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ほぼ無常

1 :ch1NDNCw :2013/05/05(日) 07:56

 沈み込んでいた旋律が静かに上昇の予感を示しはじめ、いよいよここからだと心中で喜んでい
たところに店のドアが音を立てて開き、女が入ってくる。
 ひさしぶりに見る顔だが、俺の記憶が正しいならば、その顔は福田明日香の顔に見える。
 その福田がまっすぐ、奥のテーブル席に一人で座る俺の前まで来て、作曲者の渾身の作品など
おかまいなしに坦坦としたいつもの口調で声をかける。
「こんなところにいたんですか」
 ラフマニノフに恨みがあるのか、それとも俺が聴き入っていたのを邪魔しに来たのか。福田は俺
に対して積年の恨みがあるだろうから、標的はおそらく俺の方だろう。
「どんなとこにいようと俺の勝手。それにここはお子様の来るとこじゃない」
 無造作にいい返したその言葉を無視し、福田が俺の向いの椅子を引き、そして腰掛ける。
 テーブル席は二つしかないが、時間帯のせいもあって店の中に客は俺一人。隣のテーブル席だ
ろうとカウンター席だろうと空いている席はいくらでもある。
「そういう場合はここよろしいですかとか、ご一緒してもいいですかとか、訊くもんじゃないのか」
「美女を前にして照れるのもわかりますけど、もっと素直になったらどうですか」
「十分に素直だよ。おまえの前だとほんっと、素直すぎるくらい」
 マスターがグラスを拭きながら横目でこちらのやりとりを窺う。そういえばジャズではなくクラシッ
クが流れるというこの店を教えてくれたのは福田だったか。実家がパブでバーメイドをしていたこ
ともあったというから、ここのマスターとも顔見知りなのかもしれない。
「で、なんか俺に用か」
「別に用じゃないですけど、ただ、最近よくここに来てるみたいですから。ほかに立ち寄りそうな場
所もなさそうですし」
「要約すると、俺が恋しくなって俺がいそうなところを探しまわってたってことか」
88 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:30

「そのそばかすも、変装用、だよね」
「あ、ばれちゃった? 田舎の女の子みたいでかわいいでしょ」
「その、頬が少し赤らんでるのも?」
「おお、すごいねえ。そこまでばれちゃったかあ。さすがもっちー、今日も鋭いねえ」
 安倍が楽しそうに笑って、俺も笑うしかなく笑う。
 一見して化粧をしていないように見えるが、かなりこだわりのメイクらしい。たしかに安倍なつみ
というよりは、安倍なつみに似ている地味な女子といった感じで、その程度の効果は確実にある。
もし俺が知り合いでなかったら、安倍なつみに似てる子だなあ、とでもおもっただろう。

 安倍と二人並んで歩き、後日のことを考え、一番わかりやすい道順を進む。
「ねえねえ、その腕まくり、かっこいいよね。先週もおもったんだけど」
「ああ、ありがと。まあ、うん、自分でもそうおもってるからしてるんだけどね」
「あーあ、なっちも長袖だったら腕まくりしたんだけどなあ」
 そういって安倍がない袖を、よいしょ、とまくり上げ、前方にぴょんと跳んで、後ろ歩きをしながら
俺にその笑顔を見せつける。
 そうした予想できない行動に、俺はその都度戸惑うことをやめ、素直に笑顔を返すことにする。
「あ、ねえねえ、もっちーから借りたCD、聴いたよ?」
「ああ、どうだった」
89 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:31

「あのね、なっち知ってたよ。グリーンスリーブス」
「そうなんだ」
「うん。あのね、小学校で流れてたから。下校の時間になりました。まだ校内に残っている児童は
帰る用意をして、すみやかに家に帰りましょうって。放送委員がそういって、その曲が流れるの」
 どうやら途中から声真似をしたらしいが、その雰囲気はわかる。
「そっか。うちは新世界だったな。ドヴォルザークの新世界の、遠き山に日は落ちてとかって。わか
らないか。えっとね……」
 俺が軽く口ずさんで、安倍がおお、と声を出す。
「キャンプファイヤーの歌だ。知ってる知ってる。なっちも歌ったことあるよ」
「お店の閉店のときに流れてたりもするけどね。昔バイトしてた田舎のデパートがそうだったし」
「へえ、なんかすごいね。それもクラシックなんだ」
「うん。新世界はたぶん聴いたことあるとおもうよ。中学とかで絶対聴かされるから」
「あ、じゃあもっちーならあれもわかるかな」
 安倍がまた前方にぴょんと跳ね、ゆっくりくるくると回りながらメロディを口ずさむ。
 なんとなく曲はわかったが、誰のどの曲かがわからず、俺は安倍がどこでやめるかを楽しみなが
らそれを考える。古典派、バロック、プレバロックと遡っても、どれもありそうで、まったく特定には
至らない。
90 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:31

「どう? あのね、これ、掃除の時間に流れてたの」
「うーん、知ってるけど、誰の曲だったかはわからないな」
「おお、もっちーでもわからないとなると、これはかなりの強敵だねえ」
 その安倍の笑顔には偽りがなく、俺はなんだかふわふわした気分に包まれる。

 一つめの丘を迂回し終え、バス通りを渡って坂の住宅街に入る。
 元元が山だったことを考えるとやや不満だが、このあたりの住宅にはまだ植木や草花を手入れ
するだけの餘裕があって、今はつつじの垣根がその色合いを競っている。
「あ、つつじが咲いてるよ、ほらほら」
「ああ。結構長いこと咲いてるから、そろそろ終わりかな」
「なっちね、あんまりお花の名前とか知らないんだけど、つつじは知ってるよ」
「そうなんだ」
「でもね、なっちは白いつつじが好きなの」
「白いのもあるんだ」
「うん。白いつつじはすっごい奇麗なの。だからなっち、つつじは知ってるんだ」
「たしかになあ、つつじの赤は結構強烈だもんな。白ならたしかに奇麗だろうね」
91 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:31

「ねえ、もっちーは好きなお花とかある?」
「うーん、昔は梅が好きだったけどね。なんか小さくてかわいくて」
「おお、梅かあ。それは予想してなかった」
「でも今は藤の花かな。普通は薄紫のぱっとしないやつだけど、一度、ものすごい青いの見て、感
動してね。でも藤の花って、三日ももたないんだよね。ほんとに奇麗なのはたった一日で、しかも
同じ藤の花でも年によって出来不出来があって。それでかな、それ以来結構気になったりしてる」
「へえ、やっぱりもっちーってすごいね。青い藤の花かあ。なっち見たことないよ」
「今年は駄目だったけどね。いろいろ行ってみたけど、どこもぱっとしなくて」
「そっか。じゃあなっちもこれから注意して見てみるよ。青い藤の花、どこかにないかなって」
「四月頃だから、見れたとしたら来年だね」
「うん。じゃあ来年まで覚えとくね。あ、来年なら一緒に見に行ってもいいよね」
「ああ、まあそうだな。男一人で藤の花ってのも、変だしね」
「えへへ、来年が楽しみだね」
 この約束は有効なのだろうか、と考えるも、たぶん安倍の方は本気で、そしてたぶん来年まで覚
えていて、そしてたぶん、俺もそのことを覚えているような気がして、俺はなぜだか、安倍が自分の
近くに居続けるという不思議な予想をしている自分に気づく。
 安倍とちゃんと接したのは先週がはじめてで、今日が二度目、それなのに、安倍の存在はもう普
通に俺の中に溶け込んでいる。
92 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:31

 つつじの垣根をすぎて、その角を曲がる。
 あとはマンションまで一直線の緩い坂だが、俺はそこで坂を下りて来ている女性の姿に目を留
める。まだ遠くてはっきりとは見えないが、その独特の雰囲気を間違うことはない。
 それにしても、どいつもこいつも、連絡もなしに俺に会いに来たがるのはどういうわけか。たしか
に俺はインドア派で、必要のない外出はしない主義だが、スーパーに買い物にくらいは行くし、迷
子から連絡があれば迎えにだって行く。それとも会えなくても別にかまわない、ということか。
 グリーンスリーブスを口ずさんでいた安倍がその姿に気づき、一度俺の顔を見てから、そちらに
向けて手を振る。
「福ちゃんだ。おーい、福ちゃーん!」
 なるほど、安倍と福田のツーショットを見るのははじめてだが、安倍も石川と同じく《福ちゃん》派
らしい。そういうことなら俺も、福田の呼び方を考え直す必要があるかもしれない。
 福田が表情を変えないまま近づいて来る。立ち止まればいいものを、そうはせず、安倍の反応
にも応えないところを見ると、平静を装っているといったところか。
「福ちゃん、ひさしぶりー。元気だった?」
「ええ、元気ですけど、珍しい組み合わせですね。ちょっと驚きました」
 予想した通りの反応で、俺はわざと左手を口にあてて笑いをこらえるしぐさをする。
93 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:31

「福ちゃんももっちーに会いに来たんだ。なっちと一緒だね」
 《もっちー》という呼び方に、今度は福田が俺に向けて呆れた顔を見せる。
「なんだか楽しそうですね。鼻の下が伸びてますよ」
「そりゃな。俺だって楽しいときは楽しい顔くらいする。なにあたりまえのこといってんだか」
「あ、ねえねえ、なっちね、今日迷子になったんだよ。おもしろいでしょ」
 安倍が福田にいって、福田はなぜか一度俺の顔を見てから、安倍に答える。
「まあおもしろいかおもしろくないかっていったら、おもしろいですけど」
「だよねえ。福ちゃんならそういうとおもった」
 二人の勝負はあっさりと安倍が勝ったようで、俺は二人の力関係を把握する。
 福田から安倍の話はまったく聞いたことがないが、去年だったか、ドリームモーニング娘。とや
らのコンサートを見に行ったという話は福田と石川の二人から聞いているから、数年ぶりの再会
ということはなく、それっきりだとしても俺と保田よりは交流があると考えた方がいいだろう。
 二人の噛み合わない会話を聞きながらマンションに入る。
 安倍は俺の腕まくりがいかにかっこいいかを福田に説明し、福田はそのたびに呆れ顔で俺を見
て、俺はやはり苦笑する。その日はどうやら俺にとっての苦笑の日であるらしい。
94 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:32

 二人が部屋に上がり、テーブルについて俺は接客の用意をする。
「どうしよっか。紅茶にしたいんだけど、うーん、一人コーヒーが大好きな人がいるんだよねえ」
「私も紅茶でかまいませんよ。どうせここにはコーヒーはないですから」
 わかっていて訊いて、しかしちゃんと反応してくれるところは、さすが福田というしかない。
「へえ、福ちゃん、コーヒー好きなんだ。大人だねえ」
「まあそろそろいい歳ですから。なつみも結構いい歳なんじゃないですか」
 安倍はすでに三十代に入っていて、福田は石川と同じでまだ二十代、わずか数年の差とはいえ、
乙女にとっては大きな違いだといいたいらしい。
 だが、福田のそんな攻撃が安倍に通用しないことくらい、新参者の俺にだってわかる。
「あ、ねえ、じゃあ福ちゃん、今つき合ってる人とかいたりするよね。結婚考えてたりとか、同棲して
たりとか、もしかしてもう結婚してたり?」
 福田がパキラの鉢植えの方に目をそむけ、おそらくいい返す言葉を考えているのだろう、十秒ほ
どしてからようやく顔を戻す。
「結婚も同棲もしてませんけど、プロポーズされたことなら二回あります。今はその二人とは別の人
とつき合ってますけど、どうですかね、そろそろ考えた方がいいかもしれませんね」
「へえ、すごいね、福ちゃん。福ちゃんもみんなも大人だよね。なっちね、そういうの全然だもん」
95 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:32

 福田が複数の男とつき合っているという、嘘か本当かわからない話をしようかともおもったが、そ
れはやめて、俺はキッチンで紅茶を準備する。電気ケトルにお湯はなく、しかし三人分であれば三
分もすればすぐに沸き、必要ならまた沸かせばいい。
 先にティーカップとソーサーを運ぶと、それを見た安倍が福田に俺の趣味のよさを説明しはじめ、
俺は福田の渋そうな表情を想像しながら、自分の部屋へ行ってオーディオからドヴォルザークを流
す。
「あ、クラシックだ。今日のクラシックはなんでしょう」
「ああ、来るときに話してた、ドヴォルザークの新世界より。そのうちわかるとおもうよ」
「おお、そっかあ。じゃあ期待してるね」
 安倍とクラシックの組み合わせが意外だったらしく、福田が怪訝そうに尋ねる。
「なつみもクラシックに興味があるんですか」
「うん、先週ね、梨華ちゃんと一緒にいっぱい聴いて、もっちーにいっぱい教えてもらって。それで
すっごい感動したんだよ」
 福田が納得がいかないといった表情を俺に向け、俺はそれを無視してキッチンへ戻り、例の紅
茶ポットに茶葉を入れ、沸いたばかりのお湯を注ぎ入れる。
 その日の安倍は最初にパキラに挨拶をした以外はずっと椅子に座ったままで、どうやら興味は
ひさしぶりに会う福田に向いているらしい。
96 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:32

「福ちゃんももっちーに教えてもらったりしてるの?」
「いえ、私はクラシックは聴きませんから。でも、そうですね、この前、一緒にショパンを聴きました」
「へえ、ショパンかあ。すごいね、なんか福ちゃんにぴったりな感じがする」
 どういう意味なのかはわからないが、安倍がそうおもったのならそうなのだろう。
 紅茶ポットを持って戻り、それぞれのカップに注ぎ淹れると、安倍が空いた椅子に置いたバッグ
から先週と同じように箱を取り出す。
「じゃーん、今日もポッキーを持って来ました。今日はすごいです。つぶつぶいちごポッキーです」
「ほお、そりゃすごい」
「えへへ、なっちね、ポッキーにはうるさいんだよ。ポッキーのことならなんでも訊いていいよ」
「じゃあその必要があるときは、そうさせてもらおうかな」
 俺がそう答え、安倍が嬉しそうにして、福田がやはり怪訝そうに俺を見る。
 そろそろ俺も、そこに嫉妬のようなものが芽生えていることには気づいて、いつもならそれを楽し
むのだろうが、どうもそういう気分になれないのは、俺がすでに安倍に惹かれはじめているからな
のかもしれない。
「それじゃ、いただきまーす。福ちゃんもポッキー食べていいからね。遠慮しなくていいよ」
「ええ、そういうことなら、ばくばくいかせてもらいます」
97 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:32

 福田が真顔でそういって、でも安倍の方はにこにこと嬉しそうで、やはり二人の対決は安倍の完
勝というほかない。
 俺はその安倍の清清しいまでの素直さにあっさり感服したが、それは同類の人間であることを認
めたがゆえのこと、そうでない、それも論理的思考の強い福田が俺と同じように安倍を受け入れる
はずがなく、そのことはいまだに安倍に対してわだかまりを持ち続けている福田自身が証明してい
る。

 しばらくして、勢いのあるクライマックスを経て第二楽章に入り、安倍がそれに気づく。
「あ、これだね。ふーふふー、ふーふふー、ふーふふーふふー」
「そうそう、これがね、下校の時間に流れてた」
「どういうことですか?」
 福田が会話に割って入り、俺は小学校の下校の時間になにが流れていたかという話をしたこと
を説明する。
「安倍さんのところはグリーンスリーブスだったって。福田のとこはなんか流れてなかった?」
「そうですね、そういえばなんか流れてましたね。あれは、そう、シルクロードのテーマですね」
 冗談なのか本気なのかがわかりにくいのはいつものことだが、下校の時間に合っているのはた
しかで、俺は本当のことと受け取る。
「それはすごいな。なんか悠久な感じがして」
98 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:33

「もうさくさん、たしかシルクロード大好きでしたよね。あと宗次郎でしたっけ、大黄河と。こういうの
が本物の音楽だって、なんかぐだぐだいってましたもんね。私、正座で聴かされましたから」
 正座させたのは覚えていないが、酔って音楽について熱く語ったときのことだろう。
 たしかにその二曲は俺の人生における名曲ランキングでもトップクラスで、その辺の下手なクラ
シックよりは確実に上に位置する。
 そういえば大黄河も、その郷愁を誘うような旋律で子供の頃の俺を泣かせた曲のひとつだった
か。トラウマ化したノクターンとは違うが、やはり俺からすれば神の曲に近い。
「シルクロードのテーマって、なっちも知ってるよ。リコーダーで吹いたことあるよ」
「ああ、そういや俺もなんか吹かされたな」
「私もありますけど、もうさくさん、リコーダー教育が嫌いでしたよね。あんなもんさせるから音楽性
が育たないんだって、評論家ぶってましたよ」
 それもやはり同じときのことだったか。
 しかし気になるのは、福田がやけに俺の話を持ち出すということ、やはりそこに嫉妬の気配を感
じずにはいられない。
「ああ、それはあれだ。酒に酔っての発言だし、それは許してくれ」
「もうさくさん、いつも本音を抑えてるから、酔うと言葉が過激になるんですよ。まあ最近は、諦観と
やらで普段から本音みたいだから、そういうこともないかもしれませんけど」
99 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:33

 福田の《それ》を確信し、しかしだからといってそれを阻止する意味も必要もなく、俺は普段通りに
対処する。
「ああ、本音で行動するようになって、すごい楽になったし、すごい幸せになったからな。おまえも諦
観すれば、いろんなわだかまりも溶けるんじゃないかな」
 安倍のことを意識していったことには福田も当然気づいて、俺の顔を強い目で見た後、それがで
きたら苦労はしないとでもいいたげに、はあ、とわかりやすいため息を吐く。福田もほかの普通の
人と同じように、日日、いろいろなものを背負い込み続けているのだろう。
 俺と福田との会話に興味を失ったのか、それともそれ以上の興味を哀愁漂う第二楽章に抱いた
のか、安倍がティーカップとソーサーを持って席を立ち、そのまま隣の部屋へ入って行く。

 リビングで二人になり、福田がやっと、明らかな怒りの表情を見せる。
「どういうことですか」
「なにがだ」
「なっちです。なんだかとても仲がいいみたいですけど」
「駄目か?」
「駄目じゃないですけど、なんでうまく噛み合ってるんですか」
「ああ、意気投合したっていうか、投合はしてないけど、なんか楽しくてな。俺と同じ側の人間だっ
て気づいて、そしたらなんか全部わかるようになってな。安倍の行動とか、気分屋なとことか」
100 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:33

 意味が理解できなかったのか、福田が首を捻り、俺は《その言葉》を使わずにそれを伝える。
「俺もあいつも、その気(け)があるってことだ。俺の場合は他人(ひと)に合わせようとばかりして、
そのせいでいつもぎくしゃくしてたけど、あいつの場合は生まれつき、他人に合わす努力をしない
ってだけで、タイプは百八十度違うけど、根っこはおんなじ。なんとなくわかるだろ」
 福田が考え込み、俺はその間につぶつぶいちごポッキーとやらを生まれてはじめて口にし、そし
てその合成された商品特有の味を紅茶で打ち消す。
「全然同じようにはおもえませんけど」
「ま、俺もひと昔前ならそうだったろうけどな。でもあいつは、自分が必要とすることだけを必要とし
てて、それってほんと、素晴らしいことなんだよな、わかってみると。もちろんそればっかりだと社会
の中じゃ浮いてしまうんだろうけど」
「もうさくさん、ほんとに人がかわったんですね。私なんかには理解できないところにまで行っちゃっ
たみたいで。それも素敵ですけど……」
 最後だけさらに小声になって、俺は珍しく素直さを発露した福田に戸惑う。
「なにいってんだか。おまえだってイケメンのカレシがいて、予備のカレシもいて、それ以外にもい
い寄って来る男がいて……」
 そこまでいって俺は意図して言葉を断つ。そのまま続ければ、たぶん俺は福田が納得するよう
なことをいってしまうに違いない。しかし、それは俺には必要のない話だ。
101 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:33

「まあいいや。とにかく、先週会って今日会って、安倍とはそれだけ。俺のことをよく知っている先
輩として、後輩を扱ってくれればそれでいいんじゃないかな」
「もうさくさん、なっちみたいな子もありなんですね。圭ちゃんみたいなタイプとか、圭織みたいなタ
イプとか、ほんと、わかりません」
「人間的にって意味なら、おまえだってタイプだろ。それも俺にとってかなりの、な」
「あんまり嬉しくないですけど、でも、そうですね、そういうことなら、ええ、わかりました」
 福田に対して必要だったのは、どうやら《人間的に》という言葉だったらしい。
 それは裏を返せば、俺が安倍を女性として見ているかどうかということを気にしていたということ
になるが、納得したのであればそれで十分、その日の俺が安倍のことを一人の女性としてかわい
く見ていたとしても、そんなことを福田に説明する必要はない。

 話が終わり、俺は自分の部屋へと移る。
 紅茶はデスクの上に置いてあり、安倍はアームチェアに座って躰を左右に振り子のように揺らし
ながら、流れて来る音楽にやや遅れてそのメロディを口ずさんでいる。
 今の興味はただそこにだけあるようで、俺は邪魔しないように静かにタバコとライターを取り、一
度リビングに戻って、そこから廊下ともう一つの和室を通ってベランダに出る。
 洗濯物が干してあるが、タバコの二本や三本ならどうということもない。
102 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:33

 スノコの上に座り、ミックスナッツの空き缶を引き寄せて、タバコに火をつける。
 丘の中腹にあるマンションの四階だが、それほど見晴らしがいいわけでもなく、ごみごみした都
会自体には幸せを感じない。ただ、都会で生きている自分は幸せで、結局俺は自分を幸せの塊
だとしかおもえない。
 ガラス戸を開けて福田が顔を見せ、断りもなく俺の横に座る。
「こんなとこでタバコですか。なんか昔のもうさくさんみたいですね」
「ああ、高橋んとこな。あんま覚えてないけど、あいつうるさかったから」
「私も一本もらってもいいですか」
「いいけど、これ一ミリだぞ。おまえならスカスカで全然だろ」
「なにいってるんですか。もうさくさんだって、昔はいつ死んでもかまわないとかいって、重いタバコ
平気で吸ってたのに」
 タバコとライターをそのまま福田に手渡し、俺は顔をそむけてから煙を吹き出す。
「ああ、タバコは必要じゃないみたいなんでな。つっても結局やめられなかったけど。でもま、あん
だけスカスカだった一ミリで今はクラクラだから、慣れってのは恐ろしいもんだ」
「私、もうさくさんに慣れるまで結構時間かかりましたよ」
「なんだそれ」
「それなのに、もうさくさん、なっちにはすぐ慣れたんですね」
 今度はそういう意味での嫉妬らしい。福田がタバコを咥え、ライターで火をつけてすぐに煙を吐く。
103 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:34

「おまえはいまだに慣れてないってことか。見てりゃわかるけど」
「不思議ですよね、人って……」
 そういってから福田が俺の肩にもたれかかり、その右腕は俺の左腕の、安倍が絶賛した腕まくり
の部分に絡みつく。
 俺はそちらにはかまわず、右手に持ったタバコを吸い、複雑に入り混じったたくさんの幸せの行
く末をおもう。なるようになるとして、俺にとって、こいつをどのように扱うのがもっとも必要か。
 俺はあっさり様子を見ることに決める。
「今日のおまえ、かなり変だぞ。いつも以上にって意味だけど。まるで男に捨てられたって話でもし
たいみたいな」
「圭織と紗耶香に会ったんです。別別にですけど。圭織の方は一人で、紗耶香は裕子と一緒に」
「なるほどな。そりゃそうなるか。飯田と市井から子供を見せつけられて、中澤からもなんかいわれ
て、おまけに保田も結婚して、完全に取り残されてる感じか」
「そんなはっきりいわないでください。結構なダメージなんですよ、そういうの」
 福田が正直に告げて、ふーぅという息とともに煙を飛ばす。
「女ってのは大変だな。特に独身の女ってのは」
「もうさくさんは、結婚とか考えないんですよね」
「必要なら考えるし必要なら結婚する。でも今は必要じゃないし、これからも必要とはおもえないな」
104 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:34

「御曹司の餘裕ですね。それともまだ、自分の血筋を残したくないとか、そんな馬鹿なこと考えてた
りするんですかね」
「御曹司とかいうなよ。そういうのはエレベーターのある家に住んでる奴のことをいうんだからよ」
「なに馬鹿な言い訣してんですか。全然笑えませんよ」
 自分でいいながら笑いかけてこらえたが、福田にいわれたことで我慢できずに俺はくくくっと笑い
の声を漏らす。
「ま、今は血筋だとかそんなことに興味はないし。必要なら結婚して子供作って、そういうのもあり
なんじゃないかな」
「結局どっちでも幸せ、どうせそんな感じなんでしょうね」
 ため息混じりにいって、福田がタバコの火を床にあてて消してから、ナッツの缶に落とし入れる。
 俺の方のタバコはまだまだもちそうで、俺はそのタバコを吸いながら福田の言葉を待つ。
 そこで会話が一度止まったが、福田が俺の腕に腕を通したまま、器用に二本目のタバコに火を
つけ、その最初の煙を吐いてから、顔を傾けて俺の顔を見る。
「私、今、すごい幸せですよ」
 女の顔で福田がそんなことを口走って、俺は必要もなく、それを否定する。
「俺がいなくても幸せなら、幸せなんだろ。でも一人でベランダでタバコ吸ってて、それで幸せだって
おもえるかっつったら、おまえには無理だろ」
 福田の甘い顔が一瞬で渋い顔になり、同時に嫌がるように腕をほどいて俺から離れる。
105 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:34

「なんでですかね。そこで俺も幸せって、なんでいえないんですかね、この人は……」
 どうやらかなり怒ったらしいが、今さら俺にそんなことを求める方がどうかしている。
「普通じゃないからだろ」
「そんなはっきり答えないでください。わかってますよそんなことくらい」
 まだ吸いはじめたばかりのタバコの火を福田が消し、今度はナッツの缶に投げ入れて、立ち上
がる。俺も短くなった一本目を消すが、二本目をどうするかはまだ決めていない。
 福田が俺を見下ろし、ゆがんだ顔でいう。
「ほんっと、なんでなんですかね……。もうさくさんももうさくさんですけど、私も私です……。私、今
日はもうさくさんに甘えるために来たんです。なのに、もうさくさんはなっちといて、それもすごい楽
しそうにしてて。私、馬鹿みたいです。もうさくさんに甘えようなんて、なんでそんなこと考えたのか、
全然わかりません。ほんっと自己嫌悪です。私、最低です。ごめんなさい、今日はもう帰ります」
 いいたいことは全部いったようで、俺は戸惑うよりもそのことに安心する。
 二本目はお預けにし、消えた福田のあとを追う。しかしそれは引き留めるためではなく、単に見
届けるため、勝手に帰ったとなると福田もあとで気分が悪くなるだろう。そんなことはアスペの俺に
だって予想できる。

 無言で顔を合わせてから福田が帰り、俺はドヴォルザークの演奏に戻る。
 もう第三楽章に入っているが、新世界を象徴する主題はまだ姿を表してはいない。なんとももっ
たいぶった曲で、大昔に買ったCDで名盤ではないこともあるが、最近ほとんど聴くことがなかった
のはその詰め込みすぎた展開のせいだろう。
106 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:34

「あ、ねえ、紅茶のおかわりもらってもいい?」
「ああ、ちょっと待ってて」
 リビングに戻り、安倍もティーカップを持ってそれに尾いて来る。
「福ちゃんは?」
「ああ、なんか帰るっていって帰ったよ。精神衛生的に不安定な日だったらしい」
「そっか。もっとお話ししたかったんだけど、まあいっか、福ちゃんいつもそんなだし」
 福田とは違って、安倍は福田のことをちゃんと理解しているらしい。福田が安倍に勝てないのも
当然だろう。
 安倍のカップに紅茶を淹れ、自分のカップにも満たし、それから椅子に座って尋ねる。
「ところで、どうかな。まだ途中だけど、新世界」
「うん、なんかね、映画みたい。いろんなシーンがあって、どんどん進んでくの」
「ああ、たしかにそんな感じか。この先にもまだ一番のクライマックスが残ってたりするし」
「でもね、退屈なときもあるの。なんかね、かっこいい感じのとことか、ちょっと悲しい感じのときは
すっごいいいんだけど、そうじゃないときはね、なっち居眠りするの」
 苦笑する。そこまで素直にいわれると、こっちも素直に返した方がいい。
「まあクラシックってのは、基本的に退屈だからね。でもだからかな、それを退屈じゃないっておも
えるような曲がたまにあって、そういう曲や演奏に出会えると、すっごい嬉しいんだよね。ほら、先
週聴いたタリス・ファンタジアなんて、ずーーっとおんなじ感じで退屈だけど、聴いてると十五分が
あっという間で、そういうのが不思議なんだよね」
107 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:35

「そっか、退屈でも別にいいんだね。なんか安心した」
 安倍が笑って、俺はそれに補足する。
「うん、音楽の授業なんかで一番いけないところがそれなんだよね。最初にさ、クラシックは退屈で
すって教えてあげたらいいのに、クラシックは素晴らしいとか、高尚だとか、そんな変なイメージつ
けるもんだから、誰も興味持たなくなっちゃう。退屈な中からそうじゃないのを見つけ出すのが楽し
いのに」
「おお、もっちーすごいね。ほら、福ちゃんがいってた、評論家みたいだって」
 ちゃんと話は聞いていたようで、俺は笑ってそれを受け入れる。
 福田のカップをキッチンに下げ、電気ケトルに水を入れてボタンを押してから、席に戻る。
 安倍がポッキーを齧りつつ紅茶を飲み、俺も紅茶を飲んでいたところで、ようやく第三楽章が終
わる。
「次が第四楽章、一番有名なとこだよ」
 安倍が口は閉じたままうんうんと頸突いて、曲のはじまりとともに目をぱっちりと開く。
 映画『ジョーズ』のテーマ曲と酷似した緊張感のある冒頭の部分から、やっとのこと新世界の主
題が登場する。
「おお、これかあ。知ってる知ってる。これ聴いたことあるよ」
 安倍が楽しそうにいうが、俺の方はというと、期待とは違って迫力がまったく感じられず、どうに
も不満が募る。
「うーん、もっと迫力のある曲だとおもったんだけど……」
「なっちはすごいとおもうよ。ほら、ロックみたい」
108 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:35

 俺があまりに渋い顔だったせいか、安倍が首を傾げ、それを見た俺はおもいきって音楽を消し
に行く。
「ちょっと待ってて。もっとましなの探してみるから」
 部屋に戻ってパソコンをつけ、起動してすぐに動画サイトで検索する。
 綴りがわからなかったが、《Dov》で駄目なら《Dvo》、といった手法で名前を出し、その一番最初
に表示される《symphony 9》がおそらく新世界、そこに《4》を足して一覧を出す。
 パソコンのスピーカーをオーディオのスピーカーに切り替えてから、動画をクリックする。
 カラヤン指揮、ウィンフィルハーモニー、まず間違いはないとおもったが、しばらく聴いてみるも、
スピーカーから流れて来るのは同じような不満な演奏で、俺は自分の記憶を疑い出す。
「どうしたの? 音楽止めちゃったの?」
「うん、ちょっと待ってて。絶対もっとましなのがあるはずだから」
 次の動画をクリックするも、それもやはり似た感じで、その次もその次もどれもぱっとせず、俺は
安倍の心配をよそに、ひとり唸ってから、閃いたその言葉を文字として入力する。
 シカゴ交響楽団、綴りは《Chicago》――。
 スピーカーから曲が流れる。硬く切迫感のある冒頭、そして、鋼鉄のような攻撃的な主題。管楽
器の圧倒的な力強さに弦楽器も飾り気を投げ棄て、全体がひとつの方向を示す。
 俺はアームチェアを回転させ、ベッドに座った安倍の方を向いて、納得したことを伝える。
「これこれ、こういう感じ。こういう迫力がほしかった」
109 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:35

 俺の行動が驚きだったのか、安倍が口先を縦にすぼめ、でも理解はしたらしく、うんと頸突き返
す。
「そうだったんだ。うん、でもすごいよ、なっちにもなんとなくわかるもん。さっきのとはちょっと違っ
てて、うん、こっちの方が歯切れがよくて、迫力があるよ」
 音楽に納得し、安倍の言葉にも納得し、俺はスピーカーに躰を向ける。
 さっきのまま聴き続けていたら、たぶんこれから先、俺はドヴォルザークを好んで聴こうとはしな
かったはずで、やはりクラシックの醍醐味はそこにある。いかにして自分好みの曲や演奏と出会
うか、クラシックは決して受け身の音楽ではなく、聴く側にこそ選択が任される。
 曲の最後まで聴き終え、俺はふたたび安倍の方を向く。
「なんかごめんね。さっきのは納得いかなくて、でも今のはすごい満足できて、安倍さんのおかげ
かな」
「うん、なっちもね、すっごい迫力があってかっこいいっておもったよ」
「そっか」
「でもすごいね、全然違うんだ、おんなじ曲なのに」
「最初に聴いてたのは、悪いってわけじゃないんだけど、はっきりいえば下手な演奏かな。それで
次に聴いたのがウィンフィルっていって、世界でも超有名なオーケストラなんだけど、優雅で華や
かな曲はいいんだけど、柔らかすぎて全然合ってなくて。それで今聴いたのが、シカゴ交響楽団っ
ていって、硬派で精密機械みたいな演奏をすることで有名なオーケストラ。普段はほとんど聴かな
いんだけど、今のはすっごいよくて。しばらく毎日聴き続けるとおもうよ」
110 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:35

 俺が笑うと安倍も笑って、俺は安心しつつ、安倍が自分のことをどうおもうかということを気にし
ている自分に気づく。
「すごい深いんだね、クラシックって。なっちね、全部おんなじだとおもってたよ」
「深いのか浅いのかはわかんないけどね。だって、自分の好きな演奏だけ聴いてればいいんだか
ら」
「もっちーってやっぱりすごいね。なっち本当にはじめてだよ、もっちーみたいな人」
「そうかな?」
「うん、すごいこだわりがあって、すごいセンスがよくて、それにすっごい優しくてかっこよくて。今も
ね、すっごいかっこよかったんだから。これじゃない、これでもないって」
 面と向かっていわれるとかなり恥ずかしいし、普通の人からすれば病的な行動に見えたかもしれ
ないが、昔のように自分を卑下する必要はなく、俺は嬉しい気持ちをそのまま肯定する。
「ありがとう。安倍さんだけなんだよね、そういってくれるの」
「みんなおかしいんだよ。もっちーのよさがわかんないなんてさ」
 安倍が平然といってのけ、でも自分の言葉になにかひっかかったようで、安倍は首を捻ってから
言葉をつけ足す。
「でも、梨華ちゃんも福ちゃんも、もっちーのこと好きだから会いに来るんだよね? じゃあなっち
だけじゃないのかもね、もっちーのよさ、わかってるの」
111 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:35

 その言葉がなにを意味するのか、そのことを考えてもよかったが、俺は軽く、わずかに頸突いた
だけで、深くは考えないことに決める。
 安倍が俺のことをどうおもっているのか、福田や石川がどうなのか、そして俺自身はどうなのか、
そんなことはこれからどうとでもなることで、俺はその都度それを楽しめばよく、わざわざ答えを用
意しておく必要はない。

 タクシーを呼ぼうとしたが安倍はそれを必要とせず、俺は安倍をバス停まで送る。
 焦げ茶色のメガネにそばかすの女の子がじゃあまたね、と告げてバスに乗り込み、俺も、ああま
たな、と答える。
 日はまだまだ高く、俺はその日射しに目を細め、噴き出した首筋の汗をハンカチで抑えながら、
これからどうすべきかを考える。
 とりあえず、近くの酒屋に行って、いつもの缶チューハイのケースを買い、それを抱えて坂を上り、
階段を上り、部屋に帰ってシャワーでも浴びて、そして新世界をもう一度最初から聴き直す、今の
俺に必要なのは、結局はそんなことだろう。
112 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:54

 *****

 自分の好みに徹した精粋な部屋が、社交界入りの審査を待つ控室のように感じられるのは、隣
の部屋から流しているシューマンの交響曲第三番のせいではなく、二人のその装いが原因だろう。
 灰色を基調としたカジュアル風のワンピースドレスに、肩をピンク色のスカーフで覆って前で結び、
木の葉の形のカチューシャをしているのは石川で、黒色のエレガント風のトップスに黒色の膝上の
フレアスカート、さらに黒色のタイツという福田。しかしなぜかベルトだけが白色の豹柄で、喪服で
はないというアピールのつもりか、その前衛的なセンスでは審査の結果を待つまでもない。
 その福田は前回のことがあってか、あるいはその化粧のせいか、冷徹さを皮膚に塗り込めたか
のように無表情だが、石川の方はそれとは対象的にうきうきと楽しそうにしている。俺にコネがあ
れば社交界入りは確定だろう。
「それで、ポリーニさんなんですけど、すっごくいいんですよ。絶対、もうさくさんも気に入りますよ。
もしそうじゃなくても、絶対に気に入ったっていわせますから」
 強気にそういって、石川が笑う。
 保田の婚前パーティもどきに出席して悪い刺戟でも受けたか、そこで悪いアルコールでも飲まさ
れたか、それともここ三日間ほど続いている俺への直接の電話で、俺のことを身近に感じるように
でもなったか――。悪い傾向ではないが、俺にとって必要な傾向ということでもない。
113 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:54

「最近、石川さんのおかげでショパンとかピアノ曲とか聴くようになったけど、ポリーニって名前はた
しかによく見かけるね。名盤の聴き比べサイトとか、ショパンだと必ずってくらい」
 いってから紅茶を静かに口にし、石川も紅茶をすすすっとすすってから言葉を返す。
「そうなんですよ、私もそれで買ったんです。ショパンのエチュードはこれで決まりって」
「でもどうかなあ。俺の場合は元元がピアノの小品は苦手だし、おまけにエチュードだし」
「でも別れの曲が入ってるんですよ」
 石川の自信たっぷりな言葉に、俺は曖昧に頸突く。
 実は電話でそのCDを買ったという話を聞いたあと、俺は動画サイトで聴き比べをして、ポリーニ
の別れの曲を聴いている。音源が同一かどうかはわからないが、なんとも味気ない、魂の抜けた
ような演奏というのが正直な感想で、俺の趣味でないことだけはたしかだ。
「別れの曲は好きだけど、なかなか好みの演奏って見つからないんだよね。重すぎたり軽すぎたり
して。俺が持ってるのは廉価版のCDで演奏者不明のやつだけど、それが一番よかったりするし」
「そうなんだ」
「うん。あ、でもそうだな、いつの演奏かはわからないけど、動画サイトで聴いたホロビッツは、静か
な嵐って感じで、すごいっておもったけどね」
「その人知ってますよ。ボロビッツっていわれた人ですよね。クスリでボロボロになっちゃったって」
「そうらしいね。よくは知らないけど」
「うちにレコードがあったんですよ。ホロビッツさんの」
「そうなんだ」
114 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:54

「でもレコードプレーヤーがなくて、聴けないんです」
 石川がおかしそうにいって、自分で笑う。
「そりゃ残念だな」
「ですよね。だって、レコードはあるのに、聴けないんですよ?」
 どうやら大事なことらしく、石川がふたたびおかしそうにいって、俺はそのことに苦笑する。
 二人の二人だけの会話に福田はまったく入って来ず、魔法のランプで紅茶を自分で足しては、モ
ネの絵を眺めながらをそれを静かに飲む、というのを繰り返している。優雅な趣味に目覚めたので
あれば歓迎だが、単に行き場がないだけ、さすがに石川に嫉妬しているわけではないだろう。
 石川が笑い終えて、隣の部屋をちらりと見てから口を開く。
「もうさくさんのオーディオ、レコードは聴けないんですよね」
「うん、レコード持ってないからね」
 俺の言葉に、石川が口先を一度すぼめ、それから笑顔を浮かべて頸突く。
「じゃあCD、今度貸しますから。ポリーニさんのエチュード、絶対聴いてくださいよ?」
 いたづらっぽく石川がいって、俺は笑って、ああ、と答える。
 石川が紅茶に手を伸ばし、そこで話が止まったのを確認してから、福田に声をかける。
 気を遣ったわけではなく、俺にだって訊きたいことくらいはある。
「なあ福田、今日のパーティとやらはどうだったんだ。見た感じ、かなり気合い入ってるけど」
 福田がカップを置いて、睨むように俺を見る。
115 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:55

「最低ですよ。楽しかったですし、料理もまあまあでしたけど、でもほんっと、最低ですよ。本当に置
いてかれたって感じがしましたから。ええ、とってもみじめですよ」
 俺が笑って、石川も笑う。石川はおそらく冗談だと受け取ったのだろうが、福田のこの口調は完
全に本気モード、昔の俺よりも自虐はうまい。
「まあそうだよな。どうせ中澤とか市井とかもいて、またなんかいわれたんだろ」
 福田は答えず、ゆっくりと紅茶を飲み、その様子を見た石川が俺に答える。
「今日は保田さんのお友達で、独身の女の子だけの集まりだったから」
「そうなのか。そりゃある意味、自慢パーティだな」
「うん。だから私たち二人だけ。あ、でも人はたくさんいて、最初の方は麻里子さまとかもいたよ」
「マリコサマ?」
「駄目ですよ、この人たぶん知らないですから」
 福田が面倒くさそうにいい、石川が意外そうに俺を見る。
「AKBの篠田麻里子って、知りませんか?」
「名前は聞いたことあるけど、どうだろね。今はそういうの知らないから」
「そうなんだ。おもしろかったんだけどなあ。保田さんのこと、ケイ姉って呼んですっごい慕ってるの。
私も一緒にお話して、愚痴とかも聞いちゃった」
 想像するに、保田のガールズコレクションの一人といったところで、石川と福田もそのメンツに含
まれるということなのだろう。独身であれば安倍や後藤なんかが呼ばれていてもおかしくはないが、
石川の《二人だけ》という言葉は、そこに審査があることを物語っている。
116 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:55

「独身の子ばっかってことは、もしかしてビビアンも来てたりしたのか。まだ独身だったろ」
 俺の興味の矛先に福田がうんざりしたような顔をし、仕方なくといった感じで答える。
「ビビアンは来てませんでしたけど、そうですね、もうさくさんでも知ってる人なら、内山理名がいま
したよ。圭ちゃんのこと、裏切り者ーって叫んで、すごい盛り上がりましたから。ちょっと怖かったで
すけどね」
「ふーん、あんま興味ないけど、そらたしかに、おもしろそうだな」
「あ、そういえば圭ちゃんから、もうさく先生によろしくって。また教えに来てほしいっていってました
けど、なんのことですか」
 福田が怪訝な目で俺を見て、俺は素直に目をそらす。
「ああ、なんだ、以前にちょっとな」
「ちょっと、なんです?」
「ちょっとだけ、教えたことがあってな」
「なにをです?」
「うーん、知らないかな、あいつ二年くらい前、ヴァイオリン習ってて、今はどうか知らないけど」
「初耳です。フルートじゃないんですか?」
「フルートに飽きたんだろ。そんでまあ、暇なときでいいから、教えに来てくれってな」
「それで、行ったんですか?」
「ああ。ビビアンに会えるかも、とかあいつがいうもんだからな。結局一度も会えなかったけど」
「ビビアンの話はいいですから、そっちの方をちゃんと話してくださいよ」
117 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:55

「だから、それで教えに行っただけ。でもあいつやる気ないのな。全然練習してないくせに、目標だ
けはすごくて、G線上のアリアとか、ベートーヴェンの春とか、そのうち弾けるようになると本気で考
えてるみたいでな。だから一喝してやった」
 福田と俺の会話に今度は石川の方が入れなくなり、恐る恐るといった感じで俺に尋ねる。
「あのぉ、えーと、もうさくさん、もしかしてヴァイオリン弾けるんですか?」
 この話題には深入りしたくないが、ここまでいった以上は答えるしかない。
「定義にもよるけど、雑音を出す程度でいいなら、弾けるんじゃないかな」
「そうだったんだ」
 石川が驚きの声を出し、福田がねちっこい口調で補足する。
「人生で最大の未練らしいですよ」
「違う。人生で唯一の未練だ」
「どっちも同じじゃないですか」
「全然違う。人生で唯一の未練だ」
「はいはい。ならそういうことにしときます」
 呆れたような福田の表情とは違い、石川の表情はなんだか素敵なものを見つけたといった感じ
で、俺はその期待にいたたまれなくなる。
 他人(ひと)からどうおもわれようが俺には関係ないが、この未練だけは自分の中に燻ぶり続け
ていて、諦観の範囲外、《唯一》という表現の理由はそこにある。
118 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:56

 石川がなにかいってくる前に、俺は自分から説明する。
「弾けるっていっても、その辺の小学生の方がよっぽどうまいくらいで、ほとんど練習しなかったせ
いだけど、永遠の初級者っつって、簡単にいえば挫折組。モーツァルトのコンチェルトとか、チゴイ
ネルワイゼンとか、ヴィターリのシャコンヌとか、そういう曲にはまったく手が届かないレベルで。で
もまあ、保田の場合は完全な初心者だから、俺でも教えられたっていうか」
「でも、聴きたいなあ。もうさくさんのヴァイオリン」
 完全にうっとりモードに入った石川に、俺は渋い表情を浮かべるしかなく、福田がそこで助け舟
を出す。
「無理ですよ。この人、絶対に人には聴かせませんから。私も聴いたことないですし。まあ、圭ちゃ
んはもうさくさんにとって、ト、ク、ベ、ツ、な、人みたいですから」
 味方をしたかとおもえばそうでもなく、どうやら俺の弱点を見つけて復讐に乗り出す気にでもなっ
たらしい。
「別に保田にも聴かせたわけじゃないからな。あいつが弾いてそれを指導しただけ。ただまあ、あ
いつが得意げになって自慢するもんだから、それでちょろっと驚かせてやったりはしたけど」
「その話、もっと聞きたいナ」
 石川がかわいらしくいって、俺は覚悟を決める。どうせ今日は保田の話をすることは決まってい
たし、それなら俺も保田とのことをすっきりと吐き出しておいた方がいい。それに、自分の中にこっ
そりしまっておくような美しい過去というようなものでもない。
119 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:56

 ちょうど退屈すぎるシューマンが終わったところで、俺は待ってて、と告げて隣の部屋へ移る。
 クローゼットの二軍のCDの中からミッシャ・エルマンの老年期の小品集を取り出し、それをオー
ディオにセットし、石川を部屋に呼ぶ。
「ゴセックのガヴォットっていって、ヴァイオリン習ってた人なら必ず弾く曲なんだけど、これを保田
のやつがね、先生に褒められたとかなんとかいって、自慢げに弾きやがって」
「すごーい、保田さん、こんなの弾けるんだ」
「ここまでうまくなくていいなら、毎日三時間みっちり練習すれば、三年くらいで餘裕で弾けるように
なるとおもうよ。でもあいつ、週に一時間も練習しないのな。まあ、舞台の仕事とか、一カ月休みな
しで、終われば一カ月休みとか、そんな感じみたいだから、暇なときにまとめて練習してたのかも
しれないけど」
 二分もしない曲ですぐに次の曲にかわり、俺はオーディオを止めてパソコンを操作する。
 シューマンのままになっていた動画サイトに曲名を片仮名で入力し、適当に動画をクリックする。
スピーカーはパソコンに戻し、わざわざオーディオで聴く必要はない。
「これ、六歳の子だけど、正直、保田よりも百倍はうまい。この子なら三年で俺を追い抜くかも」
「へえ、かわいいですね、なんか」
 曲が終わると、もうひとつだけ別の動画をクリックする。
「今度は七歳か。うん、これこれ。さっきの子よりも全然下手だけど、それでも保田よりはうまい」
「でもかわいいですよ、一生懸命に弾いてて」
120 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:56

「ああ、俺もこんな感じだったのかもなあ。力がガチガチに入ってて、音がきたないし、速い部分は
ごまかして弾いてるし。こういう癖は早く直してあげないと、俺みたいになる」
 石川が笑っていいのかどうか、というような困った表情を浮かべ、俺は素直に笑ってみせる。
 次にお気に入りメニューから、昔作ったレッスンフォルダを開き、無名音大出のヴァイオリン教師
のサイトへ行き、見本の動画を再生する。
「これが一般的に、ヴァイオリンが弾けますってレベル。まあ指導する側だから、それよりも確実に
上だけど。それで、さっきの子供のは、楽譜でいえばスズキの一巻に載ってるやつで、半年か一年
くらいで弾けるようにしてあるやつ。こっちのは白本(しろほん)っていう教本ので、三年くらいかな、
まじめに練習すればの話だけど。違い、わかるかな」
「うーん」
「調も違うんだけど、弾き方が全然違ってて、ほら、弓を跳ねさせるようにして弾いてるよね。それ
に重音も入ってるし、ポジションも使ってるし、それにここから、ダウンのスラースタッカートっていっ
て、実は俺も弾けないんだけど、結構いろんな技術を使う難しい曲なんだよね。まあ俺にとっては、
だけど」
「そうなんだ」
「うん、それなのに保田のやつ、ヴァイオリンの名曲を楽勝で弾けるようになったとか自慢するもん
だから、それでちょっとむかついてね、弾いてやったわけ。こんなふうに人に聴かせられるレベル
ではないけど、お灸を据える感じで。毎日三時間練習すりゃすぐ追い抜けるっていって」
121 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:56

「でも三年なんですよね?」
「うん、一日三時間だから一年で千時間、三年で三千時間。自分の中ではそれが基準というか、
中級者になるにはそれくらい必要かなって。大体順調にうまくなってくやつは、毎日三時間は練習
してて、俺とか、ヴァイオリン教室で一緒に遊んでた落ちこぼれ連中は、多くても週に三時間とか、
下手すりゃ練習ゼロとか、そりゃ差がつくよね。だから未練なわけ。七倍練習してりゃ、今よりも七
倍うまくなってたわけだから。だからかな、保田に厳しいこといったりしたのも」
「うーん、でも、未練なら、もうさくさん、弾いちゃえば?」
「ん?」
「だって、保田さんだって練習すればうまくなるんだし、もうさくさんだって、ね?」
 たしかにその通りだが、ただ弾いてみたいというだけのやつとは根本から違い、この歳になると
本気の三千時間の壁は厚い。
「いや、実はね、この部屋に越して来たとき、せっかく防音だからって、半年ほど練習してたことが
あって。休みの日は三時間とか四時間とか、忙しい日でも音階練習だけ三十分とか。はじめて本
気で練習したんじゃないかな」
「そうなんだ。すごいすごい」
「でもブランクが長かったからね。はじめた頃よりはうまくなったけど、それでも昔弾けてた曲が弾
けないままだったりして。弓の持ち方をかえたりとか、カイザーっていって、練習曲を一から弾いた
りもしたんだけど、結局は挫折して。それでまあ聴くだけの側に回ったというか、それからだね、今
みたいに毎日クラシック聴くようになったのは」
122 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:56

「そっか。でもうーん、やっぱり聴いてみたいナ」
 石川がまたもかわいらしく語尾を上げる。
 乗せようとしていることはわかっているが、石川にそこまでおねだりされると、また練習を再開し
てみてもいいかもしれないという気になってくる。
 そうでなくとも、ここ最近、俺は石川にクラシックを教えるためにクラシック漬けの毎日を送ってい
て、その短期間にも多くの発見をしている。石川がいなければ、俺はそれらを知らないまま一生を
すごしていたかもしれない。
「そうだな。いつかそんな日が来れば、それはそれでいいんだろうけど。でも、今は無理だね。クラ
シックの先輩として、石川さんに笑われるようなことはしたくないから」
「そんなあ、私、笑いませんよ?」
「それじゃ、この話題は終わり。なんか聴きたい曲とかあったら、リクエストしていいよ」
「あ、じゃあヴァイオリンの曲」
「いうとおもった」
 石川が笑って、俺はほっと安堵の息を吐く。
「石川さん、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は聴いたことあるかな」
「どうだろ」
「のだめのドラマで水川あさみが弾いてたけど。覚えてないか」
「うーん、聴けばわかるかも」
「じゃあそれね。俺の大の一推しの神尾真由子だけど、このCDの演奏はそこまでドロドロじゃない
から、聴きやすいとおもうよ」
123 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:57

 曲を流してからリビングに戻る。しかし福田の姿はなく、石川が俺の顔を見る。
「あれ、福ちゃんがいない」
「一人にして拗ねたかな」
「うーん、おトイレかな?」
 椅子の上にはバッグが置いてあるから、前回のように帰ったわけではないだろう。
「あっちのベランダでタバコかもな。なんか本気で落ち込んでたみたいだし。保田が酷なパーティ開
いたりするもんだから」
「そっか。うん、そうなんですよ。福ちゃん、今日ずっと静(しづ)んでて、私もちょっと心配してたんで
す。元気ないなって」
「カレシとなにかあったんじゃないかな。聞いてない?」
「うーん、そういう話は全然しないから。いるのかいないのかも」
「そうなのか。あいつ俺にはいろいろいうけどな。カレシが何人もいるとか、まあ嘘か本当かは知ら
ないけど」
 石川がわかりやすく首を捻り、なにか嫌な予感がして、俺は話題を戻す。
「とりあえず、そのうち戻って来るだろうから、曲でも聴こうか。紅茶も冷めちゃったし、淹れ直した
方がいいね」
 キッチンへ向かい、電気ケトルでお湯を沸かし、冷蔵庫からチョコレートの詰め合わせを取り出
す。この前、姉からもらったものだが、今日の二人の服装にはお似合いで、最初から出しておくべ
きだったかもしれない。
124 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:57

「これ、うちの姉からもらったチョコだけど、よかったら食べて。俺、あんまりチョコは好きじゃないん
だけど、これはいけるから」
「はーい、いただきまーす」
 フォークを出す前に石川が手で摘んで口に放り込み、俺はおもわず笑って、フォークを諦める。
 キッチンへ戻り、魔法のランプに新しい茶葉を入れ、沸いたばかりのお湯を注ぎ、それを持って
すぐに戻る。
「これ、すごい美味しいですよ」
「ああ、俺もそうおもう」
「そういえば、もうさくさん、お姉さんがいるんですか?」
「うん。姉は一人。あとは兄が二人いたけど、今は一人か」
 石川がなにかいいかけたところで、福田が戻って来て、テーブルの上のチョコに気づく。
「そのチョコ、私も好きですよ。もうさくさんちで、それだけは昔から別格ですから」
「へえ、そうなんだ」
「でもあんまりお姉さんの話は訊かない方がいいですよ。この人、ものすっごいシスコンですから。
理想の女性がお姉さんで、理想のカノジョがお姉さんで、理想のお嫁さんがお姉さんって、平気で
そんなこといってましたからね。お姉さんが結婚したとき、号泣したらしいですよ」
 訊かない方がいいといいながら福田が全部話し、さすがに石川の表情も少し固まって、俺は言
い訣をするはめになる。
125 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:57

「別に姉が好きでもいいだろ。俺の唯一の味方だったんだから。それに今だって、俺がチョコ嫌い
だけどこのチョコは大好きって知ってて、それで定期的にくれたりするし。優しくて弟想いのいい姉
だろ」
「十年間もですよ。弟にチョコ。私がもうさくさんに出会った頃から、このチョコありましたもんね」
 俺は気づかれないくらいに静かに息を吐いて吸って、気分を落ち着かせる。
 福田は俺を怒らそうとしていて、姉のことを悪くいえば俺が怒るということも知っている。わざわざ
その挑発に乗ることはないが、姉を誤解されることだけは全力で阻止する必要がある。
「ああ、俺の性格を一番理解してくれてるからな。俺が好きなものにだけのめり込むタイプってこと
も知ってるし、チョコもそう。俺が自分で自分の性格を理解したのなんてつい最近なのにな。モネの
絵を飾って、パキラに水やって、好みのクラシックだけ聴いてりゃそれで満足って具合に」
 冷静に答えたつもりだったが、やはりむきになっていたのか、福田が勝ったというような不敵な表
情を俺に向け、石川が困惑の表情で俺と福田の顔を見比べる。
「うーん、でも、いいお姉さんなんじゃないかな?」
「うん、いい姉だよ、本当に。福田さんちのお姉さまとは大違いで」
 俺の反撃に福田が眉間をゆがませる。
「ええ、うちはごくごく普通の姉弟(きょうだい)ですから」
「ああ、うちはかなり特殊な姉弟だからな」
「あ、えーと、でも、私も会ってみたいな。もうさくさんのお姉さん。どんな人なんだろって」
 石川が仲裁に入り、俺は福田を無視して石川にだけ答える。
126 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:57

「雰囲気はなんとなく石川さんに似てるよ。優しくて爽やかで、でも芯のあるお嬢さまって感じで。も
うお嬢さまって歳でもないけどね」
「じゃあやっぱり会ってみたいナ」
「そっか。うん、それならそれもいいんじゃないかな。うちの姉、中澤さんと親友だし、この前も三人
で食事したし」
「そうなんだ。すごぉい」
「石川さん、中澤さんと仲悪いとか、そういうことないよね?」
 念のために訊いたのだが、石川はぶふっと鼻から笑いの息を漏らし、そのことも含めてだろう、
おもしろそうに笑う。
「もぉ、そんなことあるわけないじゃないですかぁ。中澤さんはチャーミーの味方ですよ」
 味方ということはほかに敵もいるということになるが、それは俺には関係のない話で、俺は笑って
頸突く。
「そっか。でもあの二人、いつもいきなり誘って来るんだよね。だからちょっと難しいかも。それに中
澤姉さんの方は、俺をいじめるのが楽しくて呼ぶみたいだし」
「そうなんだ。残念だなあ」
 昔の自分なら、そこで諦めずに中澤を抜いた三人で、というようなことを試みたかもしれないが、
今の俺はそれを不要と判断する。石川の発言はある種の社交辞令、俺と福田の罵り合いを止め
ようとしてのもので、会ってみたいという気持ちがゼロではないにしても、会わせたところで俺が得
るものはなにもなく、石川にとっても面倒くさい約束にしかならない。
127 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:58

 曲は早くも展開部の独奏部分に入っていて、俺がひそかに《泥沼の女神》と呼んで敬愛している
神尾真由子が来(きた)るべきカデンツァに向けて渾身の演奏をしているが、隣の部屋から流して
いるせいでそれほど迫力は感じられない。オーケストラなどの全体的な響きはいいとしても、弦楽
器の独奏はやはり正面で聴く必要がある。
 曲の話題をしようかともおもったが、石川はあまりチャイコフスキーには興味がないらしく、俺は
空いた分のカップに紅茶を注ぎ、それからチョコを摘んで口に入れる。
 そんな俺の様子を福田がカップに手をかけたまま、じろりと見て、唐突に切り出す。
「もうさくさんも、早く結婚した方がいいですよ」
 意味も意図もわからず、俺はチョコを噛み、砕き、溶かし、すっかり呑み込んでから、疑問を声に
出す。
「なんだそれ」
 福田の方も紅茶を静かに口にし、カップを静かにソーサーに置いてから、ゆっくりとした口調で答
える。
「最近のもうさくさん見てると、なんだか、心配です。自分では幸せなんでしょうけど、お姉さんみた
いな人、本気で見つけて、それで終わりにしたらどうですか」
 また姉の話題かと警戒するも、今度は悪意はなさそうで、しかしやはり意味がわからない。
「まったく意味がわからないんだけど」
 とりあえずそういって、福田の出方を待つ。
 しかし福田はすぐには答えず、なぜか石川の方を見て、それからモネの絵に視線を移し、さらに
部屋をゆっくりと見回してから、ようやく俺に目を向ける。
128 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:58

「なんだか、死に急いでるみたいです。もうさくさんも、この部屋も」
 嫌がらせなのか率直な感想なのか、どちらにしてもどきりとする発言で、俺は紅茶をゆっくりと飲
んで、その真意を考える。別に福田に対抗しているわけではなく、こういうときのダージリンは思考
には最適、日本茶よりも熟考には向いている。
 俺は福田と同じように部屋を見回す。
 たしかに殺風景ではある。
 それに、いつ死んでもかまわないというのも事実で、それは俺の諦観とも無縁ではなく、だからこ
そ俺は毎日を幸せに生きている。
 だが、なぜそこで《結婚》という言葉が出て来るのか。
 最近の福田がそれに焦っていることも、俺にその苛立ちをぶつけていることもわかるが、だから
といって俺には関係のない話、まさか福田を一度でも抱いたことのある男として、なんらかの責任
を取れと求めているわけではないだろう。
「あ、えーと、福ちゃん?」
 俺以上に理解に苦しんだらしい石川が声を出すが、今は黙っているのが正解だろう。
 福田は石川には答えず、俺と同じように紅茶を悠然と飲む。
 結局、福田の狙いはわからず、石川をこれ以上困らせるわけにもいかず、俺は諦めていつもの
ように答える。
「うちの姉みたいな人がいたら、そりゃ結婚してもいいけどな。でもあいにく、そういう人はなかなか
いないからな。飯田さんに離婚の予定でもあれば別だけど」
 俺の出した名前のせいだろう、福田がようやく表情を軟化させるが、それでも今日の化粧は鉄の
ように硬い。
129 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:58

「また圭織ですか。それ、うんざりですよ」
「ちょっとおもい出してな。うちの姉以外で理想の女性ってやつを」
「だったら、とっとと結婚でもしてればよかったんですよ。あれだけ慕われてて、なにやってたんです
か」
 真顔でいわれると、苦笑するしかない。
 福田がいうくらいだから、慕われていたのは客観的に見ても事実だろうが、俺が飯田と再会を果
たしたときにはすでに飯田には男がいて、その男が今の旦那になっている。俺がなにかしたところ
でどうにかなった話ではないし、当時の俺は今の俺ではない。
「おまえも知ってるだろ。俺、美人には弱くてな。目の前にいるとどぎまぎして、なにもできなくなる」
 福田が首を左右に傾ける。漫画ならコキッコキッと肩の音が鳴ったに違いない。
「ええ、私といるときは全然そんなことないですもんね。そんなのとっくに知ってますよ」
「あ、ねえ、福ちゃん? もうさくさん?」
 石川がふたたび割って入る。かなりうろたえているらしいが、俺だってそれは同じ、福田の頑固さ
は俺や市井の比ではない。
 俺が再度、熟考の必要性を感じ、紅茶を口にしようとしたところで、石川が鞄からA5サイズほど
のノートを取り出し、バタンと音を立てて机の上に置き、怒ったように俺を見る。
「もうさくさん、今かかってる曲、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲でいいんですよね」
 その強い口調に戸惑いつつ、答える。
「ああ、うん。今ちょうどカデンツァの部分」
「第何番ですか」
「えーと、たしかこれ一曲のはずだけど。ヴァイオリン協奏曲、ニ長調」
130 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:58

 石川がペンでノートに書き込みながら、次次と質問を浴びせ続ける。
 俺は演奏者の名前、漢字、来歴、俺が好きな理由、指揮者とオケ、曲の特徴や感想を訊かれる
ごとに答え、指揮者とオケはわからずにCDケースを取って来て答える。
 そのノートがなんのノートなのかは考えるまでもなく、どうやら石川はこれまでに聴いた曲の情報
や感想をすべて記録しているらしい。
 それから石川はさきほどのゴセックのガヴォットについても訊き、尋問はさらにシューマンの交響
曲第三番にまで遡る。
「もうさくさん、シューマン好きなんですか」
「いや、シューマンとかシューベルトとか、どっちがどっちって感じで、ほとんど聴いたことなかった
から、それで昨日から試しに聴いてただけ。でも毒にも薬にもならないっていうか、交響曲なんか
全然おもしろくなくて。三番だけがまだましだったんで、それで聴き直そうかなって」
「シューマンのピアノ曲は?」
 石川がノートをめくりながら早口で尋ねる。
「いや、まだ聴いてないけど」
「シューマンは初期のピアノ曲で有名になったんですよ。ショパンみたいだってことで」
「そうなんだ」
「あった、子供の情景って知りませんか。七番のトロイメライとか」
「どんなんだっけ」
 石川がハミングで歌い、俺は納得して頸突く。
131 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:59

 それならたしかに名曲で、さきほどのミッシャ・エルマンの小品集にもヴァイオリン版が入ってい
たはずだ。
「それ、シューマンなんだ」
「あと一曲目も有名ですよ」
 ハミングに再度頸突く。なるほど、たしかに退屈な交響曲と違ってピアノ曲は《薬》らしい。
 こうなると石川の方がクラシックの先生のようで、俺はその講釈を黙って聞く。
 福田の方はすでに対決を諦めたのか、私には関係ありませんとでもいうような無関心な態度で
チョコと紅茶に専念している。
 俺が《病気》なら福田は《病的》、石川はホロビッツの演奏と同じく《静かな嵐》といったところで、
やはりこの三人の取り合わせには問題がある。
 俺と福田が冷静ならなんの問題もないが、どちらかが発症すれば、それはこういった連鎖反応
に繋がる。うちの姉も怒ったときは恐いが、石川もそれに似て、その表情には自然な威圧感があ
る。
 芯のあるお嬢様――。数分前にそんな表現をしたことをおもい出すが、笑みを浮かべるわけに
はいかず、俺は石川の話に頸突きながら、どうしたものかと思案する。
 石川のおかげで福田との罵り合いを避けられたとはいえ、やはり二人が月に二度、三度と俺を
訪れるということがそもそもの間違いだろう。しかも福田は役割としては石川の付き添い、クラシッ
クになど興味はなく、親友を俺や外部から護るつもりでいるらしいことくらいは俺にもわかる。
132 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:59

 しかし、やはり一番の問題はその福田がヒステリー気味だということで、そればかりは俺にだっ
てどうしようもない。福田のカレシとやらが安定させてくれることを期待するしかなく、俺が安倍や
石川や過去の飯田にうきうきしなかったところで、ヒステリーが治まる保証はない。
 そんなことを考えている間も、福田は第一楽章のクライマックスの激しいリズムに合わせるかの
ようにチョコをすべて平らげる勢いでそれを口に運んでいて、俺はふと、《甘い》可能性を考える。
 二人が来るときにケーキでも用意しておけば、福田も石川も、それなりに穏やかになるはずで、
そういえばうちの姉も、怒ったあとは家族が用意したケーキで気分を落ち着かせていたんだった
か。単純な発想だが、物事は単純な方がうまくいく。

 第二楽章の美しく粘っこい旋律がはじまるとともに石川の講義が終わり、俺は自分と石川の空
いたカップに紅茶を足す。
「そのノート、見せてもらっても、いいかな」
 石川が首を縦に振ったのを見てから、手を伸ばして取る。
 表紙には《CLASSIC》というタイトルとともに、カラーのペンでひよこのような丸い生物が三匹描
かれている。前髪が立っていて指揮棒のようなものを持っているのはたぶん俺だろう。
 表紙をめくる。最初は以前にUSBメモリで渡した曲が順に記載されているが、作曲家や曲につ
いての説明は俺が添付したメモ以上に細かい字でびっしりと書き込まれている。おそらくウィキペ
ディアや音楽サイトなどで調べたのだろう。
133 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:59

 速度記号が曲名になっているものは、「快速に、活気をもって」というようにちゃんと訳が調べて
あり、さらに、どんな曲かかというのがドレミではなく、ラララーとかランタッタッターというような独自
の表現で記されている。これなら俺のように誰のどの曲かがわからなくなるということもそうはない
だろう。
 それにしても、石川のクラシック熱は相当に本気で、俺は文章を流し読みしながら、曲名の横に
付けられた星印や二重丸、丸などの評価を眺めて傾向を探る。
 特にショパンはかなりの聴き比べをしているようで、演奏者ごとに評価があり、知らない名前が
ずらっと並んでいて内心で唸らされる。
 その次のページは同様にラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。以前に部屋で流したことがあった
が、よほど気に入ったのか、一ページまるまる演奏者ごとの感想で、その中でもリヒテルという名
前にはいくつもの星印がついている。これまでの会話でも電話でもそんな話は出ていなかったが、
どうやら本当に好きになったものは囲い込んで自分だけのものにしたい性格なのかもしれない。
 ノートに夢中になって福田のことをすっかり忘れ、深い感心の中で俺はノートを返す。
「どうでした?」
「うん、すごいね。なんか、本気で勉強してるみたいで。もう俺以上なんじゃないかな」
「そんなことないですよ。まだピアノ以外の曲とか、あとバロックとか古典派とか。バッハなんかどれ
を聴けばいいのかわからないくらい名曲がいっぱいだし。ですよね?」
「まあ少しずつ聴いていけばいいんじゃないかな。まだ聴きはじめたばかりなんだし。楽しみはたく
さんあった方がいいしね」
134 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:59

「バッハでもうさくさんのお薦めってありませんか? 自分ではちょっとわからなくて」
「うーん、ちょっと待ってて。探して来るから」
 隣の部屋に行き、オーディオラックからバッハのCDを片っ端から手に取る。
 とりあえずこの場合はオムニバスのオルガン名曲集の二枚組は必須だろう。インヴェンションは
レオンハルトのチェンバロ版しか持っていないが、これは不要か。無伴奏チェロも同様に一枚しか
ないが、ヨーヨー・マなら問題なく薦められる。ゴルトベルク変奏曲は以前にグールドを流したこと
があったが、ロマン派が好みの石川ならハープの音色が気に入るかもしれない。
 問題はシャコンヌを含む無伴奏ヴァイオリンで、これは演奏者によって表情がかなり違ってくる。
 俺の好みなら動画サイトのオイストラフで、持ってるCDから選ぶならパールマンになるが、はじめ
て聴くとなると決定的名盤といわれるシェリングが妥当か。
 とにかく難しく考えないことにし、その五枚のCDを持って戻る。
「とりあえずオルガンの名曲集と、あとはハープにチェロにヴァイオリン。量が多いから飛び飛びで
聴いた方がいいかも。気になったらちゃんと聴くくらいの感じで。俺もそうしてるし」
 石川が嬉しそうにCDを手に取り、早速その表と裏を興味深そうに眺める。
 俺はその表情を見ながら、クラシックを教える立場も、そろそろ終わりかもしれないと考える。
 勉強熱心な石川なら、梅雨がはじまり、梅雨が終わり、セミがやかましく鳴く頃には一人前のクラ
シック愛好家になっているはずで、初級者が初心者を教えるのもそこまで。そこから先のことは俺
にはわからない。
 頻繁にこの部屋に来るようなことはなくなるかもしれないし、趣味を同じくすることには変わりなく、
やはり福田と二人で当然のように来続ける気もする。
135 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 14:59

 どちらにしても、俺が二人との交流を必要としていることはたしかで、そうなるとやはり問題は福
田の情緒面ということになる。
「なあ福田、今度来るときは、コーヒー用意しといた方がいいか」
 俺の突然の言葉に、福田が疑いの表情を見せる。
「なんですか突然」
「やっぱ紅茶ばっかってのも問題だからな。それに、せっかく石川さんが来てくれるんだから、ケー
キくらいは用意しておいた方がいいよな」
「まあ、もうさくさんがそうしたいっていうなら、私は反対しませんけど」
 素直じゃないのか素直なのか、やはり女の不機嫌を治すには甘いものが一番らしい。
「石川さんもそれでいいかな」
「あ、うん。でもそれなら、私が買って来た方がよくないですか?」
「いや、それはこっちで用意するよ。その方が誰かさんが不機嫌になったときに役に立ちそうだし」
 福田が笑いと怒りの混じったような目を俺に向け、なにかいおうとするが、しかしそれより早く石
川が先に口を開く。
「あ、うん、じゃあ、そうしてもらおっか。ね、福ちゃん?」
「まあ二人がそれでいいなら、それでいいですけど」
 そういってから福田がふーっとはっきりため息を吐き、なんとか落ち着いたようで、俺はようやく
静かに安堵の息を吐く。
136 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 15:00

 チャイコフスキーが終わり、続いてプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第二番が流れるが、それ
をすぐに止めて、音のない中、二人が帰り支度をはじめる。
 俺は隣の部屋でタバコに火をつけ、軽く吸ってから、そこに福田を呼ぶ。
「福田、ちょっといいか。話があるんだけど」
「なんですか」
 福田が部屋に来て、灰皿の火の消えたタバコを見てから、俺に顔を向ける。
「今日はなんか、悪かったな。不機嫌にさせてしまったみたいで」
「別にもうさくさんのせいじゃないですから。謝られても困ります」
「まあでも、なんつーか、一ついい忘れてたことがあって。今日のおまえ、結構、奇麗かもな」
「なんですかそれ」
「いや、うん、まじで。ほら、普段そういうがっちりメイクとか見たことなかったからさ、なんか新鮮で、
おまえも案外いい女っていうか、結構かわいいんだなって、うん」
 こんなことを俺がいえば、今頃気づいたのかとか化粧しなくてもいい女だとか、そんなふうにいい
返して来るのがいつもの福田だが、やはり情緒不安定なのだろう、福田は本気で照れた様子で、
化粧の下の肌を一瞬で赤らめて、俺はそのことに生物学的発見を見出す。
「その恰好も、ベルトはまあ変だけど、結構似合ってるしな」
 福田が女女しく俯き、俺はわずかに胸にときめきを感じ、顔を近づけ、そしてなにもせずに顔を
元に戻す。
 福田は目をつむりかけ、そしてくすっと笑う。
「ためらうなら、最初からしないでくれますか。そういうの、女の子は結構へこむんですよ」
 そういいながらも顔はどこか嬉しそうで、俺は自分のその即興の演技力に自分で感心する。
137 :Rich1NDNCw :2013/07/15(月) 15:00

 二人が帰り、俺は数年ぶりにジョージ・ウィンストンを流し、氷とともにグラスに注いだチューハイ
を飲みながら、柿ピーを摘む。
 女の扱いはいつまで経っても慣れることはなく、しかし、だからこそおもしろいともいえる。
 そのおもしろさを必要ないものとして処理するのは簡単だし、その方が圧倒的に楽だが、なにも
焦って判断することはない。福田が結婚するか、俺が結婚するか、そのどちらかまでは、そんな駆
け引きを楽しむというのも、短い人生、ありだろう。
 グラスを回して中の氷をカラカラさせてはチューハイを飲み、理論的なクラシックにはない音遊び
で作ったかのような現代ピアノ曲を堪能し、またカラカラさせては喉を潤し、そうやって優雅な夕方
をすごしながら、俺は今後のことを考える。
 とりあえず、三人の関係がこれからも続いていくのであれば、俺の方もなにかするならした方がい
い。いつか二人の前でそれなりの演奏を披露する、というのも、うん、悪くはないだろう。
 クローゼットの中から眠っていたヴァイオリンを取り出し、俺は未練を克服するための準備をはじ
める。
 なにかをはじめるには決断が必要で、なにかをはじめる決断をするには、アルコールが入ってい
るのが一番、シラフでそんな決断ができるなら、俺はとっくに上級者になっている。

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