コンクリートジャングルの関東の夏は例年過ごしにくいが、それにしたって今年は暑い。
室内は冷房が効いているとはいえ、人や機材の多いスタジオの空気は何処か淀んでいる。
撮影が一段落した譜久村聖は、その空気から逃れようとスタジオの外に出てきていた。
ギラギラと照りつける太陽に手を翳す。さすが「猛暑」と言われるだけはある。太陽の自己主張の激しさは何処か羨ましくもある。

それにしても暑い。
これで少しは風が吹けば良いのだがと両手を広げる。が、暖房のような風しか感じられず聖は苦笑しながら汗を拭った。
後輩の佐藤優樹が、関東の暑さに慣れずぐったりとしていたのを思い出す。
彼女は北海道出身だし、そうなるのも無理はないのかもしれない。
北海道の夏は涼しいらしい。以前イベントで行ったときは冬真っ盛りで優樹ちゃんに思い切り雪玉を投げつけられた。
今度は夏に行ってみたいものだ。あ、今度行くんだっけ、ハロコンで。でも遊ぶ暇はないだろーなー。

「ああ…ホントあっつい……」
「うわ!メッチャあっついやん!」

聖がひとりごとを零した直後にそれを突き破ったのは、同期である生田衣梨奈の明るい声だった。
彼女は目を細めて太陽を睨みながら、自然と聖の隣に並んだ。
身長はほとんど変わらないけれど、どこか彼女は自分よりも大きく見える。オーラの差だろうか。それは納得いかないけど。
309 :夏の恋 :2013/07/16(火) 01:26
「えりぽんも、休憩?」
「うん。やっぱスタジオの中、暑いっちゃもん」
「人が多いからしょうがないけどね。でも外も暑いし、変わんなかったかもね」

聖の言葉にうんうんと深く頷きながら、衣梨奈は手にしていたペットボトルに口付けた。
500mlのそれはずいぶんと汗をかき、聖たちとよく似ていた。喉がごきゅっと鳴り、吸い込まれていく。勢い良いなあと聖は笑った。

「なん笑っとーと?」
「ううん。なんでもなーい」

衣梨奈は笑われたことが不服だったのか、少しムッとしたように聖に訊ねたが、彼女はそれを躱した。
そのことがさらに不満だったのか、衣梨奈は唇を尖らせて「なんだよぉー」と聖の手首を掴んでブンブンと振り回す。
その姿を見ながら、この人ホントに犬みたいだなとと聖は思った。
ご主人様にからかわれて不服そうな大型犬。
なんだよぉー、バカにするなよぉー。尻尾パタパタ。みたいな。
衣梨奈は暫く聖の腕を振り回していたが、急に思い出したように「あ」とその動きを止めた。

「ねえ聖」
「なに?」
「ちょっと読んでほしい字があるっちゃけど」

そうして衣梨奈は衣装のポケットに入れておいた携帯電話を取り出し、操作を始めた。
読んでほしい字?え、なに。確かに聖の方が年上だけど、聖、そんなに漢字に強くないよ?
聖バカだし?いや、バカじゃないよ、うん、きっと。たぶん。……ちょこっとバカ?プッチモニさんのちょこっとLOVE的な。可愛くない?そうでもない?
じゃあそれとも、可愛いアホ?いや、それは亀井さんの特権だからダメダメ。
310 :夏の恋 :2013/07/16(火) 01:28
「これやっちゃけど」

聖がひとりでバカなことを考えていると、衣梨奈は携帯の画面をこちらに見せてきた。
そこに表示された文字を見て、聖は思わず「うん?」と眉を顰めた。
聖の思考がフル回転する。「熱中症」と書かれているが、どう考えても読み方はひとつしかない。タイムリーな文字だ。ニュースでもよく耳にする。

「なにこれ。クイズ?」
「そうじゃなくてさ。とにかく読んでほしいと」

聖は画面をじっと見る。とにかく読めば良いらしい。それが衣梨奈の要望ならば仕方がない。
すっと軽く息を吸って言葉を発した。

「ねっちゅうしょう」

自分でもちゃんと読めた方だと思った。
だが彼女はそれでは不服だったのか、

「もうちょっと、ゆっくり読んで」

とゆっくりと首を降る。

「はぁ?なんで?」
「いーからいーから」

どうもからかわれている気しかしないが、聖は素直に衣梨奈に従う。
311 :夏の恋 :2013/07/16(火) 01:29
「ねっ、ちゅう、しょー」
「もうちょびっと、ゆっくり」
「……ねぇーっ、ちゅぅー、しょー?」

あまりのくだらなさに聖が呆れ果てた瞬間、だった。
聖の唇に、彼女のそれが重なった。
先ほどまで活発に回転していた思考が止まる。
衣梨奈は「んふふ〜」と子どものように笑い、聖から離れた。

「いぇーい!大成功ぉー!」
「……はっ!?なに、なに、なに!?なんで?えりぽ……はぁ?!」

一瞬なにが起きたのか分からなかった。
だけど、自分の唇に残った柔らかい感触は、どう考えも彼女のそれであって、疑いようはない。
キスされたのだと漸く理解した聖は顔を真っ赤にしながら衣梨奈に詰め寄った。

「急になにしてんの!?」
「え。だからチュー」
「そうじゃなくて!なんで、なんでえりぽんっ……!」

太陽がギラギラ照りつける。ジリジリと体温が上がり、額に汗が滲むどころか髪を伝ってぽたりと落ちてきた。
コンサートのような暑さが聖に纏わりつく。暑いのは、本当に、太陽のせいだろうか?
312 :夏の恋 :2013/07/16(火) 01:30
「だって、聖がおねだりしたやろ?」

混乱する聖をよそに、衣梨奈はへらへらと笑いかけた。
憎たらしいほどに無邪気なその姿は、やっぱり犬だ。
わーいご主人様が遊んでくれるー。もっと遊ぼー!って誘う、バカ犬。尻尾パタパタ。

「ねぇ、チュー、しようって」

衣梨奈の言葉を聞いた途端、聖は声を失った。
そんなこと言ってない!と言い返そうとしたが、瞬間に聖は、自分が嵌められたことを悟った。
「熱中症」をゆっくり読む。その文字を分解すれば、「ねぇ、チュー、しよー」という風に聞こえなくもない。
そういえばそんなくだらない遊び、一時期流行っていたような、と思い出す。同時に、もうちょっと早く思い出したかったと後悔する。

「ばっ、バカじゃないのえりぽん!」
「バカじゃなかよー。あ、聖、ねっちゅうしょう?」
「な、ななななななに言って―――」
「だって顔真っ赤やし、汗かいとーし」

衣梨奈はからかうように笑うと、踵を返してスタジオへと戻っていく。
ちょっと待った!と叫びたくなるが、相変わらず言葉は喉にへばり付いて出て来ない。
とにかくこの場で立ち竦むのだけはごめんだと、聖も慌ててスタジオへと戻る。

「ねっちゅーしょー。ねっちゅーしょ。聖は熱中症〜」

聖の隣で衣梨奈は変な歌を唄い始め、聖は思わず「やめて!」と強く言った。
だが、衣梨奈は全く応えていないのか、「顔、赤すぎ」と聖の頬に触れた。
聖はその手を振り払うが、それでも衣梨奈は肩を竦めただけで、悪いとか後悔とかそういう感情を一切見せない。
313 :夏の恋 :2013/07/16(火) 01:30
どうして衣梨奈がそこまで余裕なのか、聖には理解できない。
聖の心に浮かんだこの感情は、怒りなのか、それとも別のなにかなのかも、理解できない。
ただ脚を止めることなくスタジオへと歩く。ほんの少しの廊下が、とても長く感じる。
怒りたいのに、なにか言いたいのに、なにも言葉が出て来ない。
どうしてなのか。それすらも理解できない。だって、私とえりぽんはメンバーで、キスは、好きな人同士するもので、えりぽんは、私なんて―――


「だって、こうでもせんと、キスできんやん」


スタジオへ一歩足を踏み入れた瞬間、隣にいた彼女がそう呟いた。
「え?」と聞き返そうとしたとき、スタッフの「あと2分で撮影再開しまーす」という威勢の良い声がスタジオに響く。
直後、「はーい!」という声が一斉に聞こえた。聖も慌てて「はい!」と声を出す。
衣梨奈は聖を振り返ることなく、ペットボトルをテーブルに置くと、「優樹ちゃんだいじょうぶ?」と椅子に座ってぐったりとしていた優樹に声をかけた。

「んぅー…だいじょばない……いや、だいじょうぶです」
「どっちだよ。やっぱ熱中症?水飲んだ?」

そんな会話が交わされていくのを見ながら、聖はため息をついて離れた場所へと歩いた。
彼女の口からその単語を聞くだけで赤くなる自分は、相当不謹慎だと思った。
314 :夏の恋 :2013/07/16(火) 01:35
だが、頭の中は先ほど衣梨奈が発した言葉で埋め尽くされていて、とても優樹の心配などしている余裕はなかった。
聖はハンカチで汗を拭う。
先ほどよりも、体が熱い。
これは夏のせいだ。太陽のせいだ。気温のせいだ。スタジオの熱気のせいだと、なんども言い聞かせる。


「………バカみたい」


やっぱり私は、頭が足りないようだ。
ちょこっとバカというような可愛いものでもない。
人の気持ちを読み取ることも、自分の気持ちすらもしっかりと理解できない残念な人らしい。

汗がぽたりと落ちる。
もうすぐ本格的な夏が来るのだと、聖は少しだけ、覚悟した。
315 :雪月花 :2013/07/16(火) 01:37
以上になります
だれにでも優しい生田さんと天然で鈍感な譜久村さんって感じですw
活動内容のないPONPONコンビですが組み合わせ的にはいちばん好きですw

ではまた!
316 :雪月花 :2013/09/21(土) 23:06
秋ツアー始まりましたが今回はいつ行けるだろう…

今回はずっと前から書きたかったリーダーとエースのお話です
317 :Distance :2013/09/21(土) 23:07
機材トラブルにより、撮影の時間が押すことは珍しくない。
こればかりは演者の力ではどうすることもできないので、ただ静かに待つという選択をせざるを得ない。
とはいえ、元気の有り余った中高生メンバーは「長めの休憩」を存分に楽しもうとしていた。
早速最年少コンビが「わーーー!」とスタジオを飛び出していく。衣装汚さなきゃ遊んできても良い。とでもマネージャーに言われたのだろうか。
リーダーであり、最年長である道重さゆみには、とてもそんな元気はなかった。
どこから湧いて出るのだろう、その力。ああ、やはり若さだろうかと苦笑する。

さゆみはぐっと伸びをすると、足早に喧騒から離れた。
何処へ行けば落ち着けるだろうかと考えながら廊下を歩く。

いままでなら、いっしょにはしゃげる同期もいたが、彼女も数ヶ月前に此処から旅立っていった。
最近ようやくこの空間に慣れてはきたものの、それでも、後輩たちが騒いでいるのを見ると、何処か寂しくなる。
まあ、だからといって過去を振り返って感傷に浸るほど、暇ではないのだけれど。
時間とは無常で優しいものだ。
癒されることを望んでなくとも、自然と解決を促してくれる。
知らないうちに調和が取れるようになって、この形にすとんと落ち付かせてくれる。


だけどまあ、それも長くはつづかないだろうけど。
318 :Distance :2013/09/21(土) 23:08
 
「財布ないんだった……」

気付けば足は自販機へと向かっていた。
疲れていたし、飲み物でも買おうとしていたのだけれど、さゆみの手元には財布がない。
貴重品はすべて楽屋にあるし、当然だ。財布を持ったまま撮影するわけにはいかない。
妙なことを考えているから単純なことを失念していたらしい。
さゆみはため息交じりに足を楽屋へと向ける。
カツコツと長い廊下をまた歩いていくと、遠くから喧騒が聞こえた。本当に、元気な子たちだ。

暫く歩き、楽屋の扉を開けると、そこには既に先客がいた。
思わずぎょっとするが、机に伏しているその姿を見て、彼女がだれであるかすぐに分かった。

「ホントよく寝るねー」

さゆみはひとり言を漏らすと足音を忍ばせて彼女に近寄った。
ステージ上での堂々としたパフォーマンスとはずいぶんかけ離れている彼女―――鞘師里保は目を閉じて規則的な寝息を立てていた。
手には携帯電話を持ったままでその画面は既に暗くなっている。メールを読みながら寝てしまったのだろうか。まあ眠いよね、成長期だし、と思う。
まだ撮影は再開しなさそうだし、暫く寝かせておこうとさゆみは自分の鞄を開け、メールをチェックした。
特に重要なものはなさそうだが、里保から少し離れた場所に座ってひとつひとつ読んでいく。
319 :Distance :2013/09/21(土) 23:09
「んっ……」

ふいに漏れた声に顔を上げた。
里保が深く息を吐き、顔を動かす。寝返り、らしい。漏れた声は寝息だろうか。
そういえばラジオで「鼻の奥にも小さいおじさんがいる」なんてネタにしていたが、鼻が詰まっているのだろうか。
アイドルなのに鼻いびきなんて聞かれたらまずいよなーとさゆみは苦笑した。
今度のラジオでうちのエースが鼻いびきかいてました、と言ってしまおうか。怒られるかな。怒られるよなーさすがに。

「寒い…?」

さゆみはふと天井を仰いだ。
秋が始まった季節とはいえ、撮影スタジオという場所柄、空調は年中つけてある。
温度は少し高めに設定してあるとはいえ、もしかしたら彼女が寝ている位置は直接風が来るのかもしれない。
衣装で厚着をしているとはいえだいじょうぶだろうかと心配そうにさゆみは彼女を見た。
震えている様子や、鼻水が垂れているようなことはないようだ。
ひとまず、ホッとする。大事なエースに風邪を引かれては、敵わない。いや、もう引いているのかもしれないけれど。

「それにしても……」

それにしても、相変わらず寝顔が可愛い。と思わず言葉を漏らしそうになった。
正確に言えば、寝顔も可愛い。
小動物、ハムスターのような可愛さだ。ずっと見ていたくなるような、ほわほわとした、存在。
320 :Distance :2013/09/21(土) 23:10
加入当初は本当にただの子どもだったのに、今年に入ってからぐっと大人っぽくなった。
今年の5月で15歳を迎え、来年には高校生になる。そりゃいつまでも子どものようなあどけなさは持っていられないよね。
それは勿体なくもあるけれど、成長過程を見るのも、楽しい。
どんな大人に里保はなるのだろう。色気の部分では聖には敵わないかもしれないけれど。和顔の彼女はきっと美人になる。

「いつまで、見ていられるかな?」

その成長を、自分はいつまで傍で見届けられるだろうかと思った。
10年以上この場所に居て、気付けばさゆみの横にはもう、だれもいなくなってしまった。
泣いても、叫んでも、それはもう戻ってこない時間と記憶。
だから前を向いて歩いていこうと誓った。
最高の親友と、最高の仲間をこの手で見送り、そして恐らく、今度は自分が此処から歩いていく。
それがいつになるかは分からないけれど、少なくとも里保たちよりは先に、この場所を離れる。そう遠くはない、未来に。
調和が取れても、それはすぐに突き崩される。
常に「新生」であることが、このグループの、宿命だ。

「なんて、ね」

目頭が熱くなった気がしてさゆみは立ち上がった。
時計を見ると、まだまだ集合まで時間はある。
そのまま視線を壁際に設置してある冷房スイッチへと流した。設定は26度とやはりさほど低くはない。
下手にスイッチを切って、寝汗をかかれてしまうのもまずい。このまま寝かせておいてあげるのが無難のようだ。
さゆみはカバンの中に入れてあった上着を取り出した。パンといちど叩き、ゴミなどが付いていないか確認する。
そしてそっと、里保を起こさないように慎重に、肩にかけてやった。

里保はやってきた温もりを感じたのか、また甘い声を漏らして体を丸めた。
その姿はやっぱり子どもっぽくてさゆみは思わず目を細める。
321 :Distance :2013/09/21(土) 23:10
手にしていた携帯電話のカメラモードを起動させた。
画面いっぱいに、里保の姿が映る。
りほりほの秘蔵写真ゲット〜といつもならシャッターを切るのだが、今日はその指が動かない。
撮ったところで、どうなるというのだ。と急にもうひとりの自分が口を開いた。
いつもいつも、自分の想いを口にしないで、薄っぺらい言葉で誤魔化して、逃げている。
真実を告げて、関係性が壊れることが怖い。想いをぶつけて、受け止めてくれなかったときが怖い。
身勝手な気持ちで彼女を傷付けてしまうことが、怖い。

「可愛い」とか「好き」とか、口先だけではいくらでも言える。
だけど、そこに「想い」という色を付けて真実を乗せてしまうことはできない。

さゆみはひとつ息を吐き、携帯電話をポケットにしまった。
やめよう。今日はなんだか調子が狂っている。さゆみらしくない。疲れてるのかな?
そうして彼女は楽屋の出口へと歩く。里保の口から「っ……」と掠れた声が漏れた。
思わず振り返る。
が、彼女はやはり、起きない。
天然なのか、計算づくなのか、分からない。分からないけれど、結局そんな彼女に夢中になってしまう。
こんな年下の、子どもに、振り回されて、どうしようもないほどに「想う」―――

「おやすみ、りほりほ」

あまり最近は呼ぶことのなくなってしまった彼女のニックネームを口にした。
もちろん返事はなかったが、さゆみは振り返ることなくそっと楽屋をあとにした。
長い廊下を歩きながら、携帯電話を開く。読みかけのメールを確認していると段々と喧騒が耳に迫ってきた。
騒ぐのは良いけど、楽屋に戻るなら静かにねと注意しようかどうか、迷った。

また目頭が熱くなる。
だけどいまは、笑おう。泣くのは早すぎるし、泣く意味も分からないよ。

あーあ。いつからこんなに不器用になったんだろ、とさゆみは誤魔化すように伸びをした。
322 :Distance :2013/09/21(土) 23:11
-------

ふいに訪れた温もりを里保は感じ取っていた。
柔らかいそれには覚えがあった。これは……と里保は記憶を掘り起こすが、何処だったか、思い出せない。
明るい。温かい。さっきまで寒かった。少しだけ。でも、眠い。目が、開かない。
里保はなにか声を出したかったがうまくいかなかった。ただ温もりをもっと確かめようと体を丸める。
すると、そこにあった空気が緩んだ気がした。
だれか居るのだと、直感した。
マネージャーさん?でも、それにしては起こされないような…と鈍くなった思考を必死に巡らせる。
そろそろ起きた方が良いのかもしれない。でも、体がそれを拒む。どんだけ眠いんだよ、私。

そんなことを思っているときに、その声が聞こえた。
何処か切ない色を含んだその声の主は、自分が尊敬してやまない人だった。

「おやすみ、りほりほ」

あまり最近は聞くことのなくなってしまった自分のニックネームだ。
彼女が嬉しそうにそれを口にするのが、里保は好きだった。
里保がなにをしても「可愛い」と笑い、「好きだよ」と軽く口にする、あの人の声だ。
323 :Distance :2013/09/21(土) 23:11
明瞭になっていく思考の中で、里保の目は漸く開いた。
ぼやけた視界の向こう、楽屋の扉が閉まっていくのが分かった。
長い髪を揺らしたその人の姿が遠くなる。
なにか声を出そうとしたときには、既に扉が閉まっていた。
また楽屋に静寂が戻る。残ったのは、あの人の残した微かな香りだけだった。

「みち…しげさん……?」

里保は目を擦りながら体を起こす。
どのくらい、眠ってしまったのだろう。携帯電話で確認すると、まだ10分も経っていない。ずいぶん寝た気がするのだが。
さゆみはいつからこの楽屋にいたのだろう。里保が寝ているのを見て遠慮したのかもしれない。
ああ、どうしよう。そんな迷惑かけてたらと、と里保が立ち上がろうとすると、それはふわりと床に落ちた。

「あれ?」

里保は床に落ちたそれを手に取った。
見覚えのある薄手の上着だ。里保はこれを見たことがある。しかもごく最近に。

「道重さんの……?」

そうだ。それは彼女が今朝、このスタジオに入るときに羽織っていたものだった。
里保は上着を手にしながら思考を展開させた。
さゆみは先ほど楽屋を出て行った。里保は此処で寝ていた。ふいに訪れた温もりと声。
どう考えても、答えはひとつしかない。
324 :Distance :2013/09/21(土) 23:12
里保は黙って上着を見つめ、すとんと椅子に腰を落とす。
そこには確かな温もりと、そしてさゆみの淡い香りが残っていた。
香水はつけない主義らしいが、彼女からはいつも良い匂いがする。
それがシャンプーやボディーソープなのか、それとも彼女自身の香りなのか、里保には分からない。

「お礼、言わなきゃ……」

そう思うのだが、まだ完全に体が覚醒していないのか、立ち上がることをしなかった。
手にはまだ、彼女が掛けてくれた上着がある。
さゆみらしい、淡い色のそれを、里保はじっと見つめた。

里保は、さゆみのことがよく分からなかった。
加入当初は、「可愛い〜」、「りほりほ好き!」、「すべてがドストライク」など、過剰ともいえる言葉を受け取った。
人見知りの里保にとって、それは確かに怖かったけれど、同時に嬉しかった。
友だちも、知り合いもいない場所に放り込まれて、自分が孤立したらどうしようと不安に苛まれていたとき、すぐ近くにはさゆみがいた。
傍から見れば、かなり過剰な愛情だったかもしれないけれど。それでも嬉しかった。
325 :Distance :2013/09/21(土) 23:12
だが、最近そういった言葉数は減っていた。
リーダーに就任してから、だろうか。特定のメンバーを贔屓してはいけないからかもしれない。
それは里保にだって分かるけれど、分かるけれど、納得できない部分もあった。

「ウチが大人になったから…?」

加入当初は12歳だった里保も、もう15歳になり、来年は高校生になる。
当時持ち合わせていたあどけなさや子どもっぽさは少なくなり、段々と体も大人びてきていた。
さゆみはもともと小さくて可愛いものが好きらしい。
実際、いまだって研修生のだれが可愛いとか、子役のだれが可愛いなんてよく言っている。
ファンの方には「流れるの禁止」って言ってるけど、「さゆみはリーダーだから良いの」なんてこの前も開き直っていた。

体の成長は止められない。
否応なしに里保は大人になるし、歳も重ねる。
それが彼女の心を引き離してしまう原因だとしても、里保に成す術はない。
326 :Distance :2013/09/21(土) 23:13
「はぁ……」

深くため息を吐き、机に伏した。
手にした上着に顔を埋め、すぅっと息を吸った。
さゆみの香りが鼻腔をくすぐる。
こんなところ、だれかに見られたら絶対に「変態だ」ってネタにされる。ウチは変態じゃないのに。
でも、道重さんの香り、好き。
道重さんに包まれてる気がして、落ち着く。

「やっぱ、変態かな」

自虐的に笑い、里保は目を閉じた。
言い知れようのない気持ちが胸を支配している。闇のように巣食ったそれはあっという間に広がってすべてを呑み込んでいく。
だが里保はまだ、その想いの名前を、見つけられない。
その花が色づくのは、もう少し先の話。


そして、里保を呼びに来た優樹にさゆみの上着を抱いて寝ている瞬間を写真に撮られ、メンバー内でネタにされるのは、その数分後の話。
327 :雪月花 :2013/09/21(土) 23:15
以上になります
りほれなが好きと言っておきながら同じくらいさゆりほも好きですw

ではまた!
328 :名無飼育さん :2013/11/03(日) 03:19
さゆりほってだいたい怪しい感じになる小説が多い中
雪月花さんの書く物語は純粋でなんか微笑ましくなりました。
そんな私はりほれな推しですがw
またりほれなもぜひ書いてください。
329 :雪月花 :2014/02/02(日) 19:28
御無沙汰しております雪月花です
相変わらず亀更新ですが今年も宜しくお願い致します


>>328 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
最近の鞘師さんの道重さんへの尊敬とか想いが熱くてつい書きたくなりましたw
私もりほれな好きですよ!なかなかネタが降りてきませんががんばります


と言いつつ今回も在り来たりなさゆりほです
330 :甘い香り :2014/02/02(日) 19:29



彼女の纏った白い布にゆっくりと手を伸ばした。
震える指先でそれに触れ、そっと布を下ろしていくと、彼女のピンクの肌が目に映った。
純粋にそれが、綺麗だって、そう想った。
331 :甘い香り :2014/02/02(日) 19:29

-------

びくっと体が震え、鞘師里保は目を覚ました。
寝ているときによくある現象、「ジャーキング」というその名前を、里保は最近知った。
授業中、うたた寝していたクラスメートの体がびくんと撥ねたのを見た理科の教諭が雑談交じりに話したのを覚えている。
睡眠不足だったり、無理な体勢で寝ていたりすると、筋肉が収縮してこんな現象に陥るらしい。
「寝不足」と言っても、1日7時間は寝ているし、なんなら私はいつだって眠いのだけれど、と里保は口を尖らせた。
そしていまさらながら、だれかに見られなかっただろうかときょろきょろ視線を走らせる。
が、案の定、だれも里保になんか気に留めず、自分の世界に入り込んでいる。

東京まで2時間半の新幹線の車内。
イベント終わりの移動時間、メンバーは大抵、寝ている。
新幹線に乗った直後、通路を挟んで左隣の席に座った譜久村聖とブログ用の写真を撮ったけど、彼女もまた、既に夢の世界に落ちていた。
その左手には携帯が弱々しく握られているが、果たしてちゃんと投稿できたのだろうかとぼんやり思う。
時計に目をやると、発車して30分しか経っていないことに気付く。まだまだ長旅だなとあくびを噛み殺す。
と、ふいに右肩の方から甘い香りを感じた。
332 :甘い香り :2014/02/02(日) 19:30
「うん?」

思わず、間抜けな声が漏れる。
見ると、窓側に座っていた彼女―――道重さゆみもまた、寝ていた。正確に言えば、夢と現実の狭間を泳いでいた。
ゆらゆらと舟を漕ぎながら、里保の肩によりかからないように、なんどもシートと中空を行き来する。
先ほど香ったのは、彼女のシャンプーだろうか。

ふいに、彼女の無防備すぎるその姿から目が離せなくなった。
シートに頭を乗せたかと思えば、居心地が悪いようにぐらぐらと揺らし、また宙へと泳ぐ。
その度に彼女の長い黒髪が漂い、里保の鼻先を甘くくすぐる。
香水はつけない主義だとなにかのMCで聞いたことがある。それなのに彼女からは、いつでも柔らかい匂いがする。
その香りに里保は、惑わされる。抒情的に云えば、「甘くて危険な香り」だろうか。

「道重さん……」

口をついた言葉にハッと我に返った。
視線だけでなく、顔全体で周囲を見回す。いまの言葉、だれにも聞かれてないよね?と慌てて確認する。
連日のイベントや長距離の移動で疲労が溜まっているメンバーは、少しのことでは起きないことなど知っている。
だが、先日の「寝起きドッキリ」のように、普段ならなにをしても起きないメンバーでも、意外なときに起きたりするものだ。
油断はできない。いやいや、なんの油断だ、なんの。と、突っ走っていく思考をゆっくりと止めていく。
333 :甘い香り :2014/02/02(日) 19:30
落ち着け自分、と、ひとつ息を吐く。
どうもこの人の前だと自分を見失いがちにある。
感情的になったところで良いことなんてなにもないと眉を掻き、改めて右隣を見た。

さゆみはいつの間にか船着き場を見つけたのか、そのオールから手を離して寝息を立てていた。
くてんと深くシートに頭を沈める姿は、到底24歳には見えない。童顔というより、単純に若いと思う。
これがひとたびステージに立つと、見る人を魅了する圧倒的なオーラを放つ。
私たちじゃ太刀打ちできない、隣にいるのさえもおこがましいような、大きすぎる、存在感。

「んっ……」

マスクの下から漏れる彼女の吐息に、びくっと体が撥ねる。今度は、「ジャーキング」ではない。
息苦しいのだろうか、なんて勝手に想像している自分が気持ち悪くなる。
それなのになぜか、自分の右手は、意思とは無関係にゆっくりと彼女のマスクへと伸びていく。
やめなよ、って、もうひとりの自分が囁いていた気もするけど、里保はその声に耳を塞ぎ、ゆっくりと彼女のマスクを下ろした。
白い布の下、さゆみのピンク色の唇と、微かに上気した頬が現れた。
334 :甘い香り :2014/02/02(日) 19:31
ここ数日の彼女の体調の悪さは著しい。検査をしたところ、インフルエンザなどではなく、鼻と喉の風邪と診断されたようだが、それでも里保は心配だった。
確かにイベント等で忙しいのは事実だが、それ以上に、彼女は後輩たちよりも強いストレスを感じているはずだ。
頼りなくて、情けなくて、まだまだ実力も実績も知名度も足りない、私たちに対して。


―――後輩たちが頼もしくなっていたからです。


あの武道館で聞いた言葉が、お世辞だとも、ウソだとも思わない。だけど、里保の中での満足感には程遠い。
さゆみが感じるプレッシャーやその双肩に背負うものは、自分たちが想像できる範囲を軽く超えているはずだった。

だから、せめて、その重みをいっしょに感じていたい。
たったひとりだけに、背負わせたくない。
そのためにもっと、もっと、もっと―――

「道重さん……」
335 :甘い香り :2014/02/02(日) 19:32
眠る彼女の名前は、驚くほどに自然に口から滑り出た。
里保はそっとさゆみの頬に手をかける。無意識のうちに、彼女を求める。その肌に、その唇に、その心に、触れたい。
目を閉じて、鼻先が掠めるほどに近付いた。吐息が唇に触れ、想いが弾けそうになる。

口付けのその手前、あとほんの少しで唇を感じるその距離で、里保は止まった。

そっと目を開くと、視界いっぱいにさゆみが飛び込んできた。
彼女は相変わらず優しい吐息を漏らしながら夢の世界に沈んでいる。
改めて、綺麗だと、想う。

「………ごめんなさい」

卑怯、ですよね。とそっと付け加えた謝罪の言葉が宙に浮いた。
道重さんの力になりたいと願っているくせに、道重さんの弱みに付け込んでいるような態度を取る。
いっしょに背負いたいという願いを「好き」という言葉に置き換えて、自分の燻った想いを誤魔化している。
実際には、「好き」だと伝える勇気もないくせに。

里保は名残惜しいと思いつつも頬から手を放し、マスクを元に戻した。
自分の席に座り直し、想いを閉じるようにひとつ息を吐く。結局、自分のことしか考えてないんだと嫌悪感が心を支配する。
336 :甘い香り :2014/02/02(日) 19:32
もう良い。全部忘れて寝てしまおうと目を閉じる直前、力なく投げ出された彼女の左手が目に入った。
もしさゆみに、「私、自己中なんですよ」なんて言ったら、きっと彼女はそんなことないと首を振るだろう。
でも、道重さん、私、そういう後輩なんですよ?と里自嘲気味に笑った。
その証拠に、里保はもう、その手から目を離せない。
ゆっくりと指を触れ、その熱を感じる。
絡める勇気は到底なくて、里保は遠慮がちに、さゆみの小指だけを握った。
あまりにも温かくて、あまりにも細いその指に、性懲りもなく里保は恋をした。


-------

甘い、香り。
熱い、吐息。
もう少しで触れるというその瞬間に、それらは切なく姿を消した―――

カクンと頭が大きく揺れたことを契機に、さゆみはハッと目を開けた。
右手の中に納まっていた携帯を確認すると、出発して1時間ほど経ったのだと分かった。
書きかけのブログが残っている。いつの間にか寝てしまっていたらしい。
337 :甘い香り :2014/02/02(日) 19:32
なんだか夢を見ていた気がする。どんな内容だったかは思い出せない。
ただ、やかましいくらいに心臓が早鐘を打っていた。怖かったのだろうか。なにかから逃げていたのだろうか。
それともなにか別の……?
と、そこでいちど思考を止める。窮屈な体勢で寝ていたせいか、体が重くて痛い。とりあえず伸ばそうと腕に力を込めた。

「うん?」

自身の左手が引っ張られたような気がしたのは、そのときだ。
見ると、さゆみの左手を―――正確に言えば左手の薬指だけを―――隣で眠っている里保がぎゅうっと握っていた。

「鞘師……」

里保はその声には答えず、目を閉じて深く夢の中を泳いでいた。
その姿を見ると、さゆみは自然と目尻が下がる。
10歳年下の佐藤優樹を「おっきな赤ちゃん」だと思うことはあるが、案外、里保にも同じようなことが言えた。
加入して3年。年齢も12歳から15歳になり、身長もずいぶん伸びたし、顔立ちもぐっと大人びた。
それに不似合いなほど、里保の手は小さい。小さいというか、可愛らしい。まるでそこだけが成長を忘れてしまったかのようだ。
子どものような柔らかい手は、さゆみの細い指をしっかりと握りしめる。それは赤ちゃんが母親の手を掴むのと、同じようにも見えた。

忘れそうになるけれど、彼女はまだ15歳だ。
エースでセンター、責任感には慣れたと云うけれど、それでも15歳なのだ。
気を張って、いちばん前に立って、自分がこけたらすべて終わるという重圧を常に背負っている。
338 :甘い香り :2014/02/02(日) 19:33
なにかがあったとき、たぶん、矢面に立つのは、里保だ。
リーダーであるさゆみとは別種の「重み」を彼女は抱えているはずだと思う。

歴史という意味で、さゆみが時間を繋いでいるとするならば、里保は現在のグループという、空間を支えている。

なんて、図々しくて烏滸がましくて、そのくせに妙にリアルなことを時折考える。
私が15歳のときなんて、自分のことだけで精一杯だったのに、と、たまに過去を振り返りながら。

「あったかいね」

15歳のさゆみと里保の変わらない点といえば、その手の温もりだけなのかもしれない。
いまのさゆみと里保の変わらない点といえば……未来を見据える眼差し、とカッコいい言葉でも並べておこうか。
だから、というわけではないけれど、さゆみは里保の手を振り解くことはせずにそっと握り返した。
温もりが指先から全身を包み込んでくる気がして、なんだが嬉しくなった。

新幹線がカーブに差し掛かる。
里保の頭がカクンと揺れ、髪がふわりと舞った。
微かに、さゆみの鼻腔を香りがくすぐった。
それは夢の中で感じた、あの甘い香りと何処か似ていて不思議に思う。

鼻先に触れ、僅かに唇を掠めた、情念的なあの香りは、里保のものだったのだろうか。

「……まさかね」

ふいに頭をよぎった都合の良い解釈、悪く言えば妄想に苦笑しながら、さゆみはそっと目を閉じた。
左手の温度はさらに上がる。
一定の速度を保ちながら、それでも確実に東京へと向かって新幹線は走りつづけた。
339 :雪月花 :2014/02/02(日) 19:35
以上になります
さゆりほは両想いなのに片想いだと信じて疑わないヘタレと奥手ってイメージですw

ではまた!
340 :名無し飼育さん :2014/02/03(月) 01:46
そのイメージとてもよくわかります!
さゆりほ好きとしてはそこをなんとか雪月花さんの力でくっつけてもらえたら嬉しいかぎりですw
とても素敵なお話でした

341 :名無飼育さん :2014/02/03(月) 22:13
くっつきそうでくっつかないもどかしさ
でもそれもまたさゆりほの良さだと思っています
342 :雪月花 :2014/05/05(月) 16:54
道重さんの卒業発表に思いの外に動揺している雪月花です
思ったよりも早かったですが、残り半年、最後まで応援していきたいです


>>340 名無し飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
さゆの卒業発表もありましたのでなんとかくっつけたいものです…
ただヘタレと奥手なのでどうアプローチすれば良いのやら…w


>>341 名無し飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
付かず離れずというか、信頼し合っているのになかなか素直に甘えられないのがこのふたりかなとw
そんなさゆりほが好きですw


今回は初挑戦で、鞘師さんと小田ちゃんのお話です
343 :キミの声 :2014/05/05(月) 16:55
 

その声が聴こえなくなったとき、胸が締め付けられたような感覚を知った。
なにかのアクシデントだろうかとか、フォローしなくてはとか、そういう現実的な話ではなくて。
もっと別の、違う次元のなにかを、確かに感じた。


 
344 :キミの声 :2014/05/05(月) 16:56
 
-------

東京へ帰る新幹線へ乗り込もうと、マネージャーを先頭にメンバーはぞろぞろと駅構内を歩く。
構内にはファンもいるようで、複数の視線を感じるが、「プライベート中に話しかけない」というマナーを守ってくれている。
コンサート終わりで疲れているため、それはなによりもありがたい。
そうでなくても、今日はいつも以上に疲労を感じていた。たぶん、いつもの2倍ほどに。
アクシデントに対応することには慣れているが、まさかあんなに歌割が増えるとは思わなかった。

1年ほど前、田中れいなが卒業するツアー中にも似たようなことがあった。
れいなが耳の不調を訴え、1公演丸ごと欠席するというとき、鞘師里保は彼女のほぼすべてのパートを担当することになった。
困惑が顔や行動に表れて、ステージ裏ではかなり迷惑をかけたことを思い出す。
みっともなく狼狽して、同期に頼って、弱音を吐いて。
カッコ悪かったな……

そんなことを思い出していると、メンバーの背中が遠くなる。
疲労と、思考の沼に嵌ったおかげで、輪をかけて速度が落ちてしまった。
怒られないように少しだけ歩幅を大きくする。右手で引きずるキャリーケースの音がうるさくなる。
345 :キミの声 :2014/05/05(月) 16:57
「うん?」

もう少しで追い付くというときに、くいっと左手首の裾を、小田さくらに引っ張られた。
歩幅を小さくして彼女に目を向け「どうしたの?」と訊ねる。
彼女はなにかを言おうとマスクの下で口を動かす。が、声は音にはならず、ただ掠れたように空気が震えるだけに留まった。
声が出せなくなってしまったことをもう忘れてしまったのか、私も軽率だったなと慌てて頭を振り、「だいじょうぶ?」と聞く。
さくらはまた少し口を動かしたけれど、やっぱり声は出なかった。
なんどか頷くのを確認し、私はとりあえず微笑んでみた。こういうとき、なんて声をかけてやるのが正解なのか、私にはまだ分からない。
そもそも彼女が、私を引き留めた理由すらも、見つけられない。
さくらは人に抱き付いたり、腕を絡めたりするのが好きな子だとは知っているけれど、今日はそんな理由で、私に近付いたわけじゃないことは分かる。
だけど私は、ちゃんとその意味を理解できていない。
もっとシンプルに、先輩らしく、分かってあげられたら良いのに。

ふと顔を上げると、遠くの方でマネージャーが怖い顔でこちらを見ているのが分かった。
ああ、マズい。また怒られる。

「急ごっか」

鞘師里保は彼女の了承を取らずに、小走りでマネージャーのもとへと向かう。
案の定、「歩くのが遅すぎる」だの「時間に間に合わなくなる」だのと小言を受けたが、いまはただすみませんと謝るしかなかった。
346 :キミの声 :2014/05/05(月) 16:57
さくらはまだ、里保の裾を握ったままで離さない。
まるでそれは、道に迷わないように母親にぴったりと寄り添って歩く子どものようだった。
ステージ上で肩を並べて歌う姿や、楽屋で佐藤優樹たちと仲良くはしゃぐ姿からは想像ができないような、言うなれば「陰」の表情だ。
よく9期は「陰」で10期は「陽」だとたとえられる。
なんだか、私たちが暗いと言われているようで好きじゃなかったけれど、いまならその理由も分かる気がする。同時に、さくらを「陰」とたとえた理由も。
そんな「陰」がふたり揃って新幹線に乗り込み、座席へと向かう。

「窓側、良いよ」

さくらにそう促すと、彼女は手を振って遠慮するが、軽く肩を押してやって強引に座らせた。ぺこぺことなんどか頭を下げられて苦笑する。
ほぼ同時に自分も通路側に座り、ぐっと腕を伸ばす。
後ろの席に座っている優樹に「座席倒して良い?」と了承を取ろうとすると、「えーだめですー」と拒否された。
自分はメールで「さやしさん、たおします」とか言ってきたのにズルくないか?と顔を綻ばせ、「小田ちゃんのも倒すから」と優樹の隣に座る工藤遥に了承を取った。
遥は「いいっすよー」と軽く応え、優樹はなぜかケラケラ笑う。
よく分かんないな、この最年少コンビ。

「倒して良いって」

とりあえずさくらの分まで了承は得られた。
リクライニングを軽く倒すと、さくらはまたなんどか頭を下げた。声が出ない以上、意思の疎通は表情か動作でしかできない。
不便というか、思った以上に難しいなとこめかみを掻くと、急に閃いた。なんだ、簡単なのあるじゃんとジャケットに入れていた携帯電話を取り出す。
ディスプレイを見せると、彼女はきょとんと目を丸くした。
347 :キミの声 :2014/05/05(月) 16:58
「筆談、じゃないけどさ。なんかあったら、メモ帳に書いてよ」

って提案しときながら「話すことありません」なんて書かれたらどうしようと内心焦っていた。
なんだか自分ひとりでテンパって、空回りしているようにも思えてきた。
こういうのはそもそも私担当じゃない気がするんだよね。えりぽんとか上手そうじゃん、なんて責任転嫁まで始めるあたり、ずいぶんひどい先輩だと思う。

だが、さくらはその提案に素直に応じ、指を滑らせて文字をつくっていった。
画面に表示された「ありがとうございます。」という一文は、字面を追えば淡白だったものの、里保の心を少なからずくすぐってきた。
目じりを下げ、人より細い目をさらに細くして「どういたしまして」と返した。

そのうち、発車のメロディーが鳴り、ドアが閉まった。
まるで眠りから覚めた猛獣のように、鉄の塊が唸りを上げ、ゆっくりと動き出す。
車内アナウンスが流れ、窓の外を夜が過ぎ去っていく。
徐々に速度を上げて鉄の塊は東京へと走る。
音楽を聴く、眠る、食事をとる、ブログを更新する。約2時間の道のりを個々に過ごす。
首を回すとゴキゴキと派手に鳴った。そんなに凝っているのだろうかと思っていると、今度は右袖をくいっと引っ張られる。当然、相手は窓側に座ったさくらだった。
彼女が持っている携帯電話を覗き込む。

今日は、すみませんでした。という一文を読んで、しばし、考えた。

昼公演の途中で聴こえなくなったさくらの声。
なにが起きたのか把握しようと彼女を見ると、その喉を抑えステージ袖へとはけていった。
歌割を即座に考えているとスタッフからの指示が出た。
さくらに起こった「不具合」は一時的なものだと考えていたが、事態は予想以上に深刻で、結局夜公演も含め、さくらのすべての歌割がメンバーに振り分けられた。
348 :キミの声 :2014/05/05(月) 16:58
「声の疲労」という現象がある。
声帯を長時間震わせたり、声の乱用をすることで、声帯が充血したために起こるのだとボイストレーナーの先生は話していた。
対処法としては、とにかく声を出さずに声帯を休めることや声帯を温めること、水分を補給することなどがある。
さくらを襲った現象はまさにそれで、彼女の声はいまもなお、喉の中で蓄積したまま外部の世界に羽ばたくことはなかった。

「謝ることじゃないよ。それより、喉しっかり休めなきゃ」

あまり沈黙が長すぎるのも失礼だろうと当たり障りのない返事をしたが、おざなりではなかっただろうかとすぐに後悔する。
ちらりと彼女の目を覗き込んだ。いつものような輝きはなく、悲嘆の色を滲ませて沈んでいる。
こういうときに上手いことが言えないあたり、自分はやはりダメな先輩なのだろうと聞こえないようにため息を吐く。
さくらはまた、携帯電話を操作する。
伝えたいことをうまく伝えられない気持ちって、どういうものなのだろうと想像する。


ふと、頭の中に暗い海が広がった。
海なのか、沼なのか。
空には星も浮かばない暗い夜。そこにぽつんと全身を投げ出して漂うのは、私だ。

ああ、そっか。と思い出す。
3年前、私にも同じようなことがあった。
349 :キミの声 :2014/05/05(月) 16:59
慣れない環境に身を置いて半年ほど経ったとき、妙な痛みが腰を襲った。
激しいダンスが原因だろうかと考えたが、時折アイシングはしていたし、もしかしたらただの成長痛かもしれないと大事には考えていなかった。
だが、下された診断は「坐骨神経痛」であり、名の通り、坐骨神経が圧迫されることによって生じた神経痛だった。
臀部や太ももに走る痛みは耐え難く、立って歩くことすらままならなかった。
当然のように長期療養を取ることになり、里保はただ、ひとりの部屋でベッドに横になっていた。

さくらが文章をつくり終えたのか、またこちらに見せてくる。
いままでよりも少し長い文章を、ゆっくりと噛み砕き、落とし込んでいく。

文章の中で、彼女は迷惑をかけたことをなんども謝っていた。
里保だけではなく、リーダーの道重さゆみにも、サブリーダーの譜久村聖と飯窪春菜にも。
大切な時期の、大切なコンサートだと、分かっているが故の謝罪が、胸を締め付ける。この数日前に、11年間在籍したさゆみが卒業を発表したから余計に。
里保もさくらも、エースと歌姫に課せられる重責を感じ、そこから逃げることは赦されない。
だけど。だけど。だからこそ―――

「―――」

気付いたときには、里保はさくらの喉に人差し指で触れた。
彼女が息を呑んだのが分かった。驚いたように目を見開いているが、拒絶するようなことはしなかった。
顎の下、ちょうど声帯がある部分から甲状腺まで、つうとなぞる。さくらがぴくっと肩を震わせた。
目を閉じてしまった彼女を見ると、本当に弱っていることを痛感する。普段は絶対に、弱音なんて吐かない子なのに。

「うちも、似たようなことがあったんだ」

人差し指をそっと離すと、さくらは恐る恐る目を開けた。
怖がらせてごめんと眉を下げ、「3年前に、腰痛めちゃってさ」と自らの腰をさすった。
あまり思い出したくない記憶ではあるが、少しだけ、3年前の「坐骨神経痛」の話をさくらに聞かせた。
350 :キミの声 :2014/05/05(月) 17:00
ただひとりでベッドに横になり、なにもしないだけの生活。
声は出せるし、頭もお腹も痛くない。ただ下半身に響く辛苦の痛みを必死に堪えた。
だれもいない部屋で、ただ天井を睨んでいる日々に気が滅入りそうになった。大好きなダンスができないことが、こんなにもツラいとは思っていなかった。
こういうときに限って、悪い考えばかりが頭をめぐる。
置いて行かれる。
新メンバーなのに。尊敬する人がもうすぐ卒業するのに。初めてのハロープロジェクトのコンサートなのに。
見捨てられる。ファンから軽蔑される。叩かれる。

恐怖と絶望とが心を支配する。
暗い海にひとりで漂い、このまま沈んでしまいそうになるなか、里保に光をくれたのは、同期だった。

「メールと電話と、あと直接うちにも来てくれた。お見舞いって言って」

気が滅入りそうになるなか、聖と衣梨奈とそして香音がなんども連絡をくれた。
オチのない話を延々と聞かされることだって、虫の物真似だって、メンバーのくだらない話だって、時に公共の電波を使った暴露だって、なんだって楽しかった。
ただ傍にいて、ひとりじゃないと教えてくれたことが、嬉しかった。

あの経験は里保を変えた。
人見知りで暗いという性格は、まあいまでも残っているけれど、虚勢を張ることや人以上に壁をつくることを少しずつやめることができた。
351 :キミの声 :2014/05/05(月) 17:01
れいなが不在のコンサートでも、3年間の坐骨神経痛のときも、自分はいつも同期に支えられている。
支え合うことはメンバーだから当たり前のことなのかもしれないけれど、それが鮮やかな色を纏った、特別で尊い感情なのだと知った。

だから時に、思う。
同期がいないさくらのことを。
ただひとりで加入して、「歌姫」の称号を背負うさくらのことを。
滅多に弱みを見せないで、ステージ上でキラキラ輝くさくらのことを。
いつだったか、「同期はやっぱりほしいですよ」と寂しそうに笑ったさくらのことを。

「うち、小田ちゃんの声好きだから。だから、ゆっくり治してよ」

同期はいないけど、頼りない先輩なら此処にいるからさ。

「また、小田ちゃんといっしょに歌いたいからさ」

そうして彼女の頭をなんどか撫でる。コンサート終わりだというのにさらさらの髪に指が通って心地いい。
真っ直ぐに里保を見て話を聞いていたさくらは、その大きな瞳を細めて、まるで猫のように笑い、頷いた。
右手の小指をぎゅっと握られる。
それだけじゃ足りないのか、感触を確かめるようになんども握っては離し、握っては離しを繰り返す。
おもちゃのような扱いをされている気がしたけど、振り払う気にはなれずにそのままにしておいた。
352 :キミの声 :2014/05/05(月) 17:01
そのうち、握る力が弱くなっていく。
さくらは里保の肩に頭を預け、彼女の手中にあった携帯電話がシートの上に落ちた。
どうやら、眠ってしまったようだった。
そっと携帯電話を鞄に戻しながら、こんなもの、ホントは必要なかったんじゃないかなと苦笑する。

「おやすみ、小田ちゃん」

彼女の耳元でそう囁くと、一瞬だけ体が震えたような気がした。
ああ、また怖がらせちゃったかなと反省しつつ、里保もゆっくり目を閉じた。


―――おやすみなさい、鞘師さん


そんな声が聴こえたような気がしたけど、それは里保が望んだ幻聴だったのかもしれない。
ただ、あの可愛らしくて透き通った声がまた聴けるのなら、幻聴だって構わないかなと、ぼんやり思った。
353 :雪月花 :2014/05/05(月) 17:03
以上になります
鞘さくというかさくらちゃんはほぼ初挑戦でしたが…精進しますm(__)m
次はさゆりほの予定です

ではまた!
354 :雪月花 :2014/06/01(日) 23:22
モーニング娘。'14春ツアー千秋楽に参戦してきました雪月花です
強行スケジュールでしたが、道重さんにとっての最後の春ツアー千秋楽、感慨深かったです

今回はさゆりほで「あの日」の前日のお話です
355 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:23
 

知らないうちに芽生えた想いの名前を、私は長い間見つけることができなかった。
見つける前にいつかは消えてなくなるだろうと、見ないふりをしてきたそれは、徐々に肥大化し、私に巣食った虚勢を覆い隠そうとしていた。
知らない方が良かったと後悔しても、もはやそれは、私ひとりの力では抑え込めないほどになっていた。

だからといって、それを解放するだけの勇気を、私は持ち合わせていなかった。
その日の、その瞬間までは―――
356 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:24
 
-------

それは突然訪れた。

さゆみの地元での公演を明日に控えた夜、メンバーは宿泊するホテルのある一室に集められた。
「コメント撮り」と聞いてきたが、いつもと少しだけ様子が違うことに里保は早い段階で気付いていた。
職業柄、「ドッキリ」というものにかけられることは多々あるので、今回もまたそれではないかと、感じているメンバーも少なからずいた。
里保もそのひとりで、何処かにカメラが仕掛けられているのではないかと、視線をそれとなく動かして探してみるが、「コメント撮り」だったので、目の前にはカメラが堂々とあるわけだし、なんだか拍子抜けしてしまう。
しかし、そういった明るいものとは少し違う気配を里保は感じ取っていたために、なにか言葉を発することさえも躊躇ってしまっていた。

そうしているうちに、リーダーであるさゆみの口から出てきた言葉が「卒業」という二文字だった。
瞬間、やはりこれはドッキリだと思った。
思い込もうとした。

だけど、それを語るさゆみの目は本物で、ふざけたことなどなにひとつ口にできない空気を孕んでいた。
そのうちだれかが鼻を啜る音がして、ああ、これは現実なんだと漸く納得することができた。
357 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:24
 
そのあとのことは曖昧にしか覚えていなくて、気付けば里保は部屋に戻ってシャワーを浴び、ぼすんと深々とベッドに腰を下ろしていた。
まだ気持ちの整理がついていない。というか感情が落ち着いていないのだと思う。
ドライヤーで乾かした髪は、いつものような指通りはなく、何処かで引っかかる感触がある。トリートメントを雑に行った証拠だ。
こんなことになってしまうあたり、プロ意識が欠けていると思う。
あの人なら、道重さんなら、絶対にこんなことしないのに。

「里保ちゃん―――」

離れた場所から聞こえた声に、顔を上げる。
そこには、長い髪から雫を垂らした聖が立っていた。
お風呂上がりなのだと気付く。そういえば彼女とは今日のホテルが同室だった。先に入って良いよって言われた気がする。記憶は相変わらず、雑多だけれど。
人一倍汗をかく聖は、コンサート後には常にシャワーを浴びたように髪も撥ねてしまう。それがファンの間では「湯上り美人」なんて言われているらしい。
正直、いま聖を目の前にすると、里保も同じようなことを考えてしまう。
フクちゃんって、すごく美人なんだな。
その姿が、少しだけ、さゆみと重なった。

「だいじょうぶ?」
「………うん」

即答には程遠い返答をすると、彼女もまたたっぷりと沈黙を持たせたあとに「そう」と答えた。
きっと、聖もそんなに余裕があるわけじゃない。
見た目は里保よりもずっと大人びているし、サブリーダーという立場上、思考も里保のそれとはずいぶん違う。
だからといって、さゆみの卒業をすとんと受け入れられるほど、彼女は大人じゃない。
きっと「大人」だからって、ああ卒業するんですか、おめでとうございます。なんて簡単に割り切れるわけじゃないんだろうけど。
358 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:26
「里保ちゃん」

もういちど、彼女が呼ぶ声がする。
ずいぶんと遠くで聞こえたような気がしたけど、彼女はすぐ近くに立っていて、「隣、いい?」と訊ねてきた。
素直に、頷く。
間もなくして聖が腰を下ろした。ベッドが軽く跳ねる。
甘い香りが鼻腔をくすぐる。シャンプーなのか、ボディーソープなのか、それとも入浴剤なのか。
別にどれでもいい。
聖はいつも何処か甘くて懐かしい香りがする。

そんなことを思っていると、いつの間にかその香りが急激に強くなった。
抱き締められていると気付いたのは数秒経ってからのこと。
正直、そんなことをされるなんて思ってもみなかったから、さゆみの卒業を聞いた時ほどではないにしろ動揺した。
心臓が一瞬撥ねたあと、思い出したように早鐘を打つ。凱旋公演の前とは違う緊張が走る。
でも、これは本当に「緊張」なのだろうか。胸は痛いし、汗も出ているし、動揺もしているけれど、なぜだろう、何処か、温かい。
この温度は、聖の有するそれなのだろうか。
答えを見つける余裕もなく、彼女は「……聞いてたんだ、聖たち」と言葉を発した。

「里保ちゃんたちより、先に。はるなんと、聖。ふたりで。道重さんの、こと」

それがなにを意味していたのかすぐに合点がいった。
同時に「なんでっ……!」と思わず非難してしまいそうな思いがせり上がってくる。
さゆみの卒業を、全員同時ではなくて、サブリーダーに先に伝わっていたという事実が、鋭く胸に刺さる。
まるで子どものように、いちばんを奪われてしまったことに対する腹立たしさに似たものを感じていた。
359 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:28
分かっている。
メンバー全員に伝える前に、サブリーダーふたりを呼んで、彼女たちにしかわからない想いを伝えたことくらい。
グループに11年在籍したさゆみが、リーダーとして過ごした24ヶ月のことを、次の世代に渡す準備をしたことくらい、分かっている。

分かっているけど。
分かっているのに。
分かっているから。

そういう、子ども染みたぐちゃぐちゃと混在した感情を、人は「嫉妬」と呼ぶのだろうか。

「……泣いてなかったの、道重さんは」

震えるなかで聖が紡いだのは、里保の知りえないその瞬間の彼女のことだった。
またしても、燻っていた炎が燃え滾るのを感じ取るが、それを制したのは、聖の腕の温もりだった。
同時に、彼女の言葉の意味を噛み砕く。
「泣いていなかった」とは、どういうことだろう?

「道重さんも、里保ちゃんとおんなじ」
「おんなじって…?」
「甘えたいのに、甘えることができないところ」

里保の髪を撫でるその指は細くて柔らかい。
まるで母親のそれを思い起こさせるからか、波立っていた心が落ち着いていくのが分かる。
落ち切らない疑問は厳然としてそこに佇んでいるものの、聖の透き通った声は、里保の心をすり抜けていく。
360 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:28
「道重さんは、私たちの前じゃ、本音は見せられないから」
「リーダーだから?」
「たぶん。でも、里保ちゃんの前だと、そうじゃないのかも」
「……どういうこと?」
「道重さんにとっての、特別だから」

投げかけられた言葉の意図を、里保はまだ噛み砕けない。
聖は抱き締めていた腕の力を弱め、里保と視線を合わせに来た。左右非対称ながらもその大きな瞳は、里保の心を捉えて離さない。自分にはないものが、あまりにも羨ましい。
思えば私は昔から、人のものを欲しがるような子どもだった気がする。
大きな二重の瞳も、だれとでも話せる社交性も、圧倒的な歌唱力も、周囲からの人望も。
そのどれひとつとすら持ち合わせていないから、ただがむしゃらに別のこと―――ダンスに打ち込んでいた気がする。
きっかけは、憧れのグループに魅了されたからなのだけれど、それを継続させたのは、ただのコンプレックスへの抵抗だ。
こうやってネガティブな思考に走るところも、まさにコンプレックスなのだけれど。

「里保ちゃんは、道重さんの特別なんだよ」
「………そんなこと」
「ねえ、逃げてばかりじゃ変わんないよ?」

思わず口をついた否定の言葉は、決して謙遜からくるものではなかった。これこそまさに自らを卑下するもので、コンプレックスの塊だと自覚しているからに他ならない。
だが、その否定をかき消す鋭い弓矢を直近の距離から放たれた。
普段の聖からは想像もつかないような強い言葉は、彼女の瞳の中にある熱と相まって、里保の心を真っ直ぐに貫く。
その瞳から、逃れられない。
なにかを紡ごうと口を動かすが、小刻みに震えるその唇は弱々しく、ただ不快な表情を彼女に見せることしかできなかった。
自らの細い目で抗議するに睨み付けると、彼女は慌てることもなく「云わないとさ」とひとつ呼吸を吐いた。
361 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:30
「云わないと、なにも変わんないんだよ」

まるで叱られているような、諭されているような、そんな感覚に陥る。
居丈高な態度、と評するほど仰々しくはないが、聖が有した瞳には、里保の反論を許さないほどの力があった。
だけど里保はまだ、彼女の云わんとすることを掴み切れず、なぜだか泣きそうになってしまう。
なぜ、さゆみの話から自分の話にすり替わっているのかが分からない。彼女が言った「特別」の意味も、「言わない」という意味も、分からない。
私がいったいなにをしたというのだろう。


―――なにも、していないから?


ふいに閃光が走ったように過ぎ去った思考に息を呑んだ。
それは聖にも明確に伝わっていたようだが、彼女はあえてもういちど、それを言葉にした。

「想ってるだけじゃ伝わらないよ。しかもそれはずーっと残りつづけるの」

言い切ったあと、「まるで呪いのように」と彼女は付け加えた。
「呪い」とは仰々しいもので、聖の口からそんな色付いた言葉が出るとは思ってもみなかった。
聖はそんなこと意に介さずに「縛りつづけるよ」と笑った。今日の彼女は、ずいぶんと饒舌だ。普段は同期の衣梨奈の話を聞くばかりなのに、なぜだかいまは、よく口が動く。

「想ってることは口にしないと伝わらない。道重さんに、ちゃんと云わないと。もう、いましかないんだよ?」
「言うことなんて…」
「いっぱいあるでしょ?此処に、あるもの」

聖の左手が指すものは、里保の胸元。
実際はその奥にあるものを指先は示しているはずだった。だけど里保は、そこにあるものが、分からない。
だが、「分からないふり」をしているだけなのかも知れないということに、里保自身も気づいていた。
知らない間に芽生えていた、想いの名前。それを見つけるまで、幾分にも遠回りをしてきた気がする。
見つける前にいつかは消えてなくなるだろうと、見ないふりをしてきたものは、徐々に肥大化し、すべてを覆い隠そうとしていた。
知らない方が良かったと後悔しても、もはやそれは、私ひとりの力では抑え込めないほどになっていた。
362 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:30
きっかけがなんだったのかなんてもはや覚えてもいない。
ただ、人見知りで、人の輪の中に入るのが苦手だった里保に対し、いつも可愛い可愛いと積極的に声をかけてくれたのがさゆみだった。
最初は、さゆみのその感情さえも裏があるのではないかと疑っていたけれど。


―――「里保ちゃんは、道重さんの特別なんだよ」


自分が依怙贔屓されているのでは、と、考えたことがなかったわけではない。
だけど、気が付けば里保は、さゆみからその名を呼ばれることが嬉しくなっていた。
歳が9つも離れていて、まるで妹のように可愛がってくれるさゆみを、里保は知らないうちに求めていた。

もっと呼んでほしい。もっと触れてほしい。
欲望は一方的なものではなく、主体は自らへと移り、いつしかさゆみをこの手にしたいという愚かな感情にまで発展していた。

もっと話したい。もっと触りたい。もっと道重さんの傍に居たい。
思春期のころに芽生え、年齢とともに薄れて消え去るはずだった淡い感情は、次第に肥大化し、根を張り、飛び込んでくる獲物を絡め取る蜘蛛の糸のようにまで展延した。


だからといって、それを解放するだけの力を、私は持ち合わせていない。
きっとこの感情を伝えるほどの力は、この先ずっと有することはないだろうと高を括っていた。
363 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:31
だけど、さゆみの口から発せられた「卒業」の二文字は、確かに私が過ごした3年という月日を軽く飛び越えるほどの威力を持っていた。
ちっぽけなプライドや、些細な虚勢を、まるで砂上の城の如く突き崩したその力は、聖の云うところの「呪い」の類だったのかもしれない。
その「呪い」を口にしないと決め込んでいたのは、自分の弱さを自覚していたからだったし、なにより怖かったからだった。
認められるはずのない、振り返ってくれることもない、勝算のない告白をして、いったいなにになる?

というか、私はなにかを得たいのだろうか。と自問自答してしまう。
ただただ、道重さんに振り返ってほしいだけじゃ飽き足らず、どうも私はその先のことを求めているようだ。
彼女は私に好意を抱いていることは、少なからず、分かる。
だけどそのベクトルは、私とは、違う、気がする。
いくら彼女にとって私が「特別」だとしても、だ。

そもそも、伝えた感情が迷惑になるのではという懸念がある。
ベクトルが違うならば特に。

「云わない気?」

隣に座る聖が、まるで見透かしているように呟いた。
同期の「自称魔法使い」よりも、彼女の方がよっぽど魔法使いに見えた。
その心のうち、自らが見ないように、奥底にしまい込んでしまった想いさえも、すべてを見透かす、魔法使い。
だけど、彼女がどんな存在であれ、里保にはやはり勇気がない。
伝えるだけの、勇気。伝えて、それが報われなかったときに受け止めるだけの、勇気。現実をちゃんと理解する、勇気。

「じゃあ、聖にちょうだいよ」
「えっ?」

そうして勇気に関しての考察を深めているさなかに投げられた言葉は、里保の動揺を激しく誘った。
364 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:32
「云わないなら、なにも云わないのなら、聖にちょうだい。
道重さんへの気持ちも、道重さんに好かれてる事実も、道重さんに触れられて嬉しいって感じる心も、聖にちょうだいよ!」

息を荒げながら紡がれる言葉は、里保を貫き、そして室内にこだました。
あまりの勢いに、呼吸の仕方を忘れてしまった。
はぁ、というため息にも似た吐息のあと、聖は自らの前髪をかきあげ「ごめん…」と嘆いた。
完全に、彼女の腕の温もりから離れてしまった。里保は相変わらずなにも返せないまま、ただ彼女を見る。同時に、彼女の言葉の意味を、考える。

言葉を噛み砕き、想いを享受する。
聖がこんな風に怒鳴ったのを、久し振りに見た気がする。
9期の最年長として、少なからず、彼女が後輩たちを叱る姿も里保は目にしていた。
だけど、今日の彼女の怒りは、それらとはまるでベクトルが違っているような気がした。なにがと聞かれれば、すとんと落ちる答えを見つけることはできないけれど。
それでも里保は、聖の言葉に乗せられた音以上の意味を、ちゃんと理解しようとしていた。

さゆみへの気持ち。
いつからかは分からないけれども、知らないうちに此処に存在して、次第に展延していったこの感情。
伝えないで、蓋をして、それを聖に渡す。
聖にこの感情を全部渡したとして。そうしたら、私はもっと、楽になるだろうか。
たださゆみを想う感情も、触れたいと願う欲望も、指が掠めただけで高鳴る胸の鼓動も。
聖にすべて譲渡したとして。そうしたら、そうしたら、私は―――
365 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:34

―――りほりほ


「…………いやだ」


幻聴のように頭に響いたあの人の言葉が、里保の口を、動かした。
前髪をかきあげた聖と視線が絡む。その瞳が滲んでいたように見えたのは、光の加減だったのかもしれない。
里保は自分の言葉に驚きながらも、ひとつ息を吸い、「あげられ、ない」と短く切りながら声を吐く。

「好き、だもん」

語尾が震えてしまったのは、恐れからだったのか、寂しさからだったのか、それともまったく別の感情だったのか、それさえ里保には分からない。
ただ、初めてちゃんと口にした「好き」という二文字が、宙に浮き、心へと届いたその瞬間、自らの内面がざわつき、水面が揺れるような感覚を知った。
風もなかった凪のような空間に、まるで小石が落ちて波紋が広がるように。
色のなかった世界が鮮やかに輝き、それと同時に色を失って崩れ去っていった。
それはまさに、空中の楼閣だった。
見ないようにしてきた現実を見て、聞かないようにしていた現実を聞いて、逃げつづけていた現実と向き合って。
その瞬間に現れたのは、以前から厳然とそこに佇んでいた、たったひとつの想いだった。

「……そうだよね」

聖は、諦めるように、笑った。
泣いているようにも見えたけれど、もうなにも言う力は残っていなかった。
代わりに、なにか吹っ切れたように里保は立ち上がり、扉へと歩いて行った。
366 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:35
すんと鼻を啜り、ノブに手をかける。回すだけの力はまだ手にこもっていなかったが、「フクちゃん」と振り返らずに声をかけた。
聖はベッドに座ったまま「うん?」と返す。こちらも視線は床に落ちたまま、里保と噛み合うことはなかった。

「ごめん、ね」
「……なにが?」
「フクちゃん、道重さんが、好きなんだよね?」

しばしの沈黙のあと、背中に視線を感じた。彼女は顔を上げ、「やっぱり、不安だよ」と何処か楽しそうに声をかけた。
その意図が分からなくて思わず振り返ると、案の定、聖はクスクス微笑みながら手を振っていた。
「重症だね、その鈍感さは」と意味深な言葉を最後に、彼女はぼふっとベッドへ横になった。

「なにが?」

そう聞いても、聖はなにも返してくれなくなった。
ため息を吐いたあと、今度こそ会話を諦めて、里保は手に力を込める。重苦しい扉を開けて、廊下へと出た。
淡い照明に目を細め、彼女の部屋がある左手へと歩きだし、後ろ手に扉を閉めた。

「好きなのは、里保ちゃんなんだけどなー……」

ベッドに寝転がりながら呟いた聖の声が、里保に届くことは、もちろんなかった。
367 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:37
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里保はその部屋の前に佇み、どうするか暫く悩んでいた。
そもそもケータイを持たずに部屋を出たのは失態だった。さゆみになんの断りもなく急に部屋を訪問するなど失礼極まりない。
いま何時かもハッキリは分からない。日は跨いでいないだろうが、それでも深くなり始めているのは事実だ。
ケータイを取りに戻ろうかとも思ったが、もういちど聖に顔を晒すのは、なんだか躊躇われた。
結局、勇気を出してさゆみの部屋のインターホンを押すしか方法はない。
此処でも勇気は必要なのかと肩を落とし、躊躇しながら悶々と思考し、早10分が経過しようとしていた。
このフロアにはメンバーとスタッフしか宿泊していないが、そろそろだれかに見つかってもおかしくない。
いい加減に腹を決めるしかないのに、最後の勇気が出てこない。
ああもう、いったい何処に勇気を忘れてきたというのだろう。
いや、最初から持ち合わせていなかったのかもしれない。所詮は、付け焼刃程度のものなのだ。ただ感情だけで突っ走っても、意味はない。

それでも、此処に立ち止まりつづけることこそ、無意味だ。
帰るか、行くか、二択しかない。
もういちど深呼吸をし、震える指でインターホンに手を伸ばす。

「なにやってんの?」

もうあと数センチで触れようというときに、隣の部屋の扉があいた。
そこに居たのは我らがマネージャーで、里保は思わず上擦った声を上げた。
368 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:38
「あんた部屋そこじゃないでしょ」
「そう、なんですけどっ……」
「どうしたんですか?」

挙動不審になる里保をよそに、強面のマネージャーの後ろから出てきた人物が、さらに彼女を困惑させた。
そこには、彼女が逢わなくてはならないと意気込んできた理由であるさゆみが、髪をひとつに結わい、実にラフな格好で立っていたからだ。

「道重さんっ?!え、あれ、なんで…?」
「なんでって……此処さゆみの部屋だし」
「え?じゃこっちは…」
「そこ佐藤と工藤の部屋。さっきまで騒がしかったから、ちょっと注意しに行ったけど」

痛恨のミスを犯したことに気付いた。
未遂とはいえ、部屋を間違えるなどアホにもほどがある。
こういうところが「ポンコツ」と称されるゆえんだよなと妙に納得しながら落胆する。
が、そう悠長に構えている暇はない。マネージャーは寝た子を起こすことをしたくないのか、一刻も早く里保を部屋に帰そうとしている。
本命のさゆみになんとか話を切り出さなくてはならないが、なにを言えば良いのか出てこず、頭が真っ白になる。

「で、あんたはなんの用なの?」
「いや……私、は……」

追及を逃れるように、縋るような目を、思わず投げてしまった。
さゆみは風呂上がりなのか、とっくにメイクは落としていて、いつもの彼女のよりもずいぶん幼く見えた。
瞼が落ちかかっているのは、眠気ゆえなのだろうか。だとしたらやはり、今日は引き下がる方が得策なのだろうか。
そうこうしている間にもマネージャーは追及の手を緩めず、この場で部屋に戻らないと収まらないような瞳を見せた。
369 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:39
「あ、ごめんなさい。さゆみが呼んだんですよ」

さらに追及の矛先が伸びようとしたそのとき、さゆみの一言が場を制した。
里保もマネージャーも、同時にさゆみに目をやる。困惑と、混迷と、そして微かな期待とが入り混じりながら。

「道重が?なんで?」
「ちょっと明日のことで確認したいことがあったので…ごめんね、鞘師も明日早いから寝たいだろうに」
「でも、なんで鞘師は、佐藤たちの部屋の前に…」
「間違えただけでしょ。さゆみの部屋と佐藤たちの部屋、隣だし。鞘師も、意味もなく佐藤たちを訪ねたりしないって、マネージャーさんだって分かってるじゃないですか」

里保はなにも言葉を発しないまま、たださゆみを見つめるほかなかった。
よくもまあこれほどに流暢な嘘が出てくるものだと半ば感心するしかない。
部屋を間違えたのは事実にしても、それ以外はなんの真実もない。そもそも部屋を間違えたこと自体、さゆみは知らないはずだ。
マネージャーはまだ納得していないようだったが、これ以上押し問答をつづけることに意味を見いだせなくなったのか、「早めに寝なさいよ」とふたりに念を押し、廊下を歩いて行った。

「じゃ、鞘師、おいで」

マネージャーの姿が離れたのを確認し、さゆみは里保に声をかけた。
弾かれるように体が反応し、里保も慌ててさゆみの部屋へと入る。
がちゃりと扉が閉まると、何処か甘い香りに包まれた。やはり、風呂上がりらしい。
テーブルの上には、明日のコンサートで使われる資料が散乱していた。そっか、明日、発表するんだよなと改めて思い知る。
ファンの人たちは、その言葉を、どのように受け止めるのだろう。
11年在籍した場所から離れるという現実に、胸を引き裂かれるような想いをすることに違いはない。
ファンにとっても、私たちにとっても、「道重さゆみ」という存在は、あまりにも大きい。
先ほどだってそうだ。窮地に陥った里保を、さゆみは一瞬の機転で掬い出してくれた。
その存在に頼ってばかりではいけないと思うけれど、それでも、彼女が抜けることは、主柱を失うことに等しいのかもしれない。
田中れいなが抜けたときにも、似たようなことを感じたことを思い返す。
あのふたりの存在は、自分たち後輩にとって、目標であり、到達点であり、いつも柔らかく輝く光なのだ。
370 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:40
「で、鞘師はだれになんの用だったの?」

さゆみは資料をまとめながらそう訊ねた。
「え?」と上擦った声とともに彼女を見る。さゆみは資料をファイルにしまうと、冷蔵庫からペットボトルを取り出し、軽く口付けた。
喉を潤すその液体を見て、なんだかこめかみが痛くなった。まさか喉を潤す水に対してまで嫉妬しているんじゃじゃないだろうなと、自分が嫌になる。

「いえ…その……道重さんと、話、したくて」

本題を切り込むと、彼女は眉を上げた。まさか自分に用があったとは想像していなかったらしい。
だが、すぐに表情を緩めると、「そうなの?」と笑い、ペットボトルをテーブルに置いた。
「まあ座んなよ、ベッドとか」と彼女は指差し、窓際へと歩く。
里保は整理された部屋をぼんやり見渡した。
ひとり部屋ではあるが、ベッドはふたつで部屋の面積も広い。鞄の口は空いているが、中は十分に整理され、服も散乱していない。
明日の朝に着るであろうジャージはナイトテーブルに置かれ、その横には目覚まし用のケータイもある。なにからなにまで自分と違い、しっかりしていることが見て取れた。
なんとなく、「自分」という存在がこの空間に場違いな気がして、すぐにでも部屋を出ていきたかった。
先ほど少しだけ顔を出した勇気が、また何処かに消えてしまったようだ。
こめかみをぽりぽり掻くと、カーテンが開く音がした。
視線を上げると、さゆみが大きな窓の前で両手を広げ、「わぁー」と何処か感嘆した声を漏らしていた。

「綺麗……」

ホテルからの夜景は、彼女の云うように、綺麗だった。里保も思わず「そうですね…」と呟くほどに。
371 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:41
「山口も、東京に負けてないでしょ?」

闇によって鏡になったガラス越しに、さゆみは笑いかけた。
遠くに広がるビルの灯りに目を細める。
ホテルの上階、夜の海に広がる輝きを見て、さゆみはなにを思っているのだろうと考える。


―――「後輩たちに、もっといい景色を見せてあげたい」


彼女は常々、そう云っていた。
さゆみの話す「いい景色」というのがどういうものか、里保にはまだ分からない。
分からないから、知りたかった。
どうすればその景色が見えるのだろうか。
頂上を取れば、見えるのだろうか。席巻すれば、見えるのだろうか。彼女と同じ場所に立てれば、見えるのだろうかと。
さゆみが見たことのあるその景色を、里保はこの目で確かめたかった。

そうして里保が焦がれた「景色」とは、こういう夜の海にも近いのかもしれない。
「100万ドルの夜景」という歌詞には程遠いかもしれないけれど、それでもこの輝きは、本物だった。
ああ、道重さん。いま、あなたのおかげで「いい景色」が見られています。そう口にしたい気持ちが生まれる。


「道重さんのことが、好きです―――」


だから、というわけではないはずだが、その瞬間、里保は想いを紡いでいた。
伝えないでおくと決めた小さなプライドは見る影もなく消え去り、あとに残ったのは子ども染みた感情ただひとつだった。
震える唇が紡いだ言葉はさゆみに届き、ガラス越しに彼女が目を見開いたのが分かった。
372 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:43
振り返ると、その黒髪が靡き、シャンプーの甘い香りが里保の鼻をくすぐる。
漆黒の瞳が揺れ、その真意を探ろうと里保の目を―――自虐してしまうほどの小さな瞳を覗き込む。
交わされる視線の間で言葉が揺れることはなかったが、それ以上に、ふたりの空間が、軋み始めていた。

「なに……どうしたの、急に?」
「………嘘、じゃないです。本気、です」
「あ…もしかして、あっ、あ、ドッキリ?」

ああ、そうだよね、ドッキリだよね。ごめん、良いリアクションできなくて。
そう笑って済ませようとするさゆみに、首を振る。
髪が揺れると、1時間ほど前につけたシャンプーが微かに香った。さゆみのそれとは、比べものにはならないけれど。
果たしてこの香りは、さゆみを惑わすことができるのだろうか。かつて、その香りに絆されてしまった私のように。

「本気です、道重さん」
「……あ、ありがと。鞘師にそう言ってもらえて、嬉しいよ」
「道重さん」
「話って、これ?ふふ、鞘師も面白いこと考えるよね」
「道重さん……」
「でも、明日も早いし、鞘師もそろそろ」
「信じて、くれませんか?」

流暢に滑り出ている言葉が、止まった。というよりも、強引に、止めた。
絡む視線に、微かな動揺が見える。
それは互いの奥に「揺らぐことなく」存在していたものが、ほんの少しではあるが、同じ方に向こうとしている兆候だった。そのことにまだ、さゆみも里保も気付いてはいない。
373 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:44
「鞘師、どうしたの?」

さゆみの声のトーンは、先ほどから変わっていなかった。それでも、自分の心を乱した里保を知ろうと、その深淵を覗き込んできた。
里保はそれに、応える義務がある。決して目を逸らすことなく、「ごめんなさい…」と心の内を話し出す。

「きゅっ、急にこんなこと言っちゃってすみません…でも、道重さん」

いちど、言葉を切る。
ここが勝負どころだと自覚していた。
だからこそ、飾りはいらない。

「好きです。こういう感情、初めてで……道重さんと、ずっといっしょに」
「好きだから、どうしたいの?」

意気込んで紡いだ言葉は、あっさりと切り返された。
責めているようではなかった。ただ疑問を提示しているわけでもなかった。その奥にあるのは、懐疑と、憐憫だった。

「さゆみのこと好きって言うけど、鞘師はどうしたいの?」
「っ……もし、道重さんも私のことを、想っていてくれるなら、私は道重さんといっしょに」
「―――好きだよ、さゆみは」

再度遮られた言葉に付随した意味を理解するまで、里保には時間が必要だった。
いま、道重さんは、なんて言った?

「だけど、さゆみの好きと、鞘師の好きは、違うから」
「違うって……」
「さゆみの好きは、そんなに綺麗なものじゃない。鞘師みたいに、憧れでも、尊敬でもないよ」
374 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:47
諦めたように伏せた瞳に、哀しみの色が満ちていた。
さゆみの言わんとすことがあまりよく分からなかったが、彼女が一歩こちらに歩み出た瞬間、思わず一歩、後退りしてしまった。
彼女の抱える「なにか」に、怯えた。その「なにか」の正体は、分からない。

「いっしょに居たいとか、そんな軽いものじゃない。ていうか、鞘師が思うほど、さゆみは良い人じゃない」

視線が落ちる。同時に、その黒い前髪が、彼女の表情を隠した。
なにを考えているのか、その思考の先も、抱えたなにかも、内面に秘めた想いも、見えなくなる。
それでも理解したくて、後退ってしまった一歩も戻すと、彼女が顔を上げた。
再び視線が絡み合う。そこに映る里保はひどく狼狽えていて情けなくて、これでよくエースなんて言えるなと失笑してしまうほどだった。
もちろん、失笑するほどの余裕なんて、どこにもない。

道重さん。そう名を呼びたかったが、喉にへばりついたそれはちっとも外に出てきてはくれなかった。
道重さんは素敵です。尊敬する先輩です。道重さんが好きです。だからそんなに卑下しないで下さい。好きなんです。
必死に紡ごうとするのに、なにも出てこない。勇気、ああ、勇気をまた、何処かに置き忘れてしまった。

「明日早いから。もう部屋戻りなよ」

話はそれだけだと、すべてを終わりにするようにさゆみは背を向け、窓へと歩いた。
彼女の背中が遠くなる。歩くたびに、髪が揺れ、再びあの香りが漂う。
カーテンを閉め始めたさゆみに、里保は思わず手を伸ばす。
375 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:49
遠い遠い、その背中。
11年と3年という、圧倒的なキャリアの差。
24歳と15歳という、普通の生活では交わりにくい年齢の差。
そんなものを飛び越えてでも、その背中に、触れたいと願った。

さゆみがカーテンを閉め終えたのと、里保がその背中に触れ、抱き締めたのはほぼ同時だった。

「同じじゃ、ないんですか?」

息を呑むのが背中越しにも伝わる。
ガラスはカーテンに遮られ、もはや彼女の表情を知るすべはない。だけど、だったらなんだっていうんだ?
相手の顔が分からないと云えないっていうほど、中途半端な想いを抱いてきたわけじゃない。相応の覚悟をもって、此処に来ている。
聖に焚きつけられた想いでも、その色は決して、変わらない。

「私と、道重さんの想いは……好きって気持ちは、同じじゃないんですか?」

フラれることも、傷付くことも、本心では嫌だけど、覚悟はしている。
だから、後悔しないように、全部を、伝えたい。
ただそれだけしか、持っていないから。

「……違うよ、鞘師」

だけど、彼女の口から出るのは、やはり否定の言葉だった。

「さゆみの好きと、鞘師のは、違う」
「どう、して?どう違うんですか?私は…まだ子ども、ですけど、でも道重さんのことホントに」
376 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:50
「さゆみの好きはっ……!」

一瞬、なにが起きたか分からなかった。
さゆみがぐるりと反転したかと思うと、里保の肩を掴み、強引に力を込めた。
咄嗟のことに即座には反応できず、押されるがまま、後退する。
どさりという衝撃を背中に受け、天井を見上げる格好になった。
直後に淡い照明を背にしたさゆみと正対し、押し倒されたのだと、漸く理解した。

「……さゆみの好きは、こういうことなの」

両手首を掴まれ、身動きができなかった。
さゆみは口角を上げ、射抜くような瞳をこちらによこした。
その瞳に見つめられ、全身がぞくぞくと震えた。恐怖とは少し違うこの感覚を、人はなんと呼ぶのだろう。

「鞘師のこと、独り占めしたい。なんなら、壊したいの」
「こわす……?」
「鞘師が泣いてもやめない。嫌がっても、手に入れたい。自分だけのものにして、愛したい。さゆみの好きは、そういう好きだから」

右手がそっと、里保に触れた。
細い指先が頬から鼻先、唇をなぞっていく。
彼女に触れられるたびに、心臓が早鐘を打ち、まるで暴走してしまいそうになっていた。
これまで感じたことのないような痛みと、その先にあるなにかを知りたい欲望が交錯する。
さゆみの瞳は鋭いまま、指先は顎にかかり、くいっと突き出される格好になる。
377 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:54
キスされる。
そう直感した。

だが、唇は降りてこず、彼女は指に力を込め、強引に里保の顔を横に向けさせた。
視界が90度動き、閉ざされたカーテンが目に入る。視界の端に、微かにさゆみの顔が映る。どんな表情かまでは読み取れない。
再び彼女と視線をかわそうとするが、その前に、

「鞘師は、さゆみが卒業するから、感情が昂ぶってるだけなんだよ」

耳元で、そう囁かれた。
熱い吐息に、全身が震えた。
さゆみの言葉は、半分は図星だった。いままで見ないふりをしてきたものの蓋を開けたのは、聖が手を貸したのもあるけれど、その実態は、彼女の卒業発表があったからだ。
明日、ファンやマスコミの前で公表してしまえば、もう戻ることはできない。
その前にこの想いに決着をつけたいと思ってしまったのは事実だ。

「そうかも…しれませんけどっ?!」

語尾が上擦ったのは、明らかにいままで感じたことのない熱を知ったからだ。
しかも、自らの、耳に。

「鞘師が入って来て3年、ずっと見てきたさゆみとは、違うよ」

耳朶に感じた熱と痛みに、噛まれたのだと気付いた。
さゆみと目を合わせることはまだできない。
それどころか、自分の身に起きた出来事が現実だと理解するまでの時間があまりに必要で、暴走する列車のように鼓動を刻む心臓はいまにも飛び出してしまいそうだった。
カーテンの向こうの夜景が見たいと思った。さゆみとともに見ていたあの景色が。
100万ドルの夜景には程遠くても、キラキラと輝いていた、あの夜の海が。
378 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:55
「好きっていうのはね、こういうことだよ」

一瞬の間のあと、痺れるような感覚を思い知った。

「やっ……!」

思わず抵抗するように腕に力を込めるが、両手首をさゆみに捕まれ、全体重で押し付けられる。
彼女の舌が、里保の耳朶を舐め、そのまま首筋へと辿っていった。

「っ……みち、しげさん……!」

びくびくと、全身が妙な震え方を始める。
さゆみに押さえつけられ、抵抗したところで逃れられない。
その間にも彼女の舌は首筋をなぞり、じゅるじゅると音を立てて舐め上げていく。
まるで蛇がその道程に痕を残すかのような仕草に、体の中心が痺れ、麻痺していくのを覚える。

目を閉じて、訪れた恐怖に耐える。
視界を失くしたことで、音の感覚が鋭くなる。短くなる吐息と、さらに速くなる鼓動が交互に脳に響き、同時に、舌の触感が里保を狂わせる。
舌先で軽くなぞられているだけなのに、全くの未知の行為に里保は否応なく体を震わせ、反応する。
羞恥からか、唇を噛んで声を押し殺すが、端から漏れる声は誤魔化しきれない。
抵抗する力はベッドに座れてしまったのか、腕を押し返すこともできない。
ただ、さゆみのなすがまま、その行為の先を待つしかなかった。
379 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:56
が、彼女が里保の左手首を離れ、右手でするすると頬を撫でて胸元に置いた瞬間、里保は弾かれたように目を見開いた。

「いやっ!!」

肋骨を撫で、軽く胸に触れられた途端、里保は声を上げた。
下着を身に着けていないせいで、シャツ1枚越しに、さゆみの手の温もりを感じた。
突起にこそ触れなかったものの、いままでだれにも赦したことのないその膨らみを知られてしまったことは、羞恥以上の何物でもなかった。
自分でも聞いたことのないような高音での否定の声は、まさしく「女性」だった。

里保が吐き出した否定の悲鳴のあと、さゆみはくすっと笑って、彼女を解放した。
ベッドを離れると、再び窓へと歩き、カーテンを開けた。
里保の前に、再度山口の夜景が現れた。滲んだ視界に、夜の灯りがぼんやりと浮かぶ。

「帰んなよ。明日、10時にロビー集合だって」

興味もないようにそう言うと、彼女は何事もなかったかのように椅子に座り、テーブルの資料を読み返し始めた。
室内に、自身の吐息しか聞こえなくなる。
まるで先ほどまでの行為が、先ほどまでの熱量がなにもなくなったようにも感じた。

なにも、なかったことにしてくれているのだと、里保は気付いた。

告白も、先ほどのベッドでの行為も。

行為をしたのがさゆみとはいえ、引き金に手をかけたのは里保だ。
さゆみは、里保を拒絶した。それを分からせるために、押し倒した。
「好き」の意味が違うと、さゆみが求めているものは、里保の子ども染みた感情ではないのだと。
380 :想いの名前 :2014/06/01(日) 23:59
息を吸い、顔を上げる。
髪も乱れ、ひどく情けない顔をしているはずだが、構うことはない。
無様でも、不恰好でも、云わないと伝わらないのなら、本当の意味で、覚悟するしかないんだ。
ああ、勇気。
勇気が漸く戻ってきた。
何処に置き忘れてきたのだろう。何処から戻ってきたのだろう。できることならば、もう離れないでほしい。

道重さんに、ちゃんと伝える、最後の瞬間まで。

「やめてくれましたよね?」

資料を見る背中に、そう投げかけた。
さゆみの肩が、微かに反応したのを、里保は見逃さなかった。

「泣いてもやめないって言ったけど、ちゃんとやめてくれましたよね?」
「………」

さゆみは、応えない。
だが、手元の資料を捲る気配もない。
ああ、やはりそうなのだろうか。それとも、これも自惚れなのだろうか。
ちゃんと確かめたいから、最後まで伝えたいから。どうか勇気よ。離れないでほしい。

「道重さん、言いましたよね?卒業するから、感情が昂ぶってるだけだって」
「………」
381 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:02
「そうかもしれません。だけど、それでも、此処にある感情を、私がいま、道重さんを好きだと想う気持ちを、認めてはくれないんですか?」

言い切った瞬間、さゆみはテーブルに資料を叩きつけて立ち上がった。
振り返り、視線が絡む。
さぞ怖い瞳を向けるのだろうかと覚悟したが、彼女が有したそれは、怒りと哀しみを混在させていた。
眉間に皺を刻み、困惑にも似たその瞳の本当の名前を、里保は到底、見つけることはできなさそうだった。

「痕が残ったりして、明日に響くのが嫌なの。鞘師もさゆみもプロだよ?ファンの前に立つのに、そんな中途半端なことはできない。
第一、鞘師だって分かってるでしょ?明日はさゆみの卒業を発表するの。もうこれ以上、さゆみの邪魔しないで!帰って!」

一気に捲し立てられ、思わず一歩退いてしまいそうになる。
だが、腹の中心に据えられた勇気は、もう揺るがない。

「っ…帰りません」
「帰ってって!」
「帰れません!」

勢いに任せて叫ぶと、今度はさゆみが気圧されたように目を泳がせた。
先輩に口答えするなんて、そうそうあるものではない。まして自分が敬愛するこの人に反抗するのは初めてだった。
だけど、今度だけは、いまのこの瞬間だけは、譲れない。譲ってはいけない。

「まだ、道重さんの本当の想いを聞いていません……」

そのとき、左の瞳から涙が零れた。
それを皮切りに、両の目からぼたぼたと雫が溢れる。
ああ、どうしよう。明日も早く起きなきゃいけないのに。道重さんの言うように、ふたりともプロなのだから、体調管理は徹底したいのに。
それが叶わないようでは、私はまだ、中途半端だ。
382 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:03
「私の好きとは違うって言いました。でも……いやって言ったら、やめてくれました。それは、私のことを、大切にしてくれているから、ですよね?」

ガタガタに震えながら紡ぐ言葉は、ずいぶんと自惚れていると分かっていた。
だけど、先ほど道重さんから感じた「恐怖」を上塗りするほどの「違和感」に対する答えは、これしか見つけられなかった。
そうじゃないと、彼女が取った行動に説明がつかない。
もしそうでないというならば、教えてほしい。どうして私を押し倒したのに、途中でやめてしまったのか。
それこそ、道重さんの嫌う中途半端ではないのかと。
へたれとか、そんな言葉で片付けられるほど、あの行為は、軽くなかったはずですよ―――

「怖かったです……あんなことされたの、初めて、だったから」
「……」
「でも……それでも、好きなんです。道重さんに、触れられたいって、キス、されたいって思うんです」

震えながら紡いだ真実の中に、ひとつだけ、嘘を混ぜた。
「キス、されたい」のではない。「キスがしたい」と、想った。
自分から、彼女に対して、「なにかをしたい」という欲望が生まれた。
わがまままのは分かっている。
彼女が一歩退いた理由を、里保はうすうす感づいていた。
さゆみはきちんと、里保のことを考えている。
里保のことを想っているがゆえに、自分の気持ちを微かに開き、そして閉じきった。

こんなこと、さゆみにしかできない。
大切だから、信頼しているから。
口で言うよりも誠実な想いを彼女は伝えてきた。
383 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:04
さゆみにしかできない、さゆみの表現。
音程が取れないだの、体力がないだのと自虐するくせに、だれよりも「表現力」を有し、ダイレクトに感情を表出する。
ああ、ごめんない、
ごめんなさい、道重さん。
道重さんは、私のことをちゃんと考えてくれているのに。
それなのに私は、私自身のことしか考えていなくて……

「迷惑、なのは、分かっているんです……だから、だから、教えて下さい」

溢れる涙を、堪える術も、拭う力も、もはや手に持っているものはなにもなかった。
私は、もっといろいろなものを背負えるのだと思っていた。メンバーとしての覚悟も、センターとしての責任も、エースとしての風格も、あなたが辿ってきた歴史さえも。
だけど、それはとんでもない思い上がりで、顔を覆いたくなるほどの勘違いでもあった。
実際に私は、たったのひとつを零さないだけで精一杯だった。大切な人への気持ちを、見失わないようにただ手に掬うだけで。
いまもそう。あなたの卒業を聞いて無様に取り乱し、感情を露わにするほどに、ちっぽけで、情けない。
だから、だからこそ、いましか云えない言葉を見つけてしまう。
384 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:05
道重さん。

道重さん。

道重さん―――


「道重さん、は、私のことを、愛していてくれていますか?」


ああ、なんて。
なんてことを口にしたのだろう。
「愛する」なんて、15歳で言葉にすることはあり得ないと思っていた。
12歳でこの世界に飛び込んで、きっと恋愛なんて、少なくともグループを卒業するまではしないだろうと思っていた。
それなのに、こんなにも大切に想う人が自分のすぐ傍に現れてしまった。
人生とは、分からない。分からないことだらけだ。3年ともに過ごしたあなたのことですら、なにひとつ、分かっていない。
だから、だから必死に、分かりたい。
あなたが隠したベールの奥、あなたのすべてを、理解したい。
あなたが背負ってきたものを、あなたが抱えてきたものを、ほんのわずかで良いから、分かり合いたい。
そう、願った。そう、祈った。そう、想った。

「だから…さゆみはっ……」

さゆみの瞳もまた、里保と同じように輝いていた。
それは確かに雫を携えていて、いちど瞬きをしただけで溢れてしまいそうなほどに、満ち足りていた。
案の定、その先の言葉を紡ぐ前に、雫が落ち、彼女の頬をゆっくりと伝った。あまりにも気高くて切ないその涙を、どうか溜めておきたいと思った。
この両の手が、あなたの涙を溜められるような器だったなら、道重さん、あなたは哀しまずに済んだのだろうかと。そう、想った。
385 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:06
「道重さんの好きと、私の好きは、本当に違うんですか?」

直後、ふたりの距離がゼロになった。
里保よりも少しだけ身長が高いさゆみを、そっと抱き締めた。その細い体を折ってしまわないように、力を込めすぎず、だけど逃がさないように少しだけ強く。
先走る欲望と、必死にブレーキを踏み込む理性とのせめぎあいの中で、たださゆみの温もりを感じる。

なんと身勝手で、なんと烏滸がましいのだろう。
彼女のことなんてなにひとつも考えていない、自分さえ良ければいいという最低の行為。
そんな小学生でも分かるようなロジックを頭では理解しているくせに、それでもなお、行動を止められない。
これが、聖の云うところの、「呪い」なのだろうか。

「うちを拒絶しないで下さい……傷付いても、怖くても…哀しくなっても……絶対に後悔しませんから」

必死になって吐き出した里保の言葉に、さゆみの中のなにかが傾いたのが、はっきりと分かった。
これまでの微かな振動ではなく、明らかな狼狽と、そして心情の揺蕩いを感じ取る。
それが物理的に認識できたのは、さゆみが微かに息を呑んだのと、ただぶら下がったままだった両腕が、ゆっくりとではあるが、里保の腰へと回ったからだ。

「………あと、半年しかないんだよ?」

耳元で震えた音に、里保は眉を上げた。
つい先ほどまでなんども言葉を交わしていたはずなのに、随分と久し振りに聞くような声色に思えた。
そこで漸く理解した。
これまでの道重さんの言葉が、ずっと透明であったことに。
386 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:06
「卒業、するし。離れちゃうし……」
「………道重さんはいま、此処に居るじゃないですか」

どんなに明るくても、輝いていても、重みがあったとしても。そこに確かな色がなくては、その意味が成すことはない。
彼女が意図的に消し去った色が、少しずつ、戻りつつあるのを感じる。
それが彼女の決意だというならば、そんなもの、壊してしまいたい。
あなたが守ってきたものを壊して、新しいものを、つくりあげたい。
それが私の、「次世代」を背負うであろう私たちの、役目だと思うから。

「さゆみ……鞘師のこと、傷付けるよ…」
「言ったじゃないですか……後悔、しないって」
「鞘師が思うほど、さゆみは良い人じゃないっ!」

どれだけ彼女が、自分を卑下しようと、構わなかった。
自分の中に溢れて止まらない感情は、もはや確かな色を持って展延し、すべてを覆い尽くそうとさえしていた。
その感情に呑まれた結果が、このありさまだ。
無様で、不恰好で、不器用で、情けなくて、カッコ悪い。
一時期ではあるけれど、無敵だと思っていた自分が恥ずかしくてたまらない。
無敵というか、ただの無鉄砲だ。自分の中に芽生えた感情の名前を見つけるまでに、思いのほかに遠回りをしてしまうほどの。

「じゃあ、教えてください。道重さんのことを、もっと」

知らないのなら、知っていけば良い。
分からないのなら、分かっていけば良い。
遅すぎることなんてないはずだ。あなたに近付きたいと思ったその瞬間から、なにかが変えられるはずだ。
387 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:07
「良い人じゃない道重さんを……やめないって言ったのに、やめてくれたあなたのことを」

里保の瞳が真っ直ぐに、さゆみの深淵をとらえ、決して闇に呑まれないように太陽の下へと引きずり出した。

瞬間、反則だ、とさゆみは思った。
しじみと揶揄するほどに小さい瞳だが、その輝きは、並大抵のものではない。
15歳のあどけなさと、15歳の危うさと、15歳の美しさを有したその瞳は、まるで日によって形を変える月のようだ。
自分より9つも年下の女の子に、こんなにも翻弄されてしまう。
魔力をもったその光は、さゆみにはあまりにも、眩しすぎる。

この身を焦がす太陽のような微笑みと、自らの行く末を静かに見守る月光のような眼差し。
それが、彼女を見てきた3年間を、解放させようとしていた。

赦されないことを分かっていても、赦されたいと願ってしまう。
卒業の発表を控え、感情が昂ぶっているのは、自分の方だ。
なにを語ったとしても、言い訳にしかならないけれど。
388 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:07
鞘師里保と出逢ってからの3年間。
「進化」という言葉で済ませてしまいたくないほどに濃厚で、「激動」という言葉すらも陳腐に思えてしまう3年だった。
拠り所にしていた同期を見送り、敬愛していた先輩を見送り、信頼していた後輩を見送った。
自らが頂点に立ち、前方に広がる空虚な景色に対し、背筋を凍らせ、そして立ち竦んだ。
この光景を彩る術が見つけられるのかと心の隙間に闇が入り込んだとき、その背中に手を置いたのは、8人の後輩たちだった。

無垢で、それこそ透明な瞳のまま、ただその荒野を見据え、自由気ままに絵筆を翳した彼女たちが、滑稽で、カッコ良く見えた。
あるべき道を辿るのではなく、新たに道をつくるという方針を選んだ彼女たちが。
無条件に背中を見つめ、それを追い越そうという気概を前面に押し出す彼女たちが。
恥ずかしげもなく、茨の道に剣を突き出す彼女たちが。
大きな波がやって来ても、自らの信念を地面に突き刺し、必死に立ちつづけようとする彼女たちが。

その中心に、いつも彼女が黙って坐していることが。

可愛いとか、好きとか。
そんな言葉を超えて生み出される想いの名前。

それが「愛」だと気付くのに、さゆみはやはり、3年も費やしたようだった。

「……ずるいよ、キミは」

それを見てしまっては、精一杯に強がって絞り出した言葉さえも、ガタガタに震えてしまう。
観念したように里保の背中に腕を回し、ぎゅうと抱き締め、その温もりを我が物とした。
里保はそれを確認すると、もういちど強く、さゆみを抱き返した。
途端に中心から感情が湧きだし、膝が笑い出す。
389 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:09
いますぐにでも倒れてしまいそうになる体を必死に堪えると、

「みっしげさん……」

そんなふうに、声を絞り出した。

里保の青い声に呼応するように、さゆみもまた、名を呼んだ。
彼女しか呼ばない、最近は聞くことが少なくなってしまった、特別なその呼び名を。
3年前、初めて出逢ったときに刻み込んだ、その名前を。

「りほりほっ……」

それが合図になったように、互いに堰を切ったように泣き始めた。
嗚咽とともに雫が溢れ、頬を伝い、床へと落ちていく。
まるで雨が降り出したように、傘を差すことも赦されず、大地を潤すそれは、ただ静かに流れていく。

「好きですっ…好きです、道重さんっ……!」
「さゆみも、好き、だよっ……好きだよ、鞘師っ!」

抱き締める腕も、互いの名を呼ぶ声も、想いを伝える言葉も、すべてが震えて止まらなかった。
ただ、此処に存在する感情だけは揺るがずに、厳然と佇んでふたりを見守っていた。
長く長く遠回りをし、気の遠くなるほどの果てしない距離にいたふたつの気持ちが、いま、ひとつに重なる。
漸く出逢えた奇蹟に感謝し、その温もりを、繋ぎとめる。
390 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:11
明日は大切な日だというのに、涙はいつまでも止まらない。
ふたりがすれ違ってきた時間を埋める湖をつくるように、互いの頬を伝い落ちる。
ひくひくとしゃくり上げる里保の頬に、さゆみはそっと手を触れた。
唐突に落ちてきた感触だったが、今度はもう、里保は怯えることはなかった。
真正面からさゆみを見つめ返すと、なにをされるのかを分かっていたかのように、目を閉じた。
それを見たさゆみもまた、同じように目を閉じて、顔を傾ける。

それは、ただ触れるだけの、口付け。
これまでの過去を肯定するわけでもなく、これから先の未来を保証するわけでもない。ただ此処にある感情を確かめるだけのキス。
それでもふたりには、これだけで充分だった。

「………緊張、した?」

唇が離れ、視線を外した里保に対し、そう訊ねた。
里保は素直に頷くと、頬の紅潮を感じながら「初めて……ですから」と捧げた唇にそっと触れた。
微かな感触がまだ残っているのか、里保はなんども唇を指でなぞり、愛おしそうに目を細めた。
その仕草がたまらなく愛しく、今度は頬にキスを落とす。
ちゅっという音を立てた口付けに、里保はくすぐったそうに身をよじる。
そんな態度がさらにさゆみを加速させるが、次にしたことは、彼女の髪を優しく撫でただけだった。
391 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:11
「部屋、帰る?」

その言葉に、里保はふいに現実に戻された。
よくよく思い返せば、此処はさゆみの部屋で、明日は大切なコンサートの日なのだ。さゆみの凱旋でもあり、さゆみの卒業を伝える、この11年でいちばん大事な日。
それを邪魔したことがいまさら申し訳なくなったが、どうしてもこのまま離れたくなくて、里保は子どものように首を振った。甘い香りが微かに鼻腔に触れる。
さゆみはそれを予期していたのか、「いいよ、じゃいっしょに寝よ」と里保を誘った。

「え?」
「えって……ああ、だいじょうぶ。そっちのベッド使って良いから」
「あっ!あ、いや、そういう意味で言ったんじゃ……!」

ぶんぶんと顔の前で大きく手を振ると、彼女は大人びた表情で微笑み、「この先は…」と人差し指を唇に立てた。

「この先は、また今度ね」

思わせ振りなその言葉に、里保はまたしても心臓が締め付けられた。
やっぱりこの人には、叶いそうもないと自覚する。

それでも、この先、ずっといっしょにいられるのなら、なにも恐れることはなかった。

ただそれだけしか、持っていない。
その願いを叶えられるのならば、なにも、いらない。
392 :想いの名前 :2014/06/02(月) 00:12
だからせめていまは、この温もりを独り占めしたかった。
明日から絶えることなく訪れるであろう胸の痛みを想像し、それに耐えうる力が欲しかった。

「道重さん……」
「うん?」

まるで呪文のようにもういちど、きっとこれからもなんども呟くであろう言葉を、彼女に渡した。

「好きです、道重さん」

受け取ったさゆみは、目を細め、まるで聖母のように微笑んだ。
直後に、唇に柔らかな温もりを感じた。

二度目のキスは、いちど目よりも甘く、それでいて危険な香りを孕んでいた。

「好きよ……りほりほ」

あまりにも尊く輝くその想いが、ホテルの部屋に浮かび、そして消えていく。
窓の外に広がる山口の夜景。
100万ドルにも満たないその輝きは、ふたりが辿るであろうこれからの未来を、ただ静かに演出していた。
393 :雪月花 :2014/06/02(月) 00:13
無駄に長くなりましたが以上になります
着地に失敗しましたが末永く見守ってやってくださいw

ではまた!
394 :雪月花 :2014/06/02(月) 09:04
すみません、>>379>>380の間が抜けていました
395 :想いの名前 :2014/06/02(月) 09:05
>>379

いや、そもそもさゆみは、里保のことなど眼中になかったのだ。
ただ幼くて可愛い後輩が加入してきたから、構っていただけだ。
そこに付随した感情は、恋愛などではなく、親愛のようなものだ。親戚の子を可愛がるのと、同じ。


私と、道重さんの好きは違う―――


そう理解し、のそのそとベッドから起き上がった。
さゆみは里保に背を向けたまま、ファイルにしまった資料を取り出し、もういちど確認するかのように読み始めた。
ごめんなさい道重さん。明日は大切な発表の日なのに、私の身勝手な想いでその前日の夜を邪魔してしまって。
言葉にはできそうになかったけれど、里保は心でそう呟くと、ベッドから降りた。
きっと道重さんなら分かってくれる。言葉では云わなくても、分かってくれる。
だって、さっきだって道重さんは―――


―――「想ってるだけじゃ伝わらないよ」


瞬間、聖から受け取った言葉が、よぎった。
その直後、まるでピースが嵌るようにしてひとつの絵を形成した。
まさか。とひとつの仮定が浮かぶ。
そんなはずはないと、そんなことあり得ないと即座に否定するが、何処かで、心の片隅で、その仮定を信じたいもうひとりの自分がいた。

>>380
396 :雪月花 :2014/06/02(月) 09:05
ややこしくてすみませんm(__)m
397 :名無飼育さん :2014/06/02(月) 16:12
最後の春ツアーが終わってしまって切ない気分なところに
素敵なお話が読めてさゆりほ好きとして嬉しかったです
398 :名無飼育さん :2014/06/02(月) 21:47
感情の揺れがひしひしと伝わってくるようで魅入ってしまいました
素晴らしい話をありがとうございます
399 :名無し :2014/06/06(金) 19:46
素敵なさゆりほありがとうございます
幸せしかない続き待ってます
400 :雪月花 :2014/06/10(火) 00:18
「LILIUM-リリウム少女純潔歌劇-」観てきました雪月花です……
凄い舞台を目にしました。もし行くのを迷われている方が居ましたら是非ともw


>>397 名無し飼育さんサマ

さゆにとっての最後の春ツアー。来年彼女は此処に居ないんだなと改めて思い知りました。
だからこそ、最後の最後まで、全力で応援していきたいと思います。
ありきたりなさゆりほ話で申し訳ないですm(__)m


>>398 名無し飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
それぞれの理由で悩むというか、本質はいっしょなのに素直になれないふたりが書けたら良いなと思いましたが…微妙ですみません
改めて、さゆりほって両想いなのに片想いが似合うなと感じましたw


>>399 名無しサマ

コメントありがとうございます!
付き合ってたものの奥手だったり、ヘタレだったりは変わらないだろうので、果たしてシアワセしかないかどうかは…w
構想はあるので、長い目で見守って下さると幸いですm(__)m


今回は譜久村さんと石田さんの掌編です
>>355-379,395,380-392「想いの名前」の少し後のお話です
401 :声にできない :2014/06/10(火) 00:19
 
 
いつも、助けてもらってばかりだった。
あなたは優しく笑いかけて、手を差し伸べてくれるから。

それなのに私は、あなたがどんな気持ちでいるのかなんて、考えたこともなかった。
考えたこともなかったから、だから―――

 
402 :声にできない :2014/06/10(火) 00:20

  
-------

同い年。だけど先輩。
普通の学校生活ではなかなかない関係性だけど、ひとたび社会に出たら、別に珍しくもない。
実感するのが、早いか遅いか、それだけのことなのだと、生意気にも私は理解した。
それと同時に、負けたくないって思った。
当然、負けないって思った。

あなたは先輩かもしれないけれど。私よりキャリアはあるかもしれないけれど。
その先輩の差だって、「たったの数ヶ月」しかないのだし。
なにより、私とあなたは同い年で、私にだっていわゆる「下積み」時代がある。
すぐに追い越すって、そう思っていた。


だけど、現実はそんなに甘くなかった。

 
403 :声にできない :2014/06/10(火) 00:21
 
その「たった数ヶ月」の差は、私の想像していたものよりも、あまりにも大きかった。
しかも、彼女が辿ってきた時間は、いわゆる9期と10期の加入月の差よりも、もっと開いていた。
それこそが、あの人の「下積み」の時間なのだと理解するのに、そんなに時間は必要なかった。
私が過ごしてきたそれよりも、もっともっと濃くて長くて、そしてツラい経験がどこにはあった。

もちろん、私の過ごしてきた時間が無駄だとは思わない。
だけど、自分が誰よりもハードに練習してきたんだと自惚れて、過大評価してきたことは事実だった。
そんな私と、あの人たちとを同じように比べることは、なんだか申し訳なくなった。


最近よく耳にする。
「丸くなった」とか「ギラギラしていたあのころの面影が失くなった」とか。
私個人としては、そういうつもりは毛頭ないけれど、そういう風に見えてしまうのなら、やはり私に責任があるのだと思う。

ただ、意識は明確に変わった。
誰にも負けないと意気込んで、メンバーに虚勢を張り、同期にさえ心を開かなかったあの当時と、いまの私は、違う。
「尊敬」という言葉を、初めて知った。
狭い世界しか知らなかった私を、この広い太陽の下に手を引いて連れて来てくれた、あの人たちに対して。
分からないことを、教えてくれた、あの人たちに対して―――
404 :声にできない :2014/06/10(火) 00:22
 
そうやって、少しずつ、「分からないこと」を、「分かること」へと変えていった。
遠回りもしたし、未だに「分からない」ことは多いし、先輩たちよりも、「分かる」までの時間はかかる。
でも、あのころよりもちょっとずつ、成長はできていると思う。
また自惚れてって思われるかもしれないけれど、成長していないなんて、嘘だ。あれだけやって成長しないのなら、やっていないのと同じだ。
やっていないのなら、やるしかないし。やらないのなら、成長はしない。
そんな単純なことも、私は此処で教わったんだと改めて思う。

そんな私が、また、「分からないこと」に直面した。
ひとりで泣いているあの人を見たとき、どんな対応をすれば良いのか、私には、本当に、分からなかった―――


「……だいじょうぶ、ですか…?」

分からないなりに考えた私にできたのは、在り来たりに、ただ言葉をかけるだけというものだった。
人目につかない廊下の先、もうすぐ本番だというのに、自分を守るようにただひとりで泣いているあの人を見かけた。
遠くから見たら、ただひとりで佇んでいるだけにも思えるけれど、彼女の纏った色があまりにも薄く、あまりにも淡いのは、感じ取れた。
声を押し殺し、肩を微かに震わせる姿を見て、私が口にした言葉は、
よりよって、「恋愛の教科書」とか「知っておきたい恋の入門書」とか、そういう安っぽい本にでも書いてありそうな、単調でしょうもないようなものだった。
気の利いた文言をなにひとつ交えられない、なんとも馬鹿げたそれはもはや言葉とかではなく、ただの文字の羅列でしかないとさえ、辟易してしまうほどの。
405 :声にできない :2014/06/10(火) 00:24
 
「っ…ごめん…」

彼女―――譜久村さんは、泣いていた事実を消すように、両の目をぐいっと吹いた。
メイクが崩れ、目が腫れることも厭わないその行為が、妙に私の胸に突き刺さった。こんな姿が、見たいわけじゃない。
もっと、私はもっと、彼女のことを……


―――どうしたいの?


「なにか、あったんですか?私で良ければ…聞きますよ?」

瞬間に頭をよぎった声に耳を塞ぎ、譜久村さんに問いかけた。
訊ねたその声が震えているのが分かる。こんな風に、だれかの領域に入ることは、いままでなかった。
友達づきあいが面倒だとか、そういうことを考えていたわけじゃない。
ただ、自分が前に行くために、普通の人がしてきた付き合いを蔑ろにしてきたのは事実かもしれない。
「自己中」だと言われてもしょうがない。過去の私は、そうだった。
逆に言えば、こうしてだれかの懐に入りたいと願うようになったのは、此処に身を置いてからだ。
406 :声にできない :2014/06/10(火) 00:26
此処は、私の価値観とか思考とか、そういうものをガラリと変えた。
たぶん、世間一般でいうところの変化とは、また少し違うものを、経験しているのだと思う。
そんな貴重でありがたい時間の中で、あなたが感じるものを、あなたが考えることを、少しでも良いから、分かりたいと願った。
他人がなにを考えているかなんて分からない。こちらが信じても、すぐに裏切られるのが当然だって、そんなこと知っている。

「だいじょうぶだから……ごめん、気にしないで」

気丈に笑う譜久村さんを見て、途端に胸が苦しくなった。
私は私で、他人は他人。メンバーだって、所詮は他人なんだ。そんなこと分かっている。
分かっている。
分かっているのに。
分かっているけど、その先にあるものを理解したいと思った。

彼女が、メンバーだから?
彼女が、同い年だから?
彼女に、負けたくないから?


そのどれにも当てはまらず、どれにも当てはまるこの答えを、なんと言えば、良いのだろう?


 
407 :声にできない :2014/06/10(火) 00:27
 
漸く分かってきたと思えば、その手からすぐに零れ出してしまう感情。
掬い取る間もなく消えてしまうその想いをぼんやりと眺めながら、私は譜久村さんと正対する。
細い前髪の奥、伏せられた瞳に光はなく、だけど涙によって輝きを放っている。
眩しくて、だけど寂しいその色が、私の心を狂わせる。

なんど私は、この人に助けられてきたのだろう。
彼女たちにとって初めての後輩だから。
そして、彼女にとっては同い年だから。
譜久村さんは、私の気持ちを、だれよりも理解してくれている。

緊張で声が出なくなってしまったときも、慌ててしまってダンスの振りを間違えたときも、セリフを忘れてしまったときも、大切な千秋楽で大切な歌詞を間違えったときだって。
いつも譜久村さんは傍に居て、だいじょうぶだと私に囁いてくれた。
折れそうになる心を、落としてしまう気持ちを、暗闇に迷い込んでしまう感情を、最後の最後で、彼女は掬ってくれる。

同い年なのに。同い年だから。
メンバーだから。後輩だから。仲間だから―――
 
408 :声にできない :2014/06/10(火) 00:27
 
「……気付けなくて、ごめんなさい」

ふいに口をついた言葉に、譜久村さんも、そして私自身も驚いた。
意識していなかったのに表出したそれを、人は「本心」と呼び、「想い」と呼び、「恋」と呼ぶのだろうか。
譜久村さんは真っ直ぐに私を見つめている。
彼女はよく、私の瞳が好きだと言ってくれる。猫みたいで、茶色く輝くそれが、可愛いという。
そんな私の瞳に、譜久村さんが映る。涙をたたえて、微かに震えて、次の言葉を待つ彼女は、あまりに幼く、あまりに儚く、それでいて美しい。
もし仮に、「純潔」を体現する人がいるとすれば、いま、私の目の前にいる彼女がそれなのだと、直感する。
たぶん、1秒後には変わってしまう、本当に一瞬の「彼女」だ。

「譜久村さんは、私に、気付いてくれていたのに……」

純潔の彼女の前で、震えながらも、想いを吐露する。
音程が取れないときも、振りを間違えたときも、うまく演技ができないときも。
気付かないほどの小さな声で叫んでいた私を、叫ぶことすらもできない闇の中で佇んでいた私を、なにも言わずに抱き締めてくれたのは、紛れもなくあなただった。

だから。だから今度は。

「だから……傍に居させてください」

今度は私が、あなたの傍に居たい。
成長したはずだけど。やっぱり私には、まだ分からないことばかりで知らないことだらけだった。
あなたの苦しみも。あなたの哀しみも。あなたが背負うこれからも。なにひとつ、掴むことは難しいけれど。
409 :声にできない :2014/06/10(火) 00:28
 
それでも。
それでも私は、近付きたい。
あなたの瞳に映る景色を、あなたの両手に触れる未来を、あなたが感じるすべての想いを。

あなたが私を支えてくれた優しさを、それ以上の温もりをもって、あなたに返したい。
与えられるだけじゃなく、同じように、応えていきたい。

同い年だから。
先輩だから。メンバーだから。仲間だから。


他のだれでもない、あなただから―――


「たっ…頼りない、後輩、ですけど……」

精一杯に、想いを吐き出した。
滑稽で、身勝手で、それこそ自己中心的な自己満足の塊のようだった。
だけど、今日初めて、受け売りでもなく、教科書に載っているのでもない、自分が考えた言葉を伝えることができた気がした。
それを払い落とすことなく受け取った譜久村さんは、そっと涙を拭うと、笑いかけてくれた。
いつものように、何処か他人事で、困ったようで、それでもかすかな希望を携えた、あの微笑みを、私にくれた。
410 :声にできない :2014/06/10(火) 00:28
その笑顔は、柔らかくて、琴線に触れ、心を掻き乱した。
まるでこの季節によく似合う止まない雨のように降り注ぎ、消えることのない傷を、無意識のうちに私につける。

まだ、分かり合うにはほど遠すぎる。
零れて見失ってしまいそうな想いを、この震える両の手で掬いあげるのが精一杯。
あなたの心を遮るような影を、私が切り裂くことも、温かい光を与えることもできないけれど。
それでも、それでも、それでも。

「ありがとね、あゆみちゃん」

あなたが確かに笑ってくれるから。
あなたが私を呼んでくれるから。

あなたの見ている景色を、少しでも良いから感じたい。
情けないほどに、不恰好な私だけど。支えるなんて烏滸がましい身分だけど。

それでも私が、傍に居たい。
私に「世界」をくれたあなたに、私の誠意を返したい。
411 :声にできない :2014/06/10(火) 00:29
 
 
ただ、ただそれだけを祈って、私は譜久村さんを抱き締めた。


ああ、こんなの。


こんなの、好きって云ったも同じなのに。


傍に居たいなんて体の良い言い訳をつくりながら、私はただ、自分勝手な想いを押し付ける。
それでも私は、その背中に感じた両腕の温もりを、ただただ愛しく感じていた。
412 :雪月花 :2014/06/10(火) 00:32
某所に投下したやつの完成版…ということで以上になります
あゆみずきは初挑戦ですが…いろいろひどくてすみませんm(__)m

ではまた!
413 :名無飼育さん :2014/06/15(日) 23:24
最近久しぶりに「Only you〜」を読み返しました。
素敵な作品だなぁ、そして私個人的ですがれなえりが好きだなぁと改めて実感しました。

2人が卒業した今、現実の絡みはゼロに等しいですがまた作者様の書くれなえりが読みたいです。
414 :雪月花 :2014/06/22(日) 23:11
繭期をこじらせたおかげで書きたい欲求が湧き上がっています雪月花です。
遅筆のくせにいろいろと書きたいネタばかり溜まっていますが…のんびり頑張りますw


>>413 名無し飼育さんサマ

2年半前の作品を未だに愛してくださる方がいて感無量です
いま読み返すと甚だひどいものでしたが、それでも嬉しいですありがとうございます
いまでもれなえりは別格ですので、近々(?)投下したいと思います


今回の話はなんとなくLILIUMやトキソラを混ぜたいろいろと残念な話ですので
苦手な方はスルーお願い致しますm(__)m
415 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:13
 
最近は眠る時間が長かった。
朝の5時ごろ、鳥たちの囀りに目を開けると、微かに朝陽がカーテンから射し込んでいた。
ひとつ息を吐き、その光の先を追う。
でも結局、地平線に昇った太陽を見つけることもなく、私はまた目を閉じる。

次に目が覚めるのは、検温の時間。
看護師の方にゆっくりと起こされ、いつものように緩慢な動作で体温計を脇に挟む。
ついでに点滴を新しく変え、私はまたベッドに横になる。ひと言だけ「窓、開けておいてくれますか?」そう発すると、看護師は笑顔で従ってくれる。
午後の風が病室を通り抜けていく。前髪を揺らすそれが心地好くて、私は再び瞼を下げる。

それから何度も微睡み、きちんと目が覚めるのは、夕方の4時ごろ。夕陽がその影を伸ばしている時間帯に、私は決まって目を覚ます。
ああ、今日も食事するのを忘れた。
看護師の方も、入院当初こそしつこく食事をとるよう小言を言われていたけど、最近はもうなにも言われなくなった。
呆れたのか、諦めたのか、私には分からない。
 
416 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:14
ベッドの上に出された簡易テーブルの上に置かれた質素な食事を眺めていると、ドアがノックされた。
返事する間もなく、扉が開く。

「ご飯、ちゃんと食べた?」

髪をひとつに結った彼女は、ずかずかと病室に入ってくる。
勝手知ったもので、近所のコンビニで買ったであろうゼリーを冷蔵庫に入れ、ベッド脇にある折り畳み椅子を手際よく広げる。
肘に力を込めて上体を起こすと、彼女はゆっくりと私を制する。
優しくて、だけど何処か力のこもった両手に肩を押され、私は素直に従い、再びベッドに横になった。

「また食べてないじゃん」
「……美味しくないんですもん。代わりに食べますか?」
「お腹空いてないからいいや」

そう答える割に、彼女のお腹が鳴った。きゅるる、なんて可愛らしい音に、私は笑う。
彼女は気恥ずかしいように赤面したかと思うと、勢い良く立ち上がって窓へと歩く。

「寒いと思ったら、窓開いてるじゃん」

淵に手をかけ、閉じようとする彼女を、「いいんです」と私は慌てて制した。
そんな答えが返ってくると思っていなかったのか、「え?」と彼女は振り返る。その瞬間、彼女の長い髪が揺れ、同時に甘い香りが揺蕩う。
香水はつけない主義だと、いちど聞いたことがある。
じゃあこの香りはなんなんですか?と訊ねたら、彼女は大げさに手を広げて「さあ?」と笑ってみせた。滑稽なピエロのような仕草に、私は思わず笑みをこぼした。
いちいちこの人は、私のツボを押さえてきてくれる。
417 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:15
どうしてだろうか。
知り合って間もない気もするし、ずっと前から知っていた気もする。

私はこの人のことを何も知らないのに。
この人は私のことを、誰よりも分かってくれている気がする。

気がするだけで、やっぱり気のせいかもしれないけれど。

「寒くない?」
「今日は、体調も良いし……外の空気、感じたかったので」

そう答えるが、彼女はそれでも不安があるのか、微かに開いた窓をさらに半分閉めた。もはや隙間風ほどのスペースしかないが、私はそれでもかまわない。
彼女は唇を突き出しながら、空を睨み付けていた。
不機嫌、というか、不満そうな表情だ。なにも言わなくても、そのくらいなら分かるようになっていた。
この人は分かりやすい。子どもっぽくて、愛らしくて、それでいて妙に大人びている。
不思議な空気を纏った人だ。
理解するには、もう少し、時間が必要で、だけど、その時間が私にあるかどうかは、分からない。
418 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:16
「咲いて、いましたか?」

コートの襟を立て、ポケットに手を突っ込んだ彼女にそう訊ねた。
「え?」と顔を上げたあと、理解したようにその人はまた窓の外を眺めた。冬の空はどんよりと落ち込んでいて、色彩はほとんどなく、虚しくも思えた。

「もうすぐ、咲くよ」

まだ咲いていない、とは彼女は決して言わなかった。
それを無意識にやっているのか、意識的にしているのかは、私にはまだ理解できない。

「早く、咲いてほしいです……」
「もうすぐだって」
「……間に合いませんよ」
「そうかな?」
「たぶんですけど」

そんなことない。って怒ることはもうなくなった。
最初のころ、知り合って間もない時期には、結構な勢いをもって怒鳴られていた気がする。
しかも、彼女は怒るだけじゃなくて、その瞳に涙を携えていた。
「なんであなたが泣くんですか?」ってバカ正直に訊ねたら、彼女もまた、バカ正直に答えてくれた。

「好きだよ」

あの日もそう。
こうやって、なんの突拍子もなく、彼女は云った。
419 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:17
「ありがとうございます」

私が色を付けずに返すと、彼女はひどく不貞腐れて「だからさ」と言葉を紡ぐ。

「いつになったら応えてくれるんかな?」
「答えてるじゃないですか」
「応えてないじゃん。キミはどう想ってるんだってば」

彼女は椅子に座り、それをぐいぐいとベッドへと近づけてくる。
精神的にも、物理的にも、距離を詰めてくる。不思議な人だ。捉えづらい。
「さあ?」とはぐらかすと、やっぱり彼女は面白くなさそうに唇を突き出す。子どもだ。この人。そういうところが可愛い。可愛いと、想ってしまう。
彼女はひとつ息を吐くと、「ゼリーいる?」とコートを脱ぎ始めた。
たった1枚、布を剥ぎ落しただけで私の胸は息を取り戻す。世界に色がついて、「もう少し」という欲望が顔を出す。
鼓動を無視して静かに頷くと、彼女はコートをハンガーにかけ、冷蔵庫を開けた。
その間に私は、ベッドの脇にあったボタンを押す。唸り声を上げて、ベッドが傾き出した。ちょうどいい角度のところでストップさせると、彼女がゼリーを手に戻ってきた。

私の好きな、マスカットのゼリー。
器用に蓋を開け、市販のスプーンで一口掬うと、「はい」と差し出してきた。
自分で食べられるのに、といつも思うけれど、私は素直に口を開ける。ゆっくりと口内に入ってくるスプーンを舌先でとらえ、ちゅるんと吸う。
甘い香り、甘い味。もぐもぐと咀嚼し、ゆっくりと喉に流す。

「美味しい?」

目を細めて訊ねる彼女を見ると、私も無条件に頷き、「はい」と返してしまう。
この人から注がれる無償の優しさに、甘えていることに気付く。だから私は少し瞳を伏せて、慌てて表情を隠す。
420 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:18
それが不満なのか、彼女はスプーンを持った手で私の顎を持ち、強引に目を合わせにきた。
やっぱり、子どもだ。だからこそ、私が笑うと、彼女はまた唇を突き出し「ちぇー」と声を出す。

そのあとに、なにかするわけでもない。
抱き締めるわけでもキスするわけでもなく、そのまま顎から手を離し、ゼリーをスプーンで柔らかくする。
優しいんだか、ヘタレなんだか、よく分からない。
でも、見ていて楽しいのは事実。だから私は、この人を受け入れる。受け入れてしまう。

「いま、バカにしたでしょ?」

心を読んだかのように言ってきた彼女に少し驚いた。でも、動揺していないように笑ってはぐらかす。
彼女はゼリーを掬う。私は口を開けてスプーンを含む。
喉を潤す味をなんどもなんども、ゆっくりと味わう。なにか特別な会話を交わすわけでもなく、ただ咀嚼音だけが、響く。

あっという間にゼリーがなくなると、遠くの方から鐘が聞こえた。
夕方の決まった時間に鳴り響く鐘の音は、街にある教会の鳴らすそれなのだと彼女は話してくれた。
それが私と彼女の面会終了の合図。彼女はいつものように立ち上がり、ハンガーにかけてあったコートに袖を通した。

「じゃあ、また明日」
「もう……来なくて良いですってば」

私の言葉など聞いていないかのように、彼女は病室を後にする。振り返ることもなく、なんの温情もなく姿を消す。

そのくせ彼女は、ちゃんと次の日、宣言通りに顔を出す。
いつもと同じ、決まった時間に飄々と現れ、私の好きなゼリーや果物を買ってきてくれる。
どうしてこの人が毎日来てくれるのか。そもそもこの人はどういう経緯で私を知ったのか。
私には分からないことだらけだった。
421 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:19
でも、もうその理由を尋ねることはしない。ただ、来てくれるというその行為を、私も自然と求めていた。
ただひとつだけ、どうしても聞きたいことを、私は口にした。

「私の何処が好きなんですか?」

いつだったか、私が発したその質問に、彼女は目を見開いた。
普段は一重でとても小さなその瞳が、まるで落ちてしまいそうなほどに大きくなって、思わず笑ってしまいそうになる。

「ドSだなあキミは。そういうことを人に言わせるのか」

だが、彼女はそれをはぐらかした。
いちばん聞きたいことを、彼女は答えてくれない。
彼女に言わせれば、私の方が「応えてくれない」のだから、イーブンなのかもしれない。

ベッドに横になり、いつものように窓を見る。

「咲きませんね…」

病室の窓の外、庭の中心に佇む桜はまだ咲かない。
今年は少し、開花が遅いのだと彼女から聞いた。
全くもって運がないなと私は思う。
422 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:19
 
「――――さん」

冬の風が入るからと彼女は窓を閉め始めた。その音に消されてしまい、彼女の名前は、発した私でさえもほとんど聞き取れなかった。
だけど、それはしっかりと彼女には届いていたのか、いつものように凛とした表情で、だけど何処か寂しそうに、嬉しそうに、実に多くの色を持った瞳で首をかしげた。
その姿は子どもだ。それなのに、大人だ。
素敵だと思った。美しいと思った。
この人になりたいと思った。
叶わない願いだけど、ふと頭に浮かぶ。
それを口にすることも、赦されないほどに。烏滸がましくて浅ましいような、願い。

次の言葉を紡ごうとすると、夕方の鐘が鳴った。
ああ、今日の時間は終わりかと、私はふと目を閉じる。

「……もうすぐ、咲くよ」

彼女はコートに腕を通し、そう呟く。
私が言葉を発するのを待つでもなく、彼女は病室を後にした。
優しくて、冷たくて、温かくて、痛々しい。
不思議なほどに両極の色を纏うこの人は、いったい誰なのか。私にはやはり、なにも分からない。
きっと、分からないままに、終わってしまうんだろうけど。
423 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:20
 
-------

雨の日は、体調が悪い。
ただでさえ湿気が多くて気分が悪いのに、今日は輪をかけて良くない。
午前中からひどい頭痛と吐き気に苛まれ、眠りたいのに眠れない。食事はとっていないから、胃液ばかりが喉を傷めつける。
どうせこんなに寒いのならば、いっそのこと雪になれば良いのに。
そういうささやかな願いさえも、神様は叶えちゃくれない。ケチだ。本当に。私にこういう運命しかくれないくせに、たったのひとつも、私のお願いを聞いてくれない。

いつもの時間、彼女がノックするその瞬間までも、吐き気は止まらなかった。私は中心からせり上がる酸を体外に吐き捨てる。袋にぼたぼたと溜まる液体から目を逸らす。
私の返事がなくても、彼女は自然と病室に入ってきた。醜くだらしなく胃液を吐き出す私の姿を見ても、彼女は動揺の色を表出しなかった。

「……帰って下さい」

口の端についた吐瀉物を拭い取りながら、必死にそう言った。こんな姿、この人には見せたくない。どうか、見ないでほしい。そう思った。
だけど、彼女はその場を去ろうとはせずに、こちらに歩み寄ると、そっと背中をさすってくれた。
その優しさが、鬱陶しくも感じる。だけど、振り払う余裕もなく、私はまた吐いた。
酸味と粘り気のある唾液が口内に広がる。吐く。吐く。吐く。息ができなくなり、涙が出る。背中に触れる手が、温かい。

ひと通り吐瀉し、漸く落ち着いたところで、彼女はペットボトルに入った水を手渡してきた。
飲みたくないというように首を振るが、彼女はその手を引っ込めない。
「脱水症状になるよ」と至極まっとうなことを言われ、私はまた、不機嫌になる。体調が悪いと、いつもこうだ。
それなのに彼女は、嫌な顔をすることもなく、私に付き添う。
424 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:20
「帰って……」

もういちど、私は言う。
だけど、彼女は帰らない。いつものように、近くのコンビニで買ってきたであろうゼリーを冷蔵庫に入れる。
恨めしく睨み付けながら、彼女から手渡されるペットボトルを飲む。微かに残った粘膜が喉に引っかかり、またえづいてしまう。
彼女はそれをいち早く察してこちらに歩み寄るが、拒絶するように私は視線を外した。

それでも。
彼女は気にすることなく、抱き締めた。

「離してっ……!」

温もりが全身を包み込み、弾かれたように抵抗する。
だが、私の言葉など聞こえていないのか、その腕の力がいっそう強まる。

「離さないって」
「なんでっ……なんでですかっ!帰って!帰って下さい!」
「好きだから」

拒絶の言葉などを壁で弾き返すように、彼女はまた、その言葉を私に云う。まるでひとつの呪文のように。伝家の宝刀のように出してくるその言葉。
1日1度は必ず吐き出すセリフが、鬱陶しい。いつもは淡く心に灯るのに、今日は、重く圧し掛かる。
重く、させてしまう。
私の存在が。
あなたの想いを。
私があなたへ凭れ掛かり、あなたの負担を増やしてしまう。

そんなの、そんなの、可哀想だ。
425 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:21
「好きだから。いっしょに居たいんだよ」

やめて。
お願い。
どうか、もう、やめてください。

「キミは?私のこと、どう想ってる?」
「私っ……はっ……!」
「どうしていつも、応えてくれないの?」

彼女の柔らかい声が、ツラい。
どうしようもない優しさと、甘さと、狂おしいほどの熱を帯びて。私の全身を震わせて、掻き乱す。

「だって―――」

その熱に負けて、想いまでも吐き出してしまいそうになる。慌てて口を噤んでも、彼女はそれを逃さない。
肩に乗せていた顔を上げると、真っ直ぐな瞳を私に向けてきた。
逃れられないその眼差しに、涙とともに、感情が零れ出した。止めたいのに、止められない自分が、憎い。

「だって……重いじゃないですか」
「なにが?」
「私には、時間がないのに……あなたはずっと、生きていくのに」
426 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:22
私の言葉を逃さないように、彼女が耳を傾ける。
真っ直ぐに私を見て、伸びきってしまった前髪を柔らかく梳いて、私の瞳を覗き込む。
溢れる涙を指で掬いながら、黙って私の言葉を待つ。その温かいまなざしが、痛い。
やめて。
もう、お願いだから。

そんなに熱く、私を見ないで。
こんなにも醜い私の姿を。どうか、もう、その瞳に映さないでほしい。

「あなたが、私のことを覚えているとっ!私がっ…あなたを縛ってしまうから!」

あなたはきっと、あと何十年も生きるのに。
私と違って「未来」があるのに。
その長い時間の中で、きっと、何人もの人と出逢う。あなたに恋をして、愛を囁く人が何人もいるのに。
それなのに。あなたは真っ直ぐに私を見て、私のことを覚えているなんて。

「重たいじゃないですか……私の記憶なんて」

あなたは優しいから。
きっと私のことを覚えていてくれるから。
この先もずっと、誰かを好きになったとしても、私があなたの中に残ってしまったら。

そんなの。
そんなの。
そんなの!!
427 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:23
「縛って良いんだよ、ずっと」

まだ、言いたいことは山のようにあった。
川のようにすべてを吐き出したかった。
そんな私を、彼女は遮った。いつものように温かくて柔らかい、だけど芯のある清楚な声で。

「私を縛れば良い。キミで充たして、それ以外、考えられないようにして良いんだよ」
「だめっ!!だめですっ!!そんなの、そんなのあなたがっ」
「忘れたくないよ、好きになった人のこと……こんなに深く、愛した人を。たとえこの先、なにがあったとしても」

抱き締める腕が、微かに震えていることに気付いた。
相変わらず声は凛としていたけれど、こういう風に感情を表に出す彼女は、久し振りに見た。
昔はもっと、彼女も正直に感情を出していた。
私がわがままを言えば怒ったし、哀しいことを言えば泣いたし、すれ違いも、ケンカも、何回もしてきた。
だけど、ここ最近の彼女は、怒ることも泣くことも少なくなった。
落ち着いたのか、諦めたのか、感情のスイッチが切れてしまったのか。淡々と私の傍に居て、いつもと同じことを繰り返していた。

そんな彼女が、泣いている。
ああ、私のせいなんですね。私があなたを、そんな風にしてしまったんですね。

「……刻んでよ」

そう言った彼女は、私の手を握り、自らの胸元へと引き寄せた。
思わず息を呑む。が、その掌から伝わる温もりが、私を包み込んで離さない。
428 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:23
「此処に、キミを。深く、刻んでほしいんだよ」
「だから……なんでっ」
「忘れたくない。好きな人を。覚えていたい。ずっと。キミを。ずっと」

真っ直ぐな瞳。真っ直ぐな声。真っ直ぐな心。
熱くて眩しいその想いが、輝きを放って私を温かくする。
道を失ってしまった私を、迷わずに支えるたったひとつの道しるべとなる。
闇に射し込んだその光のことを、なんとも安っぽい言葉ながら、私は「奇蹟」だと称してしまう。

「忘れて……ください」

あなたの記憶を縛る私のことを。
あなたと違い、此処で終わってしまう私のことを。
あなたに、なにひとつ返すことができない私のことを。

「覚えているよ。ずっと」
「ずっとなんて……無理なくせに」

こうやって私は、あなたにひどいことを言う。
優しいあなたを傷付ける。

毎日、私に笑顔をくれたあなたを。
毎日、私に愛をくれたあなたを。
毎日、私に「明日」をくれたあなたを。
429 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:24
「ずっととか……永遠なんて……ないのに」
「……ないから、美しいんだよ」

その言葉に、私は顔を上げた。
視線がぶつかって、逃げようにも逃げられなくなる。

「永遠はないかもしれないけど。でも、だから美しいんじゃないかな?限りあるこの瞬間が」

彼女はそうして、顎をくいっと掬った。
私に食べさせてくれるゼリーを扱うように、壊れないように、優しくそっと指先を喉へと伸ばしながら。

「永遠はないから、だからせめて、この一瞬だけでも。キミのことを、忘れたくない。愛した記憶を。愛しているこの想いを」

決して、忘れたくはないんだよ―――

それはまるで何処かの舞台のセリフのようだ。
歯の浮くような、気障で、カッコつけで、寒々しくて、興醒めな。

だけど。
だけど。
だけど!!
430 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:25
瞬間、心臓が、撥ねた。
全身に悪寒が走り、中心でなにかが滾る。
堪えようとしたのも束の間、喉をせり上がってくるものを吐瀉した。

彼女の体に、吐いた。
胃液ではない、真っ赤な、血を。

「……人呼んでくる」

彼女はナースコールを素早く押すと、私をベッドに横たわらせ、病室を後にした。
「行かないで」という言葉は音にならず、私は再び吐血する。白いシーツが穢れていく。真紅の血が、純潔を失くしていく。
間もなくして、医者と看護師が慌ただしく入ってきた。がしゃがしゃと鬱陶しい機械が運び込まれ、酸素マスクで口を覆われる。
ぼんやりとする視界の先、彼女の姿が微かに映った。

夕方の、鐘が鳴る。今日の終わりを告げる音が、耳に残る。
彼女は私を一瞥したあと、ゆっくりと、背を向けた。
こういう瞬間でさえ、彼女は此処に居てくれない。分かっていることなのに、遠ざかる姿を瞼に映すと、どうしようもなく胸が締め付けられる。
涙を流すことを厭わずに、私はそっと目を閉じた。
431 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:26
-------

「その時」が刻一刻と迫っていることに私は気付いていた。
ああ。もう、そういう瞬間なのだとぼんやりと目を開ける。
ふいに手の平に温もりを感じ、緩慢に首を動かすと、そこにはやはり、彼女がいた。私の左手を両手でしっかりと包み込んでいる。
彼女はなにかを口にしたが、その声がうまく聞き取れなかった。耳が、もうあまり機能していないらしい。口元を動かしたけれど、その音を理解できない自分が悔しい。

「……っ、ん…」

私も口を動かそうとするが、とても声にはならなかった。
声帯がやられたのか、単に口が渇いているだけなのか、それすらももう判別できない。口を覆う酸素マスクが、邪魔だった。

「ゼリーいる?」

再度発したであろう彼女の声は、今度はちゃんと聞こえた。
私も、答える。声にならないので、いちど瞬きをしただけだったけど。彼女はそれを理解し、「そっか」と笑う。
手は離さない。しっかりと握ったまま、世界と私とを繋ぎとめてくれる。
温もりが愛しい。ずっとずっと此処に触れていたいと願う。

ああ、そうかと私は気付く。
正確に言えばずっと気付いていたけれど、見ない振りをつづけていた。
432 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:27
私はこの人になりたかったんじゃない。
この人の傍に居たかったんだ。
同じ目線で、同じ景色を見て、同じ風を感じて、同じ空の下を、いっしょに走ってみたかったんだ。

「――――ちゃん」

聞こえなかった、私の名前。それでも、あなたが呼んでくれたのだと知っただけで胸が痛む。
ううん。痛いんじゃない。嬉しいの。
あなたが此処に居るんだって、私を覚えていてくれるんだって。だから―――

ああ、だから―――

「わ……っ、たし……を…」

言葉にしたい。声にしたい。口にしたい。伝えたい。
あなたにだけは。あなたにしか聞こえないから。

酸素マスクを掴むと、彼女はそれを止めようとした。
が、私は構うことなく外す。
一瞬、呼吸が止まりそうになるが、ゆっくりと息を吸った。
生きている。ちゃんと、生きている。
あなたの空気が、あなたの存在が、あなたの心が、確かに此処にある。
433 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:28
「わたし……をっ……わす、れ…」


―――私のこと、忘れてくださいね


そう云おうとした。
もうなんども口にしてきたその言葉。
だけど、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、躊躇した。

物理的な間ではなかった。
私の心が、その言葉を初めて、拒絶した。

夕方の、鐘が鳴る。
あなたが去っていく合図の音が、静寂を裂く。
でも、あなたは帰ろうとは、しなかった。
初めてあなたが、「自分」との約束を破った。


その直後だった。
あなたは左手で私の髪を撫でると、そっと顔を近付けてきた。
やめてください。なんて、言えるはずもなかった。
私は瞳を閉じて、あなたを待ってしまった。
434 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:28
 
あなたと交わした初めてのキス。
それがあまりにも、あまりにも尊かった。


「好きだよ。キミのことが、大好きだよ」


言葉を、また、失くした。
沈黙が世界を支配すると、思い出したように早鐘を打つ心臓が急にうるさく耳に触った。
なんだ。あまり機能していないなんて嘘だ。思い込みだ。だってほら。私はちゃんと、聞こえている。
あなたの想いを、此処で、ちゃぁんと。


「わす、れ……ない、で、」


そうして、わがままな想いが、口をついた。
あなたの唇から伝わる体温が、私の心を解放した。
私は必死にあなたに手を伸ばし、あなたの体を抱き締める。点滴を打ち、細くなりすぎたその腕でも、それに応えるかのように、彼女も私を抱き締める。私のために、しっかりと世界を創っていく。
435 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:29
「忘れ、ないで……」
「うん。忘れないよ」

あなたを縛る呪いを。
あなたを苦しめる呪いを。
あなたを哀しませる呪いを。

私は何度も、口にした。

「忘れないで……忘れないでっ……!」
「だいじょうぶ。覚えているよ。いつまでも。この体が、朽ち果てるまで。ううん、その先も、ずっと」

永遠なんてないのに。
それでも永遠を信じようとする。願おうとする。
この限りある時の、その先にある「なにか」を。
その瞬間まで、この想いを抱いていたい。

終わっても良い。
朽ち果てても良い。

だけど、だから、それでも。

もういちど、もういちどだけ、あなたに逢いたい。
436 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:30
 
「見つけるから。この先で。もういちど、ちゃんと見つけるから」


耳元で囁かれる声に、ぞくぞくした。
ああ、あなたもそう想っていてくれるのなら。
私はこんなに嬉しいことはありません。

あなたがなんども云ってくれた言葉、想い、愛、私も決して忘れません。
この先。どうかこの先で。
私は此処でもうすぐ終わってしまうけれど。
いつか、この先の何処かで。あなたを見つけたい。


「好きだよ……大好きだよ……」


そのときはきっと、私から伝えますから。
なんどもあなたがくれた言葉を。今度は私が、きっと伝えますから―――
437 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:30
 
「……すき、です………さん」


漸く、漸く想いを伝えることができた。
遅すぎましたか?
もう届きませんか?

そう想って顔を上げると、あなたが見えた。

あなたが驚いた顔が見えた。
あなたが泣いた顔が見えた。
あなたが笑った顔が見えた。

ああ、凄いです。感情のスイッチ、今日はたくさん入っているんですね。
切れていたわけじゃなかった。感情が失くなったわけじゃなかった。
あなたはちゃんと、この世界に存在していける。


「―――好きだよ」


良かった。良かった。良かった……
438 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:31
 
ありがとうございます。
ありがとうございます。

私を。私を此処に繋いでくれて。
私の名前を呼んでくれて。
私を抱き締めてくれて。
私を好きだと言ってくれて。
私に最初で最後の口付けをくれて。

ねえ、ねえ、聞こえていますか?

私の声。ちゃんと届いていますか?


「好きだよ、キミのことが。大好きだよ」


好きですよ。
私もあなたが大好きですよ。


ああ、桜……



咲きましたね――――――
439 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:32
 
 
………

その肌から温もりが失われ、無機質な音が病室に響いた。

「………がんばったね」

柔らかい声のあと、髪を撫でる。
もう、彼女はくすぐったそうに笑うことはないけれど。
もう、その声で私の名前を呼ぶことはないけれど。
もう、いつものように私をからかうこともないけれど。
もう、先ほどまでの温もりが戻ることはないけれど。


たったいちどだけ、好きと云ってくれたから―――


きっと、いつか。

きっと、何処かで。
440 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:32
 
ふっと、手の平に痛みを感じた。
まるで空気に溶けるように、指先の感覚が薄れていった
ああ、夕方の鐘、終わっちゃったからな。もうそんな時間かとため息を吐き、空を仰ぐ。夕陽が、世界を照らし出す。もう此処に居られる余裕がない。
分かったよ。もう分かったよ。


「桜……咲いたよ」


病室の窓の外。空気に馴染んでいく指の痛みを堪えながら中庭に静かに佇むそれを睨んだ。目つきが悪いの、彼女嫌がってたっけと肩を竦めてただ祈った。


あの桜が再び咲くように、また彼女と何処かで逢いたい―――


 
441 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:33
 
 
 
―――――――

サプライズのお披露目が終わり、コンサートは終了した。
スタッフの方に促され、改めて楽屋へと挨拶に伺う。
私が憧れていた10人の先輩たちがずらりと並ぶ。委縮しそうになるけれど、いつも通り、平常心でいたかった。

「11期メンバーに選ばれました、小田さくらです」

無難に挨拶をすると、温かい拍手が返ってきた。
少しだけ安心すると、矢継ぎ早に先輩たちからの挨拶も返ってくる。
研修生として活動していたから、初対面の人はいない。顔と名前が一致しないなんてことはない。

でも、そうじゃなくて―――

「えーっと、鞘師里保です。小田ちゃん、久し振りです、よろしくね」

その人は私に笑いかけると、そう言った。
久し振りって……あれ?と私は首を傾げた。

「え?」
「え?あ、あれ?」

いや、確かに今日も昨日もリハーサルはいっしょだったけれど。それでこんな挨拶、しますか?
442 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:34
「久し振りって挨拶変やない?」
「あ。あれ?なんでうちそんなこと言ったんだろ……?イヒヒ、ごめんね小田ちゃん。びっくりさせちゃって」

里保ちゃんたまに変だよね。そういうりほりほも可愛いの。鞘師ってなんか抜けとーよね。

そんなふうに矢継ぎ早に言葉が交わされる中、私の心に、微かな温もりが灯った。
同時に、頬をあたたかい雫が伝った。

「あれー?泣いてるー?」

10期メンバーの、佐藤優樹さんがそう言うと、一斉に私は注目を浴びた。
慌てて瞳を拭うと、確かにその指先に雫が付着していた。
なんで。どうして。
わけのわからない感情が溢れ出して、止まらなくなる。

なんでだろう。
どうしてだろう。

こんなに切なくて、こんなに温かくて、こんなに愛しい声を。
私は前にも聞いたことがある。
覚えていないほど、遠くて果てしない、時の記憶。
それがまるで色付いたように、花を咲かせる。
443 :記憶の花 :2014/06/22(日) 23:34
 
「緊張してる?だいじょうぶ?」

彼女はそうして、私にティッシュを差し出してくれた。
その手は前にも、私に差し出されたような、そんな温もりを携えていた、気がした。

困ったような笑顔も、さほど大きくないけど真っ直ぐな瞳も、何処かしらか漂う柔らかい空気も。

思い出せないけれど、覚えているこの名前。



きっと思い出せたなら。

思い出すことができたなら。

思い出せなくても、その名前に気付けたなら。


「はい。ありがとうございます、鞘師さん」
「へへ。よろしくね、小田ちゃん」


きっとそのときは、私の方から伝えますから―――
 
444 :雪月花 :2014/06/22(日) 23:36
以上になります
「LILIUM-少女純潔歌劇-」と「時空を超え 宇宙を超え」の影響を受けまくっていますが…こんなので申し訳ないです

ではまた!
445 :名無飼育さん :2014/06/29(日) 22:52
美しい話ですね。
ハッピーエンドでよかった。
私もLILIUMの世界からなかなか戻れないです。
446 :雪月花 :2014/07/06(日) 00:26
暑さにやられたか食欲が落ちています雪月花です
皆様も夏バテには十分ご注意ください…w


>>445 名無し飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
最後どうしようか悩みましたがお気に召されたようで何よりですm(__)m
秋にDVD発売されるようですが、随分と繭期から逃れるのに時間がかかりそうですね…w


今回はちょいと長めな譜久村さんのお話です
>>355-379,395,380-392「想いの名前」、>>401-411「声にできない」の少し後のお話です
447 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:28

 
初めて逢ったときには、妹みたいな可愛い子という印象が強かった。
サラサラの髪を流して、小さくて、歩き方なんてまだまだ子ども。当たり前だけど、その当時、彼女は小学生だったから。
だけど、あのころも今も変わらないのは、ただ真っ直ぐに、未来だけを見据えている切れ長の瞳。その奥には、静かで、そしてだれよりも熱い闘志を滾らせていた。

ステージの上で凛とする彼女を見ていると、自分が一気に奮い立たされるのが分かる。
自分も迷うことなく真っ直ぐに突き進めと、がむしゃらに、ひたすらに努力するしかないと思い知らされる。
それはないものねだりとでも云うのだろうか。
彼女が持っているすべてが羨ましくて、彼女のようになりたくて、彼女の隣で肩を並べたかった。

それが、いつからだろう。
憧れという名の感情が、もっと深く色付いて、私の心を雁字搦めにしてしまったのは―――


 
448 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:29
 
記憶を辿ったところで、明確に「この日」だと思い出せることはない。
気付けばその長い髪を追いかけていたし、彼女が笑ってくれたら嬉しいし、肌を触るのだって…まあ限度と云うものはあるけれど、嫌いじゃなかった。
そもそも、彼女がそんなふうに甘えてくることなんて滅多になかった。
彼女はいつも、振り返ることなく、射るように前を見ていたから。


「どうしよう……どうしよう……」

だけどその日、たくさんのメモが入った歌詞カードを持ちながら、彼女は舞台裏で落ち着きなく弱音を漏らしていた。
普段は冷静に舞台裏で調整を行なう彼女のこういう表情は、たぶん自身の凱旋公演前にも見られるものではない。
その姿はどうにも新鮮で、かなり異常な気もしたし、いたって普通な気もした。
実際、そのときの私自身も、冷静でなんていられなかった。

6期メンバーであり、長くモーニング娘。のエースを務めた田中れいなさん。
彼女の卒業を控えた春ツアーのある公演。耳の不調により、田中さんはその公演を、欠席することになった。
体調不良でメンバーが欠席し、その穴を他のメンバーが埋めることは珍しいことでははい。
だけど、田中さんのような「支柱」を欠いて挑むことは、これまでになかった。ファンクラブイベントやミニライブなどとは違う、2時間の、コンサートなのだ。

田中さんが欠席する以上、そのパートはメンバーに振り分けられることとなった。
同期の道重さゆみさんにも、歌姫として加入した11期メンバーの小田さくらちゃんにも、そして私にもいくつかパートが回ってきた。

そして当然のように、最も多くのパートを受け取ったのが、彼女だった。
449 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:30
「覚えてない…覚えられない。あーもう……もう!」

こんな風に焦って、乱れて、狼狽える彼女を見るのは、本当に初めてだった。
忘れそうになるけれど、この子だって、まだ14歳なのだ。
だけど、この世界に飛び込んで、此処でセンターを担う以上、そんな年齢のことなど言い訳にならないと、決して彼女は振り向かない。
だれよりも遅くまで残って練習し、だれよりも先に立ち上がってステージに飛び出し、だれよりも重責を抱えて、前に進む。
その瞳に映しているのは、いつだって私じゃない。
この子が映しているのは、いつだって―――

「里保ちゃん……」

気付いたときには彼女に声をかけていた。
どうしてか、言葉が震えてしまっていたけれど、里保ちゃんはすぐに振り返ってくれた。
長い髪が靡いて、微かに風を感じた。繊細で、透明で、痛々しくも瑞々しい風に私は思わず息を呑む。
その時に感じた、曖昧で、色すらぼやけていたその感情を、なんと呼べばよかったのだろう?

「フクちゃんっ!」

迷うことなく、彼女は私に飛び込んできた。
普段の戯れとはまるで違うその腕の力に、私も精一杯に応えた。
彼女の体は震えていて、いまにも泣き出してしまいそうなほどに体温が低く、このまま何処かへ消えてしまいそうな錯覚さえ感じた。
ああ、今日の彼女は凄く透明だ。
いつもはイメージカラーの赤を纏い、少し寂しいときは薄い青を揺蕩わせ、楽しいときにはオレンジをぽんぽんと発している。
もちろん、私にはそんな色なんて見えないけれど、でも、普段の彼女は実にたくさんの色を持っている。
それなのに、いまの彼女は、何色にも染まりそうなほどに、透明で、空っぽだった。
450 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:30
「だいじょうぶ?」

頭が真っ白になり、どうすれば良いか分からない彼女に、なんてつまらない質問をしたのだろうと嫌悪感が湧く。
だけど里保ちゃんは私に対して怒るでも泣くでもなく、「うんっ…」と声を震わせた。
まるでそれは、この世界には自分しか存在しないような、たったひとりだけ生き残ってしまったような、そんな絶望にも似た声だった。
そのとき、これが彼女の、前しか向かない里保ちゃんの見ている世界なのだろうかと、ぼんやりと理解した。

「ムリなときは…」
「うん…」
「里保ちゃんがムリなときは、聖が支えるから」

そう口にすると「フクちゃん……」と彼女がその名前を呼んでくれた。
彼女が呼ぶ、私のあだ名。そういえば同期は、みんな違う名前で私を呼ぶ。えりぽんは「聖」、香音ちゃんは「聖ちゃん」、そして里保ちゃんは「フクちゃん」。
「フクちゃん」って呼び名は、先輩方がよく口にするそれで、何処か私は、「遠い」印象を抱いていた。
苗字で呼ばれること自体があまり好きじゃないのかもしれない。怒られるときは必ず「譜久村」って呼び出されるから。
だから最初のうちは、彼女のその呼び名も、あまり好ましく思っていなかった気がする。
せっかく同期なのだから、もっと「近い」距離で呼んでほしかった。ずいぶんと身勝手な言い分だけど。
451 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:31
「っ……ちゃんと、言うから」

彼女の声とともに、背中に回った腕の力が少し強くなった。
同時に、先ほどまで透明だったそこに色が付くのを、はっきりと感じた。
普段彼女が身に着けている、イメージカラーの赤。まるで燃えているかのような静かな想いを、ゆったりと纏う。

「ダメだと思ったら……言うよ」
「うん」
「フクちゃんに、言うから……」

凛とした佇まいに、一瞬、場の空気が震えたような気がした。
慌ただしく行き来するスタッフさんの声も、遠くから聞こえるファンの歓声も、なにもかもが失われた。
重なり合った心音が、ゆっくりと落ち着いていくのが分かる。

やっぱり、そうなんだね。と私は直感した。

きっとこの子は、私には頼らない。
自分がダメだと思ったとしても、絶対にその手を伸ばすことはない。
きっと自分でなんとかしようと足掻いて、もがいて、結局なんとかしてしまうはず。
ステージ上では、そんな努力なんか一切見せないで。ただ自分にできるパフォーマンスを魅せようとする。
452 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:32
それはまるで湖畔を泳ぐ白鳥だ。
優雅に水面を揺らしながら進んでいるけれど、水面下でその足を必死に動かしている。
だれにも見せることのないその姿は、愚直に前進する彼女そのものだと確信した。

「スタンバイお願いしまーす!」

スタッフさんの声が響く。
名残惜しくもあったけれど、此処で時間を取るわけにはいかない。
私はそっと彼女を解放すると、彼女もまた距離を取り、乱れた髪を整えた。その目はもうステージの方を向いていて、やっぱり私のことなんか振り返りもしなかった。
当たり前の行為、それがプロだと私にだって分かっている。
分かっているからなにも言わないし、分かっているからこうして苦しくなる。

ステージ袖へと移動し、準備する。
もうすぐ、幕が上がる。支柱を欠いたコンサート、どうなるかなんて、私にも分からない。
階段の上に立つ彼女の背中は、相変わらず凛としていて大きかった。その背中を、私はただただ見つめる。失敗しないようにと祈りを込めながら。

「フクちゃんっ」

あとほんの少しで始まる。そんなときに、彼女の背中が動き、振り返った。
髪が揺れる。空気が微かに振動し、息を取り戻す。彼女の“赤”が世界を変える。
453 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:32
「がんばる。うち、がんばるから。フクちゃんも、がんばって!あああ、がんばろ、いっしょに!」

もうステージに向かわなければいけないその直前、慌てふためきながら彼女が蒔いた言葉は、あっさりと私に届いて芽吹いた。
乱れたリズムの中に流れた綺麗な旋律。一本だけ真の通ったそれは、たぶん、彼女の心からのお礼だったのだと思う。
その旋律を込めるために初めて振り返ってくれたことが、あまりにも尊くて、あまりにも愛しかった。
彼女から呼ばれた「フクちゃん」という名前。苗字で呼ばれることはさほど好きではなかったのに、その一瞬で、私は好きになった。
魔法のようなその力を、彼女だけが有しているその力を、いったいなんと呼べば良いのだろう。

彼女の瞳に映っているのは、いつだって、自分より前を行く人たちだと知っていた。
彼女が目標としているのは、いつだって、田中さんや道重さんだと知っていた。
彼女が目指しているその場所は、いつだって、あの人たちが見ていた景色だと知っていた。

分かっていた。分かっていた。分かっていたから。
私も同じものを目指したかった。
あなたの隣で。あなたと同じ世界が見たかった。少しでもあなたに近付きたかった。
なにより、あなたに頼られるくらいになりたかった。
精神的な面だけではなく、パフォーマンス、ダンスでも、歌唱力でも、あなたと肩を並べたかった。

だから私は、あなたが目標とする先輩たちを、目指していた―――
454 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:33
 
 
「フクちゃん?」

急に降ってきた声に顔を上げた。
真ん丸な瞳は落っこちそうで、でも私の表情を認めた途端にくしゃりと小さくする彼女―――里保ちゃんはだらしなく笑って「イメトレ?」と訊ねてきた。
ちょっと昔のことを思い出していたの、なんて口にはせず、「まあ…そんなとこかな?」とあたりさわりなく誤魔化す。
彼女もそれ以上は立ち入らず、「隣良い?」と聖のすぐ横を指さした。
私はなにも言わずに少しだけ右にずれると、里保ちゃんはまた嬉しそうに笑って座る。簡易休憩所の椅子がぎしっと軋んだ。
遠くの方で、メンバーのはしゃぐ声がする。時計を見ると、夜公演まであと30分しかない。そろそろ動かないと、とぼんやり思う。

「ラストだねえ……」

そう言われて漸く、今日が春ツアーの最終公演だという実感がわいてきた。先ほど昼公演を終えた時にもまだ、何処かぼんやりしていた事実だ。

「いろいろあったね、春ツアー……」

どこかのんびりとした口調で彼女は言う。私もつられて「そうだねぇ」と返す。
まるで日向ぼっこをしているおばあちゃんたちのようで、なんだかとてもおかしくなった。都合の良いことに、彼女はその手に紙コップに入ったお茶を持っているし。

「いきなり12期の募集があって」
「あー。はるなんが手紙読んだやつね。あれ結構びっくりしたよ」
「それからどぅーが怪我して……」
「小田ちゃんも声が出なくなって……」
「フォーメーションも歌割も結構変わったね」
455 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:34
常に私たちが完璧な状態でステージに上がることはない。
アクシデントを乗り越えて成長していく。そういえば聞こえは良いのかもしれないけれど、プロとして間違っていないか、いつも悩む。
でも立ち止まる暇がないほどに時間はどんどん過ぎていって、あの日、あの瞬間が、訪れた。

「道重さんの、発表から、もう1ヶ月経ったんだね」

彼女の言葉が空気を震わせた途端、先ほどまで耳を触っていた音が一瞬で消えた気がした。
でもそれはやっぱり気のせいで、直後にはまた後輩たちのはしゃぐ声や、スタッフさんたちの慌ただしそうな音がする。

歴史が再び動き出した。
そういっても過言ではないあの瞬間。
私たちは、彼女―――道重さんの卒業を、彼女の自身から聞いた。

ドッキリだと信じたかったし、それでなければ夢であって、早く醒めてほしいと願った。
でも、これは現実で、此処を乗り越えなければ前に進めないのだとしっかりと楔を打ち込まれてしまった。

それと呼応するように、私の恋が、叶わぬものとなったのもあの夜だった。


―――「想ってるだけじゃ伝わらないよ」


あれは、私にとっても、呪いの言葉だった。
なにも伝えられず、なにも口にすることができなかった。
456 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:34
里保ちゃんとは、いちばん長く同じ時間を共有してきたはずだったのに。その想いはあっさりと、道重さんに奪われた。
里保ちゃんの気持ちはとっくに分かっていた。気付いていた。だけど、諦めることなく口にすることだってできたはずだ。
なにかを言えば変わっていたのかもしれない。ちゃんと想いを伝えられたら、結末はもっと、明るいものになっていたのかもしれないと。
なんどもなんども考えて、あり得た未来を想像しては涙を流して。
「女々しい」という言葉がこれほどに似合うなんて思ってもみなかった。

だけど私はあの夜、胸を張って送り出した。
彼女の感情を焚き付けることなんてせずに、この腕の中に収めて、彼女が泣き止むまで背中をさすっていることだってできたはずなのに。
それを堪えられたのは、あなたが必死になって、短いながらもあの人への想いを口にしたからだろうか。


―――「好き、だもん」


いつもより弱々しく、でもこれから来るであろう夏を思わせるような淡い水色を纏って彼女はそう言った。
それは、まるで。
そう、あなたが敬愛してやまない田中さんの、あのいたずらっぽくて、真っ直ぐな想いとよく似ていた。
あなたが尊敬したふたりの先輩たちを、何処までも追いかけるその背中が眩しくて、私は目を細めた。

泣いたって、叫んだって、どうしたって戻らない恋だけれど。まだこの胸の内に滞っている想いだけれど。
いつかは。いつかはちゃんと、向き合える日が来る気がするから。
こうやって、苦しい想いをしたけれど、あなたを好きになれて良かったと、心から祝福できる日が来るはずだからと、強引に自分に言い聞かせて―――
457 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:35
「15分前です!集合お願いします!!」

スタッフさんの声がして、弾かれたように顔を上げる。
私も里保ちゃんも、なにも言わないでずいぶん長く此処に座っていたらしい。
紙コップのお茶を一気に飲み干して景気良く立ち上がる。ゴミ箱へ放ったコップは綺麗に弧を描いてすとんと入った。
揺れる髪を見た途端、私はその香りを逃がしたくなくなった。
彼女を引き止めたくて、だけど良い言葉が見つからなくて、思わず「道重さんとは……」と声を出しかけた。
自分でも驚くほどに小さなその声は、それでも彼女に届いていた。里保ちゃんはダンスのターンを決めるように、「うん?」とキレ良く振り返る。
でも、前に行こうとしていた彼女は、急に重心の軸をずらしたせいでバランスを崩しかけ、「おっと」とよろめく。
軽く折れた膝を認め、慌てて私が支える格好になった。ぽすんという音のあと、里保ちゃんの体は私の中に吸い込まれる。

それはあの日、田中さんが不在のコンサートを乗り切る直前に彼女を抱きしめた時と同じ感触だった。

「おお!フクちゃんごめん。んへへ。こけそうになっちゃった」

彼女は、腕の中で笑う。
余裕なく慌てふためいたあの日は違う、あどけない微笑みを見せているのに、どうしてか、私は違和感を覚えた。
なんだろう。言い表せないこの感じ。
なにかが、いつもの彼女と違う気がする。「気がする」だけで、これもまた、気のせいなの?

「緊張するね……最後って」

その言葉に、はっとした。
私はまた、忘れていた。
彼女はモーニング娘。のエースでもあるけれど、16歳の女の子なのだ。
私となにも変わらない、普通の、高校生の、16歳の鞘師里保なのだ。
458 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:36
だからだろうか。彼女はまた、色を失いかけていた。
いつも纏う“赤”を置き去りにし、ただひとりで世界に取り残されたような感情を抱いて。
雨上がりの空のように、なにものにでも染まりそうな透明を携え、彼女は、笑う。泣きそうな顔を堪えて、それでも真っ直ぐに、世界を睨んで。

「いつもどおりだよ、だいじょうぶ」

だから私は、そう言った。
彼女を支えるなんて烏滸がましいにもほどがあるけれど、それでも私は口にする。
同期として、年上として、サブリーダーとして、仲間として―――

「里保ちゃんがムリなときは、聖が……聖たちが、支えるから」

あの日果たすことのできなかった、遠い約束。
私だってあの日から少しは成長できている。だけど彼女は、その何倍もの速度で前を行く。
だからたぶん、私はまだ、あなたをひとりで支えることはできない。それでも「私たち」なら、いまの私たちならそれができる気がするから。

勝手な言い分で、ごめんね。
いつもあなたを先に行かせてごめんね。

だけど。
私たちはちゃんと、あなたの傍に居るから。
絶対にあなたを、ひとりになんかしないから。
459 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:37
「……いひひ。ありがと。うち、がんばる」

彼女はそう言って、色を取り戻した。
それは普通の赤とは違う、もっと深い、見えざるなにかを掴まんと静かに座する、真紅の輝きだった。

「フクちゃんも、いっしょに、がんばろ」

あの日と同じように、だけどあの日よりも強い目であなたは笑う。
ああ、やっぱり彼女は私たちよりも先に行く。一歩でも二歩でも、その背中に追い付いたと思ったらすぐ遠くへ走っていく。
だから少しでも、分かりたい。分からないと、あなたといっしょにいる意味なんて、ないのも同じだから。

「行こうか、ラスト」
「うんっ!」

里保ちゃんはそうして、私の手を握り、駆け足でステージ裏へと駆け出した。
その手は小さくて、温かくて、まるで子どものようで微笑ましくなる。表情もふとした瞬間に赤ちゃんのようになって、ホント、不思議。

「あ……さっき、なんか言いかけなかったっけ?」

メンバーがぞくぞく揃い、春ツアー最後の円陣を組まんとしているその直前、里保ちゃんは私にそう訊ねた。
私は「あ」と声を出したものの、結局その本心を伝えることはなく、曖昧に笑って首を振った。
そのまま自然とその輪の中に入ると、里保ちゃんもまた曖昧に笑って、その手はいつの間にか離れてしまっていた。
だけど、私の左手に残った温もりはいつまでも消えなくて、私はただ、それを噛み締めながら、開演の合図を静かに待った。
460 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:38
 
-------

本編が終わり、アンコールが終わり、これで春ツアーが終わるのだと思った瞬間だった。
星が輝く夜空に、大輪の花が咲いた。

「うわぁー!!」

光が弾け、慌てて音が追いかけてくる。
こうして間近で花火を見上げるのは、何年振りだろう。
テレビで見るものとは違う臨場感を、この肌で感じる。何色もの光があちこちに走り、耳を劈くような、だけど不快でない音が世界に響く。
次々に花火が打ち上がるたびに、ファンの方の歓声が広がる。

本編終了後に開いたコンサート会場の屋根。
5月の終わり、決して高くはない気温。だが、これまでの熱く燃えた90分を冷ますにはちょうどいい冷気が流れ込んできた。
東京で見る空とは少し違う、空気の澄んだ、濁りのない黒。そこに幾重もの星が泳ぎ、輝きを放った。
思わずステージに上がるときに見上げたその夜空は、見たことのない「宇宙」さえも思わせた。
その宇宙に咲き誇る光の花が、あまりにも眩しくて目を細める。

ただ、ずっと天を仰いていると首が痛くなってしまって、勿体ないけれど一瞬だけ地上に目を向けた。
すると、たまたまなのか、それとも宇宙さえもつくってしまった「かみさま」とやらが狙っていたのか、私の視線は、彼女たちを捉えた。
遠慮がちに、だけど、しっかりと結ばれたその手が、私の心を、解放した。

 
461 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:38
 
ああ。

ああ、これが。


分かっていた。叶わぬ恋だと。
分かっていた。終わった恋だと。
分かっていた。前を向くべきだと。
分かっていた。これが選んだ道だと。


そして、分かった。


「シアワセにね―――」


初めて、心からそう想えた。
負け惜しみでも、強がりでもなく、自分の中にある感情すべてが、彼女たちを祝福していた。
462 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:39
想いが雫となって、瞳から溢れ出す。
もう我慢しなくても良いというように、だれの目も気にすることなく、産まれたばかりの子どものように感情を叫べば良いと、背中を押されるように。
しゃくり上げることも、手で拭うこともしないまま、私はただ、涙で滲んだ視界のまま、もういちど天を仰いだ。
ひっきりなしに夜空に光が走り、音が遠くへと反響していく。

唐突に、アンコールで唄ったあの曲を思い出した。
春ツアーの初日に初披露となった、あの曲。
とても壮大で、いちど聴いただけでは意味を掴み切れなかったけれど。いまなら、なんとなく分かる気もする。
そう、あの曲はラブソングなんだ。
果てしなく遠い時間の、果てしなく遠い世界の、そして、此処に居る私たちの。

同時に、もうひとつ意味があるとするならば、あの曲は、道重さんのためにつくられたものだと私は思う。
遠い過去から時代を紡いできてくれた道重さんへの、贈り物。
未完成な私たちを完成に導くために、あえて此処から一歩を踏み出す8代目リーダーへの。

それはきっと、里保ちゃんも、他のメンバーも感じていたはず。
1ヶ月前の山口でのコンサート。この曲を歌ったあとに本人の口から伝えられた衝撃の発表が、それを確信させる。
この曲は、道重さんそのものだ。

その想いを、私たちはまだ、ちゃんと受け止めきれていない。
ふわふわで、曖昧で、不定形で。
不安で、怖くて、寂しくて、ツラくて。
それでも立ち竦むことはできない。
メンバーとして、サブリーダーとして、譜久村聖として。
463 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:40
 
 
―――愛しくて愛しくて 尊さを感じてる


瞬間、この胸に宿る想いが、ゆっくりと色を失っていくのを確かに感じた。
まるでそれは、空へと還っていくようで。私はぼんやりと、聴くはずのない音符を追いかけた。
その音符は、羽根を得たかのようにふわりと舞い、風に乗り、ゆっくりと夜空に昇っていく。
途端、花火がまた弾け、追いかけていた音符は空気へと溶け込んだ。
同時に涙がまた溢れ出る。止め処ない感情の玉はぽたぽたとステージ袖の床に落ち、そして消えていった。


道重さん……


里保ちゃん……


「ありがとう―――」


そのあとにつづけた「大好き」という言葉は、連続で打ちあがった最後の光と音に混じり、耳を掠めることなく、還っていった。
464 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:41
 
-------

「どぅー!どぅー!!花火しよー!」

ダブルアンコール、そしてスタッフの方への挨拶を終えて着替えていると、まだ髪も濡れたままの優樹ちゃんの元気いっぱいの声が飛んできた。
いつもなら、やれやれまた始まった、という空気になるのだけれど、今日は千秋楽だからか、それとも「花火」という単語に反応したのか、軽い雰囲気が全体に伝わった。

「花火って?」
「スタッフさんが買ってくれたんだってー!だから早く!早く着替えて!!」
「えー私もやりたーい!」
「こんないっぱいあるの凄いねー」

10期メンバーがわいわいと騒がしくなると同時に、着替える速度が一気に上がった。
こういう遊び事というか、楽しいことに関しては10期の子たちはホントによく似合う。9期だって遊びたいんだけど、何処か腰が重いように見えてしまうのはなぜだろう。

「小田ちゃん行こー!」
「わわ!そんなに引っ張らないでくださいー」

唯一の11期であるさくらちゃんの腕を引き、優樹ちゃんたちは我先にと楽屋を後にした。
9期だってもちろん花火はしたいわけだけど、マイペースに着替え、携帯を片手にえりぽんと香音ちゃんが出ていった。
465 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:42
こういうとき、性格って分かりやすく出るよななんて思っていると、「鞘師、行ける?」と道重さんの声がした。
そのままふたりで行くのかと思いきや、意外にも里保ちゃんは「あ…先に行っててください。すぐ行きますから」と返した。
道重さんも「うん。じゃまたね」とあっさりと楽屋を後にする。かと思ったら直後に引き返し、「携帯忘れちゃった」と舌を出す姿は到底24歳に見えなくて、本当に可愛かった。
いまが「可愛さのピーク」なんて言っていたけど、絶対にそんなことはないと思う。この先だって、道重さんは可愛いに決まっている。
そんなことを思っていると、道重さんは今度こそ楽屋をあとにし、此処には私と里保ちゃんの二人だけが残る格好になった。
のんびりしすぎて、まだシャツもちゃんと着ていない自分に苦笑していると、「フクちゃん」と彼女が呼んだ。

とくん、といつもより大きく、胸が高鳴った。
ホント、凄いなぁ。
苗字より名前で呼ばれる方が絶対に嬉しいって思ってたのに、あなたから呼ばれると、苗字だって悪くないって思えちゃうんだもん。
ホントに、恋って、凄い。

「さっき、ありがとう」

その声に、彼女と視線を合わせる。里保ちゃんの髪はまだ少し濡れたまま。私のことを色っぽいとかいうけれど、里保ちゃんだって十分、色気があると思った。

「Only youの出だし……フクちゃん居てくれて、ホントに助かったから」

そう言われて思い出す。
ライブの前半戦、里保ちゃんと私のふたりで交互に掛けあうように歌い出す「Only you」で、里保ちゃんが珍しく、音をひっくりかえらせた。
ほんの一瞬だったけど、まるで軸がぶれたようなその声に、背中合わせだったにもかかわらず、私は思わず振り返った。
さぞ、落胆しているか、動揺しているかと思ったけれど。彼女はそんなことなくて。
失敗を認めつつも、いたずらっ子のような苦笑いを零して私の目を真っ直ぐに見つめ返してきた。
466 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:42

なんて可愛いんだろうと思ったし、なんて愛しいのだろうと思った。

その直後、蕩けたように目じりを下げ、あなたから視線を逸らせなくなった。
不純だって良い。この場にかこつけていると思われても良い。
だけどいま、この瞬間を逃したくない。
あなたという人が生きて、唄って、想いを届けているこの瞬間を、忘れたくない。そう願った。


「里保ちゃん、自分で修正できてたじゃん。聖なにもしてないよ?」

謙遜するようにそう言うと、里保ちゃんは凄い勢いをもって首を振った。
汗がまだ残っている髪からいくつかの数滴が飛ぶが、構わなかった。

「フクちゃんが振り返ってくれて…嬉しかった。だから、ちゃんと立て直せたよ」
「そんなこと……」
「いっつも頼ってばっかで…ごめん。ありがとね」

そんなこと、云われるなんて思ってもみなかった。
頼っていたのは、いつも私で。あなたは決して振り向かなかったのに。それなのに、あなたは、「いつも」と云った。
たとえそれが、思い付きだとしても、本心でなかったとしても、私はただただ、嬉しかった。

少しだけ、ほんの少しだけ、あなたの見ている世界が見えた気がした。あなたの視線に、漸く辿り着けたような気がした。
467 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:43
「あー……花火、行こっ!ほら!」

照れ隠しのように里保ちゃんは右手を差し出してきた。
まるで舞踏会に誘う王子のようなしぐさに、私は目を細める。微かに目じりに涙が霞んだけれど、すぐに指先で拭い取る。

「私まだ着替えあるし……里保ちゃん、行ってて良いよ」
「いや、待ってるよ。そんなに時間かからないでしょ?」
「ううん。ちょっとお手洗いも行きたいし……道重さん、待ってると思うよ?」

まさか誘いを断られると思ってなかったのか、里保ちゃんはちょっと寂しそうな顔をしたけれど、道重さんの名前を出され、脚が自然と出口へと動いていた。
きっとこういうの、無意識って云うんだろうなと思う。
ホント、里保ちゃんって道重さんのこと大好きなんだなあと知って微笑ましくなる。

「じゃ、あとでね」

後ろ髪を引かれるように手を振る里保ちゃんに、私も柔らかく振り返す。
彼女の足音が遠ざかると、あんなに騒がしかった楽屋を一気に静寂が支配した。
凄いなー、こんなに静かになるんだって改めて思いながら、急ぐこともなくシャツを着替えた。
季節は春から初夏へと動き始めている。
いくらライブで汗をかいたとはいえ、直接肌に触れる気温はまだ冷たくて、ずっとこのままでは風邪を引く。
丁寧に丁寧に体や髪を拭き、ひとつ息を吐いた。
468 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:44
ふと、空が見たくなった。
楽屋に窓はない。着替える場所なのだから当たり前だけれど。
でもなんだか、いま、夜空が見たかった。星空が見たかった。河口湖の、壮大な自然に浮かんだ花火の空が。

ふふ。みんな今ごろ花火始めちゃってるのかな。
早く行かないととシャツの皺を伸ばし、鞄にしまった携帯電話を探しているとドアがノックされた。
スタッフさんだろうかと一瞬肩を竦め、「はい」と返事をする。

「あ、譜久村さん、開けて大丈夫ですか?」
「え……はい」

その声の直後、入ってきたのは、先ほどはるなんといっしょに出ていった亜佑美ちゃんだった。
忘れ物?と訊ねようとするより先に、「まだ、時間かかりそうですか?」と申し訳なさそうに言葉を発する。
え、もしかして聖待ち?そう思い、「ううん、全然もう行ける!」と慌てて返事をする。

「あ、いえ、急かしてるんじゃなくて………あの……」

歯切れ悪く、まるで内になにかを抱えているように亜佑美は話す。
その言葉の先が知りたくて、携帯を片手に持ち、うん?と小首を傾げてみせた。
亜佑美は自らの胸元に右手を持っていき、ぎゅっとそこを掴む。なにか言葉を探しているようにも見えたし、苦しんでいるようにも見えた。
言葉を遮るべきかとも思ったけど、今度もまた、彼女の方が先に口にする。

「また……泣いてたらどうしようって思って」
469 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:45
「泣くって……聖が?」
「はい。この前……みたいに」

苦しげに、申し訳さなそうに呟かれた彼女の言葉は、あの日の記憶を呼び起こさせた。
まだ里保ちゃんへの恋が終わって間もないころ、廊下の端で泣いているところを、亜佑美ちゃんに見られた。
咄嗟に誤魔化したけれど、ホントはあの時、気付かれていたんだろうな。亜佑美ちゃん、結構鋭いし。私たちのこと、ちゃんと見ているし。
なにより、いまの亜佑美ちゃん、あの日と同じように、聖よりも哀しい瞳をしているんだもん。

「探して、くれたんだね」
「そ、そんなことは」

言いかけて、やめる彼女は、まるで小動物のようだった。
その姿に、可愛いなあって純粋に想う。
里保ちゃんとは少し違う、亜佑美ちゃんの可愛さ。どちらが良いとかではなく、どちらにも彼女たちにしかない魅力がある。
きっといま、亜佑美ちゃんを見て、「可愛い」と思うのは、里保ちゃんが離れていったことへの代替品を求めているからじゃない。
そんなことは分かっていたけど、いますぐに彼女の優しさに甘えたくはなかった。
それは、亜佑美ちゃんにとっても、里保ちゃんにとっても失礼だから。
なんて言い訳したけど、きっと自分が嫌なんだろうな。変なプライドばっかり持って、こういう虚勢を捨てられたなら、もっと楽なのかもしれないけど。
でも、こういう大人げないところも、弱いところも、全部をひっくるめて、私なんだと思う。

認めていこう。少しずつ。
分かっていこう。少しずつ。

「行こう、亜佑美ちゃん」
470 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:46
私はただ、いつものように微笑んで彼女に左手を差し出した。
彼女は一瞬の躊躇を見せたが、そのまま私に指を絡めてきた。
小さくて細い手は、とても同い年には思えなくて自然と目じりが下がった。
なにを言うでもなく、私たちは廊下に出て、みんなが待っている駐車場へと向かった。
そこにはスタッフさんも大勢いて、メンバーは蝋燭を中心に円陣を組んでいる格好で座っていた。まるでドラマで見たやんちゃな男たちの集まりのようで私は思わず笑ってしまう。
すると「あー!譜久村さんおっそいっすよー!」とどぅーのハスキーボイスが響いた。
それが合図のようにメンバーからの痛い視線を受け、「ごめんごめん」と平謝りを繰り返す。

「じゃあ!花火大会!!スタートぉ!!!」

そうして優樹ちゃんが大声で合図をすると、早速光のシャワーが放たれた。
メンバーが思い思いの花火を手にし、蝋燭の炎に翳し、華やかな音と煙が空へと昇っていく。
最初は中腰で楽しんでいたのに、数分も経たないうちに優樹ちゃんとどぅーは両手で花火をもって、ぐるぐると派手に回し始めた。
そのうち追いかけっこになって、ホント元気だなぁと目を細める。

「危ないですよふたりともー!」

私の隣の隣にいたさくらちゃんが軽く注意するけど、そんな彼女自身も目尻が下がっていて全然説得力がない。
斜め前にいたえりぽんがバケツに花火の燃えカスを投げ込む。じゅっという炎の消える音が、何処か寂しくも感じた。
それを振り払うようにえりぽんは立ち上がり、新しい花火を探し始める。と、なにかお目当てを見つけたのか、香音ちゃんに話しかけた。

「衣梨奈これやりたい。香音ちゃん読んで」
「なんで私が読まなきゃいけないんだよー……」
「まあまあ良いじゃないですか、今日くらい」
471 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:46
はるなんがいつものように諌めると、なんだかんだで香音ちゃんも読んであげる。ホント優しいなあと思う。
いつも「生田・生田」って言って強めな言葉をかけるけど、名コンビだよ、あのふたり。

「ええっと……これは打ち上げ花火です。平らな地面に置いて点火したらすぐに離れて下さい。手に持ったり人に向けたり、覗き込んだりしてはいけません……」
「手に持ってます!私に向いてます!生田さん離しましょう!それやっちゃいけないパターンですよ!!」

えりぽんはそんな言葉を無視して「スタッフさーん、ライター貸してくださーい」なんて言ってる。相変わらず打ち上げ花火の照準ははるなんに合わせたまま。
大人たちも面白がってライターを貸そうとするもんだから、狙われているはるなんは大慌てで逃げようとする。その様子を見て、みんなが笑う。

私も笑いながら、ちらりと視線をあのふたりを見つめる。膝を畳んで目を細めながら光を眺める姿は、いつものリーダーとエースのそれとは少し違っていた。
なにかを話している気もしたけど、耳をそばだてるのはどう考えても野暮だし、そんなことをするつもりもなかった。
あのふたりの未来は、これから始まるんだ。

「あ、譜久村さん、見て下さい!花火の色、変わってきましたよ!」
「ホントだ!凄い!」

そしてたぶん、私の未来も、少しずつだけど始まっていくはず。
きっと、今日とか明日で、この想いが消えてなくなって、痛みや哀しみも全部洗い流されるなんてことはない。
これからも泣いてしまうだろうし、寂しい夜を過ごすことだってあるかもしれない。
でも、私が今日踏み出せた小さな一歩は、明日の未来へとつながる大きな道標になるはずだって、信じているから。信じて、いたいから。
だから私は、明日も生きていく。私が好きになったあの子のように、前に進んでいく。
そうして重ねていく日々は、きっと私の糧になる。

そのとき、前髪を風が優しく撫でた。
その風はまるで、あのアンコールで唄ったラブソングに、とても似ていた気がした。
472 :ラブソング :2014/07/06(日) 00:48
 
「打ち上がれー!!」

えりぽんの声とともに、花火がまた上がった。
先ほど見た大きな花火とは違う、市販の打ち上げ花火だったけど、重力に逆らってどんどんと喧しく天に昇る光と音を、私は笑顔で見送った。

一年にいちど、自分の気持ちを大きく解放させるこの季節。
今年はあと何回、花火ができるだろう。
きっと、メンバー全員がそろって、この10人でできることなんてもうないかもしれない。
だからいま、この瞬間を楽しもう。

河口湖の夜空には、たくさんの星が輝いていた。
それはやっぱり、見たことのない宇宙を思わせる。
宇宙に届くには程遠い光が、私たちの前でまばゆく弾ける。それを見ていたら、やっぱりアンコールの曲が脳裏によみがえって、私は思わず、口ずさんだ。
すると、隣の亜佑美ちゃんが一瞬きょとんとしたように顔を上げた。私が思わず子どもっぽい笑顔を見せると、それに呼応するように目を細めて、いっしょになって唄ってくれた。

その声が凄く艶っぽくて、切ないラブソングにはぴったりで、私は思わず身震いをした。


たったいちどの夏。
忘れられない熱と輝きを放つ夏。
それはもう、すぐそこまで迫っていた。
473 :雪月花 :2014/07/06(日) 00:51
以上になります
さゆりほ・あゆみずき・フク鞘とつづいたお話は一応これでおしまいです
お分かりのように春ツアー最終日の河口湖と「時空を超え 宇宙を超え」から話をつくっています
世界観を壊していたら申し訳ありません

ではまた!
474 :名無飼育さん :2014/07/06(日) 20:15
それぞれの感情が交錯していて惹き込まれました!
素敵なお話をありがとうございます
475 :雪月花 :2014/08/28(木) 00:40
Berryz工房無期限活動停止に胸を痛める雪月花です
ガッツリ追いかけていたわけではありませんが、彼女たちはずっと彼女たちのままだと勝手に思っていましたので…


>>445 名無し飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
交錯させることに夢中になりすぎて冗長になりすぎましたが…
彼女たちがシアワセになることを祈っております

今回は道重さんと鞘師さんのハワイのお話です
476 :雪月花 :2014/08/28(木) 00:40
失礼しました、475は>>474様への返信でした
申し訳ありませんm(__)m
477 :sunset :2014/08/28(木) 00:43
楽しい時間はあっという間と言うけれど、本当にその通りだと思う。
同室のえりぽんは既に帰国の準備を終え、さっさと部屋を後にしていた。
最後のハワイの夜を満喫したいと飛び出した彼女の気持ちも分かる。

分かるから私も早く出かけたい。ハワイの温かい風に当たって、柔らかい光を浴びて、たくさんの力をもらいたい。
綺麗な風景の写真も撮りたいし、メンバーとの思い出だってまだまだつくりたい。

そのためには、一刻も早く、この散らかしてしまった部屋を片付ける必要がある。
ごみはごみ箱、服は畳んでキャリーケースへ。何で1週間しか居ないのに、こんな状況なのか、自分でも理解に苦しむ。
「お部屋汚し選手権」なんてものがあるのなら、私は結構上位に食い込めると思う、なんてひどくどうでも良いことを考えながら汗を拭う。

黙々と取り組んだおかげで、えりぽんの倍以上の時間はかかったものの、8割以上は片付けも済んだ。
478 :sunset :2014/08/28(木) 00:44
「あれ…」

また、だ。また、ケータイが見当たらない。何であいつはいつも行方が分からなくなるんだろう。今朝目覚まし時計代わりにした時には枕元にあったのに。
えりぽんに電話して貰いたいけど、彼女は居ないし……自分で探すしかないか。
わざわざ別の部屋のフクちゃんや香音ちゃんに頼むのも情けなさすぎるし。
やれやれ。私のケータイにはきっと脚か羽が生えているんだとまたくだらないことを考えていると、何処からか振動音がする。
おおっとマネージャーさんからインフォメーションだろうかと音のする方へ向かうと、枕の下からひょいっとケースが顔を出していた。
慌てて手に取り、表示された名前を見て一瞬息の仕方を忘れる。が、仕事かもしれないと即座に指が動いた。

「もっ…もしもし」
「あ、鞘師?今、大丈夫?」

少しだけ電波が遠いけど、はっきりと耳に聞こえるその声に、背筋が伸びる。「はい」と言うと、彼女の柔らかい声がまた耳を撫でる。

「まだ片付け中ですけど…」
「ふふ、まだやってるんだ。あ、ベランダ出てみて?」

私は素直にベランダまで、まだちょっと残っている脱ぎ散らかした服を踏まないように歩く。
479 :sunset :2014/08/28(木) 00:45
風に膨らんだカーテンの向こう、夕陽が射し込むベランダへと出ると「右・右!」と聞こえた。
一瞬左を向きかけて、違う違うと慌てて右を見ると、隣の隣の部屋で彼女が手を振っていた。無邪気な子どものような姿に「何してるんですか?」と目尻を下げる。
自分でも驚くくらいに、甘ったるい声だった。いつもの低い声はどこに消えてしまったのだろうと、思う。

「ね、すっごい夕陽綺麗じゃない?」

彼女の声が耳元で響いているのか、部屋を飛び越えて聞こえているのか、一瞬判別付かなかったが、それももう些細なことだった。

「そうですね……眩しいです」
「だからさ、海行こうよ」
「は…?」

強い風が吹いて前髪が乱れる。それに気を取られたせいで、彼女がなにを言っているのか一瞬だけ理解が遅れた。

「片付け、あと10分で終わらせてね。さゆみ、下のロビーで待ってるから」

彼女はそうして電話を切り、自分の部屋へと消えていった。ちょっと道重さん!とベランダから乗り出すが、「早くねー」と彼女は手を振るだけで答えてくれない。
何だそれ。と思うも、ケータイからの無機質な音に急かされるように、私は乱暴に残りの服を詰め始めた。
どうせ日本に帰って洗濯するだけだ。必要なものは小さなバッグに入れて後は全部キャリーケースに入れれば良い。あ、お土産…は、手に持って帰る。大丈夫大丈夫。
何て、誰に対して言い訳をしているのかも分からぬまま、私は8分で全てを終え、ケータイを持ち、自室を飛び出した。
480 :sunset :2014/08/28(木) 00:45

-------


「おー、凄い凄い、12分で着いたねー」

ホテルのロビーでは、優雅に道重さんが待っていた。まさか先ほどの電話から12分、ずっと此処で待っていたのだろうか。
言いたいことや聞きたいことは山のようにあったけど、その言葉は彼女の身に着けていたワンピースで吹き飛んだ。

「そ、れっ…」
「ん?ふふ、りほりほがくれたワンピース。似合ってる?」

彼女はそうして一回転した。それは彼女の誕生日にプレゼントした、ボーダー柄のシンプルなワンピースだ。
お店で選んだ時一目惚れした。
絶対に道重さんに似合うと確信したと同時に、ちょっと丈が短いかなって不安も芽生えた。でも、スタイルの良い道重さんに着てほしいと思ったのも事実だ。
それにしたって、実際に着てもらうと、予想以上に短いことに驚いた。
膝上何センチかわかんないけど、ちょっと、ちょっと……目のやり場に困る。真っ白な道重さんの脚が一層輝いて見える。

「ほら、行こっ」

私の思惑なんか気にすることなく、彼女はロビーを出て、オレンジの広がる街へと歩いていく。私も目を細め、心臓の高鳴りを抑えながら背中を追う。
南国の風が心地好い。彼女の長い黒髪を揺らし、空高く舞い上がる。海の香りが強くなる。此処は1年中、夏だ。
開放的な空を携え、それでいて何処か物悲しくさせる。温かくて優しい土地。日本から遠い空の下、私はあなたの背中を見つめる。
481 :sunset :2014/08/28(木) 00:46
「うーみーっ!」

ホテルのすぐ近くにある海辺に出て、私の前を行くあなたがぴょんぴょんと跳ねる。
その様はやっぱり子どもだと思う。いや、あなたは十分と大人なのだけれど。私なんかより、ずっとずっと、大人の女性ですよね。

砂が飛び、波音が夜を連れてくる。ああ、もうすぐ今日が終わってしまう。止まれ時間。一瞬でも良い。閉じ込めてほしい。
刻一刻と進むことには抗えないけど。あなたとのこの瞬間を、終わらせたくない。もう少しだけ、あなたと共有したい。
いまを、そして未来さえも―――

「―――――」

道重さん。そう名を呼びたかったけれど、喉に張り付いた声は動こうとしなかった。
代わりに乾いた空気が揺れる。それは微かなもので、波音にかき消されて到底届かないものだったはずだけれど、あなたはゆっくりと振り返ってくれた。

「りほりほっ!」

そして、ほんの数メートル先であなたは両手を広げる。それは一つの合図のようだった。
482 :sunset :2014/08/28(木) 00:47

位置について。ヨーイ・ドン!


私は飼い主に呼ばれた犬の如く、走り出す。同時に彼女も背を向けて走り出した。追いかけっこだ。いや、鬼ごっこだろうか。どっちでも同じだ。
海辺を走るなんて、ベタにも程がある。なんだこれ。なんの青春ドラマだ。良いや私たちどうせ、アイドルなんだし。

私は彼女を捕まえる。その腕を、その背中を、その瞳を、必ず捉えてみせる。
走る。走る。走る。
精一杯に走って、必死に手を伸ばして。漸く追いついたと思ったらあなたはその手をすり抜けていく。
それでも私は、あなたを求めるんだ。
あなたに追いつくその日まで。あなたと同じ視線に辿り着くその瞬間まで。

「道重さんっ!!」

漸く音になった、私の想い。彼女はそれに応えるように、その脚を止めて振り返った。
急に止まることのできない私は、勢いそのままに彼女の腕の中に飛び込んでしまう。
想いが溢れてしまうのを抑えられないように、あなたに抱き着くと、彼女は必死に腰を反らして私の全体重を支えるが、最終的にがくんと膝を折った。
そのまま彼女と私は砂浜に倒れ込む。
483 :sunset :2014/08/28(木) 00:47
「みちしげさっ…!」

慌てて上から退こうとした体は、ゆっくりと彼女に絡め取られた。
白い砂の上に髪を泳がせ、夕陽に照らされて目を伏せる道重さんはあまりに美しかった。
私からだったのか、彼女からだったのか、理解する前に口付けを交わしていた。甘くて、何処かしょっぱいキスは1秒にも満たず、そっと顔を離す。

「りほりほからのワンピース、汚れちゃったの」
「っ…すみません!」

そういえばと思ってまた立ち上がろうとするが、首の後ろに回った彼女の腕から逃れられない。
オレンジの夕陽が目に刺さり、私は一層瞳を細める。
彼女の姿がよく見えなくなるのが不服だったが、その分彼女に近づいて、鼻先が触れる距離で「道重さん」と囁いた。

「捕まっちゃったね」

私の心を読んだように、彼女は云う。「捕まえましたよ」そう答えられたら良いのに、私はまた言葉を失くす。
答えたらすべて終わるような気がして。
それでも私はあなたに答えなくてはいけない。何か。何か大切なことを。あなたの心に残る、最後のハワイに相応しい言葉を。
484 :sunset :2014/08/28(木) 00:48
「夕陽、綺麗だね」

彼女はその間にも言葉を紡ぐ。
それに対して、あなたの方が綺麗です。そんな陳腐な言葉さえも紡げない。
私は、私はただ―――

「最後には、させませんから」
「うん?」

だけど、そんな震えるような言葉が急に滑り出て、自分でも驚いた。
これが南の島がくれる、不思議な力なのだろうかなんて都合のよいことを考えるけれど、一気に言葉を繋ぎ、走らせる。

道重さん。道重さん。
あなたにどうか、届きますように。
この手が、この声が、この想いが。どうかどうか、届きますように。

「ハワイでも、ニューヨークでも、広島でも山口でも何処でも、道重さんと一緒に行きますから」

云った後、タイミングが良いのか悪いのか波の音がやたらうるさく響いた。
ついでに鳥の声が耳に触って急に恥ずかしくなる。

え、自分、なにを言ったよ今!
勢いに任せて、祈りを込めて口にしたそれ、一体うち、なんて言った?!
485 :sunset :2014/08/28(木) 00:49

「……それって、プロポーズ?」

ぷ、ぷろぽーず?!ち、違いますそんな大それたもんじゃないです!いや、私としてはそれくらい大好きなんですけど!
いえ、好きなのはもうお伝えしていると思うんですけど!だからつまり!!え?なに?うちホントにどうしたの?!

「ちっ…だ、だからっこれはっ……!」

いくらハワイだからって開放的過ぎると思った矢先、彼女が体を起こし、そしてもう一度口付けてきた。
先ほどよりも長いキスに、私はまた何もできず、ただ黙って彼女を受け入れた。
温かい唇。ハワイでも、日本でも、あなたから変わることなく渡される愛情は、途方もなく優しくて切ない。

「嬉しいよ、りほりほ」

唇を離して、道重さんは微笑む。

ああ、道重さん。
私は、私はあなたに、何を返せるでしょうか。
沢山の愛をくれるあなたに、何を捧げられるでしょうか。
一緒に居たいというわがままを受け入れてくれるあなたに、私は何ができるでしょうか。
紅潮した頬と、沸騰した頭で、まとまらない思考が収束していくのを感じる。
砂に汚れた手で彼女の頬を撫でる。白くて柔らかい肌に触れ、温もりを確かめると、彼女がその手を握り返してくれた。砂が落ちる。指を絡める。
486 :sunset :2014/08/28(木) 00:50
「ね、りほりほ」
「はい……」
「シャワー浴びて良いかな?」

おおよそそれは浜辺で言うセリフじゃない気がしたし、音以上の意味を持ち合わせていた気がして、私は一つ息を吸う。
精一杯の大人びた声を作って「一緒に、朝陽、見れますか?」と問うと、彼女はまた微笑む。何倍もの大人の色気を携えて。

「キミが寝かせてくれたらね」

ああ、もう。どうしてあなたは。いつだって私の心を夢中にさせてしまうんですか。私の心はずっとずっと、あなたに囚われたまま。
動かない時間の中に閉じ込められて、動き出したとしてもその瞳から逃れられない。どうしたって、私はあなたを好きになる。

「努力します」

何を、だよ。と自分でツッコミを入れて彼女の腕を引いて立ち上がる。全身は砂にまみれていて、私もシャワーが浴びたかった。
先ほどまでのとっ散らかった思考は、収束し始めたとはいえ完全には落ち着いてはいないらしい。
情けないというか子どもというか、ずっと私はこの人の掌の上というか……

それでも、もう良い。
487 :sunset :2014/08/28(木) 00:51
 
せっかくのハワイの夕陽を、写真に1枚も収められなかったけれど、私はもっと、もっと良いものを見られた気がした。
そしてこれからも、もっと良い景色が見られる気がします。
道重さん。そう信じて、良いですか?

私の問いかけは言葉にならなかったけれど、あなたはそれに応えるように、しっかりと手を握り返してくれた。


陽が沈み、夜が始まる。
きっと明日は、素敵な朝陽が昇る。そう確信しながら、私たちはホテルへと歩いた。
488 :雪月花 :2014/08/28(木) 00:53
以上になります
毎度お馴染み勢いで書き殴ったものなので抜けが多々ありますがご容赦ください
このあとホテルの部屋で熱い夜を過ごしたお話は皆様の心の中で描いて下さいm(__)m

ではまた!
489 :名無飼育さん :2014/08/30(土) 01:39
ハワイのさゆりほ素晴らしいです!
終始ニヤニヤがとまりませんでした・・・
熱い夜もこっそり期待してますねw
490 :名無飼育さん :2014/08/30(土) 13:47
キタ━━━━从*・ 。.・)リ`ー`*リレ━━━━ッ!!
ワンダフル!
同じくニヤニヤがとまらないです
491 :雪月花 :2014/08/31(日) 22:41
道重さんの卒業まであと86日…段々と実感がわいてきて切ない雪月花です。
ラストステージ横浜アリーナ、平日だけど何とか都合つけたいです

>>489 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
きっとこういう事はないと思いますがw一生の思い出に残るハワイだったら良いなと思います…
こっそり……がんばりますw


>>490 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
ニヤニヤしていただけたようで良かったですw
さゆりほはイチオシなのでいろいろ投下できたらと思います。


今回も道重さんと鞘師さんの話です。ちょいとアンリアル気味です。
492 :浴衣と花火とりんご飴 :2014/08/31(日) 22:45
月夜。夏風。屋台。喧騒。
夏の匂い。これがお祭り。私の好きな夏の風景。

「迷っちゃうねー、こんだけあると」

ずらりと並んだ夜店に目移りしながら、私と道重さんは並んで歩く。からんころんと下駄の音が小気味よい。
花火大会に合わせて開かれた、町内会主催の小さなお祭り。私は道重さんと二人して浴衣を着た。
白地に牡丹の花が咲き誇る鮮やかな色合いの浴衣は彼女によく似合う。
それは道重さんのお母さんが昔着ていたものらしい。
「ちょっと古くないかな?」ってはにかみながら聞かれたから、私はぶんぶんと強く首を振った。
道重さんは長い髪を後ろで結わいてアップにし、白いうなじがくっきりと夜に浮かぶ。
その姿は、綺麗で美しくて高貴で、どうしようもなく、愛しい。
「牡丹」の花言葉、さっきちらっとケータイで調べたら「王者の風格」とか「高貴」とかそういうものらしい。
まさに道重さんにぴったりだって私は思う。
493 :浴衣と花火とりんご飴 :2014/08/31(日) 22:45
「花火、何時からだっけ?」
「えっと、7時だから、あと30分くらいですね」
「そっかもうすぐだね。今からじゃ場所取りするの、難しいかな」

人が段々と増えていく。すれ違う時に肩が触れ合うどころか、背後から押されるような感覚さえ覚える。
去年買った紺地に朝顔の咲く私の浴衣も、誰かに押された衝撃で微かに乱れていた。
此処で帯が緩んだら対処しようがない。道重さんとはぐれないようにしながら、簡単に整えていく。

「りほりほ、可愛いね」

襟を直すのに夢中になり、彼女の言葉を一瞬理解しそこねた。前を歩く彼女が振り返って真っ直ぐに私を見つめるから、その意図を漸く把握して一気に顔が熱くなる。
ぶんぶんとまた強く首を振り、「道重さんの方が…!」と声を絞り出す。震えたそれを彼女は受け取り、また「ありがとう」と微笑む。
からんと鳴る下駄の音。少し遠くなる彼女の背中を追いかける。と、斜め前の屋台に目が留まり「あ」と声を出す。

「買う?」
「いい、ですか?」
「だって、欲しいんでしょ?」

彼女はそうして最後尾に並んだ。私も慌てて隣に並ぶと、途端「好きじゃないんでしょ?」と苦笑交じりに言われて大きく頷く。今日初めての肯定に彼女は口許を抑えて笑う。
今までのような微笑みじゃなくて、お腹から笑っているって感じがした。
道重さんの大人びた表情も好きだけど、私はこうやって、顔をくしゃって崩して笑う彼女が、もっと好き。
494 :浴衣と花火とりんご飴 :2014/08/31(日) 22:47
「変わってるよねー。好きじゃないのに買うって」
「勝負…ですから」
「何の勝負なのよそれ」

あっという間に順番が来て、1個、「りんご飴」を買った。
そもそも私はりんごという果物自体が得意ではない。その理由は何だか上品な奥様っぽいから。「オホホ」って感じで苦手です。
初めて道重さんにそう力説した時は、ものすごく不審な顔で首を傾げられた。分かってくれないらしい。なぜだろう?
でも、そんな私はりんご飴はいつも買う。
これは勝負なのだ。
食べきれたら私の勝ち、残したら負け。食べきっても美味しいと思ったら負け。
これも道重さんに力説したけど、今度は本気で心配された。私が変なことは分かっているけど、曲げられない信念というやつです。頑固なんだ、たぶん。

「おっきいね、それ」

買ったりんご飴を、二人して眺める。確かに大きい。だから幼少期に完食できなかった。
悔しかったんだと思う。食べることが好きで、いつも給食は残さなかった私が、こんな飴を全部食べ切れないなんて。
それがこの勝負の始まりだと私は思っている。
とにかく挑戦開始とばかりに私はあぐっと一口噛み付く。砂糖でコーティングされた部分が固い。が、勢いで砕く。じゃりっという音の後、甘さが口内に広がった。
まだ本丸には辿り着かない。牙城を突き崩すべく、もういちど大口を開ける。
495 :浴衣と花火とりんご飴 :2014/08/31(日) 22:48
「キミ、ホント真剣だね」

がりっと噛んだ後、道重さんを見上げる。口元に手を携えて目尻を下げる姿に、急に恥ずかしくなった。
良い大人――高校生だけど――が、険しい顔でりんご飴と格闘するその様はやっぱり情けないと思う。鼻先をポリポリ掻くと、頭上で何かが弾けた。
二人して天上を仰ぐと、光が集散し、遅れてどーん!と激しい音が追いかけてきた。
花火が始まった。歓声が上がり、見物客は一斉にカメラを構える。
人口密度が高まり、流されてしまう。

「大丈夫、ですか?」
「うん……わっ!」

道重さんは誰かに押されたのか、バランスを崩す。私は慌てて抱き留める。身長の少し高い彼女が、私の胸の中に収まる。
至近距離で彼女を見る。彼女の甘い香りが鼻腔を掠め、体が硬直した。
こんな風に、道重さんを傍で感じると、どうして良いかわからなくなる。
好きで、好きで好きで、「好き」以外の言葉を見失う。
自分のこの深い想いを、そんな二文字であっさりと言い切ってしまいたくないのに。もっとほかにもたくさんの言葉で伝えたいのに。
それでも私は、見失ってしまうんだ。
496 :浴衣と花火とりんご飴 :2014/08/31(日) 22:49
それは陳腐で、甘くて、危険で、切ない夏の感触。
私はほとんど反射的に彼女の手首を掴み、強引に引っ張った。
後ろで「どこ行くの?」と彼女の少し不安そうな声がしたが、振り返らずに「人混みを抜けましょう」と早口で返す。それが私の精一杯だった。
心臓が撥ねる。煽るように花火が散っていく。
夏風が背中を押して、私を何処か遠くへと誘っていく。手のひら、彼女の温もりが伝わって全身を駆け巡る。
まるで毒のように走るその名前を、人は恋と、呼ぶのだろうか。


-------

私たちが人混みを避けて辿り着いたのは、小さな神社の裏手だった。
右手には相変わらずりんご飴を持ったまま、左手は彼女の手首を掴んだまま。

「誰もいないね」
「…みたい、ですね」

穴場なのだろうか、人の気配はなく、空に広がる花火も十分に見ることができる。
名残惜しかったけれど、彼女の手を放し、お母さんから持たされた小さなブルーシートを敷いた。
役に立つかなあって半信半疑だったけれど、やっぱりお母さんは偉大だ。
「どうぞ」と道重さんを促すと、彼女は素直に腰を下ろした。私も少しのスペースを開けて座る。
497 :浴衣と花火とりんご飴 :2014/08/31(日) 22:49
夜空に大輪の花が咲く。咲いては散り、音が走っては消えていく。
ああ、夏だなあと目を細めながらまたりんご飴を齧る。夏の音。夏の匂い。夏の空気。一年に一度のこの季節。私は、好きだ。

「ね、一口ちょうだい?」

左に座った彼女が私の顔を覗き込んできた。飴は半分ほどにまで減っていたが、「ここ、口着けてないですから」と指差して彼女に渡す。
ありがと。と道重さんは受け取り、小さな口を開けた。
まず舌先でちろっと軽く砂糖を舐める。全体のコーティングを軽く溶かした後、口付けるように飴を齧った。その一連の仕草が官能的で、思わず息を呑む。
飴から口を放し、もぐもぐと噛む。味わって食べる彼女の横顔は、間違えて地上に降りてきてしまった天使のようにも見えた。

「はい、ありがと」

彼女から飴を返されて、挙動不審になりながらも受け取る。と、「あ、付いてるよ」とさらに言葉を重ねられた。
「へ?」と思わず顔を上げると、「ここ」と彼女は自らの口許を指した、かと思えばぐいっと体を乗り出してくる。
ああ―――そう思った瞬間、彼女の舌先が私の唇に付いていた砂糖を舐め取った。思わず目をつぶる。体が撥ねるのをこらえると、その温もりは一瞬で去っていった。

「りほりほ、りんご飴に夢中になりすぎ」

悪戯っぽく笑う彼女の顔は、もう見れない。絶対に私は真っ赤になっているし、心臓は飛び出しそうだし、恥ずかしいし、好きだし、どうしようもない。
やられっぱなしだ、最初から。牡丹の花に魅せられて、白いうなじに酔いしれて。こんな素敵な人の隣にいれることは奇蹟だ。
そう、牡丹の花言葉のようにあなたは高貴で、そしてシアワセが最も似合う人。
498 :浴衣と花火とりんご飴 :2014/08/31(日) 22:50
「道重さんも、付いてますよ…」
「そう?じゃあ、取ってくれる?」

牡丹の花が、誘う。朝顔に留まっていた蝶は、その蜜を求めて翅を広げる。彼女の手を改めて握り直し、口付けた。

「んっ……」

抜けるような吐息。りんご飴の比じゃない甘さ。ピンク色の綺麗な唇を角度を変えて何度か吸うように啄む。

「ふっ…ん、あっ…」

触れるだけのはずだったのに、いつの間にか舌が絡んでいて、いよいよ止められなくなる。
花火が夏を主張する。右手に持ったりんご飴は、あと3分の1ほどまで減っているけれど、今日はこの勝負、負けるだろうなとぼんやり思った。

「りほりほ……」

呼吸のはざまで聞こえた彼女の声は、花火の音にかき消される。私はそれでも「道重さん……」とその名を呼び、もう一度口付けた。
花火が背中で弾ける。舌と唾液の音が脳内に響く。手にしたりんご飴を、落とす。彼女を両腕で抱き締めると、彼女もまた、両腕で抱き返してくれた。
499 :浴衣と花火とりんご飴 :2014/08/31(日) 22:50
道重さんの声。道重さんの匂い。道重さんの体温。
私を掴んで離さない、一生の思い出をくれる一瞬の奇蹟。

二文字で表せないこの想いが、どうかあなたにも奇蹟を起こすように祈りながら、あなたの身体にそっと触れた。

「あっ……」

甘い声が溶けていく。雰囲気を壊すように、天上で花火は強く明るく打ち上がる。
夏の夜を感じながら、私たちは静かに深まっていった。
500 :雪月花 :2014/08/31(日) 22:52
以上になります
このまま夜に流れ込んだお話は皆様の心の中で…w
そういう夜のお話も、いつかちゃんと形にできたらと思います

ではまた!
501 :名無飼育さん :2014/09/01(月) 16:35
機微や場景の描写がいつも素敵です
さゆりほ好きにはたまらないです!
夜のお話も楽しみにしてますw
502 :名無飼育さん :2014/09/01(月) 20:37
情景どころか甘さまで伝わってくるような感覚
思わずなんども読み返してしまいました
素敵な夏祭りをありがとうございます!
503 :雪月花 :2014/09/15(月) 23:26
道重さんの卒業まであと71日…やっぱり寂しい雪月花です。
今週末からいよいよ道重さんラスト秋ツアー始まりますね…

>>501 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
お褒めの言葉、光栄です。勿体なさすぎます…m(__)m
夜の話もネタはありますので、いつか公開できれば、と思っています……がんばります!w


>>502 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
甘さたっぷりでお送りしておりますw 何度も読み返していただけて…本当に嬉しいです。
末永く愛してくださいますと幸いです。改めてありがとうございますm(__)m


今回も道重さんと鞘師さんの話です。
>>477-487「sunset」のつづきのようなものです
504 :sunrise :2014/09/15(月) 23:27
ベッドが揺れる感覚で目を覚ました。
といっても、まだ瞼はかなり重い。揺れる視界は、彼女の背中を微かに捉えていた。
同時に、何かが開閉する音を耳が知る。何してるんだろ?とぼやけた世界を擦ると、漸く、彼女が冷蔵庫を開けたていることに気付いた。
ペットボトルを手にしていることから、水を飲みに行ったんだろうと理解する。

段々と視界が開けてきた。
ベッド脇のアラーム時計はまだ明け方を指していて、起きるには早すぎるよと笑っている。
良かった。これが集合の1時間前なら、とっくにベッドから跳ね起きている。
覚醒していくと同時に、腰の痺れを感じた。その感覚が、昨日の情事を否応なしに思い起こさせる。
身体を重ねた回数なんて、もう覚えていない。だけど、彼女が求めるがまま、私も貪るがまま、何度も何度もお互いに達した気がする。
節操もなく脚を広げて、淫らに胸を揺らして、はしたない声を上げて……思い出すと全身がまた熱を帯びていくから強引に思考を閉じる。

「っ―――」

あまりにも喉が渇いていた。寝起きだからか、叫びすぎたせいかはもう分からない。
とにかくキミが飲んでいるその水、私も欲しい。
そうして求めたかったけれど、声に出すのは叶わなかった。からからの空洞じゃ何も伝えられないよ……
もういちど挑戦することは億劫で、諦めるように私はぐるんと寝返りを打った。
505 :sunrise :2014/09/15(月) 23:27

カーテンの隙間から光が漏れてくる。もうすぐ日の出だ。
不意に、眠気の波に襲われる。浚われるようにとろんと瞼が落ちそうになると、ベッドが再び揺れた。
彼女が戻ってきたらしい。「おかえり」なんて口には出せないけど、何だかとてもうれしくなった。ふふ、こんなちっちゃなことなのにね。
キミが傍に居てくれる事実が素敵。些細なことに揺れる自分が、情けなくもあるし、優しくも感じる。

そんなことを思っていると、痺れた私の腰、あるいはお腹のあたりに確かな温もりを感じた。
ぎゅうと抱き着かれていることに気付いたのは直後のことで、それと同時に素朴な疑問が浮かぶ。

何で?って。

さゆみ、抱き枕じゃないよ?抱き枕はこの前……もう1年前になるけど、バスツアーの時に企画したよ?
キミも欲しいの?あげなかったっけ?でもふくちゃんの抱き枕欲しいんでしょ?質感とかばっちり再現したやつ。研究したいとかいってなかったっけ。
だからさゆみのいらないでしょ?てかなに、寝ぼけてる?

「さむい?」

数々の疑問を伏せて、枯れかけの声でそう呟く。あ、声が出たって今更ながら気付いてなんだかおかしくなった。さゆみよく分かんないなあ…
すると、彼女が首を振る気配がした。長い髪が背中に当たる。ふふ、ちょっとちくちくするよ、りほりほ。
506 :sunrise :2014/09/15(月) 23:28
「そっちむいちゃ、やだぁ…」

甘ったるくて音程もガタガタに乱れた彼女の声が聞こえて、私の心臓は撥ねた。
なんて愛らしいなのだろうと思う。やっぱり、寝ぼけているのだと思う。
同時に、甘えているんだって解釈する。さゆみにしか見せない、甘えん坊なりほりほ。そう解釈したいよ。ねぇ、りほりほ、それでイイ?

「どうしたの…?」

さゆみがまたのっそりと彼女の方に向き直る。おでこ同士をコツンと当てると、彼女は小さな瞳をさらに細めて満足そうに微笑む。
そういえばさっきまで、こうして向かい合って寝てたね。寂しかった、のかな?

「こっちのほうが……」
「んー?」
「おちつきます…」

彼女はそうしてまた夢の中に泳いでいこうとしていた。
ホント子どもみたい、キミはいつだって、私の目を逸らさせれくれない。
大人びた表情をしたかと思えば子どものように頼りなくなる。キミは不思議。
16歳。高校生。どんどん綺麗になっていく。
目が離せなくて、どうやって「大人」になっていくのか、分からなくて楽しみ。
507 :sunrise :2014/09/15(月) 23:28
「ねぇ、りほりほ……」

このまま彼女を寝かせたい気持ちの方が大きかった。だけど、胸の内から湧き上がる感情が抑えられない。
だから、気がつけば私は、彼女を呼んでいた。大切なキミの名前を呼んで、同じ時間を同じ空間で共有したかった。

「太陽、見ない?」
「うん……?」

甘ったるい声。歳相応の16歳の女の子の声。
好き。大好き。前髪を撫でてやると「んふ」って笑う。可愛すぎる。好きよ、りほりほ。大好きよ。

「昇るよ、朝陽」

ねぇ、りほりほ、ちょっとだけ起きよう?せっかく夕陽も見たんだからさ。さゆみと一緒に、ハワイの朝陽、見よう?

そうして震える腕を伸ばし、生まれたての小鹿みたいに必死に起き上がる。
起きるって言っても腰はまだ動かないから、上体だけ。それから重苦しい下半身を引きずってベッドの縁に座った。
何も身に着けてないのが恥ずかしいから、シーツを引き寄せて肩に羽織る。
508 :sunrise :2014/09/15(月) 23:28
対するりほりほは「んんぅ…」って身体を丸めたけど、5秒経って意を決したように顔を上げる。
そして、そりゃあもうフラフラになりながらベッドから降り、カーテンまで歩いた。
まだ夢の中にいるせいか、羞恥心がそもそもないのか、身を覆うものがないことなどまるで気にしていないようだ。
お風呂場から裸んぼでぱーって出ていったことがあるって聞いたことあるけど、変わってないなあ。

黒髪と真っ白な躯体。あまりに綺麗なコントラストに目を奪われる。
長い手足が羨ましい。童顔だってキミは言うけど、それも魅力の一つ。
ああ、ホントに好きなんだなあって改めて思うとカーテンが開く。
窓に切り取られた海と、射し込んで来る東の太陽。世界を照らす変わりない光に、思わず息を呑んだ。

「すごい……」

りほりほの口から零れたその言葉は、意識が半分落ちていたかもしれないけれど、その色から、きっと嘘じゃないって思った。
509 :sunrise :2014/09/15(月) 23:29
彼女は私の隣に腰を下ろし、さも当然のように指を絡めてきた。その右手を握り返す。
相当眠いのか、体温が高い。その熱は昨日の情事を思い起こさせるけど、口にはしない。
真っ直ぐに射抜く朝の光は、迷いなんてなかった。
一定の時間が来れば沈み、そしてまた昇ってくる。絶えることなく繰り返される約束は、世界の希望だ。

「よかった……」
「うん?」
「みっしげさんと、ちゃぁんとみれて…」

左肩に頭を乗せた彼女の声は微かに震えていた。それは単に眠いせいだろうか。
疑問を疑問のまま、応えないでいることも大人だけど。それ以前に私は、この子の恋人でありたかった。
大切な、たったひとりの、想い人。

「また、一緒に行くって言ったじゃん」

彼女は首を擡げることなく視線だけこちらに向ける。上目遣い、ずるいなぁ。
大体キミは私を弄びすぎ。分かってやってるんでしょ?計算でしょ?分かってるんだからね。
510 :sunrise :2014/09/15(月) 23:29
「連れてってくれるんでしょ?」

うん、分かってるんだけどなあ。やっぱり9歳も年下にさゆみ、やられちゃうんだよなぁ。

「宇宙さえ、超えてみせますよ」

突然に降りてくる凛とした呟き。何年も前から、私の心を掴んで離さない。
さっきのさっきまで眠たくて子どもじみた声だったのに、何でこういう瞬間だけ大人になるかなぁ…

前は、若ければ若いほど良いって思ってたのに。今は、キミが大人になるのが楽しくて仕方ない。
キミとともに歳を重ねていける事実が、シアワセで堪らない。
子どもで大人。大人で子ども。
キミはキミ。鞘師里保というかけがえのない存在。いつだって私を夢中にさせる、尊い特別な宝物。

「時空も、超える?」
「……みっしげさんとなら、超えられますよ」
511 :sunrise :2014/09/15(月) 23:30
「いくらりほりほとさゆみでも、それはムリだよぉ」

そうですかね?と囁く声は、また子どもに戻っていた。
それでも瞳は太陽を見る。卒業の瞬間を、まだ来るなと願うように、時間の流れに逆らうように睨むのだろうか。

本当に彼女は、時間を超えてしまいそうで。そんな事ないと分かっていても、さゆみでさえも、それを願う。
この一瞬の空気を留めておきたいと祈りを込めて、さゆみはりほりほに口付けた。

それが合図のように彼女も舌を返し、ベッドに落ちる。
朝陽に見守られながら、私たちはまた、夏へと還っていく。
512 :雪月花 :2014/09/15(月) 23:31
以上になります
もはや寸止めがデフォになりつつありますがいつか…w
夏は終わりもうすぐ秋ですね。

ではまた!
513 :名無飼育さん :2014/09/16(火) 19:32
無性にトキソラ聴きたくなってきた!
寸止めでもそんな2人の雰囲気もまた好きです
514 :ななし :2014/09/17(水) 12:44
さゆりほ3作続いていて嬉しいです!
さゆに恋い焦がれる鞘師視点も、
鞘師を慈しむさゆ視点もどちらもたまりません。
次も楽しみにしてます。
515 :雪月花 :2014/11/04(火) 23:55
道重さん卒業まで残り21日…「さゆロス」になりそうな雪月花です
残り少ない時間、彼女が捧げた青春のすべてを、しっかりと見届けたいです

>>513 名無し飼育さんサマ
コメントありがとうございます!あのハワイを経て、トキソラがよりに好きになったと道重さんも仰っていましたが自分もそんな感じです。
出逢うべくして出逢ったメンバーに感謝しつつ、切なさも全部受け止めていこうと思います。
ひたすら寸止めですがいつかは…w


>>514 ななしサマ
コメントありがとうございます!ハロステなり山口広島公演でのチューなり、さゆりほが最近熱いです…w
事実は小説より奇なりですが…ちょっと凄すぎて嬉しい悲鳴ですw
出来る限り色々書き散らして行こうと思います、ありがとうございます。


今回は、ひとまずおしまい、と言いましたが、
>>355-379,395,380-392「想いの名前」
>>401-411「声にできない」>>447-472「ラブソング」と同一軸で譜久村さんと石田さんのお話です。
516 :騎士の恋 :2014/11/04(火) 23:56
「お風呂いただきましたー」

明日のコンサートに向けて、一足先に現地入りしたメンバーは、いつものようにホテルに向かい、あみだくじで決められた部屋に入った。
石田亜佑美は、同い年の先輩である譜久村聖と同じ部屋になり、彼女のあとにシャワーを浴びた。
何の変わりもない、いつもと同じ光景。
タオルで髪を撫でながら部屋に戻ると、聖は部屋着を纏い、ベッドの上で寛いでいた。
手に持った明日の資料は、何度も確認した証のようにくしゃくしゃになっている。
それは、確認しないと気が済まないと常にプロ意識を有している8代目リーダーの姿と、少し、かぶった。

「ん。おかえりー」

聖は亜佑美の声にぐっと力を込めて体を起こし、書類を丁寧にファイルに入れて鞄にしまった。
こういう几帳面な先輩の姿は、同期にも見習ってほしいなと思いながら亜佑美はケータイを確認した。
マネージャーから、明日の集合時間の確認メールが届いていた。
「ロビーに7時、了解しました」と返信を打ち、再び充電器に射し込む。

ちらりと聖に目をやると、彼女はまたベッドに寝そべり、ケータイを操作している。
ブログを書いているのか、それともメールをしているのかは定かではない。
それにしても譜久村さんって、ホントに色っぽいなぁと感じる。
これで同い年かぁ…ため息をつきながらタオルを干しに脱衣場へと戻った。
517 :騎士の恋 :2014/11/04(火) 23:56
 
同い年。だけど先輩。
亜佑美と同じ18歳は、自分とは比べ物にならないほどの重圧を抱えている。
もうすぐ此処を去ってしまうリーダーから受け継ぐ、あまりにも大きな襷。
それを全部彼女に押し付けるつもりはないけど、現状、いちばん上に立つことになる聖が、その重みを最も理解しているはず。

同い年なのに。
私はまだ、此処で立ち止まってしまう。
自分自身、自覚はしているし、考え方も随分と変わってきたと思う。
新しい後輩、新しい仲間が増えて、立ち位置を理解して、目指すべきものへがむしゃらに突っ走っていく決意も覚悟もある。

だけど、何かが心に引っ掛かったままでいるのは、きっと、同じ景色を見たいからなんだ。
目に見えない壁や距離を携えながらも、聖の抱えるものを、ほんの少しでも分かち合いたい。
そのために自分に何ができるのか、亜佑美にはまだ分からない。
鍵はもうその掌の中にあるのに、開けるための術もあるのに、鍵穴を回すだけの勇気がない。
518 :騎士の恋 :2014/11/04(火) 23:57
亜佑美は自分を鼓舞するようにぱん!と頬を両手で叩く。
微かに紅く染まったそれを鏡で確認し、再び脱衣場をあとにした。
悶々と思考が巡り、頭痛がする。
もっとシンプルで良いのかもしれないけれど、そういうのは自分には得意じゃない。
不器用というか、物事を複雑にしてしまう、悪い癖。
でも、自分にできることってなんだろう……

ふとベッドの上を見ると、聖は上体を起こし、脚を崩して座っていた。
ケータイは脇に置かれ、その手は目元を拭っていた。
微かに指先に零れた雫を認めた瞬間、亜佑美の胸がぎゅうっと締め付けられるのを感じた。


―――「ありがとね、あゆみちゃん」


あの時に見た光景が頭をよぎる。
柔らかくて、琴線に触れ、亜佑美の心を掻き乱した聖の笑顔。
その涙が、誰のためか、何のためかも分からなかった。
分からなかったけど。分からなかったからこそ。

「譜久村さんっ……」

純潔の花を摘むつもりなんてなかった。
その美しさを自分だけのものにするつもりも、箱の中に閉じ込める気もなかった。
ただ、もう二度と、あなたに哀しみを降らせたくなかった。
519 :騎士の恋 :2014/11/04(火) 23:57
気付けば亜佑美は聖へと駆け寄り、その身体を強く抱きしめていた。

「っ…あゆみ、ちゃん?」

聖の声が撥ねた。
なぜ彼女がこんな行動をしたのか分からないのか、その色も透明で、ひどく困惑している。
それを知りながらも、亜佑美は亜佑美で眉を顰めていた。
なぜ自分は、こんな行動をしたのだろう。
一歩立ち止まるとか、一瞬躊躇するとか、そんな当然のことができなかった。

「なんでっ…泣くんですか?」
「え……?」
「もう、泣かないで下さい……私がっ…私が、居ますから」

そして滑り出た言葉は、何とも強引で無茶苦茶なものだった。
こんな話をするなんて自分の予定にはなかったし、言われた方だって困るのは重々分かっている。
それでも、刹那に溢れた想いに嘘はなかった。

「生田さんや…鞘師さんの代わりにはなれないかもしれませんけど……」
「え、待って、なに…?」
「私じゃ、ダメですか?」
「ダメって……え?」

聖の顎が肩に乗り、ぱくぱくと動く。
困惑の色はさらに濃くなっていくが、亜佑美はこの腕を解放できない。
もしこのまま離してしまえば、もう二度と、壁を超えられない気がしたんだ。
520 :騎士の恋 :2014/11/04(火) 23:58
いつも助けてもらってばかりだったから。
加入がたったの数ヶ月早いだけで、もともとは同い年なのに。
先輩後輩という関係を否定するつもりはない。
そうじゃなくて、同い年だからこそ、対等に分かり合いたかった。

先輩が、譜久村さんが、困ったときには助けたかった。
道重さんが卒業したあと、すべてを背負い込んでしまわないように。まぎれもない、たった一人のあなたのために。

「好きです……譜久村さん―――」

私はまだ、答えを見つけられない。
自分にできること。譜久村さんと同じ目線に辿り着くためにできることが、まだ分からない。
その痛みの中で、それでも揺るぎなく佇んでいるのは、彼女への、どうしようもない深愛。
言葉をあれこれ探すよりも、先に心が動いていたのは間違いなかった。いつから、とか、きっかけは覚えていないけれど。

それは心の奥で芽生えた小さな花。
確かに色付いたその名前を、私はきっと、見つけているんだ。
だけどそれを口に出すのを躊躇っていただけ。
怖かったのか。自信がなかったのか。それとも……
521 :騎士の恋 :2014/11/04(火) 23:58
「私じゃ、ダメですか?」

たぶん私は、譜久村さんの“騎士”になりたかったんだ。
王子でも、幼馴染でも、親友でも、憧れの対象でもなく。
ただ、あなたが泣いているときに黙って傍に居るナイトに。
だから私は、もう一度、改めて口にする。私の中に生まれた想いを、確認するように。
譜久村さんは声を震わせながらも、私の腕をぎゅっとつかんだ。その温もりが柔らかくて心地好い。

「あの……ダメって、どういうことかな?」
「えっと……つまり、ですね。私が、あのっ……」

そこで亜佑美は気付いていた。
あまりの計画性のなさと、勢いに任せた自らの軽率さと、これからどんな選択をするのが正解か、全く分かっていないことを。

ど、どうしよう…と、頭の中で再び思考が巡る。
この状況。「好き」と想いを叫んでしまったこの後、どう繕うのも間違っている気がして……
結果的に何をしても、聖を傷つけてしまうような気がして……
頭の中は真っ白になってしまい、言葉さえも、見失う。
それでも、それでも、それでも此処に残ったのは―――

「譜久村さんが、好きです……」

たったひとつの、淡い色だけだった。
522 :騎士の恋 :2014/11/04(火) 23:59
「あゆみちゃん……あのー……」
「あ、ご、ごめんなさい!こ、困らせてることは、分かってます!」
「えっと、うん、そうじゃなくてね……あのー…聖ね、泣いてないからね?」

はい。そうです、ごめんなさい。

………うん?

泣いて、ない?

「いや、前にあゆみちゃんに見つかった時は泣いてたけど、さっきの…あくびだからね?」

あく、び……?
あくびですか。ああ、泣いていたわけじゃなかったんですか。哀しかったわけじゃないんですか。
ちょ、ちょっと待ってください譜久村さん。
それって、それって勘違いとかいうやつですか。
それは…あれですね、恥ずかしいですね。

「それとね、あゆみちゃん」

良いんです譜久村さん…
とてもご迷惑をおかけしたことは重々理解致しました。
たとえ気持ちに偽りがないとはいえ、結構ひどいことをやらかしましたね、石田亜佑美。
523 :騎士の恋 :2014/11/04(火) 23:59
そうしてぐんぐんと凹んでいき、腕の力が緩む私をよそに、譜久村さんはその腕をぎゅうっと掴み、一気に引っ張った。
突然のことに「わわっ」と声が上ずり、亜佑美と聖はほぼ同時にベッドに落ちていった。

ぼふっという感触のあと、鼻先が触れるほどに近づいたふたりの距離に、亜佑美は目を丸くした。
厳然と佇んでいた壁をあっさりと乗り越えてしまい、気付けばもう、一気に甘い空気の中へ溶け込んでいた。

「誰かの代わり、なんて、言わないで」

明るい髪が聖の顔へとかかる。
そんな髪をかき分け、まるでカーテンを開けるように、聖は左手をそうっと伸ばし、亜佑美の頬に触れた。
その微笑みが、あまりにも美しくて、眩暈を感じる。
左右非対称な瞳に捉えられ、心臓が跳ねる。

「聖は、あゆみちゃんには、そのままのあゆみちゃんで居てほしいよ…?」

その瞳に微かに浮かんだ雫を、亜佑美は指摘することはなかった。
透明な雫の先に見えたその色は、自分の深淵を深く彩っている気がして。確証はなくとも、そうじゃないかと信じたくなるほどの空気の匂いを感じる。
きっと私の瞳も目まぐるしく色を変えていて、譜久村さんになんて思われているのかはわからない。
紅潮する頬と、ほんの少しの期待を携えて緩む口許を堪えながら「譜久村さん…」とその名を呼ぶ。
それは自らを鼓舞するためで、それ以上の深い意味はなかった。
524 :騎士の恋 :2014/11/05(水) 00:00
 
「こんな聖を、好きで居てくれて、ありがとうね」

こんなってなんですか。
そう口にするほどの勇気はなく、私は潤んだ瞳をぐいっと拭う。
それでも零れ落ちた雫は譜久村さんの頬に落ちて、彼女は優しく笑った。

「譜久村さんっ……好きです」
「……ありがとう、あゆみちゃん」

それ以上に、彼女は何も云わなかった。
いっそ拒絶してくれたら楽だったのに、彼女はそれをせず、だけど需要もしなかった。
曖昧で優柔不断で、ともすれば身勝手な聖の答えを、それでも亜佑美は受け入れた。
それが、ナイトであろうとした自分の宿命だと、分かっていた。

だから、口付けをしたい想いを堪え、そっと額を彼女に合わせた。
こつんという軽い音が部屋に響き、聖は擽ったそうに身を捩った。
525 :騎士の恋 :2014/11/05(水) 00:01
このまま泣いてしまいたい。彼女に抱き着いてすべてを受け止めてほしい。
そんな想いを全部しまいこんだ亜佑美はひとつ息を吐き、

「この状況、どうしたら良いと思いますか?」

そう、ナイトらしからぬ情けない道化を演じることに徹し、そして少しだけ寂しそうに、だけど何処か誇らしく、微笑んだ。

「んー……ふふ…もうちょっと、このままで、いいんじゃないかな?」

聖はそうして柔らかく微笑んだ。
亜佑美はその穏やかな表情に、心が落ち着いていくのを感じながら、「はい」と頷いた。



まだ、埋められないその距離。
その鍵は確かに、彼女の掌の中―――
526 :雪月花 :2014/11/05(水) 00:03
以上になります。
あゆみずきってホントに難しいです…
道重さん卒業までにもう1本くらい書きたいです

ではまた!
527 :雪月花 :2014/11/30(日) 21:38
道重さんの4329日を見届けました雪月花です。
後輩たちに見せたかった景色、後輩たちが見せてくれた景色、素晴らしかったです。
言いたいことはたくさんありますが、ひとまず、道重さん、卒業おめでとうございます!


今回は卒業までに間に合いませんでしたが道重さんと鞘師さんのそういうお話です
表現が露骨かもしれませんので苦手な方はスルーお願い致します
528 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:39
 
想いを交わしたあの日、私たちは唇で愛を紡いだ。
だけど、それ以上の事はできなくて、それがあの時の私たちの精一杯だった。

刻一刻と迫る「卒業」の日。
私は彼女にまだ、何も返せていない。
それだけに私は、焦っていた―――
529 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:40
 
-------

地方公演を次の日に控え、メンバーは一足先に現地入りしていた。
新聞の取材や撮影、もちろん明日のコンサートのレッスンも行ない、ホテルに戻ったのは夜の20時を過ぎていた。

「じゃあ明日はロビーに7時集合で」

マネージャーの一言のあと、解散になった。
メンバーはケータイを見たり、たわいない雑談を交わしながらそれぞれの部屋へと行く。
バスの中で部屋割りを聞かされた鞘師里保は、思わず上擦った声を出しそうになった。

「鞘師、先にお風呂入りなよ」
「いやっ、道重さんお先に…」
「だって鞘師、待ってる間に寝そうじゃん」

部屋の鍵を回しながら、同室だと聞かされた彼女に声をかけられ、動揺が前に出る。
彼女―――道重さゆみは、基本的には一人部屋になることが多く、こうして他のメンバーと同室になるのは珍しい。
あの日だって、そう、さゆみに想いを告げた夜も、彼女は一人部屋だった。
こうして同じ空間に入るのも、あの日以来なのだ。
530 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:40
「いや、ここは道重さんが!」と荷物を開き、お泊まりセットを準備していると、「良いの?」とさゆみの澄んだ声が響く。
照明がさほど明るくない部屋に落ちた声は、想像以上に艶っぽく、里保の想いを加速させる。

「だい、じょうぶです。お先に、どうぞ」

対して里保は、ずいぶんと間抜けな声を上げた。
おそらく表情も、呼応するように情けなくなっているのだと思う。
さゆみが「ごめんね」と着替えを手にして脱衣場に消えていくのを確認し、里保は荒っぽく髪をかき上げた。

ベッドに腰掛け、息を吐く。
緊張しているのは分かっていた。こういう胸の高鳴りは、凱旋公演のそれとは少し違っている。
この鼓動の音は、やっぱり想いを告げた夜のそれと同じだ。
身勝手で、幼い想いをぶつけて、一瞬、すべてが砕け散ってしまいそうになった、山口の夜。
カーテンの隙間から見えた100万ドルの夜景には程遠い光景が、里保の瞳にはまだ残っている。

あれからもう半年以上経っている。
春ツアーの後半戦。さゆみにとって大事な凱旋公演のその日から、始まってしまったカウントダウン。
彼女も、里保も、メンバーも、スタッフも、だれもが11月26日に向けて走り出していた。
531 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:41
あと半年もあると思っていた。
その間に、さゆみは、たくさんの最後を経験して、里保はたくさんの初めてを経験した。
最後の歌番組の出演。初めてのキス。
最後の撮影。初めてのふたりだけの食事。
最後のイベント。初めてのデート。

そして、残された時間は僅かしかない。
最後と初めてが入り混じる中、それぞれの「ラスト」が近づいていることは分かっていた。

きっと、11月26日までに、すべてが、閉じる。
それは、この関係が終わるという意味ではなくて、ひとつのストーリーの終焉。
彼女はいつものように深く頭を下げて、あの光輝くステージから降りていく。
これから先、さゆみと里保の物語は確かに紡がれるけれど、これまで通り、とはいかなくなる。

形を変えていくその瞬間に、私がどういられるか。
これまでたくさんの愛をくれた道重さんに、一体何を返せるか。
私はひたすら、焦っていた。
532 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:42
「鞘師ー」

ふと、さゆみの声がした。
里保は素っ頓狂な声を上げて振り返ると、前髪から雫を垂らした彼女が立っている。
普段は真っ白い肌が紅潮し、「お風呂入りな」と軽く促してくれる。
もうシャワーを浴びたのだろうかと時計を見ると、しっかりと長針が半分ほど走っていた。

思考の沼に入り込むといつもこうだ。
里保はこくこくと壊れた人形のように頷いて立ち上がった。
否応なしに水滴と蒸気を纏った彼女が目に入り、性懲りもなく胸が痛んだ。
微かに軋んだ音を立てる心に耳を塞ぎ、準備してあったタオルと下着、そしてジャージを持って足早に脱衣所に向かい、ドアを閉める。
一面に立ち込める湯気にひとつため息をつき、不自然すぎる自分の動作を呪った。

「……だいじょうぶじゃない」

冷静ではいられない。平常心でもいられない。
それにしたってもう少しどうにかできないのだろうかと里保は頭を抱える。
焦っているのは分かっていた。

キス、食事、デート。
ほんの少しの空き時間のたわいないおしゃべり、移動中に手を繋ぐ、夜中にメールをする。
それは普通の恋人同士がするものと同じ。
533 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:42
だけど、そこからもう一歩が、踏み出せない。


―――「この先は、また今度ね」


そう云われて、半年が経とうとしている。
時間だけが過ぎていく中で、その繋がりを得られていないことが、里保は怖かった。
魅力がないからか、自分がまだ16歳だからか、それとも、さゆみはやはり自分には興味がないのか。
どうせ道重さんが好きなのは、幼かったときの自分なんだとネガティブな思考を堪えながら服を脱ぎ捨てた。
足元からひんやりと冷気がせり上がる中、シャワーを捻る。

頭から熱いお湯をかぶり、冷静になれと言い聞かせる。
さゆみが卒業したら、物理的な距離ができることは分かっていた。
だからその前に、どうしても一歩近づきたい。
地方公演の前日、ふたりだけの空間。それは里保にとって願ってもないチャンスだった。
そして、このチャンスを逃せば、もう次があるかどうかの保証はない。

「がんばれ……がんばれ……」

ほんの僅かでもいい。
あの山口の夜で心に芽生えた勇気。
どうかもう一度だけ、此処に花を咲かせてほしいと祈りながら、里保は大きく深呼吸をした。
534 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:42
-------

髪を乾かして部屋に戻ると、さゆみはテレビを観ながら腰に手を当て、ぐいんと回していた。
明日に備えて、ストレッチは欠かさない。
さゆみももう歳だからね、なんて自虐するけど、そんなことはないと里保は思う。
確かにモーニング娘。'14の中では最年長だけど、社会で見れば、まだまだ若い。
きっと彼女は、11月26日にステージから降りた途端、とても幼くなるのだろう。
というか、元に戻るのかもしれない。
何の気も張らず、荷物を下ろした、等身大の25歳に。

「お風呂、いただきました」

その大きな背中に、里保は声を投げた。
さゆみは髪を靡かせて振り返り、「気持ち良かった?」と微笑みかけた。

ふと里保は、さゆみを送るためのあの曲を思い出した。
誰もが憧れたその姿。圧倒的な存在感を放つあなたは、いつだってその背中を私たちに向けていた。
挫けることも、逃げ出すこともせずに、真っ直ぐに未来を見据えたあなたの姿が、凛々しく、神々しく、美しかった。


―――背中でさよなら 見返り美人


さよならまでのカウントダウン。
視線の先に映る彼女の姿が滲んで見える。
カーテンの隙間から溢れた光は、あの日に見た山口の夜景を何処か思い出させた。
535 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:43
「道重さん」

それは尊い人の名前。麗しく可憐で、それでもただ傍に居たいと願う人の。

「うん?」

小首を傾げたさゆみに対し、里保はその両腕を広げ、ぎゅうっと抱き着いた。
柔らかい肌が押し返す感触と、此処にある確かな温もりにすべてを委ねる。

「鞘師……?」

シャンプーの香り、ボディーソープの香り、さゆみ自身の香り。
惑わすように甘く鼻先を擽るそれに理性が失われる。
さゆみの胸元に顔を当てている格好になり、慌てて距離を取らなくてはと思うのに、ほんの少しも体が動かない。
何の呪いをかけられたのか、里保は腕の力を強めてもう一度「道重さん」と名を呼んだ。

「………道重さんと、シたいです」

漸く絞り出した言葉に、世界が一瞬時を止めた。
さゆみはその意図を掴み切れずに息を呑み、里保は自らの声を呪って息を殺した。

そして同時にこう思う。


今、何て言った?
536 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:44
「………え?」

空気を震わせたさゆみの声に、里保は「あっ、あのっ!」と上擦った。
取り返しのつかないことをしたのではないかと頭が真っ白になる。
顔を上げて視線がぶつかる。お互いの瞳に、動揺した自らを映す。言葉の先、しっかりとした意味を付随させたいのに、喉が開かない。
唇だけが震える。それでもどうか届いてほしいと必死に動かす。

さゆみは里保をしっかりと捉える。
逃げられない。逃げたくない。逃がしたくない。
この一瞬を。この瞬間を。ふたりがともに居る、この奇蹟を。

「好き、ですっ……」

微かに開いた喉から声が漏れた。
もう何度も交わしてきたはずの言葉を、さゆみは真っ直ぐに受け止める。

「うちっ…もう、大人、ですから……だから、道重さんと、」

道重さんとそういうことがシたいです。
そう紡ごうとした矢先「焦ってない?」と柔らかく言葉を折られた。

「卒業まで時間ないからって、そんなに焦んないで。ね?」

見透かされていた。
そう、焦っていたのは事実。だけど、だけど、そうじゃない。
537 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:44
卒業までにとか、そんな気持ちも先ほどまでは確かに在ったけど、でも、今此処に在るのは、それとは違う。
里保は首を振り、「そうじゃないんです…」とつづけた。

「道重さんに、触れたいんです」

ぎゅっとパジャマを握る手に汗が滲む。
今度はさゆみも遮らずに、黙って里保の言葉を待った。

「もっと…深く。道重さんの……道重さんの、全部に触りたいんです」

愛されたいと願ってしまった。
愛したいと願ってしまった。
際限なく広がる恋の欲望に呑まれ、それでもなお、里保は求める。

根源にあるのは、「好き」というその想いだけ。

「……明日、コンサートだよ?」

さゆみはそうして、左手を里保の腰に回し、右手をそっと頬に添えた。
触れられた途端にぴくっと体が反応する。テレビの中では喧しくお笑い芸人が何かを捲し立てている。
538 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:44
「だいじょうぶ、です」

里保の答えは、揺らいでいなかった。
何処からそんな自信が湧き出るのだろう、先ほどまであんなに声を震わせていたのにとさゆみは目を細める。
頬の手を滑らせて前髪に触れ柔らかく撫でる。
どんな手入れをすれば、こんなに指通りが良い髪になるのだろう。

「傷付いても、怖くても…哀しくなっても……絶対に後悔しませんから」

それはあの日の夜の言葉。
山口で必死に紡がれた想いのカケラが、心に散りばめられて溶けていく。
形に残るように何かで繋ぎとめたいと願う子どもの感情を、さゆみは確かに受け止めた。

「さゆみ……うまくできないと思うよ」

黒曜石の瞳に、微かに赤い焔が見えた。
漆黒の闇に映えるそれに呑まれたのか、里保の脚は自然と後退する。
さゆみの左手が腰をなぞり、軽く体重を掛けられる。

とんっという衝撃。ぐるんと視界が回り、里保はベッドに吸い込まれた。
何が起きたのか把握する前に、その唇が落ちてくる。
甘いさゆみの口付けに、里保はそっと目を閉じた。

「っ……」

触れるだけのキス。
啄むように何度か重ねたかと思うと、さゆみはおもむろにリモコンに手を伸ばし、テレビの電源を切った。
539 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:45
静寂が濃くなったあと、「電気、まぶしい?」と訊ねる。

「いえ……だい、じょぶ、です」

ほとんど何も考えずにそう答えると、さゆみは一瞬目を丸くし、そしてくすっと笑う。
あれ、何か変なこと言ったっけと頭を回転させると、「キミ大胆だね」と明るい声を聞いた。

「りほりほ、全部見せてくれるんだね?」

楽しそうに笑うさゆみに、はっとした。
そうだ、そういう行為をするときは、どう考えたって暗くするのが定石だ。
ムードもあるだろうし、気を遣って言ってくれたのに、また私は選択を間違えた。
あわあわと情けなく目を泳がせると、その唇が額に降りてくる。
甘い音を立てたあと、さゆみはそっと枕元にある照明のボリュームを下げた。部屋が暗みを帯びる。それでもふたりの姿はしっかりと見える。

「りほりほ」

ああ、また道重さんにカッコ悪い所見せてしまった。
そう考えていると再び口付けされる。

「んっ…!」

あまり交わしたことのない、深いそれ。
思考が深まる前に、彼女の舌が唇を舐め、歯に触れてきた。
そっと開けるとするりと中に入ってくる。
540 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:45
「んんっ…」

恐る恐る里保も舌を伸ばし、ふたつが触れ合った。ぞくっと全身が震え、強く目を閉じた。
さゆみに舐められながら、里保も絡めかえす。
やり方があっているかは分からない。だけど、本能的に勝手に動く。

「ふっ…んん、ん……」

舌先から感じる温もりと口内で唾液が絡む音に脳が支配された。
鼻から息が漏れ、さゆみは不快じゃないだろうかと心配になり、おずおずと目を開けた。
微かに滲んだ視界の先、彼女もまた、里保と同じように目を閉じて、里保を貪っていた。
角度を変え、口の奥まで捻じ込んで味わい尽くそうとするその様は官能的で、途方もない魅力を放っている。
彼女の姿に扇情され、里保は両腕を背中に伸ばし、強く抱きしめた。力と熱がこもる。愛しくて、愛しくて、堪らない。

「はぁっ……」

あまりの息苦しさに負けて、里保は唇を離した。
肩で息をしながら、ふたりの唇を繋いだ透明な唾液をぼんやりと見る。橋のように太く繋がれたそれは、重みに耐えきれずすぐに落ちた。
さゆみは口元を軽く拭い、もう一度、触れるだけのキスをする。

「りほりほ、なんか、泣きそうだよ?」

そう言うさゆみの声が、震えていた。
それを聞いて、きっと怖いのは彼女もいっしょなのかもしれないと感じ取る。
541 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:46
彼女にとって、こうして誰かと身体を重ねるのが何度目かは分からない。もしかしたら初めてかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
だけど、私とするのが初めてだからか、道重さんは、不安を抱いていた。
私が怖がってるんじゃないかとか、嫌なんじゃないかとか、拒絶してるんじゃないかとか。
私のことを一番に考えてくれるあなただから、そうして心配して貰えているんだと分かる。
でも、でも道重さん。聞いて下さい。
私が泣きそうなのは―――

「気持ち、よすぎて」
「えっ……?」
「キスされて…すっごいシアワセで……もっと、ほしくて……」

キスがこんなに感じるものなんて知らなかった。
身体に触れなければ、胸を揉まれなければ、気持ち良くならないと思っていたから。
それは全部、漫画の知識なんですけど。
私は今の今まで、こうして唇だけで全身が敏感になることを知らなかった。
だから、だからっ。

「………ホントに反則」

そんなこと、山口の夜でも言われたっけ。
何処か他人事のように思っていると、さゆみは里保の首筋に唇を這わせた。

「っ―――!」

少し強く吸われ、歯を立てられ、そして舐められた。
542 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:47
同時に彼女の右手が肩から脇、腹へと移動し、何度も往復する。
身体のラインを手に覚えさせるような仕草がくすぐったくて身を捩る。

「っぁ…はぁっ……」

里保の上げる切なそうな声に、どうしようもなく好きだとさゆみは思う。
音を立てながらキスをし、鎖骨を舐め上げる。その度に普段の里保からは考えられないほどの甘ったるい声がしてまたぞくぞくする。

「あっ…」

里保の吐息が濃くなっていくのを感じる。
一度顔を上げ、シーツに浮かぶ艶のある髪を左手で梳いてやった。
頬が真っ赤に染まっているのは、きっとシャワーのせいじゃない。

「好きよ……」

そうして里保の頬にキスを落とす。
「んっ……」と抜けるような甘い吐息に欲情が止まらない。

「うちも…大好きです……」

シアワセそうに、だけど少し余裕のない表情で里保は応える。
再び首筋に浮かんだ玉のような汗を舐めるように舌を這わせると、彼女が高く喘いだ。
そのまま鎖骨へと舌を伸ばすと、「っ…!あ……っ」と切なく声が漏れる。
熱に犯されたような反応がたまらなく愛しく、私はそっと顔を上げる。
543 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:47
秋が深まり、冬が始まる寒い季節。それなのにふたりとも、身体中に汗を纏っている。
ぐいっと額を拭うと、多量の雫が付着した。きっとそれは彼女も同じくらいなのだろう。
もう一度キスがしたいと思いながら、さゆみはふと、跨った里保を見下ろした。

そこには、シーツに髪を泳がせ、シャツを肌蹴させている女の子がいた。
彼女は、里保は16歳だ。
子どもで大人。エースという大きな荷物を背負っていても、等身大の16歳。
ああ、きっとこれは赦されない。25歳の自分が9歳も下の女の子に跨っている。
相手は高校生。冗談を抜きにしても犯罪になるかもしれないと心が囁くが、もう戻れるほどの理性は残っていなかった。
それでも、それでもなお、涙が溢れる。

「……みっ、しげさん…?」

行為が止まったことに不安を抱いたのか、ぎゅうと目を閉じていた里保がさゆみを見てきた。
慌てて涙を拭って「ごめんっ…なんでも、ないから」と妙な取り繕いをする。
どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。
彼女をこの腕に抱きとめたいという思いは確かに在るのに、それでも一歩を踏みとどまらせる感情は、臆病という魔物だろうか。

それとも、怖いのだろうか。壊してしまうことが。
彼女に触れたら、そのまま消えてしまいそうなことが。
544 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:48
「りほりほっ……」

切羽詰まった声で、さゆみは里保の名を呼んだ。
リーダーに就任してからはあまり呼ぶ回数が減ってしまった、さゆみだけの呼び名。
まるでペットや幼子を可愛がるようなその呼称は、いつの間にか、深く色付き、心からの情を注ぐ深愛の名前へと形を変えていった。

ああ、どうして。
どうしてこんなに、里保を好きになってしまったのだろう。
可愛いだけの後輩だった。
ただ愛でるだけの存在だったのに。
いつの間にか、彼女を自分の心に宿し、頼れる後輩として、ひとりの女性として、傍に居たいと願ってしまった。

年下なのに。9つも年齢差があるのに。まだ高校生なのに。
里保を愛したい。深く口付けて、真っ直ぐに愛情をぶつけたい。
際限なく広がるその欲望のせいで彼女が泣くのは見たくない。
まるでこの腕に抱いたら、二度と彼女が戻らないような、そんな気さえしてしまう。

私はただ、臆病なのだ。
山口の夜に、里保から想いを告げられても、傷付きたくないからと振り払うほどに。
覚悟がないのは、私の方だ。
545 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:48
彼女の為と感情を閉じたように見せて、あの時、本当は、私が怖かったのだ。
その自惚れが崩されて、里保がもう二度と笑ってくれないのではないかと、怖かったのだ。


―――「でも……それでも、好きなんです。道重さんに、触れられたいって、キス、されたいって思うんです」


彼女がくれた言葉が、今もなお、この胸の中に花を咲かせている。
嘘じゃない真実。昂ぶっていたにしても、根底に揺るがなく色付いた奇蹟。
それを疑う余地はない。
疑わないから、二の足を踏む。

私は独占欲の塊で、傷付きたくない弱虫だから―――

「道重さん……」

そんな動揺は当然のように彼女に見抜かれていて、腰は立たないまま、彼女は必死に腕を伸ばしてきた。
私の首の後ろに回し、力を込めて抱き締める。
密着したことで体温は上がり、必然的に心拍数もぐんと上がる。私の中の「欲」も、確かに焔のように燃え滾る。
やめて。やめて鞘師。
そんなことしたら私。
私―――

「だいじょうぶ…ですから」
「え……?」
546 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:48
「里保は……壊れない、ですから…」

言葉が浮かんで消えていく。
同時に、さゆみの中の恐怖を、消していく。

それはまるで、魔法にも似た、呪いだ。

「道重さんが、好きです……だから、教えて下さい……」


―――教えてください。道重さんのことを、もっと


ふたつの言葉が重なった瞬間、なにかが弾けた気がした。
涙を拭うこともせず、強引に唇を奪って舌を挿入する。
息苦しそうに眉を顰める彼女を気にすることなく、右手をするすると下ろし、彼女の小さくて形の良い胸に触れた。

「んんっ!!」

彼女がびくっと反応し、キスから逃れようとする。が、さゆみはその舌を解放しようとしない。

「ふっ!ん…んっ…!」

舌が交わされるたびに唾液の抽送が繰り返される。
口の端から垂れる液体を気にする余裕もなく、下着を付けていない彼女の胸元を弄る。さほど大きくはないそれは、さゆみの手の中にすっぽりと収まる。
緩急をつけて揉みし抱くと、指の腹に微かに固くなったそれが当たる気配がした。
くすぐったがりだと聞いたことはあるが、感度も良いらしい。呼吸がままならないのも、余計に感度を上げているのかもしれない。
547 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:49
「っ!っ……んむ!んっ、ん!」

じゅるりと舌を伸ばして口内を丹念に味わい、ゆっくりと彼女から離れた。
漸く酸素を得た彼女は息を乱し胸を大きく上下させた。半開きの口から仄かに顔を出した舌が官能的で、思考はもはや焼き切れそうだった。

「りほりほっ……」
「っ…はい……」

こんな時でも、彼女は律儀に応えてくれる。
その姿がただただ愛しく、私は絶対に、この手に掬い上げたいと願ってしまう。

「好きよ……大好きよ」

さゆみはそうしてシャツの中に手を滑り込ませた。
初めて直に触れる里保の乳房にそっと触れる。

「あぁっ!!」

途端、里保は今日一番の嬌声を上げて体を反らした。
さゆみはゆっくりと手を動かし、彼女の乳房を揉みし抱く。
柔らかいそれはさゆみによって形を変える。まだ成長段階なのか、柔和で硬質という独特な感触を知る。

「っ…ぁ…っ……」

里保は右手の甲を噛んで口許を覆い、必死に声を押し殺していた。
自分が未知の世界に入り込んでいく恐怖に耐えられないのか、両の眼はぎゅうっと閉じたまま。
その姿がさゆみをさらに加速させ、その手の動きを大胆にさせていく。
548 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:49
一定のリズムで彼女を揉むと、中心の突起が段々と主張を始める。
もう片方の乳房に口付けを落とすと、里保が甲高く喘いだ。もはや手で覆う意味もなさない。

「りほりほ…声、もっと聞かせて」

さゆみは彼女の右手首を掴むと、強引にシーツへと押し付けた。
里保は一瞬「やだっ…」と抵抗してみせたが、その腕にはもう力は入っていない。
さゆみにされるがまま、全身をベッドに預け、そこにある快感を貪っていた。

「あっ……ん、あっ……あっ…」

さゆみは左の乳房を弄りながら、右の方へ舌を伸ばす。
決して中心には触れないまま、その周囲をねっとりと舐め回すと、里保が面白いように体を捩った。
彼女自身、自分が掌の上で転がされいるのは自覚しているはずだった。
だが、それを分かりながらもなお、求めることをやめられない。
初めての快感が里保の中を縦横無尽に走り、全身がさゆみを欲していた。

「あんっ……」

さゆみは唇を鎖骨と胸の間で移動させる。右手は相変わらず同じリズムで胸を揉み続ける。
不規則に与えられる刺激をさらに欲し、最も触ってほしい箇所に里保は導こうとしていた。
が、それは当然さゆみも分かっていて、なかなか触れようとはしない。
焦らされる感覚に耐えきれず「みっ、しげさぁん……」と声を出す。
549 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:50
「もっとぉ……」

ああ、可愛い。可愛すぎる。どうしようもないほどに、愛しい。
潤んだ瞳で求める里保に、すぐにご褒美を上げたくなる。
だけど、もう少し。もう少しだけ我慢して?

「んっ!」

求めた唇を塞ぎ、口内を貪る。
口の端から垂れる唾液はもはやどちらのものか分からない。
舌を絡めながら音を立てるように吸い付き、左の乳房を愛撫していく。
里保は奪い取られた右手を、さゆみに必死に絡みつけた。
小さな手から伝わってくる温もりが、里保の持っているすべてを語っている気がして、さゆみはそっとキスを終える。

「脱がすよ…?」

意地悪に、歳上らしく。
そうして妖艶な姿を演じてみても、そこにいるのは25歳のさゆみでしかない。
誘ったのは彼女の方でも、そこにまんまとハマったのは私の方。
里保はそれでも恥ずかしそうに目を伏せて頷く。声に出しておねだりできるほど、彼女は大人ではない。
いや、大人になる必要なんてない。彼女は、ありのままの鞘師里保、16歳の彼女がいい。
550 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:50
さゆみはそっとシャツをたくし上げる。首元まで捲れ上がったそこから、里保の真っ白な上半身が露わになった。
穢れを一切知らない「無垢」そのものの姿に生唾を呑み込む。
力のない里保の頭を通し、繋がれた手を一瞬だけ離してシャツを脱がせた。
里保は離れてしまったさゆみの左手に、またすぐに指を絡める。
胸元を隠す余裕もなく、一瞬にしてさゆみを求めるその仕草はまるで母親を求める赤ん坊のようだった。

「りほりほ…」

ああ、どうしよう。
こんなに必死な彼女が、途方もなく愛しい。
さゆみは目を細めて、裸になった彼女を見つめる。
純潔の乙女。幻のようなその存在をただ茫然と見下ろすと、「はずかしいです…」と彼女がつぶやいた。
我慢とか理性とか、そういうものはシャツといっしょにベッドの下に落としてしまう。

「ああんっ!!」

ふぅっと甘い吐息を里保の胸元の中心に吹きかけると、嬌声が夜に響いた。
余裕なく乱れる姿に脳が侵されていくことを知りながら、彼女の突起を指の腹で弾く。
背中を大きく反らし、これまでにない快感に脅えるように左手でシーツを掴んだ。
何かを堪える格好に申し訳なさが浮かびつつも、さゆみはその突起を静かに咥えた。

「ふぁっ!!」

そっと乳輪をなぞり、舌先で蕾に触れる。
ざらりとした感覚に促されながら、里保のそれは面白いように屹立した。
翻弄されるその姿は、ステージ上で輝く彼女とはまるで別人だった。
551 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:50
「んっ…はぁ……」

普段は隠されている、ベールに覆われた里保の全て。
仄暗い照明の下、微かに浮かんだのは、シャワーと熱気に充てられて上気した肌。
白くて、決して大きくはないけれど形の良い双丘、中心に直立した突起、そのどれもが甘美で愛しい。
舐める度に、この手で揉んで形を変える度に、彼女は短く息を吐きながら喘ぎ、恥ずかしそうに身を捩る。
さゆみは休む事なく里保の乳房を舐め、時折乳首を吸い上げ、ころころと転がす。
硬くなって直立した乳首は、さゆみにそうされることを望んでいるようにも見えた。

「ん、……だ、だめっ…!」

里保の口から漏れる言葉は、拒絶にも似た甘えた声。
その真意をさゆみはとうに知っている。本能的にもたらされたその想いを、ばらばらにすることなく受け止める。
奇蹟だってそう感じるほどに、里保のことがいとおしい。
それでも一歩踏みとどまるこの感情を、理性と呼ぶか、臆病と呼ぶか、その名前をさゆみは見つけられない。

「みっ、しげ…さんっ……」

シーツを握っていた左手が、空を掴むように伸びていた。
求めたものが何かを分からぬままだったが、それはしっかりとさゆみの肩を掴み、爪を立てるように力がこもった。
だいじょうぶ?と聞けるほど誠実ではないが、さゆみはそっと顔を上げて「りほりほ…」と声をかける。

「こっちも……」

脱がすよ。そう口にしたはずだったが、言葉にはならなかった。
552 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:51
ぐったりと脱力した彼女の腰に手を回す。
下半身のジャージの中に手を滑り込ませ、そっと彼女の下着に触れる。

「ああっ!!」

いきなり際どい場所に触れてしまったことは自覚していたが、ここまで敏感に反応されるとは予想外だった。
じっとりと熱を持ったそこに、ただ彼女が感じてくれている事が嬉しくて、バカみたいな子どものような感想を抱く。
いつの間に本気になっていたのか、いつの間に彼女を本気にさせていたのか、始まりは一体いつからだったのか、なぜか走馬灯のように記憶が巡る。

「鞘師っ……」
「っ、あ…みちしげさぁん……」
「腰、浮かせて?」

奥歯を噛み、理性が焼き切れるのを誤魔化すように大人びた声を出す。
が、彼女はもうそこまで理解するだけの余裕はなかった。全身がシーツに貼り付き、もう動けないと腰が訴えている。
全てを曝け出すのは難しいと判断したさゆみは、そのまま、里保の下着の中にゆっくりと指を入れていた。
指先が彼女の茂みに触れ、里保はあからさまに動揺した。
胸元はともかく、家族ですら触れたことがないかもしれないその場所を掠められる恐怖が、里保の爪を強くさゆみの背中に立てさせた。

「だいじょうぶ」

そう、さゆみは云った。
これまで里保が二度返してくれた言葉をなぞるように、深く色を付け、確かに意味を乗せ、そう云った。
553 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:51
「さゆみを……信じて?」

きっとそれは、ひどい言葉だった。
歳上という事を盾に、後輩の気持ちを汲み伏せて、無理強いをしていると分かっていた。

だけど、もう、戻れない。
私にはもう、彼女しかいない。

里保はぎゅうっと目を閉じたまま、さゆみの両肩に手を置き、力を込める。
一瞬のせめぎ合いのあと、何度かこくこくと頷く様は、自らに言い聞かせているようにも、さゆみに委ねて覚悟を決めたようにも見えた。
分かっている。悪い事をしているのは分かっている。
分かっているよ、鞘師―――

「来て……くだ、さい」

分かっている、はずなのに。
里保が呼んだその声に、さゆみはただただ、応えてしまう。

欲望と理性と。
お互いにその狭間で揺れる中、出された結論はそれでもひとつだけだった。

さゆみも里保も、ずいぶんと長く遠回りをしてきた気がする。
好きという感情を有していたのに、伝え方や、見せ方を間違え、躊躇し、最後の最後になるまで、心を開けなかった。

だけど本当は、ずっと前から同じ空間で、同じ風を感じていたかった。
こうしてふたりの温もりを感じ合って、手を繋いで、唇を重ねたかった。
554 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:52
「あぁっ!!」

ただがむしゃらに駆け抜けてきた12年。
重圧を背負いながら歩き続けてきた4年。

道を重ねたふたりの上に、雲の隙間から落とされた恋の鍵。
それを漸く手にして、扉を開けるまでは、もどかしく、微妙で、曖昧な時間を過ごしていたけれど。
それでも。それでも。それでも。

「熱いね…」
「っ…ぁっ……」

決して此処で、終わりではないから。
共有してきた時の先で、いちど道が別れてしまっても、この手が離れてしまっても、必ずまた、重なる日が訪れるから。
無意味じゃなかった。
無駄じゃなかった。
すれ違っていた時間も、不器用な想いの伝え方も、悩んで涙した夜も、苦しくて胸が張り裂けそうになった日も、すべてが、宝物だった。

「んっ…ん、んっ…あっ!……あ!」

さゆみの細い指が、里保の下着の中、頑なに守られていた場所にそっと触れた。
湿り気を帯びたその蕾を指の腹でなぞると、里保は全身を震わせて悶えた。
もう充分に主張していたそれは、さゆみのことを待ちわびていたのか、絶えずその指を濡らしていく。
ぬるっとした液体を携え、里保のそれに触れ、擦り、軽く撫で回す。
555 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:52
「はぁっ!あっ…だめっ……!」

里保は黒い髪を揺蕩わせ、胸を大きく上下させた。白いシーツの海に浮かぶ半裸の姿は、まるで女神のようだった。
思考が焼ききれそうになりながらも、さゆみはそっと頬に口付ける。
里保は「道重さんっ!道重さんっ!」と名を呼びながら、首を横に振った。余裕のないその姿は、普段のステージ上のそれとは180度違っていて、あまりに愛しい。
ああ、もっと乱したい。普通じゃない彼女の姿を、もっと引き出したい。
そうして強欲な自らが顔を出し、さゆみは彼女の下腹部の蕾を、人差し指と中指で挟んだ。

「ああんっ!!」

芯を持つほどに固くなったそこをしごかれ、里保は激しく腰を浮かせた。
未知の感覚に震える彼女の髪を撫で、「りほりほ」と声をかける。
だいじょうぶ。だいじょうぶだよ、りほりほ。

「あっ!もっ……やっ!おかしくっ……なる!!」

涙で滲んだ瞳を携えて、彼女は叫ぶ。
もう一度彼女の名を呼ぶと、恐る恐る目を開いて、彼女はその瞳に、姿を映した。

もっと、見て。もっとさゆみのこと、感じて。

「だめっ!だめぇ!!みっしげさんっ!」

二本の指で攻めたてられ、怖いのか、気持ち良いのか、自分でさえ判断がついていないようだった。
結婚できる年齢と言えど、まだ高校1年生で、こうして体を重ねるのは初めてなのだから。
556 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:53
「おかしくなっていいよ…」
「ふぁっ!やっ!!」
「だいじょうぶ。好きだよ、りほりほ…」

耳元で囁き、強引に唇を奪った。
先に舌を絡めてきたのは彼女の方。
快感に耐えながら唇を貪り、身体を撥ねさせながら爪で皮膚を破った。
血が滲みそうなほどの痛みを感じるが、それがどうにも心地好く感じた。

愛されているという証のようで、それが嬉しいのかもしれない。
ああ、どうしよう。愛しくて、愛しくてたまらない。キミが好き。
好きの先の言葉、それ以上の言葉がほしいくらい。最上級の想いで、あなたに伝えたい。

「んむっ…ん!んっ、、ん!!」

呼吸が苦しくなりながら、指を加速させた。
歯と歯が当たり、微かに血の味を感じる。それでも逃さないようにキスを続けると、彼女もそれに応じる。
里保の腰が何度も撥ね、さゆみの指をさらに求める。

「っぁ…!」

さすがに息が続かなくなり、口をそっと離す。
蕩けた瞳が欲情を煽り、想いを奔らせる。
557 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:53
「好きだよ…鞘師」
「あっ!……ん、あっ…はっ…ぁっ!」

言葉にならないままの想いを、彼女は必死に叫ぶ。こくこくと頷き、私の肩にしがみついて「みっしげさぁん…」と甘く啼く。
どちらの汗か、どちらの涙か、分からないほどに濡れ、雫が重なる。ぐちゅぐちゅという音が激しくなり、彼女の吐息が濃く深く、闇に浮かんで消えていく。
甘い香り。激しい音。ひっきりなしに動く指。迸る液体。止まらない腰。加速する感情。
喘ぎ声の狭間、理性と欲望に振れる感情の針の中、彼女の叫ぶ声が尊く灯った。

「好き、ですっ!」

必死に紡ぎだされたその想いが、私を、優しく包み込んでくれる。たとえなにがあっても迷うことなく注がれる、太陽の温もりによく似ている。
ねえ、鞘師。あなたが想う以上に、私はあなたが好きだよ。いつも、伝えられなくてごめんね。こんな風にしか、伝えられなくて。

「りほりほ…好きよ」
「っ…はい…みっしげさ…ああっ!あっ、それ…それだめっ……あっ!」

指の速度が上がる。腰の動きに合わせていると彼女はさすがに限界を迎えようとしていた。
はぁ・はぁという吐息を耳に受け、理性を呑み込んでしまった欲望を彼女にぶつける。
愛液が溢れ、おそらくもう彼女の下着は意味を成していないはずだった。
558 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:54
暗くなった照明の下、微かに射し込む月明かりに浮かぶ彼女はあまりに美しい。
手を繋いで、抱き締めて、キスをして。それ以上の行為をしても、愛している想いにまでは届かない。
もっと、もっと彼女に伝えたい。好きだよ。愛しているよと。
ねぇりほりほ。届いている?どうか、どうか、届いて―――

「だめっ…だめえええ!!なん、かぁ…あっあああ!!」
「りほりほ……噛んで。もっと強く、抱き締めて」
「はぁっ!ああっ!みっしげさ…もう……だめぇっ!!!」

それはそこに辿り着く合図。指に翻弄され、甘美な熱の海に溺れる、彼女の悲鳴。
爪を背中に立て、歯で肩を強く噛む。痛い。気持ち良い。好き。大好き。
玉の汗が浮かぶ真っ白いうなじが月に照らされて目に入る。同時に、ぎゅうと指が締め付けられるのが分かる。
びくびくと何度か彼女の身体が震えた。

よくがんばったね。そう言葉にしないままに微笑んで、彼女の首筋にキスを落とす。
声にならない想いを叫び、彼女はくたりとベッドに体を預けた。
559 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:55
 
-------

微睡んだのは、ほんの少しのことだったのかもしれない。
ぼんやりとする視界の先にカーテンと、その隙間から微かに月が見えた。
緩慢な動作で上体を起こすと「起きちゃった?」と声がした。
振り返ると、彼女がいつものように微笑み、右手にペットボトルを持っていた。
その名を呼ぼうと口を動かすが、喉がカラカラに乾いていて、何も声にはならない。

「水飲む?」

さゆみはそうしてベッドに座り、里保にコップを差し出してきた。
里保はそのまま頷き、半分ほどに注がれた水を一気に飲み干した。
喉がごきゅっと威勢よく鳴り、さゆみはくすくす笑う。
それを見て、里保もまた「いひひ」と笑った。あ、何だか、凄く、嬉しい。今、私、シアワセ。

「みっしげしゃん…」

そしてよりによって舌足らず。
あざとくなかっただろうかと心配する間に、さゆみはベッドに腰を掛けると小首を傾げた。
里保は少しだけ首を伸ばし「あの」と声を出す。それはさゆみにしか聞こえないほどの小さな声だった。
560 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:55
「キス、してぇ…?」

甘ったるい音とは裏腹の、過激な意味。
自分でも何て事を口にしたのだろうと思うけれど、一度放たれた言葉は戻らない。
心臓が、どくんと鼓動を刻んだ。
さゆみの目が少し、細くなったのを感じる。
あ、好き。好きです、道重さん。そう、想う。

「りほりほ…」

彼女はそうして閉じると、柔らかい口付けを運んできてくれた。
想いの花が、確かな色を纏って咲き誇る。

「んへへぇ……ゆめ、じゃないんですね」

ほんの少し、先ほどまで違うような、触れるだけのキス。
里保は相変わらず緩慢に動いてさゆみにぎゅうっと抱き着いた。
此処にある温もり。道重さんの体温。それはとても温かい、春の陽射しのように思えた。

「おきたら、ぜーんぶ、さめちゃったかと、おもいました」

自惚れじゃなければ、私と彼女は同じ想いを携えている。
それはふたりとも分かっているのに、どうしても、どうしても一歩踏み出すのに時間がかかる。
561 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:55
「……夢じゃ、ないよ」

あまりにもシアワセすぎて。儚くて、尊くて。壊れてしまいそうで。持て余してしまうほどの、小さな花。
それを愛でるのに、私たちはずいぶんと遠回りをしてきたから。手にした途端に枯れてしまわないか、怯えてしまう。
でも、そんなことは、決してない。

「好きだよ」

此処に確かにあなたがいる。
胸のときめきは静まることなく奏でつづける。ただひたすらに、甘くて軽い恋の音を。

「いひひ…すきです、みっしげさん」

里保はさゆみの胸に顔を埋め、深く深く息を吐く。
さゆみの香りに充たされ、心が落ち着いていくのを知ると、唐突に眠気の波に浚われる。
ああ、もう少し。もう少しだけ、あなたと話していたい。
その切なる願いは到底届かずに、里保はさゆみに促されるようにベッドに横になり、規則的な寝息を立て始めた。
562 :はじめての夜 :2014/11/30(日) 21:55
「かわいいなぁもう……」

里保の前髪を撫でながら、さゆみはもういちど彼女の名を呼ぼうとした。

「―――」

だがそれは音にはなり切らなくて、風のようにふわりと抜けて、彼女の髪を揺らしただけだった。
汗をかいた身体が熱い。できることならシャワーを浴びたいけれど、一瞬さえも、この温もりを手放したくなかった。

きっともうすぐ、時代は変わる。
新しい息吹がもたらされ、世界は少しずつ、動き始める。
私はじきに、此処から歩き出すけれど、きっとあなたはだいじょうぶ。

「大好き―――」

また逢えるから。この手はもう一度、しっかり紡がれるから。
そうして優しく祈りを捧げ、さゆみは彼女に毛布を掛けてやる。
大きなものを背負った小さな身体を、折れないように強く抱きしめ、さゆみもゆっくりと意識を手放した。
563 :雪月花 :2014/11/30(日) 21:59
以上です
物理的な距離はできてしまうかもしれませんが、これからも良い関係性を築いてほしいです
カプヲタとかそういうのは置いといて、普通にご飯行ったりメールしたりする信頼関係であってほしい…という親心w

さゆりほはもう少し書きたいものがあるので需要とか関係なしに頑張りたいと思います
お付き合いいただけましたら幸いです
ではまた!
564 :名無飼育さん :2014/12/01(月) 18:01
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお素晴らしい
需要はありますとも!!!
ぜひぜひ今後ともお願いします!
565 :ななし :2014/12/02(火) 15:49
幸せなお話ありがとうございます
この2人のお話はまだまだ読みたいです
これからもよろしくお願いします
566 :雪月花 :2015/01/25(日) 17:42
さゆロスというかさゆりほロスです雪月花です
道重さんには、後輩たちを見守っていてほしい。そして後輩たちを、私も見守りたいです
春ツアーいつ行けるかなあ…w


>>564 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
叫ばれて嬉しいやら恥ずかしいやら…w
需要あるみたいでほっとしていますwなくても書きますけどお時間あったらまた覗いてくださいm(__)m

>>565 ななしサマ

コメントありがとうございます!
だいたい少し切ない系が多いのでたまにはシアワセ話も良いですよねw
こちらも需要あるようで嬉しいです。お時間あったらまた来てくださいm(__)m


今回は少し前に開かれた高橋さんのパーティーから。
事実を大いに捏造していますいつものようにw
567 :party :2015/01/25(日) 17:43
パーティーという場所に参加したのは初めてで、どう振る舞えば良いか、まるで見当がつかなかった。
招待状を貰って、おめかしをして、髪を整えて、ヒールを履く。
沢山の人。知った顔。知らない声。でもみんなが、笑顔で「その人」を囲んでいた。

尊敬する先輩の、結婚式。
正確に言えば、結婚式ではないけれど、結婚をお祝いするパーティー。

業界関係者の方が多い会場で、ひどく場違いのような空気を覚える。
あの人にとっては、グループの大切な後輩という事で私たちを招待してくれたんだろうけど。
それにしてもこの雰囲気は、慣れない。
何て事を考えながら、配られたグラスを傾ける。
ノンアルコール。ただのグレープフルーツジュース。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がって思わず顔をしかめる。
もう少し、甘いやつがほしかった。運がない。

喧騒の中、溜息を堪えながら部屋の端でそっと周囲を見回す。
一緒に来ていたはずの同期の姿は人混みに紛れて全く見えなくなっていた。
視界に映るのは、見覚えのあるミュージシャンと、マネージャーらしき人、この前仕事をさせてもらったスタッフさん、
そして、この会の主役である先輩と、その旦那様だ。
ふたりは部屋の前に立ち、ひっきりなしに皆と挨拶を交わしている。笑顔が眩しい、素敵な夫婦だと思う。
私もいつか、ああいう風に誰かの隣で笑う日が来るのだろうかと、ずいぶん先の未来を想像してみた。
けど、結局相手の顔どころか、漠然とした情景すら浮かばなくて、やめた。
568 :party :2015/01/25(日) 17:44
-------

この会場には、同期の2人と来ていた。
本当はもう1人の同期も出席予定だったけど、インフルエンザじゃ仕方ない。

「私も行きたかったよぉ」

熱はだいぶ下がったようだけど、医者から外出禁止を言い渡されている彼女は、そんなメールを送ってきた。
文末に「涙顔」の絵文字を付けて、それが彼女らしくなくて思わず笑ってしまった。病人なのに失礼なことをしたなとすぐ反省したけど。

そして、私たちは3人で会場に入った。
最初のうちはどうして良いか分からずに、曖昧な表情のままで固まっていたけど、
暫くすると、1人は持ち前の社交性を生かし、もう1人はリーダーとしての責務から、それぞれ挨拶に出向いていた。
結局は私だけが、この場から動けなかった。

積極的に人と関わる事ができるのは、一種の才能だと思う。
私には持ち合わせていない力。羨ましくてたまらないけど、ただ私は、指をくわえて見ているしかできない。
いわゆる「コミュ障」だとインターネットには書いてある。
コミュニケーション障害、別に正式な病名がある訳じゃないし、診断した訳でもないけど、十中八九、私はそれだと思う。
569 :party :2015/01/25(日) 17:44
人見知りで、口下手で、暗い。
4年経っても、私は私のままだ。
引っ込み思案で、人の顔色ばかり窺って、会話の流れに乗れなくて、壁を作って、卑屈になる。
「一人が好き」というのは嘘じゃない。
強がりでもない、真実なのだけど、ときに、あの輪の中に入れたらと思うんだ。

今度は溜息を我慢できずに吐き出した。
相変わらず私は、壁を背にしてグラスを傾けて突っ立ったままだ。
こういうのが良くないんだと思う。誰かに話しかけに行けば良いのに、脚が重い。


―――「誰も私のことを見てくれなかったらどうしよう」


あの頃の不安がまだ、消えずに心に残っている。
灰色の世界で、境界を跨げずに立ち尽くしていた私を、いつでも「彼女」が引っ張ってくれた。
その「彼女」が居ない今、もう、私は自分から動くしかない。
話題のネタを持っていないのならば探すしかないことも知っているし、キャラじゃないと言い訳を付けて逃げているのも分かっている。
分かっているけれど、まだ、動けない。
弱い。ダメだ。でも、行けない―――
570 :party :2015/01/25(日) 17:45
そうして、グラスが汗をかき、雫が落ちたのと、ふっと影が落ちたのを感じたのはほぼ同時だった。

「お嬢さん、またひとりなの?」

聞き馴染みがあって、だけど少し遠くに置き去りにした声にはっとする。
顔を上げると視線がぶつかり、途端に声を失った。

ああ。なんで。なんでですか?
そう訊ねる事すらできない私は、身体の反応として、大粒の涙を、零していた。

「こらこら。急に泣かないの」

彼女はあの時と同じように柔らかく笑い、私の頬にすべる涙を指で掬った。
なんで?と唇を軽く震わせると、彼女は口許で人差し指を立て「招待されたの」と微笑んだ。
私は鞄からハンカチを取り出し、目頭を押さえる。それでも涙が止まらない。
どうしよう。どうしようと焦る私の前に彼女は立ち、私の姿を一時的にでも覆ってくれた。

「びっくりした?」

子どものように明るい声を降らせる彼女に、しますよ。びっくりってレベルじゃないですよ。と返そうとする。
それもやっぱり言葉にはならなくて、ひぐっと身体を震わせて鼻を啜る。
ああティッシュ。と鞄の中を漁るが、化粧ポーチや鏡に邪魔をされて見つけられない。
そんな私を察したのか、彼女は「はい」と差し出してくれる。その行為を素直に受け取って、壁に身体を向け、かむ。
571 :party :2015/01/25(日) 17:45
「変わってないね、安心した」

2ヶ月ぶりだ。メールや電話をする事はあっても、こうして顔を合わせるのは。
あの日、大勢に見守られながら、それぞれの行く道が別れた。
素直な感情をぶつけて、無様に泣いて、それを受け止めてくれる彼女は、今日と同じように、困ったように笑っていた。


人はそう簡単には変わりませんよ。
そう言おうとしたけど、本当に?と自問してしまう。


ほぼ毎日一緒に居るメンバーの事、私はどれだけ分かっているのだろう。
同期の事だって、ちゃんと理解できているか自信はない。まして、暫く離れていた人なら尚のこと。

「……変わったら、真っ先に報告しますよ」

それでも私は、振り返って宣言するんだ。
不変がないと分かっていても、永遠がないと知っていても、私は4年前から同じ、人見知りで、あなたの助けがないと前に進めない情けない後輩なんだと。
572 :party :2015/01/25(日) 17:46
「そっか。良かった」

安堵したように微笑む彼女を見ながら、ティッシュを鞄にしまい、鏡で前髪を軽く整える。
赤くなった鼻はカッコ悪いけれど、そのまま彼女と向き直る。真っ直ぐな瞳で、真っ直ぐに見つめる。
卒業式で見せたあの凛とした佇まいと同じ。光を浴びていなくても輝くこの人は、何て美しいんだろう。

「挨拶、行かないと」

彼女はふと、話を変えてきた。
ああ、そうか。まだ挨拶回り済んでないんだと理解するのと、手を握られたのはほぼ同時だった。
え?と目を丸くすると、「行こう」と私を導く。

「一緒に行こう」

手を引く彼女は、どうしようもなく、温かい。

「で、でもっ…」
「一緒に来てほしいの。私もこういう場、苦手だし」

だからね、と彼女は続けた。

「りほりほが傍に居てくれたら、さゆみがんばれそう」

彼女が与えてくれるのは、大きな魔法なのか、尊い愛情なのか。
私には全く、判別できない。
573 :party :2015/01/25(日) 17:46
多くの人の中に埋もれるたったひとつの「赤」という色を、きっと彼女は見つけ出してくれる。
想いを掬って、そのまま空へと放つように、彼女は私とともに、笑顔で囲まれるその人の元へと歩く。
私の意見など無視して、私の感情だけを理解して。

「主役は私じゃないから、そっとね」

また彼女は、人差し指を口許に当てて微笑む。
いたずらっ子のように、無垢な眼差しに私は、何度でも恋に落ちるんだと確信する。

いつだって、世界に参加させてくれるのは、彼女なんだ。
甘えている事が分かっていても、私はこの温もりを、もう手放したくないんだ。

「さゆ!」

主役の先輩が、そう声を出して、彼女は一気に囲まれた。
同期達も気づいたのか、ドレスだというのに走って来る。

主役になりたくないはずだったのに、やっぱり彼女は一瞬で、世界を掌握してしまった。
ああ、やっぱり場違いだ。
私は、私が隣に居るなんて、烏滸がましい。
自分じゃ辿り着けない、こんなにも、輝いた場所に。

そう思って、そっと指を外そうとする。
それなのに彼女は、道重さんは、決して赦してはくれなかった。

柔らかい笑顔を周囲に向け、大きな瞳を輝かせ、あの日より少し色を付けた声を響かせる。
何人に囲まれても、誰と話をしていても、彼女は最後まで、私の手を離そうとはしなかった。
574 :雪月花 :2015/01/25(日) 17:48
以上です
道重さんも来てたんじゃないかという都合良い妄想ですw
素直に感情を出せる関係になれたら良いなあ…w

ではまた!
575 :名無飼育さん :2015/01/25(日) 18:28
道重さんが来てて逢えてたらいいなあと思ってたところに素敵なお話が!
しゃぶしゃぶもこうなったら雪月花さんに実現してもらいたいくらいですw
576 :雪月花 :2015/02/17(火) 22:15
道重さん卒業Blu-rayを見て号泣した雪月花です
本当に、愛に溢れた、愛しかない空間でした…


>>575 名無飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
果たして真実は出席者である彼女たちのみぞ知る、ですが…繋がっていてくれたら良いなあと思います
しゃぶしゃぶでもジンギスカンでも何でも鞘師さん頑張って……w


今回もいつもの2人。状況やら細かい事は何も考えてないです…
577 :close :2015/02/17(火) 22:16
「壁ドンされたら、やっぱドキッとした?」

自分でも、唐突という言葉がよく似合うと思う。
ベッドに腰を掛けてブログを書いていた彼女の手が、思わず止まった。
眉間に皺が寄り、首を45度ほど傾ける。45もいってないかな。30くらい?

「前に舞台でされてたじゃん。工藤に」
「はぁ……」
「感想は?」

困ったように目を伏せて、曖昧に笑う。
彼女の癖。濁すことを覚えてしまった。あまり褒められたものじゃないかも。だけど私は責めない。
代わりに答えを求める。どうだった?目で訴える。彼女は「どうって」と低い声で返す。髪を弄る。困ったときの、これも癖だね。

「あれはお芝居ですから」
578 :close :2015/02/17(火) 22:16
「緊張した?」
「まぁ…ある程度は」

言いたくないのか、彼女はどうも歯切れが悪い。
責めているつもりはないけど、そういう風に聞こえるのかもしれない。
違う。違うんだよ。そうじゃなくてさ。

「さゆみにもしてくれない?」

たっぷり5秒の間の後、「は?」と彼女は言う。
そのリアクションも分からなくもないけれど、しょうがないじゃん本心なんだから、と思う。
私は立ち上がって自ら壁際に歩く。御丁寧に両手を広げて「はい、どうぞ」と招いてみた。
あ、壁ドンって、こうやって手を広げるものじゃないっけ?

「あの、どうしたんですか?」

彼女にとっては、私の言動はかなり突拍子もないものだということは分かっていた。だけど知りたかった。
世間で流行っている「壁ドン」とやらを。後輩にねだって、感覚を分かりたい。

それは、彼女に舞台上でとはいえ経験があるから、というのもひとつはある。
たまたま、彼女がこの前そんな写真をブログに上げたから、というのもある。

あとは、単なる好奇心と、我儘だ。
彼女が知っているものを、彼女が見ている世界を共有したいという、歳上の、特権。
子ども染みた感情だけど、プライドなんてない。
579 :close :2015/02/17(火) 22:17
暇つぶしだと思ってもらっても良い。
だから、教えてよ、鞘師。さゆみに、教えて。


右手で手招きすると、彼女はとうとう観念したのか溜息をついて立ち上がる。
ご不満そう。そりゃそうか。
強引だもんね、しょうがない。
彼女が来ているシャツの胸元に書かれた文字…あれは、「Re」だろうか、ぴんと張って、世界に主張する。

「鞘師の方が低いんだけど、大丈夫かな」
「すみません、ちっちゃくて」
「コンプレックス?」
「……たった今、道重さんを抜かしたいって思いました」

言わせたような回答に満足する。やっぱり私は、子どもだ。
さて、言っといてなんだけど、低い子が壁ドンってできるのかな。できないってことはないだろうけど。
さゆみ、しゃがんだ方が良いかな?なんて思って彼女を見た。

そして私は、面白い程に、言葉を失くした。
580 :close :2015/02/17(火) 22:17
 
「道重さん―――」


低いのは、身長だけじゃなかった。
声も、目の色も、普段の彼女のそれではない。
切れ長の瞳の奥が紅く染まり、私を射抜く。スイッチの入った彼女を、ただ見つめ返す以外に術はなかった。
すぅっと呼吸の音が聞こえたかと思うと、彼女の脚が動く。

軽く撥ねたあと、ダン!と右手が壁を突く。
私は思わず膝を折る。意図したわけではないけれど、自然と視線が同じ高さにとまる。

壁を叩く勢いそのままに、ぐいっと彼女が顔を寄せる。
前髪の奥の表情は相変わらず。怒りのような、哀しみのような色を携えていた。
そして直後に、そのいずれでもないと気付いた。

ああ、これは、そう。
熱情だ。

私のすべてを包み込み、心の奥の感情をくすぐり、裸にさせてしまう、どうしようもないほどの、想い。
それに色を付けて、愛とか恋とか、人は呼ぶのだろうかと、冷静に、感じる。
581 :close :2015/02/17(火) 22:18
実際、そんな思考を働かせる余裕は、私にはなかった。
長い睫毛、切れ長の瞳、綺麗に通った鼻筋、潤った唇、傷みなく伸びた髪の毛。
外見的な要素を一瞬で上げただけで、これほどに溢れてしまう。
そんな彼女に、これほど近くで見つめられて、そう、吐息が触れるほどに近い距離で見つめられて、私は一歩も、動けない。

「ドキドキ、しました?」

そうして口をついた彼女の言葉が、劇中のセリフだとも理解できないほどに、私は彼女に捉われていた。
ああ、なんて。
なんてキミは、美しいんだろう。
キミのことを理解したくて、キミの見ている景色を共有したくてしかけた罠に、私自身が、かかってしまう。

鞘師。
鞘師。
ねぇ鞘師。

鞘師もさ、工藤の事、そういう風に見てた?
それとも、その瞬間さえも、さゆみの事、想っててくれた?
そんなわけないか。キミは本当に、真面目だから。
582 :close :2015/02/17(火) 22:18
「………どうしよう」

ひとつ呼吸を置いたあと、睫毛を伏せて、彼女は言った。
それは予期しない言葉で、なぜ今、この場で浮かんできたのかを図る事は出来なかった。
思わず「え?」と聞き返して彼女を見る。

視線は絡まない。
ただずっと、彼女は短く息を吐いて、真っ赤になった頬のままで「どうしよ…」と淡く声を漏らす。
大人びた表情が消え、等身大の16歳に戻る。
私が想いを寄せ、私が愛した、ありのままの彼女が目の前に立っている。

「メッチャ、ドキドキしちゃう……」

その姿が、愛しく、切なく、儚く、そしてやっぱり、想う。
幼さを携えた声に、震えながら手を伸ばす。
冷たい指先が熱くなった頬に触れ、彼女はぴくっと反応する。
目を開け、視線を絡め、瞳に宿す。
揺れる輝きに映る私は、強気な雰囲気を醸しているくせに、実際は何の力ももたない、ただ情けなくて嫉妬深い25歳の女でしかなかった。
こんな女を、よくキミは好きになってくれたなって、想う。

好きで、恋に落ちて、愛してくれて、口付けを、その先まで捧げてくれた。
たくさんの優しさやシアワセを降らせてくれることが、尊い。
583 :close :2015/02/17(火) 22:19
「なんで、ドキドキするの?」

何がそんなに、良いの?
さゆみの何処が、そんなに好きなの?
そう意味を込めて、彼女の腕の下、たぶん脇の下に当たる場所から腕を伸ばし、ぎゅっと背中を握る。
彼女の着たシャツ、くたびれた部屋着を掴むと、さらに彼女の服がだらしなく歪む。
胸元に書いた文字が読めなくなるほどに弛んだ。歪む「Re」、その意味は、なんだろう。

「だって…こんなに近いから」
「…いつもはもっと、近いじゃん」
「……今日は、いつもより、明るいじゃないですか」

凄く、恥ずかしいことを言う。
真顔で、ぐっと近くで、真剣に、絆す気なのか、無自覚なのか、分からないままに、落としていく。

「じゃあ……」

キミはまるで、マジシャンだ。

「隠して?」

マジシャンというより、魔法使いかもしれない。
私を裸にさせる、私だけの、特別な存在。
私の、25歳というプライドを崩す、ただひとりの、宝物。
584 :close :2015/02/17(火) 22:19
「道重さんっ―――」

どうして、壁ドン、してほしかったんですか?
そう口にしないけれど、目で訴えていた。
顎に触れる左手は、指先までも温かい。子どものように無垢なままで、彼女は私を、包んでしまう。
きっとそれは、これから先も続いてほしいという、私の願望の象徴なのだろうけど。

「―――」

名を呼ぼうとした声は届かなかった。
身長はさゆみの方が高いのに、里保の方が大きく見えた。
視線が重なったふたりは、どちらからともなく目を伏せる。
光を遮って、唇に降ってきたのは、甘いキス。
暗いのに、明るくて、温かい。
触れたその一瞬で、世界は彩りを取り戻し、眩く白く、広がっていく。

深くならずに離れた唇。
名残惜しくもそれ以上は求めずに目を開くと、彼女が深く息を吐いた。
まるでそれすらも色を付けているようで、私は思わず視線を泳がせる。
キミの吐息は、そう、とても、紅い。
585 :close :2015/02/17(火) 22:19
「……みっしげさん」

睫毛の先が、微かに雫で濡れていた。
そんな気がしたのは、彼女の瞳があまりにも輝いていたからだろうか。
現実か幻か、私は分からないままに首を傾げる。

「壁ドンって、どうやったら、終わり、なんですか?」

くるくると表情を変える彼女は、今やもう、16歳というよりも、加入当初の幼さを前面に出していた。
迷子の彼女を、このまま置き去りになんてできない。
そもそも、迷わせてしまったのが私なのだから、しっかりと責任は取りたい。
それが大人の、役目だから。

「……さゆみのこと、飽きるほど、愛してくれたら。かな?」

そう、思っているのに、どうしても、離したくない。
彼女の背中に回した腕に力を込めると、彼女は困ったように、恥ずかしげに、そして誇らしく、笑う。
さゆみしか知らない、大人で子どもな、鞘師里保の、表情。

「飽きることなんて、ないですよ」
586 :close :2015/02/17(火) 22:20
 
―――いつだって私は、道重さんに夢中です。


そう聞こえた気もしたけど、言葉は唇に吸い込まれ、私はそっと求められるがままに舌先を伸ばした。
彼女に触れて、熱を感じて、そうしたらもうあっという間だった。
もっともっとと催促して、鼻から息を抜いて、吸って、貪って、好きだ好きだと愛を叫んだ。

彼女の腕が、私の腰に回る。
ぐいっとシャツの中に手を突っ込まれ、その温もりを感じた。


冷たい壁を背にしたまま、唯一無二のシアワセに包まれて、私は彼女とひとつになった。
587 :雪月花 :2015/02/17(火) 22:21
以上です
どういう状況だよというツッコミは飲み込んで下さいw
毎度しょうもない内容で申し訳ないですm(__)m

ではまた!
588 :名無飼育さん :2015/02/22(日) 23:42
嫉妬するさゆや大人びた表情が消え等身大の16歳のりほりほに戻るところとか
たやすく想像できてたまらなかったです!!こんな風に2人が逢えているといいのですが・・・

589 :雪月花 :2015/03/22(日) 18:12
モーニング娘。’15春ツアー、先日参戦しました雪月花です。
メンバーが変わっても、変わらないもの。
メンバーが変わったから、変わっていくもの。
沢山の色が、見事なグラデーションとなって、ひとつの大きな絵を作っていたような気がします。


>>588 名無し飼育さんサマ

コメントありがとうございます!
Dマガで壁ドンネタが出てきていて、もうこれはさゆりほでもやってほしいなあとひしひし思っていますw
とりあえず連絡取り合っていてくれたらいいなぁと…親目線ですねw


今回も性懲りもなくさゆりほです。
1年前に某所に投下したものを加筆修正しています。
590 :刻印 :2015/03/22(日) 18:13
3年振りに訪れた母校の校庭は、活気にあふれていた。
春休みというだけあって、エネルギッシュな学生たちがサッカーやテニス、野球に陸上にと部活を行っている。
体育館ではバレーやバスケ、武道場では剣道と、有り余った体力が汗とともに散っている。
こういうのを「青春」と呼ぶのだろうと思いながら鞘師里保は玄関へと向かった。

自分もあの頃は、こうして彼らのように、必死になって毎日を生きていたんだと思うと、何だか感慨深い。
今だってもちろん、必死なのだけれど。
でも、3年という時間は、確かに此処に存在していて、もう戻らない記憶として、分厚い壁のように目の前に立ちはだかっている気がした。

卒業生である里保は、在校生の靴箱を通り過ぎ、来客用の玄関をくぐった。
お世辞にも綺麗とは言い難いスリッパを履き、用務員室へと歩く。
先ほどの喧騒が嘘のように、校舎内は静まり返っている。教職員達も、部活に駆り出されているのかもしれない。

ペタペタと音を立てて廊下を歩き、用務員室の前に置いてある「来客用名簿」に目をやった。
1枚めくると、聞いたことのある名前が書いてある。同じクラスにはなったことがなかったが、確か、同級生だ。
何人かの友人と来ていたらしい。考えることは皆同じなのだろうと、それに倣って名前を書く。
書き慣れた、だけど画数の多い名字をさらさらと記入し、名簿の横にある「来客」と書かれたネームプレートを手に取った。
首から下げるのは些か恥ずかしいので、とりあえずジャケットのポケットに突っ込む。
帰り際に忘れないようにしようと階段を上がった。
591 :刻印 :2015/03/22(日) 18:14
「……職員室って何階だっけ?」

5段ほど上がったところでその脚が止まった。
記憶力は悪い方ではないが、3年前に卒業して以来、いちども訪れていない場所だ。肝心なことを忘れている。
眠ることが大好きな自分が、その寝る間を惜しんであれほど考えて決意し、此処に来たというのに。
友人たちからポンコツと言われる理由を、今にして分かる。いや、分かりたくないのだけれど。

「上、だよね……」

この校舎は3階建てだ。
1階は校長室や視聴覚室があり、何となくこの階ではなかった気がする。
あとは1/2の確率だ。なんとかなるだろうと再び上り始める。

「こんにちは」

と、2階に上がった途端に声を掛けられ、びくっと肩が上がった。
お得意の人見知りが発動する。もう18歳になったというのに、この性格はちっとも変わらない。
こんなことで社会で生きていけるんだろうかと不安になりながらも「こ、んにちはっ」と挨拶を返す。
上擦った声だったが、相手はさほど不思議な顔はせず「卒業生、だよね?」と話しかけてきた。

「何年前の卒業生かな?」

彼女は、おそらく、この学校の教師だ。
見覚えはなかったが、話し方や纏う空気が、それを示している。
里保が卒業してから此処に来たのかもしれない。
そんなことを思いながら、あまり黙っているのも失礼だろうと、「えっと……3年、前の」と返した。
随分情けない声だ。いい加減に、慣れた方が良い。
委縮することはない。やましいことなんてない。私はただ、ただ、確かめに来ただけなんだ。
592 :刻印 :2015/03/22(日) 18:14
「3年前かー…じゃあ知ってる先生はほとんど異動してるかもね」

彼女は手に抱えた本を持ち直し、「ゆっくり懐かしんでね」と歩き出した。
慌てて会釈を返し、彼女の背中を見つめる。
ひとつに結ばれて黒くて長い髪が揺れる。彼女はそのまま廊下の突当りにある図書室へと入っていった。
まだ胸が高鳴っている。
この緊張はどうにかならないものかとため息を吐き、彼女の発した「異動してるかもね」という言葉を反芻する。

イヤな予感がする。というかイヤな予感しかしない。
里保は彼女が来た方向へと足早に歩く。合わせるように鼓動も早くなる。
果たして職員室は目の前にあった。
耳に残る鼓動を振り払いながら、扉に貼られた座席表に目を通した。

彼女の名前を、探す。
3年前の彼女の席は、扉からほど遠い、奥の座席だったことを思い出す。
高校の入試情報や問題集が並べられた棚の横に、あの人は座っていた。
在学中の3年間で、数えるほどしか訪れなかった場所なのに、なぜか記憶が掘り起こされた。職員室の場所は覚えていなかったくせに。
あの人はいまでもそこに座っているのだろうかとに探す。

が、求めていた名前はなく、聞いたことのない教師の名前が入っている。
他の席まで隅々まで探しても、あの人の名前は見当たらない。
593 :刻印 :2015/03/22(日) 18:15
「あぁ……」

そこで漸く「転勤」というありふれた結論に到達する。
里保が卒業してもう3年になる。あの人は新任だったし、すぐ異動になる可能性は高かった。
想定していなかったわけではない。ただ、実際に現実を突きつけられると、胸に来るものがある。
ガリガリと乱暴に頭を掻く。腹立たしくて、哀しくて、泣きたくないのに、目頭が熱くなる。


―――やめなよ。せっかく綺麗な髪なんだからさ


ふいに、彼女の言葉が甦る。
キツく蓋をして、開かないように鍵まで掛けたはずの記憶の箱から、それはあっさりと飛び出した。
色を付けて、音を纏って、匂いを散らして。
私の中に飛び込んできた彼女の姿は、眩しかった。
黒くて艶のある長い髪をひとつに結わい、それとコントラストするほど真っ白な肌は、若さと美の象徴だったのだ。
594 :刻印 :2015/03/22(日) 18:15

――――


桜舞う4月の入学式。
足元からせり上がる春先の冷たさと、窓から射し込む暖かな陽射し。
対称的なふたつの寒暖の中で繰り広げられるのは、校長の挨拶と、教育委員会の祝辞、市長からの祝電披露といった、お決まりの式典。
自分たちを迎え入れてくれるはずなのに、主役はそちらなのだよなと、新入生の里保は子どもながらに、思った。
退屈というか、単調な時間に眠気が訪れ、瞼が自然と重くなる。
入学式早々、居眠りなんてあるまじき行為。
そんな事を分かりながらも軽く目を閉じていると、その人が教壇にのぼった。

「こんにちは。今年度よりお世話になります、道重さゆみです」

透き通った柔らかい声が体育館に響いた。
里保は弾かれるように目を開き、教壇を見つめる。
どうやら、新任教員の挨拶のようだった。
暗めのパンツスーツを身に纏い、背筋を伸ばして真っ直ぐに佇む姿は、凛としていた。

久し振りの若手の教師の就任に、生徒はおろか、同僚となる教師たちがいちばん浮き立っていた。
実際に彼女は、この学校のどの教師よりも、美しかった。
思わず生唾を呑み込んでしまうほどの存在を、里保はそのとき初めて見た。
12歳という幼さで「初めて」と言ってしまうのは、大袈裟で馬鹿げているかもしれないけれど、あの当時の里保にとっては、それが世界の真実だった。
595 :刻印 :2015/03/22(日) 18:16

-------


「どうしようかな……」

道重先生が座っていた席を指でなぞる。
知らない名前の教師を消すように、ぐりぐりとなんどか親指で押し潰す。
いまこの場でガラリと扉が明けられたら、間違いなく変人扱いされるなと苦笑しながら踵を返した。

予定が狂った。
そもそも予定なんてあったのだろうか。
昨日あれほど悩んだ末に「確かめる」と出した結論だったはずだったが、結局のところ私は無計画なのだ。
本来はネガティブ思考なくせに、頭の何処かで、どうにかなると思っている節がある。
バカではない。はず。
だけど、想像力は貧相だ。
そう、私に欠けているのは、想像力なんだ。

とにかく先生は、居ない。
居ないのならば、しょうがない。此処に来た意味もない。

「帰ろ…」

ジャケットのポケットに手を突っ込み、ネームプレートがちゃんと入っている事を確認する。
さっきの用務員室に返して、そのまま帰ろう。それ以外に選択肢はない。
廊下を歩いていると、図書室から先ほどの教師が出てきた。
私の姿を認めると、「居なかった?」と首を傾げる。
曖昧に笑って頷き、階段をまた降りていく。ぺたんぺたんと軽い音が校舎に響く。
596 :刻印 :2015/03/22(日) 18:16
遠くで金属音がした。野球部だろうかと考えていると、ふいに頭上をなにかが通り過ぎた気がした。
ハッと顔を上げる。
天窓の先にある切り取られた青空を、何羽かの鳥が飛び去っていった。
鳥の種類は分からない。
春なのだから鶯だろうか。もしくは単純に雀、もしくは鳩、あるいはカラス……

「あ……」

また余計な方向に思考が走っていく中、里保は脚を止める。
鳥が去っていった空を仰ぐと、再び記憶が邂逅する。
一生の思い出にも残るような、卒業式の、記憶。
正確に言えば、その前日からの出来事が頭をよぎった。


―――待っていますから


唇を噛み、再び踵を返す。
想像力がないことに、安堵した部分もあったんだ。
逢わなくて良いと、逢えないままで良いと、箱は閉じたままで良いと、思っていたはずなのに。
それでもなぜか、「あの場所」はいまどうなっているのだろうと、思ってしまった。

私は一足飛びに、階段を駆け上がった。
鼓動がまた早くなるが、その理由が体力ゆえなのかは、定かではなかった。短く息を吐きながら3階まで上がり、さらに上を目指す。
そこに通じる扉が開いていなかったらどうしようという不安もあったけれど、それなら、今度こそ潔く諦めるつもりだった。
597 :刻印 :2015/03/22(日) 18:17
だが、結果的にそこは開いていた。
やる気のない「立ち入り禁止」と書かれたプレートを見つめ、ひとつ息を吐いた。


あの頃、積極的に何か行動を起こしたわけではなかった。
自分の中に芽生えたこの感情の名前を見つけることができなかったし、見つけることを恐れていたせいもあった。
それは、ひと言で表わすならば「憧れ」であったし、もう少し限定するならば「信頼」であった。
生徒が教師を尊敬し、信頼すること自体は当たり前のことでもあった。
ただ、自分と同時期にこの中学校に赴任した道重さゆみという新任の教師に対する感情としては、少し異例だったかもしれない。

数学教師であった道重さゆみは、あまり人とのかかわりを深く持とうというタイプではなかった。
それでよく中学教師なんて職に就いたなと、極度の人見知りである里保が思うほどに、だ。
彼女は、生徒との接し方も、同僚の職員とのコミュニケーションも、活発な方ではなかった。
ただ、彼女の外見の美しさゆえ、何人もの男性職員が彼女に声を掛け、頻繁にデートに誘っていたことは知っている。
その結果、男性職員が悉く玉砕し、その憂さ晴らしのためか、さゆみに対して謂れなき中傷の噂が流れたことがなんどもあった。
当の本人は言い訳もしなかったし、肯定もしなかった。
そういう「孤高」という言葉がよく似合う姿に、職員たちはますます惹かれたし、少なからず生徒たちの間の話題にも上った。

里保がさゆみと話したことは、数えるほどしかない。
入学してから卒業するまでの3年間、いちども担任になったことはなかったし、里保の学年の数学教諭はさゆみではなかった。
たまに担当教諭が出張や欠勤した際に代理で担当することがあったくらいで、接点自体少なかった。


だけど、その数えるほどの接点は、中学を卒業して3年経ってもなお、里保の心に楔を打ち込み、外れてはくれなかった。
598 :刻印 :2015/03/22(日) 18:17

――――


後々、色濃く残る事になる最初の接点は、里保が2年生の秋、学園祭を1ヶ月前に控えたころのことだった。

「上手いんだね、ダンス」

昼休み、屋上でひとりステップを踏んでいるときに、そう声を掛けられた。
だれもいないと思い、スカートのことも気にせずに派手に踊っていた里保は急に恥ずかしくなった。
慌ててヘッドホンを外してぺこっと会釈する。

「良いよ、気にしないで」
「……気にしますよ」
「だいじょうぶだいじょうぶ。さゆみ、見てるだけだから」
「それが気になります」

見てるだけってどういうことだよ、と思ったが、彼女は柔らかく笑っただけで答えなかった。
手近なところに腰を下ろし、さあどうぞ踊って下さいと言わんばかりに手を出す。
人に見られて踊るのは苦手だ。しかも接点がほとんどない年上の人に。
どうしよう、このまま教室に戻ろうか。いや、それはそれで失礼だろうか。でも、道重先生と話したことないし…
ていうか道重先生って、こういうふうに笑うんだ、なんていろいろ思案しながら頭を掻く。

「やめなよ。せっかく綺麗な髪なんだからさ」
599 :刻印 :2015/03/22(日) 18:18
その声に顔を上げると、道重先生はといえば、鼻歌交じりにお弁当の蓋を開け始めた。
おいおい、ダンス見るんじゃなかったのかよ、とツッコミを入れようかとも思ったけど、やめた。

「いただきまーす」

食べるのかよ!という言葉が喉まで出かかったけど、堪えた。
なんだこの人。いや、この先生。マイペースなんだろうか。よく分からない。
授業中に見たことのない表情や声に、拍子抜けする。
肩を落とし、教室へと戻ろうとすると、「帰っちゃうの?」と先生が声をかけてきた。
その声はずいぶん甘くて、柔らかくて、思わず脚を止めてしまった。
ふいっとさゆみの方を向く。自然と視線はお弁当へと向いた。

ピンク色の箱の中でひときわ目を引いたのが、鮮やかな黄色い玉子焼きだった。
遠目でも分かるほど輝いていて、ふわふわで、美味しそう、と思った。
その隣にタコさんウィンナー、端の方にきんぴらごぼう、隣にブロッコリーと色鮮やかだ。

「あ、食べる?」

さゆみは私に弁当箱を差し出してきた。
よっぽど物欲しそうな目をしていたのだろうかと、慌てて首を振る。
が、直後に「きゅぅ〜」とお腹が鳴った。なんというタイミング!なんてこったい恥ずかしい!と心の中で叫んだ。

「……可愛すぎるって」

先生は口元に手をやると、目を細めて笑った。
くしゃりと顔を崩すその様は、本当に、少しだけ年上のお姉ちゃんに見えた。
600 :刻印 :2015/03/22(日) 18:18
ていうか、私、お腹の音おっきすぎ。
もう、もう、やだ。

顔を赤らめてふいっと視線を外す。
すると彼女は笑いながら手招きをした。

「座りなよ。いっしょにご飯食べよ」

完全に相手のペースに呑まれていると自覚しながら、結局里保は彼女の隣に腰を下ろした。
人と話すときの、いつもの癖。少しだけ距離を取る。
さゆみはそんなこと気にしてない風に「どれでもどうぞ」と弁当箱を改めて差し出してきた。
ひょいと覗き込むと相変わらず色鮮やかな食材たちに、目移りしてしまう。
だけど、どうせもらうのならいちばん気になっていたのにしようと「玉子焼き、良いですか?」と訊ねた。
頷いたのを確認したあと、箸を借り、玉子焼きを挟んだ。
思った通り、ふわふわだ。箸先から伝わる感触で分かる。
そのまま口に運んだ。ひと口で玉子焼きは姿を消す。あ、女の子らしく分けて食べるべきだったかな?まあ、良いや。

「……甘い」

率直な感想が口から零れた。
甘いと言えど、砂糖のような甘ったるさではない。
玉子本来の甘みと、醤油、出汁醤油だろうか、それが合わさった料理特有の甘みだ。

「あ、甘いの嫌い?」

だがさゆみは、それを苦手という風に捉えたのか、心配そうに里保を覗き込んできた。
それが思いのほかに近くて、思わず身を引いた。
真っ黒な黒曜石のような瞳が印象的だった。心臓がばくばくと唸る。
601 :刻印 :2015/03/22(日) 18:19
「美味しい、です」
「そっか。良かった。それ結構自信あったからさ」

さゆみはそう言うと、嬉しそうに目を細めた。
黒曜石の瞳がなくなって、代わりに長い睫毛が映える。
目を開けても、閉じても、綺麗になれる。この人は、美しい。知っていたけど、再認識する。

「もう1個食べる?」
「いえ、もう、だいじょうぶです」
「遠慮しなくて良いよ。てかご飯ちゃんと食べたの?」

ひとまず箸を返すと、彼女が「先生」らしいことを言ってくる。

「消化、されちゃったみたいです」
「さっきのダンスで?キミ、結構激しく踊ってたもんね」

さゆみは箸でひょいときんぴらを掴んで口に運んだ。
それを聞きながら、私に話しかけるまでどれくらいの間、私を見ていたんだろうとふと思った。
話しかけるタイミングをうかがっていたのだろうか。それならいっそ話しかけなくても良かったのに。

「あ。間接キスだね」

制服のポケットにしまっていた携帯電話を取り出そうとする手が止まった。
相当訝しげな表情をしていたのか、彼女はまたくすくす笑い、「今度の学園祭で踊るんでしょ?」と話を変えた。
いまの発言の意図はなんですか?と聞き返そうかと思ったが、藪蛇になりそうだったし、また、やめた。
そんな小さいことを気にしてはいけない。と、とりあえず言い聞かせる。
602 :刻印 :2015/03/22(日) 18:19
「学園祭のこと、なんで知ってるんですか?」
「え?職員室で聞いたよ。今年は2年のサヤシがダンス大会に…あ、サヤシってどういう字書くの?」
「さや……刀の鞘に、師匠の師、ですけど」
「難しいなー……珍しいね、鞘師って」

話をしても、よく分からない先生だと思った。
初対面だから当然かもしれないけれど、噛み合っているようで噛み合わない。会話も、思考も。
別に嫌いではないけど、得意ではないのかもしれない。

「なんで、此処なんですか?」
「うん?」
「職員室で、食べれば良いじゃないですか」
「あー、お昼ご飯のこと?さゆみ苦手なの。知らない人に囲まれて食事するの」
「……私も知らない生徒じゃないですか」
「ああ、そうだね。でも、もう知らない生徒じゃなくなったね」

はぐらかされた、という言葉がこれほどしっくりきた瞬間はなかった。
これが大人の特権なのか、「バカ正直」という言葉がよく似合う私には真似できそうにないと肩を竦める。
立ち上がると同時にスカートを軽くはたき、ヘッドホンをかけ直した。
先生はなにも言わずに、そのまま弁当からおかずを口に運ぶ。

関わりたくないと思ったわけじゃない。
だけど、どうやって関わっていいか、分からなかったんだ。
あの頃の私にとって、道重先生は、ただの数学の先生で、それ以上でもそれ以下でもなかった。

ただあの日、私が学園祭の練習をしているときに、たまたま同じ空間でお弁当を食べただけ。

ただ、それだけだった。
それだけの、はずだったんだ―――
603 :刻印 :2015/03/22(日) 18:20

-------


私はもういちど深く息を吐き、屋上へと通じる扉を開けた。
そこは、あの日と同じように、青い空と柔らかい南風へと繋がっていた。

「まぶしっ……」

天高く上った太陽に目を細める。
屋上の中心へ足を進め、子どものように両手を広げてみた。
春が待ち遠しい風が通り過ぎ、里保のスカートを揺らす。下ろした黒髪が綺麗に靡き、心地良かった。
同じ場所、同じ時期、ほぼ同じ時間だというのに、こんなにも印象が違うのかとぼんやり思う。

目を開けて、澄んだ「青」に手を翳した。
手の平から零れる太陽は、あの日と同じように里保を笑っていた。


―――話があるので、卒業式が終わったら、屋上に来てくれますか?17時まで、待っていますから。


卒業式の前日、なんともありふれた手紙を職員室のさゆみの机上に置いてきた。
ありがちではあったけれど、里保にとってはかなりの勇気が必要だったし、その勇気に対し、自分を褒めてあげたいものだった。
話したことなんて数回しかないにも拘わらず、この感情が溢れそうになった理由さえも分からない。
どうして想いを伝えようなんて馬鹿げた思考に至ったのか、やはり理解できなかった。
604 :刻印 :2015/03/22(日) 18:20
ただ、そんな分からないことだらけのままでも、里保の一大決心は変わらなかった。
いま伝えなければずっと後悔してしまうような、心の中のつっかえが取れないような、そんな妙な感情を抱いていた。
道重先生と話した機会が数回しかなくても、その数回の間に芽生えた憧憬は、深く深く侵食し、里保のすべてを呑み込んで、
「これが最初で最後の恋だ」と勘違いさせるほどの破壊力さえ携えていた。

いまにして思えば、中学卒業の思い出づくりだったのかもしれない。
ロクに恋愛もせずに、同級生から告白もされず、浮いた話のひとつもなかった青春のいちページに、自分で無理やり刻もうとしたのかもしれない。
それでも里保は、彼女に想いを伝えようと考えに考え抜いた結論を、卒業式の当日に実行することを決意した。


「青いよなー…」

四方をフェンスに囲まれた屋上のど真ん中でそう呟いた。
どう考えたって支離滅裂で、理解に苦しむ、青臭い感情だと思う。
だから、手紙を貰った先生だって、そう考えたのかもしれない。


それは思春期の女子学生にありがちな、年上の同性に対する憧れです。
「同性愛」という否定的なレッテルを貼らずに、温かく見守りましょう。
一時的なものであり、大人になるにつれて消えていくものです。


教員向けの指導ガイドにそういう文言が書かれていても不思議ではない。
マンガや小説にありがちな「百合」の世界なんて、そう簡単に広がってるものじゃない。
いまでも里保はそう思っている。その考えはあの頃から変わっていない。
道重先生は「普通」だから、この感情は私だけのものなのだと、ある種の意固地と思い込みを携えて屋上で待っていた。
まさかその想いが、卒業から3年経ったいまでも残っているとは、あの頃の自分でも想像がつかなかったけれど。
605 :刻印 :2015/03/22(日) 18:20

――――


卒業おめでとう。キミたちのこれからの門出を祝して。
大人たちの見得と虚勢を張ったありがちな挨拶を受け流し、校歌と「蛍の光」を唄う卒業式。
3年前に経験した入学式とあまり変わらない空間を過ごし、教室に帰って、担任から挨拶を受け、最後に皆で記念撮影をする。
里保だって人並みに泣いたし、同級生と離ればなれになることは寂しかった。
だけどそれよりも、気持ちは屋上に走っていて、一刻も早くあそこに行かなくてはとそわそわしていた。

お昼過ぎ、太陽がてっぺんに昇ったころ、ひと通り写真撮影が終わったクラスメートたちが少しずつ帰っていく。
里保はその流れに逆らいながら、屋上へと走った。
いつものように、くたびれた「立ち入り禁止」のプレートを跨ぎ、鍵も掛けられていない屋上の扉を開ける。
ぎぃっと重苦しい音を立てたあと、春風が真正面からぶつかってきた。
抜けるような青、千切れた白い雲、桜はまだ咲いていないけれど、どこか優しい香りを運ぶ季節を感じた。

「1時、か…」

時計を確認してぽつりと呟く。その言葉はふわりと浮いて風に乗って消えていった。
卒業式の今日は、もともと午前中で終わる予定だったので、当然、給食なんてない。
そんなことを認識すると、急にお腹が空いてきた。
ぐうっと鳴ったお腹に苦笑しながら、校庭を横切る卒業生ばかりを、里保はぼんやりと見下ろした。
いつも私は、お腹が空いているらしい。

「部活の謝恩会、美味しいもの食べるんだろーなー」

ずいぶんと場違い場ことを考えながら、里保はそれでも、ちゃんと待つことにした。
17時まで。これから4時間。結構な幅があるなあって少しだけ後悔しながら、だけど来てもらえることを信じ、里保はすうっと息を吸った。
606 :刻印 :2015/03/22(日) 18:21
 
期待していなかった、と嘯くことになんの意味もない。
頂上に居座っていた太陽は徐々に高度を下げ、里保と視線が変わらない位置でオレンジに染まっていた。
なんども時計を見ながら、意味もなく屋上をうろつきながら、流行の音楽を口ずさみながら、待った。
道重先生が来てくれたらなんて伝えようかと、なにを話そうかと考えながら、待った。
来てくれなかったらどうしようという不安と闘いながら、それでも自分を奮い立たせながら、待った。
帰りが遅くなると親にメールを送って、ヘッドフォンから流れるリズムに乗ってステップを刻みながら、待った。

待っている間にやることも尽きて、里保は屋上の扉の周りを一周した。
壁にはいくつかの落書きがされていて、その中にはクラスメートが書いたであろうものもあった。

「だれだよ、これ」

クラスメートが書いたと思われる「3年2組最強!」という走り書きには、何年度の卒業生かが書いていなかった。
これじゃ数年後には忘れられるのだろうと苦笑する。
マジックも油性なのか水性なのか判別できないし、中にはボールペンやシャーペンで書かれたものもある。

再度、時計を見た。現在、16時36分。
あれからもう3時間以上経ち、そして、勝手に設定したタイムリミットまでもう30分もないことを再確認する。
夕暮れが心を冷やしていく。
覚悟と、そして哀愁を同時に感じる。
息を吐き、ふと床に落ちていた釘に気付いた。
607 :刻印 :2015/03/22(日) 18:21
他の卒業生たちと同じようになにかを書くつもりなんてなかった。
だけど里保は、膝を曲げ、錆びついたそれを拾い、知らぬ間に刻んでいた。
ガリッガリッと鈍い音を立てて壁を削り、爪痕を残すように、刻んだ。
汚れた古釘を鉛筆のように持ち、指が痛んだら持ち替え、不格好ながらに掘っていく。

「なにやってんだろ…」

自分のイニシャルを刻み終えた直後、ふいに理性が顔を出した。
壁に掘られたものを眺める。

三角形の底辺真ん中から1本線が飛び出した、ありがちな傘マーク。
その線の右側に「R・S」と名前が刻まれている。

壁を指で擦るが、釘で削った刻印が消えるわけもない。
古い釘であったのが幸いし、深く削れたわけではないので、遠目には分からない。
だが問題はそこではない。
線の左側は空白のままで、そこにだれの名前も刻むことはなかった。
刻むことが、怖かった。
怒られることよりも、見つかってしまうことが。

想いを伝えることよりも、この自分だけの秘め事を、先生以外のだれかに知られてしまうことが。
608 :刻印 :2015/03/22(日) 18:22
 
そしてまだ、先生は来ない。

きっともう、来てくれない。

来たとしても、里保を受け入れてくれない。

先生は、私とは違う。先生は「普通」の人だから。


唐突に、すべてが怖くなり、イヤになった。
太陽の輝きが徐々に落ちていく。逢魔が時が夜を連れてくる。
だれの声もしなくなった校舎が、薄紫に染まっていく広い空が、生温さを感じさせる夜風が。
道重先生の無機質で色のない瞳が、拒絶されたらと考えてしまったら、怖くて寂しくて堪らない。

沢山の感情が、洪水のように押し寄せてきた。
何処かでカラスが啼いた声を耳にした途端、里保はまるで子どものように泣きじゃくりながら駆け出した。
約束の時間までもう数分の猶予があったけれど、此処に留まることができなかった。
考えなしで、甘ったれで、なにをしているのだろうと涙が止まらない。
一世一代のような想いを携えても、現実なんてそんなものだと突き付けられた気がした。
ただひとりで突っ走っていただけで、なにも分かってはいなかった。

階段を降り、靴箱から飛び出す。
だれもいない校庭を横切り、校門を出た。

卒業おめでとう、と、木々がざわめいた、気がした。
609 :刻印 :2015/03/22(日) 18:22

-------


「恥ずかし……」

過去を思い出すのは苦手だ。
あまりにも青臭くて、あまりにも滑稽で、あまりにも輝きすぎていた、思い出。
それこそ、思春期の女の子にありがちな妄想と激情だ。

いま思えば、いろいろと別のやり方があった気がする。
呼び出しだって、紙ではなく口頭で伝えた方がはるかに確実だったし、なにも式の当日ではなく、数日後の休日でも良かったはずだ。
いきなり告白という方法を取らず、メールでも電話でも、少しずつ距離を詰めていく方法はいくらでもあったはずだ。
急に想いを伝えるなど、一足飛びどころの話ではない。
そういう変な過去を持ってしまったがために、いまでも想いを拗らせているのだろうかと頭を掻く。


―――髪、傷むよ


そして、次の記憶が甦る。
先生と交わした数少ない言葉の中で、何度となく言われたのは、この髪の事だった。
彼女も艶のある黒髪だったけれど、そんなことどうだって良いように、「鞘師の髪、綺麗だね」と微笑んでくれた。
610 :刻印 :2015/03/22(日) 18:22

――――


そう、あれは冬の事だ。
試験期間にインフルエンザにかかった私は、数週間後、補修と追試を受けることになった。
ひとり、別室に閉じ込められ、訳の分からない問題を解いていく。
室内には、私と、先生しか居なかった。
彼女は黙って椅子に座り、本を読んだり、時折私を眺めたり、時計を見たりして、時間をつぶしていた。

私はと言えば、当然のように、問題が解けなかった。
勉強できなかった、というのは所詮言い訳でしかないのだけれど。
意味があるような気がしない文章の羅列に苛立ったように髪を掻くと、「髪、傷むよ」と彼女が里保の手を取った。

「綺麗な髪なんだから、ダメだよ」

黒曜石のような深い瞳に射抜かれて、急に熱が上がったように感じ、思わずその手を振り払ってしまった。
直後、「すみませんっ…」と慌てて謝るが、先生は気にしていないように笑った。
手の平に残った先生の温もりが、あまりにも尊く感じる。
先生はまた、手元の本に目を戻した。
ブックカバーが付いた本のタイトルを知ることはなく、ただ、私に触れたその指先を折ってしまう。
真っ白くて細い指、綺麗なピンク色の爪、子どものように小さな私のそれとは大違いだった。

結局私は、集中力も欠けてしまい、追試は散々な結果になった。
611 :刻印 :2015/03/22(日) 18:23

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漸く記憶の迷路から抜け出し、両手で顔を覆って悶絶する。
もう、もういい加減にやめにしよう。恥ずかしくて、このままではどうにかなってしまいそうだ。

3年も引きずった想いの結果を確かめるために、「あの頃」が詰まった中学の校舎にやってきた。


どうしてあの日、此処に来てくれなかったんですか、と。


結果なんて見えていた。
気持ち悪いとか、生徒と教師とか、忙しかったとか、たくさんの理由はあったんだと思う。
だけど、その真実を、道重先生の口から直接確かめたかったんだ。
そうしたら、この想いが断ち切れるんじゃないかって、そう、昨日、決意したんだ。

だけど結局、私はあの頃からちっとも成長しちゃいない。
やめよう、忘れようと心に言い聞かせているにもかかわらず、なぜか記憶が離れてくれない。
いまでも心に刻まれているのは、告白の日に感じた先生の無機質な瞳ではなく、あの黒曜石のような深い瞳だった。
これ、3年どころか5年も引きずりそうだなと覚悟する。

今日、先生に逢えなかったことで、いよいよ想いを確かめる術はなくなってしまったのだ。
もしかしたら、一生消えてくれることはないかもしれないし、すぐに青春の一ページだったと笑って、失くなるかもしれない。
612 :刻印 :2015/03/22(日) 18:23
どちらでも良い。
いずれにせよ、もう、終わってしまったのだからと、里保は屋上の扉の裏手に回った。

壁の落書きは当時よりも増えていた。
あの日見つけた「3年2組最強!」は、雨風にさらされたせいかずいぶん薄くなっている。
もちろん、シャーペンで書かれた物はとっくに消えてしまっていて、見る影もない。
まあ、思い出ってそういうもんだよな、と妙に達観しながら、自らが刻んでしまったあの傘を探す。

「あ―――」

果たして、その落書きは見つかった。
瞬間に、両の目から涙が溢れ、世界から音が消えた。
野球部の金属音も、陸上部のスターターも、テニス部の掛け声も。なにもかもが聞こえなくなる。

膝を曲げないと書けない、壁の下部。
不格好な傘マークと、「R・S」というイニシャル。
あの日空白にしたままだった左側。

ただ無機質で小汚い壁だった空間には、「S・M」という文字がしっかりと刻み込まれていた。

「うそ……」

そんなこと、あるはずがない。
これはだれかのいたずらだと必死に言い聞かせる。
あの人じゃない。先生じゃない。こんなこと、先生は―――
613 :刻印 :2015/03/22(日) 18:24
困惑する思考をよそに、里保の瞳は、それを見つけた。

傘の下、もう地面と設置してしまいそうなその場所。
いったいどんな体勢で掘ったのだと考えてしまうような、見えにくい、見つかりにくい、そのスペース。


―――2015/3/22 16:58


それはあの日、ふたりしか知り得ないあの約束の2分前だった。
すべてが怖くなり、寂しくなり、どうしようもなくなって逃げ出した直後の時間だ。
ガクガクと震える脚で、それでも里保は真っ直ぐに立ち、日付の、さらに下を見る。
まるで見つかる事を恐れていたように、それでも微かな願いを込めて印したのは、彼女の、想いだったのだろうか。


―――おそくなってごめんね


太陽が沈み、世界を闇が呑み込む直前、彼女は、此処に来た。
なにを考えて、なにを感じて、なにを意図して、彼女がこれを刻んだのかなど、やはり里保には分からない。
だけど。だけど。だけど。

「先生…」
614 :刻印 :2015/03/22(日) 18:25
止まらない涙を、里保はもう、拭うこともしなかった。
なぜ泣いているのかも、上手く説明できない。
消えることのない、古釘で刻んだ、彼女の想いの痕。
あの日、何処をどうすれば良かったのか、なにをどう選択すれば良かったのか、どう伝えれば良かったのか。
後悔と、痛みと、失望と、そして幾ばくかの温もりが里保を包み込む。

「道重先生……」

さゆみの言葉やさゆみの表情が浮かんでは消えていく。
数えるほどしかなかった接点が、まるで永遠の記憶のように新たな楔を打ちつづける。
雨風が吹いても消すことのできない刻印を、里保はなんどもなんども、その指でなぞる。

「せんせぇっ!!」

時間はただ、そこに厳然と立ち竦む。
壁にいくら叫んだところで、その感情はあの人には届かない。
それでも里保は、叫び続ける。

空に輝く春の陽は、あの日と同じように柔らかく射し込んでいた。
温かい風が、花の香りを誘って前髪を揺らしていく。

里保の涙が頬を伝って地面に落ち、ゆっくりと染み込んでいった。
春は音を立てることなく、里保の傍にそっと舞い降りた。
615 :雪月花 :2015/03/22(日) 18:26
以上です
卒業シーズンということで…たまにはこんな感じで。。。
最近はホントにさゆりほしか書いてないのですが、ぼちぼち違うのにも挑戦していきたいなと。

ではまた!
616 :名無飼育さん :2015/05/26(火) 16:34
さゆりほは2人の不器用さゆえか切ないお話も合いますね
幸せになってほしいんですが・・・
617 :雪月花 :2015/07/13(月) 23:58
舞台「トライアングル」観てきました、雪月花です
今回も凄い舞台でした…
メンバーの成長に、泣きました


>>616 名無し飼育さんサマ

ありがとうございます。
ヘタレと奥手というか…一歩踏み出す勇気がないが故に噛み合わない二人が好きです
またいつか、この二人もどこかで…と祈ります。


今回は滑り込みで、道重さん生誕記念です
618 :ココロと言葉 :2015/07/13(月) 23:59
それは一年に一度の、お祝いの日。
彼女ほど、インターネットに詳しくない私でも、その反響は手に取るように分かった。
これほど多くの人が、あの人のことを待っていて、シアワセを願って、お祝いをしている。

きっと、ファンの方に比べたら、私はとても恵まれている。
彼女のメールアドレスを知っているし、電話番号も分かる。行こうと思えば、お家にだって、行ける。
だけど私は、相変わらず、その一歩を踏み出せない。
春ツアーの初日も、千秋楽も、舞台の初日も、やっぱり千穐楽も。
私から脚を踏み出すことはかなわずに、何度も向こうから、扉を叩いてもらった。
これじゃいけないって分かってるし。だけど、あの人から来てくれるこの状況に自惚れていることも事実だった。
私はホントに、何もできない、子どものままだと思う。


―――読むよりも早く、ココロを知る近道もある。それは、言葉。思っていることを、口にすること。


私が演じた、キリ・ド・フォン・ルキアノス。
触れるだけで人のココロを読むことのできる彼は、そう言って、サクラ姫の背中を押した。
最も大切なものを手に入れるために、ココロを伝えにいけと。
619 :ココロと言葉 :2015/07/14(火) 00:00
演劇の仕事を何度か経験させてもらっている。
なかなか役に張り込むのは難しくて、本番中ですら、その芯を捕まえるのに苦労する。
それなのに千穐楽を越えるとすぐに、「役」は天へと還ってしまう。
最近は前髪を切ったこともあり、余計に、私からキリ中尉の面影はなくなっていた。

どうせなら、「彼」がいる間に、彼女の誕生日を迎えられていたら良かったのにとも思う。
そうすればきっと、あの大胆で低い声を武器にして、大股で彼女のもとへと歩けたはずだ。
こうして言い訳をすることに何の意味があると苦笑しながら、ベッドから起き上がる。


あと数時間で、今日という日は終わってしまう。
あれこれうじうじ悩んでいる間に、いつも夜を越えてしまう。

一年に一度、なのに。

こんな日にですら、勇気を失ってしまうのか、私は。
どうしていつも、肝心な時に見失ってしまうのだろう。
この声を絞り、指を震わせ、感情を惑わせるものなど、いらない。
必要なのはただ、あなたに触れるための、その微かなココロだけなのに。
620 :ココロと言葉 :2015/07/14(火) 00:00

―――好きという気持ち、それは、人に譲るほど安くない


キリ中尉の声が、頭をよぎる。
ああ、キリ中尉。
あなたは。

あなたなら、伝えられましたか?
あなたのもっとも大切な人に。自分のココロを、言葉にして。
しっかりと伝えることが、できましたか?


―――好きという気持ち、それは、あなたがあなたである証


弱気になる自分を鼓舞するように、ぱんと頬を叩いた。
621 :ココロと言葉 :2015/07/14(火) 00:00
キリ中尉キリ中尉うるさいな。

私は、私は、私は。


―――素朴な鞘師が好き


負けるな、自分に。
私は、道重さんが愛してくれた、鞘師里保だ。
自信を持て。大丈夫だって、胸を張れ。

「んええい!」

悩みに悩んで、1時間半。私は漸く通話ボタンを押していた。
コール音が、続く。
4回・5回・6回……暫く待ったところで留守電に切り替わり、肩を落とした。意を決してかけたら、このザマだ。
タイミングとは得てして、こういうものかとも思う。
寝てしまったのかもしれない。それに、御家族で過ごしているはずだし。
久し振りに誕生日を朝から一緒にお祝いできるなんて、素敵なこと。

「しょうがない、か」

何処かほっとしている自分もいて、やはり恥じる。
結局成長のカケラもなく、私はまた―――
622 :ココロと言葉 :2015/07/14(火) 00:01
そう思っていると、手中のケータイが震えた。
突然の事にびくぅっと反応し、気付けば指がスライドしていた。
「あ」と思うのも束の間、通話が始まっていた。

「もしもーし、りほりほー?」

その高くて甘い声に、胸が一気に締め付けられた。
久し振りに聞く淡いそれ。
記憶の蓋が開き、さまざまな思い出が溢れだしていく。
ああ、ああ。

「道重さん―――」

あなたの名前を呼ぶのは、いつ以来だろう?

「ごめんね、電話した?さゆみさっきまでお風呂でさ」

お風呂、という単語に一瞬クラリとしてしまう。
中学生男子かよと思いながらも、軽くパニックを起こしている脳を落ち着けようと深呼吸をする。
自分から電話をかけたくせに、なぜこういう状況になる事を想定できないのか、不思議でならない。
たぶん自分は、考えなしなんだ。
彼女の事に関しては、特に。
623 :ココロと言葉 :2015/07/14(火) 00:01
「すみません……お忙しい、のに」
「ううん、忙しくはないよ」

何度も深く息を吐き、必死に身体を落ち着かせる。

「いい、休業期間だよ」

その言葉に先ほどとは違う胸の痛みを感じる。
私と、道重さんの間に存在する、大きな、壁。
現役時代にも存在したそれは、薄く、だけど高いものだった。
それはきっと、私たちが勝手にハードルを上げてしまったものだったけれど。

でも、今、私と道重さんとを隔てるものは、現役時代のときとは比べ物にならないほどに、厚い。
近いのに遠い。同じ場所で、同じ空間で、同じ時間を過ごせない寂しさが、途方もなく押し寄せてくる。

だけど。だけど。
負けるなともう一度、言い聞かせる。

そんなことは分かっていたんだ、最初から。
今日はそんな現実をわざわざ見に来たんじゃないんだ。

私は。
624 :ココロと言葉 :2015/07/14(火) 00:01
「道重さん」

私は。

「26歳のお誕生日、おめでとうございます」

不思議と言葉に苦労はしなかった。
溢れるとはこういう事なのだろうかと不思議と納得した。

普通の、ありふれた、何の捻りもない、誕生日の言葉だけれど。

それでも、私に紡げるものは、それ以上も、それ以下もなかった。

「ふふ、ありがとう、りほりほ」

だからきっと、返ってくる道重さんの言葉も、それ以上もなく、それ以下もなく。

「また9歳差になっちゃったね」

少しだけ、斜め上を行く。

「昨日まで8歳差だったのに」
「……歳の差、ない方が、良いですか?」
「んー。そういうわけじゃないけど。何か、ひとつだけでも歳が近くなると嬉しい感じ、さゆみだけかな?」
625 :ココロと言葉 :2015/07/14(火) 00:02
例えばそう、2つや3つの違いなら、その言葉にも納得できただろうけど。
私たちの間にある9という壁の前では、8も7も変わらない。
だけど道重さんの云わんとす事も、分かる気がした。

「サマーナイトタウン、ですか」

私の誕生日の前日に発表された楽曲を思い出す。
それをもしたとえとして出してくれたなら、って考えると、嬉しくも、くすぐったい。
本当に、道重さんは、不思議。

「んふふ。どうだろうね」

はぐらかされたけど、良いやって思う。
私はくすくす笑って、「また」と紡ぐ。

ああ、まただ。
触れてもいないのに、ココロが、あふれる。

「また、逢いたいです、道重さん」
「逢えるよ、すぐに」

彼女の言葉は、道しるべになる。
どんな暗闇の中でも、迷わずに歩いていける。
626 :ココロと言葉 :2015/07/14(火) 00:02
旅人を照らす月光は、「しゃぶしゃぶ待ってるよ」とからかうように笑った。

ああ、そういえば、私はまだその約束を果たせていない。

なんとか、なんとかあなたが26歳の間には。

そう勝手な誓いを立てると、道重さんはまた、楽しそうに、笑った。
それはまるで歌っているようで、もういちど、空間すべてを掌握してしまうあなたのパフォーマンスを見たいと祈ってしまう。

ただ、その願いだけは呑み込んで、「しゃぶしゃぶ、誘いますから」と念を押すように、宣言した。

あふれたココロはゆっくりと広がり、遠い17歳と26歳を結んでいた。
離れないようにと繋がれた淡いピンクの糸を辿りながら、道重さんと私は暫く、柔らかい想いを重ね続けた。
627 :雪月花 :2015/07/14(火) 00:03
以上です
アナウンス忘れていましたが、「トライアングル」のネタバレも含んでいるかもなので
お読みになる方はお気を付けください…m(__)m

改めて道重さんお誕生日おめでとうございます!
素敵な1年を!
628 :雪月花 :2015/08/02(日) 18:48
夏バテしそうです雪月花です。


今回は初挑戦の組み合わせです。
アンリアルだし、キャラ掴めていませんし、時期も外していますがよろしければ。
629 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:49
 
 
 
―――ユーフォー。変。


遠くの方で聞こえる声は、一体の誰のものなのだろう。


―――ユーフォー。変。


言葉の意味も、よくわからない。
ユーフォー。UFO?未確認飛行物体?
楽器のユーフォニアムのこと?私演奏したことないけど。
それにしても、それが「変」とは、何の事だろう。

小さな声が、まだ聞こえている。何か単語が続いている。
その声を聞き取ろうと耳を傾けたとたんに、世界が真っ白になる。
「あ」と声を出したのもつかの間、ざあっと風が吹き抜けた。
色の消え去ったその場所で、目の前を、「鮮やか」な「何か」が過ぎ去っていくのを感じる。

ああ、それは―――
630 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:49
 
-------

規則的な目覚ましの機械音がする。
野中美希はベッドから手を伸ばし、その音を消す。
まだ重い瞼を開けるのは億劫だったが、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
ぐっと体を伸ばすと、肩や膝の骨がぱきっと景気良く鳴った。成長期だろうかと目を開ける。と、薄い膜がかかっているような感覚を知る。

ああ、また泣いていたのかと気付いた。
ここ数週間、ずっとこの調子だ。
いつも似たような夢を見て、似たような場所でその夢は終わり、いつの間にか、朝を迎え、美希は泣いている。

「ユーフォー……」

夢の中で、誰かが発したその言葉が、ずっと耳に残っている。
まだしっかりと、その意味を把握できていないけれど。その言葉が示すものが、夢の全貌を教えてくれそうな気がしていた。

「UFOが変」、あるいは、「ユーフォニアムが変」。
少しだけ考えてみるけれど、さっぱり答えにはたどり着かない。
それに、いつも私が行くあの場所は、何処なんだろう。

確かにそこに、見覚えはあった。

最初にこの夢を見始めたころは、世界は白で統一されていたのに、風景は日に日に鮮明になりつつある。
断片的に立ち現れるのは、目の前に佇む壁のようなものと、通り過ぎる「鮮やか」な「何か」。
631 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:50
だが、美希はやはり、思い出せない。
肝心のその場所の名前を。
おそらく足を運んだことがあるはずなのに。

この夢を見ると、どうしていつも、泣いてしまうのだろう。
何かを失ったのか、何かを傷つけられたのか、どうしようもなく、胸が苦しい。

「so sad...」

思わずそう呟きながら、美希はくしゃりと髪をかき上げた。
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。眩しい太陽が射し込んできた。春の陽気を感じられそうな、良い天気だ。


-------

朝食を食べ、制服にそでを通し、あくびを噛み殺しながら通学路を歩く。
桜の咲いた校門を通り抜け、階段を上がって席に着く。
1時限目の準備をしながらも、美希の頭の中は今朝の夢でいっぱいだった。
振り返ってみれば、ここ1週間ほど、その夢は続いている。

夢は神様のお告げ、という話は聞いたことがある。
美希は「God」という存在を信じるタイプではないが、1週間も連続で同じような光景を見せられると、なまじ、考えを改めたほうがよいのかもしれないと思う。
脳科学的にいえば、夢は記憶の整理らしい。
自分がこれまでに経験してきた多くの混在した情報を脳内で広げ、それをしかるべき場所へと納めるために畳み込み、そして整理されていく。
支離滅裂で突拍子もない夢のストーリーは、まさに経験を整理している最中なのだと、先日読んだ脳科学の本に載っていた。
632 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:50
それにしては余計に、謎が残る。
美希が佇んでいるであろうあの場所。かつて自分の行った場所だとしたら、それはどこなのだろう。
あの「ユーフォ」と声を発したのは、誰なのだろう。
私なのだろうか。
あそこには私しかいないのだろうか。
誰かに話しかけている?誰に?その人の姿はこれまでに一度も見たことはない。
そうなると、やはり一人でいるのだろうか。「壁」の前に。
そもそもなぜ私は、あの場所にいるのだろう。

「では次の文章、野中、読んでから訳して」

自分の名前が呼ばれていることに、一瞬気づかなかった。
回していたシャーペンが指から滑り落ちそうになり、慌てて返事をして、立ち上がる。
黒板に書かれた長文を目に入れる。
あ、英語で良かった。と安堵しながらも、「I wonder what you look like when you sing, I wonder how your voice sounds like when you laugh」と流暢に喋った。

美希は、幼いころはアメリカに住んでいた。
もともと父の仕事の関係で英語に触れる機会が多く、3歳のときから英会話教室とピアノを習っていたらしい。
その後、6歳のときに父とともに渡米し、今年の春、日本に戻ってきたばかりだ。
いわゆる「帰国子女」という扱いである美希は、日本語の短縮した言葉、例えば「うざい」という意味が分からなかったし、文化の違いにも慣れるまでに苦労していた。
母国なのに異国人というような、妙な感情は未だにある。

「よし、座れ」

無事に和訳し、着席する。
得意な言語で良かったけれど、これが数学や歴史だったら、たぶん答えられなかった。
633 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:51
ちゃんと意識を集中させようと教師の言葉に耳を傾けようとしたとき、「すごいなぁ、野中ちゃん」と話しかけられたことに気付く。
隣に座る尾形春水が、教科書で顔を隠しながら笑いかけていた。

「うちなんかサッパリわからん」
「……たまたま、だよ」
「英語ぺらぺらなりたいわ。それより先に静岡弁覚えんとやけど」
「静岡弁、そんなに訛りないよ?」
「でも大阪弁うざいやろ?」
「そんなことないよぉ」

春水は新学期から、こちらも父の仕事の都合で静岡に引っ越してきた。
幼いころから大阪に住んでいたため、訛りは強い関西弁のままだ。
その言葉の違いは、田舎であるこの学校では珍しいものとして映り、少し特異な目で見られることも多い。
だが、春水は持ち前の明るさと社交性で、あっという間にクラスの人気者となった。
そういう姿が自分と違って羨ましいと美希は思う。

だけど春水は、そんな美希の心を知ってか知らずか、ほかの級友と同じように分け隔てなく接してくれる。
こういったところが、彼女の人気の所以なんだろうなと美希は理解する。

「英語覚えるコツとかある?」

教師はとっくに次の英文を黒板に書いているのに、春水はまだ話しかける。英語の授業は、つまらないのかもしれない。
美希は苦笑しながら「音、かな?」としばし考えて、答えた。

「音?」
「うん。耳で聴いた音を、まずそのまま口に出す。“音”で覚えて身体が慣れていったら、文字として覚えて、意味を覚えていくと良いって、向こうの先生言ってたよ」
「音、かぁ……」
634 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:52
春水はそう言うと、長文を読み始めた教師の声に耳を傾け始めた。
聞き取った音を真似るように、小さく自分で反芻する姿は、純粋というか、不思議な幼さを秘めていてふっと目を細めた。

美希もまた、黒板に向き直る。


―――ユーフォー。変。―――ユーフォー。変。


ふと、夢の中の声が蘇る。
もしかすると、あれも英語だったのだろうかと考えた。

もういちど、言葉をかみ砕く。
「ユーフォー」。単純に考えれば、「you」「for」だろうが、「変」はなんだろう。
「変」……「hen」ってこと?

美希は電子辞書を開く。
「hen」と入力すると、雌鶏という単語が出てきた。 
「you for hen」、「雌鶏のためのあなた」、どういうことだよとまたシャーペンを回す。
もしくは「for」ではなく「four」だろうか。
「you four hen」。あなたは4羽の雌鶏です。絶対違うな。さっきより意味は通じるけど。私雌鶏の友達いないし。
635 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:53
言葉がまだ足りないのだと思う。
断片的でなく、一文を成すためにはもう少し、ほかの単語があるはずだ。
おそらく、聞き取れなかった小さな声。そこまでつなぎ合わせれば、ちゃんとした文章になりそうだった。
だけど、その声にはまだ、夢の中で届きそうもない。
結局、また夜まで待つしかないのかと美希は肩を竦め、窓を見る。
集中しようと思ったばかりなのに、全然辛抱ないなあと自分でも情けなくなる。


―――「――――――」


そのとき、ざぁっと風が吹く。
誰かの声と、一瞬だけその影が見えた気がした。
ハッとして、その影を追うと、校舎の屋上から校庭へと向かって、一羽の鳥が羽根を大きく広げていた。
見たことのない、鳥だ。
鳩やカラスではない。
春先に空を舞う、大きな、鳥。

あれは、ハヤブサだろうか。
まさか。いくらこの学校が田舎にあるとはいえ、野鳥であるハヤブサが居るはずもない。

なんだろう。本当にどうかしている。
いらぬ考えにばかり支配されて、自分らしさを失っている気がした。
落ち着こう。冷静になろう。
ちゃんとしようって決めたんだからと、もう一度、黒板を見る。

教師はいつの間にか、5つも長文を書いていた。
クラスメートは必死にそれをノートに写している。美希も倣ってノートにシャーペンを走らせていると、チャイムが鳴った。
教師は「ここの和訳、宿題な」と捨て台詞のように言うと、教室中が「えぇぇ!」と喚く。
叫ぶ声が割れる中、教師に促され、学級委員長が「起立」と号令をかけた。
英語の詰め込み教育は良くないよなあと勝手に批評しながら、美希はゆっくりと立ち上がった。
636 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:53
 
-------

「野中ちゃん。一緒に帰らん?」

放課後、春水にそう誘われたが、美希はうなずきかけて「ごめん!」と手を合わせた。

「ちょっと今日寄りたい場所あって」
「そっかぁ。ほなまた明日なー」

春水は気を悪くした素振りもみせずに、笑顔で教室を後にした。
手を振りながらその背中を見送った美希も、よいしょと鞄を肩に提げ、廊下へと出る。
部活に行く生徒たちの隙間を縫い、校庭を突っ切る。
いつもの下校道とは反対の方向へと歩いていく。
今日は好きなアーティストの新曲の発売日だった。
少ないお小遣いをこつこつと貯めて、1枚のCDを買う。
美希は、親に対して、おねだりは得意な方ではない。
友達が「お母さんに買ってもらった」と話している姿を見ると、それも羨ましくなってしまう。
人のことを羨んでばかりではだめなんだけどなあと、街で一番大きなCDショップへと歩いて行った。

事前に予約を入れておかないと、発売日だというのにCDが買えた。
そういうことは珍しくない。
美希は真っ先にカウンターへ向かい、予約の旨を伝えて、目的のCDを手に入れた。
思わず目尻が下がるのを感じる。
早く帰って聴きたいという気持ちを抑えながら、CDショップを後にした。
637 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:54
 
街はゆっくりとオレンジ色に染まり始めていた。
長くて寒い冬を超えて訪れた春。待ちわびた季節は人を無性に楽しくさせる。
校庭や市の公園に咲いた桜も見ごろを迎えていた。
きっと週末にはお花見をする人も多いのだろう。

ふと美希は、桜を見たくなった。
別に、深い意味があったわけではないけれど。
春生まれでもないのに。
咲いては散り、再び花を咲かせるそれを、見たくなる。

いいや、どうせ宿題は英語だけなのだしと、美希はCDを鞄にしまい、桜の見れる場所へ行こうと決めた。
市の指定の大きな公園は自転車がないと遠いし、学校には戻りたくない。
近所に桜が見える場所といえばと考えて、美希はそこを選んだ。

横断歩道を渡り、長い道を進んでいく。
商店街を超えて、4つ目の路地を左へと折れる。
方向音痴な美希ではあるが、この場所への行き方は忘れない。
CDショップを出て10分ほどたったころ、美希はその神社の前に着いた。
638 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:54
この神社の御神木は、樹齢700年を超える古くて立派な桜の木だ。
「桜木神社」という名の通り、大鳥居の近くにはいくつもの桜が植えられ、春になると一斉に芽吹き、社殿を淡いピンク色に染める。
ちょうど今の時期は、「桜木祭り」と称し、数多くの屋台が連ねられ、参拝客でにぎわっている。
見頃を迎えた御神木の桜を見ながら、麦酒片手に騒ぐ人の姿が毎年見受けられる。
その光景は、日本語では「風物詩」というらしい。

英訳すると、なんと呼ぶのだろう。
「tradition」で良いのだろうかと考えながら、ふわりとスカートが舞うのも気にせずに、階段を駆け上がる。
立派な大鳥居を跨ぐときに一礼し、境内へと歩いた。
フランクフルト、かき氷、麦酒、焼きそば、綿菓子と、たくさんの誘惑に目を奪われてしまう。
子どもたちが母親と並ぶ姿に羨望のまなざしを抑えられないが、先へと進む。


本殿のちょうど裏手に、樹齢700年を超える御神木はあった。
家から少し離れた場所にあるこの神社が、美希は好きだった。
幼いころから、よくこの境内で遊んでいた記憶がある。
父も母も仕事の関係で家にいる時間は少なかった。
だからこそ両親は、習い事を掛け持ちさせてまで、美希をひとりにさせないようにしていた。
それはきっと、間違った選択ではないと、今の美希ならわかる。
誰もいない家にひとりぼっちでいるよりも、習い事をしつつも誰かと過ごした方が良いはずだ。
それでも、根本的に、親と一緒に居られない空間に対して、幼いながらに、反発心や寂しさは感じていた。

そんなとき美希は、この場所に足を運んでいた。
「癒し」というものを求めていたのかもしれないけれど。
幼い美希に、そんな意味はきっとわかっていなかった。
静かに佇む御神木を見ると、無性に落ち着いた。小さな美希にとってその御神木は、まるで壁のように大きな存在だった。
ピアノと英語の稽古がない日には、よく此処に訪れては、木陰で本を読んだり、境内を散策していた。
639 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:55
それはもちろん、彼女が6歳で渡米するまでの期間ではあるけれども。


―――「――――――」


記憶を整理していると、一陣の風が吹いた。
美希は御神木を見つめる。
枝葉が舞い、ピンクの花びらが、はらはらと散っていく。
それは儚くも、美しい。

「so beautiful」

そう、呟く。
「美しさ」を形容する言葉は、英語も日本語もたくさんあるし、人並みに学んできたはずなのに。
それでも、実際にその姿を目の前にすると、最も陳腐で単純で、誰にでも伝わるけれど、誰にも伝わらないそんな単語しか、浮かんでこない。

美希はただ、見つめる。
春を照らす、その淡い光を。
数えきれないほどの出逢いと別れを繰り返し、それでも約束のように「春」を告げる、その花を。


「さくら―――」


そう口にしたとき、美希は思わずハッとした。
640 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:55
いま、発音が、違った。


桜―――「cherry blossom」の発音ではなかった。
美希の口から滑り出たのは、花ではなく、人の名前に当たる「さくら」の方だ。

さくら。さくら。さくら。
何かを確かめるように、美希はその言葉を繰り返す。
さくらとは、一体―――


―――ユーフォー。変。―――でぃーで。エン。ユー。変。


声が、聞こえる。今朝までは途切れてしまっていた、その先の声が。美希の耳に、脳に、胸に、響く。
呼応するように風が啼き、散ったはずの花びらが一斉にぶわぁっと舞う。


―――ユーフォー。変。―――でぃーで。エン。ユー。フォー。変


桜はまるで意志を持ったように立ち上がった。
そして、旋風になったかと思うと、一面を覆い尽くさんばかりの壁となって空間を包んだ。
641 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:56
 
ああ、今なら、呼べる。
不思議と、そう、確信した。
届かなかった夢の先の言葉を受け取る。抱きしめる。噛み砕く。理解する。
そして、解き放つ。

「でぃーで。えん。ゆー。ふぉー。変」

聞こえた、気がした。
その声が。

見えた、気がした。
その姿が。


ハヤブサが、大きな翼を広げて天を舞う。


ああ、ああ、ああ。


春風とともに、記憶が一気に、美希の中に流れ込んできた。
642 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:56
 
-------

「ひとり、なの?」

その日も美希は、御神木を眺めていた。
いつもと同じように、ひとりで、目尻に微かな涙を溜めて。

学校で、先生に叱られた。理由は、宿題を忘れたからだ。それは誰のせいでもなく、美希が悪いと、分かっている。
家に帰ってピアノを習いに行くと、また先生に叱られた。譜面通り、うまく指を動かせなかったから。これも練習不足の自分のせいだと分かっている。

だけど、今日は何となく、素直にごめんなさいとは言えなかった。
自分が悪いのに、反省しているはずなのに、謝れず、美希はピアノ教室を飛び出した。
そのまま気付けば桜木神社にやって来ていた。
いつも見慣れているはずの桜。見る度に美しさを増しているのに、今日はなぜだか、きれいに思えなかった。
習い事をサボってしまったという自覚があるからかもしれない。

美希はぐいっと目を拭い、「だれ?」と声に訊ねる。

声の主を探す。
きょろきょとあたりを見回すが、人影がない。
気のせいだろうかと思った矢先、桜の木の枝の上に、その存在を見つけた。
長くて白い足をぶらつかせ、淡い紫色のワンピースを着た、女の子だ。
美希よりも、ずいぶんと年上に見えた。
6年生にも、あんな綺麗な人はいない。たぶん、中学生とか、高校生なんだ。大人だ。
643 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:57
いや、違う。とふと直感する。

「泣かないの。私がいるから」
「……お姉さん、だれ?」

大人だけど、大人じゃない。

「ふふ。だれでしょうか?」

その人は、桜の枝からふわりと飛び、音もなく、美希の前に降り立った。
そしてぽんぽんと頭を撫でてくれる。柔らかくて温かい手だった。
彼女はよく見れば裸足で、その姿は半透明で、ああ、やっぱり大人だけど、大人じゃないと気付く。

幽霊かな。
それとも妖精かな。

6歳の美希には、何も分からなかった。
だけど不思議と確信があった。

いつだったか、英語の先生が、レッスンの合間に雑談まじりに教えてくれた。
キミたちにはまだ早いけど、いつかこんな言葉を使うかもね。と。
今にして思えば、なんて気障な、言葉だろうか。


「Did it hurt when you fell from heaven?」


美希は倣ったとおりの言葉を発すると、彼女はきょとんと首を傾げた。肩で切り揃えられた髪が揺れる。
香水よりも優しい香りが、かすかに鼻をくすぐった。
644 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:57
「なに?なんて言ったの?」

彼女は柔らかく笑う。
その微笑みはあまりにも美しくて、尊い。

「でぃーで。えん。ゆー。ふぉー。変」
「……はい?」

くすくすと彼女は笑う。解かりやすい発音で、単語を切って言ったつもりなんだけどなと美希は頬を膨らませる。
それでももう一度、今度は流暢に、「Did it hurt when you fell from heaven ?」と繰り返し、和訳した。

「あなたは、私のもとに落ちてきた、天使ですか?」

それは、意訳ではなく、誤訳だった。
本来は「天国から落ちてきた時、痛かったですか?」という意味になる。
これを意訳すると、「あなたは私のもとに落ちてきてしまった天使です」となるのだが、
美希はこの2つの和訳をしっかりと理解できずに、中途半端な知識のままで、彼女に渡してしまった。

だが、彼女はそれを知ってか知らずか、またくすくす笑い、美希をふわりと抱き締めた。
半透明な身体なのに、しっかりとした温もりを感じ、自然と穏やかな心になっていくのを感じ取る。

「どうだろうねぇ」

そして彼女は、誤魔化した。
その身体からは、そう、ラベンダーの香りがして、美希は思わず目を細める。

「キミが泣き止んだら、教えてあげるよ」
「……泣いてない、です」
「泣いてるよ」
645 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:58
彼女はそういうと、そっと身体を離し、美希の目尻を指で拭った。
透明の液体が瞳から溢れ、そして結晶となって空気の中で弾けた。
ぱりんという音とともに、桜の壁が天井の方からゆっくりと開いていく。
ああ、もう時間がないと美希は悟る。

だけど、もう少し。もう少しだけこのままで居たかった。
何も分からないけれど。何も分からないまま始まって、そのまま終わってしまうのだろうけど。
どうか、どうかもう少しだけ。
もう少しだけ、あなたの傍に居たい。

ねぇ、ねぇ、お姉さん。
あなたは、あなたは一体―――

「また泣いてたら、叱りに来るよ」

途端、風が吹き抜けた。美希は思わず目を覆う。
春風は美希の真横を通り過ぎ、桜の壁が天へと還っていく。
再びその目を開けたとき、御神木の枝にはもうだれも座っていなかった。
相変わらずピンクの衣装を纏った御神木は静かに佇み、その枝には一羽のハヤブサが止まっている。

「……お姉さん」

そう呼んでもハヤブサは答えてはくれなかった。
その代わりに、翼を大きく広げ、飛び立った。
ごおっと勢いをつけて地面すれすれまで降り、そこからぐいんと急上昇する。
そのまま青空へと消えていく姿を、幼い美希はただただずっと、ピアノの先生が血相を変えて探しに来るまで、見つめていた。
646 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 18:58
 
-------

記憶の扉が閉まると同時に、美希は御神木にそっと手を翳した。
大樹の中を、静かに水が通り、呼吸しているのを感じ取る。
樹齢700年という重みを知りながら、目を閉じる。

何一つ、美希にはわからなかった。
それは6歳のころから変わっていない。

だけど、だけどあの時と同じように、確信はあった。

それは不思議な予感というのかもしれない。
運命と云うものがあるならば、きっとこのことだろうと美希は思う。


「さくら―――」


きっとそれが、あなたの名前だ。
647 :春の落とし物 :2015/08/02(日) 19:01
 
美希はふっと目を開ける。
御神木のひとつの枝に、確かにその姿を見つけた。

ああ。と微笑んで、思わず涙する。
その涙の理由に、きっと美希は、たどり着けないだろうけど。
それでも自然とあふれてしまう涙を、拭うことはかなわなかった。

彼女はあの日と同じように、音も立てずに美希の元へと舞い降りてくる。
淡い紫色のワンピースを纏い、真っ白い素足を覗かせ、半透明の身体のままで。


「待ちくたびれたよ?」


その優しい声に、眉が下がった。
あの日のように抱き締められて、美希もそうっと抱き締め返す。

温かくて柔らかい、確かに此処に居る「生命」を感じる。
ラベンダーの香りに包まれて、彼女の愛情を受け取る。


「Did it hurt when you fell from heaven?」


春が落としていった彼女に対して、美希は精一杯に笑って、そう云った
648 :雪月花 :2015/08/02(日) 19:02
以上になります。
最近どうにも気になってしょうがないですこの人たち。

ではまた!
649 :名無飼育さん :2015/08/03(月) 18:54
すごくイイ!
再びの邂逅に胸があったかくなりました…!
650 :雪月花 :2015/10/07(水) 01:09
モーニング娘。’15秋ツアー、参戦しました雪月花です。
あの春からの進化、そしてメンバーの真価が問われる初日だった気がします。
超えていくんだろうなという確信を覚えながら、また次に行く時が楽しみになりました


>>649 名無し飼育さんサマ

ありがとうございます!
結局こういう邂逅というか再会というか、ベッタベタなお話が好きなのですw
また遊びに来てください、そしてチェルさくにハマってくださいw


今回は野中美希さん誕生日ということでこの2人。
トライアングルのネタバレ&感謝祭ネタも入っていますので、未見の方はご注意ください
651 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:10
 

「泣くなよ」

それは、誰の声だろう。

「しっかりしろよ、ほら」

それは、いつのことだろう。

「守ってやるから、ずっと―――」

それは、なんの約束だったのだろう。

 
652 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:11
 
-------

「あー。降ってきたよぉ」

ダイスの声につられるように、ジョンベルは空を仰いだ。
朝から居座っていた黒雲が、とうとう耐えきれなくなったように涙を零し始めたようだ。
その様子を見て、多くの露店の店主たちが、商品を慌ててしまい始める。
「ほらジョンベル!」と言うダイスに倣い、外に並べていたネックレスやブレスレットを袋に収める。

この店で扱う商品の多くは、紛い物であったり、さほど価値のないものだったりするが、
中には純ユプシロンを固めた指輪や、ラムダ星の鉱物を削った値打ちのあるものも置いてある。
屋根があるとはいえ、大事な商売道具を水にさらすわけにはいかない。

街から段々と人が遠ざかり、閑散とする。
雨は徐々に激しさを増し、道はぬかるんでいく。

「あーあ。今日は店じまいかねぇ」

ダイスはつまらなそうに新聞を開いた。
一面には、シグマ星との外交条約が結ばれたというニュースが広がっている。
彼女はそこに興味はないのか、各国の要人たちのスキャンダルや根も葉もない噂を見ては「うっそやっばい!」と肩を揺らした。
653 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:11
人の気配はほとんどなくなり、いよいよ商売あがったりやなとこめかみを掻くと、

「ごめん―――」

そんな低くて重い声が、響いた。

「これはこれは、キリのダンナ。どうしたんだい?」

店先に立っていたのは、キリ・ド・フォン・ルキアノスだった。
この星の外交を司り、次期女王、サクラ姫の夫でもある男。普段はパレスにいるため、市場にはあまり顔を出さないはずだ。

サクラ姫と結婚してから、少しは雰囲気が柔らかくなったとはいえ、いまだにジョンベルは、彼と話すと緊張する。
ココロが読まれる、ということもあるかもしれないが。
その瞳の深淵から感じる、静かなる闘志が、「伝説の戦士」を、単なる伝説ではなく現実のものとするからか。

「……クラルスを、見なかったか?」

だが、その名前を聞いて思わず「クラルス?」と身を乗り出して聞き返した。
彼女は、ジョンベルの幼馴染というか、腐れ縁のようなやつだ。
女のくせにやたらすばしっこいし、すぐ喧嘩を吹っかけてくるし、殴るし蹴るし……
とにかく乱暴だ。
あれでも、国軍に入って、少しはマシになったほうだ。
それでも根っこの部分は変わっちゃいないとジョンベルは思う。
654 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:12
「薬草を取りに行かせたんだが…」
「はぁ?そんな子どもじゃないんだからさ。心配しすぎじゃないかい、ダンナ」
「いや…いくらなんでも帰りが遅すぎる。ましてこの雨だ。嫌な予感がしてな」
「そんなこと言ってもねぇ。ココには来てないよ?」

ダイスの言葉に、キリは静かに言葉を呑んだ。
傘を差すその手が微かに震える。

確かに、心配しすぎだ。クラルスももう子どもではない。
薬草があるのは、おそらく西の丘陵地帯だが、此処からさほど遠くもないし見晴らしも良いから迷うことはないだろう。
いくら雨で足場が悪いとはいえ、気にするほどではないはずだ。

「キリ中尉、通信機は持ってないんです?」

だが、普段冷静で、外交のすべてを司る中尉が、いくら大事な部下とはいえここまで心配するのは、何か理由があるのかもしれないと感じ取った。
それが「第六感」とか「虫の知らせ」とか、そういった不確定なものだったとしても、蔑ろにはできない。
ジョンベルの問いに、キリは苦虫を噛み潰したように応える。

「生憎、調子が悪くて修理中だ。通信手段がない」

既にこの会話に興味がなくなったのか、ダイスは椅子に腰かけ、再び新聞を開く。
今度は一面のシグマ星との条約について読み始めた。
眉間にしわを寄せて舐めるように読んでいるが、果たして内容が頭に入っているかは定かではない。
655 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:12
ジョンベルが何か言葉を紡ごうとした矢先、「キリ中尉」と別の声が飛んでくる。
見ると、肩で息をしながらチーク卿が走ってきた。
パレスの人間がこんな小さな屋台に何の用だと、商人たちが遠巻きに視線を送ってくるのを感じ取った。
見世物やないでとジョンベルは内心舌打ちする。

「此処に居られましたか…お戻りください。外交会議始まりますよ」
「いや……しかし」
「あなたが居ないと始まらない。あの破天荒なファイ王子とやり合っていただかねば」

チーク卿の言葉に、キリは下唇を噛み、「すまなかった」と頭を下げた。

「邪魔したな、ダイス、ジョンベル」
「はいはい毎度ー」

踵を返したふたりの役人に、ダイスはひらひらと手を振った。
商人たちは、もう終わりかとつまらなそうに店に戻り、続々と「閉店」を知らせ始めた。
雨はさらに激しさを増していく。耳に残るその雨音が、街の景色を変えていく。

「あー、もう鬱陶しいね!今日は終わり!おしまい!」

ダイスは新聞を投げ捨て、遂に「閉店」を決めた。

「……姉さん、ちょっと出かけてくる」

今日の仕事はもう終わりだ。
そう思ったとたん、ジョンベルは傘を広げ、雨の街を走り出した。
背中に「早く帰ってくるんだよ!」と姉の声を受けながら。何かに突き動かされるように、ぬかるんだ道を、ただただ必死に走り始めた。
656 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:13
 
 
-------
 
「っ―――!」

もう、何度目だろう。
激しい痛みに奥歯を噛みしめ、膝を折る。
内部から突き刺すように走ってくるそれは、骨を砕き、神経を圧迫している。

「やっぱり折れたか……」

クラルスは右足首に巻いたハンカチを一度解く。
破れた皮膚の下から血がしたたり落ち、肉がびくびくと脈打っている。
軍服のシャツを破き、再び縛る。止血がうまくいかない。左肩の関節が外れているため、右腕一本で縛ったせいだ。
満身創痍とまではいかないが、軽症でないことは確かだ。

「軍人のくせに…情けない」

自嘲しながら、再びクラルスは歩き始めた。
657 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:13
 
 
 
今日の昼頃、キリ中尉の命を受け、薬草を取りに西の丘陵地帯に出た。
腰袋に薬草を携え、戻ろうとした矢先、クラルスは一匹の犬を見かけた。
よく市場に顔を出す、子犬だ。
飼い主はいないが、利口だし、あまり吼えないし、皆に可愛がられている。

「お、わんこ。遊んでるのか?」

答えがないことを知りながらも、クラルスは犬にそう話しかけた。
子犬は尻尾を振りながら、虫とじゃれ合いながら駆け回る。
その姿は微笑ましく、しばし目で追っていた時のことだ。ふとその姿が、視界から消えた。

「わんこ…?」

どうしたのだろうと駆け出すと、「この先注意」という倒れた看板が目に入った。
支柱の部分が腐っていたのか、「看板」としての役割を果たさないそれに、まさかと数歩進んだ。
その先は、崖になっていた。

「わんこ!」

子犬は辛うじて、崖から生えている一本の枝にしがみついていた。
少しでもバランスを崩せば折れてしまうような、危なく細い枝だ。
すぐに助けなくてはと思うが、腕を伸ばしただけでは到底届かない。
658 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:14
「待ってろ!」

一度身体を引き、周囲を見渡す。
縄はない。一度パレスに戻っている暇もない。
何かないかと草をかき分けると、少し長い棒が落ちている。
クラルスは即座にそれを手にし、「捕まれ!」と崖の下へと伸ばした。

それでもまだ、届かない。
風が吹き抜ける。枝が揺れる。子犬がバランスを崩しかける。

「もう…ちょっと……!」

めいっぱいに腕を伸ばし、棒を届けようとする。
その先端が、子犬の目に入ったのか、あぅっと棒を噛んだ。
クラルスはぐっと力を込め、引っ張り上げる。
重い。だが、持ち上げられないものではない。
両腕に持ち替え、そのまま引き上げた。

瞬間、だ。
鋭い風が、背中を押した。

「うわっ!」

咄嗟に身体を反転させる。
遠心力で子犬ごと棒を飛ばす。それに応じるように、クラルスの身体は崖下へと転がり落ちていった。
659 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:14

 
「犬を助けようとして怪我しました……なんて、中尉が知ったらなんて云うか……」

クラルスはやっとの思いで崖下から這い上がったが、落ちてからどれだけ時間が経ったかは定かではない。
全身が悲鳴を上げ、もう動きたくないと泣いている。
頼むからもう少しだけがんばってくれと鞭を打ち、痛む右脚を引きずる。

「丘陵地帯の先…崖の整備……チーク卿に、頼んでみようか……」

レミュー河に立派な橋をつくってくれたチーク卿だ。
予算がどれだけ降りるかはわからないが、国のためにぜひとも彼に指揮を執ってもらいたいと思う。

ああ、それにしてもフラフラする。血を流しすぎたせいか。
降り始めた冷たい雨が体力を奪っていく。
ちくしょう…もう少しで…もう少しでパレスに……

そのとき、ぬかるんだ道に足を取られ、べしゃりと派手に転んだ。
冷たい風が吹き抜ける。
低いほうへと雨が流れていくように、生命力までも、失われていくようだ。
660 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:15
 
―――強くなれ。クラルス。


それは、いつのことだろう。
初めて彼に拾われたときだったか。


―――お前なら、きっと。


それとも、初めて手合わせをしてぼろぼろにされた時だったか。


―――お前ならきっと、俺の次に……



「………中尉………」



申し訳ありませんキリ中尉。
せっかく声をかけてもらったのに。私は。
私はやはり、あなたのように、強くはなれません。

私は。私はどうせ、あの頃のチンピラのまま。結局は―――
661 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:16
 
-------

優しい体温が全身を癒していく。
まるでユプシロンに包まれているような感覚だった。
ああ、私は生きているのかと実感したのもつかの間、ずきぃっと痛みを覚える。
思わず声を漏らすと、「起きたか?」と声がする。
え?と目を開けると、そこには、幼馴染で腐れ縁のジョンベルが、いた。

「おま…お前なにしてっ……!」
「あんまり暴れんな。骨折れてるやろ」
「だからって…!」

クラルスは、気づいた。
この冷たい雨が降る中、ジョンベルが傘もささずに自分をおんぶし、街へと連れて帰っていることを。
662 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:16

脚と腕には、彼のトレードマークでもあるシーブルーのバンダナが巻かれている。
痛みは依然としてあるものの、しっかりと止血されているからか、先ほどよりはずいぶんマシになっていた。

「お使いひとつできんとか、クラルスって案外間抜けやな」
「なっ…ばかにするな!私は軍人だ!下ろせ!」
「だからムリすんなって……お返しや、あんときの」

ジョンベルはそうして一度立ち止まり、「よっ」と力を込め直す。
「あのとき」という彼の言葉に、クラルスは眉をひそめた。
いったい何のことだと思ったのもつかの間、まるで走馬灯のように、記憶が、雪崩れ込んでくる。
それは鉄砲水のように、弾かれたように、迷いも恐れもなく、ただただ真っ直ぐに、走ってくるんだ。
663 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:16
 

-------

「姉ちゃんこわいよぉ……」
「あーもう泣くなよ!」
「せやかてぇ……うぅ……」

膝小僧をすりむき、頬にも傷を作り、涙を拭う少年がいる。
少女はその手を引きながら、森の中を歩いている。

「ほら、いくぞ」

少年の手には、いくつかの花が握られていた。
この森の奥に咲く、小さな花だ。
恐らく、姉へのプレゼントに摘んでいたのだろう。
夢中になっているうちに、迷子になってしまい、途方に暮れ、泣いてしまったのだ。

「クラルス、は、おんなのくせにっ…つよい、なぁ……」

少年はひぐひぐとしゃくりあげながら、後ろからついてくる。
はぁ・とわざとらしくため息をついた少女は「お前こそ」と紡いだ。

「おとこのくせに、すぐ泣くんじゃねえよ」
664 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:17
 
日が暮れて、道はもうわからない。
少女もさほど方向感覚が良いほうではない。むしろ音痴だ。
それでもその手は離さずに、森の出口を目指して、必死に歩く。

「泣くなよ」

ひぐひぐといつまでも涙を流す少年に、少女は、云った。

「守ってやるから、ずっと―――」

永遠なんてないと知りながらも、そんな約束を交わしたのだ。
確約も保証もない、子どもの約束を。
汗で濡れたその手の中で、ふたりは静かに、交わしたのだ。
665 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:17
 

-------

「覚えてたのか……」
「忘れへんわ。あの日、ダイス姉さんにメチャクチャ叱られて、しばらく外出禁止になったしな」

その表情は見えないけれど、きっと今のジョンベルは、過去を懐かしむように目を細めて笑っているに違いない。

あのころから、ふたりは少しずつ大人になって、当然ながら、歩く道も変わっていった。
だけど根本の性格は変わっていなくて。
ジョンベルは立派な商人になったけど、泣き虫の癖は残り、
クラルスは軍人の職に就いたが、口の悪さと手の速さは治らない。

「………貸し借り、チャラやで、クラルス」

それでも。

「オレやって、お前護ったるわ、たまには」

やっぱり、変わるものは、あったんだ。

「余計なお世話だ……泣かすぞ、ジョンベル」
「へへ。相変わらずクラルスは怖いなぁ」
666 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:18
ジョンベルはそうして、一歩ずつ、しっかりと街を目指していく。
その歩幅は大きくたくましい。
クラルスはもう抵抗することなく、彼に身を任せていた。

「………ありがとな」

そうしてやっと呟けた御礼の言葉は、遠雷にかき消されて届くことはなかったのか、

「なんか言うたか?」

と彼は返してきた。

クラルスはそれに応えぬまま、「さっさと歩けよ」とジョンベルの頭を叩く。
彼は大げさに「いたいなぁもう」と笑った。

まるで、太陽のようだとクラルスは思う。
こんな雨雲さえも切り裂いて、世界中を等しく照らす、まぶしい輝き。
その明るさにつられてしまう自分は、さながら夏の虫だろうかと自嘲する。

「お。わんこぉ。ありがとな」

ジョンベルはそう云うと立ち止まり、「あとで肉買ったるさかいな」と宣言すると、わぅん!と声が響く。
それは、先ほど掛けへと落ちそうになった、あの子犬だ。
667 :雨と泥濘 :2015/10/07(水) 01:18
「クラルス、こいつ助けようとしたんやろ?」

なぜそれを……と聞こうとして、呑み込む。
別に助けようとしたわけじゃない。ただ、身体が勝手に動いただけだ。
認めるのが急に恥ずかしくなり、黙る。
彼はそんな彼女の思惑など知らず「メッチャ急いで走ってくるから何事かと思ったんや」と続けた。

「見つけられてよかったわ。犬助けて死ぬ軍人とかメッチャかっこ悪いやん」
「………余計なお世話だ」
「へへ。まあそういうところが、クラルスのええところなんやけどな」
「黙れジョンベル。泣かすぞ」

もう一度そういうと、彼は大げさに肩をすくめ、また歩き出す。

やっぱりこいつは、太陽だ。
その証拠に、雨が次第に弱くなっていくのを感じ取っていた。

まぶしさにかなわず目を細めると、その温もりが傷を癒すように心を包み、穏やかな時が流れ出す。
クラルスの中で、微かに何かが動き、ジョンベルの中でもまた、何かが変化を始めていた。


雲がちぎれて月が出始めたころ、二人は漸く、街へとたどり着いた。
668 :雪月花 :2015/10/07(水) 01:20
以上になります
まだまだトライアングル熱が冷めませんw
キリクラにしようかとも思いましたがあえてこの2人で…気になる組み合わせですw

改めてチェルさん誕生日おめでとうございます。素敵な16歳を!
ではまた!
669 :名無飼育さん :2015/10/10(土) 23:55
舞台のイメージが壊れないのは本当に素晴らしいと思います!
是非キリクラも待っておりますw
あと、個人的な要望でさゆりほも…(小声
670 :雪月花 :2016/04/03(日) 23:35
鞘師さんを見送ったら香音ちゃんの卒業も決まり、寂しさに満たされます雪月花です
また大きく時代が動き始めていますね…
それでもちゃぁんと、見届けたいです

>>669 名無飼育さんサマ
ありがとうございます
感謝祭のDVDが届きましたのでまたキリクラやらジョンクラが滾ってきました
さゆりほも…さゆりほも書きます、がんばりますw


今回はなんとなく思いついた短めのアンリアルです
671 :いつか、私と、ワルツを :2016/04/03(日) 23:36

静寂は、ときに、騒音になる。

王宮を出て数ヶ月が経ち、広い世界に触れる中で、さくらはそんなことを学んだ。

「外」の世界は、ひどく静かだった。
風が啼き、鳥が囀り、草木が揺れる。
耳に触れる「音」は確かに存在しているが、あの王宮に居た頃よりもずっとその数は減っている。

あそこにいた時には、夜は常に、眠れなかった。
いつでもあの人の傍に行けるように待機し、緊張して、神経を張り巡らせていた。
672 :いつか、私と、ワルツを :2016/04/03(日) 23:36
今、こうして「外」に出て、夜が静かなのだと知った。
静かすぎて、落ち着かない。
安心して眠ってよいはずなのに、寝付けない。
音が足りない。
もっと騒がしくしてくれた方が、きっと夢を見れそうな気がする。

が、世界はさくらの意志とは無関係に、呼吸を忘れたように眠り続けている。
仕方なく、毛布から身体を起こした。

隣では相変わらず、「姫」が眠っている。
まるで赤子のように身体を丸めて夢を泳ぐ姿に、目尻が下がった。
673 :いつか、私と、ワルツを :2016/04/03(日) 23:37

さくらは、一国の「姫」の身代わりとして、いつでも生命を捧げる「影武者」として育てられた。
「影武者」の仕事は、さほど難しいことではない。
主な作業は、姫の模倣だ。
姫そっくりの背格好をし、髪型を揃え、声を似せた。
姫の起床・就寝時間、食事、癖、サイン、喋り方…些細なことまで観察し、「姫」を演じることが、さくらの日々だった。

そのうちに公的な場で、姫に代わって挨拶を交わす機会も増えてきた。
食事の前には必ずさくらが口をつけ、毒が入っていないことを確認してからそっと姫と入れ替わった。
姫が婚礼を挙げる18の年になったら、さくらは姫とそっくりの顔に整形するつもりだった。
それは、完全に、さくらの人生を姫に捧げることを意味していた。

それなのに、どうしてだろう。
気づけばさくらは、姫とともに亡命し、こうして宛もなく、旅をしていた。
きっかけがなんだったのか、もう覚えていない。
いや、覚えているんだ、ちゃぁんと。
姫の人生を狂わせてしまったことの自覚は、ちゃんと此処に、持っている。
674 :いつか、私と、ワルツを :2016/04/03(日) 23:37

隣に眠る姫を起こさないように、ため息を殺して外へと出た。
次の街まではまだ遠い。
雨風を凌げる大木の横にテントから顔を出す。
獣たちが近くに居ない静寂の証に感謝しながらも、まだこの音には慣れない。

夜露に濡れた草むらを歩き、さくらは深く息を吸う。
夜空には満天の星が輝いていた。
宇宙という広大な海から放たれる、数年前の光がまぶしい。

ちょうど真上には、真っ白な月が上っていた。
まさにそれは「雪白」という名が似合う。
空気の澄んだ冬の空に、主役として佇む月を仰いでいると、ぶるりと身体が冷えた。

あまり長く外にいると、風邪を引いてしまう。
上着を持ってくればよかったなと苦笑した。
そう考えていると、テントのほうがもぞもぞと動くのを感じる。

あ・まさか…とさくらは申し訳なくなった。
案の定、隣に眠っていたはずの姫が「眠れないんですか?」と起き出してきた。

「……起こしてしまいましたか?」
675 :いつか、私と、ワルツを :2016/04/03(日) 23:38
「いえ。私も何となく、眠れなかったので……うわぁ!」

姫はそう言うと、天上に輝く月と星を仰ぎ、両手を広げた。
まるで天からの恵みを享受するようにくるくると回り、「すごいすごい」と笑う。
その様はまるで子どもで、可愛らしくて、途方もなく愛しくなる。

くるくると回っていたかと思うと、姫はふっと動きを止め、そして今度は、ステップを踏み始めた。
それは、婚礼のための、ワルツのステップだ。

あの国では、慣習的に、結婚する姫は婚礼の舞踏会でワルツを踊ることになっていた。
姫は当然のように幼いころからそのステップを踏んでいるため、まるで呼吸をするように、舞う。

影武者であるさくらも、それを習うものだと思っていたが、現国王、すなわち姫の父親から許されなかった。
そのステップは、王族に代々伝わるもので、刻むことを許されているのは、王国の血を引く者だけなのだと強く、云われた。

だが、婚礼の儀の場が暗殺の舞台に選ばれないとは限らない。
寧ろ、大勢の人で賑わう状況だからこそ、危ないとも言えた。
ステップを踏めない限り、姫の身代わりにはなれないと訴えたが、それでも王は頑なに拒絶した。
もし仮に、婚儀の際に姫が暗殺されたとしても、そのステップを王家以外の者が踏むことは、赦せないのだろう。
代々続く、一国の王としてのプライドか。
娘を護りたいという想いは、その程度なのだろうとさくらはため息を呑み込んだ。
676 :いつか、私と、ワルツを :2016/04/03(日) 23:38
そんな、王家に伝わるステップを、姫は惜しげもなく披露する。
本来踊るはずだった婚約者はいない。
姫自身がその男を捨てて、そして国も捨てて、逃げてきてしまった。


きっと、赦されないことをしたのだと、さくらは思う。


さくらの存在意義は、影武者として、姫の代役を務めることだ。
国の長である姫を護り、仕え、その首を差し出す覚悟はとうにできていた。
だが、その「国」そのものがなくなってしまった今、私に姫の隣にいる資格なんて―――

「さくらさんっ!」

いつの間にか、姫はさくらの目の前に来ていた。
月明かりに照らされた姫の顔は、儚くて、美しい。

「踊りましょ?」
「……え?」
「私と一緒に、踊りましょう」

姫はそう言うと、強くさくらを引っ張っていく。
いや、ちょっと。
ちょっと待ってください。
677 :いつか、私と、ワルツを :2016/04/03(日) 23:39
「私、踊れません……」

ステップなんて知らない。王家のワルツは勿論、「ダンス」というものにさえ、触れてきたことはない。

「だいじょうぶですよ、私がリードしますから」
「り、リードって……」
「ほら、手を貸して」

姫は少し強引に、さくらの身体を引き寄せ、そして手を取った。
ふわりとした、優しくて小さな手。
実際の年齢は、さくらとそんなに変わらないはずなのに、まるで赤ちゃんの頃から此処だけ時間が止まってしまったよう。
温かくてぷにぷにと柔らかいその手が重なり、

「shall we dance?」

と、甘い声で囁かれた。

何処かの国の王子にも負けないほどに、澄んでそして凛とした声に、全身が震える。
彼女に心の隙間さえもとらえられ、身動きが取れなくなる。

「基本は、四角形を描くようにするんです。ゆっくり、右足を前に出して…次に左足。そのまま右足を滑らせて」

いつの間にか、さくらは姫の腕の中に居て、彼女の云う通りに、足を運んでいた。
恐らく、これが「ワルツ」の基本なのだと思う。
678 :いつか、私と、ワルツを :2016/04/03(日) 23:39
華やかな場に、影武者として出席することはあっても、貴婦人たちのように踊ることはなかった。
自分には一生縁のないものだと思っていたのに、なぜだか、こうして今、見知らぬ土地で、私はワルツを踊っている。

「さくらさん、じょうずですよ…」

姫の声。少しだけ低く、特徴的な、声。
さくらは彼女の声が、とても好きだった。
自分でまねするよりも、彼女が喉を震わせて出す音が、とても好きだ。

「姫の教え方がうまいからですよ…」
「そんなことないですよ。さくらさんは、才能があるんです。きっともっと、じょうずになります」

音楽もないのに、ただただステップを刻むだけで、そこにワルツは完成した。
雪白の月に見守られながら、私と姫は、ワルツを踊る。

「そうしたらいつか、踊ってくれますか?王家に伝わる、あのワルツを」

思わずさくらは顔を上げた。
姫の柔らかい瞳と真っ直ぐにぶつかる。
ぴたりとステップが止まったかと思うと、腰のあたりに手を添えられた。
何の意識もなく、さくらはそのまま背中を大きく反らす。
ぐいっと強く腰を引き寄せられ、再び上体を起こすと、先ほどよりも熱く輝く瞳に、射止められる。
679 :いつか、私と、ワルツを :2016/04/03(日) 23:40
「私は……王族の血を」
「引いていないからこそ、踊ってください。どうか、私と」


いつか、私と、ワルツを―――


姫の言葉は、最後までは届かなかった。
代わりにその想いは、唇を伝って、甘く長く、私の中へと溶けていく。

ああ、私は。
私はいつの間にか、泣いていたのだろうか。


静寂の海の中に、一粒の涙がこぼれ落ちて、波紋を広げる。
雪白の月と満天の星が、夜の中で宴を彩る。
冬の夜が深まる中、世界は静かに、朝へと向かっていった。
680 :雪月花 :2016/04/03(日) 23:40
以上になります
姫は想像にお任せしますがだいたい想像通りの人物だと思いますw

ではまた!
681 :名無飼育さん :2016/04/16(土) 20:09
とても綺麗な情景がすっと浮かんできました
姫は誰だろうと考えながら、いろんな相手を想像しつつ何度も読み返すの楽しいですw
682 :雪月花 :2016/07/24(日) 23:24
香音ちゃんを見送って、向日葵の咲く暑い夏がやってきて、見事に夏風邪を引きました雪月花です
LoVendoЯの魚住姐さんの卒業も、またひとつの時代の変わり目なのかもしれません
それでも見届けていきたいです。一瞬一瞬が、宝物だから。

>>681 名無飼育さんサマ
ありがとうございます。
姫の正体は皆さんの心の中の人で正解です…w
何度も読み返してくださり嬉しいです。ありがとうございます。


今回は春ツアーの大きな見どころでもあったミスムンからこの二人
大いに捏造していますがアンリアルとなので…w
683 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:25
何処か遠い国の、遠い時代の、物語。



-------

日に日にため息の色が濃くなっていることには気づいていた。
だが、自分の失態には呆れる以外にほかない。
ほとほと、うんざりしている。
ドジ、おっちょこちょい、天然。そういった可愛らしい言葉で誤魔化せるものではない。


―――脚を怪我した使用人など、必要ない。


自分の中で、もう何度、この言葉を繰り返しただろう。
684 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:25

使用人の仕事は、この館の主である国王をはじめとした貴族のお世話を行うことだ。
家事全般から、運転、給仕、時には勉強を教えたり、遊び相手をすることもある。
基本的には、快適に過ごせる空間を作ることが目的だ。
気遣いも必要だが、何より体力が大事になる仕事だと、感じている。

そんな中で、脚を怪我したことは、自分が無能であることを証明しているに過ぎない。
使用人仲間である春水は「しゃーないやん。暫く休んで治さんと」と包帯を巻きながら自分の国の言葉で慰めてくれた。
彼女の使う、何処か強くて親しみがある言葉が、私は好きだった。
代々国王家に仕える家系に生まれ、実際に働き始めてかれこれ5年になる。
彼女との付き合いも、それくらいになるのかと、ふと思った。
だが、そんな彼女の優しさを受け止められるほどの余裕が、今はない。

「……暇を、もらおうかなって」

階段から落ちて骨折しました、など、格好悪いにもほどがある。
自分が情けなくて、悔しい。
仕事ができない、思うように動けない、役に立てない…脚以外は元気であるからこそ、もどかしい。
それならいっそ、此処を離れてしまいたかった。
もし一時的な休みが取れないのであれば、このまま消えてしまっても良いとさえ思う。
この家に生まれた宿命からも、逃げてしまいたくなる。
それほどに、今回の怪我は、私の心に深く影を落とした。
685 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:26

「この館、人手不足やのに?」
「募集をかければすぐに集まるよ」
「王子やって、哀しむんちゃう?」

春水の云う「王子」とは、国王の長男のことだ。年齢は、私よりも一つ下。
その振る舞いは実にスマートで、まさに、高貴だった。
歴代の王子の中で一番との呼び声も高く、隣国の貴族は彼に興味を抱き、こぞってパーティーの招待状を送っていた。
彼は丁寧にそれに応対し、一つひとつの国を訪問しては、また高く評価される。
うなぎ登りに名声を得ていく様は、次期国王に相応しかった。

国王自身、いつでも王権を譲っても良いと太鼓判を押している。
若干15歳でありながら、既に国政にはかなり参加しているようだ。
教養高く、気品があり、それでいて優しさを兼ね備えた王子は、まるで絵本の中に出てくる“プリンス”のようだった。

「なんで?王子は野中ちゃんのこと好きやん」
「好きって……どうしたらそういう発想になるのかな」

渇いた笑いを返すが、春水は真っ直ぐな瞳を向けてくる。
深淵に、捉えられそうになって、思わず背ける。
彼女の瞳は、魔性だ。いつの間にか彼女のペースに呑み込まれてしまいそうになる。
だからだろうか、私は彼女に決して敵わないことがある。
686 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:26
時間がある夜、よく春水とチェスをしていた。
いつも、私が有利な先攻の黒、彼女が後攻の白。それなのに、私は必ず、キングの首を刈られている。
序盤は、ビショップやルークを使って上手く攻め込んでいるはずなのに。最後まで詰めることができない。
彼女は円くて大きな氷の入ったシングルモルトを片手に、ゆっくりとポーンでその攻撃を弾いていく。
しっかりとキングの周辺を固め、いざとなればナイトともに相討ちの勝負を仕掛けてくる。

「うわぁ、ヤバいなぁ」
「お、そうくるかぁ」
「あー。せっかくのナイトがー」

そうやって楽しそうに会話をしているのは、いつも彼女。
私は楽しむ余裕もなく、相手の陣地に切り込んでいく。
が、私のキングの前に、いつの間にか白いクイーンが佇んでいる。
いつの間に?と考える暇もくれずに、周辺をポーンに囲まれ、蹴散らすのに必死になっている内に、ジ・エンドだ。
ワインをくいっと煽ったあと、両手を挙げる。それが私の負けの合図。

「何でそんなに強いの?」

その答えはいつも、はぐらかされるが、大体の察しはついている。
私が弱いのもあるが、彼女に、呑まれているからだ。
彼女の確固たる「世界」の前では、私のようなちっぽけな存在は、まったくの無意味だと思う。
信念の違いか、それを強さと言ってしまうのは簡単だが、私と彼女の性格の違いも、あるとは思うけれど。
687 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:27
 
「野中ちゃんにだけやん、あんな態度取るの」

春水はそう言うと、私の足首に巻かれた包帯に手を触れた。
瞬間、痛みがせり上がってくる。
顔を歪める私をよそに、手際よく、包帯を巻き直してくれる。皮膚の色は、あの日よりだいぶマシになっている。
それでもまだ青く、内出血していることは素人目にもわかった。

「からかってるだけだよ……」

ぐちゃぐちゃになっている脚から、目を背ける。
彼女の云うように、確かに王子は、私によく声を掛けてくれる。
私が掃除をしている姿を見かけたら優しく微笑んでくれるし、重いものを持っていたら手を差し伸べてくれる。
王子に手伝わせるなど、使用人としてあるまじき行為であると分かっている。
私は極力、彼の手を煩わせることのないようしているつもりだ。
使用人である以上、関わらないことはできないが、それでも、彼の世界に存在してはいけないと自負している。
少なくとも、彼の世界の真ん中に躍り出る役ではないのだ、私は。


先日、そう、この脚の怪我をしたときも、彼は傍にいた。
688 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:27
たまたま私が階段を掃除している最中に、彼は別の使用人と話をしながら急いで廊下を走っていた。
どうやら、午後一番で行われる会議に遅刻気味のようだった。
次の会議は、階段を2つ上がって突き当たりにある大広間で行われる。
私は彼が階段を上る邪魔にならないよう、掃除用具を纏めて手すりのほうへ移動した。
彼は大股で階段を駆け上がり、使用人の話を耳にしながらも、私を視界に入れると柔らかく微笑んだ。
それはいつものように甘く優しい笑顔で、思わず胸を高鳴らせてしまう。
細められた瞳、流れるような前髪、綺麗に通った鼻筋、まだあどけなさの残る頬、女性のように長い睫毛。
彼に声を懸けられたら10人中10人が振り返り、そして恋に落ちるのだろうと思う。

赤みの差した頬を悟られぬように、普段以上に深く頭を下げる。
彼は私の横を通り過ぎ、さらに階段を昇っていく。
とくんとくんと、先ほどよりも早くなる鼓動に耳を塞ぎながら、私は掃除用具を持ち、階段を下りようとした。

そのときだ。

何があったわけでもない。
カラスが啼いたわけでも、よそ見をしていたわけでもない。
だが、私は階段を踏み外した。
あると思ったはずの場所に段はなく、身体のバランスを崩す。
いけない、と咄嗟に手摺に掴まろうとする。
が、それより先に、脚が滑り落ちていく。

あ。と声を出したのは、ほんの一瞬のこと。
ひどく大きな音を立て、私は転げ落ちていった。
視界が何度も回転し、背中や腕、足、腰に次々と鈍い痛みが襲い掛かる。
689 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:28
数秒遅れて、激痛が、左足に迫ってきた。
何が起きているのか分からない。
階段から落ちた、廊下に身体を打ち付けた。それは理解できる。だが、この左足の痛みは、尋常ではない。

「野中ちゃん?!」

階段の上から、声が降ってくる。
私は恐る恐る目を開く。
彼は、王子は、青ざめた表情で私のもとへと駆け寄ってきた。中空に何枚もの資料が舞う。
使用人が慌ててそれを拾うが、そんなこと気にもせず、彼は私の名前を何度も呼び、「大丈夫?!痛い?!怪我しなかった?」と訊ねる。

いけない、また手を煩わせてしまう。
私は何でもないように立ち上がろうとするが、途端に左足が悲鳴を上げ、顔を歪める。
声を出すことを必死に堪えると、彼は私の異変に気付き、「治療しよう」と努めて冷静に云う。

「っ、え……?」

彼は私の膝の裏と肩に手を挿し込み、ぐっと腕に力を入れる。
ふわりと宙に浮いたかと思うと、この身体がすっぽりと彼の腕の中に収まった。
抱き上げられていると知ったのも束の間、私の脳はすぐに四肢に信号を発した。
王子に何をさせている。今すぐこの腕の中から逃げろ。たとえ骨が砕けていたとしても、地を這ってでも動けと命じた。

「王子っ…お許しください!」
「だめ、暴れないで」
「いけませんこのようなっ……王子!」

手を煩わせるというどころではない。
やめてください。私のような小汚い娘を、あなたの腕に抱くなど、してはいけません。
690 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:29
私は必死に抵抗を試みようとするが、そのたびに痛みが駆け巡る。
痛い、熱い、苦しい。
だが、王子はしっかりと抱きとめ、「動かないで」と囁く。その腕の温もりが直に感じ取れる。
全身に突き刺さった棘を一つひとつ抜いていくような優しい声に、思わず言葉を失ってしまう。
後方から「会議が!」と叫ぶ使用人の声が追いかけてくるが、彼は振り返ることもせずに、ずんずんと歩く。そう、階段を大股で駆け上がったときのように。

「大丈夫、すぐ痛いのなんか無くなるから……もうちょっとだからね?」

彼はそう言うと、迷うことなく医務室まで私を連れて行き、顔馴染みであろう彼の主治医に、「先生!」と叫んだ。
「野中ちゃんを助けて!」と言って、医師に私を引き渡した彼の顔は、途端に崩れ、今にも泣きそうだった。
先ほどまでの凛々しさはカケラも見当たらず、まるで母親を探す迷子のようにも見えた。

「先生」と呼ばれた主治医は、ただ事ではない雰囲気を感じ取りながらも、「そこに座らせて」と白衣の腕をまくる。
だが、彼はまだ現実をうまく把握できていないのか、私を腕から離そうとしない。

「王子、その人を座らせなさい―――」

主治医は鋭く同じ言葉を繰り返して、彼の肩を叩いた。
すると、まるで金縛りから解けたように、王子は私を解放した。
椅子に座らされた私の脚を診ながら、彼は「ああ」と何かに納得し、同じ部屋に居た白衣の女性に「氷と包帯」と指示する。

「王子、あなたは会議に行きなさい」
691 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:29
足首に触れられただけで、一瞬だけ忘れていた痛みが思い出され、私はひどく顔を歪める。
それが彼を不安にさせると分かっていても、耐えがたい痛みをこらえる術がなかった。
王子は「でもっ」と何か口にしようとしたが、「公務が第一ですよ」と主治医は言葉を紡ぐ。

「私の仕事は彼女を診ること、あなたの仕事は、会議に行くこと、です」

主治医はそうして「そこに足を乗せて。折れている。念のためレントゲン」と、また指示を出す。
そこで私は漸く、骨折の事実を確認し、あぁと声を漏らした。
彼はそんな私を置いてはいけない顔をし、暫くうろうろと部屋を歩く。その姿は、まるで犬のようだった。
主治医は彼に言葉をかけることもなく、手早く処置を進めていく。
ドクターは王子の幼い頃も知っている。彼の性格を分かっているからこそ、これ以上は黙っているのかもしれないと思う。

数分後、使用人が「王子!」と呼びに来たのと、何かを決意したように「失礼します!」と王子が頭を下げたのはほぼ同時だった。
ジャケットを翻したその背中には、微かな怒りと悲しみが滲んでいて、その背中に私は何かを応えなければいけなかったはずだった。
でも、その言葉は結局喉を通るはなかった。
私はただ、「どうやら、面倒くさい所を折ったようですね」という主治医の説明を、聞くだけだった。


-------

「左第5中足骨基部裂離骨折」
聞き慣れない単語を並べられただけで、いかに自分が重傷かを思い知った。
それは、1ヶ月以上の安静、及び完治は3ヶ月以上先という事実だ。
692 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:29
私たち使用人の仕事。
それは、館の主である国王をはじめとした貴族の皆様が快適に過ごせる空間を作ること。
だからこそ、脚の動かない自分が不要だという結論に至るのに、数日もいらなかった。

その気持ちを春水に伝えると、彼女は頑なに首を振った。
引き留めてほしくなかったわけじゃない。だけど、慰めの言葉はいらなかった。同情されたくなかった。
ただ、自分の決意を口にして、揺るぎない事実にしたかった。
自分が役立たずであると再度認識して、此処を出ていきたかった。

「あの日の王子、いつもより完璧に公務こなしたんやって」

萎れかけ窓辺の花に水をやりながら、独り言のように春水は云う。
え?と訊ねる間もなく、「野中ちゃんが怪我した日」と続けた。
その言葉を噛み砕き、やはりそうだと思う。
王子にとって私は大した存在じゃない。私が怪我をしようとどうしようと、王子は王子だ。
一介の使用人のことなど関係なく、自分の仕事に注力する。それが当然だ。

「野中ちゃんに負担掛けたくなかったんやろうなあ」

が、彼女の口から発せられたのは、予想外の言葉だった。
思わず聞き返そうとする前に、また、彼女は続ける。
「だってそうやろ?」と話す瞳に、呑み込まれる。
693 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:30
「もし会議でミスしたら、野中ちゃんは、それは自分が怪我して王子の集中途切れさせたせいとか、
もし遅刻したら、それは自分を運んでくれたせいとか、全部全部野中ちゃんが自分のせいって言い出すやろうって、王子はわかってたんちゃう?」

だから。

「だから王子は、いつも以上にしっかり仕事したんよ。野中ちゃんのために」

途端、きゅうっと何処か、身体のどこかが締め付けられたような感覚を知る。
それは、怪我の痛みとは違う、内面からくる痛み。
この痛みはいったい何なのか、私には何も、分からない。

「ほな、薬取ってくるさかい、大人しくしときーや」

春水は自分なりの見解を述べると、私の言葉も待たずに部屋を後にした。
ぱたり、と、ドアが閉まった後、決して広くはない自室に、一人残される。
先ほどまでの春水の言葉が、頭の中をぐるぐると回る。

王子が、私のために、ちゃんと仕事をした?
負担をかけないため?
そんなの、嘘だ。
呑み込まれたと分かっている。
春水の言葉には妙な説得力がある。
チェスと同じだ。
いつものように攻め込んでいるのに、気付けばクイーンが目の前に立っていた。

違う。そんなことはないと、すぐに否定する。
694 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:31
私はそんな価値のある人間じゃない。
それに、王子はいつも完璧だ。しっかりと仕事をこなす人だ。
私が怪我をしようとしなかろうと、彼には関係ない。
彼は、彼はこの国の未来を握る若き王子で、私はただの、彼の世話役の大勢のメイドの中の一人に過ぎない。

私は、私は彼の瞳の中になど―――

「入っても、いいかな?」

自分を納得させようと言葉を並べていると、優しいノックと柔らかい声がした。
春水にしては早い帰りだと思っていた私の身体は硬直し、足先から緊張が上ってくる。
折れてしまった左足が余計に圧迫され、痛みが増幅する。
それでも条件反射として立ち上がる。間を開けずに、「どうぞ」と声を出す。
震える声が紡いだ小さな音は、ドアに当たって跳ね返ったが、彼はしっかり耳にしたのかゆっくりとその扉を開ける。

数日ぶりに逢う、彼の瞳は、真っ直ぐに私をとらえる。

「立っちゃだめだよ……!」

彼は私の姿を認めると、名前を呼ぶでもなく、怪我の具合を聞くでもなく、真っ先にそう口にした。
補助の杖を使ってはいるものの、安静にして寝ていろと主治医に言われたばかりだったことを思い出す。
だが、王子の前で座ることなど赦されない。
私はゆっくり首を振る。

「このような無様な格好を」

お許しください―――

そう紡ごうとした途端、私の視界がぐるりと反転した。
695 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:31
え?と声を出す余裕もなかった。
それは怪我をしたあの日、彼の腕に抱かれたときと同じようだ。
彼の手は私の腰に添えられ、反対の手で軽く肩を押された。その反動で身体はゆっくりと反り上げられ、彼に導かれるように優しくベッドへと倒れ込む。
飛び込んできた高い天井と、彼の泣きそうな顔に、思わず顔を逸らす。

「だめ!絶対立っちゃダメ!」

王子、王子、王子。
いったい、何をされているのですか…

そう言おうにも、言葉が続かない。
ベッドに押し倒され、彼に圧し掛かられ、これではまるで、夜の営みが始まるようだ。
そんなことを意識することなど、烏滸がましいにも程がある。
私にそんな資格などない。
私は彼の世話役で、大勢のメイドの中の一人に過ぎない。
やめてください。王子。誤解されます。あなたのお立場が不利になります。
もしこのような場所を誰かに見られることになりましたら、王子、あなたの将来が…

「ごめん……」

どんな言葉で彼を説得しようか逡巡していると、その頬に涙がポタリと落ちてきた。
彼の大きな瞳から、次々に雫が降り注ぐ。
その黒曜石のような美しい宝石の表面は、確かに、私が映っていた。

大勢の中の一人に過ぎない、野中美希が、映っていたんだ。
696 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:31
「あのとき…手を、手を伸ばしていたら、怪我なんてさせなかったのに……」
「王子……」
「僕が、僕があの階段を使わなかったら、怪我なんて!!」


―――「だから王子は、いつも以上にしっかり仕事したんよ。野中ちゃんのために」


ふいに、春水の言葉が、頭をよぎる。
私を心配させまいという、ひとつの仮説。

でも、やっぱり違ったよ、春水ちゃん。


「……勿体なくございます、王子。あなたの涙は、私にはあまりにも美しすぎます……」


この人は、苛まれていた。
自分が背負わなくても良い罪を、ずっとずっと抱え込んでいた。
優しすぎるがゆえに、尊すぎるほどの温もりを携えて、苦しみの中で、泣いている。

この人は、責任を果たそうとした。
それが、「怪我をさせてしまった」という、背負う必要のない罪を洗い流す贖罪だと、信じていたから。
697 :恋の花 :2016/07/24(日) 23:32
「どうか王子、涙を拭いてください……あなたが、そこまで想ってくださることが、何よりも、うれしいのです」

気付けば、私もいつの間にか泣いていた。
王子のくれる途方もない祈りが、固く閉ざされていた、私の心を、溶かしていく。

そんなこと望んでいなかったのに、開けないと誓った蓋に手をかけ、想いを、解放していく。

「野中ちゃんっ…野中ちゃん、ごめんっ…ごめんねっ…!」

名前を呼ばれる。
この国を背負う人の世界に、私はしっかりと、存在してしまう。
どうして?と問いたいのに、その勇気さえもない。

「王子、あなたのせいではありません…だから、もう、泣かないでください」

それでも涙は止まらない。
一度あふれ出してしまった想いに蓋をすることは不可能だった。
心のダムは決壊し、鉄砲水のように打ち付ける。
秘められていた想いは今まさに、青い水面へと打ち上げられた。


赦されない想いが、その芽を出した。
色付いた花に変わるその日を待って、静かに静かに、息をする。
698 :雪月花 :2016/07/24(日) 23:36
以上になります
中途半端に始まりもせず続きませんが以上です!w
王子役でこの人が抜擢されたのは嬉しすぎる誤算でした。秋ツアーも楽しみですw

ではまた!
699 :雪月花 :2016/09/03(土) 23:53
秋ツアー何処に行けるだろうと悶々としている雪月花です


今回はちょっとこれまでと趣向を変えてみました
お暇な方はお付き合いくださいますと幸いですm(__)m
700 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:53
一歩歩くたびに汗が滴り落ちる。
灼熱の太陽が照り付ける。今日は早めに宿を見つけたいものだと天を仰いだ。
遠くの方にも雲は見えない。ここ数日ずっと日照り続きだ。恵みの雨は降らず、旅人の足を惑わせる。

ふうと息を吐き、腰に提げる水袋を持った。
皮革で拵えた中には、まだ半分の中身がある。が、この調子では、夕方には飲みきってしまいそうだ。
川があれば良いのだがと額の汗を拭い、先に見える山を睨む。
今日中にあの山を越えるのは無謀だと判断する。ひとまず村を探そうと速度を上げた。
701 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:54

--------

「龍神村、か」

日が傾き、影が少し伸び始めた頃、その場所にたどり着いた。
古びた石に「龍神村」と彫られていることから、此処の地名と、その先に集落があることを理解する。
村の入口から少し歩くと、早速川を見つけた。
これ幸いと腰を屈め、ばしゃりと顔を洗う。暫く歩きつめていたから、生き返るような感覚を知る。

たっぷりと水分補給をした後、改めて周囲を見回した。
動植物の息の気配はあるが、人影が見えない。
遠くのほうに稲が風に靡いているところから、無人の村ではないだろうと推察できる。
この時間帯なら、狩りや猟から帰る男たちの姿が見えても良いはずだが、なぜ誰もいないのだろうか。
不可思議な感覚に首を傾げながらも、水袋にしっかり水を貯め、再び歩き始めた。

少しすると、果たして、ぽつぽつと民家が見えてきた。
やはり無人の村ではなかったようだと安堵しながら、交渉の準備をする。
水袋の隣に提げている山羊の皮袋を開け、中を確かめる。
よし、まだ充分にあると頷き、目の前の民家の戸を叩いた。
702 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:54
「どなただい?」

暫くすると、戸を開けずに、家の中の男がそう言った。
容易に外に出ずに相手を確認してきた。どうやら、村意識が強いようだ。これは宿を見つけるのに苦労するかもしれない。

「旅の者です。一晩此処に泊めていただけませんか?」
「……悪いが、今晩は無理だな」

雲行きが怪しくなったが、すぐに山羊の皮の袋を鳴らす。

「無償でとは言いません、一宿の礼は」
「すまんが他を当たってくれ」

それきり、男の声はしなくなった。
礼を提示したが、それに見向きもせずに断った。そんな相手に、これ以上交渉することは難しいと判断する。
静かに頭を下げ、踵を返す。
予想した通り、宿探しは難航しそうだ。
703 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:55

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「……これで、五軒目か」

日はどんどんその姿を隠していく。だが、誰もが家に上げようとはしなかった。
それどころか、家の木戸すら開けようとしない。
単に村意識が強いだけではない、“何らか”の理由を覚える。その正体はわからないが、解の手がかりはある。
一宿の礼にと、山羊の皮に入れた宝石や砂金の音を聞かせても、彼らの回答は揺るがなかった。
これまで訪ねた五軒の村人たちは皆「今夜は難しい」と答えている。
断る理由にわざわざ「今夜は」と付け加えていることから、どうやらこの村では今晩、何かがあるようだ。
そう考えれば、村に人気がないことも頷ける。

秘祭の前に家に籠り、その身を清めるという風習も、珍しくはない。
どうやらそういった日に当たってしまったらしいなと肩を竦めた。
今晩は諦めて、ひとまず川の近くで野宿をするかと歩き出したとき、遠くのほうに、その家を見つけた。
家というより、それは屋敷に近かった。これまで訪ねた村人たちのそれよりも、かなり、大きい。

どうせなら、今夜村で何が起きるのか、確かめるのも悪くはない。
あの屋敷は恐らく、この村の地主のものだ。
こんな身なりの旅人など相手にはしないだろうが、自分の推測が当たっているか、気になる。
せめて話し相手だけでもしてほしいものだと、屋敷へと急いだ。
704 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:56
「……門番はいるのか」

屋敷の前には、いかにもな男たちが二人、腕を組んで仁王立ちしていた。
家に籠って身を清める。という予想が早速覆されて、肩を落とす。こういう洞察力が鈍ってしまっては、この先の旅が不安になる。
いずれにせよ、彼らの横を頭を下げて通ることは難しそうだ。
正面からの突破が無理ならば、裏手に回ろうと踵を返す。
何だか本来の目的を見失っている気がするが、どうせ気のままに行く旅人だ。こういう寄り道も、悪くはない。
寧ろ、何らかの理由をつけて時間を稼ぎたくなったのかもしれない。
ただ先を急ぐためだけの旅は、もう飽きた。
この旅路の先に、自分の思う答えを見つけられないのかもしれないのだから。
だとしたら、果てにたどり着く前は、存分に寄り道すべきだ。

屋敷をぐるりと回り、裏門まで行く。と、そこにも門番が居て、慌てて戻る。
随分としっかりした屋敷だなと感心しながら、とんとんと足踏みする。
ふうっと息を整えながら、たん、と地面を蹴る。

助走、そして、ひとつ、飛ぶ。

壁を蹴り、塀の上に登った。
ガシャリ、と、刀が塀にこすれて金属音が響く。失態を犯したことを後悔しながら下唇を噛む。
焦らずに、屋敷内を見渡す。
庭には誰もいない。意外と不用心だなと思っていると、屋敷の中央の部屋から、何やら言い合いの声がした。
塀から降り、足早に縁の下へと身体を隠す。
ちょうど、先ほどの部屋の真下へ移動すると、驚くほどの声が響いた。聞き耳を立てるほどでもない。
705 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:56
「お待ちください、領主様!」
「不服を申すか?名誉なことぞ」
「しかし……私たちは三年前にも!」
「贄は毎年、一人と決まっている。それは主も知っておるはずじゃ」
「……なぜ、なぜ、我が娘なのですかっ。生娘ならほかにも―――」

たった少しの会話で、だいたいを把握した。
“贄”とはつまり、神に捧げる供え物のことだ。その贄に選ばれたのが、先ほどから声を荒げている男の娘のようだ。
三年前にも娘を差し出したのに、なぜもう一度白羽の矢が立つのかと領主の食い下がっているようだが、憐れとしか言いようがない。

この村の風習として、贄を選び、捧げる儀式があるようだ。
その贄をどのように選ぶのかは知ったところではないが、領主に盾突いても意味はない。
そしておそらく、一度決まったことは、覆らない。
この運命を変えたければ、領主を説得するのではない方法を選ぶべきだ。
例えばそれが、血で血を洗うようなことになっても。

「お父様、もういいんです」

そのとき、少しだけ低い声が、部屋に響いた。
その低音は、先ほどまで聞こえてきた父親と領主の声とは違う、三人目だ。

「領主様、そのお話、謹んでお受け致します」

凛とした声の響きに、背筋が伸びる思いをする。
706 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:56
「おお、そうか。受けてくれるか」
「領主様―――!お前も、一体何を!」
「お父様。私、龍神様になら、この身を捧げても良いのです」

話は思わぬ方向にまとまりそうだった。
狭い縁の下でふむと腕を組み、のそりと動き始める。

どうやら、面倒なことになりそうだ。


-------

領主の家を抜け出したあと、先ほどの川まで戻り、焚き火を囲んだ。
魚を焼いている間に、自らの身を清める。
冷たい水で汚れを落としながら、どうしたものかと考えた。

自分自身には、何も関係のないことだ。
この村の風習や、贄、生娘のことなど。

ただ、どうにも気になることがあった。
それが、領主の家で聞いた、贄と思われる娘の言葉。


―――龍神様になら、この身を捧げても良いのです


龍神様。
あのとき娘は、確かにそう言った。
707 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:57
そういえば、この村の名前は確か「龍神村」だったはず。
「龍神様」とは、この村の守り神のような存在なのだろうか。
その名を冠しているのならば、たいそう立派な神なのだろう。
そんな「神」が、毎年のように、年頃の生娘を贄にもらうとは。

全く。

「ひどい神様もいたもんじゃな」

首の後ろを、がりがりと掻く。
厄介事に首を突っ込むのは性分ではないが、どうせ暇つぶしだ。

川から上がり、髪を結わい直した。
もう夜は更けていて、動植物たちの声は聞こえなくなっている。

今夜行われるのは、秘祭という名の生贄を捧げる儀式だ。
村人たちが恐れていたのは、白羽の矢が、自らの家の娘たちに立つことだと推察できた。
彼らは籠っていたのではなく、籠らざるを得なかったのだ。
自分以外の誰かが傷つく姿を、まともな精神の持ち主なら、見ることは不快だ。
領主がどのように娘を選定しているかは定かではないが、その日は終日、祈るだろう。

どうか、我が家以外の誰かの娘を選んでくださいと。
708 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:57
反吐が出る。
村特有の考え方だ。
年に一度の風習ならば、毎年、同じことが繰り返される。
そんなことをしていて、村の繁栄や平和が保たれるのだろうか?
いや、保たれると信じているのだ、彼らは。

それが彼らの「世界」だから。

それを否定する力も、義理もない。
空を仰ぎ、夜を想う。

腰に提げた刀に左手を添える。
右手をゆっくりと柄に翳すが、握ることはしない。
静かな風の流れに耳を澄ませながら、構える。
吐息すら聞こえてしまいそうな沈黙の中で、目を閉じる。

勝負は、一瞬だ。
709 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:57
-------

「逃げろ」

重苦しい沈黙を越えてそんなことを言う父の姿は、あまりにも小さかった。
いつもは威厳があって、母にも強い言葉を使う人だったから、そんな姿を目にして戸惑ってしまう。
見たこともない姿に、思わず言葉を失う。

いや、見たことは、あった。
あれは、そう、三年前だ。

ああ、そうだ。

「逃げませんよ。私は、龍神様の元へ行きます」

三年前、姉上が贄として捧げられた日も、父は「逃げろ」と言ったんだ。

「龍神など……!」
「お父様、お母様」

父が何か言おうとした。
きっと「居るものか」と、声に出したくなったんだと思う。
でも、私は一足先に両親の前で三つ指をついた。
そして深く頭を下げる。それ以上の言葉はきっと、必要なかったから。
710 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:58
母が泣きながら、私の背中をさすってくる。
私は頭を下げたまま、母の温もりを感じる。

家の戸が叩かれる。迎えが、やって来た。

いつか、私もこの家を出る日が来ると思っていた。
それがまさか、姉と同じように龍神様に嫁ぐ日とは、想像していなかったけど。


-------

父は最後まで、私を「龍が沼」へ行かせようとはしなかった。
迎えの駕籠が来ても、領主様の門番たちへ食い下がり、酷く醜く、叫んだ。

なぜ我が娘なのだ。
我が家は三年前にも捧げたはずだ。
娘ならほかにもいるだろう。三軒先の娘は今年十六ではないか。あれは生娘ではないというのか。
何処の男を手籠めにしたのだ。ふざけるな。二十までは純潔であれという領主の言葉に従わないのか。
川向こうに住む娘は十八だろう。なぜあの娘ではないのだ。
ふざけるな。ふざけるな。
なぜ、なぜ、娘なのだ。

口角泡を飛ばしたが、領主の門番たちは、遂に刀を抜いた。
母は思わず父の腕を引き、「お許しください」と深く頭を下げた。
父ももう、それ以上は何も紡げずに、漸く押し黙った。
711 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:58
私は最後の別れをし、そっと両腕を重ねて前へと突き出す。
駕籠舁の二人が、それぞれ私の両目と手首を紐で結わう。
三年前の姉の姿が、瞼の裏に浮かぶ。あのとき姉は、私と同じように白装束を纏い、駕籠に乗って龍が沼へと向かった。

古くから、底なし沼として龍神村の中心に存在する「龍が沼」は、龍の住処だと聞いていた。
沼の周辺にはきれいな花が咲き乱れているが、決して足を踏み入れてはいけないし、近づくことも赦されない場所だ。
そもそも沼へ行くまでの道は入り組んでいるし、常に霧が立ち込めていて、大人でも迷いやすい場所なのだ。
だから、龍の怒りを買って、食べられて、二度と戻ってこれなくなるよと大人たちは口をそろえて言った。

「美希ッ―――!!」

父と母の叫び声は、今も頭を巡っている。
それでも私は、不思議と、恐怖はなかった。

駕籠で運ばれながら、幼い頃、その龍が沼の近くに遊びに行った時のことを思い出す。
姉の誕生日が近かったのだ。
いつも私に優しくしてくれる姉に、何か贈り物がしたかった。
だから、龍が沼の近くに咲く桔梗の花を摘んでいくことにした。

沼に近づいてはいけない。その言いつけを、私は破った。
712 :龍神の花嫁 :2016/09/03(土) 23:58
大丈夫。沼に入るわけじゃない。近くまで行くだけ。すぐ戻ってくるから。
両親にも姉にも内緒で、私は花を摘みに出かけた。
そして案の定、迷子になった。
日が高く上ったころに出かけたのに、夕暮れを過ぎても、私は沼の傍で涙を拭い、帰り道を見失っていた。

鼻を啜り、袖で瞳を拭い、それでも乱暴に摘んだ桔梗はそのままに。
何度も転んで擦りむいた膝が痛かった。
涙を零して頭も痛かった。
お腹もすいた。寂しい。帰りたい。お母さん。お姉ちゃん。お父さん。

ひぐえぐと嗚咽を漏らしていると、私はいつの間にか、村の入口に立っていた。
それは一瞬の体験だった。
確かに先ほどまで龍が沼に居たのに、気付けば母の呼ぶ声がし、駆け寄ってきて私を抱きしめた。
何処に行っていたの。心配したでしょう。と、母は泣きながら私を叱った。
私は桔梗を握り締めながら、空を見上げた。

そのとき私は、確かにその姿を見た。

銀の鱗を靡かせるその姿を、瞳に焼き付けたのだ。
713 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:00
-------

「降りろ」

龍が沼で降ろされると、駕籠は一目散に村へと戻っていった。
私は目隠しを外され、夜の沼と対峙する。昼間でも少し恐怖を感じる光景が、夜になると一層その濃さを増す。
見張りの者は二人。篝火をたいて私のすぐ後ろに立っていた。
私は静かに地面に腰を下ろし、龍神の住処を眺める。

龍が沼に来るのは、もう両手では数え切れない。
私はあの日、その銀の鱗を目にしてから、何度か此処に足を運んでいた。
龍が沼で帰り道を失くした後、銀色の姿をした“何か”に救われたことは、何度となく両親に話した。
だが、父も母もそれは気のせいだと言って取り合わなかったし、そんなことよりも、近づいてはいけない場所に行き、そして迷ったことを酷く叱責した。

私は、父の怒鳴り声を聞きながら、頭の中では、何度もあの銀の鱗を思い描いた。
精錬な煌めきと、流れるような鬣、豊かな体躯で空を駆け抜けていく姿は、紛れもなく、「龍神様」だと思った。
幼心に、私は龍神に救われたのだと感じた。
自らの領域に入り込んできたことに怒りを感じたかもしれないが、それでも私を人里に戻してくれた龍神様に、畏怖よりも敬意を覚えた。

それから私は、龍が沼に訪れた。
沼の近くには、我が村の守り神である龍神様の住処である小さな祠がある。
村人は誰も近寄らないため、お供え物はしていないし、随分埃を被り、雨風に曝され、今にも壊れてしまいそうだった。

「……あなた様の結界に入ってしまいますことを、お許しください」
714 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:00
深く頭を下げ、祠に竹筒をふたつ、供えた。一つには清流の水を、もう一つには桔梗の花を。
祠を綺麗にし、修繕できる箇所は試み、少しずつ、元の形に戻そうとした。

領域に踏み込む禁忌を犯しているとは承知していた。だから、村人にも、両親にさえ、何も言わなかった。
それでも、私を助けてくれた龍神様に、何か報いたかった。

贄に選ばれたと知ったのは、二日前のことだ。
領主様が、付き人と共に我が家を訪れ、重々しく口を開いた。

「お前の娘を、今年の花嫁とする」

贄は毎年、十六から十八の生娘が選ばれる。この村を守り、平和と繁栄をもたらす龍神様の花嫁となるのだ。
父は酷く狼狽し、何度も何度も領主様に食らいついた。最後は頭を下げ、どうか娘を返してくださいと、泣いた。
三年前に姉を嫁がせたときも、父は狂ったように縋りついたが、それ以上に、領主様の腕をつかんで離さない。

「諄いぞ。この決定は揺るがん」

領主様からはっきりと拒絶されても、父は怯まなかった。
遂には領主様の屋敷にまで上がり込み、必死に私を贄から外そうと訴えた。
そんな父をしり目に、私は贄に選ばれた事を、素直に受け止められた。

贄に選ばれたのは、龍神様の結界に入り込みすぎた禁忌の罰かもしれないと思ったし、
それ以上に、幼き私を救ってくれた龍神様に嫁げることが、嬉しかった。

私は静かに、沼で龍神様を待つ。
龍神様、もうすぐ、お会いできますね。
715 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:00
-------

暫く私が、沼を見つめていた。
龍神様が現れるのは、草木も眠る丑三つ時だと言われている。
今何刻ほどだろうか。
緊張しているにもかかわらず、なぜか瞼は重くなる。
私はどうやら、思った以上に呑気のようだとあくびをかみ殺す。

雲が空を覆い、月がその姿を隠したときだ。
がさりと、後方の茂みが震えた。
龍神様がいらっしゃったのだと思った。が、次の瞬間、私の口を塞ぐ手があった。人間の、手だ。
そのままぐいっと後方に引き寄せられる。突然のことに、思わず全身に力を込める。

「暴れるなっ」

聞き覚えのある声だった。それは、私が贄に選ばれたと告げてきた、領主様の付き人のそれだった。
何事かと思うが、それより先に身体が抵抗する。
様子がおかしい。
私の見張りの方は、篝火をたいていた人は、どこへ行ったの?

「大人しく、しろっ!」

私があまりにも暴れるからか、その人は鋭く右腕を私の腹部に叩き込んできた。
一瞬にして全身を貫く痛みに、息ができなくなる。
716 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:01
ぐらりと視界が揺れたとき、篝火が目の端に映った。そして、それを持つ見張りの人の口角が上がっているのも、確かに見た。
何が起きているのか分からぬまま、私は地べたに寝そべり、そこに付き人の男がのしかかる格好となった。

「おいおい、生娘に何するんだよ」
「だってこいつ、案外上玉だぞ?」

篝火をたく一人の男が、私に跨がる男に言った。状況を把握できず、声を上げようとするが、先ほど腹部に受けた衝撃が大きく、うまく呼吸ができない。
短くなる息は音を乗せず、恐怖を振動させる。
そんな私の動揺を汲み取ったのか、私に跨がる男は胸元を掴み「売られる前に良い思いさせてやるよ」と笑った。

売られる?どういうこと?
私は、龍神様の花嫁になるんじゃ……

「生娘じゃないと高く売れないぞ?領主様が知ったら何と言うか」
「そうなったら、もう一人連れてくれば良い。龍神様は、次なる花嫁を欲しているとでも言ってな」

そうして、「ほら、腕抑えてろよ」と男は言う。素直に従った篝火の男は、私の両腕を地面に押しつける。
着物の胸元をはだけさせられた所で、漸く理解が追い付いた。

利用している。
龍神伝説を使い、私は売られる。
そしてその前に、犯される。この場で純潔を失うと悟る。
恐怖が締め付ける。呼吸を忘れる。抵抗を失う。
717 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:01
「こいつ、三年前の花嫁の妹なんだろ?」

男が私の胸をまさぐり、首筋や鎖骨を舐め始めたとき、そんなことを言った。
光なく、ただ呆然と夜を泳ぐ雲を見ていた私は、その言葉に微かに反応する。

「姉妹そっくりだな。顔立ちも、声も。ま、胸は妹の方が立派だがな」
「お前よく覚えているな。抱いた女のことなんてイチイチ覚えていないと言わなかったか?」
「姉妹二人とも抱けるなら思い出すさ。締まり具合を比べるのも、悪くないだろ?」

瞬間、かっと火がついたような感覚を知る。
この男は、姉を、愚弄した。
優しかった姉を、大好きな姉を、私の大切な、大切な、姉を!

龍神様には感謝していた。幼い私を助けてくださった、命の恩人だから。
だけど、姉のことは大切で、大好きで、失いたくなかった。
三年前、龍神様の花嫁に姉が選ばれたとき、心の中で、どうして姉なのだろうと思った。
それは、自分が選ばれなかったことへの嫉妬も少なからず孕んでいた。
だけどそれ以上に、姉が居なくなってしまう寂しさが浮かんだ。

私がもし将来、龍神様の花嫁に選ばれたら、もう一度、姉に会えるだろうかと、考えた。
何処か、この世界じゃないかもしれないけど、遠い何処かで、あの姉の笑顔に再びと。
718 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:02
でも、でも、でも。

姉は、龍神様の花嫁ではなかった。
この男たちに、奪われたのだ。

「………かえ…して」

恐怖を越えるその感情は、絶望だ。
絶望の色は、黒ではない。
滾るような、深紅だ。

「お姉ちゃんを!返して!!」

私は叫んだ。鈍い腹部の痛みをものともせず、全身で、心から、叫んだ。
男たちは、突然の抵抗に怯んだが、それもほんのわずかなことだった。
手首を縛られた上、両腕を一人の男に固定され、もう一人にはのし掛かられている。どれだけ身体をばたつかせても、びくともしない。
それどころか、先ほどまで人形のように硬直していた私が息を吹き返したことで、男たちはこの饗宴を楽しみ始めていた。
ニタニタと薄汚い笑みを浮かべ、もっと暴れろよ、助けを呼べよと言う。

「お前、花嫁になりたがっていたんだろう?」
「ほお、そんなに龍神が好きなのか?」
「助けてもらえばいい、大好きな龍神様とやらにな」

そうして、私の着物をはぎ取り、強引に足を開かせる。
再び恐怖が押し寄せて、気を失いそうになる。
ちらりと、相手の高ぶったそれが目の端に映る。
719 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:02
ああ。
ああ。

もう、終わりだ。

ぐっと、そこが開かれるような感触を知り、ぎゅうと目をつぶった。

覚悟という名の絶望を受け入れた刹那。
痛みも熱も重みも遠退き、遅れて鈍い男の呻き声がした。

え?と恐る恐る目を開く。
先ほどまで私に跨がっていた男が、消えている。
いや、消えたのではない。少し先の茂みに頭を突っ込み、悶えている。
褌を晒す姿は不格好で滑稽で、同時に、何が起きたのか、把握できない。
それは私の腕を掴んでいた男も同様だったのか、私と茂みの男を交互に見た。

そのとき、一陣の風が吹いた。
つい先刻まで雲に隠れていた月が、その顔を覗かせる。

「全く」

月明かりが、世界を照らす。
そして、その人が、目の前に現れる。

「ひどいカミサマもいたもんじゃな」

静かに闇を裂くような、黒き髪と赤い瞳を持ったその人を、私は瞳に焼き付けた。
720 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:02
-------

英雄を気取ったわけではない。
できることならばもう少し早く駆けつけたかったが、腑に落ちないことに対しての確証を得るのに手間取った。

「龍神村」と名を冠し、龍神に贄が捧げられる儀式があるのだから、当然、龍神信仰が根付いているはずだ。
だが、この村をぐるりと一周しても、その龍神を奉る立派な祠や社はない。
そればかりか、「龍」と名の付くものはなく、漸く見つけた「龍が沼」にある祠も、雨風で古びている。
この村は龍の加護を受けているとばかり信じていたが、もしかすると、その前提が違うのではと考えた。

贄として差し出された娘の家に上がり込み、強引に話を聞き出し、領主が売人となっていることを知った。
龍神の花嫁選びと称し、毎年一人、生娘を売る。
高値で売れなかったときや、買い手が気に入らなかった場合には、「龍神様はさらなる花嫁を求めておられる」と、別の娘を贄として差し出す。
あるいは、「神隠し」として、夜な夜な娘を攫うことも横行しているようだ。

何が「龍神村」だ。
おかげで娘の身体を傷物にしてしまうところだった。

「汚い手で、その子に触るな」

腕を押さえる男にそう言うと、相手は漸く事態を理解したのか、慌てて腰の刀を抜いた。
随分と遅い動作だ。待ってやる義理はない。
すぐさま相手の右側に回り込む。
右の拳を鼻に叩き込み、相手が一瞬呼吸を失った隙に胸倉を掴む。懐に入り、ぐぁんと背負う。
721 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:03
「ぐはっ!」

遠心力そのままに、男を投げ、地面に叩きつけた。
受け身に失敗した男は白目を剥く。暫く使い物にはならないだろう。

「あ、あのっ……」

先ほどまで地面に押さえつけられていた娘が声を上げた。
白装束がはだけ、せっかくの綺麗な姿が台無しだ。そっと胸元を直してやり、手首の拘束を外す。

「ありがとう…ございました…」

震えながら言葉を紡ぐ娘の髪を撫でる。
齢十六の娘は、まだ少女と呼んでもおかしくないほどの幼さを携えている。
花嫁となるには、早すぎる。

「早く逃げた方がいい。すぐ人が来る」
「え?」
「領主はあなたを売ろうとした。ということは、買う者がいる。この龍が沼が売買の場所だとすれば」

すぐに買い手がやってくる。

そう言いかけたとき、橙に染まった篝火の列が見えた。
早速、お出ましかと肩を竦めた。
722 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:03
「……そこにいるのは、誰だ?何をしている?」

篝火の先頭に立つ男の声には答えず、咄嗟に娘を背中で隠す。

「あなたこそ何をしていらっしゃるんです?龍神を騙り、生娘を食い物にしていた、領主サマ」

闇に照らされる火の下で、昼間見た領主の顔が歪む。
夜が再び月を覆おうとする。先ほどの男が持っていた松明を左手に、対峙する。

相手は十人弱、か。
全く。
ああ、全く。

厄介なことになった。


-------

「領主様!騙していたのですか!龍神様の花嫁になれと……この村の繁栄のために」

私を助けてくれたその人の背中をきゅっと掴みながら、叫んだ。
犯されそうになった恐怖や姉を奪われた怒りではない感情に支配される。
723 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:03
「この村の繁栄のためだよ。謀ってなど、いない」
「繁栄するのはあなただけですよ、領主」

その人は、私に脇差しを渡しながらそう言った。
微かに、領主様の眉が上がるのが見える。どういうことか、理解が及ばない。

「永続的な人身売買。生娘を売る代わりに、あなたには富がもたされているのでしょう?」
「じゃが、私が富を得れば村は潤い、買い手はこの村に戦を仕掛けない」

段々と、言葉の意図を理解する。
そして、沸々とした怒りが沸き上がってくる。

「私は龍神村を守っているのだよ。感謝こそされ、非難される謂われはない」

途端に、はらわたが煮えくり返った。
龍神様を利用しておきながら、反省もせずに言い訳をし、自らの行いを正当化するこの男に。

思わず脇差しを抜きかけるが、すぐにその人が私の手首を握り「抜いてはいけない」と言う。

「鞘を抜く、その覚悟が、あなたにはありますか?」

それはきっと小さな声のはずだった。
だけど私にはひどくはっきりと聞こえる。
724 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:04
「覚悟がなければ抜いてはいけない。刀は時に、己を殺しますよ」

まるで身体中に共鳴するような深い響きに、震える。
その人は領主に、声を向ける。

「私はこの村のことなど興味はない。が、あなたを赦すことは信条に反する」

だから。
と声が聞こえた気がした。
その人は腰の刀に右手を添えた瞬間、その姿を消した。

目にも映らぬ速さ、という言葉を聞いたことがある。だが、実際に目にしたのは、今日が初めてだ。
ひとつに結わった黒髪を靡かせたその人は、次から次に相手を斬っていった。
いや、正確には斬っていない。
その人は鞘を纏ったままの「栫」で相手の腹部や頸椎を打撃し、気絶させていく。
その身のこなしが、あの日見た、銀の鱗を纏って豊かな体躯で空を泳いだ龍神様に重なる。

まさか。
まさかこの人が、我が村の守り神の―――

「鞘師、か」

領主の手先と思しき黒衣の数が半分ほどに減ったとき、その声が聞こえた。
「さやし」とは、いったい何のことだ?

「黒き鞘、龍の鱗の鍔、朱色の柄巻の太刀栫…そして何より、貴様の紅い瞳―――」
725 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:04
その人はふっと顔を上げる。

「先の戦で途絶えたと聞く、鞘師の生き残りか」

領主の問いに、その人は答えなかった。
ただ、刀の柄を持つ手が、少し震えているようにも、見えた。


-------

刀を作るには、さまざまな行程を重ね、多くの技術者の知恵が必要となる。
鍛冶師、白銀師、研磨師、そして、その中に刀を守る鞘を拵える、「鞘師」という職人が居る。

二百年前、西の地で起きた戦は、多くの職人の命を奪った。
戦自体ではなく、その後に起きた「裁定」の地で、だ。
戦を引き起こす原因となる武器の製造に関わる者を処罰する、何とも極端な裁定があり、刀を守るはずの鞘師もまた、裁かれた。

武器の製造に関わった者、という定義はあまりにも曖昧で、火薬や銃器はその対象には入らなかった。
狩りに使用される武器は対象外とか、遠距離で人を明確に狙うわけではないとか、たくさんの言い訳が並べられて。

結局は刀を駆逐したかっただけなのだと思う。
古臭い伝統に縛られた、時代遅れの武器そのものを。
外来製のものを次々と受け入れる体制への批判を恐れて。

「いずれ滅びるお前たちが、我が村に何の用だ?」

いつの間にか、領主は銃を構えていた。
外来製の六連式のそれは、この距離で避けられないものではない。
あまり見たくはなかった、我が師たちを追い込んだ武具に、舌打ちしたくなる。
726 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:05
「用などない。此処には旅の途中で通りかかっただけだ」
「通りすがりの旅人が人助けか?」
「信条に反する、と言ったはず。龍神だの、あなたの企みだの、この村の存続だのはどうでもいい」
「信条を無視して通り過ぎろ、と言っても無駄のようだな」

最初から、そのつもりだ。
相手が引き金の指に力を込めたのも束の間、真っ直ぐに領主へ向かう。
刹那、相手は怯み、銃身が歪む。
引き金が引かれる。避けるまでもなく、弾は逸れる。

黒衣の従者が飛び出してくる。刀を振り翳す男たちに、嫌気がさす。
貴様等の手に持つそれを鍛えたのは誰だ?
駆逐したのは誰だ?
我が師を殺したのは、誰だ?


鞘師の心得など知らない。先祖が滅びたのは、刀を守ることばかりを考え、自らの身を守る術を知らなかったからだ。
裁定が行われたとき、自分はまだ齢十もなかった。
幼いから免れることができたが、鞘師達も、銃器製造者達のように、言い逃れをすればいくらでもあったはずだ。
それをしなかったのは自らの落ち度であり、失態だ。
鞘師が追われたことも、師を殺されたのも、悔しいが、受け入れてはいる。

だから、これは逆恨みではない。

自分自身のために、今、栫を振るうのだ。
727 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:05
そのときだ。
後方で、闇をつんざく悲鳴がする。
振り返ると、彼女のこめかみに、それが押しつけられていた。
あまり見たくはなかった、我が師たちを追い込んだ武具の一つである外来製の銃に、舌打ちしたくなる。

「栫を離せ、鞘師の生き残り」

贄の少女は、押し付けられたら鉄の塊に震え、今にも泣きそうな瞳を見せる。
自分の身に次々と降りかかる災厄と、そして把握しきれないほどの現実への怯えは、痛いほど伝わる。

「撃つぞ?」

少女を盾にしているのは、彼女に跨がり、穢そうとしたそいつだ。
右側頭部に一撃を与えたはずだが、踏み込みが浅かったのか、思ったより早く回復したようだ。
一度は寝ようとした相手に銃を向けるなど、こいつらにとって、「女」とはその程度なのだろうな。

今、この場で栫を離さねば、彼女は撃たれるだろう。
そうなれば、守るもののなくなった自分は、より自由に動くことができる。
だが、己の性格上、そこまで割り切る冷淡さは持ち合わせていない。
こういう「優しさ」とかいうものは、きっと刀を振るう者としては致命的なのだろう。
だから己は、「鞘師」なのだと、自覚した。

背中に、領主の向けるそれの気配も察する。
迷う余裕もないなと、ゆっくりと刀を地面に置き、両の手を挙げた。
武器を離したことで、男たちの間の空気が変わった。
728 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:05
「そのまま、動くな。俺たちが行くまで、動くな」

黒衣の従者たちが、じりじりと、領主の元へと集まる。
まるで死体に群がる蠅だ。下衆どもめ。
彼女は恐怖の瞳のまま、男の盾となる。
その目から、決して、逃げない。逃げては、いけない。

「さやし、さんっ……」

泣きそうな声に、答えられない。
だが、精一杯に、応える。
どうか、伝わって。

待ってて。必ず、助けるから―――


男たちが一塊になった瞬間、微かに空気が緩んだ。張りつめていた緊張の糸が途切れた音を聞く。
仲間が居れば安心とでも思ったか、莫迦め。
此処からの距離は約十尺ほど。さほど遠いものではない。
即座に地面の栫を握り締め、右足を蹴り上げる。

「貴様ッ!」

虚を突かれた男たちの動揺を振り払うように、舞う。
けたたましい銃声を避ける。一度身を屈め、即座に突き上げる。一人の顎を砕いた後、すぐに翻し、別の男の左側頭部を叩く。
頭蓋が割れたような音がする。不殺の誓いなど立てちゃいないが、あまり好みの音ではないなと思う。
729 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:06
夜風が吹き抜ける。銃弾が頬を掠める。
迷わない。恐れない。
右足を強く踏み込み、脳天に栫を叩き込む。

「かまわん!娘を撃て!」

領主が叫ぶ。盾にしていた男が怯みながらも力を込める。
間に合ってくれと身体を捻る。

刹那。
動植物の呼吸が途絶えた。
先ほどまで啼いていた風が止み、星の輝きが失せる。
生きていた世界がひとつ震え、そして死んだように静まる。
今までにない感覚に足が竦む。
何かが来ると直感し、振り返る。

「沼が……」

男たちもその感覚を知ったのか、銃を持つ手が震えていた。
その場に居る者たちの視線は、龍が沼に集まる。
底なし沼の中心に、波紋が広がっていく。同時に、微かに泡が立ち始めた。
世界が息をするのを忘れたのに、沼だけが、呼吸を始めた。

ぞくりと背中が震え、まさかと思う。
そしてその直感は、幸か不幸か、的中する。
730 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:06
沼の中央に立った泡が、一瞬、引く。
直後、泥水の柱が、そこにそびえた。

「うそ……じゃろ?」

思わず、笑ってしまった。
信じていなかった。そんな伝説、あるわけないと。
単に領主が利用していただけだと。

「龍神様!」

泥水に汚れながらも、その姿ははっきりとわかった。
沼から顔を出したそれは、全身を覆う銀の鱗、すべてを切り裂くような鋭い牙と爪、豊かな白い髭をたくわえていた。
静かに、こちらを睨みつけるその瞳に嘆息を漏らす。

この村には本当に、龍神がいるようだ―――


「莫迦な!」

領主はそう叫びながら腰を抜かした。
従者たちも、初めて目にする得体の知れない化け物に、どのように対処してよいのかわからなくなっている。
これではもう、売買どころではない。

龍は大きく口を開ける。
口先から奥まで、びっしりと白き牙で覆われたそこから、地を震わせる、声を上げた。
世界の隅々まで響くような咆哮に、いよいよ従者たちは逃げ出した。
盾にされていた娘は突き放され、慌てて身体を抱きとめる。
731 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:06
「ま、待て、お前たち!」

腰が抜けた領主が一人、そこに取り残される。
銀の龍と、似非龍神が、対峙する格好となった。
領主はじりじりと後退する。龍は天高く見下ろし、再び口を開いた。
小さな獲物を食わんと、領主に向かって頭を寄せる。

「龍神様!!」

大口で、その小物を呑み込まんとしたとき、腕の中の贄の娘が叫んだ。
龍はぴたりとその動作を止め、ゆっくりと口を閉じた。
あの龍、言葉が通じるのかと眉を顰める。
龍は今にも人を射殺しそうな瞳で、こちらを睨みつけていた。
数々の殺意を持ってきた武士を相手にしてきたが、今この肌で感じるものは、その比ではない。
眼力だけでこの威圧感は、初めてだった。

「あなたを穢してしまって申し訳ございません…」

娘はそんな恐れさえも抱いていないのか、龍に対して、優しく話しかける。
いや、畏れるが故に、請うのか。
此処にある、自らの想いを。

「ですが、どうかその人を、殺さないで……あなたの血を、誇りを、穢さないでください」

どうか、どうかお願いしますと娘が頭を下げるのと、領主が醜く泡を吹き、気を失ったのはほぼ同時だった。
龍は、地に伏した領主を一瞥したが、それ以上、危害を加えようとはしなかった。
怒りに満ちた瞳から光が失せ、まるで虫けらを見るように冷めた色に変わる。
自らの誇りを侮辱した、汚らわしいものに対する怒りや憎しみを抱く方が、愚かだと気づいたのかもしれない。
732 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:07
こちらを静かに見つめた後、その身体をゆっくりと沼へ沈めようとする。

が、様子がおかしい。
棲み処に戻ろうとする龍が、苦々しく顔を歪める。
まるで毒でも飲んだかのような反応に、まさか毒矢でも受けたのかと周囲を見回す。
辺りには誰もいない。一体何が起きたのか。
龍の異変に、娘が腕の中で「龍神様!」と暴れる。

直後、龍の鱗の隙間から、淡い光が漏れ始めた。
銀の鱗が剥がれ落ちたかと思うと、光は沼を包み、そして放たれた。
同時に鋭い風が吹き、思わず腕で顔を覆う。
世界が呼吸を取り戻す。
色をつけた空間に目を凝らすと、龍神が消えている。
何が起きたのか把握する前に、贄の娘が走り出す。

「龍神、様……?」

慌てて追いかけると、沼の縁に、白い着物を纏った少女が倒れていた。
先ほどまでは存在しなかった姿に、まさかと思う。

「この人が……龍神?」

贄の娘はその問いには答えず、少女を腕に抱いた。
少女は短く息を吐き、虚ろな目のまま、それでも微笑んだ。

全く。
今日はどうしてこうも厄介なことばかり起こるのだろうと思いながら、茂みに置いてきた皮袋を取りに行った。
733 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:07

-------

「龍神信仰が途絶えたのは、百年ほど前だったのですか」
「ええ……でも、仕方ないことです。人は、見えないものを信じようとはしませんから」

皮袋の水を飲ませ、常備している薬草を口に含ませると、その人はゆっくりと話し出した。
龍として生きていた相手に「その人」と言うのは筋違いかもしれない。
が、確かに目の前にいるのは、人であり、少女だった。いや、女性というほうが正しい。
柔らかそうな黒い髪で隠れた先には、夜の闇を吸い込んでしまいそうなほどに深い瞳がある。
肌は透き通るほどに白く、太陽が昇れば、きっとその光を跳ね返してしまうのだろう。
筋の通った鼻、小さな薄桃の唇、どこを切り取っても、一国の姫のようだった。

この人が、先ほどまで領主を食わんと暴れていた龍とは、俄かには信じがたかった。

「今日実体を保てたのは幸運でした。あの姿で沼の外に出たのは、何年振りかでしたから」
「実体とは、龍の姿のことですね」
「ええ、七十年ほど前から“力”が弱まってしまったのですね」

そう語る龍神を、贄の娘がじっと見つめる。
どう声を掛けて良いのか分からぬまま、ただ静かに話を聞く姿から、彼女がこの村の唯一の信仰者なのだと納得させた。

「信仰が、あなたの存在に直結していた、と」
「人々が私を信じなければ、私は消えるだけです。少なくとも、あの姿でいることは、難しいでしょう」
734 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:08
この村には、もう、龍神信仰はない。
恐らく村人も、何処かで贄の売買には気付いていたはずだ。龍神は存在せず、領主が生娘を売ることで村を存続させていると。
だが、誰も反論できなかった。
反論は血を流し、死を呼び、贄は続く。

「でも!」

堪らなくなったのか、贄の娘が口を開いた。

「龍神様は…助けてくださったじゃないですか…私を、あのとき!」

娘はそうして、この沼に花を摘みに来た日のことを語った。
幼い頃、姉の誕生祝にと桔梗を摘み、道を失くして泣いているときに助けてもらった日のことを。

龍神は目を伏せ、「精一杯でした」と首を振った。

「昔から、沼までの道は入り組んでいて、迷い人も多かった。
そのたびに村の入口へと運んでいたのですが……あなたを運んだのが、最後でした」

そして、と龍は言葉を切る。

「それからはいつも、沼の中から黙って見ていたんです」

その後に続く言葉を想像するのは容易い。

「此処で、娘たちが売られていくのを」

龍神信仰を語った、贄を差し出す秘祭。
それは、反吐が出るほどの、美しい考え方だ。
村人たちは、娘を差し出す事が、村の繁栄や平和が保たれる唯一の方法と信じているのだ。

それが彼らの「世界」だから。
735 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:08
「……あなたはどうする?」

唇をかみしめていた贄の娘に、そう声を掛けた。

「あそこにいるカミサマを、赦すのですか?」

娘は、気絶した領主を娘は見た。
自分自身は、もう、あの領主に興味はない。
縛って村人の前の差し出し、龍神信仰と称した人身売買の真実を説いても良いが、この村にはもう、信仰はない。
きっと差し出したところで、村人はこの男を血祭りにあげないだろうし、赦すだろう。
「龍神村」の存続自体を揺るがす出来事ではあるが、誰も何も、声は上げないはずだ。

それでも、娘が望むのならば、頭蓋を砕いても構わない。
自分を犯そうとし、大切な姉を奪った領主を赦せないのなら、首を刈っても、良い。

娘は暫く領主を見た後、こちらに向き直り、かぶりを振った。
それは予想外の行動ではなかった。
何となく、この娘はそうするだろうと直感があり、それ以上は何も言わなかった。

「…村を、出ようと思います」
「宛はあるのですか?」
「いえ…でも、もう、此処にはいられません」

賢明な判断に息を吐き、あなたは?と龍神に目を向けた。
まさか自分の話が及ぶと思っていなかったのか、龍神は大きな瞳をさらに丸くする。
先ほど、射殺しそうなほどの威圧感を放っていた瞳だが、今は柔らかくて、可愛らしく輝いている。
もしかすると、普段はこのように、優しい瞳なのかもしれないと思う。

「信仰によってあなたの実体が描けるのなら、龍神を信じていた彼女の傍に居れば、その姿を保てるのではないですか?」

その言葉に、はっとしたように娘は龍神を見る。
「信仰」が龍神を形成するならば、理論上はそうなる。
736 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:08
もちろん、確証はない。
「信仰」という曖昧で不確かなものでしか繋げない姿を、永続的に保つことは難しいかもしれない。
たとえ、娘の信仰があって実態を持てたとしても、それは一時的なものだ。
娘の寿命が来れば、いずれは、龍神も、果てる。

「動けないのです、此処から」

そんな事を考えている内に、龍神はそう答えた。
言葉の意味を砕けずにいると、彼女は古びた祠を見つめた。

「あの祠の中に、玉があります。それが、私とこの土地を結ぶ…いわば緒のようなものなのです」
「……信仰がなくなっても、縛られ続けるのですか?」

娘が震えながら口にした。
龍神は卑屈に笑い、自分の前髪を撫でる。

「それが、私たち龍族と人々との血の証ですから…誰もが忘れてしまった、最初の約束です」

信仰がなくなったにもかかわらず、龍神が此処に留まっていた理由が漸く理解できた。
離れたくても、離れられなかったのだ。
地主神として古くに祀られ、この村を守ってきた龍神は、人々から崇められていたはずだ。
その時に交わした約束が、今もなお、生きている。
たとえ、人々が忘れてしまったとしても、龍神の中には、その血が流れている。
その身体に埋め込まれた血の楔が、龍神に云う。

この村を、護れ、と―――
737 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:09

「………約束とは、双方の同意のもと交わされるものです」

奥歯を噛みしめながら、その祠へと向かう。
贄の娘だけが掃除をし、清流の水を注ぎ、桔梗の花を添えていた龍の祠。
荒々しく手を突っ込み、注連縄を剥ぎ取り、竹筒を倒した。
あ、と後ろから娘の声が聞こえたが、気にも留めずに、祠の中を探る。
すると、祠の奥に、何かがあった。
賽銭箱にも見えたが、それにしては小さく、それでいて頑丈だ。
檜で作られた奉納の箱を、ゆっくりと引きずり出す。禍々しい空気に触れてしまい、身体が震える。

「一方が盟約を破ったのなら、それを律儀に守り続ける必要はない」

神をも畏れぬ行為、と言われても仕方がない。罰当たりと思われるかもしれない。
だが、構わない。
この土地の神は、すぐ後ろに居る。
祟りも、呪いも、甘んじて受け入れよう。

太刀栫を腰に構え、柄に手を翳す。

「さやしさん……その刀……」

何か言おうとした贄の娘を、龍神が制した気配を知る。
先ほどまで一度も抜かなかったその刀に、静かに意識を集中させる。

東の空が色を取り戻し、太陽が朝を連れてくる。
鳥が飛び、木々が囁く。
738 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:09
ゆっくりと、刀を、抜く。
表裏の揃った独特の刃紋を目にする。

「龍神、あなたはもう充分、この土地を護った」

だから。
これからは、あなたが護りたいものを、護ってほしい。

刀を振り上げ、一気に、振り下ろした。


木箱の中にあった玉が綺麗に割れるのを見届け、鞘に納めた。
ふぅと息を吐き、龍神を向く。
龍神は何度か、自分の手を開いたり閉じたりを繰り返していた。

「……何か、変化はありましたか?」

色よい返事を期待していたのだが、龍神は首を傾げた。
予想外の反応に、思わず笑ってしまいそうになる。
が、そのようなものかもしれないとすぐに思考を切り替えた。

信仰が時とともに薄れるならば、血の約束も、果たしてどこまで有効だったのかは定かではない。
もしかすると、彼女が縛られていると信じていただけで、実際には、もう約束の緒は、斬れていたのかもしれない。
739 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:09
「ありがとうございます…何と、御礼を言えば…!」

贄の娘がそう頭を下げた。
本当に彼女は、龍神の心配ばかりするのだなと思う。
同時に、まさに今回の贄は、龍のために捧げられたようにも感じた。

ああ、彼女は。
龍神をこの土地から解放するための、花嫁だ―――

「鞘師さん」

龍神もまた三つ指を吐き、「ありがとうございまし」と頭を下げた。
冗談じゃない。神にさせる行為ではないと「頭を上げて…」と肩を抱く。

「あなたのおかげで、私は自由になれたのです」
「私は何も…」

龍神の柔らかい声を聴きながら、やはりこの人は、神だと感じた。

「……もうあなたも、何処へでも行けます」

ずっとこの土地を護ってきた地主神は、今、漸く解放された。

「あなたは、どちらへ?」
740 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:10
龍神と娘を何とか立たせると、先ほど自分が問うたそれを返された。
どう答えるか逡巡したが、結局、「探しているんです」と言う。
隠しても、仕方のないことだ。

「自分と同じ、鞘師を」

私たちはいずれ、滅びゆく種族だ。
先の大戦でその半数以上が姿を消した。

でも、だからこそ、見つけたい。
自分以外に、鞘を護る宿命を持った人を。

見つけたところで、どうにかなるわけではないし、決して鞘師を再興しようとも思わない。
それでも旅をするのは、自らに流れる血がそうさせるのだろうか。

「お伴しても、良いですか?」

そう口にしたのは、娘だったか、龍神だったか。あるいはほぼ同時だったのかもしれない。
私はなぜか、肯定も否定もせずに、そしてさほど考えもせずに、歩き始めた。
まるでこうなることを、何となく予想していたかのように。
後ろから、娘と龍神がついてくる。
741 :龍神の花嫁 :2016/09/04(日) 00:11
「……ところで、あなたの名前は?」

東へと歩きながら、昇る朝日に目を細める。
問われた娘は、「美希、です」と返した。その響きはとても可愛らしく、思わず何度か口にしたくなる。
そういえば龍神にも名はあるのだろうかと思いながら振り返る。
龍神は私の想いを感じ取ったのか、問われる前に、そっとその名を口にした。
春に咲く、美しい花の名前と同じそれは、あまりにも意外過ぎて、言葉を失う。

「変、ですか?」
「いえ……ただ」

その、お二人とも、可愛らしくて。

そう言うと、二人はくすくすと笑う。
私は動揺を隠すように、少し歩幅を大きくした。

朝陽に照らされ、三つの影が、伸びる。
742 :雪月花 :2016/09/04(日) 00:12
以上になります
予想以上に長くなりましたが一度書いてみたかったなんちゃってファンタジー(?)です
お気に召しますと幸いです

ではまた!
743 :名無飼育さん :2016/09/10(土) 20:35
可愛い人、かっこいい人、少し不思議な人のその後の旅も気になりますw
素敵なファンタジーをありがとうございました
744 :雪月花 :2016/10/07(金) 23:55
モーニング娘。’16秋ツアー、集大成だなぁと感じる雪月花です
最終日の武道館は、どんなVISIONが見えるのか、楽しみです

>>743 名無飼育さんサマ
ありがとうございます。
1年くらい前から書きたいなぁと思っていた話ですのでお気に召されたようで何よりです
ファンタジーは得意ではないのですが…w いつか続けば良いなぁと。


今回は誕生日という事で。
滑り込みです。
745 :runway :2016/10/07(金) 23:56
ダンスレッスンのあと、明日のミーティングを行った。
集合時間と場所を確認し、「寝坊しないように」と念押しされる。
明日も朝早い。メンバーたちは早々に着替えて帰っていく。
野中美希もそれに倣おうとしたが、いったん洗面所で顔を洗った後、再びレッスン場へと戻った。

「まだ残るの?」

マネージャーにそう問われ、静かに頷いた。
普段から練習熱心な美希の態度に、マネージャーは「ほどほどにしなさいよ」とあっさり部屋を出ていった。

美希は首のタオルを投げ捨て、部屋の真ん中に立つ。
誰もいない部屋には、スニーカーの音さえもよく響く。
鏡の中の自分を見つめる。睨みつける、というほうが正しいかもしれない。
746 :runway :2016/10/07(金) 23:56
美希は何かを決心し、踵を返した。
部屋のドアをそっと開け、廊下に誰もいないことを確認する。
鍵をかけようかとも思ったが、万が一、見つかったときに言い訳しにくいなと、やめた。
確信犯的な行動に見えるのは、避けたかった。妙な悪知恵を働かせるのは、あまり良くないのだが。

念入りに屈伸をし、手足をぶらつかせる。
レッスン場のひんやりとした、空気が、美希を包み込む。

部屋の端へと移動し、すっと息を吸う。
たっ、と地面を蹴り上げ、助走。
床の目に沿うように走り、そのポイントで力を込める。
両腕をしっかり伸ばす。
ぐるり、と回転する。
一瞬、全身が自由になる。
手のひらで、しっかりと地面を叩く。
蹴り上げた両脚が天井に正対し、ぴんと伸びる。
そのまま両脚で再び着地する。
747 :runway :2016/10/07(金) 23:57
自分でも納得のいく、ロンダートだった。
間髪入れず、体勢そのままに、下半身に力を込める。ひざが曲がっている。このまま思いっ切り伸ばせば、回れる。
勢いがついている。スピードはある。距離もある。大丈夫。回れる。
回れる。回れる。回れる!

だが、美希はその体勢のまま、動けなくなった。
ロンダートを完成させただけで、次の技に移行できない。
はぁと息を吐き、呪縛から解けたように前髪に触れる。
大丈夫、まだ1回やっただけだ。時間はある。
そう言い聞かせながらもう一度、先ほどの場所へと戻った。

静寂にひびが入った部屋は、少し熱をおびえていた。恐れぬようにもう一度、助走をつける。
だん、と強く蹴り上げた。先ほどよりも早く、回転。両手が床をとらえる。

同じようにロンダートをしっかりと決める。良い体勢で着地できた。
今度こそ、と思う。
もたもたせずに、意識を上に向ける。
飛べる。いける。回れる。回れる!回れる!回れる!

だが、美希は結局、回れなかった。
曲げた体を伸ばそうとした途端に、負のイメージがよぎってしまう。
恐怖にも似たそれは、己の身体に纏わりつき、力を奪い、勇気をもぎ取り、代わりにこれでもかと「無力」を押しつけてくる。
748 :runway :2016/10/07(金) 23:57
何が間違っているのか、分からない。
幼い頃から何度も練習し、何度も成功させてきた技―――バク転。
ロンダートからの流れるようなバク転を決めるのが得意だった。コンサート中にも何度か披露したことがある。
それが今、全くできなくなっていた。


去年の12月に手を、そして1月に脚をそれぞれ怪我をした。
それはアクロバットの練習をしていたからではない。単純に階段から落ちただけという、自分の不注意が招いたことだ。
だけどそれを機に、美希はアクロバットを披露することが減った。
というよりも、失われたという方が正しい。

やっと、やっと自分らしさを見つけて、活躍できる機会だった。自分の居場所を、此処に居ていいんだという証を、手に入れたのに。
それを自分の失敗でいとも簡単に失ってしまった。
それだけなら、まだ良い。自分のミスが招いたことだ。
だが問題は、あの日から、全く回れないことだ。

ロンダートは決められる。
それでもバク転が決まらない。
失敗のイメージがついてまわり、雁字搦めにして、美希の動きを鈍らせる。
何が原因なのか分からないまま、美希は再度、地面を蹴り上げる。
749 :runway :2016/10/07(金) 23:58

もしまた、アクロバットを任せる機会が訪れたとき、飛べないなんて知られたら、今度こそ、その機会は失われると覚悟していた。
期待に応えられないどころか、裏切ることなんて考えたくない。
焦りばかりが先走り、気合いだけが空回りする。
回りたいのは自分の全身なのに、肝心の両足は、地面を蹴り上げてはくれない。

ロンダートとバク転では、技の難易度もだいぶ違う。
それは理解しているが、失敗するのではなく、そもそも飛べないのは厄介だった。
その理由を、何となく美希は理解している。


―――「武道館、野中はアクロバット禁止」


―――「春ツアー、しばらく野中は、ステージの端で座ってパフォーマンスね」


それは当たり前の結果だ。
だが、大事なときに、美希はメンバーと同じ立ち位置には居られなかった。
敬愛する鞘師里保の、モーニング娘。’15単独ツアーのラスト2日間。
大切な先輩を見送る場で、完全なパフォーマンスはできなかった。
念願のヒューストンでLIVEをしたときも、モーニング娘。’16の船出の春ツアーも、ステージで楽しそうに歌い踊るメンバーの輪に、入れなかった。
750 :runway :2016/10/07(金) 23:58
自己責任だ。分かっている。誰のせいでもない。自分の不注意が招いたことだ。
それを、もう二度と、繰り返したくない。
また怪我をしてしまうかも知れないという恐怖が、身体を鈍らせる。

せっかくの自分の可能性を閉じてしまっているという負の連鎖も、止められない。
怪我をしたくない。でもまた、得意だったアクロバットを決めたい。

相反するふたつの気持ちがせめぎ合い、結果的に、大人の目を盗み、一人での練習を禁じられているにもかかわらず、美希は勝手な「自主練」をしていた。
良くないこととは、理解しているのに。
もう一度、あと一回だけ、と、美希が部屋の端に移動したとき、扉がノックされた。
後ろめたさを抱えているとき、人はとかく臆病になる。びくっと体を震わせて振り返ると、「おつかれー」と彼女が入ってきた。

「……帰られたんじゃ、なかったんですか?」

動揺を隠しながら、言葉を選ぶ。不自然さはないはずだと深呼吸しながら。

「うん、そのつもりだったんだけど、気になってさ」

小田さくらは、自主練をしに来た訳ではないようだった。
服は普段着だし、鞄も持っている。
このまま帰るはずの彼女がどうして戻ってきたのか、不思議でならない。
まさか、見られただろうかと、不安が押し寄せる。
751 :runway :2016/10/07(金) 23:58
「……ちぇるし、勝手にアクロバット練習してたでしょ?」

果たして、その不安は的中した。
なんと切り返そうか悩んでいると、「ドアの外から見てたから」と、さくらが扉を指さす。
扉には外からでも中の様子が分かるように小さなガラスがはめ込んである。言い訳のしようもない。

「どうして、見ていたんですか?帰ったと思っていました」
「あ、アクロバットしてたの認める?ダメだよ、一人で練習は禁止じゃん」

さくらは少しだけ怒るような声をして、だけど優しい瞳のまま話しかける。
言い訳するつもりはそもそもなかったし、このままマネージャーなどに話をされては、きっとひどいお説教が待っているのだろうと覚悟していた。
だからというわけではないが、美希は素直に「ごめんなさい」と謝った。
思った以上に簡単にするりと言葉が流れた。
さくらは許すとも許さないとも言わず「気になったんだよね」と言葉を継いだ。

「ちぇるし、最近凄く不安そうな目をするからさ」

そう言われ、思わず、言葉に詰まる。

隠すのは得意な方じゃない。どちらかといえばすぐ顔に出てしまう。
プロであるならば、どんな場面でも冷静に対応しなければいけないのに。
自分の焦りや不安が、いとも簡単に伝わっていたことに、落胆する。
私はそんなに、脆かっただろうか。
752 :runway :2016/10/07(金) 23:59
「ムリして怪我しちゃうほうが、イヤだよ」

外した視線を、ぎゅっと、戻される。彼女の声が、私を包み、逸らしたはずの勇気を拒む。
優しさもなく、強さもなく、プライドもなく、きっとそこには、意地しかない。
その意地の強さが、彼女にはある。

「ちぇる」

その、平仮名の、呼び名。優しくて、甘い、お菓子。私とはまるで違う、甘い甘い飴。
私がほしくてたまらない、恋の味。

「ちゃんと、聞いて?」

今度は、頬を包まれた。
キミのほっぺには、チェルシーが入ってるみたいだね、って、誉められているのか分からない言葉をもらったことを思い出す。

小田さんは時に、私を、絆す。

視線が絡む。逸らすことは、もう、きっと、できない。
手が震えた。彼女の前に立つと、いつも、そう。
小田さんの傍にいると緊張してしまう。認められたい想いの現れに、潰されてしまいそうになる。
いつだって、小田さんの近くにいたいと、思うがあまり、焦燥感だけが、二歩も三歩も前を行く。
753 :runway :2016/10/07(金) 23:59
「ちぇる」

彼女の言葉に、包まれる。
甘い甘い飴は、喉をカラカラにさせる。
潤したかった。今すぐに。

「どんな理由があっても、ルールはルールだからね?」

責める口調もなく、さくらは言う。
そして「はい、終わり終わり!もう帰るよー」と話を終えて踵を返す。
肩より伸びた、柔らかい髪が揺れる。一瞬で近くなり、そして離れていく。
その空間が、距離が、儚い。

美希は思わず、手を伸ばした。
その先のことは何も考えずに「小田さん」と名を呼び、引き留める。
さくらが、振り返る。大きな瞳に、情けないほどに震える自分が映る。
ああ、ちゃんと考えてから引き留めるべきだったなと今さら後悔する。
美希の手を解かれることはなく、黙って答えを、待たれていた。

言い訳は、しない。
最初から決めていた。
754 :runway :2016/10/07(金) 23:59
「………ごめんなさい」

ひとつ、息を吸い、「だから」と紡ぐ。

「だから、嫌いにならないでください」

随分と子供じみたことを言ったものだ。
だけど、それしか、できなかった。
私にはもう、そんな気持ちしか、残っていないんだ。

「小田さんと、同じ場所に、いたいんです」

さくらの背中は遠くて、その背中に追いつきたくて。それがルール違反と分かっていても、止められなかった。
その思いはきっと、うまくは、伝えられない。
彼女は困ったように笑う。「嫌いには、ならないよ」と。

「私も、ちぇると一緒に歌いたいから」

だから、怪我しちゃうのはイヤ。と今度は先ほどより強く云う。
あまりにも真っ直ぐな言葉に射抜かれ、頷く以外に為すすべはなかった。
ほっとするのと同時に、また、不安が纏わりつく。
いつになれば、ちゃんと、回れるようになるのかと。
755 :runway :2016/10/08(土) 00:00
するとさくらは「よく分からないけどさ」と前置きをし

「緊張は悪いことじゃないから」

と口にした。

「緊張してるってことは、それだけ練習してきた証拠だから」
「そう、なんですか?」
「だって練習しなかったら、緊張しなくない?何とかなると思うから練習しないわけでしょ?」

筋が通っているような、そうじゃないような、不思議な言葉だった。
それでも、緊張に雁字搦めにされた美希の身体から、さまざまな枷を外してくれるには充分すぎる言葉だった。

「あとは……そうだね、時じゃないのかもね」
「とき?」
「よく言うじゃん」

さくらはふっと、背伸びをした。
何をされるか分からぬまま、次の彼女を、待つ。と、小さな手のひらに、髪を撫でられた。
確かな温もりに、心を、解かれる。

「遠くに飛ぶためには、長い長い助走がいるんだって」

キミはまだ、助走の途中なんだよと、微笑む彼女に、射貫かれた。
756 :runway :2016/10/08(土) 00:00
もうこのまま、ずっと触れていたいと思った。
彼女に甘えて、溺れてしまいたいと願う。
子供じみたわがままを言っても、小田さんなら、赦してくれるんじゃないかって、思う。

結局口にすることはなく、彼女のくれた言葉を勇気にして、頷いた。
さくらは最後に、ちょっとだけ乱暴に髪を撫でて、離れた。急速に失われる温もりに言葉を止めて、指先を追う。
彼女の紫色の世界に、私は少しでも、参加できているのだろうかと、思う。

「じゃ、ちゃんと汗拭いて帰るんだよ。お疲れさま」

そうしてさくらは今度こそ、荷物をまとめて歩き出した。
美希は引き留めようとはせずに、それでも確かな声を上げて「お疲れさまです」と必死に返した。
背中に当たって反響し、部屋は何度か呼吸を繰り返す。

取り残されて、また空間が静寂になる。
「飛ぶための、助走」が、今なのだろうか。
いつか、こうして助走を繰り返していれば、高く遠く飛べるだろうか。
757 :runway :2016/10/08(土) 00:01
でも、その言葉には続きがある。確か、適性を見極めることが大切だと。


―――「頃合いを見極めないと、助走だけで疲れて、跳躍高度と距離が落ちる。」


苦笑して、天井を仰ぐ。
きっと私は、まだ飛べないし、回れない。

それでもいつか、大きく飛びたいと、思うんだ。
助走だけで終わるなんて、絶対に、嫌だ。
ずっと、彼女を後ろから見つめて歌うなんて、嫌だ。


彼女が出ていった扉を見つめる。
今から走れば、小田さんに追いつけるだろうか。
思い立ったが吉日のように、美希は急いで荷物をまとめて、部屋を飛び出した。
758 :雪月花 :2016/10/08(土) 00:01
以上になります。
いつかこの2人が真ん中に立つ姿を見たいなと、本当に思っています。
改めて野中美希さん、17歳おめでとうございます!

ではまた!
759 :secne-9-9 :2016/10/17(月) 15:04

「はい?、・・・ソウルメイト?・・ん?」 (好きのままでいいの?、照れながら力説?)

「そう、魂で繋がっていたいんだよ、なんかキザだけどw////」 (やべぇよ、可愛すぎです)

「・・キザだよ、ごっちんw・・照れてるし(笑)・・可愛い」

「うっさい!//、よし子とはずっと繋がっていたいんだ・・これから先、きっと色んな事がある
 あたしに恋人が出来るかもしれない・・いや多分作るw・・結婚したいし子供欲しいから・・
 何時かきっと結婚すると思う・・・・でも、あたしの心の中の女ではよしこが一番でい続ける
 ・・あたし、よし子には結婚して欲しいと思ってるんだよ?・・わかる意味?・・あのね・・
 よしこの恋人が女の人は厭なの・・・よしこを縛ってるんだ・・・言ってる意味わかるかな?
 あたし、よしこの心の中の女では一番でいたい、ずっと・・よしこの心の中にいさせて欲しい」

「・・・振るくせに我儘だな、ごっちんは」 (何年も前から心に住み続けてるんだけどな)

「だから言ってるでしょ!、あたしは我儘で独占欲が強いんです、・・・そんなごとーは嫌い?」
760 :レトロ・ゴロウ :2016/10/17(月) 15:05
ごめんなさい、間違って書き込みしてしまいました、すいません
761 :雪月花 :2017/10/28(土) 15:13
投下するのが1年ぶりという事に驚いております雪月花です

今回は某所に書いていた長編の、エピローグのようなものです
設定ありきですが、本編を知らなくても読める…はずw
762 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:15
マンションの前に車を停め、キーを回した。
「閑静な住宅街」という言葉がよく似合う。
まだ街は眠りに就いていて、人通りはない。大きなあくびをしながら、胸ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。
電話帳を呼び出し、その人にかける。
2コールほどして、相手が出た。

「お早うございます。下に着きました」

向こうから聞こえる声は弾んでいた。朝早いというのに、ちっともそんな様子は見せない。
ラジオから音楽に切り替える。
1曲目に流れてきたのは、今年デビュー20周年を迎えたアイドルグループの新曲だ。
「新しい夜明け」という、朝の目覚めに相応しいアップテンポな曲。
ボリュームを少し下げ、ハンドルを指で叩きながら、彼女を待つ。
763 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:15
サビが始まろうかというときに、エントランスが開いた。
車を視界に入れると、小走りにやってくる。走らなくて良いですよ、と思ったが伝える術はない。
そうこうしている間に、彼女は助手席のドアを開けた。

「お早うございます、道重さん」

彼女が乗り込んでくると同時に、そう言った。
いつもと同じ、何も変わらない、朝の挨拶だ。この業界に居ると、朝でなくても「お早うございます」と言うのだが。

「お早う、りほりほ」

彼女もまた、いつものように返してくれる。
平凡な挨拶が、何よりのシアワセだ。

「眠れましたか?」
「んー、最近暑くなってきて寝苦しいよ。今もすっごい眠い」
「眠っていて良いですよ。少し、今日は遠出しますから」

彼女―――道重さゆみがシートベルトを締めた後、エンジンを回した。
眠りから覚めた車体が、ゆっくりと呼吸を始める。
ウィンカーを上げ、バックミラーを何度か確認する。人通りがない道を、走り出す。
朝の月が、後ろからゆっくりと追いかけてきた。

「今日何処だっけ?」
「鎌倉ですよ。写真集の撮影です」
「鎌倉って何県?」
764 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:16
カーオーディオが4曲目を奏で始める頃、不意に後続の車が気になった。
この時間帯、街中を走る車は少ないからこそ、自分の後にずっとついてくる軽自動車が目に付く。
助手席のさゆみはオーディオの音量を調整している。後ろの車には気づいていないようだった。

鞘師里保は時計を見た。
此処から鎌倉まで2時間ほどを想定している。集合時間まではかなり余裕がある。
もちろん、渋滞や不測の事態を見越しての時間設定だ。寄り道している暇など、ない。
しかし、一度気になったことを放っておけない性格だという自覚もある。

仕方ないと、少し速度を落とした。
ナビに指を伸ばし、「縮小」を押す。広域な地図を把握する。
頭の中に地図を叩き込み、すぐに縮尺を戻し、慎重にブレーキを踏む。
数十メートル先の交差点を睨む。
信号が青から黄色へと変わろうとする。
左右を確認する。信号を待つ歩行者は居ない。左からトラックが来るのが見える。トラックは赤信号で止まる。

まだ交差点に進入できる距離だったが、煽られていない里保は、ブレーキを踏む。
自分の進もうとする信号が、また色を変えようとする。黄色から赤へと変わるのだ。
後ろの軽自動車は、沈黙する。
お前、今の信号、進めただろう?と煽ってこなかった。
なぜ煽らなかったのか、その理由が里保の考えるそれと一致していたとすれば、厄介だと思う。

里保の進む側の信号が赤に変わることは、即ち、対向車線が青になることを意味する。
左のトラックが動き出そうとする。ウィンカーは出していない。相手は直進するはずだ。
765 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:16
目の前の信号が赤に変わる。赤は停まれ。教習所で習った。
トラックが唸りを上げる。走り出す。

瞬間、里保はアクセルを踏んだ。
ウィンカーを右に出し、ハンドルを切る。
さゆみの身体が前のめりになる。
クラクションが響く。
強引に交差点でUターンし、反対車線を走り出す。
後続にいた軽自動車は、呆気に取られる。
咄嗟にアクセルを踏み込むが、それをトラックが赦さない。
「馬鹿野郎」と叫ばれたのは、自分だったのか、軽自動車だったのか。分かりもしないまま、すぐに左折し、路地に入る。
喧騒とクラクションを背に受けながら、バックミラーを見る。

軽自動車は、交差点に立ち往生する。
もう、追ってはこれない。

「道、間違えちゃいました」

一つの安心感を手にし、そう嘯くと、さゆみは深くため息を吐いた。
何か言われるだろうと覚悟した。
先ほどの軽自動車はストーカーなのかとか、その確信があったのかとか、それにしても危ないとか。
沢山の非難を受けるだろうと思っていたが、彼女は

「キミは、おっちょこちょいだね」

そう困ったように笑っただけだった。

里保は思わず下唇を噛みたくなる。

「すみません」と道化のように笑い、スピードを落とす。

いつだってこの人は、私を護るんだと、里保は知っていた。
766 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:17
-------

何かがあった後では手遅れです。
そう進言してずいぶん経つが、手立てを打つ様子を、一行に事務所は見せなかった。

「道重さゆみ」といえば、里保の勤める会社の看板モデルだ。
雑誌やテレビなどで幅広く活躍し、ブログを更新すればPV数うなぎ登り。
演技だけはNGと言い切っているが、それでも彼女は十分な仕事をこなしている。
そんなトップモデルの彼女に「熱狂的なファン」がいることは、事務所も認識していた。

だが、「熱狂的なファン」は今のところ何かアクションを起こすことはない。
さゆみの部屋に盗聴器がないか、監視カメラがないかと定期的にチェックしているが、仕掛けられた様子はないし、脅迫文が送られることもない。
ただ彼らは、「遠くから見ている」だけなのだ。

里保はマネージャーとして、そしてさゆみの隣に居る者として、彼女を護ることが仕事だった。
彼らが何かをすることはないと分かっていても、「何かが起きてから」では遅い。

里保自身、事務所には感謝している。
一度、里保は置手紙だけを残して広島に戻り、事務所を退社したことがあった。
その後、再びさゆみのマネージャーに就けてほしいと頭を下げたとき、事務所は首を縦に振った。
それは温情というよりも、人手不足という現実的な理由だったのだと思うが、裏切った信頼を回復するチャンスを与えてくれることに、感謝した。

結局この事務所は、人情があるのだろう、良くも悪くも。
767 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:17
「さゆ!はよ着替えて、晴れてるけん!」

カメラマンの田中れいなの声はよく響く。
珈琲を買って戻ってきた里保は、次のシーンのための着替えが始まるのを察した。
確かに今日はよく晴れている。昨日の予報では、夕方から雨と聞いていた。撮れるカットは早めに終えておきたいのだろう。
手帳をめくる。詳しい撮影の詳細は書かれていない。
とりあえず、水着の撮影は明日だということは、把握している。

「お疲れ様です、着替えの部屋は向こうです」

さゆみに珈琲を渡しながら、試着室へと案内する。
撮影スタッフが慌ただしく準備に入る。
どれも見知った顔だが、遠巻きに一般人や近隣住民が見える。
撮影は、彼らの邪魔にならないように配慮しつつ、お互いに協力しながら成り立っている。
入らないでくださいとガードしつつも、無下に振り払うことはできない。

本来であれば「撮影ですから」と徹底してガードすべきなのだとは思う。
ただ、無暗に波風を立てるべきではない。
今の時代、あることないことがSNSで風のように広がる。
敵を増やしたくない。という事務所の薄っぺらい本音を、精一杯の作り笑顔で隠しながら、里保は前髪を掻き毟った。
弊社事務所は、無難だ。良くも、悪くも。
768 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:18
里保は手帳をめくる。
3ヶ月まで先の予定が入った手帳は、彼女の多忙さを伝える。
ふと、明日の日付を目にする。仕事に追われている彼女は、「明日」のことを、覚えているのだろうか。
明日になれば、否応なしに思い出すのだろうけど。

手帳を閉じるのと、からんころんと下駄を鳴らして、彼女がやって来るのはほぼ同時だった。
薄い桃色をベースに、朝顔をあしらった浴衣は、儚く、そして美しかった。
髪はうなじを見せるように纏め上げ、漆黒の簪を差し、手には小さな籠を持っている。
一瞬、その場にいたスタッフからため息が漏れた。

モデル事務所やカメラ事務所に所属し、何人もの芸能人を「仕事仲間」、あるいは「クライアント」として間近で見ていると、目が肥えていく。
可愛いとか美人とかいう感覚は鈍っていくが、そんな私たちの感性を、彼女は今もなお刺激する。
撮影再開の合図もかかっていないのに、れいなはシャッターを切り始めてしまう。

「あ、撮らないでよぉ」

さゆみがおどけると、れいなはその手を引き、すぐに指示を出した。
スタッフ達も我に返り、慌ただしく動き出す。
里保もまた、頭を振り、意識を切り替える。緩みそうになる口元を抑え、深く息を吐いた。
どうしたって、彼女は、美しい。
769 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:18
 
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「運転大変だよね」
「慣れてますよ。それに、仕事ですから」

早朝から続いた鎌倉での撮影は、夕暮れを抑えたところで、無事に終了した。
たぶん、予想より多めのカットを撮れたと思う。
結局天気は崩れず、予定になかったシーンも撮影できた。
明日もまた撮影だ。今度は都内のスタジオと、そしてプールだ。
水着のカットに需要があることはわかっていても、里保は素直に、納得できない。

「あとどれくらい?」
「予定では30分ですが…混んでますからね。もしかすると1時間くらいになるかも」

渋滞中の運転ほど、苦痛なものはない。カーオーディオを音楽からラジオに切り替え、眠気を覚ます。
さゆみは、里保に悪いと思ってか、気を遣いながら話をしてくれる。
何度か、ムリしないで寝て良いんですよと促すが、助手席で寝ることを躊躇ってか、さゆみは話を止めない。
それでも、単調な景色が続き、亀の足のように進まない車内の空気に呑まれ、とうとう舟を漕ぎ始めた。
里保はほんの少しだけ、ラジオの音量を下げ、前を見据える。
大きく口を開けてあくびをする。マネージャーの前方不注意による自動車事故、なんて洒落にならない。
770 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:19
慎重に車を転がしながら、時折背後に目をやる。朝に見かけた軽自動車の姿はなかった。
冷やかし、勘違い、諦め。
考えられることは色々とあるが、今、彼女を脅かす存在がいないことに安堵する。
いざとなれば、彼女のために身を呈す覚悟はできている。
彼女を傷つける存在は赦さない。
かつては、自分が「傷つける側」の存在であった。依頼人の仕事を遂行する、調査人、いわゆる探偵として。

育ての親が探偵業を営み、里保はそれを継いだ。継ぐ必要はないと言われていたが、なりたいものがなかった。
義理の父親の役に立ちたいという気持ちもあったのだと思う。
そこで知り合ったのが、さゆみだ。調査の「対象人」としてさゆみに近づき、騙していた。
さゆみのマネージャーとして勤めたのも、近づくための口実の一つであった。

ただの、対象人。
調査を円滑に遂行するだけの駒。
それだけのはずだったのに。
どうしようもなく、心を揺さぶられ、求め、本物の自分で接したかった。

騙している自分が赦せなくて、本当の意味で、彼女と同じ世界に立ちたかった。
同じ目線で、同じ色を見て、同じ風景で感動したかった。
771 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:19
依頼を正式に断ったあと、すんなりまたさゆみの傍に居られたわけではない。
自分がこれまでしてきた罪を告白することは、並大抵の心境ではできなかった。
嘘に嘘を重ねてきた日々を否定するように、嘘のない真実の言葉を並べても、それが受け入れられるとは限らない。
拒絶されたらどうしようと、恐怖があった。
さゆみが赦したとしても、調査の対象人だった田中れいなと亀井絵里への謝罪もある。

精算は、簡単なものではなかった。
里保は何度も人を傷つけた。
もう傷つけないと誓ったのに、大切な人を泣かせ、困らせ、怒らせ、哀しませた。


―――「私も、好きだよ、りほりほ」


それでも彼女は、彼女たちは、里保を受け止めた。
まるで、赦さないという選択肢などなかったかのように、優しく抱きしめて、すべてを包み込んだ。
それがこの人の、途方もない愛情だったのだ。

20分ほど、亀のような足で進んだところで、漸く流れがスムーズになってきた。
ウィンカーを出し、車線を変更した。ゆっくりとアクセルを踏み、加速する。
背後から、ひょいひょいと月が追いかけてくる。朝も追いかけられたなと苦笑しながら、ハンドルを切る。
772 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:19
ふと、空港で交わした、ガラス越しのキスが甦る。
思えば、さゆみとは口付けを交わしたことがない。
手を繋ぐのが精いっぱいで、その先へ進むことが怖かった。
「精算してから」と繰り返し、口づけという、愛情を最も確かめる行為から逃げてきた。
キスをしてしまえば、何かが終わるような気がしていたからかもしれない。
「愛情」という目に見えないものが、「行為」という形になってしまうことを恐れていたのだろうか。

それでも今、里保の中には「キスがしたい」という感情が浮かんでいた。
彼女の潤った唇に触れたい。貪りたい。その歯列を割って入って、中を蹂躙したいという欲望が、生まれた。
ひどく、俗っぽいことは自覚していた。

たぶん、飢えているんだ。
彼女を護ると誓いながらも、里保はナイトになることはできない。
生みの親からの愛情を受けられなかったからこそ、此処に在る愛情を、放したくない。焦りにも似た感情に支配される。

傷つけたくないから、焦るな焦るなと言い聞かせる。
きっと、そういうタイミングは必ず訪れる。
だからまだ、「今」はまだ。そう思って、里保はアクセルを踏み込んだ。
773 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:20
-------

あと数分走ればさゆみのマンションというところで、ゆっくりブレーキを踏んだ。
普段はマンションの下で明日の連絡事項を伝えるが、あまり彼女の自宅前に長々と居座るわけにはいかない。
とりあえず此処で共有だけして、その後送り届けようと、里保はエンジンを切った。

「あと少しで着きますよ、道重さん」

高速を降りてからは、普段は使わない道を通り、遠回りをした。
さゆみが撮影中にレンタカーを手配し、行きとは違う車を転がす。「念には念」だ。
たぶん、彼女がモデルという職業を辞めない限り、今朝のようなことは何度も起きるのだろう。
彼女は、そんな世界を受け入れると決めていた。だから里保も、その世界を共に生きようと決めていた。

「んっ…ごめん、また寝てたね」
「朝早かったから仕方ありませんよ。明日ですけど、7時に迎えに来ますから」
「あー……スタジオで撮影だっけ?」

今日メッチャ頑張ったからもう良くない?とおどける彼女の視線から逃れ、手帳を読み上げる。
大した情報は、もう載っていない。

「では、早めに寝てくださいね」
「むぅー…はいはい」

さゆみが大きなあくびをしたところで、里保は「あの」と切り出した。
随分と不自然なタイミングになってしまったが、もう誤魔化しても仕方がない。
774 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:21
さゆみはきょとんとしたまま、こちらを見る。大きな瞳が、こぼれ落ちそうだった。

「1日早いですけど……お誕生日、おめでとうございます」

リボンをかけた小さな縦長の箱を渡すと、彼女は「忘れてた…」と口にした。

「私、明日誕生日だっけ?」

その反応に、目を伏せる。
誕生日すら忘れてしまうほどの仕事を入れているのは、自分自身だ。
それが、彼女の望みだとしても、本当に良いのだろうかと問うことがある。
望まれることを、望むがままに叶えることが「正」であるとは限らない。
そこで「否」を突きつけることが、時には良いことだって分かっている。
分かっているけれど、自分にはできないんだ。

優しさはときに、残酷だ。
残酷なほどに優しいからこそ、私は彼女の期待に応えようとする。
壮絶な矛盾を抱えながら、私は微笑む。

「28歳、おめでとうございます」

里保の言葉に、そっかぁと深くため息をつき、彼女は笑った。
本当に、驚いた振りでもなければ、冗談でもなく、彼女は失念していたようだ。
自分の、年に一度の祝祭の日を。すっかりと、頭の中から落としていたらしい。
仕事一筋の彼女らしいと言えばそうだが。
もう少し、自分のことを大切にしてほしいとも、思う。
775 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:21
その願いを、叶えるのが、仕事ではないのか。
「彼女の願い」は、イコール、「私の願い」ではない。

そうだ。
彼女を大切にしてほしいという私の願いを、叶えるのは、私自身だ。

「開けて、良い?」

彼女の問いに、頷く。解かれたリボンの先には、小さなネックレスが収まっていた。
「きれい…」と呟いた彼女に、ホッとした。良かった、気に入ってもらえるか自信がなかった。
買い物が苦手な私が、簡単に懐に入ってこようとする店員と何度も話し合いながら選んだネックレスだ。

彼女はそっと首にかける。
小さなハートを象ったネックレスは、首元でささやかに主張し、彼女の美しさに花を添えてくれる。

「ありがと…大事にするね」

彼女の笑顔に、心が、揺れた。
なぜか、そのとき、想った。
ずっと自分を護ってくれたこの人に、何かを返したいと。
今ここで誓いを立てなければ、きっとこの先、後悔してしまう気がした。
その直感の理由は、分からないけれど。
776 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:22
「もうひとつ、あるんです、プレゼント」
「なになに?」

さゆみがシートベルト超しに、里保へと身体を寄せてきた。思わず身を引いてしまうが、もう、逃げない。
決めたんだ。あの日。
自分を赦してくれたさゆみの傍で、生きていこうと、決めたんだ。

「この中にあります」

里保は両の手を組んで見せた。さゆみは目を丸くする。

「目をつぶって、私が良いですと言ったら、開けてくれますか?」

今度は子どものように目を輝かせ、頷いた。その姿は、実際の年齢よりも幼く見える。
さゆみは素直に目をつぶった。
里保はひとつ、大きく深呼吸をし、シートベルトを外し、助手席へ身体を乗り出す。

覚悟、決意、誓い。
あの夜からずっと、護られてきた、想い。

「道重さん……」

もう、逃げない。
自分からも、彼女からも。この、どうしようもないほどの熱情からも。
全てが丸く収まって、ハッピーエンドになるとは限らないこの世界からも。
777 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:22
矛盾だらけで、たくさんの寂しさを背負って、時間は過ぎる。
誰もがシアワセになれるなんて、哀しい嘘。

それでも、その世界で生きていくと約束した。
2人で、生きていきたいって、思ったから。

だから里保は、逃げずに、立ち向かう。

まだ目をつぶったままの彼女の頬に、手をかける。
それは、両の手を開けたことを意味する。

プレゼントは、その手の中に。

さゆみは一瞬、口を開きかけた。
それを制したのは、里保の、柔らかな、唇。

「―――」

触れるだけの、キスだった。
同じ想いを抱えていて、精算するまで交わすことのなかった、最後のピース。
もうそこには、遮るものはない。
壁も、ガラスも、空気さえも、なかった。
778 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:23
長い長い時を超え、さゆみと里保は、漸く、ひとつになった。

「………」

キスは、長くは続かなかった。
ふたりとも、キスの経験はあるのに、それからどうして良いのか分からなくて。
舌を差し込むことも、啄むこともなく、ただ触れるだけで、終わった。
子どものような口づけの後、暫し、呼吸だけが、車内に残った。

その沈黙を破ったのは、「ずるいなぁ…」という、さゆみの言葉。

「そんなプレゼント、ズルいよ……」
「そうですか?」
「そうだよ…」

一生忘れられないよ、こんなの。

そんな声が、ふわりと、浮かぶ。

「……遅くなって、ごめんなさい」

清算すると決めたあの日から、バーで赦しを請うたあの日から。
そして、彼女への気持ちに色を付けたあの日から。
ずっとずっと、遠回りして、やっと見つけた、大切な、大事な、里保だけの、花。
779 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:23
さゆみは深く、息を吐いた。
すん、と鼻を啜る音がした。
それがそのまま、ずっと此処に在って沈殿していた、蟠りにも似た愛情だと、気付いた。

「また、くれる?」
「……」
「誕生日、だけじゃなくて、ずっと、私に」

私に、キスを、くれる―――?

積み重ねてきた歴史の隙間に見える、微かな綻び。
噛み合わない歯車。すれ違う時間。重ならない視線。
順風満帆でなくて、出逢い方も間違っていたけれど。

そんなたくさんの時間や、記憶があったとしても。

そこからの一歩を、里保は、踏み出す。

「いつだって、あげますよ」

間違った過去を繰り返して、それを思い出と呼んで、アルバムにしまう。
その先で、紡いでいくのは、歩いていくのは、何も見えない、“未来”だ。
白紙のそこに、刻んでいこう。
確証も、保証も、自信だって、ないんだけれど。
780 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:24
それでも。それでも。

「道重さん」

あなたが私を、“私”にしてくれたから。

「生まれてきてくれて、ありがとうございます」

盟約の前に、プライドはいらない。
里保は再び、さゆみに口づけた。
2度目もまた、触れるだけだった。キスのやり方を知っていても、何の意味も為さないのだと思い知る。
此処に在るのは、ただひとつの、熱だけ。
好きという、子どものような、想いだけ。

「……ありがとう」

さゆみは、微笑んだ。
そして里保を抱きしめた。
ぎゅうっと強い腕の力の中で、里保はくしゃりと笑った。
781 :光射す場所へ :2017/10/28(土) 15:24
「好きよ、りほりほ…」
「みっしげさん…大好きです」

少しずつ、生きていこう。
真っ白な世界に、五線譜を弾いて、音符を乗せて。
2人で、歌いながら、笑いながら、時に泣いて、そしてシアワセを繋いで、生きていこう。

月明かりが、夜を照らす。
きっと明日も、太陽が世界を包む。

ああ、だから。

光射す場所で、生きていこう。
782 :雪月花 :2017/10/28(土) 15:26
以上になります
無駄に長いし、道重さん誕生日からずいぶん時間も空いちゃいましたが…w
気が向いたら、某所の長編も読んでいただけると嬉しいです

ではまた!
783 :名無飼育さん :2017/12/09(土) 20:49
このお話の作者さんでいらっしゃましたか・・・。
とても温かな番外編をありがとうございます。

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