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女神H(アーシュ)

1 :名無しさん :2002年05月06日(月)13時33分29秒
 ⊂⊃   ☆ .
   @ノノヽヽ@ /   ゚ ゚ .。.:*・゜☆
 へ( 0^〜^)./
彡〜ノ  つ つ
  / ______|
   (/ (/

コンセプトは>>2
698 :名無飼育さん :2008/01/07(月) 23:23
(0^〜^)v<楽しいことやってるYO!
699 :名無飼育さん :2008/05/23(金) 22:51
ジークフリートの死

(0^〜^)ノ ヨッ

平凡な生を生きている皆様、こんにちは。
 
「車輪と唄」(『臆病者の衝突』より)
ttp://m-seek.net/test/read.cgi/grass/1179582246/2-32n

(0^〜^)

わたしに黙って揉め事なんてズル過ぎる──というのはひとまず置いといて。
「劇的」なものにあこがれる平凡な主人公たちが、その愚かしさに気づくという、
まあどこにでもあるお話です。
700 :名無飼育さん :2008/05/23(金) 22:51
(0^〜^)

「悲劇のヒロイン」「劇的な変化」「自分を思って自殺した恋人」「平凡」「凡庸」「OL」
などなど、二つの相反する概念を、ある箇所では直接的に、ある箇所では隠喩的に、
それこそ凡庸なまでにそこかしこに貼り付けてあるのは作者の親切心からでしょう。 

(0^〜^)

二つの大戦は、わたしたちに残されていた可能性──固有の死の可能性という幻想を
打ち砕きました。わたしはわたしの物語の主人公ですらなく、名前をはぎ取られた
単なる存在でしかありません。それは皆様もじゅうぶんご存知のことです。

(0^〜^)

一方、自転車で電車にはねられて体がバラバラになるという自殺の仕方は、
年間3万人を超す自殺者を出す日本においても、レアケースでしょう。
これは、19世紀以前ならともかく、現代においてならなんとか及第点を得られる
個性的な死といえるのでしょう。少なくとも主人公たちにとっては。
701 :名無飼育さん :2008/05/23(金) 22:52
(0^〜^)

わたしや、主人公たちは、ワーグナーの歌劇に出てくるおぞましい「竜の死」しか、
死ぬことができません。わたしは凡庸な存在でしかないのですから。
主人公たちは踏切の前で立ち止まりました。
彼女たちに英雄的な死は訪れなかった。これからも訪れないでしょう。
これは、凡庸を肯定したからではありません。
固有の死というものは、やはり存在しないからです。

(0^〜^)

ではどうすればいいのでしょう。
わたしはわたしが凡庸であること、凡庸を受け入れればいいのでしょうか。
いや、受け入れることは構いません。
昔、オルテガというサッカー選手が
「凡庸な精神が自己の凡庸であることを承知の上で、
大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする」
と、嘆きました。
後段が問題になるということですね。
702 :名無飼育さん :2008/05/23(金) 22:53
(0^〜^)

自分は凡庸であり、そうであることを開き直り、他人に「竜の死」を押しつける。
なんとご立派な。わたしは凡庸ですが、ゾンビにはなりたくありません。
最後、「些細な変化」とありますが、これは主人公たちが自己の凡庸を
認識したのではありません。凡庸であることへの開き直りの醜さをです。

(0^〜^)

一方、終劇後のファルス──この物語にふさわしいエピローグではありませんか。

(0^〜^)ノ バーイ
703 :名無飼育さん :2008/06/11(水) 20:54
どこも変わらず

(0^〜^)

アーサー・シモンズは、「文学でもっとも容易な技術は、読者に涙を流させることと、
猥褻感を起こさせることである」と言っている。

 ──三島由紀夫
 
704 :名無飼育さん :2008/06/11(水) 21:07
(0^〜^)

何も付け加えることはありません。
 
705 :名無飼育さん :2008/06/28(土) 22:12
「ファンタジー」幻想


(0^〜^)ノ

一人で完結する企画・批評感想編だYO!

(0^〜^)

書いていたときの意図や目的などすっぱり忘れて、
そこにあるテクストだけを手がかりに、自分の書いたものを批評するのです。

10 亡霊
ttp://mseek.s47.xrea.com/test/read.cgi/pacifico/1213185405/
706 :名無飼育さん :2008/06/28(土) 22:13
(0^〜^)

レス4-5等にある「リスト」からわかるように、このテクストは芥川龍之介の諸作品を
なぞらえています。それぞれが、どの元作品に対応するかは、暇な人は考えてみてください。

(0^〜^)

そうなると、当然、読者は「間テクスト性」を頭に置きながら読み進めることになります。
間テクスト性とは、そのテクストとそれに先行するテクストの間に関連性のことで、
その関連性から読解のためのコードやら何やらが導かれます。

(0^〜^)

すると、ここでは芥川の小説が使われているから、そこから読みの手がかりを探ろう。
いやいや、後半は京極堂の憑き物落としのパクリだから、ミステリのコードを使うべきだ。
そうなると、前半の連続殺人の部分は、ミステリによくある見立て殺人じゃないか。
……。
707 :名無飼育さん :2008/06/28(土) 22:13
(0^〜^)

ところが、この物語は「謎−解決」というミステリの構造にはなっていませんでした。
人が死んでるからといって、ミステリだと決めつけてはいけません。
各々の殺人事件は後半部分であっさりと「犯人はつかまっている」で終わらせています。

(0^〜^)

「謎−解決」のかわりに、この物語の構成は「幻想−現実」となっています。
うまい言葉が思いつかないのですが、「幻想」とは何か不可思議なできごと、
「現実」はそれに対する合理的な解釈のことです。
いや、それだと「謎−解決」の図式と違いないじゃないかと言われそうですが、
「謎−解決」図式が「犯人・被害者・探偵」の三役が必要なのに対し、
「幻想−現実」図式では「体験者・解釈者」の二役であるところが異なります。

(0^〜^)

この物語における幻想とは、「河童」の存在です。
岡井は幻想を体験し、吉澤が解釈を下す。
(ここで、吉澤がトリックをしかけたことも、解釈をややこしくしてしまっています)
ただそれだけの話なわけです。
708 :名無飼育さん :2008/06/28(土) 22:14
(0^〜^)

では、ここで、どうして「幻想−現実」図式にしたのかという根本的な疑問が湧いてきます。
「幻想」部分だけで終わらせる物語のほうが世の中多いです。
「現実」的な解釈なんかいらないよ、「幻想」のただ中にいさせてくれよ、と。

(0^〜^)

ここでうんうん唸っていたら、見つかりました。
芥川龍之介の小品『奇遇』です。

(0^〜^)

味わい深い小説なので、ぜひ青空文庫あたりで読んでいただきたいのですが、
話の筋は以下のとおり。
大昔の中国の話。男性が夢の中で美しい娘と出会う。
起きて夢の中で見た場所に行くとその娘がいて、娘のほうでもその男の夢を見ていたという。
アア運命ノ出逢イ、不思議ナ話ダナー。

(0^〜^)

少し場面がかわって、この男女が会話をしています。
こういう作り話を娘の両親にしつこく話して、奇遇な話ということで娘さんをお嫁にください、
うむ、そういうことなら娘をやろう、と相成ってヨカッタヨカッタ。
709 :名無飼育さん :2008/06/28(土) 22:14
(0^〜^)

このあともう一度話がひっくり返されるのですが、もういいでしょう。
芥川は「馬の脚」やら「仙人」やら、不思議な話を書いているのですが、
本質的には解釈を加えないではいられない理知的な小説家です。
「幻想」なんか、それこそ幻想にすぎないのだと。
それが『奇遇』に如実に表れていて、編集者にも呆れられてしまいます。
そして、本テクストで「幻想−現実」図式が用いられたのも、
そうした芥川の諸作品に対する間テクスト性を考慮すれば、当然のことだったのです。

(0^〜^)

まとめますと、前半部分の疑似見立て殺人、河童の出現、物語構成と、
全体に渡って徹頭徹尾、芥川のテクストを利用した小説構造となっていました。
それでは芥川諸作品と娘。(ないし娘。小説)の関係性という話になるのですが、
それはまた次の機会に。
710 :名無飼育さん :2008/06/28(土) 22:15
(0^〜^)

とりあえず、本テクストの作者が「ぼんやりとした不安」を抱えて
この世からオサラバしないことを祈りましょう。

(0^〜^)ノシ
 
711 :名無し募集中。。。 :2009/03/25(水) 23:20
223 名前:名無飼育さん[???] 投稿日:2009/03/25(水) 21:58
KOREA NO.1!!!!!!
WBC TRUE WINNER = KOREA
712 :名無飼育さん :2009/04/23(木) 23:22
倫理的な「私」

(0^〜^)

人間の社会的な行動は、倫理に基づいてなされます。
「りんりりんりと夜も眠れず」などと、倫理というと口うるさい野暮なエチケットみたいなものと思われてしまうかもしれませんが、古代ギリシアの賢人が分厚い本を残したように、人間の行動原理を律しているのは事実です。
当然ながら、娘。小説にかかわる人たちも、様々な倫理(論理じゃないよ)的な問題にさらされています。

(0^〜^)

娘。小説が成り立つためにいちばん初めに必要なのは、娘。小説の作者です。実は娘。ではありません。ああ、そこの人、勘違いしないように。作者がいちばん重要と言ってるわけではないですよ。「はじめに言葉ありき」。言葉をつむぐ作者がいなければ、娘。小説ができないことは自明でしょう。
ということは、作者が娘。小説を書くという社会的行動は(たとえ、読者が一人もいないとしても!)、その作者の倫理を内包していることになります。
713 :名無飼育さん :2009/04/23(木) 23:22
(0^〜^)

はて、倫理とは何か?

(0^〜^)

さきほど行動原理と言いましたが、行動原理のひとつと言い直します。一般的には、人間の行動を縛る方向に働きます。「法は最小限の倫理」なわけですが、個々人、あるいは社会が有するおおまかな法律であるとと考えましょう。
娘。小説作者は、「娘。小説に、娘。を出さなければならない」という倫理に縛られます。当然です。少なくとも登場人物に娘。の名前をふらなければなりません。まあ、ここまでは問題ないでしょう。

(0^〜^)

さて、今度は作者は娘。小説の世界の中で、登場人物である娘。がとる行動、彼女たちをとりまく世界、そこで起こる出来事についても、倫理的に否かどうかで頭を悩ませることになります。
小説は自由な文芸形式です。そして、形式のみならず、その中身も本来的には自由なはずです。わたしたちは、憲法で保障されている(そして、憲法なんかなくても保障されるべきである)思想信条の自由を有しています。つまり、何を書いてもいいのです。
ところが、実際はそんなことはありません。
714 :名無飼育さん :2009/04/23(木) 23:23
(0^〜^)

たとえば、娘。小説の中で娘。が覚醒剤を使ったりしたらどうでしょうか。それはOK? では、殺人事件を起こすのはどうでしょうか。お前が言うな? では、娘。が地下鉄でサリンを撒くのはどうでしょうか? 現実の被害者がいる事件を元にするのは問題だ? それなら、娘。が恒星間宇宙船の内部で水素爆発テロを起こすのはどうでしょうか? SFならいい? 戦国時代にタイムスリップした娘。が延暦寺焼き打ちを起こすのは? 娘。が崇峻天皇を暗殺するのは?

(0^〜^)

ときどき作者と読者の間で騒動が起こりますが、これはそれぞれの倫理のぶつかりあいなわけですね。
これまでの傾向から見ると、作者の95%はドライです。娘。小説に出てくる娘。は、作者にとって自分のストーリーに奉仕させる駒にすぎません。だって、作者の勝手に登場人物がストーリーを進めることはないのですから。
いっぽう、その作者の小説の読者は、作者に比してウェットになります。受け身ですから。そのストーリーは読者が作ったものではありませんから、娘。は駒ではないのです。ここに齟齬が生じます。
ストーリーの都合上、娘。がひどいめにあう・あわせる場合があったとき、作者は自分の倫理と照らしあわせ、あるときは自分の倫理ぎりぎりのところでストーリーを作る場合があります。読者の閾値はそれより低い場合が、半分くらいあるかもしれません。すると、作者と読者、あるいは閾値の高い読者と低い読者が罵り合いを始めるのです。
715 :名無飼育さん :2009/04/23(木) 23:23
(0^〜^)

傾向と対策

娘。がひどいめに合わせる話より、ひどいめに合う話の方が非難される度合いが高いようです。ですので、読者の批難が怖い人は、娘。をどんどんサディストにしましょう。どうしてもひどいめに合う話にしたかったら、美談仕立てにしましょう。「恋空」とかそんな感じで。あるいは「純文学」風味にして、主人公に「やれやれ」と言わせるとか。
716 :名無飼育さん :2009/04/25(土) 23:48
感想は特にないです
717 :名無飼育さん :2009/06/09(火) 00:37
ttp://mseek.s47.xrea.com/test/read.cgi/pacifico/1243091076/l50

駄文で申し訳ありませんが、この感想を書いてはくれませんでしょうか。
718 :名無飼育さん :2009/06/12(金) 19:30
>>717
今気づいたのでしばしお待ちを
719 :名無飼育さん :2009/06/15(月) 19:47
無常という事

(0^〜^)

   ゆく川の流れは絶えずして
   しかももとの水にあらず

無常とはつまり、世の中のいっさいの現象はとどまることなく常に移り変わっていくものという考え方、イデオロギーです。このイデオロギーは相当に強固で、日本人の心をとらえて離しません。日本人が無宗教だなんてとんでもない、世界に誇れるブッディストの集団です。花といえば日本では桜のことで、これほどまでに日本人があの薄いピンクの花びらに心奪われるのは、四月ころにぱっと咲いてぱっと散る、そのうつろいが「美しい」と、きっとDNAに刷り込まれているからでしょう。
720 :名無飼育さん :2009/06/15(月) 19:48
(0^〜^)

「絵里」と「亀井絵里」は別個の存在で、作中においてもそのとおりに扱われています。それどころか「亀井絵里」のほうはなんだか酷い目にもあっています。それは必然です。「亀井絵里」とは、本人からわかち放たれた一個の概念にすぎません。わたしたちが見ることができるのは、その「亀井絵里」のほうであって、けして「絵里」のほうではありません。ならば、わたしたちが扱うべきは、「絵里」ではなく「亀井絵里」のほうとなります。

(0^〜^)

いろいろなサジェスチョンのとおり、「亀井絵里」は、二次創作キャラクターの暗喩であると読み取ることもできます。二次創作キャラクターなど、ことに一次のものが現実の人間である場合、当人にとっては忌み嫌うべき存在にすぎません。あなたの生活の一部が極限にまで誇大妄想にまで膨れ上がり、それがインターネット上の掲示板に描かれることを想像すればわかるでしょう。ですので、最後に「絵里」が「亀井絵里」を受け入れる、中にはそういう人がいるのかもしれませんが、だいたいのところ、これは作者の願望です。
721 :名無飼育さん :2009/06/15(月) 19:49
(0^〜^)

しかし、それは非難されるべきものではありません。構造的には、「絵里」ですら小説内の登場人物、つまり二次創作キャラクターにすぎないのですから、二次創作キャラクターが二次創作キャラクターを受け入れる話、この意味でもメタフィクションということになります。二次キャラが二次キャラを否定することできないよね、などと言っても始まりません。課題はその先にあるのです。

(0^〜^)

前提となるべきは、彼女たちの舞台が、そしてわたしたちの舞台がモーニング娘。であるということです。そこでは、常にとどまり続けることはなく、万事が変化していくところです。もとの水などありません。だからこそ、日本人が桜を愛で続けるがごとく、わたしたちは娘。に惹きつけられ続けているのです。
しかし、一抹の不安がそこにあります(ハイデガーの言うところの不安であり、恐怖ではありません)。無常観が日本を支配しはじめたのは、源平の争いを描いた「平家物語」が人口に膾炙したころだと言われています。鎌倉時代のことですが、つまりそれまでは「無常」ではなかった、「常なるもの」があったということになります。
722 :名無飼育さん :2009/06/15(月) 19:50
(0^〜^)

われわれは「無常」なるものがわかっていない、なぜなら「常なるもの」を見失っているからだと小林秀雄が書きました。なんだかいやらしい書き様ですが、わたしたちこそがこの言葉のよき理解者といえるでしょう。わたしたちは「常なるもの」を知らず、そのことを自覚的に「不安」に思っているのですから。そのうえで、小林は書きます。記憶するだけではいけないのだろう、思い出すことが必要なだと。その思い出すという行為は、そのまま、二次創作という忌み嫌うべき因業につながっているのでしょう。ならば、わたしたちが引くべき言葉は、冒頭に掲げた「方丈記」の一文ではなく、鴨長明と同時代の人物、藤原定家の日記「明月記」の有名な一文しかありません。
723 :名無飼育さん :2009/06/15(月) 19:50
(0^〜^)

   世上乱逆追討に満つといえども
   紅旗征戎わがことにあらず

源平の争乱のさなか、貴族たちが右往左往している様子を見た若き日の定家が、「天下の乱れ、争いなどわたしの知ったことではない、わたしはただ歌の道に生きるのだ」という決意表明です。出世争いのほうには飛び込んでいったそうですがそれはさておき、歌の道を邁進した彼が「作り上げた」のは、「幽玄」と言われる人工的な和歌の世界でした。
724 :名無飼育さん :2009/06/15(月) 19:51
(0^〜^)

   来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

「まつほ」とは、淡路島の地名で、「来ぬ人を待つ」とも掛けていますが、もちろん定家自身は「まつほ」にも行っていないし、人を待っていたりしません。徹頭徹尾、すべてを想像の産物で世界を構築しています。虚構の世界を構築し、そこに自分の心情を注ぎ込むのが「幽玄」の世界だ、と言ったら怒られる気がしますが。ですが、これでいいのです。わたしたちは思い出す、想像することしかできません。この世界は虚構だ、虚構こそがすべての世界においてこそ、わたしたちは「常なるもの」を思い、「無常」を愛でることができるのですから。わたしたちが思い続けるからこそ、この世界があり続けることができるのですから。

(0^〜^)

いかがでしょうか?
725 :一介のファン :2009/06/16(火) 23:48
さすがです、快哉を叫ぶ思いがしました。
誰かがスレをクリックした瞬間からその物語は読者のものになるのは当然ですが、
たった一人でもいいから、言いたいことを受け取ってくれる人がいなければやはり寂しいものです。
大分歩み寄ってくれたのでしょうが、優しく紐解いて下さり感謝至極。
個人的な話を人様のスレで長々と書いてしまい申し訳ありませんが、
僕が娘。小説というか飼育にハマったのは坊主さんのメタ小説に触れてからなので、
最後に坊主さんの言葉を頂けて、本当に嬉しいです。
ありがとうございました!

P.S.何度か言っていますが、2ちゃんで、すってぷ=坊主説を刻んだのは僕でした。
オフ会では坊主さんを絶賛しておきます。
726 :名無飼育さん :2009/09/10(木) 20:05
いしよし小説の危機と超越論的いしよし現象学


( ^▽^)

桃板の「いしよし小説総合スレッド〈九冊目〉」をみてみると……

ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/music/605/1163256228/410-425n

7月に更新されたいしよし小説は

『屋根の下のベース弾き』
『あの樹の下で』
『こぉるど けーす』
『Pleasures2』(ただし桃板)

のわずか四つ。飼育のみなら三つだけという状況にあります。
いしよし小説おわた、ですましてもいいのですが。
727 :名無飼育さん :2009/09/10(木) 20:06
1.いしよし小説の危機とは何か

( ^▽^)

「ここでいう危機とは、それぞれの個別いしよし小説の理論的、
 実践的成果を問題にするのではなく、
 そのいしよしの意味の全体を徹底的にゆるがすような危機なのである。」

と、先人は言っております。
つまり、いしよし小説が進歩したとか退歩したのかを言ってるいるのではありません。

( ^▽^)

「飼育がその意味を得るところの『絶対的』いしよしへの信頼、飼育の歴史の意味への信頼、
 人間性への、飼育住民の自由への信頼が崩壊するのである。
 飼育住民の自由とは、いしよしの個体としての存在、
 また普遍的いしよしとしての存在に理性的意味を与えうるという
 いしよしの可能性にほかならない。」

何がなんだかわからなくなってきましたが。
728 :名無飼育さん :2009/09/10(木) 20:08
( ^▽^)

いしよし小説の進歩や興隆によって、
世界はすべていしよし的なものとして説明できるという妄念が広がりました。
するとそれが飼育住民の生の意味にまで侵犯するようになってしまいました。
どういうことかと言いますと、いしよしというある意味道具にすぎなかったものが
普遍性をおびてしまい、それが絶対的な基準になって、
逆に人間性を失わせることになってしまったのです。

( ^▽^)

たとえばのはなし。
何もいしよしに限った話ではないのですが、
いしよしだよしごまだみきよしだと、おのおののヲタが抗争を広げお互いに侮辱しあった結果、
いしよし等々によって住民の生がいきいきするどころか
とげとげしくなってしまったみたいなはなしです(かなり違う)。

( ^▽^)

これこそが、先人のいう「いしよし小説の危機」の正体なのです。
729 :名無飼育さん :2009/09/10(木) 20:09
2.いしよしの普遍化

( ^▽^)

「いしよし的な自然の普遍化によって、新たないしよし小説の指導のもとに、
 いしよし自体が理念化されることになる。現代的に表現してみれば、
 いしよし自体が普遍的多様体になるのである。」

いしよしが「小説」という形式においても盛んになったのは、
二人の関係性が小説のコードに合致していたからです。
コードですから、他のジャンルの小説にも似たようなものはいっぱいあります。

( ^▽^)

ところが、このコードというのがくせものでした。
コードに則っているという事実から、ある程度の普遍性が想像されてしまい、
それがある種の飛躍により、それそのものに普遍性があるものだという顛倒が起きてしまう。
コードだって、人間が生み出した概念にすぎないのですから、
それによって導かれる普遍性など決めつけにすぎないのです。
730 :名無飼育さん :2009/09/10(木) 20:10
3.いしよし世界は普遍性に先だつ

( ^▽^)

「いしよし世界は普遍性に先だって、飼育住民にとっていつもすでに存在していたし、
 それがいしよし小説の時代になってもまた、そうした在り方をとりつづけてきたのである。」

いしよしという存在じたいは、いしよし小説に先行して存在していました。
ですので、いしよし小説ないしそのかもしだす普遍性らしきものに
わたしたちはまどわされてはいけません。
わたしたちは、いしよし小説それじたいが絶対客観的なものであるという
ある種の自然主義的態度を、いしよしそれ自身へと還元する必要があります。
これが超越論的(いしよし的)還元と、専門用語で言います。
731 :名無飼育さん :2009/09/10(木) 20:11
4.現象学的=超越論的いしよし的還元が基礎となる

( ^▽^)

これらの課題は現象学によって遂行される、と先人は言います。
普遍的いしよしというものをまずエポケー(判断停止)します。
そしてそうして見えてくるもの中で、疑うことのできない内在的確信をとらえます。
いしよし自身の存在性を考え始めると、コードと(偽の)普遍性にからめとられてしまいます。
コードに頼るのではなく、いしよしの二人自身からこぼれおちてくる何かをとらえるのです。
こうすることにより、わたしたちにはいしよしそのものを理解することはできませんが、
いしよしという確信構造は理解することができます。

( ^▽^)

こうすることで何が、どのように解決されるのか?
現状、いしよしに限らず娘。小説の絶対数の減少はさけられません。
ですが、ありきたりのコードに頼って量産してもそこには意味がありません。
コードに頼るキャラクター小説なんてそこかしこに溢れているのですから、
いずれ本当に消滅してしまうでしょう。
それを避けるためには、上記のようにある方向へ特化・純化するしかないと考えます。

( ^▽^)

この項、でたらめです。
732 :名無飼育さん :2010/05/22(土) 23:47
だから間テクスト性の罠だと何度いったら(ry


(0^〜^)

さて、いしよし小説の危機論に対して、「みきよし小説と差異」なる題名の反論が続く
予定だったのですが、いしよし小説どころか飼育自体が危機に陥ってしまったため、
どうしたもんかなあと思いつつ、エポケーしながら日々を過ごしていましたら、
飼育ブログなるものができてしまい、それじゃあこのスレもういらなくね? 
そっちでやらないと迷惑じゃね? みたいな感じになってしまいましたが、
もちろんそんな遠慮などせず、何事もなかったかのように先を続けます。

(0^〜^)

すると、ななしチャットのほうに、ちくりっ子からのご注進を見つけました。
ちくりっ子は性根がそうなっているのでもう一生ちくり続ける運命にあります。
彼の者の呪われた生に幸あれ。
その飼育ブログを見ると、ある人をほめるためにわたしをけなしています。
これはいけない。AをだしにしてBをほめる・けなすという論法をやってはいけないと、
小学校で習わなかったのでしょうか。
さらに、けなす論拠も示していないので、単なる誹謗中傷です。
きっと、以前わたしに「あふぉ」呼ばわりされたことを根に持っているにちがいない
(論拠のある「あふぉ」呼ばわりですよ?)。
733 :名無飼育さん :2010/05/22(土) 23:49
(0^〜^)

さて、江戸の敵は長崎で討ちましょう。それが節度ある大人というものです。

(0^〜^)

そのブログの下のほうに進むと、「青薔薇企画」についての記述があります。
これは、第八回の短編企画に出された「ANGEL FACE」という話を
書きなおそうというもので、どのような経緯があったのかはわたしは知りません。
それに対し、ブログの書き手は「今から思えば相当失礼な企画だったと思います」
「別ジャンルですが他人の作品をインスパイアして散々あさってな方向に
滑らせたなんて真似をしでかしてしまった」としおらしくしていますが、
勘違いも甚だしい。そんな矮小な問題ではないのです。

(0^〜^)

あらゆる文章(テクスト)は、先行する文章から影響を受けます。
これを避けることはできません。大昔のこと、ドイツのある人がある学者の論文を
ほめて「この論文はいっさいの引用がないところがすばらしい」と話したところ、
ある貴族が「引用が一つもない文章なんて、無人島ででも書けるんじゃね?」
と答えました。このエピソードは、この論文が己の思考のみを頼りに書かれたという
価値をわからない貴族の無知を笑うためのものですが、
貴族の意見はある意味もっともなところがあります。
テクストには、必ず他のテクストからの何らかの痕跡があるのです。
734 :名無飼育さん :2010/05/22(土) 23:51
(0^〜^)

ここでは、間テクスト性という概念を用います。
これは、テクストを読み込むときに用いる技法のひとつですが、
「書きなおし」は、先行テクストである「ANGEL FACE」を読み込むという作業が
不可避で、企画に参加した者すべてが意識的あるいは無意志的に行ったものです。
間テクスト性についての詳細は、wikipediaでも見ていただくとして、
間テクスト性のひとつとして、「ハイパーテクスト性(ハイポテクスト性)」
というものがあります。これは、wwwの世界のようなもので、
まあ、テクストは他のテクストとの関連性があるからこそテクストとして
存在しうるのだと言ってもいいでしょう。

(0^〜^)

さて、ここからは問題点をつらつらあげていきますので、
まとまりのあるものではないことをあらかじめご了承ねがいます。
735 :名無飼育さん :2010/05/22(土) 23:59
(0^〜^)

書きなおしという作業は、間テクスト性にかかわることはすでに述べました。
そこには、もはや「原作者」という概念はありません。
そんなものは著作権法の中だけに存在します。
テクストが、wwwのように網の目の一つにすぎないのでしたら、
どれがオリジナルであるかなどと主張することは困難になるからです。
「今思えば失礼だった」などと、原作者に対する配慮を見せつけるような
態度はありえません。
さらにいえば、その「原作者」も「モーニング娘。」と称される「オリジナル」の
改編者の一人です。まるで泥棒が泥棒の物を泥棒して「すまんかった」と
言っているようで、めまいがします。

(0^〜^)

さらに「書きなおし」は「パロディ」の問題を含みます。
パロディとは何かという議論は百家争鳴状態なので省きますが、
ここでのパロディはパスティッシュ等を含む大きな概念ととらえてください。
書きなおしとパロディは異なります。
異なるからそれぞれ名称がついているのでしょう。
ではどこに違いがあるのでしょうか?
パロディは先行テクストの存在を隠しません。
隠すどころか、おおっぴろげに「こいつを改編してやったぜ」と高らかに
宣言しています(明示されているかどうかは別ですよ?)。
いっぽう、書きなおしは、先行テクストの存在を隠蔽し、
あたかも己が「オリジナル」であると僭称する行為です。
間テクスト性を否定するのであれば、それこそ無人島でやっていればいいことです。
736 :名無飼育さん :2010/05/22(土) 23:59
(0^〜^)

わたしはこの企画にパロディを出しました。
書きなおし企画にパロディを出したのは、
そんな企画など無意味だ(有害でさえある)ということを示すためだったのでしょう
(当時の頭の中のことは覚えていないので、外形的に判断しました)。
パロディの手法としてはどこにでも転がっているようなもので、
それこそなんのオリジリティもありません。
そんなものに「最上位のおもしろさ」などと言われてもね。

(0^〜^)

というわけで、この企画はとんでもないものであったことを、
わたしは声を大にして主張します。
その後も書きなおし企画があったみたいですけど、どんな感じだったんでしょうね。

737 :名無飼育さん :2011/12/05(月) 15:01
久しぶりに美貴様のうんこみたいな能書きが読みたくなりました
738 :名無飼育さん :2011/12/31(土) 23:51
この十年、この二十年


(0^〜^)

何故上げるかね。

(0^〜^)

この一年、よっちぃと推理小説しか追っていませんでした。
そのあたりのことをちらほらと。いろいろネタバレ注意。
739 :名無飼育さん :2011/12/31(土) 23:51
(0^〜^)

1990年代、綾辻やら法月ら「新本格」と呼ばれる若手によって本格探偵小説が興隆を極めました。例外はいくらでもあるとして、パターンは三つありました。叙述トリック、日常の謎、極端な形式化です。

叙述トリックとは、地の文に読者をだますトリックが仕掛けられたもので、綾辻、折原が得意としました。こんなのばかり読まされると、読者の方でもうんざりしてくるもので、綾辻さんなどはまともに本を書かなくなりました。きっと財産がいっぱいできたんでしょう。それでも、今でもこれを使う人はたくさんいます。似鳥とか。叙述トリックは推理小説だけのテクニックではなく、一般小説でもけっこう見られます。乾さんのとある恋愛小説では、推理小苞は無縁な読者は、今もってそれがトリックがしかけられたことに気づいていないかもしれません。あと、島田雅彦のとある小説もラストがそうなのですが、多くの読者は蓮見の解説読むまでわからないでしょう。

(0^〜^)

日常の謎というのは、恐るべき殺人事件は起こらないものの、日常生活に謎を見出して、そこに潜む悪意を浮き彫りにするものです。わたしは、これが最後まで残るだろうと予測していたのですが、どうも最近違う方向に進んでいるようです。日常の謎では長編のプロットを支えるのは無理ですから、短編を量産するしかありません。粗製乱造です。それを避けるために、作者はちょっと特殊な職業について日常の謎を書くようになりました。本屋、図書館司書、掃除人、Jリーグの道具係、和食器の店員、等々。安直だ。こちらも、推理小説から離れていきそうな人が出てきそうです。

極端な形式化というのは、冒頭に特殊な世界を創り上げておいて、その法則に基づいて事件が起こり、謎が解決される話です。山口雅也のアレは死者が蘇る世界での殺人事件の話、京極夏彦のアレは見えるものが見えなかったり、見えないものが見える世界の話です。最初にちゃんと説明がされているので、その解決に読者は渋々頷くしかありません。やたらと分厚い本になるのが難点で、作者もだいたい出がらしになってしまいます。この系統は、登場人物のキャラクター化と親和性があり、清涼飲料水(?)を経由して舞城や西尾にいたり、ライトノベルとなりました。
740 :名無飼育さん :2011/12/31(土) 23:52
(0^〜^)

最後に残ったのは、愚直なまでに端正な探偵小説を目指した人々です。奇をてらわずにいるからこそ、長い間書き続けることができるのでしょう。代表格は有栖川です。あと、青春ものは読者が代替わりして一定の需要があるので、小説家になりたい人にはおすすめです。もちろん作者も代替わりが激しいのですが。

(0^〜^)

娘。小説も、かなり量は減ってきていますが、それでも十年続いているわけですから、愚直な書き手が多いのでしょう。奇をてらった話など、とうに誰かが書いているのだから、そんなものに価値を見出してはいけません。
741 :名無飼育さん :2011/12/31(土) 23:52
(0^〜^)

最後に、柏レイソルばんじゃーい。
742 :みおん :2012/01/04(水) 11:06
新本格というと人間が書けてないという議論が活発になされていたらしいですね。
日常の謎の特殊職業だけ元ネタがわかんないなぁ。

最近の娘。小説の書き手はバカミスに活路を見出している感じですね。
もちろん愚直な書き手も多いですけど。
743 :名無飼育さん :2013/09/13(金) 22:40
長文書けなくなった

(0^〜^)

・ネットでの二次小説(特にSS)の多くは、 登場人物「会話」 の形式
・娘。小説のように普通の小説形式は少ない(独断)
・娘。小説でも初期は 登場人物「会話」 の形式は少なくなかったが駆逐された
・嘲笑も浴びてた
・紙に印刷して喫茶店で推敲なんてことする人もいた
・(これ聞いて、表面上、苦笑する人いなかった)
・なぜ娘。小説では 登場人物「会話」形式 が絶滅したのか?(してない)

(0^〜^)

・論証は省略して結論のみ
・ネットでの二次小説のオリジナルは、小説(ラノベ含む)、マンガ、アニメが主
・キャラ付けはオリジナルにおいてすでになされている
・読者も作者も了解済み
・よって二次小説ではキャラ付け不要(コード化もすでにされている)
・キャラ付け不要なので、地の文で説明はいらない
・だから会話のみでストーリーを進めることになる
744 :名無飼育さん :2013/09/13(金) 22:41
(0^〜^)

・一方、娘。小説のオリジナルは娘。たちであり、キャラ付けはほとんどなされていない
・というか不可能(本人もわかっていない)
・なので作者が一からキャラ付けする必要がある
・そんなの会話だけじゃ無理
・作者と読者の了解は、二次小説を読み進めながら次第に深まる
・いっぱい情報書かないと、了解できない

(0^〜^)

・ここで、ある意味不可解な現象が起こる
745 :名無飼育さん :2013/09/13(金) 22:41
(0^〜^)

・アニメ等の二次小説ではキャラ付け不要なので、キャラの面白さでは読者がつかない
・よってストーリー重視となる
・娘。小説では、キャラ付けで読者をつけることが可能
・キャラ付けだけでストーリーがほとんどない話も出てくる
・めんどくさくなって、コード化されたキャラ付けをしやがる奴も出てくる
・ということで、登場人物「会話」形式ではストーリー重視、
・普通小説形式でキャラ付け重視という、通常の印象とは逆転した現象が起こる(ほんとか?)
746 :名無飼育さん :2013/11/01(金) 22:53
キャラ付けだけでストーリーがほとんどない話ってどんなのですか?
747 :名無飼育さん :2014/02/09(日) 22:39
(0^〜^)

具体例出すと差し障りあるのですが、例えばいちゃついて終わるだけの話とかです。

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