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LIVE AGAIN〜孤独に怯えた桃子が優しさに溢れるまで

1 :セル :2017/12/28(木) 23:57
作者:セル
出演:桃子
千奈美
梨沙
舞美
俺 他
※この作品はフィクションです。
2 :セル :2017/12/28(木) 23:59
けっきょくまた書いてしまいました。
どうしてもももちから卒業できない私ですが、
おつきあいいただけると嬉しいです。
年明けから順次書く予定です。
3 :セル :2018/01/05(金) 23:00
開演前の雨が嘘のように晴れ渡った空。
月齢6日の月が、西南西の低い位置から会場を照らす中、
ファンからの愛を受信するアンテナを、そっとしまった桃子。
数日間の休養を終え、彼女は既に次の目標に向け始動していた。
いや、芸能界引退前から、忙しい仕事の合間を縫って準備をしていたので、
再始動といったほうが正確だった。

誘惑の多い自宅を離れ、図書館やファミレスで勉強にいそしむ桃子。
週一の割合で、大学生時代のゼミ仲間と勉強を共にした。
このゼミ仲間は、桃子の同級生で、卒業後に就職したが、
さらにスキルアップしたいという思いから退職し、今は入試に向けて勉強中だった。
くしくも、第一志望は桃子と同じ大学院で、仲間であると同時にライバルでもあり、
お互いに、良い刺激になっていた。
4 :セル :2018/01/05(金) 23:02
勉強は深夜に及ぶこともあり、そのときは心配した母親も合流した。
「私、もう子供じゃないよ。」
「お母さんからしたら、あなたはずっと子供なの。」
「恥ずかしいよ。」
そう言いながら、桃子は嬉しそうに笑みを浮かべた。
7年前とは異なる勉強内容に、若干の戸惑いはあったものの、
何事も計画的な彼女に抜かりはない。
はずだった。
桃子は、第一志望の院試に失敗した。
5 :セル :2018/01/05(金) 23:02
引退から試験日までの準備時間が足りなかった?
いや、それは関係ない。
桃子が通っていた大学の大学院には、
希望する幼児教育に関する専攻がなかった。
そのため、恩師の薦めた他大学の修士課程を受験した。
だが、学部学生として通った大学よりも、はるかに難しい難関校。
さらに、学内から修士課程へと進学を希望する学生も多数いた。
勉強量や実力で劣っていわたけではない。
しかし、大学が持つ個性という面で、それを知らない桃子はハンデを負っていた。
合格者との差は、わずかであった。

合格できなかったことについて、言い訳はしなかった。
これが自分の実力だと、家族に詫びた。
浪人して、次の機会を狙うという選択肢もあった。
だが、勉強に付き合ってくれた母親や、支えてくれた父と弟に対する自責の念、
さらには、年齢のこともあり、第二志望校へ進学する道を選んだ。
6 :セル :2018/01/05(金) 23:04
ビジュアルもいいし、愛嬌もあるし、運も持っている。
友人も知人も、お世話になった先生もいない大学院。
そんな環境でも、自分はきっとうまくやっていける。
桃子は、そう信じていた。
アイドルということもあって、学部学生の頃は、進んで友達を作ろうとはしなかった。
でも、今はもう違う。積極的に自分から話しかけるように努めた。

「嗣永桃子です。よろしくお願いします。」
「おぉ!」
どよめきが起こった一方、冷めた視線も桃子を凝視していた。
「ももち!」
一部の同級生や先輩は、そう呼んだ。
「もう、アイドルじゃないんだけれどな。」
桃子は、そう呼ばれることに抵抗があった。
しかし、雰囲気を悪くしたくないと思い、桃子はそれを受け入れた。
だが、一部以外の同級生や先輩は、それを苦々しく感じていた。
7 :セル :2018/01/05(金) 23:05
いちど根付いたイメージほど怖いものはなかった。
「キャラがウザい」
「頭がいいわけじゃないのに、先生にかわいがられている」
「『元アイドルに話しかけられて嬉しいでしょ。』と言わんがばかりの態度がイヤ」
「大してかわいくもないくせに、元アイドルだからって偉そうにしてる」
無論、桃子はそんな態度は取っていなかった。
しかし、特定の男性陣が桃子をチヤホヤしたこともあり、
それをやっかまれ、さらに敬遠され、状況は悪化の一途をたどっていた。
8 :セル :2018/01/05(金) 23:07
気が付くと、自分の周りは、
距離を置くか、付きまとうかの、両極端に分かれていた。
パワハラまがいに、異常にきつく当たってくる人もいた。
お金を持っているんだろうと、たかってくる人もいた。
色目を使ってくる人もいた。しかも、それは男性に限らなかった。
大学院に進学したはずなのに、勉強をするという環境ではなくなりつつあった。

そんなとき、専攻の懇親会に誘われたので、状況を変えるチャンスだと思い参加した。
しかし、酔った上級生に暴言を吐かれた。
「そうだそうだ!」と追随する同級生までいた。
桃子はぐっとこらえながら、
「そんなこと、おっしゃらずに。」と、ビールを注ごうとするも、
「おまえの酒なんか、まずくて飲めないよ。」と、拒否された。
「お酒の席での話だから。」
桃子は、そう自分に言い聞かせて耐え続けた。
「気にするなよ。」と、慰めてくれる人も、もちろんいた。
だが帰り道、慰めてくれた男性の1人に、ホテルへ連れ込まれそうになった。
桃子は泣きそうになりながら、必死に走って逃げた。
新月の夜、都会の空は一等星ですら弱々しく、暗闇の中に埋没しかけていた。

<つづく>
9 :セル :2018/01/07(日) 22:21
<つづき>

人間関係の悩みだけであれば、なんとかなったかもしれない。
しかし、人間関係に端を欲する動揺は、
研究にも支障をきたし始め、桃子を追い詰めた。
「なんで、こんなこともできないんだろう。」
なにをやってもうまくいかず、常に自分を責めるようになっていた。
桃子の精神の歯車は、少しずつ確実に狂い始めていた。
10 :セル :2018/01/07(日) 22:23
「みんな、今ごろどうしてるんだろう。」
かつての仲間の顔が、次々と思い浮かんだ。
同期も後輩も、芸能界で順調に活躍し、
また、新たなことに挑戦して、充実した毎日を送っていた。
学部時代の指導教員は、いろいろと気にかけてくれたが、
それも、気休め程度にしかならなかった。

一緒に受験したゼミの同期とは、入学後も連絡を取り合っていた。
研究内容や大学院の雰囲気など、いろいろと情報交換をした。
「参考になるわ〜。」
当初はそう思っていた桃子だったが、いつしか同期からメッセージが、
自分を見下しているように思え始めた。
どんな話をされても、なにか自慢話のように聞こえた。
同期は、第一志望に合格していた。
「あの子が受けていなかったら、きっと私が合格してたのに。」
桃子は卑屈になり始めていた。周りのすべてが敵に見え始めていた。
11 :セル :2018/01/07(日) 22:24
「みんな、今ごろどうしてるんだろう。」
かつての仲間の顔が、次々と思い浮かんだ。
同期も後輩も、芸能界で順調に活躍し、
また、新たなことに挑戦して、充実した毎日を送っていた。
学部時代の指導教員は、いろいろと気にかけてくれたが、
それも、気休め程度にしかならなかった。

一緒に受験したゼミの同期とは、入学後も連絡を取り合っていた。
研究内容や大学院の雰囲気など、いろいろと情報交換をした。
「参考になるわ〜。」
当初はそう思っていた桃子だったが、いつしか同期からメッセージが、
自分を見下しているように思え始めた。
どんな話をされても、なにか自慢話のように聞こえた。
同期は、第一志望に合格していた。
「あの子が受けていなかったら、きっと私が合格してたのに。」
桃子は卑屈になり始めていた。周りのすべてが敵に見え始めていた。
12 :セル :2018/01/07(日) 22:25
「行ってきます。」
桃子は、いつものように家族に向かって元気にあいさつし、出発した。
いつもどおり最寄駅に到着し、通学定期を使って改札を通る。
いつもの決まった電車、決まった車両に乗り込む。
そして、いつもの乗換駅で降車・・・、をせず、今日はそのまま終点まで乗った。
終点は巨大ターミナルで、在来線のほかに、多くの特急列車も停まっている。
桃子は、行き先も確認しないまま、発車ベルの鳴る特急の自由席車両に飛び乗った。
車掌が切符の確認に来る。もちろん、そんなものは持っていやしない。
「すみません、買いそびれちゃって。終点までの乗車券と特急券をお願いします。」
車掌が機械を操作し、切符を発券するが、
その姿は、まったく桃子の目には入っていなかった。
この日、桃子は家出した。
13 :セル :2018/01/07(日) 22:26
「嗣永さんから、なにか連絡あったか?」
指導教員の声が、セミナー室に響いた。
「連絡先なんて知らないし、私も教えていません。」
桃子を毛嫌いする、1人のゼミ生がぶっきらぼうに答えた。
「なんだよ。今日のリポート発表、あいつだろ。」
「サボりか。ほんと、なんなんだろうね。」
桃子のことをよく思っていない他のゼミ生も、吐き捨てるように言う。
「ちょっと待って。きっとなにかあったんだよ。」
別のゼミ生が発したその言葉を、
「困ったやつだな。最近、返信すらよこさないし。」と、
怒気を含んだ指導教員の一言がかき消した。
桃子の学部時代の指導教員と共同研究を一緒にしたことがあり、
よろしくと頼まれていたので、なるべく目をかけるようにしていたこの指導教員も、
徐々に不快感を覚え始めていた。
14 :セル :2018/01/07(日) 22:27
「ここ、どこだろう。」
桃子は見慣れない風景を前にして、ポツリとつぶやいた。
自分がふだん見ない地名行きの列車やバスに、ひたすら乗り込んだ。
何回乗り換えたかすら、もう覚えてはいなかった。
空が暗くなり、自分は家出したんだと、ようやく自覚した。
うっすらと化粧をした両頬には、湧水が岩肌を流れたような何本もの線が走っていた。
その時、おなかの鳴る音が響いた。
家を出てから、なにも口にしていないことに気付いた。

駅の近くには、個人経営の商店が数軒あるだけで、
どこも既に閉店していた。
ただ1軒、ちょうどシャッター閉めようとしていた店に、
「すみません。お水と食べ物を買わせてください。」と言って飛び込んだ。
「たいしたもんは、残ってないよ。」
店じまいを邪魔された初老の女性が、ややとげとげしく声をかけた。
桃子は水とパン、そして、さきいかを購入し、店を飛び出すように離れた。

<つづく>
15 :名無し飼育さん :2018/01/09(火) 09:00
2ちゃんみてきたよ
また書いてくれるんだ
楽しみにしてるんでよろしく
16 :セル :2018/01/11(木) 22:53
<つづき>

学校帰りの高校生だろうか。
「え?あれ、ももちじゃない。」
彼らから、そんな言葉が発せられた。
桃子は、聞こえないふりをして下を向き、小走りに逃げた。
どれくらい歩き回っただろう。
最終便が終わった、誰もいないバス停のベンチに腰を下ろし、一気に水を飲み干した。
この屋根つきのバス停のベンチに敷かれた、やや埃をかぶった座布団が、
とても温かく感じられた。
パンとさきいかを頬張ると、それらが口の水分を一気に奪い、再び激しい渇きに襲われた。
桃子は近くに公園をみつけ、水飲み場で喉を潤した。
「・・・座布団」
桃子はそうつぶやくと、バス停へ戻り、座布団を抱きしめるように眠りについた。
雲の切れ間から一瞬のぞいた流れ星は、またすぐに雲の向こうへと消えていった。
17 :セル :2018/01/11(木) 22:55
みんな、私に気付いてる。
だらしない格好を見て、嘲笑している。
強迫観念にかられた桃子は、常に下を向き、人の声に怯えながらすごした。
「ももちだ!」
大好きだった子供たちに声をかけられても、泣きながら逃げた。
スーパーの見切り品で空腹を満たし、
人目につかないよう安宿に泊まり、時には無人の神社や廃屋で雨露をしのいだ。

ある日、桃子は山中の農村をさまよっていた。
陽は傾き、そう遠くない空では雷鳴が轟いている。
その刹那、いくつか先の山に、稲妻が落ちた。
「ひっ」
そう悲鳴を上げると、すぐ近くに見えた廃屋の中に逃げ込んだ。
「おなか、すいたな。」
昨晩買った菓子パンの残りの半分を今朝食べてから、なにも口にしていなかった。
すると、雨音が屋根をたたき始める。
最初は、ぽつぽつとゆったりとした旋律を奏でていたが、
ほどなく、それは轟音に変わり、もはや騒音以外の何物でもなくなっていた。
18 :セル :2018/01/11(木) 22:56
先日、とある家の玄関前に、「ご自由にどうぞ」と置かれていた不用品の中からもらった、
くたびれたバックパックから、こちらは箱入りの新品だったバスタオルを取り出し、
桃子はそれにくるまった。
バスタオルは、すでに泥や砂で汚れ、汗くさくなり始めていた。

「うーん。」
桃子はうなされていた。
これは、既に日常となっており、毎朝の目覚めはいつも最悪だった。
だが、今日はいつにも増してひどい気分だった。
激しい地震に襲われたように、ひどく目が回り始めた。
「こんなの、夢でも嫌だ。」
“はっ”と目を覚ますと、見知らぬ老婆が桃子をゆすっていた。
19 :セル :2018/01/11(木) 22:58
「おい、どうした。大丈夫か。なんでこんなところで寝てるだ。」
“???”
「雨が上がったのに、変な音が聞こえると思ったら。」
「え?あっ。」
桃子はすっとんきょうな声を上げ、飛び起きた。
廃屋かと思い寝ていたこの場所は、
既に使われなくなった古い蔵で、今は納屋になっていた。
薄暗い裸電球に照らされたその空間には、いくつかの農具が置かれていた。

「ありゃ。なんでこんなかわいいぼこが寝てるんだ。」
落ちたタオルからのぞいた桃子の顔を見て、老婆は驚いた声を発した。
「ご、ごめんなさい。てっきり誰もいないかと思って。」
桃子はあたふたしながら老婆に答えた。
「こんなところで寝てたら、風邪ひくぞ。」
そう言うと、老婆は桃子の肩を強めにたたき、ついてくるように促した。
廃屋と思ったその納屋の隣には、年季の入った小さな家が建っていた。
20 :セル :2018/01/11(木) 23:00
「いつから、あそこで寝てたんだ。」
「夕立が降り始めたのは、記憶にあるんですけれど。」
「そうか。じゃあ、おれが仕事終えたすぐ後に来たのか。」
「ごめんなさい。勝手に入り込んじゃって。」
「気にすんな。雨宿りしたかったんだろ。しかし、またなんでこんな所、子供1人で。」
「1人旅してるんです。」
桃子はとっさに嘘をついた。
「そうか。大したもんだな。」
「そんなことないです。あと、私、子供じゃありません。26歳ですし。」
桃子がそう言った直後、“ぐぅ”と大きな音が鳴り響いた。
「腹へってんのか?育ち盛りだもんな。」
そう問いかける老婆に、桃子は下を向いて恥ずかしそうにした。
「残りもんだが、よかったら食いな。」
そう言って老婆は、ご飯に味噌汁、焼き魚と漬物を用意してくれた。
21 :セル :2018/01/11(木) 23:02
それまでかしこまっていた桃子だったが、
食事を目の前にすると、飢えた猛獣のように料理をむさぼった。
「おうおう、そこまで腹をすかせてたのか。」
老婆はそう言うと、あいた茶碗にご飯を山盛りによそい、
それを“ドンッ”と桃子の前に置いた。
おなかが膨れ落ち着きを取り戻した桃子は、
「あ、すみませんでした。お行儀悪くって。」
そう言いながら、おかわりの茶碗に手を伸ばし、それもあっという間に平らげた。
22 :セル :2018/01/11(木) 23:03
「ごちそうさまでした。」
桃子は箸を置き、手を合わせた。
「明日の朝飯がなくなっちまった。また、炊かんとな。」
「ご、ごめんなさい。」
老婆は茶碗や皿をまとめると、台所へ運んで行った。
「あ、私が片付かますから。」
「いいよ。ゆっくりしてろ。」
「でも。」
「それじゃあ、米を研いでおいてくれるか。
1合でいいかと思ったが、さっきの食いっぷりだと3合はいるかね。」
「すみません。さっきは、はしたなくて。ふだんはそこまでは食べないので。」
「じゃ、2合頼む。」
「はい。」
23 :セル :2018/01/11(木) 23:04
米びつには、なんとも懐かしい1合升が放り込んであった。
桃子は、お釜に升2杯の米を入れて蛇口をひねると、その水がすぐに白濁した。
「これは、無洗米じゃないな。」
桃子は研ぎ汁をみて、すぐに理解した。
それくらいの炊事はできるようになっていた。
すぐにざるにあけ、米をもう一度お釜に戻すと、シャリシャリと研ぎ始める。
「いい手つきだな。」
老婆が褒めた。
「そんなこと。」
「いやいや、上手だよ。どうもありがとう。」
そう言うと、老婆はお釜を電子ジャーにセットした。

「風呂に入んな。」
「え?おばあちゃんは、もう入ったんですか。」
「おれは、後でいい。」
「ダメです、そんな。」
「汚いんだよ。早く入ってもらわねえと困る。」
本心で言っているわけではない。そのことを、桃子はすぐに理解した。
「それじゃあ、一緒に入りますか?お背中、お流しします。」
「確かに、そのほうが効率的だな。」

<つづく>
24 :セル :2018/01/14(日) 22:12
<つづき>

老婆は、背中を流してくれている桃子に尋ねた。
「急ぐ旅なのか?」
「いえ。ゆっくりとあちこちをまわっているので。」
「そうか。じゃ、しばらくここにいて、仕事を手伝え。」
「え?」
「ちょうど収穫なんだ。若いのに手伝ってもらえると助かる。」
「・・・、はい。」
桃子は戸惑いつつも返事をした。
しかし、内心、喜びを感じていた。
「自分を必要としてくれている。」
久しぶりに、1人の人間として、自分の存在意義を見出せたような気がした。
25 :セル :2018/01/14(日) 22:13
桃子が、背中をお湯で流すと、
「よし、お礼におれも洗ってやろう。」
そう言って老婆は、桃子を椅子に座らせた。
“ゴシッゴシゴシ”
「いたたたた、おばあちゃん、痛い。」
「こんなやわっこい肌して、こんなんで畑仕事ができるか。おれが鍛えなおしてやる。」
桃子の悲鳴は、しばらく鳴りやまなかった。

「こっちの部屋で休みな。狭いけれどな。」
ももひきとシャツを借りた桃子は、老婆に促されるまま床に就いた。
まだ背中がヒリヒリと痛むが、桃子はなにか幸せな気持ちになっていた。
隣の部屋から、老婆の大いびきが聞こえてきた。
「もう、おばあちゃんたらすごいいびき。これじゃ眠れないかも。」
そう言い終わるか終らないかのうちに、桃子も小さな寝息をたてはじめた。
26 :セル :2018/01/14(日) 22:13
「おはようございます。」
桃子はふすまを開けるとあいさつをしたが、そこに老婆の姿はなかった。
「あれ?いない。」
油断して、“ふぁ〜あ”と大きなあくびをすると、
「おい、これを着な。」と言う声が、すぐ横から突然響いた。
「あっ、ぐ。」
桃子は慌てて口を閉じたものだから、危なく舌を噛みそうになってしまった。
「あ、おばあちゃん。起きてたんですね。おはようございます。」
「おはよう。昨日の飯の時よりも、大口開いてたぞ。」
「すみません。」
桃子はとっくに閉じた口を、思わず両手で覆った。
27 :セル :2018/01/14(日) 22:14
「朝飯にすんぞ。着替えたら、すぐに台所に来い。」
そう言うと、老婆は持っていた服を、桃子に投げつけるように渡した。
「あ、ありがとうございます。」
「おれが昔着てたやつだからな。大きさ、合わないかもしれんぞ。」
「あの、私が着ていた服は?」
「洗ったぞ。汚れてたし、ずいぶんと臭かったからな。」
見ると、軒先に桃子の服一式とバスタオルが
洗剤の香りに包まれて、ピンチハンガーにぶら下がっているのが見えた。
「え、あ、すみません。」
感謝の気持ちと同時に、
自分のブラジャーやパンティーが無造作に干されていて、少し恥ずかしい気持ちになった。

<つづく>
28 :名無し飼育さん :2018/01/15(月) 08:46
お、きてた。
今回は更新ゆっくりめなのかな。
なんかももちがたいへんなことに。
楽しみにしてるんでよろしく。
29 :セル :2018/01/17(水) 23:34
時間が取れた時にアップしてます。
気長にご覧いただけると嬉しいです。
30 :セル :2018/01/17(水) 23:35
<つづき>

「お待たせしました。お手伝いします。」
「もうできてるから、持ってってくれ。」
「あ、はい。そうだ、服、ピッタリでした。」
「そうか。おれも以前はおまえのような体してたってこったな。」
「あはは、そうですね。あ、いえ、今もスタイル抜群ですよ。」
「お世辞なんて言われても、嬉しかあねえぞ。」
そう言いながらも、老婆がにっこりとほほ笑む姿を見て、
桃子にはたまらなく幸せな気分になった。
「「いただきます。」」
昨晩と、なんら変わらない献立の朝食。
唯一の違いは、サケの塩焼きがアジの開きになっていたことだけだった。
今日の桃子は、昨晩とは打って変わり、上品に(なったつもりで)食べた。
31 :セル :2018/01/17(水) 23:36
「畑に行くぞ。その自転車に乗ってついて来い。」
「はい。」
リヤカーが取り付けられた自転車を、農道をゴトゴトと音をさせながらこいでいく。
老婆の歩くペースに合わせて10分ほど行くと、
決して広くはないが、よく手入れされた畑に着いた。
桃子が自転車から降りると、もう老婆は収穫に取りかかり始めていた。
いんげん、そらまめ、枝豆、里いも、レタス、なすに小松菜と、
実にいろいろなものが植えられていた。
「私もやります。」
桃子が手伝いを申し出ると、
「やり方、分かんのか?」と、ぶっきらぼうに老婆が答えた。
「いえ。えっと、分かりません。」
「じゃあ、そこで見て覚えろ。」
老婆は驚くべき速さで土を掘り起こし、次々と根菜を収穫していく。
桃子は唖然とし、手伝うのをあきらめて、掘り起こされた根菜をリヤカーに積んだ。
「なんだ、やらねえのか。こっちはそんな難しくないからやってみろ。」
老婆は、桃子にレタスと小松菜の収穫を任せた。
32 :セル :2018/01/17(水) 23:37
「なんだ、そのへっぴり腰は。」
“パーン”
老婆が勢いよく桃子のお尻をたたくと、すばらしくいい音が鳴り響いた。
「いたた。」
桃子は叩かれたお尻よりも、腰の痛みで悲鳴を上げた。
「立派なケツしてんな。いい子をたくさん産めんぞ。」
老婆はカラカラ笑った。
「も〜。」
桃子は、半笑いで答えた。
33 :セル :2018/01/17(水) 23:38
「さ、帰るぞ。」
「あ、もうですか?」
「昼過ぎっと、暑くなるからな。」
野菜をたくさん積んだので、復路は往路よりもかなりきつかった。
いや、野菜の重みだけではなく、畑仕事の疲労が、既に桃子を襲っていた。
行きは、老婆が歩くのに合わせてゆっくりと自転車をこいだが、
帰りは自分のペースと老婆のペースがちょうどよくなっていた。
「おばあちゃん。普段は自分で運んでるんですか?」
「そうだ。と言いたいところだが、実は先月転んじまってな。
大したケガじゃなかったんだが、医者に止められて、
それから自転車には乗ってなかったんだ。」
「そうだったんですか。ケガが大したことなくて、本当に良かったですね。」
「恥ずかしいったらありゃしねえ。ま、それからは村の若い奴らが、
ときどき自動車で手伝ってくれてるんだが、あいつらも仕事があっからな。
いつもというわけにはいかんだろ。」
「そうですよね。」
34 :セル :2018/01/17(水) 23:39
「おまえさんが手伝ってくれて、ほんとに助かるよ。」
老婆は笑顔で桃子に礼を言った。
家に帰ると、2人で握り飯をほおばった。
塩と梅干だけのおむすびがこんなにおいしく感じられたのは、
桃子の人生で初めてのことだった。
ちょうど食べ終わる頃、1台の軽トラックが庭に入ってきた。
「ばあさん、今日はずいぶん収穫できたんだな。」
「おう。もう大丈夫だぞ。」
「じゃ、持ってくわ。」
そう言うと、軽トラックに乗っていた中年男性は、
無造作にリヤカーから野菜を荷台に積み込み、去って行った。
35 :セル :2018/01/17(水) 23:40
「近くに、近くと言っても車で15分くらいかかるんだが、直売所があってな。
そこで売ってもらってるんだ。」
「そうだったんですか。あんなにたくさん、どうするのかと思って。」
桃子は納得の表情を見せる。
「以前は農協に卸す前に、きれいに水洗いして、形の悪いのは家で食ってたんだが、
最近は、泥がついているほうが新鮮でいいっていう客が多いみたいでな。
形が悪いのも買ってってくれるみたいだし、洗う手間も省けて楽させてもらってる。」
「形がどうでも、おいしさに変わりはないですもんね。」
桃子がそう言うと、
「そうだ。ちょっと曲がってるだの、小さいだのって、
うるせえこと言うやつが多すぎるんだ。どれもうめえのに。
ま、みんなようやく気付いたってことじゃねえか。」と、老婆は嬉しそうに答えた。

<つづく>
36 :名無し飼育さん :2018/01/19(金) 08:49
ももち おうちに帰りなさ〜い
37 :名無し飼育さん :2018/01/19(金) 16:55
あまりにも可愛そうな展開でビビってたけど初期から見てるよ
幸せになることを願ってます
38 :セル :2018/01/20(土) 23:12
レスありがとうございます
読んでくださっている方がいるとやはりうれしいですね
今回は「不安」や「孤独」をテーマに書いてみました
完結まではまだしばらくかかりますがよろしくおつきあいください
気が向いたらまたコメントをいただけると幸いです
39 :セル :2018/01/20(土) 23:19
<つづき>

午後は昼寝をしたり、本や新聞を読んだり、テレビを見たりしてゆっくりと過ごしたが、
やや日が傾いて気温が下がり始めた頃、
「ほら、牛作るぞ、手伝え。」と、老婆が突然、なすを桃子に差し出した。
「え?牛って、これ野菜じゃ・・・。」
「ほら、おがらを切って刺すんだよ。分かんだろ。」
「えっ、えっ?」
「明日からお盆だろうっての。まさかそんなことも知らんのか?」
老婆は、あきれた表情で桃子をたしなめた。
「え?あ、そうか。お盆か。すみません、作ったことなくって。」
「なんだ、まったく。おまえにはご先祖様がいないのか?そんなわけねえだろ。
クリスマスだの仮装だのバレタンダーだの、外国の真似ばっかしてないで、
ちゃんと神様や仏様を大事にしねえとダメだぞ。」
「すみません。あと、バレタンダーじゃなくって・・・、」
「なんだって?」
「あ、いえ、なんでもありません。」
桃子は、ちょっといらついている老婆に説明するのをやめ、苦笑いしながら頭をかいた。
「教えてやっから。ほら、持ってみ。」
桃子の手を取り、一から作り方を教えてくれる老婆。
「送るときはキュウリで馬作るからな。忘れねえで、ちゃんと覚えておけよ。」
そんな会話をしながら、仏壇に供え物をして準備を終えると、一緒になって手を合わせた。
40 :セル :2018/01/20(土) 23:20
「よし、できたな。今日は畑仕事で汗かいたし、晩飯前に風呂にへえるぞ。」
「はい。」
昨日のお返しとばかりに、桃子は老婆の背中を思い切りこすりあげた。が、
「なんだ、もっと力こめて洗え。」と、逆に叱られてしまった。
「おれもやってやる。」
老婆が手拭いに石鹸をこすりつける。
「あ、いや、その。今日は、ちょっと。」
「なに言ってんだ。そら、遠慮すんな。」
「イタタタター。」
今日も、桃子の悲鳴が浴室に響いた。
41 :セル :2018/01/20(土) 23:21
夕食は、ご飯に味噌汁、漬物にメザシ。
そして、今日は小松菜のおひたしに、根野菜の煮物もあった。
「すみません。ご飯と味噌汁しかお手伝いできなくて。」
桃子は、恥ずかしそうに詫びた。
「漬物も切ってくれたろ。切れずにつながったままのもあるけんどな。」
そう言って、たくあんを箸で一切れつかみあげると、
端っこがつながったたくあんが、4〜5切れ一緒になってくっついてきた。
「あぁ〜。」
それを見た桃子は、顔を赤くして頭を抱えた。
「ま、練習すればすぐだ。」
老婆は、桃子を慰めた。
42 :セル :2018/01/20(土) 23:21
「味噌汁、うめえぞ。出汁の取り方、分かってるな。」
「はい。練習しました。
昔は出汁のこと、『だっしる』なんて言っちゃったこともあるんですけど。」
「なんだ、そりゃ。」
老婆は大笑いした。
「おひたしも煮物もおいしい!」
「今度作り方、教えてやるよ。」
「はい。」
まだ、この家に来て2日目だが、
桃子は、久しぶりに心の底から楽しい時間を過ごしていた。
43 :セル :2018/01/20(土) 23:23
4日間のお盆は、あっという間に終わった。
迎え火や送り火のやり方を初めて教わり、
「ほら、まだ玄関閉めんな。仏さま、家に入ってきてねえかもしれねえぞ。」
「お坊様に早くお茶出せ。気が利かねえな。」
「とっとと閉めろ。仏さんが戻ってきて居座ったらどうすんだ。」
などと小言を言われた。
桃子は、幸せな時間を過ごしていた。

再び、日常生活に戻る。
農作業を手伝い、午後はゆっくり過ごし、風呂に入りおいしい食事をいただく。
そんな生活の中、精神的な不安が消えたわけではないが、
農作業にも慣れ始め、安息の日々を送っていた。
44 :セル :2018/01/20(土) 23:25
そんなある日、いつもとは違う若い男が、軽トラックでやってきた。
「今日はおやっさん来れねえってからさ、代理で俺が来たよ。」
「おお、そうか。助かるよ、ありがとうな。」
「今日で、おしまいだろ。」
「そうだな。収穫も一段落したからな。」
「ん?あ、そうか、今日は。」
若い男はなにかに気付いた様子だった。
「なんだ?」
「いや、供え物が、今日は立派だから。」
「そうだな。」
「ちょっと、手を合わさせてくれ。」
45 :セル :2018/01/20(土) 23:25
当初、軽トラックが来ると、桃子はとっさに隠れていた。
だが、それも最初のうちだけで、
ある日、いつものおじさんが桃子に気づいたが、
「遠い親戚の子だよ。」と、老婆が紹介すると、
特に関心も示さず、あいさつされるだけで済んだ。
そのことで安心し、それからは、家の中で普通に過ごすようになっていた。

桃子も、仏壇のお供え物が多いなと思いながら、ふだんどおり家の中にいた。
しかし、その時、「あれぇ?」というすっとんきょうな声が、
桃子と目が合った若い男から発せられた。
「どうした。」
老婆はいぶかしがって尋ねた。
46 :セル :2018/01/20(土) 23:27
「おやっさんから、親戚の子がいるとは聞いてたけれど。」
その声を聞いて、桃子は慌てて柱の陰に隠れた。
だが、若い男は縁側から上半身を家の中に突っ込み、桃子の顔をしげしげと見た。
顔を背ける桃子に対して、
「やっぱり、ももちじゃん。なんでばあちゃんちにいんだ?」
と、若い男は興味深そうに問いかけた。
「だから、遠い親戚だって言ってんだろ。
油売ってねえで、とっととやることやって行け。」
なにかを察した老婆が、若い男性を追い払うように言った。
「んだよ、わざわざ野菜取りに来てやったのに。ま、いいや。また来っからさ。
そんときゃ、サインでも頼むよ。
あと、若い連中で集まって酒盛りもやってるから、今度誘うよ。じゃあな〜。」
そう言うと、野菜を積み込んで去って行った。

<つづく>
47 :セル :2018/01/21(日) 22:50
<つづき>

「おい、仏壇に手を合わせんじゃなかったのか。」
老婆はそう言いかけたが、桃子の姿を見て、
家には上げないほうがいいと思い、口を閉じた。
むろん、悪気があるわけではない。彼からしたら、
いつもと変わらない、普通の態度だった。
だが、桃子にとっては、その言動がひどく苦痛で、
癒え始めた心の傷が、また開いて痛み始めた。
48 :セル :2018/01/21(日) 22:51
桃子は、今日もいつもと同じように風呂で老婆に背中を流してもらっていた。
“ゴシゴシゴシ”
「私、そろそろ出発したいと思います。」
桃子は、悲鳴をあげることもなく、淡々と老婆に切り出した。
「寂しくなるな。」
老婆は、今日のことがあったからといって、特に桃子のことを詮索することはしなかった。
桃子がなんであろうと、自分にとって孫のような存在であることは変わらなかった。
ずっと一緒にいてくれたらと、本気で考えていた。
「すみません。突然で。」
「畑の片付けに、もうちょっとかかる。
おまえさんも準備もあるだろうし、もう2〜3日はいてくれねえか。」
老婆の訴えに、桃子は少し考えてから、
「わかりました、そうします。」と、答えた。
「来週、祭があんだが、それは無理そうだな。」
「ごめんなさい。」
49 :セル :2018/01/21(日) 22:51
夕げの食卓。
桃子がこの家で世話になるようになってから、初めて老婆は酒を出した。
桃子も少し口に含む程度だが、それに付き合った。
これまで、お互いの身内に関する会話をしたことは一度もなかったが、
初めて、老婆は自分の家族にについて語り始めた。
50 :セル :2018/01/21(日) 22:53
「どれくらい前になっかな。」
「はい。」
「おれには、3人の子がいるんだよ。」
「そうなんですか。今はどちらに・・・」
「いや、『いた』と言ったほうが正しいな。」
「・・・」
「みんな、山や畑の仕事をしてた。ある年、長雨が続いてな。」
「ええ。」
「心配になって、息子たちは手分けして様子を見に行ったんだ。」
「3人とも、男のお子さんだったんですか?」
「そうだ。でも、いつまで待っても誰も戻ってこねえ。」
「そうしたら、山津波があったって。」
「山津波?」
「山の斜面が崩れ落ちることだ。土砂崩れって言ったほうが分かるか?」
「分かります。」
「車で行ったから大丈夫だと信じてたんだが。でも、みんな流されて土の中に埋まってた。」
「でも、皆さん別行動されてたんじゃ。」
「そのはずだったが、どこかで落ち合って、一緒になったんだろうな。」
51 :セル :2018/01/21(日) 22:54
「そうだったんですか。すみません、なんと言っていいか。」
「気にすんな。おまえのせいじゃねえよ。」
「ごめんなさい。」
「爺さんは、足をケガしてて家にいたから平気だったが、本当に悔やんでな。
『俺が1人で行ってればみんな助かったのに。』って。
そんな爺さんも、一昨年あの世に行っちまった。」
「それで、一人暮らしされていたんですね。」
「でも、長男には嫁がいてな。孫もいんだぞ。男の子だ。
ただ、ここじゃ食い扶持がねえから、町に行っちまった。
小さい子を抱えた嫁に、山仕事は無理だからな。畑は小せえし。」
「お嫁さんとお孫さんは、今は?」
「以前は、命日の頃には来てたんだが、孫も就職して忙しくなったし、
嫁も再婚したからな。」
「そんな。」
52 :セル :2018/01/21(日) 22:57
「勘違いすんなよ。おれが再婚しろってすすめたんだ。
でも、嫁のやつ、子供の父親は死んだおれの息子だけだからって言って。」
「お子さんのことを、考えていたんですね。」
「ああ。で、孫が自立して、やっと再婚しやがった。もっと早くすりゃあいいものを。
そんでも、今でもときどき、墓参りには来てんぞ。」
「よかった。」
「昔は、おれも大酒のみだったが、
子供達を亡くしてからは、供養も兼ねて命日だけ飲むようにしてる。」
「え?じゃあ、ひょっとして。」
「そうだ。今日が命日だ。」
「それで、仏壇にたくさんのお供え物を。」
「おまえが来てくれてから、なんか子供と孫とが一緒にいてくれているような、
そんな気持ちになれてな。」
その話を聞いた桃子は、自分もおばあちゃんの役に立てていたんだと思い、
胸が詰まる思いだった。
ただ、そのことについて、なにかを伝えようとはしなかった。
いや、話すことができなかった。
53 :セル :2018/01/21(日) 22:58
「今日はちょっと飲みすぎた。悪かったな、片付けをやらしちまって。」
「いえいえ、これくらい。」
「そうか。じゃ、また明日も早いから寝っぞ。おやすみ。」
「おやすみなさい、おばあちゃん。」
「ああ。桃子もゆっくり休め。」
「え?」
いつもは、「おまえ」と呼ぶ老婆が、初めて「桃子」と呼んだ。
桃子は、驚きを隠せなかった。そして、目を閉じ、小さくうなずいた。

隣室から、老婆のいびきが鳴り響き始めた。
桃子は酒を飲んだにもかかわらず、まったく眠気がなかった。
「もうあと2〜3日。」
そんな話をしておきながら、桃子は夜明け前に、
部屋の隅に置いたリュックとわずかな荷物を手に取った。
照明はつけず、窓から入るわずかな光だけを頼りに荷物をリュックに詰めようとすると、
スルッと、なにかがこぼれ落ちた。
桃子は、こぼれ落ちたそれがなにかを確認もせず、無造作にリュックに詰め込んだ。

<つづく>
54 :名無し飼育さん :2018/01/22(月) 08:49
そのままおうちに帰りなさいね
ももちが心配で心配で
55 :名無し飼育さん :2018/01/24(水) 09:01
飼育復活したんだな
よかったよかった
ちゃんとももちが幸せになってくれるのを見届けないと
56 :名無し飼育さん :2018/01/24(水) 12:59
復活おめ
続きをよろしく
今まで全部ハッピーエンドだったし信じてるよ
57 :セル :2018/01/25(木) 04:21
再開したんですね
また今晩からアップしたいと思いますのでよろしくお願いします
58 :セル :2018/01/25(木) 23:28
<つづき>

「ありがとうございました。さようなら、おばあちゃん。
ちゃんとあいさつもしないで、ごめんなさい。」
桃子は、しばらく世話になった家に向かって、深々とお辞儀した。
体を起こすと、満月の明かりがまぶしいくらいに輝いていることに気づき、
「そういえば、さっきこぼれ落ちた物はなんだったんだろう。」と、急に気になりだした。
初めてここへやってきた日、廃屋と思い忍び込んだ納屋の脇にしゃがんで、
リュックの中を確認すると、それは封筒だった。
「気を付けて行きな。なにがあったか知らないが、人生捨てたもんじゃない。
あと、よかったら、これを使え。」
中には、そう書かれた手紙と、特徴的なキーホルダーのついた小さな鍵が入っていた。
その鍵は、桃子が農作業を手伝った際に使っていた自転車のものだった。
「いつもさしっぱなしで、鍵なんてかけたことがなかったのに。」
桃子は溢れそうになる涙をこらえるため、月を見上げた。
59 :セル :2018/01/25(木) 23:29
「桃子、短い間だったけどありがとうな。楽しかったぞ。」
手紙の最後には、そう書かれていた。
桃子は、改めて家に向かって、老婆に対して頭を下げた。
そして、自転車にまたがると、畑の前を通り過ぎ、
そのまま、まっすぐと自転車をこぎ進めていった。
東の空が少しずつ白みだす中、桃子は月に向かってペダルを踏んだ。
「負けんじゃねえぞ。」
布団の中で、老婆はそう言って涙を流していた。
60 :セル :2018/01/25(木) 23:32
夜がすっかり明け、山をいくつか抜けたところで、桃子は河原に自転車を停めた。
なにも口にせず飛び出したので、のどはカラカラになっていた。
「川の水、飲めるかな?」
この段階になって、桃子は初めてリュックが思った以上に重いことに気づいた。
荷物を引っ張り出すと、
底にアルミホイルの包みと、ぽち袋を見つけることができた。
アルミホイルの中には、握り飯が入っていた。
荷物の重みでつぶれ、中の具材がはみ出していたが、それが梅干しだと分かり、
口の中に唾があふれ、のどの渇きが抑えられた。
ぽち袋の中には、しわしわになった1万円札と5千円札が1枚ずつの他、千円札が7枚、
そして、「手伝ってくれてありがとう。大切に使うんだぞ。」と書かれたメモが入っていた。
「おばあちゃん・・・。」
桃子は、目から涙をこぼしながら、握り飯をほおばった。
「しょっぱい。」
涙が加わった塩分多めの握り飯を、一口一口、噛みしめながら食べ進めた。
61 :セル :2018/01/25(木) 23:34
ようやく漆黒のトンネルに光を見出しかけたときに、
再びその穴をふさがれた桃子。
人と目が合うことに、まだ恐怖を抱いていた。
あれから、何日経っただろうか。
途中、タイヤから空気が抜けたり、チェーンが外れたりして、
必死になって自転車を押したこともあった。
でも、自転車を捨てようとは、絶対に思わなかった。
そんなとき、決まって助けてくれたのは、老人だった。
「これはパンクじゃないな。虫ゴムだ。ひっくり返しておいたから、しばらくはもつよ。」
「油が全然なくなってる。さしといたから、チェーンは早めに交換しな。」
なんのことだか、桃子にはさっぱり意味が分からなかった。
ただ、その優しさに、感謝せずにはいられなかった。

老婆の家を出てから10日あまり、桃子は、とある港に辿り着いた。
そして、乗船券売り場の行先欄に、懐かしい文字を見つけた。
「そこに行くんだ。」
桃子は、誰かにそう言われているような気がした。
62 :セル :2018/01/25(木) 23:38
「沖縄行きのチケットをお願いします。」
桃子は窓口の担当者に伝えた。
「どの等級にします?」
「等級?」
職員の問いかけの意味が、桃子には理解できていなかった。
「1等と2等があって、1等が個室、2等は2段ベッドか和室の大部屋です。
2等は学割もありますよ。」
「個室があるんですね。あ、でも高いな。2等も、2段ベッドのほうが高いのか。」
「2段ベッドはカーテンがついているので、ある程度プライバシーも保護されますよ。
洗面所がついているほうがお高いですが。あと、和室はただの大部屋です。」
「じゃあ、2段ベッドの安い方にします。」
「はい、ありがとうございます。自転車などの持ち込み品はありますか?」
「自転車が1台。」
「では、21,480円です。」
「クレジットカードは使えますか?」
「あいにく、現金のみのお取り扱いです。」
これまでの放浪で、現金をほぼ使い切ってしまっており、
財布の中には1000円札が1枚と小銭が入っているだけだった。
63 :セル :2018/01/25(木) 23:38
「ちょっとお金をおろしてきます。近くに銀行は?」
「4〜5分歩いたところにコンビニがありますけれど、もう、乗船手続き、終了しますよ。」「えっ。次の便は何時ですか?」
「4日後です」
「???4日後?!」
「どうなさいますか?」
「どうしよう。・・・、はっ、そうだ。」
“ゴソゴソ”
「よかった。ちょうど足りる。おばあちゃん、使わせてもらいます。これでお願いします。」
桃子はぽち袋に入ったお札を、すべて担当者に手渡した。
「ありがとうございます。」
ぎりぎりで間に合い乗船できたフェリー。
2段ベッドの部屋には、初老の女性が1人いるだけだったが、
それでも桃子は、なるべく顔を合わせないようにし、ベッドにこもっていた。
和室の大部屋には、学生や肉体労働者の姿があったので、
2段ベッドの部屋からも、出ないようにしていた。
だが、揺れる船内で小さな2段ベッドに引きこもるのも相当なストレスであり、
人気がないのを見計らって、デッキに出て潮の香りをかいだ。
途中、何か所か寄港しながら船に揺られること、およそ40時間、
桃子は那覇新港に降り立った。
64 :セル :2018/01/25(木) 23:39
「ここ、どこだろう。なにか見覚えのあるような、ないような。」
自転車をこいで海沿いを進んだ桃子は、断崖絶壁で一人たたずんでいたが、
徐々に暗くなりつつある空を見て、急に心が乱れ始めた。
「どこで、人生を誤ったんだろう。私、もう一度頑張れるのかな。」
桃子がうつむくと、沈む夕日に照らしだされ、
目の前に、海に伸びる一本の道が作り上げられていた。
荒い波が光を怪しく乱反射させ、まるで桃子を手招きしているようだった。
しゃがみこんでいた桃子は、突如立ち上がり、
手招きに誘われるように、崖に向かって歩き出した。

<つづく>
65 :名無し飼育さん :2018/01/26(金) 08:54
ももち後ろ〜後ろに下がって〜
66 :セル :2018/01/27(土) 00:02
<つづき>

もう、あと数歩で、照らし出された一本道へ飛び込もうかというそのとき、
「ちょっと、あんた。なにしてるさぁ。」と、1人の女性が背後から桃子に声をかけた。
“ハッ”桃子は我に返ると、慌ててその場から逃げようとした。
だが、桃子はその声に、なにか懐かしさを覚えて足を止め、振り返った。
夕日に照らされた女性は、あまりにまぶしく、顔はまったく分からなかったが、
徐々に目が慣れ、表情も分かるようになってきた。
「あ、おかあさん!」
桃子は、久々に大きな声を出した。
逆光で、女性も桃子の顔が全く見えていなかった。
だが、その声を聞いて、すぐに気付いた。
「桃子ちゃんかい!」
女性は、桃子のもとに駆け寄り、手を握った。
それは、かつてDVD撮影で世話になった、果樹園のおばさんだった。
「ご無沙汰してます。」
「桃子ちゃんは、ずいぶん雰囲気が変わったね。声を聞かなかったら気付かなかったよ。」
「すみません。」
「芸能界引退したって聞いて、ほんとびっくりしたさあ。」
「ええ、まあ。」
「雰囲気が変わったというか、その姿はどうしたね。」
髪はぼさぼさ、服は汚れ、肌には塩がふき、汗の臭いもひどかった。
下を向き、なにもしゃべらなくなった桃子の姿を見た女性は、
にっこりとほほ笑むと、なにも聞こうとはせず、
「泊まるところは決まってるの?よかったら、今日はうちにおいで。」と、桃子を誘った。
67 :セル :2018/01/27(土) 00:03
「マンゴーがあればよかったんだけれどね。もうこの季節になると、果物はなにもなくて。」
「いえ、とんでもない。沖縄そば、すごくおいしいです。」
シャワーを浴び、さっぱりした桃子は、笑顔でそうこたえた。
「そう。よかった。」
しかし、その女性は、桃子の肌や髪が傷んだ姿を見て、ひどく心配になっていた。
「これから、どうするの?」
「1人でゆっくりしたくなっちゃって、ずっと旅してきたんですけれど、
せっかく沖縄まで来たんで、しばらくこっちに滞在できればと思ってます。」
「いいよ。うちにいても。」
「とんでもないです。どこか宿を探して泊まります。」
「宿じゃ、お金がたいへんじゃない。それに、東京とは違ってなにもないし。」

数日後、桃子は転居で無人となった小さな家を紹介してもらい、住むことになった。
68 :セル :2018/01/27(土) 00:05
「桃子ちゃん、ここよ。」
女性に連れられ、桃子は家からやや離れた、小さな食堂に案内された。
「最近は、こんな片田舎の小さなお店にも、けっこうお客さんが来るようになって。」
「そうなんですか。今はインターネットとかで情報が調べられますものね。」
「おじいとおばあが2人でやってる店なんだけれど、人手が足りないって。」
「私なんかで、務まるんでしょうか。」
「桃子ちゃんなら大丈夫よ。さ、中にどうぞ。」
「「こんばんは。」」
「おじい、前に言ってたの、この子よ。かわいらしいでしょ。」
「あぁ、そうか。ま、そこに座って待っててよ〜。」
仕込みの最中なのか、おじいは調理場でせわしなくしていた。
すると、今度は裏口に人影が見えた。
「あ、おばあ。この子なの。紹介したいのは。」
「そうね。この子ね。うちで働きたいってのは。」
「よろしく、お願いします。」
桃子は、小さな声であいさつした。
「人が来すぎてな。もう、営業は昼だけにしようかと考えていたさ。」
仕込みが一段落したのか、おじいがカウンター越しに声をかけてきた。
「夜は、客を入れるのやめて、集落の連中だけが集まれるようにしようかって。」
おばあも口をはさむ。
「でも、若い子が手伝ってくれるなら、夜もまだやれそうさね。」
おじいが嬉しそうに言うと、おばあもにっこりと笑った。
こうして、桃子は片田舎の食堂で働くことになった。
69 :セル :2018/01/27(土) 00:06
人目を避けてきた桃子にとって、これは大きな変化だった。
だが、精神的に落ち着きを取り戻しつつあることだけが、変化の理由ではなかった。
老婆の家を出てから、ここに至るまでの道中、
自分が嗣永桃子であると気づかれることは、ほとんどなかった。
おそらく、気付かれていたときも、声をかけてくる人はいなかった。
白髪が少し混ざった髪は、かつてのような艶がなくボサボサで、
目の下には大きなくま、肌はかさつき、生気が衰えた眼は、傷みはじめた魚のよう。
アイドルのももちを知る人物に、この女性を嗣永桃子だと考えることは不可能だったし、
まれに気付いた人も、とても声をかける気にはなれないような有様。
それは、観光客も地元民も同じだった。
70 :セル :2018/01/27(土) 00:08
働き始めて数週間が経ったある日。
シーズンオフの平日ということもあり、客入りはそこそこで、多くは地元民だったが、
見慣れない男が、店の隅のテーブル席に、1人ポツンと座っていた。
他の客は全員帰ったが、閉店時間が来ても、
その男だけは、まだチビチビと酒を飲んでいた。
「桃子ちゃん。時間だし、今日はもういいよ。」
おじいが桃子に声をかけた。
「はい、お疲れ様でした。」
桃子はエプロンを外し、客に会釈をしてから、
いつものように自転車にまたがり、帰路に就いた。

「きれいなお月様。」
満月の美しい光に誘われ、桃子は自転車を降りて見入っていた。
大地を煌々と照らすほどのきれいな月ではあったが、
その日は靄がかかり、だいだい色がかった暗みを帯びた薄い光がうっすらと大地を包んで、
ある種の妖しさを醸し出していた。
桃子も、まるでなにかに憑りつかれたように、月に魅入っていた。

だが、その時、「おちゅかれぇしゃま。」
感慨にひたる桃子の邪魔する、耳障りな響きの言葉が、突如浴びせられた。

<つづく>
71 :名無し飼育さん :2018/01/27(土) 10:51
ももち大丈夫なの?
なんかずっとかわいそうな状況なんだけれど
ももち以外主要な人もぜんぜん出てこないし
ハッピーエンドになるんだよね?
72 :セル :2018/01/27(土) 23:10
今作はけっこう長編です
長い目で見ていただけると嬉しいです
73 :セル :2018/01/27(土) 23:12
<つづき>

日本語ではあるが、発音は明らかに日本人とは違う。
テーブル席にいた、あの見慣れない男だった。
店では一言も発さず、メニューの写真を指さして注文していたので、
この時、桃子は初めてその声を聞いた。
目を細め、睨むようにメニューを見る姿を薄気味悪く思っていた。
74 :セル :2018/01/27(土) 23:13
「いぇまでおくりゅよ。」
桃子は恐怖を覚え、「いえ、けっこうです。」と断る。
だが、その男は「ねえ、いいざない。」と、執拗に食い下がった。
「お気持ちだけ。」
桃子は怯えを振り払うように、語気を強めた。
「ざ、ちゅいていっていいんだね。」
男は、嫌らしい表情で桃子にまとわりつく。
「いやです。いったい、なにを聞いてたんですか。」
勇気を振り絞り、桃子は怒りをあらわにして言い放った。
「にふぉんご、よくわきゃらない。」
そう言ったかと思うと、男の態度は豹変し、
火でもついたかのように顔を真っ赤にして、桃子につかみかかった。
桃子は、悲鳴を上げる間もなく、
草むらのほうへと引きずられていき、そのまま押し倒された。
75 :セル :2018/01/27(土) 23:14
「やめて」
桃子は必死に抵抗し、手足をばたつかせた。
すると、こぶしが相手のあごに、ひざが腹部にヒットした。
ひるんだ姿を見て、その隙に逃げ出そうとしたが、
すぐに男の手が伸び、再び引き倒されてしまう。
「いやあああ。」
桃子は、再度全身をばたつかせるが、男は桃子を抑え込んでおり、
ついには動けなくなってしまった。
桃子は、なんとか動く首を必死に動かし、力いっぱい男の肩口を噛んだ。
「あやっ」
苦痛に顔を歪めながら発せられた叫び声を聞き、桃子は、男を払いのけようとしたが、
その瞬間、「F○ck」という言葉を聞くと同時に、左頬に激しい痛みを覚えた。
男は、力いっぱい桃子をはたいていた。
噛まれた痛みで目測を誤ったのか、幸い、指先が頬をかすめる程度で済んだが
76 :セル :2018/01/27(土) 23:14
それでも、そうとうの痛みだった。
77 :セル :2018/01/27(土) 23:15
「お願い、やめて。」
汗と涙と血が混ざった鼻水とで、顔をぐちゃぐちゃにしながら、
桃子は、なおも必死に抵抗を続けた。
だが、しばらくすると急におとなしくなった。
満月は、海上で発生した霧に覆われ、
弱々しくなった光は、ほとんど桃子のもとに届かなくなっていた。
「もういいや。私なんて、生きている価値もない人間だし。」
力ではとてもかなわない。そう理解した桃子の心は折れていた。
ボタンが弾け飛ぶ音を聞きながら、観念したように、そっと目を閉じる。
「こんなことで、操を失うことになるなんてね。いや、命だってどうなるか。」
桃子は、涙を流しながらひきつった笑みを浮かべた。
男の手が下着をつかむのを感じた。
78 :セル :2018/01/27(土) 23:16
その刹那、家族やかつての仲間たちの笑顔が桃子の脳裏に浮かんだ。
「・・・みんな。」
「桃、なにやってんの。」
「あきらめるな。」
「逃げなきゃダメ。」
そんな声が聞こえたような気がした。
こんなことで自分を失っていいはずはない。
霧の隙間から射した月光が目に飛び込み、
誰かが近くにいるような、そんな錯覚を覚えて我に返った桃子は、
「助けて」と大声を出し、来るはずのない助けを必死に求めた。

<つづく>
79 :名無し飼育さん :2018/01/28(日) 21:34
誰か助けてあげて
誰もいないなら私が
80 :名無し飼育さん :2018/01/29(月) 02:43
ももちに何かの恨みでもあるのかという内容でワロタ
よく書けるな
81 :名無し飼育さん :2018/01/29(月) 06:18
作者の過去作品見れば
ももち愛にあふれているのがわかるよ
きっとハッピーエンドになるはず
82 :セル :2018/01/29(月) 22:00
今回のテーマと過去の作品と似た内容にならないようにした結果
かなり重い内容になっていますし今後もそういった部分はあるかと思います
不快な思いをさせていたら申し訳ないですが最後までおつきあいいただければと思います
83 :セル :2018/01/29(月) 22:03
<つづき>

俺は、フィールドワークで沖縄に滞在していた。
その日、インフォーマントへのインタビューに時間がかかり、
また、泡盛をすすめられたため、調査を終えた頃には、既に深夜になっていた。
沖縄での調査には、たびたび酒が付きまとう。
いかにして酔わないようにしながら調査を進めるかも、腕の見せ所だ。
インフォーマント宅を出た俺は、
アルコールを少しでも排出しようと、空に向かって口を突き出し大きく息を吐いた。
その息の先には、大きな満月が輝いており、俺は口を突き出したまま、
「おぼろ月か。」
そう心の中で呟くと、月を眺めながら歩いた。
84 :セル :2018/01/29(月) 22:04
だが、ふと我に返り、「この時期はまだハブが出たかな?」と、急に足元を気にしだす。
その時、女性の叫び声のような悲鳴が聞こえた気がした。
「えっ?」
呼吸を整えて、耳をすます。しかし、なにも聞こえない。
「空耳か。」
そう思った瞬間、こんどははっきりと、
「やめて」という声が聞こえ、続いて男の呻くような音が響いた。
あんなに明るかった空が、いつしか闇に覆われかけ、視界はほとんどきかなくなっていた。
だが、わずかに切れた霧の隙間から大地を照らした満月の先の草むらで、
なにかがうごめいているのが見えた。
俺は息を殺し、忍び足で近づく。
すると、今まさに男が女の服を引きちぎり、凌辱しようとしているところだった。
月明かりが反射した女の瞳が、俺のほうを向いた。
85 :セル :2018/01/29(月) 22:06
その瞬間、「助けて」という悲鳴が上がった。
俺は反射的に、女に覆いかぶさった男に突進した。
男は痛みに顔をゆがめると、なにやら喚きだしたが、
その言葉は日本語ではなく、俺には理解できなかった。
男は、俺に向かって殴りかかってきた。
だが、女同様、その男も服を半分脱ぎ掛けた状態で、動きは鈍かった
俺は前蹴りで相手の動きを止めると、
全体重を乗せて、相手のあご目がけて肘を叩き込んだ。
カクンと顔が傾き、相手は棒立ち状態になったかと思うと、
そのまま前のめりに倒れこみ、動かなくなった。
「まずはこの人を助けないと。」
俺は彼女を抱きかかえて、その場を離れた。

痛みがあるのか、彼女は足を引きずるようにしていた。
俺は肩を貸しながら、懸命に歩いた。
最後は、おぶるような状態になったが、
ようやく、俺が滞在している民宿の玄関前に着いた。
とっくに消灯時刻を過ぎていたので、玄関も廊下も真っ暗だが、
暗闇の中、薄い月明かりが、彼女の全体をうっすらと浮かび上がらせた。
その姿はひどいものだった。
鼻血を出し、顔は泥まみれになっていた。
服は破け、下着が丸見えになっていた。
「これを。」
とっさにシャツを脱ぎ、彼女の背中からかけてやった。
86 :セル :2018/01/29(月) 22:08
幸いにして、意識はしっかりしていた。
淡い月明りを頼りに、俺は部屋から持ってきた救急セットで応急処置をした。
彼女は、処置をする俺の顔を見ると、一瞬うろたえた。
俺もその表情に気付いたが、
あんなことがあった直後で、俺も男だから怯えたのだろうと思い、
「安心して。変なことはしないよ。それにここには、女性もたくさん泊まってるから。」
そう語りかけると、彼女は俺から目をそらした。
そして、手当もそこそこに衣服を整え、「もう、大丈夫です。」と言って帰ろうとする。
鼻血が詰まっているせいだろうか、その声はこもっていた。
「まだ、応急処置をしただけだから。病院へ、それに警察にも通報しないと。」
「警察には言わなくていい、病院にも行かなくていいです。」
彼女は背を向け、小さく、しかし、怒気を含んだ声を俺に放った。
「でも。」
「本当にいいんです。助けていただいてありがとうございました。」
呆気にとられる俺をしり目に、彼女は痛々しげに足を引きずるようにしながら、
小走りに去って行った。
87 :セル :2018/01/29(月) 22:10
自分が襲われた現場に立つ桃子。
幸い、あの男はもういなかった
「よかった。あった。」
危険も顧みず、自転車を取りに戻っていた。
「着たまま来ちゃった。」
自転車を起こすと、桃子は俺にかけられたシャツを“ギュッ”と握りしめた。
いつしか霧はすっかり晴れ、真上にあった月は、既に西の空に傾きながら、
彼女を明るく照らしていた。

翌日、大けがをした外国人男性が救急車で病院に運ばれたと、小さく報じられた。
滞在していたホテルのフロントにたどり着いたところで倒れ、
慌てて従業員が119番通報したのだという。
しかし、男は酔って転んだだけだと言い張り、事件が明るみになることはなかった。
男は、後遺症が残るほどの大けがを負っていた。
本来なら、刑務所に収監されて当然の犯罪だった。
だが、桃子の将来を考えた場合、結果的にこれでよかったのかもしれない。
桃子は、軽症こそ負ったが無事だったのだから。
こんなニュースは、こんな男のことは、
桃子にも俺にも、もうどうでもいい話。
その時は、そう信じて疑わなかった。
88 :セル :2018/01/29(月) 22:11
それから1週間。
長期フィールドワークも順調に進み、俺は一人、息抜きも兼ねて、
小さな食堂に立ち寄った。
調理場には老夫婦の姿、そして、アルバイトだろうか、給仕の若い女性がいた。
数品の料理で腹を満たすと、閉店にはまだ時間があったが、既に客ははけていて、
調理場内は、後片付けに入ろうかという状況になっていた。
「あ、今日はもうおしまいですか?」
「いや、いいよ。ゆっくり、飲んでって。」
おばあが微笑みながら答える。
「たくさん飲んでってよ〜。料理は簡単のものにしてくれるとありがたいけれど。」
おじいが“にこっ”としながら言う。
「わかりました。売り上げに貢献すべく、しこたま飲みます。」
俺も、笑いながら返した。
89 :セル :2018/01/29(月) 22:14
給仕の女性だけは、無言だった。
俺が店に入ると、慌ててマスクを着用し、
さらには、注文するときも、顔すら合わせようとしなかった。
「愛嬌のない女だな。」
いい気持ちはしなかったので、俺もそっけなくしていた。
だが、酒がまわり、老夫婦の楽しげな表情を見ていて、
俺も上機嫌になっていた。
「次はこれにしよう。」
向こうは相変わらずだったが、
今度は、にこやかな表情で、彼女の顔をしっかりと見て注文をしようとする。
その時、彼女の顔の絆創膏と、体にできたあざが目に飛び込んだ。

そして、俺はようやく気付いた。
「あのときの!」
俺が、大声を出すと、“はっ”と女性は、慌てて顔を背けた。
「桃子ちゃん、注文だよ。」
おじいの声が響く。
「ももこ?」
俺の頭には、すぐに1人の女性の顔が浮かんだ。
伏し目がちに顔を背け、彼女は俺のもとにやって来た。
「なににしますか?」
顔をそむけていたため、彼女の横顔のシルエットがはっきりと浮かび上がる。
(ももこ・・・?、桃子!この声、それにこの凛とした横顔。)
「え?嗣永さん?!」
俺はテーブルに“ガタン”と膝をぶつけながら立ち上がった。
90 :セル :2018/01/29(月) 22:15
片田舎の食堂に、桃子似の女性がいるとの噂は聞いたことがあった。
だが、それが沖縄だとは考えもしなかった。
それに、白髪交じりの頭に、ガリガリに痩せた厚化粧の女。
とても桃子とは思えなかった。

大学も研究分野も年齢も違う俺だが、お互いの指導教員同士が親しかったこともあり、
桃子が学部学生時代、俺は彼女と何度か顔を合わせたことがあり、
それなりに親しくなっていた。
初めて会ったときは、アイドルということも知らなかった。
あの頃の、快活でつやつやとしていた彼女しか知らなかった。
これが桃子とは思えない、いや思いたくなかった。

俺は心配になって、真剣に話しかけるが、桃子はそっけなく答えるだけだった。
なにかを察したおばあが、おじいに声をかけ、
老夫婦は、「ちょっと家に忘れ物したから取りに行ってくる。すぐに戻るから、店番頼むよ。」
そう言って、出て行った。

<つづく>
91 :名無し飼育さん :2018/01/30(火) 09:07
ついに「俺」登場
ありがとう助けてくれて
92 :セル :2018/01/31(水) 01:06
<つづき>

「いったい、どうしたんだ?こんなところで、なにをしてるの。」
老夫婦がいなくなり、俺は感情がむき出しになった。
「なんでもないです。」
やっと桃子は口を開いた。
「なんでもないことあるかい。大学院に進学したって聞いていたのに。」
「いろいろあったんです。でも、あなたには関係ない話ですから。」
「そんな言い方は、やめてほしいね。」
桃子は知らんぷりして奥へ行こうとする。
俺はそんな桃子の肩をつかんで、正面に回り込む。
その際、肩をつかんだ手が、耳にかかったマスクのひもに触れて外れ、
桃子の顔があらわになった。
「えっ。」
俺は一言発した後、絶句した。
その顔には、まだ小さな傷やアザが残り、唇は腫れていた。
あの桃子が厚化粧をしている理由。
それを悟って、俺はなにも言えなくなった。
そして、なにか申し訳ない気持ちになり、目に涙をためた。
普段は勝気な俺であり、そのことは桃子も知っていた。
そんな俺が目を腫らす姿を見て、桃子は“はっ”となり、冷静さを取り戻した。
93 :セル :2018/01/31(水) 01:08
「Berryzの仲間は、みんな新しい世界で活躍し、新たな一歩を踏み出してる。
カントリーの後輩も、立派に成長して、移籍先でもカントリーでも、本当に頑張ってる。
周りの学生も、楽しそうに研究を進めている。
それなのに、私だけこんなことになって。どうしようもない人になっちゃって。
そう、ひがんでたんです、みんなのこと。」
桃子は、自分の中に閉じ込めていた感情を、一気に俺に吐き出すと、嗚咽した。
俺は、桃子の肩を優しくたたいてやることしかできなかった。

ひととおり話し終えると、すべてを吐き出しよどみが消えたのか、
桃子はすっきりした表情になり、落ち着きを取り戻した。
つい先ほどまで、自分のことでいっぱいいっぱいだった桃子が、
いつしか、俺の近況について尋ね始めていた。
社会と宗教の関わりについての研究をする俺が、たまたまフィールドワークで沖縄を訪ね、
そして、桃子と再会できたことを報告すると、
「私も、ここに来て本当に良かった。」と、桃子は喜んだ。
その笑顔を見て、「やっぱりこのこは嗣永さんだ!」と、改めて実感し、
自然と俺からも笑みがもれた。
「リポートを読んでみたいです!」
桃子は目を輝かせた。
店の外で、老夫婦は煙草をふかしながら、静かに泡盛を飲んでいた。
94 :セル :2018/01/31(水) 01:12
数日後、俺が滞在している民宿に桃子がやってきた。
あの時とはうって変わって、その表情は輝いていた。
ルール違反なのは分かっていたが、俺は彼女を部屋に招き入れた。
フィールドノートや、まとめたリポートのファイルを俺があさっていると、
「あの、これ。ずっとお返ししないとと思っていたんですけれど。」と言って、
桃子はカバンから、きれいに折りたたまれたシャツを取り出した。
「その節は、助けていただいてありがとうございました。」
桃子は俺の横にちょこんと座り、頭を下げた。
「あの時は、気づかなくてごめん。でも、だいぶ元気になったようで、安心したよ。」
そう言って俺は、桃子が差し出すシャツに手を伸ばした。

「あ、それ。見せてください。」
俺の隣でフィールドノートを眺めながら、桃子はうらやましそうな表情になった。
そして、上目づかいで俺を見ると、「お手伝いしたいな。」と、申し出た。
「ありがとう。でも悪いよ。」
「迷惑ですか?」
「いや、迷惑だなんて。じゃ、お願いしてもいいかな。」
俺がそう言うと、目をキラキラ輝かせながら、
「はい!」と、桃子は嬉しそうに返事をした。
95 :セル :2018/01/31(水) 01:13
昼間、桃子は俺の調査を手伝うようになった。
研究分野が異なるため、踏み込んだ内容のお願いはできなかったが、
桃子はインタビューのメモ作成や、資料整理などを積極的にこなしてくれた。
沖縄の十六日祭を経験した際は、祖先のために一族が集まる姿を見て、
老婆とともに過ごしたお盆を懐かしく思い出していた。
また、現地の子供たちが、地域の催しや祭祀など、行事に積極的に参加する姿を見て
桃子はなにかを思い出し始めていた。

「芸能界を引退し、もう一度勉強をしたい。」
初心にかえった彼女の表情は、日に日に輝きを取り戻していった。
「桃子ちゃんは、ちょっとなあ。」
そう言って敬遠していた地元の人達も、次第に声をかけるようになっていた。
桃子も、食堂の客だけではなく、道すがら出会う人達と、
気さくに挨拶をするようになった。
もう、下を向いて歩くことはなくなっていた。
そんなある日、不意に桃子を訪ねる人物がいた。

<つづく>
96 :名無し飼育さん :2018/01/31(水) 08:48
ようやくももちが元気に
よかったよかった
ところで誰がきたんかな?
97 :セル :2018/02/01(木) 00:17
<つづき>

「ももち先輩。」
店じまいを手伝っている桃子に、突然、懐かしい声が投げかけられた。
「どうして?」
振り向いた桃子は、目を丸くした。
「やっぱり、ももち先輩だ。」
その人物は、桃子のもとに駆け寄り、思い切り抱きついた。
「梨沙ちゃん。」
桃子はそう言うと、グッと唇をかみ、口を真一文字に結んだ。
98 :セル :2018/02/01(木) 00:18
「どうぞ。散らかってるけど。」
「お邪魔します。」
桃子に導かれ、梨沙は自宅に足を踏み入れた。
「すみません。急に押しかけて。」
梨沙は、申し訳なさそうに言った。
「ううん。嬉しかったよ、来てくれて。でも、どうしてここが分かったの?」
「友達が、ももち先輩に似た人を見たって。それで、どうしても行かなくちゃって思って。」
「でも、今日はコンサートじゃなかったの?」
「終わった後に、最終便で来ちゃいました。」
「東京に戻らなくてよかったの?」
「マネージャーさんに頭を下げて来ました。行くなら今しかないって、急に思い立って。」
「無茶なことしないでよ。」
「空港に着いて、『私、ももち先輩のところに行ってくる。』って言ったら、
カントリーのみんなも行くって言い出して。
でも、学校や別のお仕事が入っているこもいるし。
だから、私が代表で行くからって説得して。」
「そうだったんだ。」
「舞ちゃんと結ちゃんは、泣いてました。」
「・・・、そっか。あの2人は涙もろいもんね。」
99 :セル :2018/02/01(木) 00:20
「沖縄行きの便に空席があって、ほんとよかった。」
「自腹で航空券買ったの?それに、空港からは?
こんな時間だし、もうバスなかったでしょ?」
「タクシーで来ちゃいました。」
「え、高かったでしょう。」
「大丈夫です。山木財閥って、ももち先輩もおっしゃっていたじゃないですか。」
「そうか。そんなこと言ったこともあったね。」
「それより、みんな心配してますよ。」
「・・・、うん。」
「なにがあったかは聞きません。でも、お願いですから帰ってきてください。」
「必ず帰るから。でもお願い、もう少し時間をください。」
桃子は正座をし、後輩の梨沙にあらたまって頭を下げた。
「やめてください、そんなこと。」
梨沙は桃子の手を取った。
2人で手を握り合い、涙しながら、
「みんなのこと、忘れたことないよ。」と、桃子は目を赤く腫らして言った。
100 :セル :2018/02/01(木) 00:22
「ももち先輩は、死に場所を探しているんじゃないか。」
そんな不安が、梨沙の頭をもたげていた。
だが、桃子の表情を見て、梨沙の不安は吹き飛び、ようやく安心した。
「ももち先輩が、今日はコンサートだって知ってくださっていて、本当に嬉しかったです。」
「そりゃあね。みんながヘマしてないか心配で心配で。」
桃子の顔は、まるで子供たちを見守る母親のような優しさに満ちあふれていた。
「も〜。」
そう言いながらも、梨沙の顔も喜びに満ちあふれていた。
「舞ちゃんと結ちゃんが泣いてたって言ってたよね?
『小関と船木、アウト〜!』って、伝えておいて。
そんなんじゃ、いつまでたっても高級焼肉はご馳走できないな〜って。」
梨沙はそれを聞いて、頬に涙を伝わらせながら、大笑いした。
101 :セル :2018/02/01(木) 00:22
「ところで、ノートがいっぱい転がってますね。見てもいいですか?」
梨沙は、涙を指で拭いながら尋ねた。
「どうぞ。」
「すごい!いっぱい書いてある。」
「うん。こっちに来てね、また思い出すことができたの。
自分がなにをしたくてアイドルを卒業したかって。」
「きれいにまとまってて、すっごく見やすい。へ〜、ちゃんと研究されてたんですね。」
「一時はちょっと落ち込んだりもしたけれど、もう、大丈夫だよ。」
「本当に良かった。」
梨沙は、また涙ぐんだ。
102 :セル :2018/02/01(木) 00:23
“グゥ〜ッ”
そのとき、2人の感動に浸る余韻を切り裂くように、梨沙のおなかが豪快に鳴った。
「「あ」」
2人は目を見合わせた。
「コンサート前に、ケータリングの食事を少し食べてからなにも口にしていなかった。」
「急に駆けつけてくれたんだもんね。晩御飯、まだでしょ。私が作ってあげるよ。」
「え、でも悪いです。お疲れのところ。」
「いいよ。それに私も少しくらいは料理ができるようになったんだから。
梨沙ちゃんに食べてもらいたいな。タコライスでいいかな?」
「はい、いただきます。あ、じゃ、お手伝いしますね。」
「じゃあ、ごはん炊いてくれる?早炊きモードで。」
「分かりました。あ!無洗米ですね。」
「お、ちゃんと確認したね。」
「同じ失敗はしたくありませんので。」
「研ぐ必要は・・・、」
「3回くらいにしておきます。」
「無洗米は、1回さっと水で流すくらいでいいんだよ。」
「え?全然洗わなくていいの?」
「分かってないじゃん。やっぱり、まだ。」
「すみません。」
そんなやり取りをしながら、2人は笑顔を見せ合った。

<つづく>
103 :名無し飼育さん :2018/02/01(木) 17:46
めんつゆいいやつだな
104 :セル :2018/02/03(土) 23:01
<つづき>

とある食堂の定休日。
俺は桃子を誘って、まだ日が沈みきっていない時間から、
2人で海を眺めながら、オリオンビールと泡盛をたしなんだ。
つまみは、桃子の希望で海ブドウと島らっきょうを購入した。
ただただ、青い海と徐々に赤みを増していく太陽を眺め、
多くは語らずに2人並んで座っていた。
「私って、なんだったんだろう。」
不意に桃子が口を開いた。
「どうしたの?」
俺がそう問いかけると、
「私、自分に自信があったんです。なんでも、きっとやり遂げられるこだって。」と、
桃子は小さく笑いながら答えた。
「そのとおりだと思うよ。嗣永さんは計画性があって努力家だしね。」
「でも、見てくださいよ、今の私。ひどいものでしょう。」
「そんなこと、ないよ。」
「なんにも言わずに、みんなの前からいなくなって。
お世話になった人たちを裏切るようなことしてるんですよ。」
「どんなに立派な人だって、迷惑をかけることはあるし、
挫折の一つや二つはは味わうものだよ。」
105 :セル :2018/02/03(土) 23:03
「そうかな。」
「そうだよ。嗣永さんだって、アイドル時代に苦しい思いはしたことあるだろう。」
「数えきれないくらいあります。でも、あの頃と今とでは、なにか違うんです。」
「アイドル時代は、なんで頑張れたの?」
「表向きは、ファンの皆さんのためにって言ってました。
もちろん、それも本当だけれど、でも、やっぱり自分が大好きで。
自分のためになるんだから頑張ろうって。そう考えてました。」
「じゃあ、今は?」
「え?」
俺にそう聞かれた桃子は、”ハッ”とした表情を見せた。
「誰のために頑張っているのかな?」
「そ、それは・・・。」
「自分のため?人のためになっていたんじゃない?」
その言葉を聞き、桃子の瞳に大量の涙がたまった。
「・・・そうだよ、私。
子供が大好きだから、幼児教育の勉強をやり直そうとしてたのに・・・。」
「うん。」
「自分のために勉強しようとしてたのに。
でも、いつの間にか、私を支えてくれた家族や、応援してくれた仲間や、
送り出してくれた事務所に顔向けできないって、周りのことばかり気にして。」
「それに気付けたのなら、もう平気じゃないかな。」
「こんなにも自分が弱い人間だなんて思いもしなかった。私、時間を無駄にしてた。」
「じゃ、そろそろ人生の夏休みは終わりにして、少しずつ時間を取り戻していこうか。」
ぐっと目を閉じた桃子から、一斉に涙があふれ出す。
その涙が、まるですべての穢れを洗い流したかのように、
「はい。」と、桃子は澄んだ声を発し、笑顔を見せた。
沈む夕日に照らしだされて海に伸びる一本の道が、再び姿を現した。
穏やかな海は、まばゆい光を放って桃子を包み込むと、きらきらと輝き始める。
立ち上がった桃子は、海のかなたに続く光の道を、晴れ晴れしい笑顔で見つめた。
106 :セル :2018/02/03(土) 23:05
1週間後、予定どおり調査を終えた俺は、桃子の家の脇に、レンタカーを停めた。
そこには、果樹園のおばさんと、食堂のおじいとおばあがいた。
「ちゃんと、送り届けてあげてね。」
おばさんが俺に声をかけた。
「よろしく頼むよ。」
おばあが、やや寂しそうに言った。
おじいは、無表情で、無言のままタバコをふかしていた。
少し離れた商店から、桃子が出てくるのが見えた。
桃子は俺の姿を見つけると、手を振りながら小走りにやってきて、
「自転車、お願いしてきました。」と、にっこり微笑んで報告した。

ボロボロの自転車を、桃子はどうしても持って帰りたいと言う。
「必要なら、東京で新しいのを買ったほうが。」と、アドバイスしたが、
「どうしても。これは、私が生きた証なんです。」と言って、聞かなかった。
気にはなったが、俺は理由を聞こうとはしなかった。
時間とお金はかかるが、宅配便で送れることを教えると、
嬉しそうに取次店に配送方法を聞きに行った。
そして、東京へ戻る今日、無事に手続きを済ませてきたのだった。
107 :セル :2018/02/03(土) 23:07
「お世話になりました。」
桃子がにこやかにあいさつする。
「元気でね。また、いつでもおいで。」
おばさんが、目じりを下げて桃子に声をかける。
「寂しくなるね。でも、いい顔になって帰るってんだから、喜ばないとね。」
おばあもにっこりしながら言った。
おじいは相変わらず無表情にタバコをくゆらせていたが、
「今日から、また2人で店の切り盛りか。あ〜、大変だ。
いつでもいいから、また誰か手伝いに来てくれないかな。」と、
誰にも目を合わせず、ぶっきらぼうに言った。
「本当にありがとうございました。でも、やらないといけないことがあるので、
もう、お手伝いには来られないかもしれません。」
桃子がそう言うと、
「当たり前だ。あんなくたびれた桃子ちゃんなんて、もう二度と見たくない。
ずっと、今のように上等でいてくれ。」と、おじいは声を大にして言った。
「はい。」そう返事をする桃子に、
「でも、店は手伝ってくれなくていいから、時間ができたら遊びには来いよ。」
そう言うと、おじいはタバコをポケット灰皿にギュッと押し込み、背中を向けてしまった。
「またいつか、きっと必ず来ます。」
深々と頭を下げると、桃子は助手席に乗り込んだ。
桃子は、3人の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
そして、つい先ほどまで自宅であった家を、視界から消えるまでずっと見つめていた。
108 :セル :2018/02/03(土) 23:08
長期滞在調査を行った俺の荷物は、大量だった。
一方で、桃子の荷物はカバン一つに収まっていた。
さすがに疲れがたまったのか、俺の足取りは重かったが、
桃子は軽やかに飛行機へと続くタラップを上って行った。

「ありがとう、助かったよ。」
桃子の荷物が少なかったおかげで、荷物の超過料金を払わずに済んだ俺は礼を言った。
「とんでもないです。私のほうがずっとお世話になりっぱなしでしたし。」
そうこたえると、桃子は眼下に広がる青い海を眺めた。
今後のことに胸を躍らせる桃子は、飛行機のエンジン音さえ耳に入っていなかった。
と、その時、気流の影響で機体が大きく揺れた。
気が付くと、窓の外を見ていたはずの桃子が、
一瞬にして、ひっしと俺の腕にしがみつき、小刻みに震えていた。
どうすることもできないが、俺はからみつく桃子の手を軽く握り、
「大丈夫だよ。」と、目くばせをする。
すると、桃子は小さくうなずき、申し訳なさそうにした。
しがみつく桃子に引っ張られた服がピンと張り、
俺は胸ポケットに何かを入れていたことを思い出した。
109 :セル :2018/02/03(土) 23:10
「あ、そうだ。」
「どうしたんですか?」
「嗣永さん、今日、誕生日でしょう。
航空券の手続きをするときに生年月日を聞いて、ちょうど帰京する日だなって。」
「そうだ、忘れてました。なにか、いろいろありすぎて。」
「お誕生日、おめでとうございます。」
俺は、胸ポケットから小さな包みを取り出し、桃子に手渡した。
「えっ!いいんですか。ありがとうございます。」
「大したものじゃないんで。」
「開けていいですか?」
「どうぞ。ただ、申し訳ないけれど、沖縄の物を買ってしまって。
嗣永さんもずっといたのにね。後になって気づいて、『しまった』って思ったよ。」
揺れが収まらない機内で、俺にしがみつきながら包みを開ける桃子。
おかげで、柔らかい2つの膨らみの1つが、俺の腕に何度も当たり、
俺はどうしたものかとドギマギしていた。
「とんでもないです。わあ、かわいい。大事にしますね。」
さらに体を密着させ、俺のすぐ下で、上目づかいで礼を述べる桃子。
膨らみが、“ぎゅっ”と押しつけられると、
俺は、桃子から視線をそらし、気付かれないように、ゆっくり静かに深呼吸した。
110 :セル :2018/02/03(土) 23:11
揺れはほとんどおさまっていたが、
「また、急に揺れるかもしれないから。」
そう言って彼女は、反対の手にプレゼントを持ったまま、俺の腕にしがみつき続けた。
ただ、その力はとても柔らかく、優しく絡みつくようだった。
111 :セル :2018/02/03(土) 23:11
後日、かつての仲間達が、桃子のもとを訪ねていた。
「なんだ、元気そうじゃない。すっかりやつれた姿を、冷やかそうと思ったのに。」
「お帰り。待ってたよ。」
「私は、全然心配なんかしていなかったもんね。」
「桃はしっかりしてるもんね。」
茉麻、友理奈、佐紀、梨沙子は、涙ながらに桃子に声をかけた。
「本当に、ごめんなさい。」
桃子は涙交じりに詫びた。だが、その声はしっかりとしていた。
「みんなを泣かすな。桃も泣くな〜。」
千奈美は泣きながら叫んだ。
「もう、本当に心配だったんだから。」
雅は、きつく桃子を抱きしめた。

<つづく>
112 :セル :2018/02/04(日) 22:37
<つづき>

「みんな、ご心配をおかけして、本当にごめんなさいね。」
そう言って頭を下げたのは、桃子の母親だった。
誰よりも桃子のことを心配していたのは、まぎれもなく彼女だった。
そして、誰よりも桃子のことを信用していたのも、また彼女だった。
「桃子はきっと帰ってくる。」
そう信じて、大学院の休学手続きを取り、休学費も払っていた。
戻った日の夜、桃子はそのことを聞くと、
「ありがとう。私、やっぱり勉強がしたい。復学してもいいかな。
本当にわがままでごめんなさい。」と、背中を丸めて母親に礼を言った。

それからの桃子は、もう別人だった。
アイドル時代とも、学部学生時代とも、
もちろん、大学院で精神的に病んでいたときとも違っていた。
沖縄での経験から、新たな研究テーマを思いついた桃子。
はつらつとした様子に、かつて愛想を尽かした教員や、
理由もなく忌み嫌っていた学生も、桃子を後押ししはじめていた。
113 :セル :2018/02/04(日) 22:40
また、俺の留学時代の話を聞いた桃子は、
海外の博士課程に進学する決意を固めていた。
アメリカでPh.D.を取得した俺が、研究や入試の際に必要となる英語を教え、
また、語学留学をした経験のある千奈美も、主に日常会話の面で協力をしていた。
「まさか、私が千奈美に勉強を教えてもらうことになるとはね。」
「人生、何が起こるかわからないね。」
「「もう、ビジネスパートナーじゃないね。」」
声のそろった2人は、笑いながらハンカチを目に当てていた。
114 :セル :2018/02/04(日) 22:41
かつて、学部学生時代の桃子に出会った俺は、それまで全く興味のなかった、
アイドルのコンサートを、一度だけ観に行ったことがあった。
大学では落ち着いた雰囲気の、
悪い言い方をすれば、陰気で目立たず、友達も少なそうだった桃子が、
いったい、どうやってアイドルをやっているのか興味があった。
これまでに出会ったことのないような、
ある意味異質で、ある意味陽気なファンで埋め尽くされた会場に、俺は圧倒された。
ステージの幕が開くと、彼ら、彼女らのボルテージが一気に上がり、
それに呼応するように、ステージ上でメンバーが躍動した。
キャンパスにいるときとは、まったく異なる輝きを放つ桃子がいた。
俺は心底驚いたが、そんな中で、実はいちばん強く惹かれたのは千奈美だった。
長身に長い手足。そして、絶対に守りたくなるような飛び切りの笑顔に心酔した。
115 :セル :2018/02/04(日) 22:43
そんな千奈美に、ステージ以外の場で会える日が来ようとは、つゆとも思っていなかった。
桃子の勉強を手伝ううちに、顔を合わせる機会ができ、
何度か会ううちに、俺と千奈美は親しくなっていった。
「今は桃に、どんなこと教えてるんですか?」
屈託のない笑顔で俺に尋ねる千奈美が、手を伸ばせばすぐに触れられる場所にいる。
「今は、研究で使う独特の熟語や言い回し、文法を教えているよ。」
そう言って、俺が本やノートを示すと、
「え〜、すごい。全然分かんないや。」と、
俺の肩に頭を乗せるくらいの勢いで、千奈美は覗き込んできた。
桃子に教える勉強の打ち合わせと称して、俺は千奈美にも英語を教えるようになっていた。
当初は、桃子が到着するまでの、5分、10分という短い時間だったが、
一緒に食事に行ったり、遊びに行ったりするようになるまでに、
そう長い時間はかからなかった。
116 :セル :2018/02/04(日) 22:43
「俺、君のファンだったんだよ。」
「え〜、そうなんですか〜、嬉しい。でも、『だった』ってことは、今は?」
「今でも、もちろん。」
「ありがとうございま〜す。」
目を細めて笑う千奈美が、愛おしくてたまらなかった。

自分の一ファンであり、そして桃子を救ってくれた感謝の気持ちもあって、
千奈美は俺を友人として、親しく接してくれていた。
ただ、2人で出かけることがあるとはいえ、
付き合っているという意識は、お互いになかった。
一緒に過ごす時間を、ただただ楽むだけだった。
117 :セル :2018/02/04(日) 22:45
遅れを取り戻すべく、桃子は必死に研究し、
既に他の学生を追い越す勢いで、論文の執筆に取り組んでいた。
彼女のような状況に陥った学生が、休学期間を除いて2年で修了するのはまず不可能だが、
桃子は、その不可能を可能にしようとしていた。
そんなある日のことだった。
英語の勉強を終え、論文の執筆状況などを尋ねていると、
桃子が急に改まって座り直し、俺のほうをまっすぐに向いた。
「ん?どうしたんだい。」
「あの・・・。」
桃子は緊張した面持ちで、言葉を詰まらせ、下を向いた。
俺が「まさか。」と考えたかつかないかのその瞬間、
「大好きです。」と、下を向いたまま桃子が俺に告白した。
「え?『大好き』って?!」
俺は、桃子の発言が現実のものなのかどうか理解できず、
すっとんきょうな声をあげてしまった。
「愛しています。」
続けざまに発せられた桃子の一言。もう、疑う余地はなくなった。
俺に恋人はおらず、桃子も、とてもかわいらしくいい子だと思っている。
だが、俺の脳裏には、すぐに千奈美の笑顔が浮かんだ。

<つづく>
118 :名無し飼育さん :2018/02/05(月) 18:04
え?千奈美
119 :セル :2018/02/06(火) 22:29
<つづき>

数日後、俺はまた千奈美と2人でいた。
今日は、純粋に勉強が目的だった。
最初に、千奈美に英語を教え、続いて、桃子の勉強について相談を始めると、
千奈美は突然、黙りこくってしまった。
「どうしたの?」
俺が尋ねても、まだ千奈美は沈黙を守っていた。
もう一度尋ねようとしたその時、
「桃に、相談されちゃったの。」と、千奈美は重い口を開いた。
「相談?あの、それって、もしか・・・。」
「桃ね、好きなんですって。」
俺が聞き終える前に、千奈美は切り出した。
「その、それは・・・。」
俺はうろたえた。
「愛してるって、言ってましたよ。」
「・・・。」
俺は言葉が出なかった。

「考える時間がほしい。」
そう桃子に返事をしたときの、桃子の寂しさに満ちた表情、
そして、その直後に見せた飛びきりの、
しかし、やや愁いを帯びたその笑顔を、俺は思い出していた。
120 :セル :2018/02/06(火) 22:30
「なんで、すぐに返事してあげなかったんですか?
桃、すごくいい子ですよ。ちょっとクセはあるけれど。」
千奈美はにっこりしながら俺に言った。
だが、それは明らかにいつものそれとは違い、作り笑いだと分かった。

「できなかった。」
「え?」
「無理だったんだ。」
「どうして?」
「嗣永さんに告白されたとき、俺は違う女性のことを考えてしまったから。」
「そ、そんな。桃のこと、嫌いなんですか。」
「嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど。」
「もし迷っているんだったら、まずはお付き合いしてみたらどうですか。
きっと、1人の女性として好きになれるんじゃないかなっておも、あっ。」
千奈美が言い終える前に、俺は彼女を力いっぱい抱きしめた。
121 :セル :2018/02/06(火) 22:34
「ちょ、ちょっと、どうしたんですか。やめてください。」
千奈美は俺を振りほどこうとしたが、なにかを思い出した表情を見せると
すぐにやめて、目の前の俺を見た。
「やっと桃も、元気になったのに。」
その言葉を聞き、俺はさらに千奈美をきつく抱きしめた。
「桃、また落ち込んじゃうかもしれない。」
「彼女はもう大丈夫だよ。それに、心を病んだ原因は他にあっただろ。」
「でも、『嫌いじゃない』って言ってたじゃないですか。本当は好きなんでしょう、桃が。
でなきゃ、こんなに面倒見てあげないって。私、分かってるんですから。」
「好きだよ。でもそれは、女性として愛しているというのとは違うんだ。
いろいろ目をかけているのも、ようやく自分の道を取り戻した嗣永さんのためにと思って。」
「それが『好き』だって言ってるんです。」
「違う、俺が好きなのは君だ。嗣永さんのことはいい。徳永さんの気持ちを知りたい。」
千奈美の眼は泳いでいた。しかし、“はっ”と何かに気付くと、まっすぐに俺を見据えた。
「桃のために力になりたい。でも、でも私の気持ちは・・・。」
千奈美の肩から、すぅーっと力が抜けていった。
俺は、千奈美の唇を、激しく奪った。
一瞬”びくっ”としたが、千奈美も俺を思い切り抱きしめ、唇を吸い始めた。
「愛してます、私も愛しています。」
そう言うと千奈美は、全体重を俺の体に預け、しなだれかかった。
122 :セル :2018/02/06(火) 22:35
年末、閑散としたキャンパス。
俺は研究室の大掃除も兼ねて、資料整理をしていた。
暦の上では、とっくに冬休みに入っており、他の研究室には誰も来ていない。
節電、節電とうるさい大学の方針に、馬鹿正直に従った俺は、
室内であるにも関わらずコートをまとい、震えながら作業をしていた。
すると、突如携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。
「こんな年の瀬に、誰だろう?」
画面には、桃子の名前が表示されていた。
俺は、一瞬迷った後、通話ボタンを押した。

「もしもし、こんばんは。今、大丈夫ですか?」
桃子の声は、緊張しているように思えた。
「大丈夫だよ。」
研究室の大掃除をしていることを伝えると、
「手伝いに行きたいです。」と、桃子は訴えた。
「悪いよ。それに、論文も佳境なんじゃないかい?」
「昨晩、書き終わりました。さっき、書留で送ったので、もう一安心です。」
その言葉を聞いて、俺に断る理由はなくなった。
先日の告白への返事も、いつかはしなくてはならない。
年を越す前にはっきりさせるのが礼儀だろうとも思った。
「そうか、分かった。じゃあ、おいで。」
「はい!」
桃子の嬉しそうな返事を聞いて、俺は複雑な気持ちになった。
123 :セル :2018/02/06(火) 22:37
「寒いですね。」
そう言って桃子は、体を震わせながら、手に息を吐いた。
「おっと悪い。温度上げるね。」
コントローラーに伸びる俺の手をそっと遮り、
「どうせなら、こうしてあったまりたい。」と、桃子は俺の胸にもたれかかった。

桃子のきれいな黒髪から、シャンプーの良い香りがする。
だが、俺はその香りを振り払い、きつく目を閉じて気持ちを整理し、桃子を引き離した。
「君の期待にはこたえられない。」
「えっ?」
「君とは付き合えない。」
「・・・、どうしてですか?」
「他に、好きな人がいるんだ。」
そう言われることをうすうす感づいていたのか、桃子は驚くほど冷静だった。
「私よりも、かわいい人ですか?」
「嗣永さん。君はとってもかわいいよ。でも、俺にとっては、妹のような存在なんだ。」
「やっぱり、ダメでしたか。悔しいなあ。」
桃子は涙をぐっとこらえた。
「すまない。」そういう俺に、
「なんで謝るんですか?悪いこと、してないでしょう。
ちゃんと自分の気持ちを伝えられた。私、それだけでも幸せですよ。」
桃子は、俺にこれでもかというくらいの笑顔を見せた。
そして、「さっ、お掃除済ませちゃいましょう。」と、はたきを手に取った。
124 :セル :2018/02/06(火) 22:38
「おかげさまで、修了決まりました。」
2か月ぶりに桃子から入った連絡は、たった1行の報告だった。

<つづく>
125 :セル :2018/02/08(木) 23:48
<つづき>

留学を2週間後に控えた桃子は、とある山村を訪ねていた。
満月の夜に飛び出したあの日からちょうど2年が経つが、
景色は以前とまったく変わっておらず、
桃子には、つい先日のことのように思えた。
「こんにちは!」
玄関先で、桃子は大きな声で呼びかけた。
・・・
しかし、返事は一向にない。
「こ〜んに〜ちは〜!!」
桃子はさらに大きな声を出した。すると背後から、
「ん?どちらさんかね。」という声が聞こえた。
「あ、おばあちゃん。よかった。お久しぶりです。」
「あっ?」
「直接あいさつに来れなくて、本当にすみませんでした。
お手紙は読んでいただけましたか?」
桃子は満面の笑みを浮かべて、老婆に近づいた。
126 :セル :2018/02/08(木) 23:49
「???」
だが、老婆はなんのことかわからないといったふうに桃子を見た。
「あれ、あんたは。」
老婆の後ろから、桃子に声をかける初老の男性がいた。
「やっぱりそうだ。何年か前に、ずいぶん長いこと、ここにいたよな。」
最初は誰だか分らなかった桃子だが、男性の後ろに見える軽トラックを見て思い出した。
「あ、こんにちは。ご無沙汰しております。」
そう、老婆の家に野菜を取りに来ていたあの男性だった。
白髪がちらほら見える程度だったのに、
わずか2年で、男性の頭はすっかり真っ白になっていた。
「ばあちゃん、ほら。あの子が帰ってきたよ。」
男性にそう言われても、老婆はまだ“ぽか〜ん”とした顔をしていた。
「最近、物忘れがひどいみたいでな。ときどきこうなるんだよ。気にしないで。」
と、男性が言うと、
「なんだ、あんたか。よう戻ってきたな。ほら、入れ入れ。」と、
老婆は桃子の腕を突然つかんで家の中に引きいれた。
「お元気そうで、なによりです。」
桃子は嬉しそうだった。
127 :セル :2018/02/08(木) 23:50
「なんか、雨が上がったのに変な音が聞こえると思ったら。」
「えっ?」なんのことか分からず、桃子は変な声を上げてしまった。
「濡れてねえか?風邪ひくぞ。いつからあそこで寝てたんだ。」
「え?あ、ついさっき来ました。」
「そうか。」
桃子は、このやり取りになにか懐かしさを感じていた。
そして、「そうだ、最初に会ったあの時と同じだ。」と、思い出していた。
「じゃあ、俺は帰るよ。ばあさん、またな。」
「ありがとうよ。」
「あんたも、ゆっくりしていってな。日常生活は問題ないはずだから。」
男性はそう言って、軽トラに乗り込んだ。
「ほら、なにしてる、座れ。」
2年前と比べると、ややくたびれた表情にはなっていたが、
老婆の話し方には相変わらず勢いがあった。
「あ、ありがとうございます。」
桃子がそう言った直後、“ぐぅ”と大きな音が鳴り響いた。
「腹へってんのか?」
そう問いかける老婆に、「えへへ」と桃子は嬉しそうにはにかんだ。
桃子が仏壇に手を合わせていると、
「残りもんだけれど、よかったら食いな。」
そう言って老婆は、今回もご飯に味噌汁、焼き魚と漬物を用意してくれた。
「ん?拝んでくれてたのか。ありがとうな。」老婆の優しい笑顔が印象的だった。
128 :セル :2018/02/08(木) 23:52
その晩、桃子は老婆と2人、風呂に入っていた。
桃子は、老婆の背中を流しながら、
「私、あの時ここにいられなかった残りの時間を取り戻すために、帰ってきたんです。」
と、老婆に伝えた。
「そうか、よく来たな。嬉しいぞ。」
老婆が、あの日のことを本当に覚えているかどうかは分からない。
だが、その言葉を聞いて、桃子はすべての心のつかえが下りた気がした。
「よし、今度はおれが洗ってやろう。」
“ゴシゴシゴシ”
「イタタタタ、おばあちゃん、痛い。」
「また、こんなやわっこくなっちまって。がまんしろ。おれが鍛えなおしてやる。」
悲鳴を上げ続ける桃子だったが、今の老婆の言葉が頭の中で反復して響いていた。
「『また』って言ってくれた。おばあちゃん、覚えていてくれたんだね。」
そう確信し、嬉し涙を流した。
「ん?そんな泣くほど痛かった。悪いことしちまったな。」
老婆がやや申し訳なさそうな顔をしたので、
「い、いえ違うんです。なんか久しぶりで嬉しくなっちゃって。」
と桃子が取り繕うと、
「久しぶり?前にも洗ってやってことあったか?
ま、いいか。そういうことなら、大丈夫だな。」
と、老婆はさらに力を込めて洗い始めた。
その日の風呂は、喜びと痛みとがあいまった桃子の悲鳴が、いつまでも響いていた。
129 :セル :2018/02/08(木) 23:53
既に老婆は、農業をやめていた。
なにをするでもなく、ゆったりと流れる時間。
桃子は3日間、孫のように老婆と接した。
食事を作り、掃除や洗濯をし、風呂で背中を流して、一緒に散歩にもでかけた。
4日目の昼、荷物をまとめた桃子は、
「しばらく、海外に行ってきます。また帰って来ますね。」と、老婆に別れを告げた。
「海外?沖縄か北海道にでも行くのか。」
老婆は真顔で尋ねた。
「もうちょっと遠いですかね。」
桃子も真剣に答えた。
「そうか。なら本当に遠いな。元気でやれよ。そんで、またきっと帰って来い。」
“ぐっ”と力強く桃子の両手を握りながら、老婆は涙ながらに激励した。
「はい、必ず帰ってきます。」
桃子は決して涙を見せることなく、老婆を抱きしめた。

<つづく>
130 :セル :2018/02/09(金) 22:53
<つづき>

多忙な研究活動の合間を縫って、桃子は大学のキャンパスから1時間とかからない、
ドーバー海峡を見下ろすドーバー城にいた。
イギリスに渡って早1年。桃子は充実した毎日を送っていた。
友人もできた。男性から言い寄られることもあった。
だが、渡英したのは、すべて自分のため、研究のため。
男女交際はその妨げになると思い、申し出はすべて断っていた。
この1年の間に、桃子は日英の教育理論を融合させた新方式を具現化しつつあった。
ドーバー海峡の向こうに、うっすらと見えるフランスにも渡り、学会にも参加した。
ふらっと立ち寄ったカフェで、ついつい頼んだことがきっかけで
ワインにはまってしまい、今では数少ない気分転換のひとつとなっていた。
来月は、アメリカでの学会に参加し、発表もする予定だ。
発表もさることながら、アメリカ産ワインを試すことも楽しみになっていた。
131 :セル :2018/02/09(金) 22:55
その頃、運よく休みが合った俺と千奈美は、旅行で北海道を訪ね、
海に山、大平原に川と、大自然を満喫していた。
基本的に、千奈美が行きたいといっていた場所を巡っていたが、
そんな中、1日だけ牧場巡りに付き合ってもらうことになっていた。
競走馬の写真撮影が、俺の趣味であることが主な理由だが、今回はそれだけではなかった。

「写真を撮りに行こう。」
そう言って牧場へ千奈美を連れ出した俺だが、なぜか自慢の一眼レフは持っていなかった。
「サラブレットって、大きいんだね〜。」
千奈美は屈託のない笑顔を見せる。
2人で柵に寄りかかりながら、草を食んでいる馬の親子をしばらく眺めていた。
すると突然、「ねえ、結婚してよ。」と、千奈美が俺に言った。
「え?」
俺は不意をつかれ、頭の先の変なところから声を発した。
「今までさ、そういった話になりそうになると、
なんかお互いにお茶を濁しちゃってたから。だから、思い切って私から言ってみた。」
「まいったな。」
俺は頭をかきながら困惑した。
132 :セル :2018/02/09(金) 22:56
「なんでよ〜。も〜、せっかく勇気を振り絞ったのに、ひどい。」
丸い顔の千奈美が、真ん丸にほっぺを膨らませて怒る姿が、なんとも愛らしかった。
「だって、それは男の仕事だから。」
俺が口を開くと、
「え?そういうものなの。」と、千奈美は目をぱちくりさせながらこたえた。
そして、「ん?ちょっと待って。」と、期待に満ちた表情で俺を見た。
「うん。実は、今日、ここでプロポーズしようと思ってた。」
「嬉し〜、ありがとう。でも、どうしてここで?」
「以前、母親に言われたんだ。」
「なんて?」
『馬の尻ばっかり追っかけていないで、女の尻でも追っかけろ。』って。」
「あはは。面白いお母さん。」
「なかなか勇気が出せそうになかったんだけれど、ここなら言える気がして。
馬たちも力を貸してくれるんじゃないかと思って。」
「あはは。で、どう?力になってくれた。」
「ものすごく。」
そう言って、2人で存分に笑った。
133 :セル :2018/02/09(金) 22:57
その笑い声を聞き、驚いた子馬がこちらをちらりと見たが、またすぐに草を食みだした。
俺は笑ったまま姿勢をただすと、「千奈美、結婚してくれないか。」と、プロポーズした。
「はい、よろしくお願いします。」
千奈美は笑顔というよりは、爆笑しながら快諾した。
「なんか、考えてたのと違っちゃったよ。」
「ロマンチックでもなんでもなくなっちゃったね。」
「不覚だ。」
「いいじゃない。結婚することに変わりはないよ。」

その晩、牧場に併設されたホテル。
千奈美にそっと口づけし、ベッドに倒れこむと、
2人のガウンは自然とはだけ、生まれたままの姿に戻った。
そして、俺たちは深く愛し合った。
134 :セル :2018/02/09(金) 22:57
結納を済ませ、結婚式の準備も順調に進んでいた。
だが、もちろん俺にも千奈美にも仕事がある。
千奈美との結婚が決まったとはいえ、俺は研究の手を緩めるつもりはまったくなかった。
式まで3か月に迫ったある日、俺は国際シンポジウム参加のため、
アメリカの地に降り立っていた。
多くの人々が行き交う中、会場で危なく他の参加者と激突しそうになり、
“Sorry”と詫びたが、同時にその相手から、
「あ、ごめんなさい。」という、聞き覚えのある声が返ってきた。
「「えっ?」」
2人は、目を見合わせて固まった。

<つづく>
135 :名無し飼育さん :2018/02/10(土) 02:06
どこに向かってんのかわからん
これで千奈美と別れてももちに手出したら笑うなw
136 :名無し飼育さん :2018/02/10(土) 09:43
ええー
まさか千奈美とくっついちゃうの?
137 :セル :2018/02/11(日) 00:45
コメントをいただけると本当に嬉しいです。
いろいろなご意見はあると思いますが、
まだ中盤ですので、長い目で読んでいただけると幸いです。
138 :セル :2018/02/11(日) 00:46
<つづき>

お互いの存在を認識すると、
「来てたんですか〜。」と、破顔一笑の桃子が、声を弾ませた。
「嗣永さんこそ。あれ、このシンポ、なんか関係してたっけ?」
「はい。分科会のほうで社会学からみた幼児教育というのがあって。」
「そうなんだ。しかし、奇遇だね。」
「本当に。」
再会直後は、どうしたものかと気まずい思いもしたが、
桃子があまりに楽し気に話しかけてくるものだから、
俺の心はすっかりほぐれていた。

「あ、そうだ。実は報告したいことがあって。」
「結婚のことですか。」
「あ、知ってる?」
「はい、千奈美から連絡があって。」
「そうだったんだ。」
そんな話をしていると、また他の見知らぬ人物がぶつかりそうになった。
「ここで話していると、迷惑になっちゃいますね。」
桃子は、周りをきょろきょろ見回しながら言った。
「せっかくの再会ですし、よければ、ディナーでも一緒にどうでしょうか?」
「いいのかい。じゃ、そうしようか。」
「アドレス、変わってないですよね?後でメールします。」
そう言うと、桃子は小さく手を振りながら去って行った。
が、危なく、また人にぶつかりそうになり、
「おっとと」と、肩を揺らしながら小さな歩幅でちょこちょこと歩いていった。
そんな姿を見て、“くすっ”っと俺は笑うのだった。
139 :セル :2018/02/11(日) 00:47
2人で食事をしながら、近況報告をしたが、
まさか、桃子からワインについての講釈が垂れられる日が来ようとは、
思いもしなかった。
「千奈美のこと、幸せにしてあげなかったら承知しないですからね。」
アルコールが回って顔が桃色になった桃子は、怖い顔をして俺に言った。
「もちろん。」
俺がそう宣言すると、桃子は満面の笑みで祝福してくれた。
140 :セル :2018/02/11(日) 00:48
帰国後、いよいよ式の準備も佳境に入った。
そんなある日、「やっぱり、結婚式はしたくない。」と、千奈美が突然言い出した。
「おいおい、なんだよ急に。」
俺は、驚きを隠せなかった。
「だって・・・。」
その後、しばらく沈黙する千奈美。
「婚約破棄ってことかい?」
「えっ?違う違う。結婚はするよ。ただ、式は挙げたくないなってこと。」
俺の発言を聞き、今度は千奈美が驚いて釈明した。
「そうか、びっくりした。でも、なんでまた?」
「・・・」
「俺にも言えないこと?」
「私さ、ほら、家庭環境がちょっと複雑でしょ。だから、なんかね。」
そう言うと、千奈美はうつむいた。
必死に説得した俺だったが、千奈美のかたくなな態度を見るうちに、
「そんなに嫌なら、無理にする必要もないかな。」と、思い始めた。
141 :セル :2018/02/11(日) 00:49
その数日後、話を聞いた仲間たちが千奈美を呼んで食事会をした。
「嫌ならさ、無理にやんなくていいんじゃない。」
茉麻はズバッと言った。
「そうだね。でも、一生の思い出だよ。
お母さんだって、きっと晴れ姿を見たいんじゃないかな。」
友理奈が諭すように語りかけた。
「じゃあさ、本当に親しい人だけ呼んでってのもいいんじゃないかな。
それだったら、気持ちも楽でしょう。」
舞美がそう提案すると、
「それ、いいね〜。」と、千奈美も感心し、乗り気になった。
142 :セル :2018/02/11(日) 00:50
それから数か月後、俺と千奈美は都内の神社で挙式した。
幸い、披露宴会場はキャンセルではなく変更扱いで済み、
多少の手数料を払うだけで済んだ。
「今後のこともあるし、お金は節約したい。」と言っていた千奈美も一安心していた。
そんな千奈美は、やはり経費削減を意識して衣装のレンタルはせず、
俺の親戚がかつて着用した、白無垢と綿帽子を借りていた。
当初は、「う〜ん、ドレスじゃないのか。どうしようかなぁ〜。」と迷っていたが、
実際に着てみると、清楚に見えるその姿が気に入ったのか、至極ご満悦の様子だった。
白無垢姿の千奈美は、本当に美しかった。
「とてもきれいだよ。」
俺がそう言うと、
「肌が黒いのに、こんな真っ白な服を着たら、1人でオセロやってるみたいだよ。」
照れ隠しに、千奈美はわざと自虐的な話をして笑った。
143 :セル :2018/02/11(日) 00:52
親族に、会社関係者に、仕事仲間に学校の先生や友達。
当初は2人で100人を超える招待者をリストアップしていたが、
けっきょく、呼んだのは30人余りだった。
千奈美側の席には、アイドル時代の仲間も座っていたが、
あいにく桃子は、学会準備で不参加だった。
目が回るような忙しさの中、帰国がかなわなかったのだ。
かわりに、かわいいイラスト付きの電報が届いていた。
「なんで来ないの?」と、不満をあらわにする列席者もいた。
だが、桃子のような駆け出しの研究者は、
なかなか、自由な時間をまとまって作ることが難しいことを俺は知っていたし、
千奈美をはじめ、かつての仲間も、それは理解していた。
この日、俺と千奈美は晴れて夫婦になった。

<つづく>
144 :名無し飼育さん :2018/02/11(日) 15:19
本当に千奈美とくっついちゃったよオイ
145 :セル :2018/02/13(火) 23:58
<つづき>

博士号取得後、桃子はアメリカの研究機関で働き始めていた。
学会やシンポジウム等での発表もさることながら、
一般の人に理解できるように、分かりやすく幼児教育を説明する、
ボランティアの講演活動も積極的に行い、次第に評価されるようになっていた。
特に、障害を持つ子供たちが、輝きを放って社会で活躍することを目的とした教育理論は、
多くの著名な研究者が、若手研究者の中で白眉だと絶賛した。
そのため、桃子の講演を聞こうと、わざわざ訪米する日本人研究者も現れはじめていた。

この頃、俺と千奈美は長男を授かっていた。
小さなアパート暮らしで、また俺の仕事が不規則で忙しいこともあって不便をかけたが、
「留学していた時なんて、もっと大変だったよ!それに私、今は干されちゃって暇だし!」
と、千奈美は冗談も交えながら、笑ってそんな生活を受け入れてくれていた。
夫婦生活は順調だった。時にはケンカもしたが、すぐに仲睦まじい姿に戻ることができた。
長男が生まれてからは、2人の愛情はさらに深まっていた。
146 :セル :2018/02/14(水) 00:01
だが、そんなある日、長男が高熱を出した。
「病院に連れて行こう。」
俺はそう提案したが、
「よくあることらしいから、ちょっと様子を見てみようよ。
大したことなかったら、お医者さんにも悪いし。」
確かに、そんな話も聞いたことがあるような気がして、
そう主張する千奈美の言葉を、俺は聞き入れた。
だが、2日経っても熱は下がらなかった。
珍しく早めに帰宅した俺が見たのは、明らか狼狽した千奈美の姿だった。
「ほんのちょっと前から、急にぐったりし始めちゃったの。」
見ると、長男の全身に異常が出始めていた。
「すぐに病院へ連れて行こう。」
俺は保険証や乳幼児医療証をタンスから引っ張り出して千奈美に渡すと、
長男を抱っこして、診察終了間際の近所の小児科へと飛び込んだ。
治療と投薬の結果、子供の具合は徐々に良くなっていった。
「やっぱり、あなたの言うことを聞いて、もっと早く診てもらえばよかったね。」
「まあ、よくなってきているし、もう、いいじゃないの。」
そんな他愛のない会話をした。
だが、熱がすっかり下がってからしばらくして、俺たちは子供のある異変に気付いた。
147 :セル :2018/02/14(水) 00:02
「ごはんだよ〜」
「絵本読も〜」
「お風呂入るよ〜」
以前なら目を輝かせて飛んできた子供。
だが、今は話しかけても、なにも反応がなく、
「どうしたのっ?」と、千奈美が笑顔で覗き込んで、
ようやく笑い始めるといった有様だった。

「どうしちゃったんだろうね〜。最近、反応鈍くなっちゃって。」
「・・・」
「どうしたの?」
「明日、仕事休むわ。」
「え?なんで。」
「もういちど、病院へ連れて行こう。」
「でも、元気だよ。」
「そうでないことを祈るけれど、でも・・・。」
俺の険しい表情を見て、千奈美もなにかを察し、
「ま、まさか。そんなことないよね、うん。」と、自分に言い聞かせるのだった。
148 :セル :2018/02/14(水) 00:03
「重度の難聴の疑い有。」
先日、訪れた小児科で紹介状を書いてもらい訪れた総合病院。
医師からの通告は、あまりに非情だった。
原因は、先日の高熱を発生させたウィルスによる可能性が高いとのこと。
「現実を受け入れるしかない。」
俺は腹をくくった。
だが、千奈美は割り切ることができずにいた。
「なんで、もっと早く気付いてあげられなかったんだろう。
どうして、すぐにお医者さんに連れて行かなかったんだろう。」
あの千奈美から笑顔が消え、痛々しいまでに落ち込んでいた。
149 :セル :2018/02/14(水) 00:04
だが、子供は以前と変わらず明るい笑顔を俺たちに見せてくれていた。
そんな笑顔を見て、徐々にではあるが、
千奈美も以前の明るさを取り戻していった。
いや、俺にはそう見えていた。
だが、ただでさえ、かんたんではない育児なのに、
声をかけても反応がないという負担がかかり、
さらには、配慮に欠けた周囲の言葉などを受け、
千奈美は、徐々に心身ともに疲弊していった。
頬はコケ、目にはクマができ、
みずみずしかった彼女の体は、次第に乾いていった。
体調も崩しがちになり、ついには摂食障害まで起こしはじめた。
150 :セル :2018/02/14(水) 00:05
俺は、千奈美と子供のために、できるだけ早く帰るように心がけ、
また、可能な限り休暇もとるようにした。
炊事や洗濯をこなし、努めて子供と遊ぶようにした。
千奈美が疲れた様子を見せると、
優しく語りかけながら、マッサージもしてあげた。

「ごはんができたよ。」と、声をかけても、
「食欲がない。」と、ほとんど箸をつけず、
「一緒にお風呂に入ろう。」と、誘っても、
すぐにのぼせて出てしまい、
「みんなで公園に行こう。」と、出かけても、
すぐに疲れてグッタリしてしまう。
日に日に生気を失っていく千奈美を見て、専門家に頼るしかないと思い、
内科、婦人科、精神科、さらには臨床心理士の相談所などを調べた。
だが、いざ連れて行こうとすると、当日になって、
「行きたくない。」と、千奈美が泣き出し、けっきょくあきらめる日が続いた。

<つづく>
151 :セル :2018/02/14(水) 23:44
<つづき>

俺は、どうしたらいいのか分からなくなった。
「ほら、あんなに笑っているよ。」
「テレビに興味を示している。」
「楽しそうに動き回っているね。」
「砂場でお友達ができたみたいだ。」
「ご飯をたくさん食べている。」
少しでも千奈美を元気づけようと、一生懸命話しかけることしかできなかった。
だが、このときは気付かなかった。
俺は子供のことばかりを話していた。
子供が元気で大丈夫だと理解すれば、千奈美は回復すると思い込んでいた。
しかし、千奈美の気持ちになって考えたこともなければ、
千奈美の身になって思いやることもできていなかった。
152 :セル :2018/02/14(水) 23:45
話しかける俺に対して、最初は笑ったり言い返したりしていた千奈美だったが、
いつしか、俺がなにを言っても冷めた表情で、愛想笑いするだけになっていた。
「会話をしているんだから、きっと平気。」
根拠のない自信が、俺を覆っていた。
だが、実際はそうではなかった。もはや、会話すら成立していなかった。
追い詰められていた千奈美の気持ちを、理解してあげられなかった。
心の病の原因は、既に長男の障害から、別に移っていた。
周りの人間の心無い声?
いや、違う。
俺の的外れで冷たい対応が、千奈美を追い込んだ。
153 :セル :2018/02/14(水) 23:46
病院のベッドに横たわる千奈美。
痩せ細った体からは、かつての天真爛漫なエネルギーは消え去っていた。
俺は千奈美に寄り添い、号泣しながら詫びた。
だが、なにもない天井を見上げたまま、無表情なままの千奈美。
もう、感情らしい感情もなくなっていた。
そして、この世を去った。
わずか4年足らずの結婚生活。長男は、まだ1歳半だった。

千奈美の苦悩に気付いてやれなかった。
千奈美に人間らしく接してやれていなかった。
千奈美から人の心を奪ってしまった。
俺は自責の念に駆られ、激しく後悔した。
「なんではっきり言ってくれなかったんだ。」
「怒鳴ってくれれば、俺も気づいたのに。」
あの優しい、しかも病に伏せった千奈美にそんなことができようはずもない。
責任転嫁して言い訳をする俺の存在に気付いたときは、自らを罵倒もした。
154 :セル :2018/02/14(水) 23:48
1週間後、千奈美の葬儀がしめやかに営まれた。
「なんで亡くなってから、こんなに時間が空いたの?」
「最近は、葬儀の順番待ちもあるらしいわよ。」
「なんだ、旦那がいい加減で遅れたのかと思った。」
そんなひそひそ話が、葬儀場から聞こえた。
俺は、みんなから責められているような強迫観念に襲われていた。

通夜に訪れたかつての仲間たち。
最初に焼香を済ませた舞美は、遺族に一礼をすることもなく、
俺の前までつかつかと歩み寄った。
その表情は氷のように冷たく、鋭い視線は俺を針のように突き刺した。
「なんで守ってあげられなかったの。」
突如、怒声が葬儀場に響き、僧侶は読経をやめ、こちらを見た。
だが、決して珍しいことではないのか、再び祭壇に向き直ると、
何事もなかったかのように、再びお経を読み始める。
会場は唖然した空気に包まれたが、
長男だけは祖母の腕の中で、無邪気におもちゃで遊んでいた。
155 :セル :2018/02/14(水) 23:49
後ろに続いていた早貴と愛理は、焼香することもできず、
舞美のもとに駆け寄ると、一言二言、なにやら言葉をかけてなだめ、
腕を抱えて俺の前から連れ去った。
その間も、舞美は後ろを振り返って視線を外すことなく、俺をずっと睨み続けていた。
俺は、さらにうちひしがれた。
その後も続いた仲間たちだが、舞美の姿を見て動揺したのか、
焼香を済ませると、足早にその場を離れていった。
最後に焼香をしたのは桃子だった。
千奈美の悲報に接し、急遽帰国した彼女は、
空港から直行して到着したばかりだった。
桃子は、遺族の前で深々と頭を下げると、俺の前まで歩み寄り、
「あなたのせいじゃない。だから、そんなに思いつめないでください。」と、
耳元でそっと囁いた。
桃子が部屋を出るのを確認すると、なにかの糸が切れたような感覚に襲われた。
そして、「俺のせいだ。」と、大声を出して泣いた。

<つづく>
156 :名無し飼育さん :2018/02/15(木) 01:20
さすがにもう感想書くのもためらうレベルでドン引きであった
157 :名無し飼育さん :2018/02/15(木) 08:12
ええー
まさか千奈美死んじゃうなんて
話的には有りかもだけどなにも死なせなくても
158 :セル :2018/02/15(木) 21:44
話の展開上そうする必要がありまして
もともと千奈美ファンだったのと
ももちとの関係性もあっていやな役回りをやらせてしまいました
ごめんなさい
159 :セル :2018/02/15(木) 21:45
<つづき>

翌日の告別式。
みんな冷静さを取り戻し、千奈美に最後の別れを告げていた。
出棺間近となり、かつての仲間たちは、
もう二度と見ることができなくなる、千奈美の最後の顔を覗き込み、涙を滴らせた。
だがその場に、読経の際には間違いなくいた舞美の姿だけは、
どうしても見つけることができなかった。
棺に釘を打ち、俺は窓からのぞきこんで、千奈美との別れの時を迎えた。
白装束姿で、周りには白を基調とした花々が千奈美を囲んでいた。
痩せてしまってはいたが、小麦色の顔は以前のままで、
呼びかければ、ぱっと目を開けるのではないかとさえ思えた。
そのまま時間が止まってしまえばいいのにと思ったそのとき、
「お時間です。」の声が響き、俺は目をつぶって、棺の窓をそっと閉じた。
160 :セル :2018/02/15(木) 21:46
いつまでも悲しみに暮れているわけにはいかなかった。
納骨も終わり、俺は以前どおりの生活に戻った。
変わった点と言えば、多くは千奈美に任せきりだった育児を、
今後は俺が引き継ぐ必要があるため、仕事の比重を減らしたことだろうか。
それでも、仕事量が突然減るわけではもちろんなく、
俺は今まで以上に業務内容を見直し、効率化に努めた。
絶望的な状況になることもあったが、
そんな時は、俺の両親のサポートがあり、乗り切ることができた。

1年の月日が流れた。
この頃の俺は、育児もあって、国内での研究活動に専念していた。
ある日、勤務先のキャンパス内が、やけに人であふれかえっていた。
門を入ったところには、いくつもの看板が設置されており、
学会が開催されていることを知った。
多くの学部が集う大学にあっては、このようなことは時折あることだ。
161 :セル :2018/02/15(木) 21:47
「学食が混みそうだなぁ。」
そんなどうでもいいことを気にしていると、
「あれ?あ、おはようございます。」と、なつかしくも聞き覚えのある声が届いた。
「え?」
驚いて振り向くと、そこには1人の女性の姿があった。
「あ、ええと、その、嗣永さん?だよね。」
「そうですよ。どうしたんですか、もう。」
俺は、あまりに美しくなっていた彼女を見て、しどろもどろになった。
「いや、びっくりするほどきれいになっていたから、
本当に嗣永さんかどうか、ちょっと確信が持てなくて。」
「ん?びっくりするほどきれいになったって、
それじゃあ、以前はきれいじゃなかったってことですか?」
桃子は怒った風な素振りを俺に見せる。
「いや、そうじゃなくて、一段とと言ったほうがいいのかな。」
「もう、このお世辞上手!」
以前から知る桃子の愛らしい姿を見て、
「やっぱり嗣永さんだ。」と、俺は自然と笑みがこぼれた。
162 :セル :2018/02/15(木) 21:48
「今日はまた、どうしてここに?」俺が尋ねると、
「学会があるんです。」と、看板を指さしながら桃子が答えた。
「ということは、教育学系のをやっているのかな。」
「そうですよ。」
「そうか、久しぶりだね。そうだ、改めてお礼を言わないといけないと思っていたんだ。」
「千奈美のことですか。」
「うん。空き時間、あるかな?」
「私、しばらくこっちに滞在するので。」
「そうなんだ。じゃ、連絡するよ。メールアドレス、変わってない?」
「はい、昔のまんまです。電話番号も。」
「わかった。じゃ、後で。」
「はい、待ってます。じゃ、そろそろ始まるので。」
「はい、いってらっしゃい。」
俺がそう言って送り出すと、桃子はこちらを振り返りながら手を振り、
たくみに隙間を縫って、人ごみの中へと消えていった。
163 :セル :2018/02/15(木) 21:49
翌日、俺は桃子とランチを共にした。
たまたま、桃子が次に参加予定の会が15時からということもあり、
ランチ後に、喫茶店へと入った。

「ご挨拶が遅くなりましたが、その節はありがとうございました。」
俺は姿勢をただし、桃子に頭を下げた。
「とんでもないです。」
「嗣永さんがかけてくれた言葉で、本当に救われたというか。
そうとう参っていたところに、あんなことがあったから。」
「やっぱり悲しみが大きいと、普段とは違った自分が出てしまうことがあるんだなって。」
「もちろん、矢島さんの気持ちは十分に理解しているつもりだけれど。」
「あの舞美ちゃんが、あんなに取り乱すなんて、私だって想像すらできなかった。」
「俺が不甲斐ないばっかりに。」
「もうやめましょう、その話は。」
「でも、嗣永さんには、本当に感謝の気持ちでいっぱいだよ。
千奈美の葬儀のために、わざわざ帰国してくれたっていうのもあるし。」
「だって、私にとっても大事な仲間ですから。」
そう言うと、桃子は下を向いて、悲しみをこらえるように、ぐっとこぶしを握った。
その姿を見て、俺は自分のことしか考えていなかったことに気づき、恥ずかしくなった。
164 :セル :2018/02/15(木) 21:50
「最近は、どうなの?」
「海外の生活もすっかり慣れて。1人でも平気でワインバーなんて入れちゃうんですよ。」
「酔っ払いに絡まれたりしない?嗣永さん、きれいだから。」
「嬉しいこと言ってくれますね〜。大丈夫です。
危ない所には行かないようにしているし、あしらい方も板についたので。」
「そっか。強くなったね。
それで、まだしばらく海外暮らしを続けるつもり?いや、それともずっとかな?」
「それなんですけれど。
そろそろ帰国して、私の研究成果を社会に役立てられないかなって考えているんです。」
「そうなんだ。」
「はい。もちろん、研究はまだまだしたいし、しなくちゃいけないんですけれど。
でも、研究するのが私の目標ではなくて、
研究してきたことを、直接、子供たちのために生かして役立てるのが、私の夢なんで。」
165 :セル :2018/02/15(木) 21:51
「しっかり、将来設計ができているんだね。」
「そんな。イメージを膨らませているだけで、将来設計なんてまだまだできていないです。
ただ、障害を持つ子供たちの教育活動をしたいなって。そんなことを考えています。」
「たいへんなことだと思うけれど、実現できるといいね。」
「頑張りますよ、私は。」
「知人に教育学をやっている人や、その方面で起業した修了生も知っているから、
どれだけのことができるかわからないけれど、俺も可能な限り協力するよ。
なにかあったら連絡ください。」
「はい、よろしくお願いします。」

学会後、イギリスに戻った桃子は、半年後、正式に日本に帰国した。

<つづく>
166 :セル :2018/02/18(日) 23:40
<つづき>

帰国から2日、ほとんど休む間もなく、桃子はあの山村を訪ねていた。
以前と変わらぬ風景を懐かしみながら、桃子は老婆の家の玄関の引き戸を開けた。
「おばあちゃん、いますか?おばあちゃ〜ん。」
・・・
「あれ、外出中かな。」
桃子は縁側に座り、しばらく待つことにした。
1時間ほどすると、見慣れた軽トラックが庭に入ってきた。
「あ、やっぱり。」
「あれ、君は?」
2人の声が同時に発せられた。
「ご無沙汰してます。時間が取れたので久しぶりに遊びに来ちゃいました。」
桃子がそう言うと、
「そうか、よく来たね。ただ、婆さん、今はいなんだ。」
と、白髪頭の男性は答えた。
「え?どうかしたんですか。」
桃子は心配になり、顔をこわばらせた。
167 :セル :2018/02/18(日) 23:41
「婆さん、性懲りもなく、また自転車に乗り出してさ。
危ないから、やめろって言ったんだけれど、
『畑に行くんだ。一緒に行かないといけないんだ。』って聞かなくて。」
「えぇ。また乗り始めちゃったんですか。」
「桃子ちゃんが来て分かった。君と一緒に自転車で畑に行きたくなったんだな。」
「そんな無茶な。それで、おばあちゃんは?」
「案の定、転んじまってな。今は入院してる。おとといの話だよ。」
「えぇっ!?」
「あ、でも幸い骨には異常なくてな。まあ、あと1週間もすれば退院できるそうだよ。」
「よかった。あの、病院ってどこですか?お見舞いに行きたいんですけれど。」
「よければ、連れて行ってあげるよ。
ちょうど、ばあさんの着替えを取りに寄ったところだったんだ。」
「それじゃあ、おことばに甘えます。よろしくお願いします。」
「じゃ、ちょっと待っててな。あ、でもな。」
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもない。病院に着いたら、また話すよ。」
168 :セル :2018/02/18(日) 23:42
自動車を30分ほど走らせた病院のベッドで、老婆は横になっていた。
「寝てるみたいだな。まあ、そのうち起きるだろ。時間は大丈夫かい?」
「あ、はい。何日かこっちに滞在するつもりだったので。
電話もかけたんですけれど、耳が遠いのか話が一方通行になっちゃって。
それで、お手紙はお送りしたんですが。できればまた、泊めていただけないかなって。」
「そうだったのか。鍵持ってるから、ばあさんちに泊っていってもいいんじゃないか。」
「さすがにそれは申し訳ないので、ごあいさつしたら帰ります。」
「そうか。」
そんな会話をしていると、「う〜ん。」とうなり、老婆は目を開けた。
「起きたか。」
「おばあちゃん、おはようございます。久しぶりですね!」
「???」
「あれ?起きたばっかりで、まだ寝ぼけちゃってますか?」
桃子がにっこり微笑みながら老婆を見つめていると、
「いや、寝ぼけているわけじゃないんだ。」
と、男性が口を挟んだ。
169 :セル :2018/02/18(日) 23:43
「???」
老婆は相変わらず、なにがなんだか分からないという表情をしている。
「認知症が進んじまってな。昔のことは、だいぶ忘れちまったみたいなんだ。」
「えっ?」
桃子は、覚悟をしてきたつもりだった。
だが、その事実をはっきりと聞かされると、やはり愕然となった。
「時々、ふと思い出したように話し始めることもあるから、
完全に忘れたってわけではないと思うんだけれど。」
「おばあちゃん、私だよ。桃子だよ。ただいま。」
「???」
「せっかく来てくれたのに、悪いな。今日はダメみたいだ。」
男性がそう言いかけると、
老婆は突然桃子の手をしっかりと握り、涙を流し始めながら話し始めた。
170 :セル :2018/02/18(日) 23:44
「自転車に乗らねえと。畑に行かねえと。孫が待ってるんだ。桃子が待ってるんだよ。」
老婆は小さくなった肩を震わせながら、懸命に訴えた。
その姿を見た桃子の頬に、涙が伝った。
それは、老婆が自分のことを忘れてしまったという
悲しさや寂しさからくるものではなかった。
「ばあさんの孫に、女はいないだろ。それに、ほら。桃子ちゃんならここに・・・、」
老婆に説明しようとする男性を、桃子はそっと制した。
「ありがとう、おばあちゃん。私が畑に行って、桃子ちゃんに代わりに会ってくる。
なにか伝えること、ある?」
「そうか、ありがてえ。じゃあ、ちょっと頼む。ところでお前さんは誰だ?まあ、いいか。」
老婆は安心した表情を見せると、桃子にそっと耳打ちする。
話を聞きながら、桃子は嬉しそうに、大きくうなずくのだった。

<つづく>
171 :名無し飼育さん :2018/02/19(月) 09:18
ばあさんよく絡んでくるね
けっこう重要人物?
172 :セル :2018/02/22(木) 00:03
<つづき>

直接会う機会はなかったが、桃子とはその後、メールでやり取りをしていた。
「こども園を作り、障害を持つ子供たちと健常な子供たちが、
共に手を取り合っていける環境を作る。」
彼女の目標を、俺は聞いた。
桃子の夢を叶えてあげたい。
俺はその思いを胸に、大学の同級生でもある、世界的に著名なアスリートのもとを訪ねた。
普段は、気のおけない友人として、気さくに話し合う間柄だが、
今回は、久しぶりに会うことに加え、かなり勝手なお願いをすることもあり、
緊張の面持ちで待ち合わせ場所へと向かった。
173 :セル :2018/02/22(木) 00:04
俺は、桃子のことについて、順を追って友人に説明し、
そして、主に資金面で協力してもらえないかと頭を下げた。
「そうか。あの嗣永さんがね。
私のことを捨てておきながら、また、ずいぶんと虫がいいな。」
友人の口から、思いもよらぬ言葉が発せられ、
俺は頭を下げたまま、視線だけを友人に向けた。
「それって、どういうことだ?」
俺は、まだ頭を下げたまま、友人の目を見て問いただした。
「彼女とは、何度か会ったことがあるんだ。」
「え、どこで?」
「最初は、シアトルだったかな。イベントに参加するとかで、嗣永さんたちが来ててな。」
「へえ。いつごろの話だい?」
俺はようやく頭を上げた。
174 :セル :2018/02/22(木) 00:04
「15年くらい前かな。震災のあった年だよ。」
「そんなに前か。」
「その後、日本でもね。」
「ひょっとして、お前と嗣永さん、恋仲の関係だったとか?」
「そんなわけないだろ。彼女はアイドルだったんだぜ。」
「でも、さっき。」
「ははは。冗談だよ。お前があまりに真顔で頭を下げるもんだから、
ちょっと茶化したい気分になったんだ。」
「性格悪いぞ。」
「今に始まったことじゃない。」
「それもそうか。」
そんなやり取りがあって、2人で大笑いした。
175 :セル :2018/02/22(木) 00:06
「いや、だが嗣永さんにそんなことがあったとは、ちっとも知らなかった。
『学会でアメリカに来てます。』って、急に連絡があって、
向こうで短い時間だったんだけれど会う機会があったんだが、
でも、そんな話はしていなかったな。」
「人生、いろいろあるよな。」
「でも、さすがだな。人生設計がしっかりしている。改めて見直したよ。彼女のこと。」
「それで、さっきの件なんだが。」
「本人と、直接話してみたいな。また時間を作ろう。今度は連れてきてくれるか。」
「もちろんだ。ぜひ、話を聞いてやってくれよ。」
「ああ。嗣永さんが真剣だと判断できれば、支援するよ。」
「ありがとう。」
「まだ、決定じゃないぞ。」
「いや。話してもらえば分かる。彼女は本気だ。」
「自分のことでもないのに、ずいぶん気持ちが入っているな。さては、お前。」
「な、なんだよ。」
「惚れてるんだろ。」
「違う、ちがうよ。妻に先立たれたとき、彼女には世話になったし。
そ、それに、あんなまっすぐで真剣な人を見たら、誰だって応援したくなるって。」
「そうかそうか。分かった。そういうことにしておくよ。」
「だ、だから、違うって。」
176 :セル :2018/02/22(木) 00:06
後日、俺は桃子を伴って友人のもとを訪ねた。
「ご無沙汰してます。」
桃子は深々と頭を下げた。
「アメリカで会って以来だから、もう5年くらい経つか。」
「6年ぶりですね。その節は本当にお世話になりました。
あの、既に概要は聞いていらっしゃるかと思うんですが、今日はお願いがあ・・・、」
「分かった。協力するよ。」
「え?私からは、まだなにもお話ししていないですけれど。」
「目を見て決めた。それだけ力強く輝いていれば平気だ。」
「そんなので決めてしまっていいのか?」
俺は、念のため確認した。
「これでも、人を見る目はあるほうだと自負しているよ。
特に嗣永さんは、前から知っているしね。」
「ありがとうございます。きっと、きっとやり遂げて見せます。」
桃子は、さらに深々と頭を下げた。
177 :セル :2018/02/22(木) 00:09
「ところで、嗣永さんの専門だから、幼児教育のことは任せるとして、
設立資金のほかに、なにか心配事はないのかい?」
「大丈夫です、と言いたいところなんですけれど、その・・・。」
「経営面の心配があるみたいなんだよ。まったくの素人だから。」
話しづらい部分なのか、口ごもった桃子に代わって、俺が相談した。
「親御さんの経済的な負担にならないようにしたいとは思っているんですが、
でも、教諭や保育士にも、しっかりとしたお給料を出してあげないとですし。」
桃子も、俺に続いて心配を吐露した。
「俺の伯母に幼稚園をしていた人がいる。歳を取ったので引退したけれどね。
経営面でもしっかりやっていた人だから、相談に乗ってもらうといいと思う。」
「ご迷惑じゃないでしょうか。」
桃子が遠慮がちに尋ねた。
178 :セル :2018/02/22(木) 00:09
「年金暮らしで暇を持て余しているから、きっと喜んで協力してくれるよ。」
「どれくらい、お包みすればいいでしょうか。」
今度は、おそるおそる確認する。
「謝礼を払うなんて言ったら、きっと怒るぜ。」
「でも。」
「いいんだよ。気にしない。」
「・・・。はい、それじゃあ、お言葉に甘えます。」
安心した桃子に、笑みがこぼれた。
「ただ、経験があるとはいっても、昭和の人だからな。少し考えは古いかもしれない。
友人に、優秀なコンサルタントもいるから、いつでも紹介するよ。遠慮なく声をかけて。
こっちも、お金の心配はしなくていいから。」
「本当にありがとうございます。」
桃子は、もうこれ以上は下がらないくらいに、頭を下げた。
179 :セル :2018/02/22(木) 00:10
「ありがとう。助かったよ。勝手なお願いで申し訳なかったな。」
そう礼を言う俺に、
「俺を誰だと思っているんだ。それに俺は、彼女を見込んで協力してるんだ。
お前に礼を言われる筋合いはない。それよりも、ちゃんと嗣永さんを守ってやれよ。」
白い歯を見せながら、友人は俺に言った。
「え?」
桃子は、困惑した表情を見せた。
「いや、気にしないで。こいつ、変に勘ぐる癖があるんだ。」
俺は慌てて、話を切り上げた。

<つづく>
180 :名無し飼育さん :2018/02/22(木) 18:14
お 久々にきてた
なんかこの友人どこかで読んだような
181 :セル :2018/02/27(火) 00:11
<つづき>

資金面でのめどはついた。
だが、それだけで桃子の夢が果たせるわけではなかった。
行政、関係団体、教育機関、学会など、桃子は八方手を尽くし協力を要請した。
自分の目標が、ようやく形となって見え始め、
桃子は多忙を極めながらも、充実した毎日を送っていた。
ある日、進捗状況の気になっていた俺は、
関係者との打ち合わせの場に同席させてもらった。
「ここまで1人でまとめ上げたのか。」
短期間で着々と準備を進めてきた桃子の行動力と熱意とに、俺は感服した。
182 :セル :2018/02/27(火) 00:12
「すごいな。」
帰り道、俺は感想を、ストレートに桃子に伝えた。
「私だけの力じゃありません。」
謙遜する桃子は、
「あの、お礼をしたいので、今度食事に行きませんか?」と、俺を誘った。
「俺は、なにもしていないよ。」
そう言って断ったが、桃子は「どうしても。」と、食い下がる。
駅に着き、桃子は俺と反対方向の列車に乗り込んだ。
扉が閉まると、桃子は、両小指を自分の唇にそっと当て、
そして、その小指を俺のほうにそっと向けた。
「え?」
なんのことか分からず、俺がきょとんとすると、電車が静かに動き出した。
徐々に速度を上げる扉の向こうで、桃子がなにかをつぶやく。
すると、窓ガラスが白く曇り、桃子の表情が見えなくなった。

「ピンキッスです。」
そうつぶやいた桃子は、“はあっ”と息を吐き出しながらうつむき、
白くなった窓の向こうで、頬を赤らめてはにかんでいた。
183 :セル :2018/02/27(火) 00:13
「育児もあるし、やっぱり遠慮するよ。」
研究室を奇襲した桃子からの食事の誘いを、俺はやはり断った。
「そう言うと思いました。はいっ!」
桃子はトートバッグを頭上に掲げて見せた。
「それは?」
「お仕事終わったら、おうちにまっすぐ帰るんですよね?」
「うん。あ、いや、保育園には寄るけれど。」
「食材を買ってきたので、私が手料理を振る舞わせていただきます!」
「えっ?」
「いろいろ買ってきたんですよ。黒毛和牛に仙台牛に、あとはお野菜も。」
「ご、豪勢だね。」
「とても1人じゃ食べきれない量なんです。だから、お願いします。」
強引なまでの桃子のやり方に、俺はあらがいきれなくなった。
「ええと、じゃあ、お願いします。」
「はい!あの、お部屋の鍵、お借りしていいですか?図々しくて申し訳ないですが。」
「鍵?」
「いや、その。お子さんをわざわざうちに連れて来ていただくのも悪いですし、
ご自宅へ私が先に行って作っておけば、お帰りになってすぐに食べられるなって。」
「・・・、そうだね。」
「よ〜し、張り切ってお子様大好きディナーを作りますよ〜!」
もう、俺に桃子を止める手立てはなかった。
184 :セル :2018/02/27(火) 00:14
「お帰りなさ〜い。」
桃子の明るい声が響いた。
“お父さん、このおばちゃん、誰?”
“お母さんが、とっても大好きだったお友達だよ。”
手話で会話する俺と息子。
桃子から、なんて話しているのかと尋ねられ、
俺は思わず「おばちゃん」と、息子が手話で語ったそのままの単語を使ってしまった。
一瞬“むっ”とした表情を見せた桃子だったが、
カバンからメモ帳とペンを取り出すと、筆談で息子と会話を始めた。
『ももちだよ。よろしくね。あと、『おねえちゃん』ってよんでくれるとうれしいな〜。』
“ほら、ごあいさつしなさい。”
手話と筆談と声。さまざまな会話が入り混じる。
185 :セル :2018/02/27(火) 00:15
“こんばんは。おばちゃん。”
『こんばんは。う〜ん。やっぱり、『おねえちゃん』って呼んでほしいな〜。』
“お父さん。なんでおばちゃん来てくれたの?”
『なんできたのかな〜。あと、なんで『おねえちゃん』じゃないのかな〜。』
“今日は、ごはんを作りに来てくれたんだって。”
『カレーライスと、ぎゅうしゃぶサラダと、コーンスープだよ〜。』
“え〜、やった〜。ありがとう、お姉ちゃん。”
「現金な子だな。こういうところは千奈美に似たのかな。」
急に筆談をやめてしゃべり始めた桃子が、独り言のように言った。
俺は、なんだか息子と桃子のやり取りがたまらなく楽しくなった。
そして、久しぶりに心の底から笑っている息子の姿を見て、
桃子に感謝せずにはいられなかった。

<つづく>
186 :セル :2018/02/28(水) 22:55
<つづき>

食べ疲れ、遊び疲れたのか、息子は風呂にも入らずに寝てしまった。
「ごめんなさい。長居しちゃったせいで、お風呂に入れ損ねちゃったみたいで。」
桃子は、申し訳なさそうにいった。
「気にしないで。時々あるんだ。仕事で遅くなったりしてね。明日の朝、入れるよ。」
「あと、もう一つ。実はお米を持ってくるのを忘れちゃって、勝手に借りてしまいました。」
「そんなことなら、気になさらずに。」
「ちゃんと、無洗米じゃないのを確認して、研いでから炊いたので。」
「さすがだね。」
「すみません。じゃ、洗い物したら帰りますね。」
「それは俺がやるから。」
「でも。」
「そこまでやってもらったら、申し訳ない。」
「・・・、分かりました。それじゃあ、今日はこれで。」
「子供があんなに楽しそうにするの、初めて見たかも。俺も楽しかったよ、ありがとう。」
「こちらこそ。こんなことでしかお礼ができなくて。」
187 :セル :2018/02/28(水) 22:56
「駅まで送っていきたいところなんだけれど、子供1人置いていくわけにもいかないので。」
「大丈夫です。近くだし、暗い道でもないから。」
「ごめんね。」
「それじゃあ、帰りますね。」
「ありがとう。お気をつけて。今日は、ごちそうさまでした。」
「・・・、あの。」
「どうしたの?」
「あの、どうして、なにもしてくれないんですか?」
「え?」
「私の気持ち、分かってるんでしょ?」
「気持ち?って・・・。」
「しらばっくれても、ダメです。」
「・・・、俺は別に、その・・・。君のことはなんとも思っていないよ。」
「うそ。私、分かってるんですから。」
「・・・。」
「千奈美なんですか?」
「・・・」
「千奈美なんですね。」
「・・・、あぁ、そうだよ。」
「どうして?」
「妻のことを、忘れられない。」
188 :セル :2018/02/28(水) 22:57
「分かってます。私にとっても千奈美はかけがえのない存在です。」
「なら・・・。」
「違う。どんなに大切だとしても、千奈美はもうこの世にはいないんです。
それに、もう2年近く経つのに。
私の一方通行だったら、こんなことは言いません。
本当にいいんですか?ずっと、過去に縛られたままで。
これからの人生を、大切にしなくていいんですか?
私は、愛してます。あの頃からずっと変わらず、今でもずっと。」
「知ってる。」
「私、告白されたんです。」
「え?誰に。」
「『出資する代わりにというわけじゃない。俺は昔から君のことが好きだった。
だから、家に来ないか。そして、ずっとそばにいてくれないか。』って。」
桃子は、告白した主が誰だか答えないまま、言われた言葉を俺に話した。
だが、その主が誰であるかは、すぐに分かった。
189 :セル :2018/02/28(水) 22:58
「あいつ。」
俺は友人に対する怒りに震えた。しかし、すぐに冷静になって考えた。
なんで俺に、友人を責める権利があるだろうか。
あいつだって独身。桃子のことが好きなら、それは当たり前の行動だった。
「でも、すぐにお断りしました。そうしたら、
『やっぱりだめか。ま、予想していたよ。嗣永さんに好きな人がいるの、分かってたしね。
早く行ってやんな。あいつだって、本当は君のこと、待ってると思うぜ。』って。
その言葉を聞いて、なにか背中を押してもらった気がして。
すごく気持ちが楽になったんです。
だから、私も自分に素直になろうって決めたんです。」
190 :セル :2018/02/28(水) 22:59
俺の中で、なにかがぐるぐるとまわり始めた。
耳の中で、桃子の言葉が繰り返し響いた。
「桃子。」
俺は桃子の目をじっと見ると、彼女のことを思い切り抱きしめた。
だが、その時間はわずかだった。
桃子のことを引き離すと、
「今日はもう帰ってくれないか。」と、ぶっきらぼうに突き放した。
自分の中で、また違うなにかがぐるぐるとまわりだした。
頭の中で、いろいろな音がノイズのように響き渡った。
「意気地なし。」
桃子はそう叫ぶと、目を抑え、玄関の扉を叩きつけるようにして出て行った。
俺は、茫然と立ち尽くした。

<つづく>
191 :名無し飼育さん :2018/03/01(木) 08:34
ももち攻めるね
192 :セル :2018/03/01(木) 22:41
<つづき>

この日以来、俺と桃子は疎遠になりかけた。
“桃子ちゃん、もうこないの?ぼくのせいかな。おばちゃんなんて言っちゃったから。”
長男の言葉が重く心に響いた。
“お父さん、桃子ちゃんのこと、好きなんでしょ。
ぼくも、桃子ちゃんのこと、大好きなのにな〜。“
「息子がそう言うのなら。」
俺はいまだに素直になれないまま、桃子に連絡を取った。

「こんばんは。久しぶり!」
久々にやってきた桃子の表情は、以前と変わらず明るかった。
だが、言葉の先の視線は、常に息子を向いていた。
193 :セル :2018/03/01(木) 22:42
合びき肉、レタス、トマト、味噌、チーズなどなど。
桃子は台所で袋から食材を取り出した。
「お米、もらいま〜す。」
桃子は、まるで我が家のように料理を始めた。
「あの、なにか手伝おうか?」
「いいから。お子さんと遊んであげてください。」
桃子は視線を合わさずに言った。
194 :セル :2018/03/01(木) 22:43
「できたよ〜。今日はタコライスで〜す。」
子供の口にも合うように、辛さを抑えたタコライスが食卓に並んだ。
「「いただきます。」」
スプーンからポロポロこぼしながら食べる息子に、
俺がタコライスのすくい方を教えていると、
「これ、持ってきました〜。」と、桃子がワインを取り出した。
「私のお気に入りです!」
桃子は慣れた手つきでコルクを抜くと、
俺と自分とにワインを注ぎ、香りを楽しんでから、“ぐいっ”と飲み干した。
「うん。やっぱり、これだな〜。」
「おいおい、大丈夫かい。」
「ワインの飲み方は、私のほうが分かっていると思いますよ〜。」
俺たち3人は、和やかな雰囲気で食事を楽しんでいた。
俺と桃子の間にあったわだかまりも、いつしか消えてなくなっていた。
195 :セル :2018/03/01(木) 22:44
「それじゃあ、帰りますね。」
桃子は、前回の来訪時とまったく同じ言葉を発して一礼すると、
ドアノブに手を伸ばし、俺に背を向けた。
その瞬間、俺は背中から桃子を抱きしめた。
“びくっ”と体を震わせた桃子だったが、
「どうしちゃったんですか?今日は?」と、意外なほど冷静に、俺に問いかけた。
しばらくの沈黙が訪れた。
桃子も、その後は無言だった。背中越しに伝わる俺の鼓動を感じながら、
次の一言を待っていた。
196 :セル :2018/03/01(木) 22:45
先日のことがあってから、俺は自問自答を繰り返していた。
そして、息子の言葉を受けて桃子に連絡を取った後、
ひとつの結論を導き、ある決意を固めた。
桃子がやってくる少し前、俺は仏壇に手を合わせて、許しを請うていた。

「俺は、嗣永桃子さんのことを愛しています。」
やっとのことで言葉を絞り出した。だが、その後、再びその場を沈黙が支配した。
その静寂を打ち破ったのは、桃子だった。
「もっと、素直になって甘えてください。」
その言葉で、俺の肩から力が抜けた。
そして、肩ごしに桃子の瞳をじっと見つめ、そっと唇を桃子の唇に触れさせた。
「また、来てくれるかな。子供と、そして、俺のために。」
「はい!」
桃子は、優しくも力強い返事を俺にした。
そして、「ありがとうございます。」と言って、扉を開けた。
「こちらこそありがとう。じゃあ、また、ぜひ。」
俺は、力こそ抜けたが、まだ緊張した面持ちで言葉を発した。
197 :セル :2018/03/01(木) 22:47
“バタン”
「頑張ったね。」
閉まった扉の向こうで、桃子は母親のような優しい表情を見せた。
何事が起ったのかと茫然と立ち尽くしていた息子の顔にも、笑みが浮かんでいた。
198 :名無し飼育さん :2018/03/02(金) 08:33
ももちがどんどん強くお母さんみたいになってってるな
199 :セル :2018/03/04(日) 22:19
<つづき>

俺も桃子も、多忙な毎日を送っていた。
だが、あの日以降、桃子は時間を作っては、
俺の家に来て、一緒に食事をとり、息子と遊ぶようになっていた。
息子の風呂のこともあったので、当初は早めに帰っていた桃子だったが、
ある日『おねえちゃんとおふろはいろうか?』と、息子に書き始めた。
「え?それはちょっと。」
俺は驚いて、桃子を制そうとした。
だが息子は、“入る入る!”と無音のジェスチャーで騒ぎだし、
ついに2人は一緒に浴室へ向かった。
なにやら、楽しげな声が、エコーを効かせながら浴室から響いてきた。
むろん、声の主は桃子だけなのだが、それはなにか会話のようだった。
俺がどぎまぎしながら洗い物をしていると、頬を紅潮させた桃子と息子が、
「いいお湯だったね〜。また一緒に入ろうね〜。」
と、脱衣所から出てきた。
桃子の声が聞こえているはずのない息子も、大きくうなずいていた。
だが、その目はもう半分閉じかけていた。
200 :セル :2018/03/04(日) 22:21
俺が寝室に連れて行くと、息子は穏やかな寝息を立て始めた。
ダイニングに戻ると、桃子は申し訳なさそうな顔をして、
「すみません、ドライヤーを貸していただけないでしょうか。
頭は洗わないつもりだったんですけれど、つい一緒になって。」と言って、頭をかいた。

ドライヤーで髪を乾かす桃子の後姿が、俺の目に映った。
何度となくかき上げられる髪、
そして、その下からのぞくうなじから、大人の色香が漂ってきた。
その途端、俺は急に鼓動が早まり、正常でなくなっていくのを感じた。
201 :セル :2018/03/04(日) 22:22
「もう、帰ってくれないかな。悪いけれど。」
「え、どうしてですか?」
「なんでもないけれど、帰ってほしいんだ。」
「・・・、分かりました。でもすみません、髪だけは。」
桃子は驚きと寂しさとを含んだ声を、俺に向けた。
「いや、すぐに。いますぐに帰ってくれないか。」
そう言い放つ俺に、「また、逆戻り?」と、桃子は悲しみにあふれた表情を向ける。
「理性を失いそうなんだ、早く。」
俺は本音をぶちまけた。
その言葉を聞いた桃子の表情が、目まぐるしく変化する。
すると、なにかを決意したように俺に近づき、
頬を桃色に染めて、「いいですよ。」と、上目づかいで見た。
時が止まり、静寂が訪れた。
俺の心臓は一度停止したようになった後、一気に拍動を速めた。
「前にも言いましたよね。もっと甘えてくださ、んうっ。」
息が詰まったような桃子の声と、“ガバッ”という雑な音が部屋に響く。
俺は見苦しいまでに、桃子の唇を口で覆っていた。
202 :セル :2018/03/04(日) 22:24
なにも抵抗しない桃子だったが、俺が息継ぎのために口を離すと、
“すっ”と、滑らかに俺の頬を唇で撫で、そして、優しく俺の耳を噛んだ。
俺はその柔らかな感触に震え、“はっ”と息を吐き出して、
わずかではあるが、冷静さを取り戻した。
彼女をそっと抱き寄せ、すべすべとした背中を撫でる。
桃子は、“ふぅ〜”と息を吐くと、俺の腰に手を回し、
「ずっと、ずっと大好きでした。千奈美と結婚した後も、それでも、ずっと。」
そう言って、俺の胸に顔をうずめた。
203 :セル :2018/03/04(日) 22:25
ソファに倒れこむと、互いに愛撫し合った。
やおら、桃子のシャツのボタンをそっと外し始めると、桃子は驚いた表情を見せ、
「こういうときって、男の人が脱がせてくれるんですね。」と、恥じらった。
下着の上から胸をまさぐると、ピンク色の乳首がブラジャーの下端から顔をのぞかせる。
俺は、その乳首をそっと吸った。
俺の舌とブラジャーとにはさまれ、こすられた刺激で、乳首は膨らみ固くなった。
そして、桃子は「あふっ」という声を、緊張を伴いながら漏らす。
俺は、左手で下の突起物を、右手で乳首をやさしく愛撫しながら、
もう片方の乳首をさらに吸った。
「はぁ〜っっん」
言葉とも、吐き出す息の音ともつかない声が、桃子からあふれる。
俺が刺激を強めていくと、桃子の体は硬直していき、
体を小刻みに震わせながら、
「あん、だめ。」と、桃子は紅潮させた顔を左右に小さく振りながら身悶えた。

<つづく>
204 :名無し飼育さん :2018/03/05(月) 10:02
えっ?
今作もいちゃラブありなの
205 :名無し飼育さん :2018/03/05(月) 13:02
ないと思ってたのでありがたい
206 :セル :2018/03/05(月) 22:51
そうえいえばスレ立て時にエロありって書いてなかったのですね
最初の頃の小説は書いていたのに
今回も多少ありますのでいまさらながらお知らせです
207 :セル :2018/03/05(月) 22:53
<つづき>

気が付くと、2人とも生まれたままの姿になっていた。
千奈美が体調を崩して以降、俺は自分が男であることをすっかり忘れていた。
いや、忘れなければならないと言い聞かせていた。
子供と仕事のために生きると決めつけていた。
“はっ、はぁっ”と、息を吐きながら、
小刻みに体をぴくつかせる桃子の姿を見て、
俺は封印していた感情を、解放することに成功した。
乳首から口を離し、今度は桃子の口を吸った。
ゆっくりと、まとわりつくような接吻をしていると、
驚いたことに、桃子のほうから舌を入れてきた。
互いに舌を絡ませあいながら、俺は両手で桃子の上と下の2つの突起物を撫で続けていた。
208 :セル :2018/03/05(月) 22:56
本能だろうか。気が付くと桃子の左手が俺の息子を握り、上下にゆっくりとしごいていた。
「嗣永さん、いいかい?」
驚くほど冷静な声をかけて、桃子の上に体を重ねた。
「はい。」
硬い声で返事をした後、桃子は目を閉じて体を硬直させると、
次第に呼吸が荒くなっていった。
“ふぅっ”と大きく息を吐くと、うっすらと目を開けたが、
緊張からだろうか、俺から外した視線を下に向けた。
すると、目を大きく見開き、「えっ?!」と、小さな叫び声をあげた。
「どうしたの?」
「こ、こんなに大きくなっちゃうんですか?男の人のあれって。」
「いや、標準サイズだと思うけれど。」
「これで?」
「うん。だから、安心して。」
「入るかな。」
「大丈夫。」
209 :セル :2018/03/05(月) 22:58
桃子の両手首をつかんで頭のほうに上げ、
開いた腋をぺろぺろなめると、
桃子は、「あっあっ、だめ。あぁっ、ああふっ、うぅ〜ん。」と悶えだした。
当初は体をまっすぐに伸ばし、体をこわばらせていた桃子だったが、
俺が全身を優しく包んでやると、自然と力が抜けて体をくねらせはじめ、
そして、ゆっくりと股が開いた。
210 :セル :2018/03/05(月) 23:00
俺が腰に力を入れ、体をゆっくりと沈み込ませると、
「だめだめだめだめだめだめ、やっぱりだめです。」と、桃子は急に怖がり始めた。
「でも、もうぐっしょり濡れてるよ。」
「恥ずかしい。」
顔をそむけた桃子に対して、再び俺はもうひとつの俺を、桃子の股間に押し付けた。
「いっ。」
「ごめん。大丈夫かい?」
「ううん、しょうがないんです。」
「え?」
「私の体のせいだから。」
「あの、さっきから気にはなっていたんだけれど、やっぱりひょっとして・・・?」
数秒の静寂の後、桃子は無言のままコクリとうなずいた。
「こんなおばちゃんなのに、びっくりしたでしょう?」
「そんなことない。嗣永さんはお姉ちゃんだろ。前に子供に言ってたじゃない。」
「え?」
一瞬なんのことかわからなかった桃子だったが、初めて俺の家を訪ねた時の
長男とのやり取りを思い出すと
“ぷっ”笑いが漏れ、一気に力が抜けていった。
211 :セル :2018/03/05(月) 23:01
「嗣永さん。」
俺はそのタイミングで見逃さずに桃子を抱きしめると、
まるでもう一つの俺が、自らの意思でそうしたかのごとく、
桃子の中に“するっ”と入り込んでいった。
「あぁ〜っ。」
桃子は叫び声とも悲鳴ともつかない声で絶叫した。
「うぅっ。」
やや苦しそうにしながらも、桃子は満ち足りた表情を見せていた。
「女の人の体って、こんなにあったかかったっけ?」
初めて桃子を抱いた俺は、そんなことを思いながら、彼女のことをむさぼり始めた。

<つづく>
212 :名無し飼育さん :2018/03/06(火) 03:38
初めてなのかよ
びっくり
213 :名無し飼育さん :2018/03/06(火) 08:29
さすがはももち
ずっとアイドルの意識を持ち続けてたのかな
このとき何歳の設定かわかんないけど
214 :セル :2018/03/06(火) 22:46
ももち お誕生日おめでとうございます
215 :セル :2018/03/06(火) 22:47
このとき35歳設定です
つづきはまた明日書かせていただきます
216 :名無し飼育さん :2018/03/07(水) 08:54
さ さんじゅうご〜
ももちがんばりすぎ
217 :セル :2018/03/07(水) 22:31
<つづき>

腰を大きくゆっくりと動かしながら、久しぶりの感覚に興奮した俺は、
「嗣永さん!」と、大きな声を桃子にかけた。
「あっ、あっ、あぅっ。あぁ〜ん。」
痛みに襲われると同時に、歓びに包まれた桃子は、
これまでに経験したことのない不思議な感覚に陥りながらも、
「つっ、うっ、嗣永さんは、や・やめて。
はぁっ、も、ももっ、はっくっ、ももちって、あぁ〜っ。」
と、必死に俺になにかを訴えようとしていた。
彼女がなにを言おうとしているのか理解したつもりになった俺は、
「桃子―っ。」と、絶叫した。
218 :セル :2018/03/07(水) 22:33
豊かな尻が、もうひとつの俺をグッと締め付ける。
程よい大きさと形、そして弾力の乳房が、“ぷるんぷるん”と上下し、
ピンク色の乳首が、二重にも三重にも残像を残しながら揺れていた。
もう一つの俺を、桃子からあふれる液体がぬらぬらと濡らし、
突くたびに、桃子の下の口に小さな泡が立った。
痛みに耐えながらも、「あ、あぁっ、愛してます。」と叫んだ桃子だったが、
ついには口を真一文字に結び、体を硬直させた。
鮮血が下の口から滴ってソファを染める中、
俺は、これまでため込んで思いを、ついに桃子の中で爆発させると、
桃子の中に、白濁した液体をドクドクと注入するのを感じていた。
桃子は女になった。
219 :セル :2018/03/07(水) 22:38
狭いソファで体を寄せ合い、抱きしめあうようにして並んで横たわる俺と桃子。
「ごめんなさい。」
2人の激しい息遣いが続く中、桃子の小さな声がこだました。
「どうして?桃子。」俺も息を切らしながら問いかけた。
「気をつかわせちゃって。」
「そんなことないよ。」
「フラれた後も、なかなか次の一歩に踏み出せなくて。
それに、沖縄の事件もあったし。
でも、留学中は日本では考えられないくらい、次から次へとナンパされて、
なにがなんだかわけわかんなくなっちゃって。
あと、大学生の頃もいろいろあって・・・、」
一気にまくしたてる桃子の唇に、
俺はまっすぐに伸ばした右手の人差し指をそっとつけると、
桃子は“ハッ”として、ようやく冷静になった。
220 :セル :2018/03/07(水) 22:39
「ごめんなさい。」
「いやいや。」
「でも、これだけは言わせてください。ありがとう。」
「どういたしまして。」
「あなたと会えていなかったら、今の私は絶対にない。
ううん、もう、この世にいなかったかもしれない。」
「そこまで遡る?」
「はい。」
「そうか。役に立ったのかな、俺。」
「うん。」
「俺も、桃子に会えてよかった。」
「嬉しい。」
そう言うと桃子は、俺の首筋にチュッとし、頬ずりをした。
221 :セル :2018/03/07(水) 22:44
「でも。」
急に沈んだ声になる桃子。
心配になった俺も、やや低い声で、「どうしたの?」と、尋ねる。
「あの、こんなときに申し訳ないんですけれど。」
「うん。」
「嫌なんです、私。『桃子』って。」
「え?」
「『桃子』って呼ばれるの、嫌なんです。」
「どうして?」
「古風というか。
『ももえ』とか『ももな』とかあるのに、なんか古い感じが好きになれなくて。」
222 :セル :2018/03/07(水) 22:45
「名前が人を作るんじゃないよ。人が名前を高めるんだよ。」
俺はそう言って諭したが、
「でも。」と、桃子は渋い顔をした。
「まあ、君が嫌だと言うなら。」
「ごめんなさい。」
「じゃあ、なんて呼ぼうか。そうだ、『桃ちゃん』なら平気かい?」
「はい。それでお願いします。」
桃子は、ほっとしたまなざしを俺に向ける。
緊張感が取れ、力みの抜けた彼女の下のほうから、
朱色の混じった白濁液が溢れ出していた。

<つづく>
223 :名無し飼育さん :2018/03/09(金) 08:31
ところどころ実話が出てきていて
そういうとこがけっこうツボ
224 :セル :2018/03/11(日) 23:22
<つづき>

2人で一緒にシャワーを浴び、服を着る。
「そうだ。うっかりしてた。」
俺は仕事用のカバンを開け、桃子に小さな箱を手渡した。
「これは?」
「つい先日、誕生日だったでしょ。」
俺が桃子にプレゼントするのは、沖縄からの飛行機で渡して以来、2度目だった。
「用意してくれてたんですか?」
「うん。」
「ありがとうございます。開けていいですか?」
高揚した感じで、俺に礼を言う桃子。
箱の中には、万年筆が入っていた。
桃子は無言のまま目を輝かせ、落ち着いた光を反射させる万年筆に見入っていた。
その表情は、とても穏やかになっている。
寝室では、息子が静かな寝息を立てていた。
225 :セル :2018/03/11(日) 23:23
俺と桃子は、交際をスタートさせた。
あるときは恋人として、あるときは理解者として、またあるときは協力者として、
俺たちは一歩ずつ、着実に歩を進めていた。
そして、交際を始めてから1年。
俺は桃子の誕生日に、プレゼントを渡した。
3回目となる誕生日プレゼントも、また小さな箱が1つだけだった。
今回も、俺の目の前で箱を開ける桃子。
中には、決して大きなものではないが、ダイヤモンドの指輪が納まっていた。
驚いた桃子が俺を見る。
「桃ちゃん。俺と、いや、私と結婚してください。」
俺は、あらたまって桃子にプロポーズした。
桃子は、なにも言わずに、
下を向いたまま、“こくりこくり”と、小さく顔を上下させると、俺に抱き着いた。
226 :セル :2018/03/11(日) 23:24
「でも、ごめん。ひとつ謝らないといけないことが。」
俺の言葉を聞き、桃子は上を向く。
顔の下半分は俺の胸に埋まり、桃子の目と鼻だけが、俺の瞳に映りこむが、
その眼は、涙でうるんでいた。
「これしかないんだ。」
「え?」
「今日、桃ちゃんの誕生日なのに。肝心のプレゼントを用意していないんだ。」
「そんな・・・、」
「ごめん。怒ってるよね。」
「ううん。そんなことないって言おうとしたの。」
そう言うと、桃子は俺の首に手を回し、そっと口づけをした。
俺は笑顔だったが、桃子の顔は涙に濡れていた。
227 :セル :2018/03/11(日) 23:26
5月の大型連休、ようやくまとまった休み(とはいえ数日間だが)が取れた桃子は、
あの山村を訪ねていた。
「おばあちゃん。私、結婚します。今日はその報告に来ました。」
桃子は正面を見据え、にっこり微笑んだ。
「でも、もうちょっと早く来られればよかったですよね。」
手を合わせた桃子は、寂しげな表情を見せまいと、必死に笑顔を作った。
涙が溢れたが、「お線香の煙が目に入ったから。」と、自分に言い訳した。

「冥土に旅立った。」
軽トラックの男性から手紙を受け取ったのは、桃子が指輪をプレゼントされた翌月だった。
だが、手紙に書かれていた連絡先に電話をかけ、墓参にやってくることができたのは、
それから1年も経ってからだった。
桃子は現実を受け入れられなかった。
いや、受け入れるのを拒もうとし、読んだ手紙をすぐに引き出しの奥にしまいこんでいた。
228 :セル :2018/03/11(日) 23:27
「ご連絡が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。」
駅まで軽トラックで迎えに来てくれた男性に、桃子は頭を下げた。
「いやいや。遠いところ来てくれてありがとう。ばあさんも喜ぶよ。」
墓地に着くと、
「俺がいないほうがいいだろ。1人でばあさんにあいさつしてくるといい。」
そう言って男性は、墓地の入口に留まっていた。
「ありがとうございました。」
お参りを済ませた桃子は、礼を述べた。

「あの、もう一つお願いがあるんですが。」
「なんだい?」
軽トラに乗り込むと、桃子はあらたまって男性のほうを向いた。
「もう一度、もう一度だけ見たいんです。おばあちゃんの家を。」
「そうか。もちろんいいよ。」
そういうと男性は、軽トラを走らせ始めた。
229 :セル :2018/03/11(日) 23:28
「熱心にお参りしてたけれど、なにを話してきたんだい?」
「今度、結婚することになったんです。そのことを報告してきました。」
「そうなのかい、おめでとう。ばあさんも喜んだだろうな。」
「ありがとうございます。」
「いつ式を挙げるんだい?」
「6月です。」
「もう、すぐじゃないか。準備が大変なんじゃ。」
「いえ。親族と、ごくごく親しい友人しか呼ばない、簡素な式にする予定なので。」
「そうか。お休みは、いつまでだい?」
「あさってまでです。」
「他に予定はあるの?」
「いえ。ずっと慌ただしかったんで、少しゆっくりできればなあって。」
「急がないんだったら、泊まっていくかい?鍵あるよ、ばあさんちの。」
「え?あの、いいんでしょうか。」
「もちろん。嫁や孫、あぁ、長男の嫁な、再婚したけど。
その2人も、誰も仏壇をきれいにしなかったらかわいそうだろうって、
時々来てるんで、電気や水道も使えるはずだよ。」
「今日は、いらしていないでしょうか?」
「来るときは、事前に俺のところに連絡入るからね。
なんか、管理人みたいになっちまって。今日は来ないと思うよ。」
「そうですか。・・・じゃあ、せっかくなんで。」

<つづく>
230 :名無し飼育さん :2018/03/12(月) 08:40
ばあさん死んじまったのか
ももちを助けてくれてありがとう
231 :名無し飼育さん :2018/04/11(水) 08:41
お復旧してる
作者さん戻ってきて
232 :名無し飼育さん :2018/04/13(金) 21:12
作者さん
カムバ〜ック!

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