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ほぼ無常

1 :ch1NDNCw :2013/05/05(日) 07:56

 沈み込んでいた旋律が静かに上昇の予感を示しはじめ、いよいよここからだと心中で喜んでい
たところに店のドアが音を立てて開き、女が入ってくる。
 ひさしぶりに見る顔だが、俺の記憶が正しいならば、その顔は福田明日香の顔に見える。
 その福田がまっすぐ、奥のテーブル席に一人で座る俺の前まで来て、作曲者の渾身の作品など
おかまいなしに坦坦としたいつもの口調で声をかける。
「こんなところにいたんですか」
 ラフマニノフに恨みがあるのか、それとも俺が聴き入っていたのを邪魔しに来たのか。福田は俺
に対して積年の恨みがあるだろうから、標的はおそらく俺の方だろう。
「どんなとこにいようと俺の勝手。それにここはお子様の来るとこじゃない」
 無造作にいい返したその言葉を無視し、福田が俺の向いの椅子を引き、そして腰掛ける。
 テーブル席は二つしかないが、時間帯のせいもあって店の中に客は俺一人。隣のテーブル席だ
ろうとカウンター席だろうと空いている席はいくらでもある。
「そういう場合はここよろしいですかとか、ご一緒してもいいですかとか、訊くもんじゃないのか」
「美女を前にして照れるのもわかりますけど、もっと素直になったらどうですか」
「十分に素直だよ。おまえの前だとほんっと、素直すぎるくらい」
 マスターがグラスを拭きながら横目でこちらのやりとりを窺う。そういえばジャズではなくクラシッ
クが流れるというこの店を教えてくれたのは福田だったか。実家がパブでバーメイドをしていたこ
ともあったというから、ここのマスターとも顔見知りなのかもしれない。
「で、なんか俺に用か」
「別に用じゃないですけど、ただ、最近よくここに来てるみたいですから。ほかに立ち寄りそうな場
所もなさそうですし」
「要約すると、俺が恋しくなって俺がいそうなところを探しまわってたってことか」
2 :Rich1NDNCw :2013/05/05(日) 07:57

 福田がふーっとわざと音を立てて息を吐く。それから一度立ち上がり、バーカウンターの方を向
いて注文を告げてから、また振り向いてゆっくりと座る。
「なに飲んでるんですか?」
「さあな。俺はおまえと違ってカクテルなんて知らないから、全部まかせてる」
「まあ別にいいですけど、それより、もう聞きましたか」
 福田に限らず、動詞だけで質問するのは女の悪い癖だろう。
「おまえが男に捨てられたって話なら、今年はまだ聞いてない」
 福田がわざとらしく目を細める。笑っているようにも怒っているようにも見えるが、こいつの顔の
表情筋自体は性格と違って素直だから、おそらくその両方だろう。

「そんなことじゃなくて、圭ちゃんが《結婚する》って話ですよ!」
 その語気を強めた言葉に驚きはなく、俺はふっと鼻で笑う。
「聞いてはいないが、知らないこともないかな」
 そういってから、強がりに聞こえたんじゃないかと反芻し、しかしどっちにしろ驚きがなかったこと
にかわりはないということに無意味な自信を持つ。
「なんですかそれ。そんなことばかりいってるから……」
 福田がそこで言葉を止め、顔を横に向けて店内の様子を眺めるそぶりを見せ、その隙にマスタ
ーが二人分のカクテルを運んでくる。俺の三杯目はどうやらこいつと同じもの、ということらしい。
 そのカクテルを受け取り、福田がふたたび口を開く前に俺の方から話を切り出す。
「あいつのことだからな。うまく続いてたら、そろそろ焦って結婚でもするんじゃないかっておもって
たよ」
「知ってたんですか、圭ちゃんのこと」
「知らないけど、わかってたってとこかな。どうせ相手はイタリアンのオーナーシェフか料理教室の
先生か、もしかするとその両方ってとこだろ」
 いいながら二人の顔をおもい浮かべる。最初からそんな予感は持っていたが、それがそのまま
現実になったということは、俺にはどうやら他人限定の未来が見えるらしい。
3 :Rich1NDNCw :2013/05/05(日) 07:58

「完全に知ってるじゃないですか。それ、圭ちゃんから聞いたんですか、それともニュースで見たん
ですか、もしかしてそれでこんなところで飲んだくれようとしてたんですか」
 福田が訝しげな目と突き出した口を武器に矢継ぎ早に俺を問い詰める。
「だから知らないって。あいつとは一年以上も会ってないし、半年くらい前に電話で話したのが最
後。それっきり会ってねえよ」
 福田がさらに訝しげにこちらを窺うが、俺は間違ったことはいっていない。
 保田とはたしかに一年以上、もしかすると二年くらいは会っていないかもしれない。はじまって
もいないが、もう終わった二人、とでもいうべきか。
「ならなんで知ってるんですか。イタリア料理のシェフだってこと」
「まあ、勘ってやつだな」
 俺の言葉に福田がなぜか哀れみの目を浮かべる。「まさかストーカーみたいなことしてないです
よね?」
「するわけないだろ。ただ、なんだ、なんとなくそんな予兆がしてたってこと。こんだけいえば鈍感
なおまえでもわかるだろ」
 福田がなにやら考えるそぶりを見せ、それからようやくカクテルグラスに口をつけたかとおもうや、
ふたたび頭を傾けて黙りこくる。
 口では鈍感といったが、福田はもともと論理的思考傾向の強いロボット人間だから、結論が出る
のにそう時間はかからないだろう。

 俺はピーナッツをかじりながら、すっかり忘れていたラフマニノフの旋律に耳を傾ける。
 しかしそれを味わう時間はそうはなく、第二楽章から第三楽章に入ったところで福田が口を開く。
4 :Rich1NDNCw :2013/05/05(日) 07:58

「結婚のことは知らなったんですね?」
 ああ、と返事をするより先に次の質問が飛んでくる。
「でも予兆はしてた?」
 これも返事をする必要はないらしい。こいつは意外と楽な女なのかもしれない。
「それなら、わかりました」
 福田が納得がいったといわんばかりに首を縦に二度振り、言葉を続ける。「もうさくさん、二人の
こと知ってたんですね。二人がそういう関係だってことも、うまくいってるってことも。だから結婚の
話を聞いても……、そう、泣いたり発狂したり錯乱したりしなかった!」
 なぜ俺が泣いたり発狂したり錯乱したりしなくてはならないのか。
 しかしその部分は福田特有のユーモアトラップ、そこに触れれば福田が喜ぶだけだ。
「二人の関係がどうとか、そんなことは知らないけどな。ただ、俺が紹介したときからそんな予兆
はあったってこと」
「というと、まさか……」
 国語的には間違っているらしいが、福田が《唖然》という言葉で表現するのがもっともふさわしい
であろう驚きの声を発し、俺の顔をまじまじと見つめる。
 美女に見つめられるのは好きだが、まあたまにはこういう女でもよしとするか。
「その結婚の相手っての、俺のいった二つの予想のどっちにもあてはまるんだよな」
「ええ、そうみたいです」
「じゃあそうだ。そいつも俺の知り合いだ。でもって、保田にその料理教室を薦めたのも俺。あい
つの事務所の近くだったし、顔が濃いめのイケメンの先生がいいとか意味不明な贅沢いってたか
らな。でもって、そこに連れてった時の保田の様子も変だったしな。変というか目ん中にハートマー
クというかはっきり普段と違うモードに入ったというか。あいつ意外とそういうときはわかりやすいか
らな」
5 :Rich1NDNCw :2013/05/05(日) 07:58

 保田の結婚の話に驚きはなく、興奮もなく、敗北感もないはずなのに、どうやら無意識の焦りが
俺の中にはあったらしい。説明するためとはいえ、その冗長な自分の言葉に無性に胸がざわつい
てきて、俺は焦りを隠すようにゆっくりとした動作でカクテルを口にする。
 しかしどうやら福田はこちらの動揺には気づかなかったらしく、その説明に普通に頸突(うなづ)
いて、そして俺と同じようにグラスに手を伸ばす。
「そうだったんですか。もうさくさんだったんですね、共通の知人って」
「なんだそれ」
「ニュースでやってました。共通の知人を通じて知り合ったって」
「ま、その共通の知人ってのが、その後のことにはノータッチで、なんも聞かされてなかったという
ことなら、俺のことかもしれないけどな」
 聞かされるもなにも、そもそも俺と保田は一年に一度会うか会わないかという程度の関係で、大
昔の一時期、実らない両想いをしていたことがあったというだけの、そんなまぬけな関係にすぎな
い。
 だが、しかし――。
 そこに福田にはいえないことがあるのもまた事実だ。
「どうしたんです、おもいつめちゃって。やっぱりショックだったみたいですね」
 福田がニヤニヤとねちっこい笑みを浮かべるてくるが、俺の関心はすでに別のところに移って
いて、俺は福田には答えずにカクテルを口に含んで思考をめぐらす。

 半年前に保田から電話があった。
 あれは、そのときの俺もおもったし、今の俺もそうおもうから、そう真実から離れてはいないだろ
うが、あれはそう、保田から俺への最後の駆け引きで、俺はその駆け引きには乗らなかったこと
になる。
6 :Rich1NDNCw :2013/05/05(日) 07:59

 当然だ。
 奴は、そろそろ幸せになりたい、なんて馬鹿なことをいい、どこかに誰かあたしを幸せにしてくれ
る人はいないかな、なんて馬鹿なことをいっていた。
 愚痴っぽい口調だったが、暗に、俺も結婚を考えてもいい候補者の一人だということを告げる言
葉だった。
 だが、それは俺の結婚観とも俺の人生観とも食い違う。
 幸せになりたいなんておもうから、幸せでないことに不満が募る。
 結婚したら幸せになれるなんておもうから、現実が幻想に追いつかなかったとき、それは簡単に
破綻する。夫婦でもカップルでも同じで、そんな例は周りにいくらでもある。
 幸せになりたいとおもう、それがそもそもの誤りの根幹で、俺が保田の駆け引きに乗らなかった
のも当然というしかない。
 とはいえ、それは俺がマイナス思考だからということでは決してない。
 もし保田が、まあそんなことを奴がいうはずもないが、あなたとなら不幸せになってもいい、とでも
いっていたら、おそらくその電話の翌日には、俺か保田のどちらかの苗字が変わっていたことだろ
う。
 俺の結婚観はそこにある。幸せになりたいから結婚するんじゃない、愛し合っているから結婚す
るのでもない、この人となら不幸せになってもいいと互いにおもえてこそ結婚に行き着く……。
 そして、そんな夫婦こそもっとも幸せなのだと、俺は真におもうのだ。

 視線を上げると、福田が躰を左右にゆっくりと振りながらこちらを窺っていて、俺はふーっと一つ
大きな息を吐いてから、グラスの中身を飲み干す。
 どれくらい思考していたのか、すでにラフマニノフは退場し、新たに、これはベルリオーズかシベ
リウスか、それともリムスキー・コルサコフのマイナー曲か、どこかで一度くらい聞いたことのある、
そんな静かに威厳のある曲が流れている。
7 :Rich1NDNCw :2013/05/05(日) 07:59

「いろいろありますよね……」
 福田がマドラーでグラスの中にゆっくりゆっくりと円を描きながら、しんみりという。
 どうやら俺に同情の念を覚えたらしいが、そんなときの福田の口調や雰囲気は俺は嫌いではな
く、それどころか、なにかあるたびにそんな福田の慈愛に甘えてきた過去がある。
「ああ、人生が短ければ短いほど、いろんなことがある」
「なんですそれ」
「ああ、やっぱちょっと、ショックだったらしい」
 いいながら笑って、そして同じように笑った福田を見て安心する。
 俺も福田も頑固すぎるほど頑固な性格で、しかしその頑固さの発露は素直なほど素直で、互い
にそのことをわかっているからこそ、偶然にしろ必然にしろ、今でもこうして顔を合わせている。
 保田も頑固だが、奴の頑固さの発露には素直さが微塵もなく、いつもすぐに疎遠になってしまう
のは、その辺が影響していたのかもしれない。
 そういえば、奴の頑固さにはよく辟易させられたんだったか。
 もう大昔のことだが、保田とよく会っていた頃のことを懐かしくおもい出す。
 モーニング娘。を卒業して苦悩していた彼女たちとの出会い――。

 中澤の姉さんにはいつもハラハラさせられたが大いに世話になり、姉さんが結婚してからも一応
の親交は続いている。石黒とは数回しか会ったことがなく印象も薄いが、微妙にそりが合わないま
ま、後藤とは揉め事があって絶縁、この二人には今でも申し訣ないとおもっている。
 市井は保田とはまた別の殻を持っていたが次第に打ち解け、しかし今はどうしていることやら、
離婚やら再婚やら出産やら、知っているのは偶然ネットのニュースで目にしたことばかりで、でもま
あ、あいつはあいつの人生を着実に歩んでいる、多分そういうことなのだろう。
 それと当時は現役メンバーだったが、紺野というのも一員だったか。女子アナになったというのは
知っているが、テレビを見ないのでその勇姿はまだ見たことがなく、しかしあの頑張りっ子のことだ
から、きっと毎日悩んだり笑ったりしていることだろう。
8 :Rich1NDNCw :2013/05/05(日) 07:59

 そして、それらのメンバーとは別に飯田さんともいろいろあったか。
「どうしたんです、なにかにやついてますけど」
 福田に指摘されて、くくっと笑いをこぼす。
「いや、なんでもないんだけど、昔、飯田さんとデートしたことをおもい出してさ」
「またそれですか。その話、何度も聞きましたよ。あんな美人とデートしたなんて俺って幸せ者だと
か、神様っているんだなとか、美人の手料理が最高だったとか。もうさくさん、圭織の話するときは
必ず《美人》っていうんですよね。私のこと一度だって《美少女》って表現したことないのに」
 最後の部分に苦笑しつつ答える。この話題は俺の人生にとって唯一の自慢と呼べるべきもので
あって、俺が珍しく現実社会を肯定したくなるのはこの話をするときだけだ。
「まあそりゃ美人だからな。はじめて会ったときから美人だったし。まあ、実際にはじめて会ったの
はそれより前で、そんときは芋臭い女の子だったけど」
「で、また《命の恩人》の話なんですよね。それも聞き飽きましたよ」
 決して《美少女》ではない福田のうんざりしたような笑顔に、《美人》の笑顔と同じような感覚を抱
く。そしてこういうとき、俺はいつも同じことをおもい、そしてすぐに取り消すことになる。
 こいつとなら、不幸せになってもいいかもしれない……と。

 福田のカクテルグラスが空になり、そこで名前を知らない曲とも別れ、店を出る。六時から開い
ている店で、カクテル三杯でまだ時刻は七時前、時間は人生よりもたっぷりとある。
「これからどうする。久しぶりだし、おまえんとこのフィリピーナパブで続きやってもいいけど」
「もうさくさんちはどうですか。だってもうさくさん、これから泣いたり発狂したり錯乱したりしなきゃ
いけないですから。うちの店はそういうのお断りですから」
「おまえなあ……。ま、それでいいか。久しぶりにおまえらのことも聞きたいしな」
9 :Rich1NDNCw :2013/05/05(日) 07:59

 店からマンションまでは徒歩なら三十分と少し。来たときと同じように普段なら歩いて帰るところ
で、酔っていれば一時間以上かかることもあるが、今のこの心境で二人で並んで歩いて帰ったり
すれば、俺は間違いなく福田と手を繋いでしまうことだろう。そうなれば、俺はおそらく、もう四年以
上続いている《女色の禁》を破って福田を抱くはずで、慈愛の福田もそれを受け入れるだろう。
 平常時であればそれでもいいが、保田の結婚の話を聞いた今となっては、それは俺自身に対し
ても、福田に対しても、未来に続く《罪》となる。
 さてどうすべきかと考えていたところに、福田が声をかけてくる。
「あ、バス来ましたよ。乗りましょうよ」
 助かった、とおもいつつ、しかしそのことで今の自分がおかしくなっていることを痛感する。
 どのみち電車の駅は家から中途半端な距離にあって、徒歩でなければ残りの選択肢はバスか
タクシーしかない。普段バスに乗らないとはいえ、それをおもいつかなったのは、自分の意識が目
の前ではないどこかを漂っているせいだろう。

 バスを降り、マンションまで歩く。酒やつまみは十分すぎるほどストックがあり、どこかに立ち寄る
必要はない。
 と、二人で保田の話をしながら歩いていたところで、マンションの入り口に一つの顔を見つける。
 その顔はこちらに気づくなり、《突進》という言葉以外の表現が見つからない、というくらいの勢い
で走ってきて、どういうつもりか、腕を伸ばして突き刺すように俺を指さす。
「セロリさん! もう聞きんなったやか!」
 どうやら俺はすっかり忘れていたらしい。
 彼女たちとは別に、彼女たち以上の問題児が一人いたことを……。
10 :Rich1NDNCw :2013/05/05(日) 08:20
>>9の11行目
×おもいつかなったのは
○おもいつかなかったのは

何度も読み返したんだが、こうも簡単な脱字があったということは、
やっぱり平常心ではなかったってことか。。。
11 :名無飼育さん :2013/05/13(月) 20:35
セロリさん! もう聞きんなったやか!
すげーなつかしいひびきだわ
12 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:24

 その問題児は指は下ろしたものの、勢いはそのままで同じ言葉を口にする。
「セロリさん! もう聞きんなった?」
 やれやれ、とおもう。どいつもこいつも、いったいなにを考えているのか。
 俺と保田との間にはなにもない、ということをわかっていないのか、それともわかっているからこ
そ気になるのか、どちらにせよ、昔から今の今まで、俺と保田はよっぽど似合いの二人に見える
らしい。迷惑な話だ。
 俺は答えずに、冷静にそいつの顔を見返す。
 まったく好みではないが、猿を美人のお姫様にしたといった感じで、鼻息を荒くしている。
 うんざりする顔だ。
 うんざりする顔だが、その顔にうんざりすることに俺はほっとし、自分の脳に感謝したくなる。

 興奮すると鼻から《むっふー》と息をこぼし、誇らしげに自慢するときには《むっふふー》と空気を
漏らす、そんなギャグのような女が現実に存在するということを俺が知ったのは、俺のことをセロ
リさんと呼ぶこの高橋愛と知り合ったからで、俺はこいつに会うたびに、人生には出会いから学ぶ
ことが多いという格言を否応に突きつけられる。
 俺はわざとしぶしぶといった体(てい)で、ああ、と答える。
「なーんや、知ってなさったんや。せっかく教えてあげようとおもったんに」
 高橋が教科書に載せてもいいとおもえるくらいつまらなさそうにいい、口先をすぼませる。
 どうやら俺の反応を見てにやにやしたかったらしいが、そんなことのためにわざわざ会いに来た
ということを、とやかくいうつもりはない。それならすでに先客がいる。
13 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:25

 その先客の福田がいきさつを説明し、高橋がそれを神妙な面持ちで受け入れる。
 福田のことだから、なにか囃し立てるようなことでもいうんじゃないか、と警戒していたが、高橋
に対してはまじめでまともなお姉さんを演じるつもりらしく、高橋の方もそんな福田に違和感を抱
いたりはしないらしい。
 築四十年のマンションの玄関部分に去年取りつけられた形ばかりのオートロックを抜け、階段
を最上階の四階まで上がる間も、二人のやりとりが続く。
 そういえば、高橋がこの場所を知っていたのは、以前に一度、福田と一緒に来たことがあった
からだったか。
 しかし、二人の関係性というものは俺にはよくわからない。それ以降、二人が一緒のところを見
たことはないし、福田から高橋の話を聞いたこともなく、高橋は男ができてからは途端に電話して
くることがなくなったが、それまでも福田の話を聞いた覚えはない。

「ねえ、なんでエレベーターないん?」
 高橋が後ろから嘆きの言葉を投げかけてきて、俺は思考を戻す。
「そのおかげで家賃が安い。感謝しないとな」
「なんそれ。こっちは大変なんやけど」
 押しかけてきておいてそのセリフはないが、高橋も現代人になったということなのだろう。
 俺は淡淡と答える。
「脚があるって幸せなことだろ。脚がなきゃ、一段だって上れないもんな」
「なんそれ。意味わからん」
14 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:25

 高橋は納得していないらしいが、後ろを振り返ると、福田がなぜか菩薩様のようににっこりと笑
っていて、そんな福田を見て高橋がふたたび口をすぼませる。
 どうやら高橋には《むっふー》以外にそういう生態もあるらしいが、それが新しく会得した習性な
のか、それとも以前からのものなのかは、今の俺にはもうわからなくなっている。

 階段を上りきり、照明の行き届いた奇麗で広い廊下を進む。
 貧乏な独身貴族が一人で住むにはもったいない頑丈なマンションだが、どの駅までも中途半端
に遠く、エレベーターもなく、それでいてさらに家賃が安くなる事情もあり、俺はその幸せを素直に
受け入れることにしている。
 部屋に入ると留守番電話の赤いランプが珍しく点滅していて、八件という数字が俺を驚かす。
 携帯電話を持たなくなったとはいえ、この数字は尋常ではない。
 親戚に不幸が起きたのでないとすれば、その数字をモニターに表示させた犯人を推理するのは
簡単で、問題はその比率だ。どうせ福田が一件か二件、残りが高橋といったところか。
 俺はその赤ランプを無視し、二人をリビングに招き入れてテーブルを勧める。
「ありゃあ、なんもないんやねえ」
 高橋が部屋を見渡して素っ頓狂な声を出す。
 実際には四人掛けのテーブルもあるしサイドボードもあり、その二つは最初からあった前の住
人の置き土産だが、なにもないというわけではない。
 それに、部屋の隅にはお気に入りのパキラの鉢植えがあり、壁にはクロード・モネの『ヴェルノ
ンの教会の眺め』のリトグラフもかけてある。必要なものはすべて揃っていて、必要でないものだ
けが見当たらないというだけのことだ。
15 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:25

「テレビもないんやねえ。セロリさん、テレビっ子やったんに」
「ああ、テレビ見なくても幸せだってことに気づいたからな。ま、必要なときはパソコンで見るけど」
 そんな意味のないやりとりに、ようやく福田が口を挟む。
「この人、枯れちゃったんですよ。いつでしたっけ、急におかしくなって。以前からおかしかったです
けど、方向性がかわったみたいで。自然にキザなこといったり、平気で自分は幸せ者だとかいった
り、本人は諦観(ていかん)したなんていってますけど、変な宗教にでも入ったんじゃないかって心
配しましたから」
 話す相手が高橋だからか、福田の説明は非常に容易で、こちらまで頸突きたくなる。
 ただ、高橋はその説明に別に感じるところがあったらしい。
「セロリさん、また悟り開きんさったんやねえ」
 その《また》という言葉にドキリとする。
 どうやら高橋は、俺の知らない俺のことを知っているらしい。わかっていることなのだが、それを
こうして対面で認識させられると、かすかな不安を覚えずにはいられなくなる。
「ああ、まあ、悟りというか、諦観だけどな」
 そういいながら、俺は顔を隠すようにキッチンへと向かい、冷蔵庫から人数分の缶チューハイを
取り出す。
 以前ならこういうとき、いろんな種類の酒を適当に選んで出したり、下手な居酒屋程度にちんけ
なつまみをたくさん作ったりしたのだろうが、今の俺には選択する苦労はないに等しい。
 部屋にある酒は、純米吟醸の五合瓶が二本と缶チューハイのケースが一つだけで、そのどちら
も銘柄がかわることはない。つまみも箱買いした柿ピーとピスタチオだけ。なにかを作るにしても、
せいぜいチーズ、トマト、セロリを切るだけで、酒のつまみに料理をするようなことはない。
16 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:25

 テーブルの上にチューハイを並べ、つまみの袋を開けて皿に盛る。
「悪いな。こんなもんしかないけど、量は山ほどあるから、好きなだけ飲んでくれ」
 福田が苦笑し、高橋は反応に困ったのか、パキラの鉢植えに視線を向ける。
 普段はパソコンに向かいながら一人で飲んでいるので、テーブルを囲んで飲むというのはなんと
も奇妙におもえてくる。
 この前こうして飲んだのはいつだったか。
 学生時代の友人が東京に来るというので四人で飲んで、そのまま泊めたのが最後だったか。
 いや、その後で福田と二人で飲んだような気もするし、その前後にはそう、福田と石川梨華の二
人が来たことがあったか。いずれにせよ、もう三か月以上前のことで、俺はそれ以来、一人で飲む
ことの幸せを味わい続けてきたことになる。
「それにしても、ほんと、久しぶりだよな。高橋」
「うん、そうやねえ」
「男ができてから途端に電話も来なくなったしな。電話局の人も仕事がなくなって困ってるんじゃな
いか」
 俺のつまらない冗談に、高橋が目以外の表情を駆使して笑う。
 いきなりその話題はまずかったのだろうが、一応笑ったふりをしているところは高橋も成長した
ということか、それともそれも俺が知らないだけなのか、だがまあ、この話題はよしておいた方が
いいかもしれない。
17 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:25

 福田がチューハイの缶を開け、ピスタチオに手を伸ばす。
 柿ピーはどこにでもある普通の商品だが、このピスタチオは俺の身分にとってはかなり高価な代
物で、福田もそのことは知っている。
「それにしても、圭ちゃんが結婚なんて、驚きました。私は、ですけど」
「結婚なんてそう珍しいもんじゃないだろ。その辺にいくらでも転がってる」
「まあそうですけど、でも圭ちゃんですよ」
「おまえなあ、そういうの人権団体から怒られるぞ。ま、いいたいことはわかるけどな」
 福田が苦笑し、チューハイを一口飲んでからピスタチオの殻を剥きにかかる。
「高橋さんも驚いたんじゃないですか?」
 驚いたからこそわざわざ俺の反応を見に来ているわけだが、この質問は高橋がぼっちにならな
いようにとの福田の気遣いだろう。
「うん、そりゃもう。保田さん、ぜーんぜんそんな感じやなかったし」
「まあ圭ちゃんは自分の楽しみは自分だけで楽しむってタイプですからね。あの人、そういうことは
絶対誰にもいわないんですよ。昔からそうです」
 まさかもう酔いが回ったということもないだろうが、福田がひがみモードに入り、俺はそれを楽し
みに待つ。
「でも保田さん、最近奇麗になったって評判やったもんねえ」
 どこで評判なんだ、といおうとしたが、高橋いわく、ネットのニュースで話題になったことがあった
らしい。黎明期から今の今まで、ネットのニュースというものには碌なものがない。
18 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:26

「まあでも、そういえば高橋も、最近ますます……、というか、うん、奇麗に、なったんじゃないかな
あ、なんてな」
 いってる途中で馬鹿らしくなり、くくくっと笑い声を漏らす。
「なんそれ、ほんっとセロリさんなんやから」
 高橋が意味不明なことを呟き、チューハイをぐびぐびと奇妙な喉音を立てて飲む。
 それを見て今度は福田が、ピスタチオを三つ同時に口に放り込んでから訊いてくる。
「もうさくさん、私はどうですか。最近シックなレディーになったってよくいわれますけど」
「そういうのは自分でいわない方がいいんじゃないのか」
 冗談を冷静にあしらわれ、福田がはっきりとふてくされる。
 高橋と同じようにチューハイで喉音を鳴らし、やはりピスタチオに手を伸ばす。どうやら柿ピーに
食指を動かすつもりは毛頭ないらしい。
 俺は柿ピーの皿を自分の方に寄せ、ピーナッツだけをまず三つ、次に柿の種だけを五つ口にし
て、その味と食感の違いを噛みわける幸せを堪能しながら言葉を出す。
「ま、福田の場合はなんというか、奇麗とかじゃなくて、人を幸せにする顔だよな」
「なんですかそれ。また菩薩顔とかいうんじゃないでしょうね」
 誉め言葉というのは人によって通じないことがある。それはどんな言葉でも同じだが、人には人
それぞれの価値観があって、その相手の価値観をいかに大事に扱うかで対人関係というものは
決まる。が、時にはその価値観の違いを楽しむことも許される。
「俺からすれば菩薩様だからなあ。おまえがどうしてもって望むなら大仏でもいいけど」
「お断りします」
19 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:26

 福田が拒否し、俺はその怒ったように見せかけた表情を見て、いつものように感心する。
「へえ。福田さん、セロリさんの菩薩様なんだ。いいなあ」
 なぜか高橋が羨ましがり、俺はその気恥ずかしさに困惑する。
「そういえばセロリさん、前もいいんさってたもんねえ」
 そういってからなにも続けず、高橋は一人納得したようにうんうんと頸突く。
 なにをどういっていたのか、非常に気になるが、この高橋に記憶のことを話すことだけは避けな
ければならない。こいつに弱みは見せたくないし、こいつに心配を抱かせるようなことは絶対にし
たくない。
 俺は席を立ち、開けっ放しになっているドアから隣の部屋へ向かう。
 ベッドがあり、パソコンデスクがあり、オーディオラックがあるが、ほかには床に空気清浄機が置
いてあるくらいで、以前あれほどあった本の山も、今では百冊程度がクローゼットに整然と眠って
いるだけだ。
 オーディオのスイッチを入れて曲を選択する。
 せっかく福田と高橋が来たのだから、それに合ったものがいいだろう。バーで耳にしたクラシック
の続きを聴きたいところだが、作曲者も曲名もわからないとなると手元にあるはずもなく、それは
次の偶然の出会いを楽しみにすればいい。
 曲が流れてからリビングに戻る。
 福田と高橋が話をとめて、俺の顔を見る。
「えっと、これって、なんだっけ」
「この人のお気に入りの曲らしいですよ。聴けば聴くほど音楽が深まるんですって。私のCDなんか、
一度聴いただけで雑音っていわれて返されたのに」
20 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:26

 やはりひがみモードに入っているらしい福田がそういい、高橋は高橋でその曲をおもい出そうと
しているのか、首を傾ける。
 ヴォーカルの声が流れて十秒ほど経ってから、高橋が答えを口にする。
「飯田さん!」
 俺と彼女たちとのつき合いは長い。おそらくは十年近くになるだろうか。その間いろんな曲を聴
いて知っているし、新曲が出るたびにそれぞれからCDを貰ったりもしたが、今手元に残っている
のはモーニング娘。の最初の二枚のアルバムと、飯田圭織の二枚のシングル、それに自分で買
った市井紗耶香のシングル二枚だけ。それ以外はすべて処分したが、むしろ聴くに価するものが
これだけ残っているということを彼女たちは誇るべきだろう。

「そっか。そういえばセロリさん、飯田さんの曲好きっていってたもんねえ。なんだっけ、堀内孝雄
みたいだっけ、はぐれ刑事のエンディングが似合いそうとかって」
 そんなことをいったことは覚えていて、俺はじっくりと頸突く。
「そうそう、よく聴くと堀内孝雄っぽいんだけど、女の声だからそれよりあっさりしてて。そんで声が
実に合ってるんだよな。この曲は飯田さんじゃなきゃ駄目って感じで」
「んーと、なんだっけこの曲、えーと、えーと、ベルの隣に……、ドアが開いてた、だっけ」
「ドアの隣で猫が鳴いてた、だろ」
「うーん、それもなんか違う、わからんけど猫は鳴いてなかったとおもう」
「じゃあ、家の隣に塀が立ってた」
「それは早口言葉。うーんと、ベルの隣にバラが咲いてた、かなあ」
21 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:26

 飯田さんには失礼な話だが、高橋と二人で曲名あてで盛り上がる。
 福田はふてくされたのか、パチパチとピスタチオの殻を剥き続けていて、話に入ってくるつもりは
ないらしい。
 さきほどの言葉を考えれば、以前CDを渡されて感想を聞かれたときに、《雑音》と一言で答えた
ことを今も本気で引きずっている、ということか。
 某有名な二人組の名前を出して、あいつらと同じレベルだから安心しろといったはずだが、その
殻の剥き方を見るに、その恨みはかなりのものらしい。おそらく福田だけのCDではなく、福田の教
え子のデビューCDでもあるというところが、福田を硬化させた理由だとはおもうが、どうであれ今は
触れない方がいい。

 高橋と話を続けながら席を立ってキッチンへ行き、冷蔵庫に新しい缶チューハイを詰め込み、冷
えた缶を三つ取り出し、それからピスタチオの袋を抱えて戻る。
 最初はこの三人でどうなることかとおもったが、どうやら福田以外は通夜にならずにすみそうで、
俺は一応のホストとしてほっと胸を撫で下ろす。
「あ、そうだ、ドアの後ろで彼が待ってた、だ」
「惜しいけど違うな。ドアの後ろで猫が鳴いてた、じゃなかったかな」
「だから猫は鳴いてなかったって。ドアの後ろまでは確定なんやけどねえ」
 確定したのは《ドア》だけだが、雰囲気は最初から掴んでいる。ほとんど無名の曲のタイトルをそ
こまで覚えていただけでも大したものだろう。
22 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:26

 高橋がふたたび考え込んだところで、福田がしびれを切らす。
「盛り上がってるところ悪いですけど、ドアの隣でベルが鳴ってた、です」
「あ、そうなんや。ベルが鳴ってたんだ。そっか、ドアの隣でベルが鳴ってた、かあ」
 それも違うのだが、しかし福田は冗談ではなくどうやら本気で答えた様子で、そういうことなら野
暮な指摘はしない方がいい。
 すでに曲は次に進んでいたが、珍しいタイトルでなければ曲名あてをする意味もなく、おそらく
二人とも曲名を知らないことだろう。知っているのは世界で俺と飯田さんくらいかもしれない。
「でもあれやねえ、セロリさん、今でも飯田さんの曲聴いたりしてるんやねえ」
「たまにだけどな。最近はクラシックばっかりで。邦楽でよく聴くのはガーネット・クロウくらいか。も
うじき解散するらしいけど」
「ふーん」
 そこには食いつかず、高橋はチューハイの缶を持ったまま立ち上がり、隣の部屋へと向かう。
 俺はそれは追わず、さっきと同じように柿ピーを取り分けてから口に運ぶ。
 ガーネット・クロウを俺が好きになったのは、《あの部屋》で高橋が持っていたCDを聴かされた
からで、それは俺が高橋に感謝すべき唯一のことといってもいいくらいのことなのだが、当の高
橋には関係のない話かもしれない。
「ガーネット・クロウの音楽性は四十点。でしたっけ」
 ようやく怒りが冷めたのか、それとも高橋の前でわざとふてくされた芝居をして一人で陰気に楽
しんでいたのか、福田の表情が元に戻っていて、俺に話しかけてくる。
「ああ。そんなこといったな」
23 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:27

「でも百年後も二百年後も四十点、だからその音楽には普遍性がある」
 以前に福田にそんなことを話したことがある。かなり酔っていたとおもう。
 音楽にはジャンルはない。あるのは普遍性だけ。だからどんな音楽であっても普遍性がある曲
は素晴らしい。そんなことを語って、ガーネット・クロウを例に挙げたんだったか。
「ああ」
「私、もうさくさんとは音楽の趣味が全然違いますけど、でも最近、私もそんな気がしてきました。
バッハやモーツァルトと同じ土俵にいるんですよね、私たち」
 私たちというのは俺が《雑音》と一蹴した福田のユニットのことだろう。
 俺は無言で頸突く。もしかすると、福田は音楽性のことで悩んででもいるのか。
 音楽を聴くだけの者、音楽を演奏するだけの者には無縁だが、音楽を創る者には古来、創る
側の者にしかわからない正解のない苦悩がつきまとう。モーツァルト然り、ベートーヴェン然り、そ
して俺がこの部屋に住めているのも、そんな苦悩の結果といえなくもない。
 福田がチューハイを一気に飲み干し、缶を置いてから、話を続ける。
 目はまっすぐに俺の顔に向いていて、本気だということを窺わせる。
「もうさくさんに雑音っていわれたときは、かなりショックで、今もショックですけど、でももうさくさん、
バッハやモーツァルトと比べて雑音っていったんですよね。それって、同じ土俵にいるってことを認
めてくれてるってことですもんね」
 別に認めたわけではなく、そもそも俺が認めたからどうなるというものでもないが、これほどおも
いつめた福田を追い詰めることは、人間ができていない俺でもするわけにはいかないし、福田を
泣かせるようなことになれば、俺は自分を許せなくなる。
24 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:27

「ああ、ハイドンも曲によっちゃ結構雑音だったりするしな。ビートルズも普遍性があるかっていや、
あんまなかったりするからな」
 そこに意味があるかはわからないが、苦手な名前を二つ出し、福田の痛みを和らげる。
 その二つのファンが聞いたら怒るだろうが、ここにはいないし、いたとしても、俺の感性が劣って
いるとおもえばいいだけだ。
「音楽で大事なのは旋律と全体の調和、合ってますよね」
「ああ。そんなこともいったか。よく覚えてんな」
「その二つが揃えば誰もが納得する音楽になる」
「ああ。万人が納得する音楽なんてもんはいまだ見つかってないけどな」
 一番それに近いのはやはりバッハだが、音楽の感性は人それぞれで、どんな音楽を聴いて育っ
たのかによっても感想は大きくかわる。バッハが苦手な人だって大勢いるはずだ。
 誰もが納得する百点の音楽なんてものがもし存在するのなら、俺はそれを聴けたということだけ
で自分の昇天を許すことだろう。おそらくその音楽の素晴らしさは命をちっぽけなものにしてしまう
に違いない。それほどのものだと俺は信じている。
 俺がそんな奇異なことを考えていたせいか、福田は続きを口にするのをやめ、本気モードを終わ
らせたのか、ふーっと息を吐く。
 その息の音に続いて別の息の音が聞こえて、俺はその方向を見る。
 おもった通り鼻息を荒げた高橋が立っていて、その高橋は興奮を収めるためか、手に持ってい
たチューハイを一度、二度と口にし、しかし鼻息はかわらず、その勢いで声を出す。
「セロリさん! オーディオ!」
「ああ?」
「だから、オーディオ!」
「ああ」
「どうしたん! すんごいよ、あのオーディオ! なんかもう、すんごいんだって!」
25 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:27

 いいたいことはわかるし、そこまで興奮してくれることに喜びが沸くが、それにしても興奮しすぎ
だろう。
「どうしたん、買ったん?」
「まあ、買ったからあるんだろうな」
「いくらしたん?」
「まあ、貯金がやばくなるくらい、かな」
 高橋が文字通り、目を丸くする。その顔が少しかわいく見えて、俺はなぜか頸突く。
「セロリさん、奮発したんやねえ。だって、あんなすんごい響き、はじめて聴いたが」
「俺は別にケチってわけじゃないからな。必要な物にはちゃんと出す。ただ、必要な物ってのがそ
んなにないってだけで」
「でもほんと、すんごいよ。飯田さんの声がすんごーい奇麗で、はっきりしてて」
 昔使っていたヘッドホンが壊れ、おもい切って一万円のヘッドホンを買ったのがきっかけで、俺
の音楽環境はあっという間に別世界にかわっている。
 そのヘッドホンで聴くロックは最高で、しかしクラシックには適さず、今度はクラシックのために
ヘッドホンを買い、次にバランスの取れたヘッドホンを買いたくなり、そしてオーディオ……。
「でも音が大きすぎるんやないかなあ。苦情が来たりせんの」
 たしかに飯田さんの歌声がこのリビングにしっかり届くくらいだから、普通なら問題だろう。
「ああ、この部屋、完全防音してあったりするから。なんでも、前に住んでたのがミュージシャンで、
全室リフォームしたんだと」
26 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:27

「それ、どんな人です?」
 高橋の興奮を面白そうに見ていた福田が興味を示し、話に入ってくる。
「俺は知らなかったけど、なんか作曲とか編曲とかしてた人らしくて、編曲、アレンジャーっていう
のか、そっちではそこそこ知られてる人だったらしいけど」
 そこまで聞いて福田は納得したらしい。おそらくつんくとか、その辺を予想していたのだろうが、
あいにくと今の俺と彼には接点も交流もない。以前は多少あったらしいが、そのことを俺はもう覚
えていない。知っているのは《あの部屋》に俺が住むようになったきっかけが彼にあった《らしい》、
ということだけだ。
「ふーん、そんな人が住んでたんやねえ」
「ま、その人、首吊って死んだらしいけどな」
 そういって、俺はなにごともなかったかのように新しい缶チューハイを開け、それを口にしながら、
ピスタチオを手に取って殻を剥(は)ぐ。
 飯田さんの曲はすでに終わっていて、ガーネット・クロウのベスト盤だろうか、その最初の方の曲
が流れる。
「あの、もうさくさん……、その人、亡くなったんですか」
 福田が、私、なにか厭な予感を抱えています、といった口調で尋ねる。
「ああ」
「まさかとはおもいますけど、その人、どこで……」
「どこでっていわれても、そんなの俺が知ってるわけないだろ」
「ああ、ですよね。ならいいんです」
 福田が納得がいったとばかりにいい、椅子に座り直す。
27 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:28

「でもまあ、リビングのほかは二部屋しかないし。そのどれかだろうな」
 俺がそういった途端、福田が立ち上がって声にならない声を出す。
「わ、私、帰ります」
 たしかに刺激の強い事実ではあるが、何度もこの部屋を訪れていて、今さらなにを恐れるという
のか。
 高橋の方はどうしていいかわからないという表情を浮かべているが、あまり動じているようには
見えない。予想していた反応とは逆だが、それはそれでなんとかなるだろう。
「そう慌てんなって」
「だって、首吊ったんですよ。どこかもわからないんですよ」
「うーんと、あれだ、ここに越して来たとき、ちゃんとお祓いした証明書も貰ったし、大丈夫だろ」
 本当かどうかはわからないが、実際にそういう証明書を貰ったのは事実で、そこには神社の名
前とお寺の名前が載っていたようにおもう。
「でも、もし化けて出たらどうするんですか」
 福田は冷静で論理的思考の強いロボット人間だとおもっていたが、そういえばか弱い女の子の
一面も持ち合わせていたんだったか。
「もう三年以上住んでるけど、一度も出たことないしな。おまえだって何度も来てて、別にどうもな
かったろ。それに、化けて出るくらい世の中を恨んでるような人間は、そもそも死んだりしないし」
 自身の中で納得しようと努めているのか、福田が立ったままの姿勢で瞬きを何度も繰り返す。
 理解や納得を深めようと長考するときに無言で両目の瞬きを高速で繰り返すのは俺の癖だが、
高速でなくとも、福田にも同じ癖があるということをはじめて知り、俺はなぜか複雑な気分になる。
28 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:28

 福田が再起動するのを待つ間、高橋に尋ねる。
「なあ、おまえはなんともないか。今の話聞いて」
「うーん、ちょっとあれやけど、でも大丈夫かも」
「そっか」
「うん。だってセロリさんいてくれるし、なんかあれば助けてくれるし」
 頼られているということらしい。意外だったが、そんなことをいわれると、なんだか高橋のことが
無性にかわいく見えてきてしまう。メガネの度が足りていないのかもしれない。
「それじゃ、福田はほっといて、向こうで音楽でも聴くか」
 二人で移動し、俺はパソコンデスクのアームチェアに座り、高橋はベッドに腰を下ろす。
 座った反射か、ふと、タバコをまったく吸っていないことに気づき、空気清浄機のボタンを押す。
 タバコとライターを取り出しても、高橋は特に気にする様子はなく、そんなもんかとおもう。
 《あの部屋》ではタバコを吸うたびに高橋から文句をいわれ、室内禁煙を強制されたこともあっ
たが、考え方をかえたのか、それともつき合っている男が喫煙者だったりするのか、でもまあ、そ
んなことはタバコを吸いながらゆっくり考えればいい。
 ライターでタバコに火をつけ、その数時間ぶりの不必要な快楽を味わう。
「そういや、今日は保田の話するんだったよな。すっかり忘れてたけど」
「うん。保田さんが結婚って話」
「おまえはどうなんだ、そろそろ焦る歳だろ」
「うーん、よくわからんが」
「あっという間だぞ。この人、とおもったらさっさと決めないと。駄目だったら別れちまえばいい。今
じゃ珍しいことじゃないしな」
29 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:28

 バーでの思考とはだいぶ違うが、時と場合により俺だって一般論くらい使う。
「まあ結婚を考え出す前くらいが一番楽しいとかっていうからな、それを満喫するってのもありだけ
ど」
「セロリさんはどうなん?」
「考えたことないな。俺は考え方が偏屈だし、そもそも相手がいない。それに今の生活に満足して
るってのが一番大きいかな。満足ってか、なにをしても幸せだし、なにをしなくても幸せ、なんかそ
んな感じになっちまってな」
「福田さんがいってた、なんだっけ、テーカン? 諦めの境地みたいなもん?」
 高橋の口から《諦めの境地》なんて言葉が出て来たということは、やはり以前の俺がなにかそれ
っぽいことを話していたということなのだろうが、俺に出来るのはその事実を受け入れるということ
だけで、過去の自分に逆らっても意味はなく、これからの高橋との関係は、どうあれ、そういうもの
になっていくのだろう。
 それから俺は諦観に至った経緯を説明する。
 自分の中にとある問題があり、その問題を自覚したことでそれまでの疑問が一気に解消したこ
と。それがきっかけで、自分と他人を無理に結びつける必要はないのだと気づいたこと。そして、
自分に必要なものだけが必要なのだというあたり前のことを実践することにしたこと。そしてその
必要なものがあることに幸せを感じ、必要でないものを必要としないことに幸せを感じるようになっ
たということ。
 長長と話したつもりだったが、ロングのタバコはまだまだ持ちそうで、ガーネット・クロウの曲も一
曲が進んだだけで、高橋にも退屈しているそぶりは見られず、俺はふーっと大きく煙を吐き出して
安堵する。言葉も物と同じで、すっきりしている方が人生は楽で、幸せだ。
30 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:28

「いろいろあったんやねえ。セロリさん」
「そんなこともないけどな。たった一週間くらいのことだし」
「へえ、そんなんでかわりんさったんや」
「ああ、だから変な宗教に入ったんじゃないかって福田が心配するわけだな」
 その名前を出したところで、ドアの向こうに人影が見える。
 考えがまとまったらしいが、しかし福田のその顔は歪んでいて、俺ははじめた会った頃の福田を
おもい出す。人はそう簡単にはかわれない。俺の諦観だって、今はうまくいっているが、どうせた
だの勘違いに決まっている。
「どうした」
「私を、一人にしないでください……」
 希望的観測で演技だろうとおもったが、その表情は見れば見るほど本気らしく、そしてその顔が
こちらに近づいてくる。
「一人に、しないでください!」
 福田が座っている俺に横から抱きついて来て、俺はどうしていいかわからず、とりあえずタバコ
を灰皿の底にあてて火を消す。どんなときであろうと火の始末だけは怠ってはならない、喫煙者の
絶対の義務だ。
「福田さん……」
 高橋がそういい、しかし高橋もどうしていいかわからず、俺の方を見る。
 まさか首吊りの話にここまで怯えるとは予想もせず、しかし実際に福田が泣かんばかりの状態
になっていることに俺は自分の幸せぼけを恨む。
31 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:28

「すまん、とりあえず、大丈夫だ。大丈夫だから、安心しろ」
 なにが大丈夫でどう安心したらいいのか。自分でもなにをいっているのかわからず、俺はおそら
くそれが一番いいとおもわれる方法を取る。
 躰を福田に向け、福田が俺にしているのと同じように、俺からも手を福田の後ろに回し、その躰
をゆっくりと、そしてしっかりと抱き留める。
 部屋にはガーネット・クロウのバラードが流れ、高橋は微妙な空気を読んで、うんという頸突きを
俺に見せてから、そろりそろりと部屋を出ていく。
 俺は福田の頭を撫で、その耳元にそっと囁く。
「おまえ、また太ったろ……」
 五秒の沈黙の後、福田がその言葉に反応する。
「ばか……」
 それからまた無言になり、さきほどタバコを吸っていた時間よりも長いことそのままの体勢を維
持する。
 本当に厄介な女だ。だが、福田から見れば俺はもっと厄介な男なのだろう。
「おまえ、いいのか、カレシがいんだろ。なんだ、今年はまだ捨てられたって話は」
「ばか……」
 また同じ言葉を口にして、それからようやく福田が離れる。
「いっときますけど、今のはただの気の迷いですから。本気にしないでください」
 俺はふっと笑ってから答える。
「おまえのそういうとこ、かわいいんだよな。昔っから」
「馬鹿!」
32 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:28

 二人でリビングに戻る。
 高橋はなんというか、本気で心配していたらしく、神妙そうに福田の顔を窺う。
「気ー効かせてくれてありがとな。もう大丈夫だとおもうから」
「すいませんでした」
 福田が高橋に謝り、高橋はさらに困り顔になって俺を見る。
 仕方がない、ここは高橋のためにも、福田に発破をかけておくべきだろう。
「つーか、おまえさ、怖かったんじゃなくて、もしかして保田の結婚にショック受けてたんじゃねえの
か。女心ってのは複雑ってか単純ってか。友達の結婚の話聞いて嫉妬して、そんで焦って、どうし
ていいかわからず、とりあえず気を紛らわそうと俺をからかいに来たけど、逆にからかわれて、そ
んでショック受けてブルーになった、そんな感じだろ」
 いいながら、これはひょっとしてなくもない話ではないか、という気がして、しまったとおもう。
 百パーセントその通りということはないが、嫉妬や焦りというのは女の習性で、気を紛らわすとい
うのもありえる話。しかしそうなると、それは福田だけではなく高橋にもあてはまることになる。
「まあなんつーか、あれだ、おまえらも、今の若さを大切にしろってこった」
 必要のないことを口にしてしまったことを痛烈に反省する。
 俺の中にだって、嫉妬はなくても多少の焦りはある。そして焦りというのは、それを指摘されるこ
とが一番忌避される。
「私、嫉妬してたんですかねえ」
 発破のつもりが納得させてしまったらしく、福田が猫のようなおもいつめた顔で俺を見る。
「まあなんだ、相手が相手、保田だからな。あの保田が結婚するってんだから、そりゃたとえ結婚
願望がなくたって、悔しいって気にはなるだろ、女なら誰だって」
「そうですよね。あの圭ちゃんが結婚なんて、信じられないですもん」
 保田が聞いたらなんというか、しかし保田はここにはいないし、どこをどう間違ってもこれから先、
保田がここに来るというようなことは一度もないだろう。
33 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:29

 話は落ち着き、それぞれ席に戻って残りの缶チューハイの始末にかかる。
 福田と俺と高橋、やはりこの奇妙な組み合わせでは普通には進まず、しかしそれはそれで《らし
い》展開になったんじゃないかという気もして、俺はそれを幸せなことだとおもう。
 高橋が帰る時間になり、赤ランプが点滅したままの電話でタクシーを呼ぶ。
 その間、高橋はようやく気づいたのか、壁のモネの絵に見入っている。
「福田、悪いけど、送ってってやってくれるか」
「ええ、かまいませんけど」
「そっか、じゃあこれ」
 そういって財布から紙幣を三枚ほど取り出し、福田に渡す。
「いいんですか、これ、ちょっと多すぎますけど」 
「あいつ、どこに帰るかわかんないからな。念のためだ」
 そこは小声でいって、福田も理解したのか、それに頸突く。
「でも、絶対これ、餘りますよ」
「餘ったら貰っといてくれ。そんでなんかの機会にその分、返してくれたらいい」
「わかりました。でも、本当にいいんですか」
「俺は必要なことにしか金を使わない。おまえと高橋は、俺には必要ってこった」
「私だけでよかったんですけど、ま、いいです」
 本気なのか冗談なのか、福田がそんなことをいって、俺は右手で頭の後ろを掻く。
 そろそろタクシーが来るだろうというので、二人を部屋の玄関で見送る。
 下まで行ってもいいのだが、福田がいれば高橋は安心で、そこに男はいない方がいいだろう。
 なんせ高橋は写真週刊誌にばっちり撮られてるくらいで、警戒するに越したことはない。
34 :Rich1NDNCw :2013/05/19(日) 18:29

「じゃあな」
「うん。今日は楽しかったよ。じゃあね、セロリさん」
 高橋がドアの向こうに消えてから、福田がこちらを向いて、意味深なことを口にする。
「じゃあ行きますけど、戻って来るかもしれませんよ」
「ばーか、戻って来ても入れてやんねーよ」
「後悔しますよ?」
「考えてみろ。今日そんなことになったら、俺たちこれからずっとみじめだぞ」
 みじめという言葉が現実にマッチしたせいか、福田がくすっと笑う。
「ですね。わかりました。それじゃまた」
「ああ、またな」
 福田がいなくなり、リビングに戻って片づけをはじめる。しかし諦観のおかげで片づけはすぐに
終わり、俺は長らく放っておいた留守電の再生ボタンを押す。
 予想では福田が一件、残りが高橋。
 だが、俺の推理には重要なピースが欠けていたらしい。
 そもそも最初の一件目からして、俺は犯人を見誤っていたのだ。

《保田です。わかりますか。保田圭です。えーと、報告です。あたし、結婚します。んーと、本当に
いないの? んー、えーと、じゃあ、保田でした》

 俺はその録音メッセージを聞いて、そしてその録音メッセージを聞いたことに、ほろ苦い幸せを
感じ、そして静かにおもう。
 こんな人生も、まあ悪くはない。むしろ、こんな人生、俺にはもったいない。
35 :名無飼育さん :2013/05/20(月) 20:50
前回といい引きがうまい
36 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:01

 *****

 約束の時間より十五分ほど早かったが、店にはもう二人が来ていて、俺は右手を軽く上げて合
図をしてから奥のテーブル席へと進む。
 着いたばかりだというのにBGMはモーツァルトのクラリネット協奏曲の第二楽章、端(はな)から
こんな名旋律が流れているというのはなにかの暗示か、今夜の趣旨には最適だが、梯子を上げ
られた気がしないでもない。
「遅刻ですよ」
 灰色の縞セーター姿の福田がそういって、俺はそれを無視して椅子に座る。
 福田の隣には黒色のワンピースに白地に花柄のカーディガンを羽織った女性が座っていて、俺
ははっきりとそちらに話しかける。
「早かったね」
「あ、はい。あの、今日は、ありがとうございます」
 首には桃色の薄手のスカーフを巻き、髪には木の葉をあしらったカチューシャ、その見た目に統
一感はなく、化粧の薄い顔もかわいさと地味さとが同居していて、俺はいつも、この石川梨華に会
うたびに判断に困らされる。
「今かかってる曲、どんな感じ?」
 早速、といった感じで本題に入る。他人様(ひとさま)になにかを教授するということには慣れてお
らず、こういうものはさっさとすませた方がうまくいくに決まっている。
「いい感じだなって、今も福ちゃんと話してました」
 福ちゃんという呼び名に笑いをこぼしそうになったが、それも毎度のことか。
37 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:01

「福田はわかるか、この曲。誰のなんて曲か」
「わかるわけないじゃないですか。もうさくさんが来る前にかかってた曲なら、少しは聴き覚えがあ
りましたけど」
「それ、モーツァルトのクラリネット協奏曲、第一楽章だろ」
 やや声を落とし、抑揚を抑えていう。
「なんでわかるんですか」
「今かかってるのが第二楽章。その前なら第一楽章。基本だな」
「悪かったですね、基本がなってなくて」
 福田がわざとらしく拗ねて、石川が楽しそうに頬笑む。
 二人の仲がいいのは昔からだが、その昔のことを俺は不完全にしか覚えていない。俺がはじめ
て石川と会ったときの記憶はすでになく、覚えているのは石川の方が福田を慕っているような感じ
だったことくらいで、今もそれはかわらない。そしてなぜだか、俺は福田を介してこうして今も石川
と接点を持っている。
「そっか。モーツァルトだったんだ。いいですね、モーツァルト……」
 石川が静かにそういって、ハートのついたマドラーでグラスの中身をゆっくり、くるくるとかき混ぜ
ながら、うっとりと遠い目をする。マドラーを持つ指先にはびっしりとネイルアートがしてある。
 その様子はまるで別世界を一人、漂っているようで、俺は途端に入り込めなくなり、後ろを向い
て片手を上げ、マスターにカクテルを促す。いつものごとく、注文を告げる必要はない。
38 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:02

 時間帯がそこまで早くないせいか、カウンター席にはわけありげな男女が一組、隣のテーブル席
にもスーツ姿の男二人が座っている。しかしこの席に石川梨華と福田明日香がいるということには
気づいていないのか、興味がないだけか、おそらくはその両方だとおもうが、こちらを窺うような様
子はない。
 二人と同じブルーのカクテルが運ばれて来て、俺はそれを味見する。
 福田が石川の浮遊をたしかめてから、こちらに顔を戻す。
「それにしても珍しいですね。もうさくさんがジャケットって」
「ああ、まあなんだ、一応、な」
 いわれるだろうとおもっていたが、やはりいわれると、答えに窮する。
 別にめかしたつもりはなく、めかす必要もなく、普段通りの自分らしい恰好で来るつもりだったの
だが、服を選ぶのに時間がかかったのはたしかだ。
 約束が約束というのもある。
 福田を介してとはいえ、一週間も前から、クラシックについて教えてほしいといわれ、どんな曲が
あるのか、どんな曲を聴けばいいのか、どんな曲が合いそうか、などなど、次から次へと漠然とし
た注文が来て、自分が教える立場であることを認識させられ、しかもその相手は石川梨華――。
 どうも俺は石川という存在に苦手意識を持っているらしくて、その理由がわからずにいるせいで
こうしたおかしなことになってしまう。
 問題児の高橋などとはまったく違う。
 顔も性格も申し分なく、しかも好意と尊敬をもって接してくれている。
 苦手になる要素はどこにもなく、あるとすればネイルアートの必要性を俺が感じないということく
らいだが、たとえそれがなくても、苦手におもえることにかわりない。
39 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:02

 軽快な第三楽章に入ったところで、石川がこちらの世界に戻って来る。
「石川さん、ひとつ、訊いてもいいかな」
「はい、なんですか」
「なんで俺なのかな。ほかにクラシック好きな人とか、いなかった? だってほら、石川さん音楽関
連なわけだし、俺はクラシック好きだけど、詳しいってわけでもなくて」
「あ、でも、うーん、いなかった? かな?」
 疑問を疑問で返されても困るが、こういう自然体で飾らない反応は嫌いではなく、むしろ好ましく
おもえることなのに、やはり俺は理由のわからない《それ》に戸惑ってしまう。
「すいません。私が勧めたんです。あの人、クラシック馬鹿だからって」
 福田が冗談めかして割って入るが、そんなふうに謝られるとなにか俺が迷惑しているような印象
を与えてしまいそうで、俺は慌てて打ち消す。
「いや、すごい嬉しいんだよ。俺も石川さんの力になりたいし」
 無自覚にそんなことをいって、ふと、それもあるか、とおもう。
 石川は理由もなく過剰なのかもしれない。
 俺への好意や尊敬も過剰で、丁寧な接し方も過剰だ。そこまでされると、こちらもなにか返して
あげなければならないとおもうが、自分にはなにもない。
 しかし、自分は自分、他人は他人、そのふたつを無理に結びつける必要はない、という諦観に
至ったはずの俺が、なぜ石川にだけはギブ・アンド・テイクを必要とおもってしまうのか、やはりそ
の根本の理由にはたどり着かない。
40 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:02

「とりあえず、そうだな、今までどんな曲を聴いてきたか、それ教えてくれる?」
 俺は話を本題に戻す。石川が苦手な理由は帰ってからじっくり考えればいい。俺には金はない
が、時間と思考力だけはたっぷりある。
「えーと、あの、音楽の授業で聴いたのとかも?」
「印象に残ってるのとかだったら、それもいいよ」
「じゃあ、うーんと、ホルスト?」
 たぶん組曲・惑星のことだろう、俺が訊くと石川がそれです、と答える。
「あと、たーらーらーらーらーらーっていうの」
「グリーグのペール・ギュントだね」
「あ、別れの曲。あれも好きです」
「ショパンか。でも俺、ピアノの曲はあんまり詳しくないよ。有名どころはわかるけど」
「あと、浅田真央ちゃんの曲で、たらららー、たらららららーっていう」
 俺が考え込むと、石川が慌てた様子で補足する。
「途中で急に速くなって、たたったったったたらーららー、たらららたららら……」
「チャルダッシュか。あれは、誰の曲だったかな」
「そう、それなんですけど、CD買ったんですけど、なんかちょっと違ってて?」
「ああ、それだと、ヴァイオリンとかピアノとか、楽器で印象が違うかもね。あと演奏者によっても表
情が全然かわってくるし。俺もリコーダーのCDに入ってるの聴いて、びっくりしたから」
「リコーダーって、あの、リコーダーですか?」
「うん、縦笛。クラシックのイメージないけど、バロックなんかの普通の楽器だからね。プロもいるし、
感動するような演奏とかもあるし。俺もそれで衝動買いしたから」
41 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:03

 石川が驚きと感心のまなざしで俺を見つめる。地味だが抜群の表情といっていい。
 その過剰さにやはり困惑しつつ、《それ》を諦めて次を促す。
「あと、ピアノなんですけど、ショパンの、すごい好きな曲で、福ちゃん、なんだっけ」
「ノクターンです」
「そうそう、ノクターン。福ちゃんと二人でCD買いに行ったんですよ。ずっと気になってた曲で、それ
で福ちゃんに教えてもらって」
 福田が勝ち誇ったような顔をこちらに向けてきて、俺はすぐに顔をそらす。
「ノクターンか。あれは、うん、たしかに……」
 そこまでいって口をつぐむ。
 全部が全部ではないが、神の曲、それに近いもの――。そう表現されても俺には否定できない。
 ショパンの夜想曲(ノクターン)。たしか二十曲くらいあったとおもうが、全般的に抒情性のある美
しい旋律を持ち、ときに甘く、ときに侘びしく、ときに荒ぶり、無駄な音や妥協した音は見あたらず、
すべての音の餘韻に意味がある。
 だが、この曲に関しては、そう、俺は音楽では唯一かもしれないトラウマを持っている。
 その第一番ともっとも有名な第二番、その二つを続けて聴いたんだったとおもうが、そのとき小
学校低学年だった俺は、その旋律のあまりの美しさに怖くなり、どうしていいかわからなくなって号
泣し、嗚咽し、しばらく震えがとまらなかったことがあり、それ以来、俺は無意識にこの曲を遠ざけ
てきている。
 ショパンやリストのピアノ小品集に食指を伸ばさないのは、おそらくそのことが影響しているのだ
と自分ではおもう。
42 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:03

「どうかしましたか? 駄目でした? ノクターン」
 石川の声で我に返り、俺はカクテルを一口飲んで、気分を落ち着かせる。
「いや、うん、いい曲だよ。奇麗な曲で。石川さんにぴったりかもね」
「そうですよね。私、最近毎日聴いてるんですよ。なんかこう、うっとりチャーミー☆って感じで」
 突然おどけた石川に戸惑いつつ、しかし救われたおもいでほっとする。
 こういうところもかわいくて、正直、最高だとさえおもうのだが、なぜ俺は石川を苦手に感じてしま
うのか。素直に受け入れればこれほど幸せなことはないのに、俺はそれを拒否している。
 小皿のピーナッツを一つ摘んで口の中に放り込み、間を置かずにカクテルを飲む。
 石川が好きな曲の発表を続け、曲名がわからないものは旋律をなぞって俺がそれをあて、たま
に福田が自分の好きな曲をいって俺があしらい、福田がふくれて石川が笑う。
 幸せな時間だとおもう。
 なのに俺はやはり、その違和感が気になってしまう。

 それなりに時間はすぎたが、まだ俺の二杯目のカクテルは残っていて、ロマン派の調べのように
雰囲気はゆったりとしている。
 俺は持参していたUSBメモリを石川に渡す。石川がクラシックの幅を広げたいらしいということは
福田からの電話でもなんとなく窺い知れたし、どんなCDをすでに持っているのかを聞いて、それを
たしかめることもできている。
43 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:03

「一応いろんな種類の曲を入れたつもり。メモ帳に簡単な説明も入れといたから、パソコンで聴くな
らそれも見といて」
「あ、わざわざすいません。そこまでしていただいて」
「いいっていいって。俺もいい勉強になったし。感謝するのはこっちの方かも」
 俺の好青年ぶりを見て福田が眉間にしわを寄せる。
「石川さんにはいっつも優しいんですよね。私そんなことされたの一度もないんですけど」
「なんでだろなあ」
 俺がそういって、福田が怒った顔で笑い、石川は優しい表情で自然に笑う。

 店を出て石川がタクシーで帰り、俺はふーっと大きく息を吐く。
「それじゃ、私も帰ります」
「うち、来てもいいぞ」
 深い意味はなかったが、解決の糸口を見つけるには福田の助言が必要な気がして、俺は言葉
をつけたす。「ちょっと話しときたいこともあるし」
 俺の表情が真剣に見えたのか、福田も真顔になる。しかし、これはフェイクだ。
「泊まる用意、してった方がいいですか?」
「どうしても泊まりたいってんなら、泊まらしてやってもいいけど」
「じゃあ、パジャマとか歯磨きセットとか、あと敷き布団と掛け布団と枕もいりますね」
 福田がしてやったりといった表情を浮かべ、俺ははいはいとあえて口に出していう。
44 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:03

 二人でタクシーに乗り、結局福田はそのまま来て、ためらうことなくうちに上がる。
「あ、ねえ、私にも教えてくださいよ。クラシック」
「教えるまでもないだろ。おまえだって知らないわけじゃない」
 大昔、福田が《俺の部屋》でヨハン・シュトラウスを好んで聴いていたことをおもい出す。
 まったく福田には合わない曲調だが、福田にとって音楽は楽しいもの、ということなのかもしれな
い。
「じゃあ勝手に聴きますからね。使いますよ」
 福田が隣の部屋に消え、オーディオのスイッチを入れたのか、すぐにヘンデルが流れる。
 王宮の花火の音楽か、水上の音楽祭か、ヘンデルはもう二十年近く聴き続けているが、その曲
目はいまだに覚えておらず、覚えることに意味があるともおもえない。単にバロック時代の雰囲気
が好きなだけで、一曲一曲の個性をヘンデルに求めるつもりはない。
 俺も隣の部屋へ移り、アームチェアに座った福田がこちらに顔を向ける。
「話があるっていってましたけど、なんですか」
「ああ、なんつーか、高橋のこと、というか、俺が記憶喪失になってたときのこと、かな」
 俺にはそんな時期がある。昔の話だが、その昔がいつまでのことを指すのかはわからない。
 それから俺は一人、呟くように話をする。
「こないだ高橋来たろ。でもあんとき、俺、わかんないことが結構あってな。というか、おまえもなん
となく気づいてるだろうけど、記憶を失ってた頃の記憶がな、今の俺にはなくなってて。正確にいえ
ば、あったりなかったり。いつのまにか完全に消えてて、それが消えたってこともわからない感じで。
それで、完全に記憶を取り戻したのがいつなのか、そんなのわかんないだろ。たしかめようがない
し。だから、その間のこととか、その部分がな、いつも気になってたりしてな」
45 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:04

 ヘンデルが気に食わなかったのか、福田が曲を次次とかえ、それでも俺の話はちゃんと聞いて
いるらしく、うんうんと頸突いてみせる。
「飯田さんとデートしたってこと、俺、いつもおまえに話すけどさ、それもさ、覚えてるうちに話しとき
たいっていうか、おまえに話すことで、話したってことは忘れずにすむっていうか。まあそんな意味
もあってな。飯田さんの話なんて、おまえくらいしか話す相手がいないし」
「私って、いっつもそんな役目ですよね」
「拗ねんなよ。その話だって、本当はもう忘れてることもあって。飯田さんに手料理作ってもらった
のは覚えてるけど、それがなんなのかはおもい出せないんだよ。まあ昔の話だし、普通に忘れた
のかもしれないけど」
「パエリア」
 福田が抑揚なくいい、俺は動きをとめる。
「だからパエリアです」
 二度いわれてもわからず、その意味を考える。
「それ、俺がいったのか」
「ええ。何度も聞きましたよ。あとフランベで失敗したとか、そういうことも」
 静かに息を一つ、二つ、三つめは大きく吐き、俺はそれを《諦めの境地》で受け入れる。
 話したところで消えるものは消える。俺の知らない俺も、いつかは完全にいなくなる。
 やはり、そういうことらしい。
46 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:04

「そっか……。それじゃ、俺、無駄な努力してたってわけか」
「私はその無駄な努力につき合わされたってことに、なりますね」
 福田がアームチェアを回転させてベッドに座る俺の方を向く。
 楽しそうな笑みを浮かべているのは、俺が深刻にならないようにとの福田の慈愛だろう。
「そっか……。まあそうだな、それはもう、仕方ないことか」
 俺は動揺を処分し、話を進ませる。今日の本題はここだ。
「それじゃ、次は石川さんのことなんだけど、俺、そのとき、なんかあったかな?」
 漠然とした質問だが、そうとしか訊きようがない。
 福田が首をひねり、考え込む。福田のことだ、質問が漠然としていることの意味は察しているだ
ろう。
「特になにも、おもいあたりませんけど」
「俺が石川さんになにかしたとか、逆に向こうが俺になにかしたとか」
「うーん、そうですね。むしろ、なにもなかったんじゃないですかね。私もあまり覚えてませんし、覚
えてないってことは、そういうことですよね」
 それもまた漠然とした答えで、しかし結局の事実はそんなところなのだろう。
 俺が石川を苦手とする理由はそこにはない。
 そうなると、石川本人とは関係なく、俺の人生体験のうちのなにかが、石川と結びついているとい
う幅の広い可能性だけが残る。
47 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:04

「なあ、ちょっとセロリ齧っていいか」
 わざわざ許可を求めたのがおかしかったのか、福田が笑って、どうぞ、と答える。
 俺はキッチンへ行き、冷蔵庫の野菜室からセロリを一本まるごと取り出す。
 水道の水を流して軽く洗い、棒を振って水気を切り、葉の部分を入るだけ口に入れてまさに《む
しゃむしゃ》と噛み味わいながら、ベッドに戻る。
「いつもおもうんですけど、いってもいいですか」
 福田が尋ねてきて、俺がおう、と答える前に、福田がその言葉を口にする。
「変態ですよね」
 たしかに普通の人はセロリを丸ごと齧ったりはしないが、その表現はどうか。
 俺は表情をかえずに福田を見る。
「普通ではない、ということなら認める」
「そんなに美味しいですか。セロリ」
「美味しいというか、清涼剤だ。タバコ吸うのと同じ、その逆の感じだな」
 セロリには清涼剤としての普遍性がある。だが、人は人それぞれ、それを必要としない人がいる
ことくらい、考えなくてもわかる。
 葉の部分はすぐに食べ終え、茎の部分を少しずつ楽しみながら噛み砕いていく段階に入る。
48 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:04

 気分は幾分すっきりし、俺は話を記憶のことに戻す。
 記憶が消えてしまうということをはっきり理解した今、俺は福田に対して、今のうちに訊いておか
なければならないことがある。
「なあ、一つ変なこと訊く。変なことというか、大事なこと」
「私の男関係のことなら、いつもいってる通りですよ。かなり派手です。片手では全っ然ですよ」
 はぐらかしたつもりだったのだろうが、話は遠からずあたっている。
「ああ、そのことだけどな」そういって、五秒ほど置いてから、意を決して言葉を続ける。「俺、おま
えを抱いたよな。《あの部屋》で」
 福田の表情がかわる。俺がふざけているのではないと判断したらしい。
「ええ、抱かれました」
 福田が静かな口調で答える。
 そこにはなにもない、という淡白な感じにも聞こえるが、冷静に答えたせいだろう。
「それ、一度だけか。それとも、二度三度……」
 俺の中に、福田を抱いた記憶はある。ただ、その記憶は、はじめて抱いたというようなものでは
なく、その前のことは、それがあるのかないのかさえ俺にはわからない。
「百回くらいですかね。それはもう、野獣のようにむさぼられましたから。最低な男です」
 冷静な表情のまま福田が答え、俺はそのフェイクフェイスにしてやられたことに敗北感を味わい
つつ、内心で安堵もする。
49 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:05

「冗談じゃなくて真剣に訊いたんだぞ。俺にとっちゃ大事なことなんだから」
「私にとっても大事ですけど、でもそんなの、いいじゃないですか」
 福田の表情と口調がなぜか怒りはじめの様相を見せ、俺はそのことに戸惑う。
 今度はフェイクではなさそうで、そうだとすると、デリケートな問題に踏み込んだせいか、《抱く》と
いう表現を使ったせいか、その回数を訊いたせいか、どれもが原因におもえる。
 俺は横向きにしたセロリをしっかりと両手で掴み、相手のペースにならないように、慎重に言葉
を選ぶ。
「よくないから訊いてる。俺の中では一度しか抱いてない。でもその一度がはじめてかというと、違
うとしかおもえない。だから、訊いてる。おまえがそのことを忘れたいなら、それでもいいけど、でも
俺は忘れたくないし、本当のことを知りたい」
 いい終えてすぐに反応はなく、十秒以上して、福田は椅子を半回転させてオーディオの停止ボタ
ンを押し、さらに半回転させてこちらに向き直り、それからじっとりとした目線を俺に向けてから口
を開く。
「だからどうだっていうんです」
 力強い言葉で、しかしそれはどんどん強くなっていく。「忘れたっていいじゃないですか。なんでそ
んなことにこだわるんですか。抱きたいならまた抱けばいいじゃないですか! それでいいじゃな
いですか! そういうの、女女しいですよ」
 いわれて、俺は躰と心を同時に縮ませる。
 正論だとおもう。それが正論だ。抱きたければまた抱けばいい。その通りだ。飯田のことにしろ
福田のことにしろ、たしかにこの話をする俺に男らしさは微塵もなく、それは諦観とはほど遠い。
50 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:05

 俺は大きく頸突き、全面的に賛同したことを示してから、次にいうべき言葉を考える。
「食うか?」
 セロリを福田の方に差し出す。
 福田が噛みしめた唇を左右にくいくいと動かし、それから鼻息をふっとこぼし、ようやく目尻を下
げる。
「ちょっといいすぎました。もうさくさんにも事情があるんですもんね。おもい出が消えたら、私も寂
しいですから」
「いや、こっちも変なこと訊いて悪かった。ただ、百回ってのは冗談だよな」
「さあ、それはどうですかね」
 結局、確認できたのは俺が福田を抱いたことがあるという既存の事実だけ。しかし福田のいうよ
うに、そんなことはどうだっていい。
 俺が福田を好きなら好きで、百回だろうが二百回だろうが、これからその数を増やしていけばい
いだけの話、福田がそれを拒否するならそれを受け入れさせる過程を楽しめばいいし、今の俺が
福田にそういう感情を抱いていないなら、今の関係を続ければいい。
 セロリが残り十センチまで短くなり、俺はそれを持ったままベッドからクローゼットに移動し、その
中にあるCDラックを物色して、一枚のCDを取り出す。
 クラシックの名盤漁りをしていたときに、そろそろいいだろうとおもって買ったものだが、たぶん一
度だけしか聴いていないはずで、しかし処分することもなく、こうして今も残っている。
 マリア・ジョアン・ピレシュ、ショパン『夜想曲集』――。
51 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:05

 第一番、どこまでも豊かなピレシュの濃厚な情感表現、たっぷりとした深い芳醇な味わいに、緊
張しつつ胸が熱くなってくる。
「これ、聴いたことありますよ。ショパンですよね」
「ノクターンの第一番だ」
「ああ、これもノクターンなんですね」
「小さい頃にな、この一番と二番聴いて、怖くなったことがあってな。こんな美しい旋律が世の中に
あるのかって、それが無性に怖くて、そんで泣きまくって震えがとまらなくなって、救急車呼ぶかっ
てくらい、それくらい大変なことになって」
「へえ、そんなこと、あるんですね。感受性が強い子供だったんだ」
「強いっていうか、衝撃だったんだろな。下手すりゃあのまま死んでたかもしれない」
「まさか」
「いや、ほんと。姉貴がさ、ずっと頭よしよししてくれて、それで落ち着いたけど、それまでは息もで
きない感じで、実際に救急車も来たらしいし」
 なぜ福田にそのことを話すのか、自分でもわからない。わからないが、福田には俺のことをもっ
と知っておいてほしい、そんな気がして、好きだの嫌いだの愛だの恋だのとは別に、俺はやはり福
田を必要としている。
 最後のセロリを齧り終えた俺に、福田が声をかける。
「そういえばもうさくさん、シスコンでしたね。お姉さんっ子」
 福田にも弟がいて、俺には姉がいて、歳は俺の方が上だが、二人の関係にそのことが影響して
いることは、とっくの昔に気づいている。
52 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:05

「ああ、ほかの家族とは、そりゃもう物心ついたときから距離があったけど、お姉ちゃんだけはな、
一人味方になってくれて、気づいてたんだろな、俺のアスペに。なんとなくこの子は普通じゃないっ
て。かなり厄介なガキだったけど、姉ちゃんだけはずっと優しかったもんな」
「ちょっと自虐入ってますよ。なんか昔のもうさくさんみたい」
 いわれてみると、たしかにそんなことをいうのはひさしぶりで、昔の陰気な自分をおもい出す。
 おそらく曲のせい、だろう。
 第一番が終わり、甘くせつない第二番、やはり情感たっぷりの濃厚な演奏だが、一つ一つの音
は繊細で鋭く、暑苦しくはない。
「この曲、私も好きですよ。もうさくさんが泣いたのも、なんとなくわかります」
「そんとき聴いたのは、たぶんもっと静粛っていうか、整然とした無表情な感じで……」いいながら、
俺は自分で、今もその音を覚えていたことに驚く。大昔の昭和の話なのに、それは俺の中にあり
続けたということか。
「でも音がちょっと、もっとキラキラしてたかな。あれは誰の演奏だったんだろなあ、ワイセンベルク
とかかな……」
 最後の方はひとりごちて、俺は曲に意識を戻し、その刹那、現実に引き返す。
「なあ、一つ訊くけど、石川さんって、お嬢様か」
 一つの可能性が頭に浮かぶ。俺の人生体験の中に、石川を特殊に感じてしまう理由があるとす
れば、それは誰かと石川が重なっているというのが一番ありえる。初恋の相手や昔好きだった女
の線はない。そうすると答えは……、もう俺はそこにたどり着いている。
53 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:05

「突然どうしたんです」
「いや、石川さんって、雰囲気がお嬢様っぽいよな?」
「ええ。お嬢様っていうか、お姫様みたいな感じで、私は好きですよ」
「実際、お嬢様だったりするのかな。なんかそんな気がするんだけど」
「どうなんですかね。まあそういうことなら、私も結構なお嬢様ですけど」
 たしかに福田もお嬢様には違いないが、人には人それぞれの育った環境による微妙な雰囲気
の違いというものがあり、俺が今想起しているものは石川のそれにごく近い。
 福田の言葉を借りて補えば、お嬢様として育った優しいお姫様といった感じか。
 俺は気分もすっきりし、はいはい、と福田をあしらう。
「なんですそのいい方。お嬢様に対して失礼ですよ」
 自称お嬢様がそんなことをいい、俺は鼻でふっと笑って、話を終わらせる。
 尋ねるまでもなく問題はすでに解決している。
 石川の俺への丁寧な接し方は、姉のそれに似ている。そこに好意と尊敬を感じるのも同じだ。
 そして俺は、姉にだけはギブ・アンド・テイクの必要性を感じている。ノクターンで死にかけた俺の
頭を撫でてくれ、いつも味方になってくれ、多感な時期に家を飛び出した俺のことを理解してくれ、
俺がおっさんになった今でもその優しさはかわることがない。だから姉にだけは、俺はそれをいつ
か返さなければならないし、返してあげなければならないと強くおもうのだ。
54 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:06

 妖精が死霊と踊っているかのような妖艶な曲調の第三番、ピレシュの演奏は力強く、それでいて
一つ一つの音が妙に艶めかしく絡み合い、鼓動を高鳴らせずにはいられない、まさに名演奏だ。
 俺は両手を上げて伸びをする。
 躰がすごく楽になっていて、俺はその日、自分が幾分緊張していたことを知る。
 これでもう、石川に苦手意識を持つことはないだろう。
 石川は石川で、姉は姉。これからは石川のその好意と尊敬を素直に受け入れればよく、その幸
運をわざわざ拒む必要はない。ありえないことだが、場合によっては恋に発展させたって、誰も文
句はいうまい。
「もうさくさん」
 福田の呼びかけで思考を戻し、俺はなんだ、と声を返す。
「この曲、なんだか小人が踊ってるみたいですよね。ほら、焚き火の周りで、跳んだり跳ねたり、ブ
ランコしてたり。あと酔って喧嘩してる小人とか、いたずらして怒られてる小人とか」
 俺は苦笑する。表現の仕方はどうあれ、ショパンには普遍性があるらしい。
「ああ、俺もそんな感じ。普遍性のある音楽って、素晴らしいよな」
「ええ。私も、もうさくさんがクラシック好きな理由、ほんの少しですけど、わかった気がします」
 しばらく二人でノクターンを聴き続け、しかしほかにはなにもやることがなく、その先にも、結局は
なにもない、きっとそうに違いない。
 福田を抱きたい気持ちはゼロではないが、ここまで完璧な雰囲気ができてしまうと、それはそれ
で馬鹿らしくなる。俺にもこいつにも、ロマン派は絶対に似合わない。
55 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:06

「なあ、今夜泊まってけよ。なにもしないけど」
「私も今、そう考えてました。なにもしませんけど、泊まっていこうかなって」
「気が合うな」
「ええ。珍しいこともあるんですね」

 結局、その夜はなにもなく、しかし俺と福田は同じベッドで寝て、互いの寝相の悪さで躰が接する
というようなことはあったが、かわらぬ関係のまま、ともに朝を迎える。
「朝ごはん、私が作ってもいいですか?」
「いいけど、大丈夫、なんだろうな」
「大丈夫ですよ。私の料理で何人の男が堕ちたとおもってるんですか」
 苦笑する。たぶん一人もいないだろうが、確認の術(すべ)を俺は持ち合わせていない。
「ああ、わかったわかった。じゃあ任せた」
「それじゃなんにしましょうかね。パエリアじゃなくてもいいですか?」
「好きにしろ」
 笑っていって、俺は思考を過去に飛ばす。
 パエリアのこともフランベのことも、もう俺の頭の中には微塵も残っていなかったが、飯田がエプ
ロンを持参していたことと、それがものすごく似合っていたことを、ふと、はっきりとおもい出す。

 この部屋にも、エプロンが一つくらい、あってもいいかもしれない。
56 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:37
>>51 12行目
×頭よしてくれて
○頭よしよししてくれて
57 :Rich1NDNCw :2013/05/25(土) 22:40
専ブラだから気づかなかったが、そんな機能があったとはね……
てっきり脱字だとおもって訂正したのに、意味なかったorz
58 :名無飼育さん :2013/05/29(水) 18:47
このまま一通りキャスト登場か?
59 :Rich1NDNCw :2013/06/02(日) 20:06

 *****

 昼の一時をすぎてから突然昼食に誘う方も誘う方だが、そのまま誘われてしまう俺の方にもなに
か問題があるに違いない。
「よう、青年! こっちやこっち!」
 鍔(つば)の広い白色の帽子に、顔の半分を隠すほど大きい誰得(だれとく)なサングラスをかけ
た女性がこちらに手を振り、俺は店内には入らず、庭の方へと歩の向きをかえる。
 白色の丸いテーブルにやはり白色の椅子が四つ、それらをこれも白色の大きな傘が覆っている。
 床はすのこ風の木片を敷きつめたデッキで、それ以外は奇麗に刈り揃えられた芝生。それだけ
でもここがマダム御用達の店だということはわかる。
「ども。今日はお招きありがとうございます」
 藍色のノースリーブのワンピースドレスを着て、首から長長と銀色のネックレスをぶら下げた、誰
得サングラスの女性に丁重にそういって、俺は頭を深深と下げる。
「なんやそれ。そんなんいいからはよ座り。待ちくたびれたで」
「いらっしゃい、もうさく君。裕ちゃん、お腹空かしちゃってちょっとご立腹みたい」
 薄ピンク色のシンプルなパフスリーブの女性が優しくそういい、俺は空いている椅子に座る。
「姉ちゃん、久しぶり。今日はありがとう。ちょうど昼飯抜くか迷ってたところだったから」
60 :Rich1NDNCw :2013/06/02(日) 20:06

 その女性は俺の姉で、その姉が裕ちゃんと呼んだのは、その親友であるらしい中澤裕子――。
 中澤が結婚してから会うのは二度目で、前は店内だったが場所はやはりこの店、俺がわかるよ
うにこの店を指定したというわけではなく、ここが二人のお決まりの店なのだろう。
「にしても青年、平日の昼間にほいほい来れるっちゅうんは、ちと問題なんちゃうか?」
 中澤にいわれ、俺は軽く頸突く。
 自分でもそうおもっていたところで、それは痛くもかゆくもないが、問題は中澤がどういう反応を
望んでいるのかということで、俺はその逆をすればいい。
「まあ週に三日は休みですから、問題があるといえばありますね。でも、みんながみんな土日にし
か休めなかったら、土日は通夜になりますよ」
 俺は至極冷静な口調で答える。
 誘っておいて責めることの非礼を指摘すれば、それもそや、がははは、と笑って向こうの狙い通
り、反抗するのは論外、相手の責めを素直に受け入れつつ、冷静に質問の穴を突く、中澤対策に
はこれしかないし、そもそも最初からそれが諦観した俺の答えでもある。
 四十前後の主婦がこうして優雅な昼食パーティをすることこそ俺には疑問だが、なにを必要とす
るかは人それぞれ、俺にそれを指摘する意思は毛頭ない。
「ああ、まあ、それもそうやな」
 中澤がおもしろくなさそうにいって空を見上げ、姉がくすくすっと少女のように笑う。
 空は雲ひとつない快晴で陽射しが強く、俺は考えを改めて中澤の帽子とサングラスの必要性を
認める。
61 :Rich1NDNCw :2013/06/02(日) 20:06

 中澤が店の方を振り返り、手を上げて店内のボーイになにかを伝える。メニューはすでに告げて
あるということだろう。
「しっかし、土日が通夜になるっちゅうんは、うまい表現やな。ほんま」
「自分は平日でも土日でも、いつも感謝してますから。働いてる人がいるから暮らしていけるって」
「なんや、あんた、自己啓発でもはじめたんか」
「そんなのは高校生の頃に卒業してますよ。今はもう諦観してますから」
「ふーん、ようわからんけど、今日はなんや、人が変わったみたいやな」
「よくいわれますね。この前も高橋からお釈迦様みたいだっていわれましたから」
「ほお、愛ちゃんか。愛ちゃん元気にしとるんか。って、こないだ会ったばかりやったわ」
 その一人ノリツッコミに愛想笑いをすることなく、俺は椅子に深く背中を預ける。
 仕方なく中澤が自分で笑い、悔しいのか、さらなるちょっかいを俺に出す。
「そういやあんた、聞いたか。ま、当然知っとるわな。圭ちゃん結婚やで」
「ええ。知ってますよ。高橋もそれでうちに押しかけて来ましたから」
「びっくりやな。ほんま。うち、なーんも聞いとらんかったで。事後報告や事後報告」
「こっちは一応、保田から報告の電話がありましたけど、ま、それも事後ですね」
 ほお、と中澤がいい、俺の顔をサングラス越しでもわかるくらい、じろじろと窺う。姉はそんな様子
を楽しそうに見ている。
「でもあんた、自分が紹介した男に圭ちゃん取られたんやろ。聞いたで」
 別に取られたわけではないし、そもそも保田は俺のものになったことが一度もない。
62 :Rich1NDNCw :2013/06/02(日) 20:07

「姉さんが一番よく知ってますよね? 俺と保田の間にはなにもないって。元からただの友人の一
人ですよ」
 俺は微妙に声色を調整しながら、ゆったりとそう述べる。
 冷静すぎると強がっているように聞こえるし、速すぎると焦っているようにおもわれる。別にどうお
もわれようと平気だし、俺自身には関係のないことだが、こと中澤にかぎっては、この話題をとこと
ん楽しむために俺を呼んだに違いなく、それなら俺はせっかくの機会、その悪趣味を阻止して楽し
むだけだ。
 俺がまったく動揺を見せないせいか、中澤が躰をくねらせる。
「そやけど、そやけど、なーんや、おもろないやーん」
 もっと長引くかとおもったが、駆け引きはあっさりと俺の勝ち、中澤裕子も結婚してしまえばこんな
ものだろう。
 前菜とスープが運ばれて来て、話が一度とまる。
 中澤はどうあれ、姉が通っている店だからその味に間違いはなく、たまにはそういう幸せを満喫
するのも悪くない。
「あ、そうそう、圭ちゃんは結婚やけど、圭織も子供産まれたんやで。知ってるか」
「へえ、そうなんですか」
「まさかとはおもうけどな、あんたの子とちゃうやろな?」
63 :Rich1NDNCw :2013/06/02(日) 20:07

 それにしても、次から次へと、この人の悪趣味はどこから沸いて出て来るのか。
 俺も大阪に住んでいたからわかるが、関西人全員がこんな《アイサツ》をするのではないにして
も、関西にはその《アイサツ》を受け入れ、それをお笑いとして評価しなくてはならない空気がある。
 問題は、その空気がどこでも通用するのだとなぜか勝手におもい込んでいる迷惑な関西人が少
なからずいるということだ。
 俺はスプーンでゆっくりとスープを飲み終え、テーブルナプキンで丁寧に唇を拭いてから、ようや
く言葉を出す。
「どうですかね。わかりませんけど、どちらにしても、無事に産まれたんであればおめでたいことで
すよね」
「なーんや、あんたほんま、どうしたんや? ほんま別人みたいやんか」
 いわれてようやく、俺はふっと笑いの息をこぼす。
「だからいったじゃないですか。諦観したって。おかげで毎日が幸せの連続ですよ」
「なんやテイカンって?」
 中澤が姉に尋ね、姉が首をひねりながら答える。
「うーん、そうねえ、物事の本質を見て、形や色や、そういう見た目に惑わされない、そんな冷静な
心境になったってことかな? もうさく君、これで合ってる?」
 さすがは俺の敬愛する姉だ。俺が説明するよりも端的で完璧、おもわず深く頸突いてしまう。
64 :Rich1NDNCw :2013/06/02(日) 20:07

「ほんまお釈迦様やな」
 中澤がそういって、しかしまだ諦めきれないらしく、続けざまにいう。
「市井さんとこの紗耶香さんにも三人目の子が産まれたんやけど、それもあんたの子や……ない
わな。うんうん、わあっとる」
 それは初耳だったが、そういえば今年のはじめ頃、ネットのニュースで妊娠中というのは見たよ
うな気がする。
「まあ違うでしょうね。市井とは、それこそもう何年も会ってませんから」
「そか。ほなあんた、今は誰と交友があるん?」
「福田とは今もよく会ってますよ。なにもないですけど、先週も泊まっていきましたし」
 中澤の頬がぴくぴくと動く。今のところ福田とはなにもないのは事実で、変な勘繰りをされたとこ
ろで俺が動揺することもなく、姉の前で堂堂といえるくらいだから、そこに怪しむ餘地はない。それ
に実際に俺は福田を必要としていて、そのことを隠しても意味はない。
「ふーん、福田さんとこの明日香ちゃんか。あんたら、今も仲いいんやなあ」
 その呼び方にどんな狙いがあるのかよくわからないが、今ではやや疎遠な間柄になってしまっ
ている、ということなのかもしれない。
「それと、石川ですね。石川と福田の二人、親友だって知ってます? それでたまにですけど、福
田とセットで会ったりしますね」
「ほお、それは意外な組み合わせやな。どこで仲ようなったんや?」
65 :Rich1NDNCw :2013/06/02(日) 20:07

「ああ、高橋のいた、《あの部屋》みたいですよ」
「そかそか。ほなうちらと一緒やな」
 中澤と姉とが出会ったのも、そういわれれば《あの部屋》しか考えられない。
 俺の記憶にはまったくなく、しかしそのことを疑問におもうこともなかったが、この二人に接点が
できるとすれば、そこには俺がいて、俺がいたのは《あの部屋》。姉が俺に会いに来て、中澤があ
の部屋を訪れる、そう考えなければ二人が親友である理由は説明できない。

 前菜が片づき、メインディッシュが運ばれて来る。
 前に招かれたときは、《牛フィレ肉の赤ワイン煮込み・キャビア添え・パン付き》というようなしっか
りした感じだったが、今日は皿の大きさに比べて量が少なめの、《卵練り込みスパゲッティ・こんが
りガーリック入り・刻み紫蘇かけ》といったところか。
 しかしいざ口にすると、それがただのスパゲッティではないことはすぐにわかる。
 まるで神尾真由子のタイスの瞑想曲の演奏のように麺自体が濃厚で芳醇、一度食べたら三日
は断食ができる。
「すごいなこれ。これ、なんて料理?」
 姉がメニュー表を見て、トリュフを練り込んだタリアテッレだと教えてくれる。
 そのタリアテッレというのはわからないが、トリュフといわれれば納得するしかない。
 間違いなくうまいが、これから一生食べることがなくても、俺が幸せであることにかわりない、そ
んな俺には不要な料理だ。
66 :Rich1NDNCw :2013/06/02(日) 20:08

「さっきの話やけど、ほかにはおらんのか」
 量が少ないわりに三人とも食べるのが遅く、間を持たそうとしたのか、中澤が話題を振り、俺は
口の中を空にしてから、それに答える。
「あとは、高橋ですかね。まあ単にこの前ひさしぶりに会っただけですけど。男ができる前なら、意
味もなく電話がかかって来たりってのがありましたけど」
「おうおう、そやそや、愛ちゃんあれやろ? お笑いやろ?」
 中澤が前のめりになり、下卑た口調でいう。そういう話題が楽しくて仕方がないらしい。
「らしいですね。自分も詳しくないですけど」
「そいや、あれ、あんたに似てないこともないで。あんたの方が十倍は男前やけど」
「まさか。顔の種類が全然違いますよ」
「せやけど、なんか似てるで。酔って馬鹿になったときのあんた、あんな感じやったろ」
 いったいいつの話をしているのか。
 たしかに中澤たちとはじめた会った頃の自分は、学生気分が抜け切っておらず、酔ってはめを
外すこともあったが、それも最初のうちだけの話、高橋と知り合う前にはもうそんなことはなく、た
とえあったとしても、客観的に見て、自分とその男に共通点は見出せない。
67 :Rich1NDNCw :2013/06/02(日) 20:08

「それは心外ですね」
「あれ、怒ったんか? でもあれやで? あんたの方が百倍はいい男やで?」
 相手が福田であれば、わざと怒った表情を見せたり笑って見せたりもするのだが、相手は中澤、
微妙な機知に反応できるタイプではない。十倍を百倍にすれば納得すると考えているような単純
な女だ。
 仕方なく、俺はその単純さを攻めることにする。
「姉さんがキャメロン・ディアスに似てるのに比べたら、わかりますよね?」
 俺がそういうと、中澤はサングラスを下にずらし、その日はじめてその目を俺に見せる。
「うん? キャメロン・ディアス? うちか? うちのことか?」
「ええ。二人は誰が見てもそっくりですよね。そういうのを似てるっていうんですよ」
 諭すように静かにそういって、俺は中澤と目を合わせる。
 大昔、メグ・ライアンに似てるとかなんとか、そんな与太話を聞かされたことがあったが、そのとき
の中澤はかなりのご満悦で、俺の頭の中には当然それがある。名前をかえたのは単なるおもいつ
きだが、目が二つに耳が二つ、鼻が一つに口が一つ、それに鼻の穴が二つあれば、誰だって似て
るといえないこともなく、俺の直感もまんざら捨てたもんじゃない。
68 :Rich1NDNCw :2013/06/02(日) 20:08

 狙い通り、中澤がうんうんとはっきりと頸突き、少し空を見上げてから、視線を戻して応える。
「うーん、まあそうやなあ。うちもなあ、ちと迷惑やったりもするんやで。街歩くやろ、そしたらキャメ
ロン・ディアスさんですか、サインしてくださいとか、キャメロンさん、握手してくださいとか、よう頼ま
れてなあ。最初の頃はほんま、うちのこと誰も知らへんのやろか、うち、人気ないんやろかて、ほ
んまよう悩んだで。せやけど、キャメロンにそっくりなのはしゃーないことやしな、キャメロンが悪い
わけでもなし、うちが悪いわけでもなし、それからはな、もう諦めてサインすることにしてん。でも綴
りわからへんやろ、せやから片仮名でな、キャ・メ・ロ・ンって」
 上機嫌の中澤劇場がはじまり、それは俺の予想を越えて長長と続く。そんな中澤を見て姉はくす
くすとおかしそうに笑い、俺もそんな姉を見て心を和らげる。
 姉にはいい親友がいて、中澤にもいい親友がいる。
 それは偶然の産物であるにしろ、俺が二人にしてあげられた唯一の恩返しかもしれない。

 昼食パーティを終えて家に帰り、それをどこに飾ろうかと俺は思案する。
 俺の手には色紙があり、そこには片仮名で《キャメロン・ディアス》と書かれてある。
69 :名無飼育さん :2013/06/07(金) 22:24
中澤さんまだ所帯じみてないね
70 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:49

 *****

 一階のオートロックを解錠して一分か二分か、今度は部屋のインターホンが鳴って、俺はドアを
開ける。
 見えた顔は二つ。一つが石川であれば、その後ろは福田のはずだが、俺の目はそれを否定し、
俺の脳もそれを否定する。
「わあ、ほんとだ。ほんとにもっちーだ」
 記憶を遡ったところで、俺が誰かから《もっちー》と呼ばれたことは一度もなく、俺はその理由を考
えるよりも早く、その理由を考えることをやめる。
「こんにちは。今日もお邪魔しに来ました」
 石川が地味な笑顔でそういって、俺は一つ、二つ、軽く頸突く。
 緑色と白色のややゆったりしたコットンボーダーニットに、ベージュ色のショートパンツ、頭には草
色のニット帽をかぶり、手には黒色のメッシュバッグと茶色い紙袋。今日はそれなりにまとまってい
て、俺の目はその素脚を縦に一往復してから、顔に戻る。
「ああ、いらっしゃい。えーと、安倍さんも……」
 その名前を口にして、ひさしぶり、という言葉が必要かどうか、俺はほんの一瞬だけ迷い、やはり
そこで口を閉じる。
71 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:50

 安倍なつみ――。たしかに初対面ではない。大昔に会ったことはある。
 あるが、それは多くてもせいぜい二度くらいのはずで、俺の顔と名前を向こうが今も覚えていると
いうほどのものではない。
 そのときの俺が安倍の態度にうんざりし、安倍の方も俺の態度を不愉快に感じたとしても、十年
も前の話だ、俺はそこまで恨まれ続けるほどの男前ではなく、俺だってぼんやりとしか覚えていな
い。安倍が有名人でなければ完全に忘れていたはずで、そうなると答えは一つしかない。

 石川が茶色のブーツを脱ぎ終わってから、安倍が赤色のスニーカーをすんなりと脱いで、楽しそ
うに俺の顔を見る。
「へえ、でもあれだね、もっちー、全然かわんないよね。ちょっとおっさんだけど」
「そんなことないよ。すごいいい人だよ。だから来たんだもん」
 安倍の言葉にも難があるが、俺を擁護したらしい石川の言葉もそれと同等で、俺は国語の入試
問題をおもい浮かべる。
 《あれ》とはなにを指すか。《全然》と《ちょっと》の関係を次の中から選べ。《いい人だよ》とはどの
言葉に対する返答か。《だから》を正しい接続詞に直せ。
 しかしどの設問も俺には解けそうもなく、正解を聞いてもどうせ納得には至らない。
72 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:50

 二人をリビングに招き入れると、石川が手に持っていた茶色い袋を俺に渡す。
「あの、これ、クッキー焼いて来たんですけど。みんなで食べようとおもって」
 まさかの展開に俺は動揺する。それが嬉しかったからというのではない。いつのまにか俺の周囲
から手作りクッキーという存在が消えていたという《忘れていた事実》がそこにはある。
 学生時代にはいろんな女が点数稼ぎにそれを利用していたし、中澤や福田はないにしても、保田
の失敗作を食わされたこともある。市井なんかは俺の部屋で作ったこともあり、あまりおもい出した
くはないが、後藤の手作りクッキーに小躍りしたこともある。それは、その頃の彼女たちがまだ乙女
時代を生きていて、俺もまだ青春の中にいたということなのかもしれない。
 いつのまにか俺も歳を取り、彼女たちも同じだけ歳を取り、自然とそのようなことはなくなって、そ
れでよかったはずなのに、目の前の石川は本当にそれでいいのかと俺に再考を促すかのように、
三十手前の乙女の表情を俺に向けている。
「ああ、ありがとう。悪いね、なんか気ぃ使わせちゃって」
「いえ、いつもお世話になってるんで。それに、久しぶりに焼いてみたくなって、だから練習台みたい
でちょっと申し訣ないんですけど」
「いや、うん、それじゃ期待させてもらおうかな」
 俺の言葉に石川が目尻を下げ、俺はその表情に少しドキッとした自分に苦笑する。
73 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:50

「ねえねえ、なっちもねえ、ほら、ポッキー持って来たよ、はい」
 安倍がライトグレイの半袖ブラウスに斜めにかけたショルダーバッグから赤い箱を取り出し、俺は
なぜかそのことにものすごい安心感を覚える。
「ああ、それじゃそれも一緒にいただこっか。紅茶でいいかな」
「うん、いいよ」
「石川さんもいいかな。ダージリンしかないけど、大丈夫?」
「あ、はい。なんでも大丈夫ですよ」

 福田が《アラジンの魔法のランプ》と称した透明の紅茶ポットに茶葉を少し多めに入れ、電気ケト
ルのお湯を注ぐ。それはそのまま置いておき、細長い貝殻状の透明な小皿にクッキーを載せ、ポ
ッキーはカクテルグラスに突っ込んで、ティーカップとともにテーブルに運ぶ。
「砂糖もあった方がよかったよね。スティックのでいいかな」
「あ、うん」
 キッチンに戻り、ポットと客用のスティックシュガーを二本、取って戻ると、石川が楽しそうに声を
出す。
「あ、魔法のランプ」
「ああ、福田がそんなこといってたな」
「これ、福ちゃん、すごいお気に入りみたいですよ。お店屋さんで探したりしてて。でもなかなかいい
のが見つからなくって、いつか奪ってやるっていってました」
74 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:50

 石川がいって、俺は苦笑する。
 冗談なのか本気なのか、まあ福田はその両方で、石川はそれを冗談だとおもったから話したの
だろう。
 茶葉がゆるりと開き、ポットの紅茶を順番にカップに淹(い)れていく。
 石川が興味深そうにその様子を見つめているが、そこに安倍の姿はない。
 俺がキッチンにいたときには、安倍は壁に掛けてあるクロード・モネの絵を間近で眺めていて、今
は中腰になってパキラの鉢植えに向き合い、なにやら話しかけている。
 紅茶を淹れ終え、俺は少しだけ小声で、ようやくそのことを尋ねる。
「今日は、福田は?」
「あ、聞いてませんでした? 今日は私だけですよ。福ちゃん、いろいろ忙しいみたいで」
 電話ではいつものように福田も来るような感じで、俺もてっきりそうおもっていたのだが、しかし来
ないどころかその代役が安倍だというのはどういうことか。
「それじゃ、安倍さんは、なんで?」
「あ、うん。あの、話すと長くなるんですけど、いいですか?」
 俺はこくりと頸突いてから、横目でパキラの様子を窺う。
 安倍は薄い水色のスキニーパンツのお尻をこちらに向けたまま、会話に加わる気はないらしい。
なにやら、ふふんふふんふふ、と口ずさんでいて、俺はそれをこの木なんの木の歌と解釈する。
75 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:50

「えっと、ほら、クラシック貸してもらったじゃないですか。それで、聴いてたんですよ、そしたらなっ
ちが、なに聴いてるのって。先週仕事で一緒になって、そのときのことなんですけど」
 端的ではないが、優しい性格がわかる話し方で、俺はうん、とわかりやすく頸突く。
「それで、クラシック教えてもらってて、それ聴いてるっていったら、どんな人って。それで話したら、
なんかなっちも、もうさくさん? のこと、知ってたみたいで。それで、今度返しに行くっていったら、
じゃあ一緒に行きたいって。それで福ちゃんにお願いして電話してもらって」
 俺の名前をいうときに疑問形になるのは、石川がそれを苗字なのか名前なのかわかっていない
からで、俺も福田も、そのことに気づいていながら、それを説明しないまま今に至っている。
 うまく伝わったかな、というような表情を石川が浮かべ、俺はすぐに返事をする。
「そっか。うん、それでわかった。突然だったんで、ちょっとびっくりして」
 まったく長い話ではなかったが、わかったことは二つある。
 福田が知っていながら俺にいわなかったのは、まず間違いなく、俺を困らせるためで、福田が来
なかったのは、俺のかつての見聞を踏まえると、安倍を回避したため、だろう。
 安倍がじゃあまたね、とパキラに告げて、ようやくテーブルに戻って来る。
「ねえねえ、もっちーってさ、すごいセンスいいよね。この部屋とか、なっち、ちょっと感動だよ」
 石川の話を補足することなく安倍がそういって、俺は予期せぬ賛辞に戸惑う。
76 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:51

 そういわれれば、安倍はモネの絵を喰い入るように眺めていたときも、《へぇ》とか《ほぉ》とか、そ
んな感嘆の声を漏らしていたか。パキラにも喰いついたところを見ると、数少ない俺の趣味の理解
者という可能性もある。
「ああ。そうかな。殺風景とか寂しいとか、そんなふうにいわれることはあるけど」
「えー、それ絶対おかしいよ。だってさーあ、すごいおしゃれじゃん。その絵なんか、すごいいい絵だ
し、ほら、いい感じにアクセントになってるし、その木だって、観葉植物っていうの? すごいかわい
いし。ほら、このカップだって、なんかクールな男の人って感じで、なっちは好きだけどな」
 まるで俺の趣味を俺に説明してくれているかのようで、俺は冷静にそれを聞き入れる。
 たしかにこのティーカップとソーサーはイギリス製のウェッジウッドで、花柄などの餘分な装飾のな
い、金色の縁取りに翡翠色のボーダーというシンプルな優雅さに惚れて、値段を見ずに購入を決
めたもので、そこには自分の嗜好が端的に表れている。
 ただ、クールな男の人という感じで好き、というのはどういう意味か。
 クールな男の人の趣味、といいたかったのか、それともカップだけではなく、部屋の雰囲気も含め
て好きだといったのか、まさか俺のことをいったわけではないだろう。
「ああ、まあ、なんというか、今は何事もすっきりさせたいっていう性格で、自分が必要なものだけを
必要としてるから、かな」
77 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:51

 安倍の言葉を不必要に理解しようとしたせいで、俺はそんなことを口にする。誰になにを説明した
のか、自分でもよくわからず、俺は無性にタバコが吸いたくなり、その代替品を目の前に探す。
「へえ、そうなんだ。なんかもっちーって、本当にクール・ガイだよね。なっち、今日来てよかった」
 その日の行動を見ればお世辞がいえる子ではないというのは明らかで、それが素直な感想なの
だろうが、なにやらメダパニを連発されているような気がして、俺は試しにマホカンタを唱える。
「ちょっとおっさんだけどね」
「えー、そんなことないよ。だってさあ、すごいかっこいいよ、シャープな感じで。今そういう男の人っ
てあんまりいないんだよ。貴重品だよ?」
 どうやら最初から戦わずに逃げた方がよかったらしい。
 俺は石川に目をやり、ティータイムを告げる。
「ま、いろいろ話もしたいし、とりあえず石川さんのクッキー、いただこうか。安倍さんのポッキーも」
「はーい。それじゃ梨華ちゃん、クッキーもらうね。なっちのポッキーも食べていいからね」
「うん」
 自分は自分で他人(ひと)は他人、自分は自分の必要なことだけを必要とし、自分の必要なもの
だけを必要とすればよく、他人がなにを必要とするのかは他人それぞれで自分には関係ない……。
俺のその諦観は間違ってはおらず、俺はその諦観によって自分を世界で一番幸せな人間だとおも
うに至ったはずだったが、どうやら世界は俺が必要としている以上に広いらしい。
78 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:51

 石川のクッキーは普通の味で、安倍のポッキーは当然普通の味で、紅茶は俺がこれと決めたも
のだから適度な渋みの満足な味で、俺は適宜その紅茶を口にしながら、石川の話を聞く。
 安倍は最初にあの絵が誰の絵なのか、あの木がなんの木なのかを訊いてきただけで、その後は
開いたドアから見える隣の部屋が気になったようで、今はそちらに夢中らしい。
 以前の俺なら自分勝手な女だと感じただろうが、ちゃんと許可を得てから隣に行った点は常識の
上での行動ということになるし、当の俺もそれを許していて、そこに不快さは微塵もない。
 むしろ安倍は清清しいまでに自分が必要とすることだけを必要としていて、俺はそのことに深く感
心する。
「あ、でもやっぱり、ヴィヴァルディの四季はすごいなって。ちゃんと聴いたことなかったから」
 石川が気に入った曲の発表をして、俺はそこに相槌を打ったり簡単な説明を加えたりする。
 なんとなく掴めてはいたが、石川の基本はやはり爽やかな曲であるらしい。
 クラシックというよりはヒーリング音楽に近く、その点では福田の好きな、しつこくまとわりつくよう
なヨハン・シュトラウスは無理だが、しかし爽やかであれば激しい曲調でも荘厳な曲でもいいようで、
クラシックにのめり込む素質は十分に備わっている。
 俺は隣の部屋の安倍の様子が気になり、石川に尋ねる。
79 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:51

「なにか聴きたい曲とかあるかな。誰の、でもいいし、どんな、でもいいし」
「うーん、それじゃあ、あんまり有名じゃないけど、もうさくさん、が大好きっていう曲?」
 クラシックは好きだがそれほど詳しいというわけでもなく、それは難しいリクエストだが、しかし自分
の好みのままを素直に出せばいいだけで、それならうってつけの曲がある。
「うん。それじゃ、おもいっきり趣味全開で行かせてもらうね」
 そう告げてから隣の部屋へ向かう。
 安倍はオーディオラックに並んでいるCDを漁っていたところで、俺に気づいて声をかける。
「あ、ねえねえ、もっちー見てよ。コッコがあるよ。ほらほら」
 自分の部屋で自分のCDだから見るまでもないが、その嬉しそうな感じは理解できなくはない。
「ああ、その一枚だけだけどね。ジャズテイストでかっこいい感じだったから」
「へえ、なっちねえ、このアルバムは持ってないけど、コッコ好きだよ。コッコの歌詞とか、叫びたく
なるような感じとか、大好き」
「ああ」
「ねえ、ガネクロも好きなの?」
 ちまたではそのように略すのか、安倍が俺に尋ねる。たしかにその隣にずらっと並んでいる小島
麻由美はこじまゆだから、ガネクロでもかまわないが、問題はそこではなくその尋ね方で、Coccoと
は違ってあまり好きではないといいたいらしい。
80 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:52

「好きというか、よく聴いてる、って感じかな。全体的に無駄な音が少なくて、聴いてて悪くないし、声
も一つの楽器として成り立ってて、そのことが大きいかな」
「ふーん、なっちねえ、ガネクロの歌詞はあんまり好きじゃないんだよね。なんか意味がよくわかん
ないし」
 その言葉で、俺はようやく昔の安倍の騒動のことをおもい出すが、わざわざその話題を避ける必
要もないだろう。
「俺は歌詞とかまったく聴かないからなあ。むしろガーネット・クロウの場合は、なにいってるのか聴
き取れない感じで、そこが一つの楽器みたいで、そういうのって邦楽だと珍しいんだよね」
「そうなんだ。もっちーってさ、やっぱりすごいね。なっち、そんなの全然考えたことなかったよ」
 安倍が素直に感心し、俺はその素直さに素直に感心する。
 それまでの俺が安倍にいい印象を抱いていなかったのは、今ならわかるが単なる誤解で、俺に
安倍を理解するだけの思考や価値観や経験がなかっただけの話、俺はこの歳になってようやく諦
観に至ったが、安倍は生まれつき、意識せずに自然とそれを身につけている。

 オーディオを操作し、石川のリクエストを流してからリビングに戻る。安倍もその後ろに尾(つ)い
てきて、椅子に座ってクッキーに手を伸ばす。
 ボリュームは大きめにしてあるが、曲の冒頭は抑え気味で、しかし迫力は最初からみなぎってい
て、それがじわじわと膨らんだかとおもうとしぼみ、しぼんだかとおもうと膨らんで、それが延延と続
く。
81 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:52

 石川が指でカップの持ち手を掴んだまま、耳を音の出所に向けるように視線をやや斜めに上げ
て、静かに目を瞑る。
 安倍はなにやら楽しそうで、クッキーを食べては紅茶を口にし、紅茶を口にしてはポッキーを齧り、
俺は目で訊いてその返事をたしかめてから、その空いたカップをランプで満たす。安倍はどうやら
俺と同じく無糖派で、紅茶自体も好きらしい。

 十五分はある曲だから、そのうち誰かが口を開くだろうとおもったが、中盤になってもそのままで、
違いは石川がカップを置き、俺がそれに紅茶を淹れて、石川が紅茶を飲みながら聴いているとい
うことだけ、そして安倍はやはり楽しそうにしている。
 結局、俺が声を出したのは曲が終わってからで、部屋にはその餘韻がまだ濃く残っている。
「どうだったかな」
「なんか、とても不思議な感じで。ちょっと掴みどころがない感じ? もしたけど」
「幻想曲ってやつだからね。曲の中身よりも、全体の雰囲気を感じるような」
「なんていう曲なんですか」
「うん、トマス・タリスの主題による幻想曲っていって、イギリスではすごい有名な曲らしいけどね。タ
リス・ファンタジアっていえば子供でも頸突くくらい。日本じゃまったく演奏されないけど」
「あ、その主題っていうんですか? なになにの主題によるって、あれ、どういう意味なんですか」
「ああ、パガニーニの主題による、とかね。ほかの人が作った旋律を使わせてもらいましたって意
味かな、それをヒントに発展させてみましたっていう。今でいえばリスペクトみたいな」
「あ、そうなんだ」
「でもこの曲だと、その旋律の部分はほんの一部だけらしいけどね」
82 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:52

「でもすごいですよね。なんか、聴いたことがない感じで」
 感想に困る曲であることはたしかで、俺だってどうしてこの曲が好きなのかを説明するのは難し
い。ただ、好きになった過程ということなら説明はできる。
「うん、自分もそんな感じだったな。高校生のときに偶然買ったんだけど、はじめて聴く感じで、圧
倒されて。本当は音楽の授業でグループ発表があって、グリーンスリーブスが必要だったんだけ
ど、そのCDにこの曲が入ってて。それから十五年くらいかな、ずっと聴いてる」
 石川がグリーンスリーブスに首を捻り、俺がそれを口ずさんで、石川が首を縦に振る。
「イギリスに昔からある伝統的なメロディらしいよ。タリスの主題っていうのもそういうのの一つで。
イギリス人にとっては懐かしい故郷の音楽みたいな感じかもね」
「じゃあ結構昔の曲? なんですか?」
「いや、トマス・タリスはバロックよりも前の人だけど、この曲を作ったのはヴォーン・ウイリアムズっ
て人で、二十世紀の人だよ。ラルフ・ヴォーン・ウイリアムズだったかな。だから時代でいえば近代
音楽だね。シベリウスとか、ストラビンスキーとか、ラフマニノフとかと同じで」
 一通りの説明を終えてから、俺は安倍にも感想を訊こうと安倍の方を向く。
 しかし、この曲は俺の予想しないところで大きな影響を与えていたらしく、俺の意向を察したのか、
俺が訊くよりも早く安倍が勢いよく口を開く。
83 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:52

「あのねあのね、なっちね、すっごい感動したよ。もうね、すっごいかっこよくて全身がわくわくしてぞ
わぞわして、こういうのあるんだね、なっち全然知らなかったよ」
 遠足の感想をいいたくて仕方がない子供のように安倍が答え、俺は素直に驚く。
 とても三十代の女の言葉とはおもえないが、この際そんなことはどうでもいい。
「ああ、そっか、そこまで感じるってのは珍しいけど、でも、うん、そういう曲なんだよね」
「クラシックとか、そういう歌詞のない曲とか、全然聴いたことなかったけど、すごいんだね。すっご
い新鮮で、ちょっと怖いくらい。でも、もっちーってやっぱりすごいよね。こういうの普通に聴いてて、
だからクールなのかな。なっち、ほんと感動したもん」
 はじめて聴く者にとっては百年前のクラシックだろうが最新のJ-POPだろうがそこに違いはなく、
しかしそこまで感動されると、どう答えていいのかわからなくなる。
「なんなら、貸してあげよっか。CDでもいいし、MP3でもいいし」
「ほんとに? ほんとに? わーありがとう! なっちねえ、今日ほんっと来てよかったよ。運命って
きっとこういうことをいうんだね」
 その最後の言葉に石川が首を捻る。だが、俺の方はもうそのことに気づいている。
 ここまで誉められまくったことは人生で一度もなく、ここまで誉めまくる女を見たのもはじめてで、
安倍が自分に素直で、素直さの塊としてのみ生きているということもわかっている。
 俺の趣味の理解者で、同じ側の人間――。俺がそう感じたように、安倍の方も俺に対してなにか
を感じたとして、俺がそれを否定する必要はない。
84 :Rich1NDNCw :2013/06/15(土) 20:52

 クッキーとポッキーがなくなり、用意した紅茶もなくなって、グレン・グールドの鼻歌まじりの演奏
の中、二人が帰り支度をはじめる。
 タリス・ファンタジアの後には安倍のリクエストでCoccoのアルバムから一曲、俺のお気に入りの
曲を流し、その次にはカラヤン指揮、ワイセンベルク演奏のラフマニノフのピアノ協奏曲を最後ま
で流し、そしてバッハのゴルトベルク変奏曲、グレン・グールドの1981年収録盤に繋ぐ。
 その間、話題はクラシックから彼女たちの最近のことから保田の結婚のことから昔の話まで、さ
まざまに移り、そして安倍はやはり、話をしたかとおもうとパキラに向かい、また話に戻ってはモネ
の絵に向かい、そして隣の部屋からキャメロン・ディアスの片仮名のサイン色紙を見つけて来て大
喜びするといった具合に始終楽しそうで、俺もそんな様子を楽しんで、すべてが満足のうちに終わ
る。
「それじゃ、今日はありがとうございました。すごい楽しかったです。なっちともいっぱい話したし」
「うん、なっちもね、楽しかったよ。梨華ちゃんとも遊べたし、もっちーにも会えたし、いろんな勉強
もできたし。また来てもいいよね」

 二人が帰り、ふと、何年ぶりか、寂しさという感情が胸に広がったことに俺は気づく。
 安倍にでも石川にでも二人にでもなく、その寂しさはただ、自分が一人でいることに対して作用
しているようで、俺はまだ日も暮れていないのに缶チューハイを開け、そして、寂しさを感じること
のできる幸せに、一人ほくそ笑む。
85 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:30

 *****

 なにもない普通の日日なんてものは存在しない。一日一日は常に変化し続け、その積み重ねに
よって世相が移り変わり、そして時代を作る。
 しかしそれを《無常》と表現するのは俺は好きではなく、俺はもうそんな段階にはいない。
 俺からすればそれこそが《常》、なんの変哲もないつまらない日日こそ《無常》と呼ぶべきで、な
ぜそんなあたりまえのことが理解されていないのか、俺にはそっちの方が不思議でならない。

 突然の電話に驚くことなく、俺は家を出て、その《常》を探すために坂を下り、もう一つの丘は迂
回して目的のコンビニに辿り着く。
 一週間前と同じ、ライトグレイの半袖ブラウスに水色のスキニーパンツ、赤色のスニーカーの安
倍が俺に気づいて手を振り、俺も片手を軽く上げてそれに応える。先週と違い、焦げ茶色の縁の
メガネをしていて、一見して地味な印象を受ける。
「もっちー、ごめんね。なんか道に迷っちゃったみたいで、おんなじところぐるぐる廻って、一生ここ
から出られないんじゃないかって」
 いってから安倍がうふふふっと楽しそうに笑い、俺は苦笑する。
「ああ、この辺の道はややこしいからね。山が二つあって、道もまっすぐじゃないし」
86 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:30

「そっかあ。それで駄目だったんだ。結構がんばったんだけどなあ」
 安倍が手にしていた折り畳み式の地図らしきものをパタパタさせて首筋を仰ぎ、俺はそこに目を
向ける。
「それ、地図?」
「あ、これね、ここで買ったんだけど、なんか全然わかんないんだよね。ここがどこかがわかんない
し、もっちーの家がどこかもわかんないし」
 たしかに東京二十三区の薄っぺらい地図に俺の家が載っているはずがなく、載っていたとしても
安倍が辿り着けるとはおもえない。俺は苦笑を続けながら尋ねる。
「スマホのアプリとか持ってるんじゃないの?」
「あー、それもねえ、なんかよくわかんなくて。電車の乗り換えはうまくいったんだけどねえ」
「じゃあタクシーで来ればよかったのに。駅からだとうちは遠いし」
「うーん、だって今日こんないいお天気だし、行けるかなあとおもったんだよね」
 先週石川とどうやって来たのかは知らないが、そのたった一度で道を覚えられるはずがなく、し
かし安倍の甘さを指摘するのであれば、問題はそこではない、今日安倍がうちに遊びに来るとい
う話を俺はまったく聞いていない。
「あのさ、安倍さんがうちの電話番号知ってて、それで俺が来れたからよかったけど、もし俺が出
かけてたら、どうしてたかな。俺ケータイ持ってないし」
「うーん、そのときは諦めてたかな。残念でしたーって」
87 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:30

 安倍がこともなげに笑っていい、俺はやはりそこに深く感心する。
 行動としては論理的ではないが、論理としては間違っていない。駄目だったら諦める、そのあたり
まえのことができる人間はそう多くはない。
「とりあえず、今度来るときは、事前に連絡してくれるかな」
「うん、そうする。今日はね、お買い物の帰りにね、あ、もっちーのとこに遊びに行こって、なんか急
に閃いちゃって。ほら、今日はTシャツを買って来ました」
 地面に置いていた黒い艶のある紙袋を持ち上げて、安倍がそれを俺に見せる。
「ああ、そうなんだ。まあそういうことなら、別にいっか。俺も家にいたわけだし」
 安倍がうん、と大きく頸突いて、それから俺の服装に気づく。
「あ、もっちーも先週と同じシャツだね。なっちもだよ。ほらほら」
「ああ、同じというか、気に入った服は二着買うから、どっちがどっちかはわかんないけどね」
「おお、そうなんだ。すごいね、それももっちーのこだわりなんだ。さすがだねえ」
「安倍さんの方も、それ、お気に入りみたいだね」
「なっちもね、曜日ごとに服を決めてるの。お気に入りだし、変装用だよ。ほら、このメガネもそうだ
よ。もっちーとお揃い」
 安倍のメガネは地味なわりに顔とのバランスがよく、かなり似合ってはいるが、変装用としてはど
うか。しかしその顔をまじまじと観察し、俺は別のことに気づく。
88 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:30

「そのそばかすも、変装用、だよね」
「あ、ばれちゃった? 田舎の女の子みたいでかわいいでしょ」
「その、頬が少し赤らんでるのも?」
「おお、すごいねえ。そこまでばれちゃったかあ。さすがもっちー、今日も鋭いねえ」
 安倍が楽しそうに笑って、俺も笑うしかなく笑う。
 一見して化粧をしていないように見えるが、かなりこだわりのメイクらしい。たしかに安倍なつみ
というよりは、安倍なつみに似ている地味な女子といった感じで、その程度の効果は確実にある。
もし俺が知り合いでなかったら、安倍なつみに似てる子だなあ、とでもおもっただろう。

 安倍と二人並んで歩き、後日のことを考え、一番わかりやすい道順を進む。
「ねえねえ、その腕まくり、かっこいいよね。先週もおもったんだけど」
「ああ、ありがと。まあ、うん、自分でもそうおもってるからしてるんだけどね」
「あーあ、なっちも長袖だったら腕まくりしたんだけどなあ」
 そういって安倍がない袖を、よいしょ、とまくり上げ、前方にぴょんと跳んで、後ろ歩きをしながら
俺にその笑顔を見せつける。
 そうした予想できない行動に、俺はその都度戸惑うことをやめ、素直に笑顔を返すことにする。
「あ、ねえねえ、もっちーから借りたCD、聴いたよ?」
「ああ、どうだった」
89 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:31

「あのね、なっち知ってたよ。グリーンスリーブス」
「そうなんだ」
「うん。あのね、小学校で流れてたから。下校の時間になりました。まだ校内に残っている児童は
帰る用意をして、すみやかに家に帰りましょうって。放送委員がそういって、その曲が流れるの」
 どうやら途中から声真似をしたらしいが、その雰囲気はわかる。
「そっか。うちは新世界だったな。ドヴォルザークの新世界の、遠き山に日は落ちてとかって。わか
らないか。えっとね……」
 俺が軽く口ずさんで、安倍がおお、と声を出す。
「キャンプファイヤーの歌だ。知ってる知ってる。なっちも歌ったことあるよ」
「お店の閉店のときに流れてたりもするけどね。昔バイトしてた田舎のデパートがそうだったし」
「へえ、なんかすごいね。それもクラシックなんだ」
「うん。新世界はたぶん聴いたことあるとおもうよ。中学とかで絶対聴かされるから」
「あ、じゃあもっちーならあれもわかるかな」
 安倍がまた前方にぴょんと跳ね、ゆっくりくるくると回りながらメロディを口ずさむ。
 なんとなく曲はわかったが、誰のどの曲かがわからず、俺は安倍がどこでやめるかを楽しみなが
らそれを考える。古典派、バロック、プレバロックと遡っても、どれもありそうで、まったく特定には
至らない。
90 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:31

「どう? あのね、これ、掃除の時間に流れてたの」
「うーん、知ってるけど、誰の曲だったかはわからないな」
「おお、もっちーでもわからないとなると、これはかなりの強敵だねえ」
 その安倍の笑顔には偽りがなく、俺はなんだかふわふわした気分に包まれる。

 一つめの丘を迂回し終え、バス通りを渡って坂の住宅街に入る。
 元元が山だったことを考えるとやや不満だが、このあたりの住宅にはまだ植木や草花を手入れ
するだけの餘裕があって、今はつつじの垣根がその色合いを競っている。
「あ、つつじが咲いてるよ、ほらほら」
「ああ。結構長いこと咲いてるから、そろそろ終わりかな」
「なっちね、あんまりお花の名前とか知らないんだけど、つつじは知ってるよ」
「そうなんだ」
「でもね、なっちは白いつつじが好きなの」
「白いのもあるんだ」
「うん。白いつつじはすっごい奇麗なの。だからなっち、つつじは知ってるんだ」
「たしかになあ、つつじの赤は結構強烈だもんな。白ならたしかに奇麗だろうね」
91 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:31

「ねえ、もっちーは好きなお花とかある?」
「うーん、昔は梅が好きだったけどね。なんか小さくてかわいくて」
「おお、梅かあ。それは予想してなかった」
「でも今は藤の花かな。普通は薄紫のぱっとしないやつだけど、一度、ものすごい青いの見て、感
動してね。でも藤の花って、三日ももたないんだよね。ほんとに奇麗なのはたった一日で、しかも
同じ藤の花でも年によって出来不出来があって。それでかな、それ以来結構気になったりしてる」
「へえ、やっぱりもっちーってすごいね。青い藤の花かあ。なっち見たことないよ」
「今年は駄目だったけどね。いろいろ行ってみたけど、どこもぱっとしなくて」
「そっか。じゃあなっちもこれから注意して見てみるよ。青い藤の花、どこかにないかなって」
「四月頃だから、見れたとしたら来年だね」
「うん。じゃあ来年まで覚えとくね。あ、来年なら一緒に見に行ってもいいよね」
「ああ、まあそうだな。男一人で藤の花ってのも、変だしね」
「えへへ、来年が楽しみだね」
 この約束は有効なのだろうか、と考えるも、たぶん安倍の方は本気で、そしてたぶん来年まで覚
えていて、そしてたぶん、俺もそのことを覚えているような気がして、俺はなぜだか、安倍が自分の
近くに居続けるという不思議な予想をしている自分に気づく。
 安倍とちゃんと接したのは先週がはじめてで、今日が二度目、それなのに、安倍の存在はもう普
通に俺の中に溶け込んでいる。
92 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:31

 つつじの垣根をすぎて、その角を曲がる。
 あとはマンションまで一直線の緩い坂だが、俺はそこで坂を下りて来ている女性の姿に目を留
める。まだ遠くてはっきりとは見えないが、その独特の雰囲気を間違うことはない。
 それにしても、どいつもこいつも、連絡もなしに俺に会いに来たがるのはどういうわけか。たしか
に俺はインドア派で、必要のない外出はしない主義だが、スーパーに買い物にくらいは行くし、迷
子から連絡があれば迎えにだって行く。それとも会えなくても別にかまわない、ということか。
 グリーンスリーブスを口ずさんでいた安倍がその姿に気づき、一度俺の顔を見てから、そちらに
向けて手を振る。
「福ちゃんだ。おーい、福ちゃーん!」
 なるほど、安倍と福田のツーショットを見るのははじめてだが、安倍も石川と同じく《福ちゃん》派
らしい。そういうことなら俺も、福田の呼び方を考え直す必要があるかもしれない。
 福田が表情を変えないまま近づいて来る。立ち止まればいいものを、そうはせず、安倍の反応
にも応えないところを見ると、平静を装っているといったところか。
「福ちゃん、ひさしぶりー。元気だった?」
「ええ、元気ですけど、珍しい組み合わせですね。ちょっと驚きました」
 予想した通りの反応で、俺はわざと左手を口にあてて笑いをこらえるしぐさをする。
93 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:31

「福ちゃんももっちーに会いに来たんだ。なっちと一緒だね」
 《もっちー》という呼び方に、今度は福田が俺に向けて呆れた顔を見せる。
「なんだか楽しそうですね。鼻の下が伸びてますよ」
「そりゃな。俺だって楽しいときは楽しい顔くらいする。なにあたりまえのこといってんだか」
「あ、ねえねえ、なっちね、今日迷子になったんだよ。おもしろいでしょ」
 安倍が福田にいって、福田はなぜか一度俺の顔を見てから、安倍に答える。
「まあおもしろいかおもしろくないかっていったら、おもしろいですけど」
「だよねえ。福ちゃんならそういうとおもった」
 二人の勝負はあっさりと安倍が勝ったようで、俺は二人の力関係を把握する。
 福田から安倍の話はまったく聞いたことがないが、去年だったか、ドリームモーニング娘。とや
らのコンサートを見に行ったという話は福田と石川の二人から聞いているから、数年ぶりの再会
ということはなく、それっきりだとしても俺と保田よりは交流があると考えた方がいいだろう。
 二人の噛み合わない会話を聞きながらマンションに入る。
 安倍は俺の腕まくりがいかにかっこいいかを福田に説明し、福田はそのたびに呆れ顔で俺を見
て、俺はやはり苦笑する。その日はどうやら俺にとっての苦笑の日であるらしい。
94 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:32

 二人が部屋に上がり、テーブルについて俺は接客の用意をする。
「どうしよっか。紅茶にしたいんだけど、うーん、一人コーヒーが大好きな人がいるんだよねえ」
「私も紅茶でかまいませんよ。どうせここにはコーヒーはないですから」
 わかっていて訊いて、しかしちゃんと反応してくれるところは、さすが福田というしかない。
「へえ、福ちゃん、コーヒー好きなんだ。大人だねえ」
「まあそろそろいい歳ですから。なつみも結構いい歳なんじゃないですか」
 安倍はすでに三十代に入っていて、福田は石川と同じでまだ二十代、わずか数年の差とはいえ、
乙女にとっては大きな違いだといいたいらしい。
 だが、福田のそんな攻撃が安倍に通用しないことくらい、新参者の俺にだってわかる。
「あ、ねえ、じゃあ福ちゃん、今つき合ってる人とかいたりするよね。結婚考えてたりとか、同棲して
たりとか、もしかしてもう結婚してたり?」
 福田がパキラの鉢植えの方に目をそむけ、おそらくいい返す言葉を考えているのだろう、十秒ほ
どしてからようやく顔を戻す。
「結婚も同棲もしてませんけど、プロポーズされたことなら二回あります。今はその二人とは別の人
とつき合ってますけど、どうですかね、そろそろ考えた方がいいかもしれませんね」
「へえ、すごいね、福ちゃん。福ちゃんもみんなも大人だよね。なっちね、そういうの全然だもん」
95 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:32

 福田が複数の男とつき合っているという、嘘か本当かわからない話をしようかともおもったが、そ
れはやめて、俺はキッチンで紅茶を準備する。電気ケトルにお湯はなく、しかし三人分であれば三
分もすればすぐに沸き、必要ならまた沸かせばいい。
 先にティーカップとソーサーを運ぶと、それを見た安倍が福田に俺の趣味のよさを説明しはじめ、
俺は福田の渋そうな表情を想像しながら、自分の部屋へ行ってオーディオからドヴォルザークを流
す。
「あ、クラシックだ。今日のクラシックはなんでしょう」
「ああ、来るときに話してた、ドヴォルザークの新世界より。そのうちわかるとおもうよ」
「おお、そっかあ。じゃあ期待してるね」
 安倍とクラシックの組み合わせが意外だったらしく、福田が怪訝そうに尋ねる。
「なつみもクラシックに興味があるんですか」
「うん、先週ね、梨華ちゃんと一緒にいっぱい聴いて、もっちーにいっぱい教えてもらって。それで
すっごい感動したんだよ」
 福田が納得がいかないといった表情を俺に向け、俺はそれを無視してキッチンへ戻り、例の紅
茶ポットに茶葉を入れ、沸いたばかりのお湯を注ぎ入れる。
 その日の安倍は最初にパキラに挨拶をした以外はずっと椅子に座ったままで、どうやら興味は
ひさしぶりに会う福田に向いているらしい。
96 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:32

「福ちゃんももっちーに教えてもらったりしてるの?」
「いえ、私はクラシックは聴きませんから。でも、そうですね、この前、一緒にショパンを聴きました」
「へえ、ショパンかあ。すごいね、なんか福ちゃんにぴったりな感じがする」
 どういう意味なのかはわからないが、安倍がそうおもったのならそうなのだろう。
 紅茶ポットを持って戻り、それぞれのカップに注ぎ淹れると、安倍が空いた椅子に置いたバッグ
から先週と同じように箱を取り出す。
「じゃーん、今日もポッキーを持って来ました。今日はすごいです。つぶつぶいちごポッキーです」
「ほお、そりゃすごい」
「えへへ、なっちね、ポッキーにはうるさいんだよ。ポッキーのことならなんでも訊いていいよ」
「じゃあその必要があるときは、そうさせてもらおうかな」
 俺がそう答え、安倍が嬉しそうにして、福田がやはり怪訝そうに俺を見る。
 そろそろ俺も、そこに嫉妬のようなものが芽生えていることには気づいて、いつもならそれを楽し
むのだろうが、どうもそういう気分になれないのは、俺がすでに安倍に惹かれはじめているからな
のかもしれない。
「それじゃ、いただきまーす。福ちゃんもポッキー食べていいからね。遠慮しなくていいよ」
「ええ、そういうことなら、ばくばくいかせてもらいます」
97 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:32

 福田が真顔でそういって、でも安倍の方はにこにこと嬉しそうで、やはり二人の対決は安倍の完
勝というほかない。
 俺はその安倍の清清しいまでの素直さにあっさり感服したが、それは同類の人間であることを認
めたがゆえのこと、そうでない、それも論理的思考の強い福田が俺と同じように安倍を受け入れる
はずがなく、そのことはいまだに安倍に対してわだかまりを持ち続けている福田自身が証明してい
る。

 しばらくして、勢いのあるクライマックスを経て第二楽章に入り、安倍がそれに気づく。
「あ、これだね。ふーふふー、ふーふふー、ふーふふーふふー」
「そうそう、これがね、下校の時間に流れてた」
「どういうことですか?」
 福田が会話に割って入り、俺は小学校の下校の時間になにが流れていたかという話をしたこと
を説明する。
「安倍さんのところはグリーンスリーブスだったって。福田のとこはなんか流れてなかった?」
「そうですね、そういえばなんか流れてましたね。あれは、そう、シルクロードのテーマですね」
 冗談なのか本気なのかがわかりにくいのはいつものことだが、下校の時間に合っているのはた
しかで、俺は本当のことと受け取る。
「それはすごいな。なんか悠久な感じがして」
98 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:33

「もうさくさん、たしかシルクロード大好きでしたよね。あと宗次郎でしたっけ、大黄河と。こういうの
が本物の音楽だって、なんかぐだぐだいってましたもんね。私、正座で聴かされましたから」
 正座させたのは覚えていないが、酔って音楽について熱く語ったときのことだろう。
 たしかにその二曲は俺の人生における名曲ランキングでもトップクラスで、その辺の下手なクラ
シックよりは確実に上に位置する。
 そういえば大黄河も、その郷愁を誘うような旋律で子供の頃の俺を泣かせた曲のひとつだった
か。トラウマ化したノクターンとは違うが、やはり俺からすれば神の曲に近い。
「シルクロードのテーマって、なっちも知ってるよ。リコーダーで吹いたことあるよ」
「ああ、そういや俺もなんか吹かされたな」
「私もありますけど、もうさくさん、リコーダー教育が嫌いでしたよね。あんなもんさせるから音楽性
が育たないんだって、評論家ぶってましたよ」
 それもやはり同じときのことだったか。
 しかし気になるのは、福田がやけに俺の話を持ち出すということ、やはりそこに嫉妬の気配を感
じずにはいられない。
「ああ、それはあれだ。酒に酔っての発言だし、それは許してくれ」
「もうさくさん、いつも本音を抑えてるから、酔うと言葉が過激になるんですよ。まあ最近は、諦観と
やらで普段から本音みたいだから、そういうこともないかもしれませんけど」
99 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:33

 福田の《それ》を確信し、しかしだからといってそれを阻止する意味も必要もなく、俺は普段通りに
対処する。
「ああ、本音で行動するようになって、すごい楽になったし、すごい幸せになったからな。おまえも諦
観すれば、いろんなわだかまりも溶けるんじゃないかな」
 安倍のことを意識していったことには福田も当然気づいて、俺の顔を強い目で見た後、それがで
きたら苦労はしないとでもいいたげに、はあ、とわかりやすいため息を吐く。福田もほかの普通の
人と同じように、日日、いろいろなものを背負い込み続けているのだろう。
 俺と福田との会話に興味を失ったのか、それともそれ以上の興味を哀愁漂う第二楽章に抱いた
のか、安倍がティーカップとソーサーを持って席を立ち、そのまま隣の部屋へ入って行く。

 リビングで二人になり、福田がやっと、明らかな怒りの表情を見せる。
「どういうことですか」
「なにがだ」
「なっちです。なんだかとても仲がいいみたいですけど」
「駄目か?」
「駄目じゃないですけど、なんでうまく噛み合ってるんですか」
「ああ、意気投合したっていうか、投合はしてないけど、なんか楽しくてな。俺と同じ側の人間だっ
て気づいて、そしたらなんか全部わかるようになってな。安倍の行動とか、気分屋なとことか」
100 :Rich1NDNCw :2013/06/22(土) 20:33

 意味が理解できなかったのか、福田が首を捻り、俺は《その言葉》を使わずにそれを伝える。
「俺もあいつも、その気(け)があるってことだ。俺の場合は他人(ひと)に合わせようとばかりして、
そのせいでいつもぎくしゃくしてたけど、あいつの場合は生まれつき、他人に合わす努力をしない
ってだけで、タイプは百八十度違うけど、根っこはおんなじ。なんとなくわかるだろ」
 福田が考え込み、俺はその間につぶつぶいちごポッキーとやらを生まれてはじめて口にし、そし
てその合成された商品特有の味を紅茶で打ち消す。
「全然同じようにはおもえませんけど」
「ま、俺もひと昔前ならそうだったろうけどな。でもあいつは、自分が必要とすることだけを必要とし
てて、それってほんと、素晴らしいことなんだよな、わかってみると。もちろんそればっかりだと社会
の中じゃ浮いてしまうんだろうけど」
「もうさくさん、ほんとに人がかわったんですね。私なんかには理解できないところにまで行っちゃっ
たみたいで。それも素敵ですけど……」
 最後だけさらに小声になって、俺は珍しく素直さを発露した福田に戸惑う。
「なにいってんだか。おまえだってイケメンのカレシがいて、予備のカレシもいて、それ以外にもい
い寄って来る男がいて……」
 そこまでいって俺は意図して言葉を断つ。そのまま続ければ、たぶん俺は福田が納得するよう
なことをいってしまうに違いない。しかし、それは俺には必要のない話だ。

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