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ぞわぞわの日

1 :さるぶん :2009/03/25(水) 09:56
ハロプロ(OG・エッグ含む)のお話です。
201 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:48
 憂佳は、自分がテレパスを使うときにも、そのような勘違いがよく起こ
るのだと言う。

 それは先ほど説明されたことからも明らかだった。

 タグの付けられた地図は、刻々と変わっていく時間のすべてに対応し
たアップデートが不可能なものだ。

 タグの持ち主を確認するまでにタイムロスがあることも手伝って、予想
が大きく外れることが日常的であり、事件の犯人についても、「ほくろ」
「黒髪」「色白の肌」といった情報だけでは、間違えても不思議はない。

 しかし、

「こんなこともありました」

 憂佳は続ける。

 出所を、偶然にも特定できたときの話だ。

「ある場所に、誰かを労わったり称えたりすることばが束になって存在し
ていて、本人の口を確かめると、バカとかアホとかいってたんです。すご
く口下手なひとなんですね」

 吉澤は咳払いした。
202 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:48
 梨華に対する自分の態度を思っていたからだ。

「ネットの掲示板とかも、似たようなものだと思います。けなしてるひと
ほど、話題にしてる人のことが好きなんです。だって――」

 どれだけ悪口を口にしても、そのひとのことが本当に嫌いなら、心の
中でそう思ったりしないし、憂佳の経験上、そういうとき、ひとは無関心
になることのほうが多いのだという。

「私は、そういうひとが『好き』と『嫌い』、どちらの感情を抱いているの
かが分かりません。けれど――いえ、そうだからこそ、きっと、言えば
いうほどに本音が強いんだなって、好きという気持ちをたくさんの悪口
で隠そうとしてるんだなって、私は判断します」

 本音の大きさ――つまり”好き”の大きさが直接に特定できなくても、
口にしている悪口が10なら、そのひとは”10の好き”を抱いているの
だろうと考える。

 それが憂佳のやり方なのだという。

 だから、インターネットの悪口も、ヒット数が大きいほど、そのひとが
愛されているのだと判断する。

「そういうのを、ツンデレっていうんだと思います」

 そう言って笑うと、憂佳は表情を戻した。
203 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:48
「犯人は、私より、もっと年上っぽかったです」

「顔を見たの?」

「はい。似顔絵も描きました」

 吉澤が目を丸くしていると、憂佳は奥へ引っ込み、一冊のスケッチ
ブックを持ってきた。

 表紙にはナンバリングがされていて、すでに何冊か消費しているらし
いことが分かる。

「これです」

 あるページを開くと、女性と思われる顔が出てきた。

 絵はまだデッサンの段階で、白黒。

 髪が長くて、頬がやわらかそうに膨らんでいる。

 口元にほくろがあって、大きな目が、やや離れて並んでいる。

 罪を犯すタイプの人間には見えない。

 それが吉澤の素直な印象だった。
204 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:48
「どうして、これを…」

「事件のあった日、交差点で絵を描いていたんです」

 吉澤は、どうして、ここで絵が出てくるのかが分からなかった。

「私は、最初、この能力をうまく扱えませんでした。だから、トレーニン
グとして絵を描いてみることにしたんです」

 先に出た例のように、人間のこころとは複雑なものだ。

 一見して、そうとは分からないような形で、本音と建前がズレている
ことがある。

 むしろ実際は、そうであることが多く、その中でひとは誰もが生きて
いく。

 しかし、誰もにとってそうであるのとはちがい、憂佳には能力のせい
で、本来なら隠れているはずの他人の本音が敏感に感じられてしまう
ところがあった。

 他人とのコミュニケーションに大きな弊害があった。

 その2つ――つまり本音と建前を結び付けるのに、絵を描くことが有
効だったのだ。
205 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:49
 人間の顔は、感情であり記号である。

 口の端を上げて、眼が細まっていれば、ふつうは”笑顔”ということに
なるが、内心は怒り心頭しているかもしれない。

 感情は、分かってもらえない可能性を孕んでいる。

「世の中って、そういうものです」

 憂佳は、その冷めたような台詞とは裏腹に、カワイらしい、幼さを滲ま
せた声でまっすぐに言った。

「だから私は感情を忘れて、まず人間の顔を記号としてみるところから
はじめました」

 憂佳の能力は、他人を”感情という曖昧なもの”ではなく”事実という
具体的なもの”として感知する。

 ここでいう”感情という曖昧なもの”とは表現される前のなにかであり、
それがつまり”本音”だ。

 ”事実という具体的なもの”、表現されたものとは、この場合”表情や
しぐさ”になる。
206 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:49
「記号としての”笑顔”があって、その読み解きかたはルールとして決
まっていますから、記号を完璧に扱えるようになれば、中の感情も読み
解けるんじゃないかと思いました。いえ、漠然とそう考えて始めたんだ
と思います」

 それが小学生のころ。

 花音と出会ったのもそのころだった。

「刑事さんは、さっき小学生ぐらいの子どもたちと、あと絵の教室につい
て考えていましたよね。固有名詞がわからないので、たぶんですけど、
このアトリエの特別教室のことだと思います」

 花音と憂佳は、ともに学校行事として、ここへ来ていた。

「花音は――いまでもそうですけど、お面みたいな、感情を顔に出さな
い子でした」

「お面はひどい」

 花音は言う。

「はじめて私たちが会ったとき、まだ小学生でしたから、ひとの顔の持
ってる記号性とか、そういうのは分かりませんでした。でも、花音の顔
を描くうちに、そういうことに、すごく興味が湧いてきたんです」
207 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:49
 そのとき、特別教室の先生――つまり、このアトリエのあるじから、
なるべく知らない子とペアを組んで、お互いの絵を描きなさいと言われ
た。

 憂佳は、たまたまそばにいた花音を選んだ。

「まわりが、動かないでとかお互いに注意しあっていたのに、花音は
表情ひとつ変えませんでした」

「それは、お互いさまでしょ」

「うん。そうだけど…」

 憂佳は、このころ親とうまくいっていなかった。

 テレパスの能力がすでにして現れていて、人との付き合い自体が
辛くなっていた。

 言ってることややっていること、そうした表現されたものに対して相手
が思ってること、感じていること、そのあいだにズレが存在している状態
に我慢がならなかった。

「同い年ぐらいの子は、かえってよかったんです。幼稚だけど、元々、
考えてることに記号なんてありません。ただ感情があるだけですから」

 でも大人はちがう。
208 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:49
 風邪を引くなといいながら、自分たちも風邪を引いている。

 建前を振りかざし、お前のためを思って注意するんだというから、なら
ば、まず自分が風邪を引かないようにして、それから注意すればいい。

 そうじゃないなら、注意されるだけ迷惑だ。

 建前なんてものは、要らない。

 憂佳は、そう考えるようになってしまっていた。

「でも、実際は逆だったんです。建前があるから、本音が分かるんです」

 絵も同じだ。

 ”なにも考えていない顔”という記号が基準としてあるから、それとの
比較によって、”目が細まり、口の端が上がっている顔”というのが笑っ
ている、楽しんでいるという感情を表しているのだとわかる。

 頬が上がっている程度で、どれだけ相手が楽しいのかが分かる。

 建前が存在しているからこそ、このひとは本音で話してるんだなとい
う比較ができる。

 悪口が本音を映しているというのも、これと似ていた。

 そのことに気づいたとき、憂佳はまだ中学1年生だった。
209 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:50
 はい、そうですかと割り切れる年では、決してない。

 どうせ届かないことばだと知りながら、それでも”建前”を口にするの
が大人なんだ――そうは思いたくなかった。

 その建前の大切さ、つまり、そのとき憂佳の心のキャンバスに描か
れていた”何か”には、まだ色が付いていなかった。

 白黒の、とても味気ないものだった。

「それで、私は家を出ました」

 いわゆる”プチ家出”というやつで、それでも親にはちゃんと毎日電話
を入れて安否の確認を取らせた。

 そのとき、駅前の路上で途方に暮れていたのを見つけて、拾ってくれ
たのがアトリエのあるじ、飯田夫妻だった。

「私は相手の心を読んで、2人が、子どもを亡くしたばかりだったと知り
ました」

 でも憂佳は、その優しさを、上から目線の押し付けがましい同情だと
感じてしまった。

「後になってみると、本当にいい人たちでした…」
210 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:51
 憂佳が妻の圭織から教えてもらったことは、絵の描き方だけだった。

 最初は、特別教室に来ていた憂佳を覚えていたことで、思わず声を
掛けてしまったが、いざ家へ上げてみると、どう対処していいか分から
ない。

 子どもを亡くしたばかりで、憂佳にその面影を重ねることが、罪深い
とすら感じていた。

 それで、お互いの手慰みといった感じで始めようと提案されたのが
絵のレクチャーだった。

 憂佳は能力のことも聞かれなかったから、一方的に私が読み解いた
だけですけどと言う。

「そのまま能力を扱いこなせるように、ここでアトリエの仕事を手伝い
ながら訓練していました。街頭へ立って絵を描いていたのも、そのリハ
ビリの一環です」

 正確には、あそこへ立って書くのではなくて、記憶して、ここへイメー
ジを持ち帰るのだという。

 あそこへ立っていると、余計なことが流れて来すぎるからと。

「…憂佳。そこまで話しちゃっていいの?」

 花音が心配そうに言った。
211 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:51
 話せと促したのは花音だったはずだが、あのときの強気な様子はす
っかり影を潜めていた。

「大丈夫だよ。もう、平気なの」

 しばし、2人の時間が流れた。

 そこに信頼関係のようなものを、吉澤は感じなくもなかった。

 先ほど憂佳が言ったこと――つまり、”悪口とは、言った分だけ相手
を思っていることの証拠である”とか、”建前は通らないと分かっていて
も口にしなければならない”いった考えは、

 こうした彼女自身の経験の中から出てきた宝石のようなものなのだと
いうことを思い知った。

 圧倒され、ため息さえついた。

 能力を持たないものには、想像の付かない人生なのだろうと。

 ひとの人生は、どれもがほんの数十分のあいだに語り尽くすことなど
できないものだ。

 たとえ短くとも、それは同じで、しかし、語ることのむずかしさは同じで
はない。

 憂佳のような人生こそ、不平等の最たるものだと思えた。
212 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:52
 だが、それと同時に、吉澤はなぜ憂佳が自分に対してここまで話して
くれるのかと疑問に思ってもいた。

 しかし職務がある。

 いつ相手の気が変わってしまわないともしれない以上、先をうながさ
なければならなかった。

「この女性――」

 吉澤はスケッチブックに触れた。

「このひとが事件のとき、なにをしていたか分かる?」

「はい――いえ、正確には、私がいたのは、事件の少し前までです」

「それでもいい。なにか異変はなかった? あの交差点に」

「ありました。大きなちがいが」

 絵を描くため、あそこに立つとき、憂佳はいつも決まって思考を開放
させておくのだという。

「そうやって、まず”強いことば”を探すんです。それが”基準”になりま
すから」

 先ほど言った、”建前があるから感情がわかる”という話だ。
213 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:52
 憂佳が描こうとするのは”本当の顔”で、そのためにまず”建前の顔”
を探す。

 はじめて花音をうまく描けたときも、無意識にそうしていたのだと憂佳
はいう。

「それまで、なんど描いても、うまく行きませんでした。無表情なところ
をキャンバスへ丁寧に写し取っても、そうならないんです。いえ、むしろ
絵の中の無表情な花音は、私が見たままの花音でした。私は描けな
かった花音こそ、本当の花音だと思いました」

 花音には能力がない。

 出会ったばかりのころ、憂佳は自らが能力者であることを伝えていな
かったし、能力の扱いについて、いまよりも無作法なところがあった。

 それで、平然と心を読んだ。

 絵を描くために座っているから、思考を特定するのは簡単で、花音は
憂佳と正反対のことを考えるタイプだった。

 憂佳はまわりの大人たちの語る建前に辟易としていたが、それに対
して花音は大人たちが、自分に何も語ってくれないことに不満を持って
いた。

「小さい頃から、花音はなんでもできるいい子だと思われていました。
だから大人たちは花音になにも言わないで来たんです」
214 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:52
 大人たちからチヤホヤされながらも、花音は孤独を感じてきた。

 だから、建前でもいい。

 思っていることを、とにかく口に出して欲しいと、彼女は願うようになっ
た。

「そんなひとが、この世に存在するなんて信じられませんでした。きっ
と刑事さんが私の能力に驚いてるように、花音のようなタイプは私に
とって驚きでした」

 花音はなんでもできる自分に嫌気が差していた。

 だから絵を、あえてヘタクソに描いた。

「私の姿を、私が嫌いだと思うように描くんです。下がったまゆ毛に、
喉もとのほくろ、それに膨らんだほっぺたとか、私の気にしているところ
を、花音は強調して描いていました」

 その醜さといったらなく、その意味でやはり、それは”うまい絵”だった
という。

「だから、私は仕返しをしました」

 まず描いたのは花音の顔で、これはあまり上手な絵ではなかった。

 しかし、状況からいって似ていなくともまちがえようがなかった。
215 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:52
 次にしたのは、そこへ”ふきだし”をつけること。

 そして、このようにセリフを書き込んだのだ。

――自分こそ、思ってることをぶつけないんだね。

 憂佳がカンバスを向けると、花音は固まった。

 憂佳のそれとはちがい、細く切れ長な目を、これ以上ないほど大きく
見開いていた。

「花音は絵を描きながら、私のことを酷いやり方でバカにしていました。
でも、同時に褒めてくれてもいたんです」

 垂れ下がったまゆ毛を描きながら、「自分に似ている」「見るひとを、
どこか落ち着かせる」とか、喉もとのほくろを描きながら、「大人びてい
る」と考えていた。

 憂佳は最初、その絵があまりに自分の嫌なところをズバズバとつい
てきたから、相手もまた能力者なのではないかと疑っていたが、その
ことで考えが変わった。

「はじめて憂佳を見たときから、この子は男子にチヤホヤされるタイプ
で、どうせ悩みなんて持ってないんだろうなと思っていました」

 その花音の予想は、大きく外れる。
216 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:53
 このときまで2人は口を利いたことがなく、顔を合わせたのさえほと
んど初めてだったのだが、それ以来、いっしょにいることが多くなった。

 花音ははじめこそ警戒し、憂佳の能力について、口では気持ち悪い、
気持ち悪いと言っていたが、決して離れていこうとはしなかった。

「私は元々、あまり自分の意見を言えるタイプじゃなかったんです。そ
れが憂佳と出会って変わりました」

 憂佳はその能力を誇ったりしなかったから、花音は遠慮なくバカに
することができた。

「心を読まれてるんだもん、こっちだって仕返ししたいです」

 人でなしとかマナー違反とか、その能力がなかったら、いじめてやる
んだからとか、散々なことを花音は言った。

 しかし、その裏にも、やはり愛情が読めたと憂佳は言う。

 そうするうちに花音の性格は変わっていった。

「おしゃべりになったせいで勉強がおろそかになるのは嫌だったので、
おかげで前よりもっと”いい子”になっちゃいましたけど」

 こうして持ちつ持たれつの関係ができ、憂佳は能力と向き合うことが
できるようになった。
217 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:53
 このアトリエに転がり込んだのと、それはほぼ同時期のできごとだっ
た。

「花音と出会って、私の絵はどんどんうまくなっていきました」

 それとはまた別の日、アトリエの特別授業として花音は自画像を描い
た。

 それは憂佳によれば上手くなく、あまり似てもいなかった。

 花音は憂佳の垂れ下がったまゆ毛に対し好印象を覚えていたのだっ
たが、自画像のそれは、天を突くように釣りあがっていた。

「心の中の不満が、絵に出ていたんだと思います。そのせいで、ほか
のパーツも引っ張られて、花音とは似ても似つかないものになっていま
した」

 初対面の日、憂佳が描いた花音の絵は、彼女から読み取った心の
声を反映させて描いたものだったが、それは花音の顔というより憂佳の
自画像のようになっていた。

 それと花音の自画像と、この2つを掛け合わせながら修整していくと、
絵は見違えるようによくなった。

 こうして憂佳は絵の描きかたを覚えていった。
218 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:53
「交差点に立って絵を描くときもおなじです。まず、心の声を聞き取って、
そこから想像を膨らませて一枚の絵を描きます」

 この人物をAだとしよう。

 心の声から想像を膨らませて描いたこの絵が、Aの持っている”仮の
顔B”となる。

「次に、見たままの、もう一枚の絵を描くために、本人を特定します」

 これ成功すると、Aの持つ”仮の顔C”ができあがる。

 花音の例でいうと、憂佳が描いた肖像画と、花音の描いた自画像が
2つながらに出揃った状態だ。

 続けて、それらに対して行ったように、Aの持つ2つの仮の顔B・Cも
掛け合わせなければいけない。

 そもそもの話、この2枚が同じだった場合、なにも問題はないのだ。

 そのひとの顔として、それは唯一無二のものだから、本音と建前が
揃っていることになる。

 しかし、そんな人物に憂佳は出会ったことがないし、それは吉澤にも
頷ける話だった。
219 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:53
 多かれ少なかれ似ていないところがある、この2枚の絵は、掛け合
わせることによって、第3の絵として仕上げていく。

「それが、そのひとの”本当の顔”になります」

 交差点には、雑念が多いから、憂佳は情報を仕入れたあと、ラフを
描いてしまってから、アトリエへ持ち帰って丁寧に仕上げるのだという。

 この”容疑者の少女の絵”も、そのようにして描かれたものだった。

 吉澤は、もう一度、それを検分する。

 顔の印象としては、おっとりして、どこか愚鈍そうな印象のある憂佳と、
委員長タイプと呼ぶに相応しい花音、この2人でいえば前者にこそ似て
いた。

 しかし、実際に話を聞いてみると、決して憂佳は”グズ”などではなく、
この容疑者の少女とて、そこは分からないのだった。

 先ほどと同様、吉澤には、この少女が罪を犯すような人物には見え
なかったのだが、現状としては、話を聞いてますます分からなくなった
というのが本音だった。

「でも、容疑者の顔は、いつ見たの? あなたは事件の少し前までしか
あそこいなかったって言ったよね」
220 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:54
 ”本当の顔”を描くためには、心の声と実際の姿、その2つを掛け合わ
せたものでなければいけない。

「はい。ですから、あとで読みにいったんです」

 あの日、あの交差点は、会社帰りや部活帰りの学生が多く通りかか
った場所だ。

 事件現場に居合わせており、かつ、その記憶を留めている人物がい
るはずだと踏んで、それを探し出そうとしたのだ。

「思っていた以上に、多くの情報が流れていました」

 憂佳は少女を”間接的に見て”、そして絵を描いた。

 吉澤がエリカを張り込んでいるあいだ、交差点に足しげく通っていた
のはその為だったのだ。

「これが元になった2枚の絵です」

 憂佳はスケッチブックをめくると、前へ戻してみせた。

 見開きのページの左右に、まったくちがった顔が2つ、こちらを向いて
並んでいた。
221 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:54
 それらは”本当の顔”と比べたとき、ベースとなるはずの顔の作りすら
歪んでしまっており、天使と悪魔のように異なる特徴を持っていた。

「事件のあった日、交差点には、聞いたことのないことばが溢れていま
した」

 憂佳はスケッチブックの空いたページを破り出して、そこへ文字を書き
付けていく。

――【強襲(おそ)う】【死守(まも)る】【強盗(うば)う】【焼滅(さば)く】
【接触(き)く】【握潰(あいす)る】【飼育(か)う】【検索(と)ぶ】

「漢字と読みは、あくまで私たちの解釈です。簡単には捉えられない、
そんな思考ばかりでしたから」

――でも、だからこそ。

 憂佳は言う。

「私以外に、能力を持った人間がたくさんいる。そう思いました」

 事件の直前。

 午後7時、ちょうどになったころ。

 まずは、【検索(と)ぶ】が現れた。
222 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:54
 それから、しばらくして、

 【握潰(あいす)る】

 この思念が強くなった。

「私が思うに、これが容疑者の女性です」

 吉澤はスケッチブックの絵と、その文字とを見比べた。

 「天使と悪魔」の2つの顔に、”愛しつつ、握り潰す”という思考。

 穏やかとはいえないものだった。

 これらはともに、憂佳によって混ざり合わされて、あの”本当の顔”
――吉澤の直感に従えば、犯罪など起こしそうに見えない少女の顔に
まとめ上げられた。

「ほかの感じ慣れない思考がいっせいに動き出したのは、その後でし
た」

 最初に交差点へ入ったのは、【強襲(おそ)う】。

「これは凄くありきたりの感じで、次の【強盗(うば)う】も同じです」

 しかし続いた【焼滅(さば)く】が、際立った存在感を放っていた。
223 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:55
 次の【死守(まも)る】、そして【接触(き)く】も”本質”だったと憂佳は
言う。

「【握潰(あいす)る】が一旦、消えたと思うと、【飼育(か)う】の思念が
すばやく動きました」

 そして、その2つがぶつかり合うと、なにか只ならぬことが起きている
と感じた憂佳は怖くなり、その場を立ち去った。

「分かるのは、ここまでです」

 立ち上がって憂佳は言う。

「刑事さん。私たちは市民としての義務は果たしました。あとは放って
おいてください」

 もちろん、飯田夫妻のことも――。

 憂佳は、強く言い添えると、吉澤に立つよう目顔でうながした。

 そのとき、遠くでなにか物音がする。

「…圭織さんが帰ってきた!」

 憂佳は慌てて吉澤の手を引くと、玄関へと向かった。
224 :名無飼育さん :2009/07/03(金) 22:55
「アトリエの玄関はべつにあります。いまのうちに、はやく」

 入ってきたほうとは逆の方角にもう1つの玄関があって、吉澤は押さ
れるようにして外へ出た。

 憂佳は、すぐに奥へ引っ込んでしまうが、遅れて花音が出てきた。

 何か言おうとして、すぐに彼女も引っ込んでしまう。

 吉澤はわけが分からなくなり、悪態をつこうとして止めた。

 むろん、頭の中でさえ。

 手には、いつのまにかスケッチブックを握っていた。
 
 
 
 
225 :さるぶん :2009/07/03(金) 22:58
更新です。

長いあいだお待たせてしまったので、
2本ぶんまとめて載せてみました。

執筆に時間がかかったのは、
あちこちに変更点が出て手直ししていたからです。

予告どおりに水曜日とも思ったのですが、
今回だけは例外ということで書き上げてすぐ投稿しました。

>>186
まだまだ焦らしますよw
226 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 20:55



 テレビ局から遠ざかるようにして、小春は懸命に走っていた。

 怖くて仕方がなかったのだ。

――未来が見える。

――うちと小春ちゃんは、おともだちになるんです。

 そう不気味に告げた、あの少女のことが。

 走っているせいか、それとも相手の電波状況なのか、先ほどまで
マネージャーと繋がっていたケータイが途切れた。

 躓かないために足元と、それから進行方向とを交互に見やる合間、
合間に、元いたほうを振り返ってみるが、少女はゆっくりとしたスピード
で追いかけてくる。

 それを見てヒールのかかとがもつれ、ケータイを取り落とした。

 かまわず走りつづけると、出たのが正面玄関だった。

 遠くにファンの群れがあり、一瞬、小春は助けを求めようかとも思った
が、マネージャーに捕まってしまうことになると思い、右へ折れた。

――あまり かかとの高い靴は履かないように。今日のテレビ出演には
謝罪の意味もあるのだから。
227 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 20:56
 マネージャーからそう言い付けられていたのが幸いして、決して悪く
ない速度で走ることができた。

 しかし、この辺りはこれまで収録や生放送で訪れる以外、用のなか
った町であり、小春には土地勘がなかった。

 にも関わらず、ケータイの地図機能は使えず、かといって人目を気に
して能力で飛び去ることもできなかった。

 右か、左か、直進か。

 選択肢の中に”戻る”がなかったことが災いした。

 何度目かの角を曲がったところで、少女と鉢合わせた。

「どうして逃げはるんです? うちら、おともだちになる運命やのに」

 少女は不思議さと、それから、ほんの少しの悲しみをない交ぜにした
表情で立っていた。

 夕闇に浮かぶ街灯の下に、あたかも狙いを定めたかのように静止し
て。

「ともだちって、意味わかんないよ!」

 小春はさけんだ。
228 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 20:56
 頭では理解していたのだ。

 予知という能力があることは何度もZetimaで聞いていたし、信じても
いた。

 この少女は明らかにそれを持っていた。

 しかし、それは初めて目の当たりにするものだったから、いまは恐怖
の方が勝っていたのだ。

「どうして? なんで小春がともだちにならなくちゃいけないの!」

「見えるからですよ」

「なにが?」

「未来がです」

「証拠は?」

「ありませんよ。だって見えるんですもん」

 小春の息は上がっていたが、少女は平常だった。

 荷物とて、小春のほうが少ないぐらいで、少女は旅行鞄のようなもの
を脇へ下げていた。
229 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 20:56
 右手にはケータイを持っている。

「これ、落としはりましたよ」

 よく見ると、小春のものだった。

「…あ、どうも」

 差し出されたそれを、小春は警戒しながら受け取った。

 それで少女は、また、あのニタニタした笑いを浮かべ始める。

「悪いひとじゃ、ないみたい…」

「やっと分かってくれはりました?」

「少しだけ…だよ」

 小春はケータイを握りしめ、胸に当てている。

「じゃあ、おともだちになってくれるんですね」
230 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 20:58
「だからっ! なんでそうなるの」

「だって、そういう運命なんですもん。いまだって、うちのこと名前も知ら
ないのに、ちょっと受け入れてくれてはってるでしょう」

「それは…アイドルだもん、ファンの子みんなにそうするよ。名前なんて、
知らないのが当たり前じゃん」

「まぁ、確かにうちは小春ちゃんのファンですけど…。でも、どっちかっ
ていうと、Milky Way全体のファンっていうか、歌手として見たらサーヤ
とキッカのファンっていうか…」

 少女はモジモジする。

「じゃあ、どうして小春のところにくるの!?」

「分からへんひとやなぁ…。言ったでしょう、運命やって」

 少女はあきれたように言うが、でも、どこか弾んだような足取りで小春
の脇へ立った。

「ね、おともだち決定です!」

 そして、にへへ…と笑う。

 よく見ると、歯には矯正器具が嵌めてあって、それが少し気持ち悪い
なと小春は思った。
231 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 20:58
「うち、光井愛佳っていいます。ミッツィーって呼んでください」

 小春はなにも言えなかった。
232 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 20:59
 
233 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 20:59



 数分後、2人はタクシーに揺られていた。

 空港へ向かうための利用だった。

「スペインへは何をしにいかはるんです?」

 背もたれに深く身を預けながら、愛佳は小春のほうを見ていた。

 相変わらず、ニタニタしている。

 一方の小春はというと、どこか落ち着かないようすでいた。

 背もたれを使うというより、身体を窓のほうへ乗り出して流れる景色
を見ている。

「あれ、小春ちゃん引いてはります?」

「…べつに」

「そうですか? ほんまに? まだ、突然おしかけてきたうちのこと、頭の
おかしい子やと思ってはるでしょ」

 愛佳は、先ほどから、もう10っぺんは同じ質問をくりかえしている。

 少しヤケ気味に小春は言った。
234 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 20:59
「思ってないってば!しつこいな!」

「そうですか。なら、いいですけど」

 愛佳は満足そうな顔だった。

 そのようすを、運転手がバックミラー越しに見ている。

 夜の7時に人気のない路上で呼び止められたのが、まさか少女2人
組によってであり、おまけに空港まで行ってくれと告げられたのだ。

 訝しがるのも当然だった。

 そんな視線をよそに、愛佳は1人でしゃべり続ける。

 自分の好きなことや、気になっていること。

 その中でも、とくに小春やMilky Wayのこと。

 どの曲が好きで、どの番組が印象に残っているかなど、おしゃべりと
いうより緩慢な1人ごととして話していた。

 それでも、小春がなかなか食いついてこないので、

――アイカ・ミッツィーの当たらへん話〜っ!
235 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 20:59
 といって、自分が予知能力を使って何かを言い当てようとしたものの、
見事に外してしまったという内容の、くだらない笑い話をいくつか披露し
た。

 それを密かに聞いていた運転手が思わず何度か吹き出してしまった
のだが、小春は意地でも笑ってやるものかと思っていた。

「そんでね、大変やったんですよ、もう。なかなか当たらへんもんやから、
みんなに、『オオカミ少女や、オオカミ少女や』言われて、よくいじめられ
てました」

 愛佳がそれを言うようすは、およそさり気ないものだったが、聞いてい
た小春は声をあげた。

「…オオカミ少女!?」

「はい。そうですけど、どないしはりました?」

 小春は先ほどまで、窓の外をつまらなさそうに見ていたのだが、打っ
て変わって愛佳の目を覗きこむようにしている。

「…ううん。なんでもない」

 曖昧に笑うと、背もたれに戻った。

 もう窓の外は見ていなかった。

 30分後、タクシーは空港へ到着した。
236 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 21:00
 
237 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 21:00



 カウンターで尋ねると、深夜便でスペインへ行くには、乗換えが必要
だった。

 21時発のエールフランスでパリのド・ゴール空港へいき、翌朝、9時
の便でマドリードへ。

 これが最短だった。

「うちね、小春ちゃんの曲で、めっちゃ好きなやつがあるんですよ」

 愛佳はまだ喋っている。

 2人はラウンジのソファに腰掛けていたが、小春はろくに話を聞いてい
なかった。

 ケータイをいじろうかとすら思っていて、しかし、相手がしゃべっている
以上、マナー違反なのではないか――そうも思っていた。

 飛行機の到着まで、あと一時間半。

 i‐podも出してみて、結局は聴かずにおいた。

「それはね、Milky Wayの『アナタボシ』なんです。どんなとこが好きかっ
ていうと、歌詞なんです」
238 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 21:01
 愛佳は諳んじてみせた。

――1、2の3で(イチニのサンで) ワープするから
               私の この思い かなえてね
          今すぐそこに 辿りつくのよ 何千億光年の
                       まだ遥か 彼方☆(カタナボシ)♪

「このね、もう詞が、めっちゃ好きなんですよ」

 髪をいじっていた小春が、手を止めて訊いた。

「どうして?」

「気になります?」

 小春がやっと食いついてきたので、愛佳はニタニタ笑いを浮かべた。

「べつに…」

 小春は拗ねたように言って、また髪をいじりはじめたが、愛佳はしゃ
べり続ける。

「この詞ってね、冷静に考えると矛盾してるんですよ。だって『ワープ
する』って言うてる――つまり、『アナタボシ』まで飛んでいくよって
自分から言うてるのに、『まだ遥か 彼方☆(カナタボシ)』って言うてる
んですよ?
239 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 21:01
 ワープしたんやったら、ふつうはすぐ隣におらなおかしいのに。これ
ってありえへんくないですか?」

 愛佳はそういって、両手を上げてみせた。

「もちろん、ふつうの子は超能力なんか持ってへんし、もちろんワープ
なんて出来ません。せやから、そういう意味でなんかなとも思ったん
です。”もし自分がワープできたら…”って、そういう意味なんかなって」

 その場合、この表現は納得できるのだという。

「でも、その場合かて、もっと別の言い方があると思いませんか?
例えば、『1、2の3でワープするから♪』の『するから』を『できたら』に
するとか」

 だから愛佳は、この子は、実際にワープができるのだという。

「けど、同時に、それだけではあかんとも思ってるんです。足りひんと
思ってるんですよ、勇気が。急に超能力でパッて飛んでいって、気持
ち悪がられたらどうしようって、そんなマイナスなことばっか考えては、
会いに行かれへんくなってるんです」

 言いながら、愛佳は自分の胸に手を当てた。

「この子はね、分かってもらいたがってるんですよ。せっかく『アナタボ
シ』まで飛んでいくんやから、受け入れてもらわれな、優しく話かけて
もらわれな悲しすぎるって」
240 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 21:01
 だから、『私の この思い かなえてね』というのは、そういう意味なの
だと。

 つまり――『ワープする』勇気が持てたら、そのときは『アナタ』の
もとへ飛んでいくから、そのときは私を受け入れて欲しいと、そのよう
に願っているのだと。

「実際には、この子は勇気を持たれへんから、『今すぐそこに辿りつく
のよ』っていって気合も入れなあかんことになってるし、だから『アナタ
ボシ』がまだ『何千億光年』も『彼方』にあるように感じてしまうんです」

 愛佳は小春のほうを向き直って、

「そんな気持ちで、これは書かはったんですか?」

 と言った。

 小春は首をかしげながら、

「よくおぼえてないよ」

「でも、これって、Milky Wayのみなさんで作詞しはったんですよね」

 小春はうなづく。

 Milky Wayの歌詞は、その全てを、3人が共同で書いている。
241 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 21:02
 例外的に1人で1曲ずつ担当したこともあるが、あくまで基本は守ら
れてきた。

 「アナタボシ」はチームがまとまり始めた頃のもので、アイドルとして
の人気が加速度的に高まっていたころの作品でもあった。

 小春たちがこれを書いたのは、タイトなスケジュールの中、ホテルの
一室に缶詰にされていたとき。

 当時、3人はアイドルをすること自体に不満を覚えていたのだが、
研究室で紺野が言ったように、能力の行使には術者の精神の安定が
不可欠であるからして、アイドルとして以上に、狩人としての鍛錬にも
なるといわれた。

 それで渋々、納得することにした3人だったが、結果として、これを
完成させることは、Milky Wayに大きな変化をもたらすこととなった。

 それまでチームとして1度も狩りに成功したことがなかったという、
悲惨で目も当てられなかった状態から、Zetimaのエースとしての地位
を確立するにまでなっていたのだ。

「あのころは、ほんと必死だったんだ。仕事が忙しくて、とりあえず出て
きたことばを、そのまんま書き出して、あとはプロのひとにまとめてもら
うって感じだったから…」

「それで、むちゃくちゃな感じになったんですね」
242 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 21:02
 愛佳は深くうなづいている。

「…ていうか、むちゃくちゃなのに、どこがいいの」

 小春は心外だという表情で言った。

 それは自分の作品をそのように評されたとき、誰もがそうするはずの
反応だった。

 しかし、愛佳は、意外なことを言った。

「いいえ、むちゃくちゃなんは、むしろ好きなとこなんですよ。うち、能力
があるって分かってからは、小春ちゃんとおともだちになるんや〜!って
いって、教室の隅っことかで、もう四六時中にやけてたんですね。

 けど、いきなり会いに行って、信じてもらわれへんかったらどうしよう?
とか、おまけに警察に逮捕されたらどうしよう、とか思って。そんで、ず
っと二の足を踏んでたんです」

 愛佳は、そのときの心境が、この歌詞に重なったのだという。

「うちと小春ちゃんが、おともだちになることは分かってる。なら、行った
らええのに、行かれへんくってウジウジしてる。そういう自分の矛盾した
とこを『アナタボシ』の歌詞が代弁してくれてるって、そう思ったんです」

 だから、いっつもこの曲を口ずさんで、寂しいのを紛らわしてたんです
よ――と。
243 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 21:03
 小春は、愛佳の顔をまじまじと見た。

「いつから…?」

「なにがです?」

「小春と、その、ともだちになる…っていうか、こうなることが、いつから
分かってたの」

「忘れちゃいました。でも、ずーっと昔です。小春ちゃんをテレビで見た
ときには、もう知ってました」

 小春が芸能界デビューしたのは5年前。

 それからずっと、自分は小春のことを思っていたのだと愛佳は言って
いる。

 その顔をみて、小春は相変わらず矯正器具が気持ち悪いなと思った
が、ただヘラヘラしているだけの子じゃないんだと、そうも思った。

「あ…、そこに入ってるんじゃないですか」

 愛佳は小春からi‐podを取り上げると、カリカリ音をさせて、お目当
ての曲を見つけた。

 そして再生ボタンを押すと、イヤフォンの耳を1つずつ自分と小春に
突っ込んで目を閉じた。
244 :名無飼育さん :2009/07/14(火) 21:03
 小春は一瞬、不愉快そうな顔をしたが、自分も目を瞑ると、愛佳と
並んでソファの背もたれに落ち着いた。

 それから2人は、リピートをかけて、3度おなじ曲を聴いた。
 
 
 
245 :さるぶん :2009/07/14(火) 21:06
更新です

光井の滋賀弁は大丈夫だったでしょうか
なんとなく一般の関西弁との違いはなさそうだと思い
気にせず書いてしまいました

もしおかしな点があったら、ご指摘ねがいます
246 :名無飼育さん :2009/07/20(月) 22:14
興味深い解釈ですね…
しかもあの人もいるので意味深でもありますね
247 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:36




 李 純(リー・チュン)が生まれたのは、中国の湖南省だった。

 古くから農業が盛んな場所で、60年代の文化大革命以来、経済的
に賑わうようになったが、そればかりか、省都である長沙(ちょうさ)
は、いまや中国国内では理想的な都市の1つとして数えられるように
なっていた。

 但し、環境のことなど問題も多く、工業都市である長沙は、経済圏
として、そこへ出稼ぎにやってくる農民や、ときには子供たちでさえも
労働力として供給する地級市(ちきゅうし/行政区画の名前)を周囲
にいくつも抱えていた。

 李 純の住んでいた街は、その長沙から少し離れたところにある岳
陽(がくよう)で、決して裕福ではなかったが、とりたてて貧しくも無い
家庭に育った。

 その李(リー)家は、中国の発展にあわせて、少しずつだが確実に
暮らしをよくしてきた。

 我慢をすればしただけ裕福になれるという確信があったから、両親
や祖父母がともに倹約家だった。

 純(チュン)が小学校6年生のころ、少しずつだがインターネットが
普及しはじめて、学校のクラスの何人かは自分の家に回線を引いて
いた。
248 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:36
 中学生になると、それがぐっと増えて、高校生になるまでケータイ
すら買ってもらえずにいた純は、それがうらやましくて仕方なかった。

 親に何度もねだったが、買ってもらえず、それはネットも同じこと。

 そんなある日、ともだちの一人から遊ぼうと誘われた。

「あんたんち、ネットがないんでしょ。うちに来てやってもいいわよ」

 正直、ほとんど口を利いたこともないような子だったが、ネットがで
きるというのは大変な魅力だった。

 いつも遊んでいる子たちが学習塾の日で、一人寂しく下校するつも
りだった純は、素直についていくことにした。

 といっても、迎えの車が来ていたから、校門を出てすぐのところで、
それに乗るだけだったのだが。

「あんたってジュンジュンって呼ばれてるじゃない?」

 道すがら、彼女はそう切り出した。

「それより、ジャネットって名前のほうが似合うと思うのよね。だってほ
ら、あたしもティファニーって言うし」

 そういって髪をひとつかき上げた。

 純は確かに友だちからジュンジュン(純 純)と呼ばれていたが、それ
はあくまであだ名に過ぎない。
249 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:36
 もちろん彼女がティファニーというのもあだ名だったが、そのころ
純の地元では、香港のスターたちがそうであるように、英語の名前を
持つというのが密かなブームになっていた。

 ジャッキー・チェンとか、ビビアン・スーとか。

 ただし、それはふざけて付けるだけで、長沙など大都市の学校では
ようすがちがったが、岳陽のような地域では、「純 純」のように名前を
2つ重ねるとか、小(シャオ)をつけてかわいらしくするという、昔ながら
の方法が好まれていた。

 ティファニーは――いまとなっては、純はもう彼女の本当の名前を
覚えていない――それを本当に普段から使って、みんなにそう呼ばせ
ていたのだ。

 別にいじめっ子とか、金持ちであることを鼻に掛けるタイプではない。

 ケータイも昔から持っていて、一番高い機種を使っていたが、なぜか
ほとんど開いているところを見たことがなかった。

「あんたってテレビとかに詳しいんだから、ネットがあればもっといいと
思うのよね」

 ティファニーは言う。

 確かに、その通りだった。

 純――ジュンジュンは、テレビっ子だった。
250 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:37
 テレビは無料だったし、ケータイもネットもなしで友だちとの会話につ
いていくには、そうするしかなかったのだ。

 誰よりも芸能人の話に詳しかったし、香港のスターのマネをして英名
を持つのが都会で流行っていること、しかも、それが昔、いちど流行っ
たもののリバイバルであることまで知っていて、みんなに真っ先に話し
て聞かせたのはジュンジュンだった。

 彼女自身、人見知りする性格だったが、そのせいで交友関係に不自
由したことはなかった。

 ティファニーの家に着くと、ジュンジュンは何も言えなくなってしまう。

 豪華な家具や電化製品が並んでいて、それがいまならばイタリア製、
そして日本製だと分かる。

 ティファニーは台湾製のパソコンの前に歩いて行って、備え付けの
イスにジュンジュンを座らせた。

「やり方ぐらい、わかるでしょ」

 ジュンジュンは相変わらず何も言えずにいたが、それは豪華な暮ら
しに圧倒されていたからじゃない。

 確かに、それこそ香港の大スターの家のような暮らしに驚いてはいた
が、ジュンジュンが何も言えなかったのは、ここにくるまで、誰ひとりとし
て家にいなかったからだ。
251 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:37
 ジュンジュンはパソコンのやり方などまったくわからなかったが、それ
で聞くことを躊躇ってしまった。

 適当にあちこち操作してフリーズさせてしまったり、ティファニーから
そんなことも分からないのかと嫌味を言われたりした。

 それでも生まれてはじめてのインターネットは楽しく、ティファニーが
ブックマークしていたセレブたちの情報サイトや、音楽を違法だがダウ
ンロードできるサイトを見て楽しんだ。

 その日は結局、ティファニーの家族と会うこともなく、せっかくだから
夕飯を食べていけという誘いも受けたが、断ってしまった。

 中国では食事を断るのがとても失礼なことに当たるが、ジュンジュ
ンには初めての経験だったし、それがティファニーと家政婦の3人で
のものだったということのもある。

 ただ、それからちょくちょく遊びにくるようにはなった。

 決して、二人は仲良くなったわけじゃないし、学校でのジュンジュン
は相変わらず元からの連れといっしょに過ごしていた。

 ウェブサイトを覗くのは楽しかったが、借りばかり作っているような
気がして、返すもののない自分が惨めに思えてしまったというのもあ
る。

 適当に理由をつけてみたり、お持たせを使ったり、あれこれ理由を
つけて、家にいく目的がネットをしたいだけだと悟られないように工夫
した。
252 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:37
 もっとも、たまに「ジャネット」と呼んでくるのを止めさせることもそれ
なりに大変だったが。
253 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:38
 
254 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:38
 
 
 
 ある日、最近、ティファニーが買ったという、おしゃれな服やアクセ
サリーについて会話していたときのことだった。

「日本製なの。雑誌を見て、通販サイトを知ったの」

 海外からでも買えるところをさがすのは大変だったんだからと言い
ながら、ティファニーは雑誌を取り出し、開いて見せた。

 それはファッション誌で、漢字に混じってよく分からない文字で書か
れた文章に囲まれて、かわいい服を着たかわいい女の子たちが写っ
ていた。

 ティファニーが着ているものも、それらよく似たデザインやコーディ
ネートだったのだ。

「いいなぁ。私も欲しいな」

 そう言ったのはジュンジュンの連れ。

 一人で来るのが気重だったので、頼み込んで付いて来てもらった
のだ。

 彼女が目を輝かせている横で、ジュンジュンも羨ましく思っていた。

 だが口には出さない。
255 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:39
 幼いころから、なんでも欲しいものを我慢するクセが付いてしまって
いたからだ。

「あんたには似合わないかもね。それとあんたも」

 ティファニーはこともなく二人に宣告する。

 ジュンジュンはこの時点で、身長が166センチほどあった。

 決して華奢なタイプではないし、連れは太っていた。

 一方のティファニーはというと平均的な身長で、そんな名前を使って
いるだけのことはあって確かにスタイルもよく、それらの服を完璧に
着こなしていた。

「日本のモデルって、中国や台湾ともちがうよね」

 そう連れが言って、ティファニーが、「アメリカやフランスともちがう」
と同意する。

 それから二人はおしゃれのこと、それからセレブたちの話に花を
咲かせていたが、そのあいだ、ジュンジュンはその雑誌に釘付けに
なっていた。

 この日をきっかけに、ティファニーは変わった。

 ジュンジュンが連れを呼ぶものだから、どんどん交友関係が広が
っていき、彼女の家が溜まり場のようになっていった。
256 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:40
 当然、学校でも明るく振舞うようになり、逆にジュンジュンは喋らな
くなっていった。

 1つは雑誌で見た日本のモデルのような格好が似合わないと突き
つけられたせいだ。

 このころのジュンジュンはアメリカの雑誌など読んだことはなかった
が、少なくとも同年代の少女が読むような中国の雑誌のモデルは、
みんな背が高かった。

 もちろん華奢だったが、自分も痩せたらあんなふうになれるのかな
と思っていた。

 ところが日本の雑誌では、背の低い子がモデルをしていて、ジュン
ジュンにとっては、そちらのほうが魅力的に映った。

 ジュンジュンは価値観を大きく変えられた上に、そこで見つけた理想
が、以前から抱いていた理想とはちがい、手に入れることができない
ものだという現実を突きつけられたのだ。

 ジュンジュンは塞ぎ込み、日本のモデルのようなティファニーが羨ま
しく思えた。

 しかし、それは口にすることができなかった。

 だから、余計に思いが募り、ティファニーを遠くに感じるようになった。

 おまけに、ジュンジュンの連れに対して、ティファニーは、ジェニファー
やティモシーといった英名をつけていき、友人たちがそれを受け入れた
のだ。
257 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:41
 ジュンジュンにもジャネットという名があったが、これまで頑なに拒否
していたせいで、誰も使ってくれなかった。

 学校のクラスで浮いていたティファニーを、クラスに溶け込ませたの
は自分だったと、ジュンジュンは思う。

 それなのに今度はティファニーのほうから離れていくような気がする。

 もともとティファニーが声をかけてきたのは、ネットやケータイについ
て羨ましがるようすを、いつもジュンジュンが見せていたからで、それを
知ってアクションを起こしたのはティファニーのほうだったのだ。

 もともとが、そういう子だった。

 だからティファニーの笑顔は素敵だった。

 一方、教室の窓に映るジュンジュンの顔は、いつも覇気が無かった。

 得意の芸能人の話題を話すときだって、淡々と話して、感心される
だけ。

 ティファニーはその笑顔でみんなを楽しませていた。

 ジュンジュンは、自分が持っていないものすべてをティファニーが持っ
ているように思えた。

 それからと言うもの、このグループは行動を共にし続けていたが、
ジュンジュンの持っていた知識など、インターネットを知ってしまえば、
そこにすべて書いてあるものに過ぎない。
258 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:41
 テレビにかじり付いて、懸命に覚える必要なんてないのだ。

 だからジュンジュンはグループの中で発言することが少なくなってい
った。

 高校生になり、ティファニーは私立の学校へ入り、ジュンジュンは元
の連れとおなじ公立の学校へ進学したが、そこではもうお互い友だち
ではなかった。

 高校二年生の春。

 ジュンジュンの家にインターネットが来た。

 市の役所で働いている従兄弟の紹介で、格安で工事してくれる業者
が見つかったのだと、父が自慢していた。

 当時、岳陽の回線はまだ定額制ではなかったので、親からきびしく
使う時間を制限されていたが、ジュンジュンは暇さえあればパソコン
の前に座っていた。

 ウィンドウをいくつも出して、見たいページを同時に立ち上げてから
回線を切れば、ほとんどお金をかけずに沢山のページを見ることがで
きたからだ。

 このころ、ジュンジュンは日本のカルチャーの虜になっていた。

 もともと好きだったマンガやアニメの中から日本語を学び、ティファ
ニーの家で知ったファッション誌の最新号を電車で長沙まで買いに
行った。
259 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:42
 通販で買った日本製のかわいい服を、着れもしないのに持ってい
た。

 このころ日本で花開いたネットアイドルもそうで、いくつもブックマー
クをつけては、毎日欠かさず日記をチェックしていた。

 その中に、ジュンジュンがもっとも気に入っているものがあった。

 最初に知ったのは中国語のサイトで、日本のネットアイドルを紹介
する中の1つだった。

 次にそこへ飛び、日本語もろくに分からないまま、漢字の部分だけ
を辿って読んだ。

 例のファッション誌の格好とは少しちがっていたが、似たようなファッ
ションをしているアイドルたちとはちがって、日記には漢字を多く使っ
ていた。

 もっと漢字が多い子もいたが、大抵はかわいくなかった。

 ひらがなだけの子もいたが、大抵は個性がなかった。

 もっと派手な子もいたが、大抵は興味がなかった。

 そのネットアイドルは空ろな表情をしていた。

 教室の窓に映った自分のように、覇気を帯びていなかった。

 後で知った「ゴスロリ少女」というのに、とても近い雰囲気を持ってい
た。
260 :名無飼育さん :2010/05/24(月) 19:43
 その日記では、「私がいちばんカワイイ」と、何度も語られていた。

 その日記の名は、「サユの小部屋」といった。
 
 
 
 
261 :さるぶん :2010/05/24(月) 19:46
更新です

こちらも1年ぶりになってしまいました
絶対に放置はしませんよ

>>246
>しかもあの人もいるので意味深でもありますね
あの人って誰でしたっけ(汗
素で分からないんですけど…
262 :さるぶん :2010/06/15(火) 10:57
ごめんなさい
投稿する順番をまちがえてました

>>244 こはみつ@空港のシーン(i‐Podを聴いている)

>>247 JJ@中国のシーン(さゆのブログを発見するまで)
のあいだに、次のシーンが入ります
263 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 10:57



「じゃあね」

 小春が立ち上がった。

 肩にかばんをかけ、残りの手でバイバイしている。

「なんでですか?」

「お別れだよ。小春はスペインへ行かなきゃ。サーヤとキッカが待ってる」

「ええ、そうですよ」

「なにが?」

「…はい?」

 お見合いをすると、2人はしばらく考え込んでしまった。

「えっと…。小春は仕事にいかなきゃならない。海外だよ。スペインで
仲間が待ってる。そっちは…その…」

 小春は言いにくそうにしてから、顔を赤らめた。

「ミッツィーは、この後どうするの」
264 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 10:57
「あっ! はじめてそう呼んでくれはりましたね、めっちゃうれしいです!
もちろん、うちもいっしょに行きますよ」

「なんで?」

「だって、そのために来たんですもん」

 愛佳は嫌な予感がしたのだという。

 海外で小春が大きな事件や事故のようなものに巻き込まれる、そん
な予感がしたのだと言う。

「能力なの?」

「いえ、ただの勘です」

「勘と能力って、どうちがうの?」

「さぁ」

「さぁ…って」

 小春は眉をひそめた。

「本当に能力者なの?」
265 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 10:58
「本当ですよ……ていうか、えー! いまさらですか?」

 愛佳は立ち上がった。

「ほんまですって。信じてくださいよ」

 小春は若干、引き気味になっていて、先ほど”ミッツィー”と親しげに
呼んだことを、はやくも後悔していた。

「そもそも、チケットとパスポートは持ってるの?」

 小春が鞄からそれらを取り出すと、愛佳は、あっ!と声を上げた。

「チケット代は貯めて来たんですけど、うちパスポート持ってへんのでし
た…あはは」

 それを見て小春が言う。

「あははっ、じゃない!」

 体側に置いた拳を、2つとも小刻みに震わせていた。

「もうね、あのね、さっきからずーっと我慢してたんだけど、言っちゃう。
小春、言っちゃうもん。あんたバカじゃない?」

 そう言って、盛大に地団太を踏んでいる。
266 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 10:58
 このようすをサーヤやキッカ、あるいはZetimaのメンバーのうち、紺野
をはじめとする小春の担当者たちが見たのなら、さぞかし喜んだはず
だ。

 彼らこそ、日ごろマイペースな小春に地団太を踏まされ続けてきたの
だから。

「ふんだっ!」

 小春は腕組みをすると、そっぽを向いてしまう。

「えへへ…。確かにアホとかキモイとかノロマとかブスとか、そういうの
はよく学校で言われてました。なんで死なへんの? とか、はぁ? 生ま
れてきた意味がわからんし…とも、よく言われてましたけど」

 小春は、あわてて向き直る。

「そ、そこまでは言ってないよ!」

「分かってます。分かってますって。小春ちゃんは、愛佳のおともだち
ですから、そんなこと絶対に言わへんって、うちがいちばん分かってま
す」

 愛佳は真顔だった。

「ならいいけど…」

 小春は生まれてはじめて”自分のペースを乱される”という経験をし
ていた。
267 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 10:58
 Zetimaのエースとして、社内や研究所で特別扱いを受け続けてきた。

 その小春が、目の前の素性のよく分からない少女に、どう対応してい
いか分からずにいたのだ。

「それより、どうするの。パスポートがないと外国へはいけないよ。いくら
小春の能力でも、それはムリ」

「能力って? 小春ちゃんも、なんかできるんですか?」

「うん。例えば…」

 小春はそう言って愛佳の足元にある鞄を、手を使わずに持ち上げて
みせる。

「ほんまや、すごいっ!」

 しかし3秒と持たず落ちてしまう。

「なんかしょぼいですね」

「しょぼいって言うな! 疲れてるだけだもん!」

 小春は以前にも似たような経験をしていて、それも空港でのできごと
だった。
268 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 10:59
 コンサートがキャンセルになったことを怪しんで駆けつけたマスコミ
をかわそうとして彼らの時間を止めたのだったが、結果として、予想し
た時間の半分ももたなかった。

 いまだって鞄を腰の辺りまで上げるつもりだったのだが、膝までしか
いかなかった。

 小春は慌ててポケットから錠剤を取り出すと、それを飲み込もうとす
る。

 紺野のラボから盗んできた”ミルフィHP-05”だった。

「まぁ、いいです。まさか小春ちゃんが、うちと同類やったなんて。あぁ
…おともだちになるって言うのは、やっぱ運命やったんですね」

 感激して胸に手を当てている愛佳をよそに、小春は錠剤をなかなか
飲みこめずにいた。

「風邪ですか」

「ひがうよ」

 小春は何とか飲み込もうとするが、すぐに、おえーっと反発があって
吐き出してしまう。
269 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 10:59
 それで今度は、財布から小銭を取り出すと、すぐそばの自販機で
お茶を買った。

「小春ちゃんって、クスリそのまま飲まれへんのですか?」

 馬鹿にしたような言い方をする愛佳。

「さっきから、何かちょいちょい幻滅するんですけど…」

「うるさいなぁ」

 口をとがらせて、ボタンを連打する小春。

「これで疲れが取れたら、またすぐにすごい力が使えるんだから」

 そして、そうすれば早く効果が出るとでもいうように、必要以上の量を
飲んだ。

「いいですよ。小春ちゃんが魔法使いなんは、よーく分かりましたから」

 愛佳は、小春が出ていた魔女っ子ものの連続ドラマ「きらりん☆うぃっ
ちーず!」のあらすじを、いくつか諳んじてみせた。

「あのゲームになった回の話が、めっちゃ好きなんですよ。囚われのお
姫さまを、小春ちゃんがナイトに変身して助けにいくところ」
270 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 10:59
 それにはサーヤとキッカも、それぞれ戦士と魔法使いで出ていた。

「さしずめ、うちが使い魔のなーさんですね。…まぁ、その回は、なー
さん、お休みでしたけど。っていうか魔女なのにナイトとか訳わからん
くねー? って感じですよねー」

 ひとり上機嫌の愛佳を尻目に、小春は、ようやく胃袋に入ったばか
りのミルフィを過信して、なんども念動力に挑戦していた。

「あれ…? あれっ? 動かない!」

 いくらやっても鞄は微動だにしない。

 いま飲み干したペットボトルなど軽いもので試してみたが、結果は
おなじだった。

 小春は信じられない様子で、自分の手を見ている。

「それよりどうしましょう…。うちパスポートがなかったら飛行機に乗ら
れへん。そしたら小春ちゃんと、いっしょに行かれへんくなる…」

 愛佳が振り返ったほうには、手続きをする人たちの列が見えた。

 搭乗時間が迫っていたのだ。

「小春ちゃん。魔法で係りの人とか、消したりでけへんのですか?」
271 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 11:00
 愛佳が指さしたほうを見ると、男性職員が立っていた。

 それは搭乗ゲートの前で、さらに手前には手荷物検査のエリアも
あった。

「うん。まぁ、どこかに瞬間移動させるくらいなら、できるけど」

「それや!」

 愛佳は声を上げる。

「それがええですよ」

 職員がいなくなっている隙にゲートを突破しようという、これはそう
いう作戦なのだが、小春は能力を中止すると、乗り気でない様子にな
った。

「そんなことをしたら空港がパニックになっちゃう。飛行機だって飛ばな
くなるよ」

 これは正しかった。

 飛行機は内部の密閉された空間に、長時間、不特定多数の人間を
閉じ込めて運ぶ乗り物だ。

 そのため空港は、安全に対して細心の注意を払っており、少しでも
手続きに不備があろうものなら、原因を突き止め、取り除いてしまうま
では飛ばさないというのがルールだった。
272 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 11:02
「なら、飛行機の中まで、うちを飛ばしてください。そうすれば検査を
受けなくて済みます」

「ダメだよ。それじゃ危ない。小春、コントロールには自信があるけど、
イメージがわかないもん」

 この場合、小春には正確な座標が必要だった。

 例えるなら、郵便だ。

 送り先と受け手、2つの住所が揃っていなければそれは届かない
ように、小春の瞬間移動にも、正確な座標が把握されている必要が
あった。

 飛行機はそろそろ所定の位置に移動してくるはずだから、それ自体
の位置ならば把握できる。

 しかし、機内のようすまでは把握できなかった。

 愛佳を正確に飛ばすためには、飛行機を窓ガラスごしに狙って、そ
れで十分というわけにはいかないのだ。

 結果として、飛ばしてみたはいいが、無機物のある座標に飛ばして
しまい愛佳がエンジンかなにかと合成。死んでしまいましたとさ――な
んてオチになりかねない。
273 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 11:02
「じゃあ、どうするんです?」

「わかんないよ」

 急かすようにアナウンスが流れて、2人は立ち上がる。

 とりあえずチケットだけ買って、パスポートについては場面で決めるし
かないということになった。

 まずは愛佳の当日券を買う。

「20万!?」

 発券機の前で愛佳が固まった。

「なんで!? 10万円あればいけるって聞いたのに…」

 財布には10万しか入っておらず、ディスプレイはその倍の額を示し
ていた。

「たぶん、それって割引チケットのことだね。よくは分からないけど、
マネージャーが話してるの聞いたことがある。当日券は高いんだって」

 小春はMilky Wayの仕事のとき、自分が起こした問題から飛行機に
乗り遅れることが多かったため、当日券を買うことが多かった。
274 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 11:02
「いいよ、小春が出すから」

 財布を開くと、カードを出してくる。

 アイドルとして、狩人として、小春はマネージャーから不自由のない
だけの額を持たされていたから、チケットは無事、購入することができた。

 チケットを受け取り、手荷物検査へと向かう。

「どうします?」

「わかんないよ」

 1人、また1人と検査をパスしては、ゲートへ向かう。

 列の前が、少しずつ減っていく。

「そうや、うちだけ飛ばせばいいんですよ」

 愛佳が言う。

 密やかだが、高い調子の声だった。

「それはダメだって言ったじゃん。ヘタすりゃ死んじゃうかもしれないん
だよ」

「そうじゃなくって、ゲートの先に飛ばしてくれればいいんですよ」

 愛佳は職員が立っている場所の奥のほう、機体へとつながる通路の
あたりを指さした。
275 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 11:02
「なにも飛行機の中を狙わんでもいいんですよ。ゲートさえ抜けたら、
それでいいんですから」

「でも、バレちゃうよ」 

「大丈夫ですって」

「もうっ、いつもなら時間が止められるのにっ!」

 問答をくりかえすうちに、人の密集度が上がっていく。

 ついぞ、あと3人というところまで来た。

「ええいっ、知らないからっ!」

 係員がよそを見ている隙に、小春は”押した”。

 愛佳はバランスを失って、一瞬、わっと悲鳴を上げたが、その声は
すぐに掻き消えた。

 残りの声が、水あめの尾を引いたやつのようにして聞こえてきたの
は、ずいぶんと遠くからだった。

――あ、大丈夫です! すいません! ちょっと転んだだけやったんで、
気にせんといてください!

 ゲートの向こうからしているのは、まちがいなく愛佳の声だった。

「やった!」

 小春は大きくガッツポーズをするが、斜め後ろにいた男性と目が合
ってしまう。
276 :名無飼育さん :2010/06/15(火) 11:03
 男性はこちらをガン見していたので、小春は何事もなかったかの
ようにサングラスをはめると、自分の手を見た。

「なんで出来たんだろ…」

 チェックをスルーして、愛佳に合流する。

「やったじゃないですか。小春ちゃんってば、調子悪いとか言ってた
くせに完璧じゃないですか」

「まあね…」

「この調子で、向こうに着いてからもお願いしますよ」

「うん。まかせといて」

 小春は釈然としないようすで席へ着いた。
 
 
  
277 :さるぶん :2010/06/15(火) 11:04
更新です

うっかりしてました
以後、気をつけます

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