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燃え立ちて男 〜俺と保田の本能寺〜(仮題)

1 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/06/17(日) 18:05

  〜背表紙より〜

  織田信長が生きていた! 保田から突拍子もない与太話を聞かされた《俺》は、
  そのせいで突然のトラブルに巻き込まれる。狙われたのは《俺》の命か、保田の美貌か。
  逃亡を始めた矢先、《俺》は飯田のSOSを受けて向った先で真弓という子と出会い、
  二人で真相を探り始める。敵の目的は何か、そして敵が隠そうとしている秘密とは。
  稚拙な描写と未熟な構想、筆力に乏しい駄文家が飼育初上陸。乞わないご期待!
234 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:13

 しかし、そんな負け惜しみをいったところで打ちのめされたのは事実だ。腕の痺れ以外にも、
俺は顔やら背中やら脇腹やら、いたるところに痛みを感じていた。腕の痺れが止まるまでは
と思って耐えに耐えていたが、それも戦時中の国民の心境のようで、いつになるかわからな
い。目からは涙がこぼれ、口には濃い血の味がした。
「まいった。これ以上は、勘辨(かんべん)してくれ……」
 ゴホッゴホッと咳き込みながら、俺は男の顔を見上げた。
 吊り上がった目はまだ怒りを内包しており、その怒りを消化したいと燃えていた。だが俺は
それに逆に安心していた――。こういう時に一番恐ろしいのは、あのカマキリ男のような冷徹
な表情や氷のように冷ややかな笑みだ。何をされるかわからないという、毒毒しく冷え冷えと
した恐怖に苛(さいな)まれる。しかし怒りは理知的ではなく感情的でしかない。特にその男の
場合は肉体的な復讐に燃えていた。俺の顔面が腫れ上がり、口から血がこぼれ、全身がず
たぼろになれば、それ以上には進まないはずだ。優越感が生じれば怒りも自然に収まるに
違いない。
 だが――それは束の間の楽観論でしかなかった。男の執拗な暴行が止み、様子を見ようと
した俺の目に映ったのは、床に落ちていた鉄パイプを拾う男の姿だった。
 目と目が合った。とっさに死が頭に浮かんだ。男はそれを実行するつもりなのだ。俺がぐっ
たりして微動だにしなくなるまで打ちのめすか、頭部に振り下ろして一撃でとどめを刺すか。
どちらであろうと、男は俺を殺害するつもりだ。五分後に俺は生きているのか、それとも死ん
でいるのか……。
 そう思った時、俺の頭には前者のイメージが浮かんでいた。
235 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:13

 俺は生きる。いや、生きなければならないのだ! 真弓や保田や飯田を同じ目に遭わせな
いためにも、俺は生き抜いてみんなを守らなくてはならない!
 社会の役に立たないどうしようもない連中だとメディアから公然と批判され、貶(けな)され、
笑われ、哀(あわ)れまれる存在であろうと、スーツを着込んでバリバリに働いて俺の月収の
三倍四倍を稼いでいる世間一般の連中であろうと、自分の周りにいる人たちを守れなくて、
それで男といえるか! それで生きているといえるか!
 答えは否(いな)だ!
 俺はそう叫ぶなり、立ち上がって男に突進し、自分がこれまで培(つちか)ってきた全ての
力と技と経験とをそこにぶち込んだ。もはや痺れた腕などは関係ない。顔面には左右から突
きの連打を浴びせ、腹部へは膝蹴り、脇腹へは廻し蹴り、さらに後頭部めがけて固めた両拳
(りょうけん)を打ち下ろす。
 男は両膝を同時につき、先ほどの俺自身の姿を見るかのようにそのまま床に崩れ落ちた。
 この男にも、きっと俺と同じように守るべきものがあることだろう。しかし、それは俺の方が
はるかに大きかった。だからこそ俺は勝った――いや、負けなかったのだ。

 時が止まり、俺はふたたび腕の痺れを感じた。だが、そんな痺れは俺にとってもう何の障
碍(しょうがい)でもなかった。俺はメガネを拾うと、ううううと唸る男をそのままに、ドアの外に
出た。
236 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:13

 またもや廊下だった。だが、こちらの廊下には窓が並んでいて、藍色がかった闇夜が見え
ていた。深夜ではなく、まだ宵(よい)の口の範疇らしい。
 地上何メートルくらいかはわからないが、階にすれば五階ほどの高さだろう。下の方に街路
灯の明かりが見えていた。車線の区別のない広い道路があり、数台の車が停まっていた。そ
の向うには少しだけ窓に明かりのついた灰色のビル。さらに奥に目を向けると、遠くに大型の
クレーンのような影があり、巨大な倉庫のような建物。どうやら港の近くらしい。
 目を廊下に戻す。すぐ左手に階段があり、古ぼけたエレベーターもあった。逃走経路として
は当然前者を選ぶべきだろう。
 俺は階段に足を向けた。だが、そこで一瞬、奇妙な感覚に襲われた。
 頭に加藤雅子の部屋が浮かんだ。なぜだかはわからないが、俺の五官から発せられる五
感が何かを告げようとしていた。
 立ち止まり、後ろを見る。一直線に伸びた廊下。異常はない。
 また前を見る。そして、それに気づいた。いや、気づいたのではない。ただ視界に異物が入
り込んだだけのことで、それは俺を危機に陥れるようなものではなかった。
 だが、俺はしゃがんでそれを見た。エレベーターの前に、踏まれた鹿の糞のような黒っぽい
小さな粒が落ちていた。それを手に取り、予感のままに臭いを嗅ぐ。
 俺は立ち上がった。そして躰を後ろへ向けた。全身が燃えていた。それがもし中華料理に
用いられる食材であろうと漢方の薬であろうと、そのまま逃げるわけにはいかない。
 それは潰れた正露丸の欠片(かけら)だった。鼻の悪い俺でも、クレオソート臭くらい嗅ぎ分
けることはできる。それに、今の俺は生死の狭間にいるせいで五官がフルに稼働している。
237 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:13

 俺は廊下の奥へと向った。ドアは一つだけ。そこに真弓がいるはずだ。真弓は歯痛で正露
丸を歯に詰めていた。それ以外、そんなところに正露丸が落ちている理由は考えられない。
 ドアの近くでコンクリートの壁に耳をつける。くぐもった雑音が聞こえた。女性が泣き叫んで
いるような声に、犬が吠える声。そしてその次にはやや高めの男の声が聞こえた。
 真弓の声だ!
 真弓がやめろと叫んでいた。最初に聞こえた雑音とは違い、それははっきりとした音として
伝わってきていた。その部屋に真弓がいる。間違いない。
 俺は鉄パイプを取りに戻るべきかどうかを数秒考え、不用と判断した。ポケットの中に手を
入れ、鎖のついたナイフを確認する。慣れない武器は使うべきではないが、それも敵の反応
次第だ。これから先も素手で勝てる相手ばかりだとはかぎらない。むしろその可能性はかな
り低い。
 俺は気合を充填(じゅうてん)し、ドアの前に立った。そして一気にドアを開けた。
 目に飛び込んできたのは椅子に縛られた真弓と、その奥に立っている黒服の男、そして俺
を連れてきた件(くだん)のカマキリ男だった。
 だが、目よりも早く耳の方がその異常を感知していた。女の泣き叫ぶ声に犬の甘えるよう
な鳴き声。しかし、室内には女もいなければ犬もいない。
 真弓が顔を上げて俺の方を見る。男たちも同時に俺を見る。俺はそれらとは正反対に、真
弓の座った椅子の正面に置かれているテレビに目を向けた。その部屋の蛍光灯よりも格段
に眩しい光が画面の中にあり、その中央に裸の女性が映っていた。その手前におそらく大型
犬の範疇に入るであろう犬。斜めの角度ではっきりとは見えなかったが、俺はそれで一つの
事態を悟った。
 飯田はやはり敵に捕まっていた。そして、自らを人質に取られていた。
238 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:13

「筒川さん!」真弓が叫び、椅子ごと立ち上がろうとして身を悶(もだ)えさせた。
「おまえら……何をした! 真弓ちゃんに、飯田さんに、何をしたんだ!」
 激昂(げっこう)する俺に、奥にいた男がゆっくりと、身構えながら近づいてくる。カマキリ男
は微動だにせず、まるでショータイムを見るかのように目に薄っすらと笑みを浮かべていた。
 黒服男の強さによほど自信があるらしい。たしかに体格もよく、動きにもどっしりとした安定
感がある。だが、俺も昨日までの俺ではなく、十分前までの俺でもない。
 男に対して身を構える。拳(こぶし)を握り締め、足幅を肩幅より広く、しっかりと取って重心
を低くする。本能が防禦(ぼうぎょ)を選んでいた。まるでK1ファイターと対峙しているかのよう
に巨大な空気が俺の頭上に圧(の)しかかっていたが、不思議と悲壮感はなかった。
 そして音のないゴングが鳴った。
 男が俺の二メートル前で止まり、俺以上に腰を低くした。前方に這うかのように左足を低く
出し、それに添わせるかのように左手を前方に差し出し、右手は頭部の後ろで天を支えるか
のように上を向いていた。それが何かということなら考えるまでもない。実際に見たことはな
いが、映画でなら何度もある。カンフー、あるいは中国拳法と呼んでもいい。
「シャオウウウウウ!」
 奇声を上げて男が飛び跳ねた。俺の目の前で着地すると、いきなり後ろを向いて後ろ蹴り
を放つ。
239 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:13

 俺は両腕を交叉させて防ごうとしたが、意外な攻撃に反応が遅れた。男の足は俺の腹部を
押すように命中し、俺は半歩後ろに下がった。後ろ廻し蹴りではなく単なる後ろ蹴りというとこ
ろはいかにも本場だ。だが、中国武術の基本は一撃必殺ではなく、一連の流れにこそ特徴
がある。男は正面に向き戻ると、すかさずに手拳を繰り出した。
 一直線に伸ばした腕が肩を支点にして弧を描くように左右から交互に迫りくる。まるでコン
パスのような中国拳法独特の動きだ。最初の左は立てた腕で防いだが、右は俺の顔の寸前
を紙一重で勢いよく通っていった。風圧が睫毛(まつげ)を撥(は)ね上げ、無意識に手で目を
押さえる。その瞬間、男の躰が一気に沈んだかと思うと、次にはふっと跳躍した。
 俺は天井を見ていた。見たくて見たのではなく、気づいた時には顔が上を向いており、その
まま後ろに倒れ、置いてあった平均台のような物体に後ろ向きにしなだれかかっていた。そ
の直後に衝撃が遅れて伝わった。顎、首、頭、そして舌。
 何が起きたのかわからなかった。男は真上に飛んだ。あの間合いで蹴り――それも飛び
蹴りではなく跳ね上げだ――を出して、どうやったら顎にヒットするというのか。だが、男の蹴
り以外には考えられなかった。たぶん二段蹴りだろう。かろうじて見えたのは一段目の蹴り
だったが、その蹴りに隠れるように二段目の蹴りが続いたのだ。そして見えない二段目の蹴
りが俺の顎にヒットした。顎に痛みが疾(はし)り、突然の衝撃で首の筋が伸び、さらに後ろに
倒れて頭を打ち、その時に舌を噛んだのだ。
 先ほどまでの戦闘意欲はすっかり消え失せていた。男は餘裕(よゆう)を示すためか、独特
の構えのまま重心を前の足、後ろの足というように交互に移し、躰を揺らしていた。ステテコ
パンツをはいていたら、きっとヤンガスにしか見えなかったことだろう。
240 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:14

 椅子に縛られている真弓が何かをいおうとして口をモグモグさせていた。衰勢が明らかすぎ
てかける言葉が見つからなかったのだろう。その間にもテレビからは股間を刺戟(しげき)す
るような強烈な抵抗の声が聞こえてきていた。飯田は犬に犯されていた。
「ナニだかわかりますか?」
 弱者を軽蔑するような目をカマキリ男が俺の方へ向けた。
「何のことだ」
「その犬です。イイ犬でしょう。特別な犬なのですよ」
「ふざけんな」
「お気に召しませんか? アンドロズーン。聞いたことはないでしょうね。人間との性行為を調
教されたアニマルのことをソウ呼ぶのです。レンタル料は高額ですが、ソレでも有閑マダムに
人気でしてね」
 そんな世界があるということくらいは俺だって知っている。だが、そんな呼称を知りたいと思
ったことなんて一度もないし、それを拷問に用いるような連中の言葉なんて聞きたくもない。
 俺は平均台に手をかけて立とうとしたが、肘を置くだけですでに全ての力を失っていた。カ
マキリ男はそんな俺を見て、黒服の男に戦闘が終結したことを手振りで示し、何やら中国語
で命令を下して部屋の外に出した。たぶん、俺がどうやって監禁を逃れたのか、それを確認
させに行かせたのだろう。俺が脱糞したこともそれでばれるが、もはや恥も外聞もなかった。
俺が生きて外の空気を吸うことはなく、その意思もほとんど残っていなかった。
241 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:14

 カマキリ男は機嫌がいいのか、俺を無視してその倫理に反した犬のことについて流暢な日
本語で説明を続けた。俺はその言葉を何も聞かないことにした。だが、そうすればするほど、
俺の股間は最期の生を楽しませてくれといわんばかりに膨らんでいた。倒れている場所的に
テレビの画面こそ見えなかったが、飯田のしくしくと泣く声と、たまに漏れる意志とは別の声、
そして犬のくーんという甘えた鳴き声が、俺を江戸川乱歩のエロチック譚(たん)を初めて読
んだ小学生のような気分にさせていた。たぶん真弓も俺と同じなのだろう。真弓はじっと下を
向いたまま目を閉じていた。
 一分か三分か五分か、時間が経っても黒服の男は戻ってこなかった。早く戻ってきて俺を
始末してほしかったが、確認ではなく階下にでも向ったのか、倒れているであろう男の救護で
もしているのか、待つだけの時間と乱歩調の卑猥な声だけが流れていた。
 ふと真弓が顔を上げた。それと同時にテレビの声が止まった。しくしくという泣き声が聞こえ
なくなり、犬の声だけが残った。そして突然の大声。飯田がやだ、やだ、いやだ、と震える声
で叫んでいた。真弓が目をどんぐりのように大きく開けたまま、石化したかのようにまばたき
をしなくなった。
「本番ですよ。もちろん、コレまでも本番でしたが」と、カマキリ男が冗談を口にする。
 飯田がきゃーーーー、と叫んだ。お願い、お願い、と懇願した。最後の最後まで飯田は抵抗
をやめなかった。
242 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:14

 俺は動いた。興味ではない。真弓が目をそらさずにそれを見ているように、俺にもそれを見
守る責任がある。タクシーに乗って逃げた晩、俺が飯田を帰さずに三人で逃げていたら、飯
田はそんな悲惨な目に遭うことはなかった。俺は事態を甘く見すぎていた。部屋を爆破され、
誰よりもそれが深刻なのだとわかっていたのに、俺は自分以外を見捨てたのだ。そして自分
だけが巻き添えを喰ったのだと、怒りにも似た心境を心に隠し持っていた。
 ハイハイのような格好でテレビの横まで進み、さらに前に進む。学生の一人暮らしの部屋に
あるような18インチほどのテレビデオの画面が斜めに見え、俺はさらに進んで真弓の横まで
きた。
 飯田はでっかいベッドの上にいた。両手両足に黒皮の手錠のような器具がつけられ、チェ
ーンが四隅の手すりのポールに伸びていた。全裸で、小ぶりだが形のいい乳房や薄い陰毛
に隠れたやや黒ずんだ性器がはっきりと映っていた。ベッドの右脇に舌を出してハアハアと
荒い息を吐く大型犬が座り、ベッドの奥側に蝶のマスクで目を隠した男の姿があった。男は
片手に注射針を持ち、飯田の腕に打とうとしていた。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
 突然、真弓が叫び、立ち上がろうとした。だが、両手は椅子の後ろ側にしっかりと結びつけ
られており、中腰くらいまでは立ち上がったものの、すぐにバランスを崩して横に倒れ込んだ。
「ビデオに向って叫んでも、意味はありませんよ」
 カマキリ男が呆れた口調でいった。たしかに、冷静に見ればそうかもしれない。だが、この
状況下で冷静でいられるような人間に、俺はけっしてなりたいとは思わない!
243 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:14

 その瞬間、俺の頭の中でも何かがブチンと切れた。はっきりと音がした。
「うおおおおおおおおおお!!!」
 俺も叫んでいた。そしてテレビに向って突進していた。電源を切るんじゃない。そのテレビを
まるごとぶっ壊してやるのだ! そうする以外に俺たちに救いはない!
 俺はまるで内野安打を執念で獲得しようと一塁ベースにヘッドスライディングをする打者走
者のようにテレビに向って飛び込んだ。
 だが、俺は前にではなく真横に吹っ飛んでいた。俺の動きを察したカマキリ男が、矢のよう
な速さで駆け寄り、横から蹴り飛ばしたのだ。俺はくるくると回転してドアに頭を打ちつけた。
だが、すぐに立ち上がると、またもやテレビに突進した。
 男の蹴りがくる。それを掬(すく)い取った。そのままの流れで転がす。が、手にその感触が
なかった。カマキリ男は取られたと察した瞬間に足を引っ込め、後ろを向いて逆側の足の踵
(かかと)を俺の横っ面に叩き込んでいた。視界が点滅し、俺はまたもや吹っ飛んでいた。鼻
血が垂れているのがわかったが、血の臭いにも味にも、もはや新鮮な驚きはなかった。
 カマキリ男は黒服の男よりも格段に強かった。軍隊経験者かもしれないと思った。だが、そ
んなことは思うだけ無駄なことだった。飯田の声は聞こえなくなっていた。息遣いだけが聞こ
えてきていた。そして、その息遣いはこれまで聞いたどんな女性の声よりも甘美に溢れてい
た。
 どれだけ抵抗したのか自分でもわからなかった。真弓も椅子を引きずりながら懸命にテレ
ビに近づこうとしていた。しかし、俺たちはテレビを壊すことも電源を切ることもできなかった。
 俺は沈黙した。そして、俺は自分がいつのまにか射精していたことにようやく気づいた。
244 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/10(月) 19:14

つづく
245 :名無飼育さん :2007/09/11(火) 01:25
すっ凄い事になってきたな!
246 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:20

A-13

 視界がぼんやりとしていた。メガネのレンズにひびや傷はなかったが、ところどころに茶色
い染みがあった。雫(しずく)が垂れた跡のようであったり、しぶきのまま円形に固まっていた
りしたが、どれも乾いた血だった。フレームは歪(いびつ)に曲っていて、レンズの位置や角度
や向きなどが狂い、左右のバランスや遠近感が乱れていた。ただし、はっきりとした像が結
べないのは、レンズのせいだけではなく脳にかなりのダメージがあったせいだ。目はテレビを
睨んでいるはずなのに、揺れる金魚鉢を通して見ているかのようにぐにゃぐにゃと曲がりくね
って見え、その箱の中で何が行われているのか、視覚だけでは感知できなかった。
 だが、それによって俺の重責感が軽くなるかといえば、けっしてそんなことはなかった。目は
正常でなくとも、聴覚だけははっきりとしていて、聞き取った音を脳内で絶えずイメージに変換
していた。たぶん覚醒剤でも打たれたのだろう、飯田は気が狂ったような声を出していた。変
態犬を受け入れたのみならず、それを喜んでいるかのような狂人の声で、さらに自分からお
ねだりの言葉さえ口にしていた。
 鎖のジャラジャラという音がして、飯田の手錠が外されたのだとわかった。それからうふふ
だかえへへだか、よだれの垂れていそうな声が聞こえ、その声がくぐもる。水の撥(は)ねるよ
うな音や何かを口内でもてあそんでいるような音がそれに続く。飯田が何をしているのか考え
たくもないが、愚かなことに頭にはその光景が浮かんで、まぶたの裏に焼きついたかのよう
に消えようとしない。
247 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:21

 覚醒剤ごときでそこまで豹変することはないはずだと思った。性交時の覚醒剤は単に快感
を増幅させるだけで、突然別人になったり積極的になったりはしない。だとすると、飯田は現
実逃避によって自分の土台となる精神を守ろうとしたのだろう。虐待や強姦被害などではよく
ある話だと聞いたことがある。無理やりやられているのではなく、望んでやられているのだと
思い込むことで、そのショックはいくぶん和らぐ。ただし、それはその時だけのことであり、より
深い傷を被害者にもたらすことにもなる。真弓も保田も、飯田が別人のように青ざめていたと
いっていた。
 俺はもうやることもなく、立ち上がる気力さえ失せ、うつ伏せで壁を向いたままショーの音を
ただただ聞いていた。俺でさえ絶望しか感じないのだから、飯田のことを想っている真弓はな
おさらだろう。真弓ももう、倒れたまま立ち上がろうとはしなくなっていた。
 いっそのことテレビにかじりつき、率先して飯田の情事を眺めてやろうか、なんてことを思う。
この場でチンコを出し、狂った飯田のようにこちらもしごけば、絶望気分も少しは楽になること
だろう。真弓にもそうさせることができれば、俺たちはもっと楽に死ねる。
 しかし、二人の男が揃いも揃って現実逃避をするわけにはいかない。たとえ死の寸前まで
打ちのめされていたとしても、男は一人きりにならないかぎり、最期まで強がるものだ。それ
に、俺はどのみちすでに射精を済ませている。
248 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:21

 唐突にガラスの割れる音がした。しかし飯田の狂ったような声はあいかわらずだ。足音が
し、鋼鉄のドアが開いたような音がし、また足音がし、怒鳴る声がし、その間もやはり飯田は
狂い続けている。
 いや、待て――。脳に命令を出す。酸素を吸え。そしてよく考えろ。
 深呼吸をし、ゆっくりとまばたきを繰り返す。
 違う――。テレビから聞こえる音じゃない。現実だ!
 俺は躰を回転させた。カマキリ男の姿はなかった。ただ卑猥な光景を流し続けるテレビが
あり、椅子ごと倒れた真弓の背中が見える。動きを止めていた真弓の背中と手首がかすか
に揺れ動いていた。何かの異変を真弓も感じたらしい。
 何が起きているのかはわからないが、部屋に誰もいないことは確認できた。急に気力が戻
ってくる。ゆらゆらと揺れてはいるが、視界も元に戻ろうとし始めている。俺はポケットの中を
探り、ナイフを取り出した。床を這いずって真弓に近づき、真弓の手首を縛っているロープを
切る。
 次の瞬間、真弓はよろよろと立ち上がると、テレビに向って突進した。自身の躰ごと体当た
りを喰らわそうとし、垣添(かきぞえ)関のごとく、闘牛のように頭から突っ込んだのだ。台の
上に載っていたテレビは奥の壁にぶつかり、反動で手前に倒れた。しかし画面は下を向きな
がらも、なお飯田の声を止めようとはしない。
 顎(あご)を打ちつけたらしく、真弓がうううっと唸(うな)った。その声がどこか色っぽく感じら
れたのは、俺が飯田の痴態を見て聞いて、頭の中がアブノーマル色に染まっていたせいだろ
う。あるいは真弓も自然な反応として、俺と同じような心境になっていたのかもしれない。
249 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:21

 その真弓が両手でテレビを薙(な)ぎ払う。テレビは横向きに床に落ち、その衝撃であっさり
と壊れた。プチンプチンという奇妙な音がして、それと連動するかのように飯田の声が途切れ
てはつき、ついては途切れ、最後にはザーッという砂嵐の音に変わった。その砂嵐も、プチン
プチンという音とともについたり消えたりする。
 真弓は俺には目もくれずにテレビをいじっていた。たぶん中のビデオテープを取り出そうと
しているのだろうが、壊れたせいでうまく取り出せないでいるようだった。
 息を整えて立ち上がり、ふらふらになりながら真弓の横に向う。気配に気づいたのか、真弓
がこちらを振り向く。だが、俺のことを認識できなかったのか、真弓は俺に対しても体当たり
を喰らわせた。
 飯田の秘密を知った俺も敵だということなのだろうか。偽の真弓や黒服の男やカマキリ男
にやられたことよりも、その体当たりの方が俺には衝撃だった。どうすればいい。こういう時
にはどうすればいいのだ。
 ふたたび立ち上がり、真弓に声をかける。真弓は俺の方を見もせず、取り出しボタンを押
してはテレビを叩くということを一心不乱に繰り返していた。
 まるで子供のようだった。いや、よく考えれば、真弓はそれ以前から子供のようだった。容
姿のことではない。真弓は俺以上に人間関係が苦手っぽく、加藤との間柄だってどこか子供
じみていた。俺との会話も表面上は普通にできていたが、どこかに普通の会話風に会話して
いるという演出じみた感触があった。自閉症だとかそういうことではないが、何か欠陥があり、
それが今、俺の目の前で露出しているのかもしれないと思えた。特殊な能力を持つ人間は通
常の能力に異常を持っている場合が多い。よく知られている話だ。
250 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:21

 俺は真弓の横を避けるように移動し、壁ぎわからテレビを挟んで真弓に向き合った。手を
掴んで叩くのを止めさせる。だが、どこにそんな力があるのか、真弓は俺の手を振り払い、ま
たもテレビをがむしゃらに叩き出した。
 気が狂っている。真弓もやはり、現実逃避しなければ耐えられなかったのだ。
 俺はふーっと息を一つ吐いてから、おもむろに真弓の頬に平手をかました。一瞬で真弓の
動きが止まり、まるで斜視のような焦点の合っていない目が俺を向く。
「落ち着け。冷静になれ。叩いたってどうにもならん」
「筒、川、さん……」
 真弓が小声でつぶやき、力の入っていた両肩をすっと下ろした。どうやら正気に戻ったらし
い。
 俺は真弓の手を両手で包み込むように握り、目を見ながら話しかけた。「逃げるのが先だ。
どうせビデオはダビングしてある」
 それに対し真弓は首を横に振った。「後でダビングするって。そういってた。知ってること全
部いわないと、ダビングして流すって」
「ほんとか?」俺が訊き返すと、真弓は仔犬のような声で、うん、と返事をした。
 飯田が敵に捕まったのは昨日以前だ。昨日の午前中だったとしても、ダビングする時間は
充分にあった。しかし、女性タレントをレイプし、覚醒剤まで打つシーンがあるようなビデオを
販売目的にすることはないはずで、脅迫目的なら一つあれば――いや、撮影したとわからせ
るだけでも――事足りる。それに誤って流通して事件が発覚するようなことになれば、困るの
は敵の方だ。
251 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:21

 俺はその是非を考えながら、テレビデオの取り出しボタンを押した。真弓がやった時と同様
に反応はなかった。
「あきらめて逃げるべきだ」
 俺は答えを出した。だが、真弓は首を横に大きく振り、泣いているのか怒っているのかわか
らないような表情で俺を見た。
 思いつめた女がよくそういう顔をする。ただし、それは真弓が少女のようだからということで
はない。男とそういう状況にはなりえないだけの話だ。女から別れを切り出された時の俺も、
もしかするとそういう顔をするのかもしれない。俺には思い出したくない過去がいくらでもある。
「敵がくる! 何があったか知らんが、今なら逃げれる! 死んだら意味がない!」
「やだっ! やだっ!」
 髪を振り乱し、首を振りつつ真弓が大声で叫んだ。生きるよりも、そのビデオテープを抹殺
することの方を選びたいと、全身で強く主張していた。
「大人になれ! もう俺たちがどうこうしてもどうにもならんことだ! 警察に行って全てを話す
しかない! 死んだら飯田さんだって悲しむ!」
 真弓はそれでも首を横に振り続けていたが、最後の言葉で動きを止めた。だが、その目は
俺に殺意を向けていた。俺を殺してでもビデオテープを消滅させるつもりかもしれない。
 その狂人的な意志に俺は折れた。好きな女を守れなくて、男とは呼べないのだ。
「わかった。でも、叩いたところでどうにもならん。テレビごと持って逃げるか、燃やすか」
252 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:22

 瞬時にハッとした。俺は自分の言葉の中に道を見つけていた。燃やすものなら持っている。
勝手に滑って転んで頭を打った男が持っていたマッチだ。ズボンの後ろのポケットにある。
 俺はそれを取り出し、真弓に示した。「これで燃やす」
 真弓が無言でうなづき、俺はマッチを擦った。ビデオの挿入口を開き、その中に火のついた
マッチ棒を入れる。だが、火は燃え広がることなくすぐに消えた。冷静であれば予想できたこ
とだ。
「くそっ、どうすれば」
「わからない。新聞紙か何か、燃えるもの――」
 周りを見たが何もなかった。目をつぶって考える。隣の部屋に小麦粉があった。食材もあっ
た。だが、そんなものは燃えない。ダンボール箱があった。それなら燃える。だが、隣の部屋
に行って無事に戻ってこれるかどうかがわからない。そういえば偽の真弓はどうしているのか。
周りの状況がまったくわからない以上、隣の部屋に行くのは危険な賭けになる。どうすればい
い。どうすれば……。
 考えれば考えるだけ頭が混乱してくる。危険物のある部屋が頭に浮かんだが、それは隣の
部屋に行く以上に危険で、おまけに鍵がかかっていたはずだ。その次には昔読んだ漫画に
あった方法が頭に浮かんだ。ザーッという砂嵐の音と、プチンプチンというテレビの故障音の
せいだ。小麦粉を空中に舞い上がらせ、火花を与えることで爆発を起こす。だが、そんなこと
をすればこちらも死ぬだろうし、うまく爆発するともかぎらないし、どのみち小麦粉は隣の部屋
だ。
253 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:22

 真弓は部屋の中を歩き回っていた。自分の手首を縛っていたナイロンロープを俺に見せ、
次にパイプ椅子のクッションを示した。どちらも融(と)けるだけで燃えはしない。
 俺もポケットの中にハンカチがあることを思い出したが、マッチの火程度であればせいぜい
焦げるくらいだろう。火のついたタバコの灰を絨毯に落としたところで、そう簡単には燃えない
のと同じだ。メガネのフレームを直し、レンズを拭いてからハンカチをしまう。
 立ち上がって部屋を見回す。燃えるものでなくてもいい。ドライバーでもいいし、鉄パイプで
もいい。とにかくビデオをどうにかして取り出したいのだ。
 しかし何もなかった。部屋は殺風景で、木の棚には旧型の電熱器のような器具や使い古し
らしき電池の山や殺虫剤などが置いてあるだけだった。
「あっ!」
 俺は無意識に声を出していた。目の前にゴキジェットプロがあった。一人暮らしをするように
なって以来、お世話になっている生活必需品だ。噴射の威力は抜群で、生命力の強いゴキブ
リも一撃で殺す。だが、そんなことはいい。問題はそれが可燃性だということだ!
「これだっ!」
 俺はそのスプレー罐を手に取り、真弓に示した。
「殺虫剤?」
「火炎放射器だ!」
 高校時代、合宿で山奥のキャンプ場に行ったことがある。そこの炊事場に大量発生してい
た蝿に対して、もっとも効果があったのが殺虫剤ではなく、その殺虫剤を使った火炎放射器
もどきだった。俺はただ見ていただけだったが、その威力ならはっきりと覚えている。
 俺はテレビに向かい、持っていたナイフを挿入口に挿し込み、口が開いた状態にした。そこ
に火をつけたマッチ棒を入れ、ゴキジェットプロを噴射する。
254 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:22

 ぶおうっと炎が上がった。が、炎は一瞬立ち昇っただけですぐに消えた。
「駄目か……」
 合宿の時はライターを噴射口に当てていて、それで火を吐き続けていたんだったか。マッチ
だと火を持続させることは難しい。しかし、これくらいであきらめるわけにもいかない。今度は
火のついたマッチ棒を噴射口のそばに持ち、そこにゴキジェットプロを噴射する。炎が火炎放
射器のように前方に噴き出したが、予想した通り、持続はしなかった。
 後少しなのに、それができない。燃やさなくてもテープを融(と)かせばいいのだが、テープ
にはプラスチックの殻があり、中身を大切に守っている。マッチの火ではその殻を突破できな
い。
「駄目だっ」
 同じ言葉だったが、今度は断定形になっていた。何度やっても同じことだ。マッチを最後ま
で使い切っても効果は薄いだろう。そんな時間があるとも思えない。カマキリ男がいつ戻って
くるかわからないのだ。そういえばマッチ売りの少女も、結末は凍死だったか……。
 焦りだけがつのり、俺は無意識のうちにナイフで挿入口をこじ開けようとしていた。むちゃく
ちゃだが、中に直接炎を当てることができれば、持続はそれほど必要ない。しかし、てこの原
理を用いたものの、プラスチックが少し割れた程度で、特に意味はなかった。
「無理だ……」断念するようにつぶやいた俺に、真弓が小さな錆びた金属を差し出した。
「罐切り?」
「棚にありました」ものすごい早口で真弓が答えた。
「ごめん。せっかくだけど、あまり意味は――」
「そうじゃなくて。これで中身をこぼせば」
255 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:22

 早口の理由がわかった。それは最後の手段であり、確実な手段でもあったのだ。
 罐の中は気体ではなく液体だ。それをこぼし、その液体に引火させれば炎は持続する。中
のテープも融(と)ける。
 俺は早速、罐切りでゴキジェットプロの底に穴を開けた。缶詰のようにはいかなかったが、
二箇所に開ければ充分だ。砂嵐の画面を上向きにし、挿入口に殺虫剤の液体をこぼし入れ
る。床に滴り落ちてくるほどにこぼしたところで、目で真弓に尋ねる。
 真弓がうなづき、俺もうなづいた。
 マッチを擦り、挿入口に落とす。ぼわっと炎が上がり、危うく顔を焦がすところだったが、作
戦は成功だ。
 しかし、喜んでいる餘裕(よゆう)はなかった。俺は最初、それを炎の音だと思った。ところ
が、真弓の顔はそちらではなくドアの方を向いていた。音はそちらからしたのだ。そして、二
度目の音で俺はようやくそれが銃声だと気づいた
 唖然(あぜん)とした。どう対応すればいいのかがわからず、それ以上に状況が理解できな
い。不思議だったのは、その音がこの部屋とは別のところで響いたということだ。いったい何
が起きているんだ。何が。
 男の怒鳴り声がして、またもや発砲音が響く。
 俺はようやくガラスが割れる音がしたことを思い出した。それでカマキリ男は部屋を出て行
った。考えられるのは侵入者だ。警察か、あるいは別の何者かか、とにかく俺たちを助けに
きた人間がいる――希望的観測だ!
256 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:22

 俺は真弓を下がらせ、恐る恐る開いたドアから廊下を覗き見た。廊下に人はいなかったが、
階段のところに人がいるらしく、数人の声が聞こえた。銃声はそこではなく、隣の部屋の中か
ら発せられている様子だった。
「筒川さん、いったい何が?」
「わからんが、隣で銃撃戦だ」振り向いて答える。
「どうすれば?」
「相手が拳銃じゃどうしようもない。見守るしかない」
 そう。見守るしか方法はない。だが侵入者が何者なのか、それすらわからないのでは希望
以上に不安が大きくなる。
「そのドアは?」と、俺は部屋の奥にあったドアを指差した。
「わかりません」
 建物の構造を頭に浮かべる。廊下の長さやこれまで通ってきた部屋の位置や広さを考える
と、向う側の廊下にあった鍵がかかっていた部屋に通じているはずだ。
 俺はそのドアを開けた。中は会議室らしかったが、簡素なテーブルと椅子とがあるだけで他
には何もなかった。照明のスイッチがどこにあるかわからず暗かったが、奥にドアがあるのが
見えた。
「様子を見てくる。真弓ちゃんは――」
「ボクも行きます」俺の言葉を待たずに真弓が答えた。勢いに負けてうなづく。
 真弓を連れて暗い部屋を通り、ドアの前まで進む。鍵はドアノブについているタイプではな
く、頑丈な鉄の棒を横に通すタイプだった。その棒を外し、ドアを開ける。部屋から見て内開
きだ。
257 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:23

 頭を出して廊下を覗く。二人ほど男が倒れていた。そして奥に鉄パイプを持ってしゃがんで
いる男が一人。俺が偽の真弓と闘った部屋を窺っている。
 その男の顔に見覚えがあった。いや、それに気づいたのは真弓の方が先だった。真弓も
俺と同じように顔半分を出して廊下を覗いていた。「あれ、シイバっていう人です!」
 その声に椎葉がこちらを向いた。思わず顔を引っ込める。だが、その必要はなかったかも
しれない。椎葉と名乗った男が敵か味方かはわからないが、そこにいる中国人たちと対峙し
ていることは間違いない。共通の敵ということであれば、椎葉は俺たちの味方になる。
「あの男に頼るしかなさそうだな」
「味方ですよね?」真弓がすがるようにいった。
 ああ、と答えると、真弓はようやく緊張の解けた表情を浮かべ、俺の顔を見た。「筒川さん、
すごい顔してますよ。目の回りとか。鼻血も出てるし」
「自分の顔が変だってことくらい、いわれなくても知ってる」
 ようやく真弓が笑顔を見せた。飯田のビデオも燃えて、いつ死んでもいいのかもしれない。
「どうする? 掩護(えんご)するか?」
「武器は?」
「鉄パイプくらいしかない。後は小麦粉くらいだ」
「粉塵爆発……」
「知ってるのか」
「うん。でも、やり方は知らない」
258 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:23

 小麦粉で粉塵爆発を起こすのはたぶん無理だろう。だとすると、やはり鉄パイプか。
 俺はふたたび廊下に顔を出し、男に声をかけた。
「あんた、何者だ」
 椎葉がこちらを向き、にっと笑った。「助けにきた。といっても、様子を見にきて失敗したって
感じだがな」
「どうしてここがわかった」
「あいつらを尾(つ)けただけだ。そしたら君が運ばれてきた。苦労したぜ。下には見張りがい
るし、この歳で壁をよじ登ることになるとはな。隣のビルとの隙間が狭かったからまだましだっ
たが」
 南船橋のラブホテルで拾った名刺にはたしか、インストラクター、クライミングガイドとあった。
それが本当なら、それくらいの藝当(げいとう)はできて当然かもしれない。
「信じていいのか」
「ああ。かまわん。ただし、生きて外に出られるかどうかは別の問題だ。こいつら、正真正銘
のエージェントらしいからな」
「指示を出してくれ。俺たちはどうすればいい」
「じっとしてろ。相手が銃じゃ、オレだって太刀打ちできん。そこに転がってる連中は丸腰だっ
たが。何だったらそいつらの懐(ふところ)見てくれ。銃が入ってるかもしれんぞ」
 冗談なのか本気なのかがわからないような話し方だ。見たところ四十前後らしいが、そのせ
いで俺たちのことを子供と見なしているのかもしれない。たしかに真弓は外見が子供だし、俺
も内面は子供のまま大人になりきれていない。
259 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:23

 いわれたことを依頼と判断し、倒れている二人の男の所持品を探る。どちらにも拳銃はな
かった。だとすると、やはり鉄パイプが必要だ。
 俺は目の前の部屋――監禁されていた部屋の隣の部屋だ――に入り、鉄パイプを手に取
った。ほんの一時間前にもこうやってここで鉄パイプを手にした。だが、それから半日は経っ
ているような気がするし、二十分くらいのような気もする。危機に直面した時、人は時間の流
れとは無縁の空間に放り出されるものらしい。
「真弓ちゃん、持てる?」
「重いから無理だと思う。こっちの水道管の方なら大丈夫かな」
 そういって真弓が水道管らしき細目のパイプを手に取った。そんなものがあることに俺はま
ったく気づいていなかった。
「これか。これなら、たしかに使えるかな」
 そのパイプは軽かった。それでいて硬い。装備するにはもってこいだ。
 真弓が一本、俺は二本のパイプを左右の手に持ち、部屋を出て椎葉のそばに進んだ。
「闘うつもりか」
「一応、ここで二人ほど倒してますよ。素手で」
 水道管を手にした時、俺は自分が監禁されていた部屋も覗いている。ガラスが飛び散って
いたのは、たぶん椎葉が窓を割って侵入したということなのだろう。糞便で滑った男はまだ気
絶したままだった。死んでいるとすれば気分は悪いが、俺が殺したわけではなく、過失でもな
い。男は勝手に死んだのだ。そう思うより他にない。
260 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:23

「そっちの部屋はどうなってる。奥に通じてるのか」
「奥に廊下があります。階段に何人か敵がいるみたいでした」
「部屋の中は二人だ。銃を持ってるのが一人、頭を抱えてうずくまってるのが一人だ」
 銃を持っているのはカマキリ男、うずくまっているのは偽の真弓だろう。
 俺をぶちのめした中国拳法使いはどこにいるのかと思ったが、その廊下で倒れている一人
がそれなのだと気づく。思い出して身震いする。足先で蹴り上げられた顎には今でも自分の
顎ではないような違和感があった。目の前を空振りしたその直前の拳も、風圧がメガネの下
から上へと新幹線のように吹き流れるほど凄かった。その男を倒したのであれば、椎葉とい
う男はかなりの猛者(もさ)だ。
「裏から挟み撃ちと行きたいところだが、そういうわけにもいかんな。階段にいるって連中を
何とかできるか」
「わからないけど、やってみます」答えたのは真弓だった。
 椎葉が困ったような表情を浮かべ、しかし真弓はもう廊下からそちらの部屋に向っていると
ころだった。俺もそれを追う。
 暗い部屋から明るい部屋へ。ゴキジェットプロの液体はまだ燃えていて、プラスチックの焼
けた臭いと黒っぽい煙とが部屋の空気を汚していた。火災報知器が鳴れば外部にも異変を
知らせることができるが、建物のどこにもそんな設備はなかった。警察とともに消防署にも通
報すべきかもしれない。
「うまくいったみたいだな。中のテープはどろどろだ」
 真弓がこくりとうなづき、それから奥の廊下に顔を向けた。真弓の前に立ち、ふたたび廊下
に顔を出す。誰もいない。
261 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:23

 ゆっくりと出て、慎重に廊下を進む。水道管のパイプは両手にぶら下げている。真弓には
待っているように手振りで伝えたのだが、やはりついて来ていた。薙刀(なぎなた)のようにで
はなく、竹刀(しない)のように水道管を両手で正面に構えていた。そういえば短期間だが剣
術サークルにいたといっていた。巻き込みたくはないが、心強いのもたしかだ。
 ドアのところまできて、中の様子を窺う前に階段に神経を向ける。先ほどまでいた人間たち
は階下に退いたのか、気配は感じられなかった。持久戦と予想してそのための準備をしてい
るのかもしれない。銃声も最初の三、四発だけで、それからは一度も聞こえていない。ただ、
銃弾がなくなったというわけではないだろう。侵入者が何者なのかを窺っているのだ。
 部屋の中を覗く。積んである小麦粉の袋の山の手前に、こちらに背を向けたカマキリ男が
いた。向うのドアの方に銃を向けている。偽の真弓はどこにいるのかよくわからない。どこか
の陰にいるらしい。
 隙だらけだ、と思った。カマキリ男は侵入者にばかり注意を向けている。こちらに敵がいる
とは思ってもいないらしい。味方の振りをして堂堂と近づき、パイプで強打する。簡単にでき
そうな気がした。
 だが、敵は拳銃を持っている。こちらに気づけば胴体に穴が開く。さっきまでいつ死んでも
おかしくない状態にいたが、思わぬ味方が登場したせいで、生への未練は二倍、三倍に膨ら
んでいた。何とかして生き延びたい。そのためにはどうすべきか。
 突如、階段を上ってくる足音が聞こえた。一人ではなく二人か、三人か。ジャラジャラという
音がして、思わず全身が戦慄する。それは昔、家の台所の入口にあったすだれの音に似て
いた。穴の開いた丸い木の玉が紐に通され、その紐が何本も上から吊り下がっていて、くぐ
るたびに木の玉が音を立てた。だが、戦慄したのは実家を思い出したからではない。実際に
聞いたことなどあるはずがないのに、頭に浮かんだのは真っ黒い機関銃、マシンガンだった。
ジャラジャラという音は、肩にぶら下げた連なった弾丸の帯。敵はスタローンだ。
262 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:23

 後ろを振り向き、真弓に向って叫んだ。「逃げろ! マシンガンだ!」
 いいながら、俺は後ろではなく前に進んだ。横目に部屋の中のカマキリ男がこちらを振り向
こうとしているのが見えたが、その顔が見える時には俺はもうドアの前を通過していた。その
まま走って階段の枠をくぐり、踊り場で向きを変えてこちらに向って登ってきていた三人の男
の姿を捉える。先頭の男はやはり胸の前にマシンガンを抱えていた。
 恐怖。だが、それ以上に勇気があった。
 俺は走った勢いのまま、走り幅跳びの選手のように床を踏み切り、前方に飛んだ。そして、
一度はやってみたいと思っていた飛び蹴りの体勢を取った。右足を前に突き出し、左足は膝
を曲げて胸の方へ寄せる。
 右足が何かを押した。何かを突き押し、止まることなく奥へ、下へ。慣性と重力とに乗り、障
碍物(しょうがいぶつ)を押し込みながら躰が落下していく。着地はできず、何がどうなったの
か、目がくるくると回って天地が逆さまになり、気づいた時には躰の下や横に人間のぶよっと
した感触や服の繊維の感触やプラスチック製なのか、マシンガンの硬い感触などがあった。
両手に持っていた水道管のパイプは右手の方がどこかに消え、左手だけに握っていた。
 俺は自分の位置と天地の向きをとっさに確認し、上半身を起こしただけで次の行動に出た。
狭い踊り場で、突然の奇襲に混乱している三人に向って両手でパイプを振り回したのだ。
 一度目は一人の顔面に当たり、二度目はもう一人のマシンガンに当たった。三度目は縦に
振り下ろし、マシンガンを抱えた男の脳天を打った。残った一人は最初の一人の下敷きにな
ったまま、立てずにいる。
263 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:23

「うおおおおおおおおおお!」
 跳躍するかのように立ち上がり、パイプをさらに振り回す。一人、二人、そして三人目。
 パン。
 銃声。
 何かが目の前を飛んだのが見えた。見えるのと聞こえるのとは同時のはずだが、俺には音
が先で、それに続いて何かが飛んだように見えた。俺の目の前を銃弾が通りすぎたのだ。
 誰だ!
 そこにいる三人を見るも、どれも虫の息で拳銃を構えていたりはしない。踊り場から階下を
窺うも、援軍の姿などはない。
 俺は振り向いて上階を見上げた。カマキリ男がこちらに銃口を向けていた。だが、それでわ
かった。銃声は威嚇(いかく)だ。こちらに向けて銃弾を撃てば、味方に当たる危険性がある。
だから俺を狙ったわけではない。だが、銃弾は壁に当たって反射する。俺が見たのはきっと
それだったのだろう。俺は一瞬で状況を整理し、すっとしゃがみ込んだ。敵の中にいれば撃
たれることはない。
 カマキリ男の表情は逆光で窺い知れなかったが、冷徹な表情でいられるはずはないだろう。
きっと怒りに燃えている。だとすると、次には味方にかまわず俺を狙うかもしれない。
 恐怖が最大限にまで膨れ上がった。勇気もまだ残っているが、自分の心境を判断するよう
な餘裕(よゆう)はなくなっていた。
264 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:24

 足元に液体を感じ、床についた手にも何かが触れていた。それは血だった。いつのまにか、
その床の一部に血溜まりができていた。いや、できようとしていた。思わず自分の躰を見る。
俺は撃たれ、もう死んでいるのではないかと、そんなことを思ったりもした。だが違った。血は
倒れている男の胸からこぼれていた。三人目の男だった。銃声が聞こえた時、俺はこの男の
頭に鉄パイプを叩きつける途中で、銃声によってその動きを止めた。だが、壁に当たって跳
ね返った兆弾(ちょうだん)が男に命中していたらしい。 
 死というものが初めて近くに見えた。それはたぶん、血という目に見える形で俺の前に提示
されたからだろう。吐き気が込み上げ、足が震え、股間は小水を漏らしていた。大便を漏らし
無意識に射精をし小便をも漏らした俺は、もはや人間ではなく動物なのかもしれない。この建
物にいる連中は全員が動物だ。
 カマキリ男が拳銃を片手から両手に持ち直し、銃口をふたたび俺に向けた。味方に当てる
ことなく、確実に狙うということなのだろう。
 俺は死を意識した。だが、その次の瞬間、カマキリ男は銃弾ではなく、自らの躰を俺に向っ
て飛ばしていた。男の後ろに真弓の姿が見えた。水道管を握り、正眼(せいがん)に構えてい
た。叩いたか突いたかしたのだろう。カマキリ男は鳥人間コンテストに以前あった仮装部門の
参加者のようなしぐさで階段を転げ落ち、俺のいる踊り場の手前で止まった。拳銃を放してし
まったらしく、左右の手に武器はなかった。
 俺は男を突き飛ばし、階段を一気に上った。真弓の手を取り、廊下に戻る。椎葉が突き出
したらしく、部屋の前の廊下に偽の真弓が倒れていた。それをまたぎ、部屋に入る。
265 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:24

「何があった」銃声のことだろう、椎葉が尋ねた。
「階段にいた三人はやっつけた。もう一人も倒れてる。逃げるなら今だと思う」
 椎葉が目を見開いて驚きを示した。「君がやったのか?」
 俺はどう答えていいかわからなかった。この建物の中には死んでいる男もいる。倒れてい
る男なら何人もいる。俺はそれらに対していっさい責任を取りたくなかった。倒れている連中
のどれだけに俺が関与したのかは関係ない。どいつも俺の糞便で滑って転んで頭を打った
奴と同じだ。勝手に倒れたのだ。それ以外に、俺が今の今までこうして息をしていることを納
得することはできない。
 椎葉が廊下に出て階段の様子を窺った。それと同時に遠くの方からサイレンの吹鳴(すい
めい)が聞こえた。誰かが警察に通報したらしい。
 椎葉が戻ってくる。だが、それはパトカーのサイレンを聞いたからではなかった。チッと舌打
ち。「くそっ、部屋に入れっ! マシンガン持ってやがる!」
 椎葉が部屋に駆け込み、鋼鉄製のドアを閉めた。俺の腕を痺れさせた憎きドアだ。会議室
のドアとは違い、内側から鍵をかけるようにはなっていなかった。椎葉が自分の躰を使ってド
アを押さえ込む。
 俺はいわれる前に十キロの米袋ほどの小麦粉の袋をドアの前に運んだ。一つ、二つと運び
始め、五つ、六つとなる頃にはその日の疲労でふらふらになっていた。真弓も袋を運び、ドア
の前に積み上げていく。
 それから逆側のドアに向かい、そこには鉄の棒で鍵をかける。これで自ら退路を絶ったこと
になるが、マシンガンとパトカーとを考え合わせると、時間を稼ぐしか方法はない。
266 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:24

「木登りは得意か?」
 ドアを押さえながら唐突に椎葉が尋ねた。向こうからドアを叩くような音が聞こえていた。体
当たりしているらしいが、だとすればカマキリ男ではないだろう。階下から援軍がきたのかも
しれない。
「一応、それなりには」動揺を見せずに答える。
「そっちのお嬢さんは?」
 真弓は訂正せず、首を横に振った。
 俺も訂正はしなかった。椎葉に尋ね返す。「窓から逃げるってことですか? あっちの部屋
の」
「隣のビルとの隙間は八十センチか、あるいは一メートルか。両手両足を広げてな、こう、少
しずつずらすようにすれば……。もちろん、落ちたらただじゃ済まん」
 監禁されていた部屋の窓からは灰色の明かりが射し込んでいた。窓のすぐそこに壁があっ
たとすれば納得がいく。だが、五階だか六階だかの高さだ。全身がぼろぼろでほとんど体力
の残っていない俺にはきつい試練になる。
「警察がくるまでもちませんか?」小麦粉の袋をさらに積みながら尋ねる。
「さっきのサイレンか。ここに向ってるとはかぎらん。オレは通報してないし、君たちも、だろ」
 その可能性があることはわかっていた。だが、聞きたい言葉ではなかった。
「ボクの携帯、どこかにあるはずです」と、真弓がいった。「ここにきた時に奪(と)られて。でも
どこにあるかは」
「室内電話は? 会議室ならあったんじゃないか?」
「どこにもなかったです」
267 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:24

 真弓がいうのならどこにもないのだろう。警察への通報は、残念だがあきらめるしかない。
 こうしている間にも、敵の数は増えている。この建物にいる敵という敵が集まっているだろう
し、外部から応援を呼んでいるとも考えられる。
 と、真弓が思い出したかのように声を上げた。「粉塵爆発!」
 ドアの前には大量の小麦粉があった。それを空気中に拡散させ、蛍光灯を割るなりすれば
粉塵爆発を起こすことができる。部屋の明かりを消し、蛍光灯を割って起爆装置とし、敵に照
明をつけさせる。もちろんこちらは奥の廊下に退避する。そうすればこちらに被害が出ること
はない。だが、それには部屋が広すぎる。他の部屋であれば可能だったかもしれない。
「無理だ。広すぎる」
「ちょっと待て。それ、どうやるんだ?」
 椎葉が尋ね、俺は簡単に答えた。椎葉は何か思案するような顔つきでそれを黙って聞いて
いた。そして、会議室で部下の企画に助言をするような口調で感想を述べた。
「爆発を起こせなくても、相手にそれとわからせればいい。マシンガンも銃も使えなくなる」
 最後の手段が決まった。俺はうなづいた。それによって俺たちが逃げられるかというと、そ
うはいかないだろうが、新たに逃げるチャンスは出てくるかもしれない。どのみち俺たちの脱
出の可能性はそう大きくはないのだ。とにかくやるしかない。やってだめだったら、それはそ
の時にまた考えればいい。少なくとも、今日の俺はそうやって生き延びてきている。
 俺たちは残っていた小麦粉の袋を破り、部屋中にばらまき、蹴り上げ、袋で叩いて舞い上
がらせた。メガネがコントのように白くなり、喉も粉っぽくなる。だが、まだ足りない。俺たちが
生き残るにはもっと大量の小麦粉が必要だ。
268 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/09/17(月) 23:24

つづく
269 :名無飼育さん :2007/11/07(水) 22:13
圧倒的じゃないか
270 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2007/11/30(金) 20:55
時間が取れるまでしばしお待ちを。。。
271 :名無飼育さん :2007/12/01(土) 09:38
うん。大丈夫だよー待ってる
さてコーヒーでも飲もうかなー
272 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2010/07/13(火) 16:18

そろそろコーヒー飲み終えたかな。。。
273 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2010/07/13(火) 16:18

 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
 あのビル内で起きたすべての出来事、そしてその前後に起きた数々の出来事が、つい先週のこ
とのようにも、もう半年も前のことのようにもおもえる。
 人は生死を賭けて死に物狂いで行動すると、どうやら時間の感覚を喪失するものらしい。
 それも当然かもしれない。
 自分でもいまだに自分が信じられない。
 拳銃、マシンガン、謎の組織、拉致監禁、覚醒剤、犬による凌辱、カンフー遣い、助っ人の乱入、
高所からの脱出、逃走、そして血と、屍と、死……。
 まるで素人が書いた滅茶苦茶な筋書きの小説を読まされたかのようだ。そこには「現実」という
一語がどこにもない。
 なのに、俺はそれが現実であるということを知っている。おもい出すだけで全身の体温が一気に
十度以上も失われるような感覚に陥る。全身の毛穴という毛穴に鳥肌が立ち、胃が重くなって消化
物も未消化物もまとめて吐き出したくなり、瞬時に尿意と便意をもよおし、そして勃起する。
 よく生きていたものだとおもう。
 それと同時に、自分はもう死んでいて今は死後の世界をさまよっているのではないか、というよう
な無気力な感慨も浮かんでくる。
 生きているのか、死んでいるのか……。
 もし死んでいるのなら、俺はそのことに感謝する。
 だが、もし生きているのなら、俺にはまだやらなければならないことが残っている。
 それは、俺が生きているということをたしかめることだ。
274 :名無飼育さん :2010/07/13(火) 16:19

 俺はまず、ブラックのコーヒーを飲んだ。常飲していたタバコが切れ、それをごまかすための措置
だが、悪くはない。そしてまた、真弓もコーヒーの匂いにだけはなんとなく反応を示す。
 真弓はソファに座っていた。
 一応、普通に動き、普通に食事をし、普通にトイレに行き、普通に寝ることくらいはできたが、そ
れでも俺から見れば、真弓は生死の境をさまよっていた。もちろん、精神的な意味でだ。
 今もただソファにもたれ、動くでもなく固まるでもなく、ぼんやりと前を見ている。目の前には部屋
の壁があるだけだから、壁フェチでなければ、おそらく虚脱状態ということになる。
 真弓がそうなってしまった原因はかんがえるまでもない。
 真弓はあのビデオにショックを受け、ビデオの映像に自分が反応してしまったという事実にもショ
ックを受け、そしてまた、飯田のその後にもショックを受けた。真弓が飯田に想いを寄せていたこと
は、恋愛事情に疎い俺にだってわかるくらいで、そうだとすれば、真弓はかなり厄介な傷を負って
いる。抜け殻になってしまうのも無理はない。
 真弓がテーブルに置いたコーヒーになんとなく手を伸ばし、カップになんとなく口をつける。
 ブラックが苦手なせいか、飲むときにだけ眉間にしわが寄る。俺がコーヒーで気力を保てている
ように、真弓にも効果があることを期待しているのだが、それ以上にはならない。
 俺は別の反応をためしてみることにした。
 キッチンの棚にクリーミングパウダーがあったことをおもい出し、それを取りに戻る。
 椎葉は潰れかけの山小屋だといっていたが、バンガロー造りの別荘と表現できるような建物で、
調味料なんかも揃っているから、隠れ家にしては快適だ。不便な点があるとすれば、それは買い
物に行くのに数時間かかるということで、俺が大家なら真っ先にタバコと酒の自販機を設置する。
275 :名無飼育さん :2010/07/13(火) 16:19

 パウダーを持って戻り、スプーンで粉をすくう。
「入れるよ」
 いって、返事を待たずに真弓のカップに落とし入れる。
 サラサラと粉が滑り落ちるのを見て、ふと、俺の脳裏にあの言葉が浮かぶ。
「粉塵爆発……」
 俺は目を見開いた。
 たしかに俺がかんがえたのはその言葉だった。だが、口に出したのは俺ではなく、真弓だった。
「俺も今、同じことをいおうとしてた」
「うまく、いきませんでしたね……」
 どこか懐かしむような口調で、俺もその話に同じような口調で乗る。「ああ、だな……」
「もし成功してたら、たぶん、なんとなくだけど、もっと違う道に行ってたんじゃないかって、ほんとに
なんとなくだけど、そんな気がします……」
 壁フェチからコーヒーに浮かぶクリーム模様フェチに乗り換えたのか、真弓が視線をカップに落
としたまま、かなり抽象的な文章を呟く。回復の兆しなのか、それとも悪化の兆しか……。
 俺はゆっくりとした口調で尋ねた。「その、違う道ってのは、どういう?」
「その、なんていうか、たとえば、自分たちで火山を噴火させたりしたら、それって、すごい自信に
なりませんか?」
 急に話が変わり、俺はカップを手にしたまま、足りない脳を回転させる。
「それはつまり、もし成功してたら、あの組織を壊滅させるとか、真正面から決闘を挑むとか、そう
いうことになってたかもってこと?」
276 :名無飼育さん :2010/07/13(火) 16:19

 真弓が首を横に振ってから、ようやく俺の顔を見る。「そうじゃなくて……ボクのことです……」
「真弓ちゃんの?」
「だから、ボクがもっと、自分のやりたいことを、やりたいように、もっと衝動的に、自分でもありえな
いっておもえるような、そんな行動を、もし成功してたら、ボクが、取れたかもしれないって」
 どこにも話の要点はなかった。だが、なんとなく、いいたいことはわかった。
 真弓にとって重要なのは、敵から逃げることでも、敵の組織を壊滅させることでもなく、なぜ自分
たちがこんな騒動に巻き込まれたのか、その理由を知ることでもない。
「飯田さんのことか」
 俺の言葉に真弓が頸突く。そしてコーヒーを一口、また一口、さらに一口、合計三回もすすってか
ら、ようやく眠気から解放されたかのように口を開く。
「カオのところに行ってたとおもいます。それで、ボクがカオを護るからって、これからずっと護るか
らって……。つまりは、その……、プロポーズです……」
 少女のような顔からプロポーズという言葉が飛び出したことに、俺はかなり面喰っていた。
 突拍子もない、というしかない。
 だが――たしかに、もし粉塵爆発が成功していたとすれば、俺だって似たような衝動に突き動か
されたかもしれない。あのビル内での恐怖は尋常なものではなかったが、興奮もまた尋常ではな
かった。全身を廻る脈という脈が鳴動し、細胞という細胞が燃え立っていた。小心者の自分が、あ
のときだけは紛れもない男になっていた。もちろん、恐怖に震え、死に怯え、ズボンの中は最低最
悪な状態になってはいたが、それでも、俺は男として敵と闘った。そこでさらに狙い通りに大爆発な
んかが起きようものなら、おそらく俺は、天下布武の旗印を挙げたことだろう。
277 :名無飼育さん :2010/07/13(火) 16:19

 俺はコーヒーをすすった。真弓と同じように何度もすすり、カップが空になると、二つのカップを持
ってキッチンに向い、残っていたコーヒーを並並とすべて注ぎ入れ、そうして戻ってからも、やはり
コーヒーをすすった。
 真弓もまた、その間なにかを口にするでもなく黙ったままで、やはりコーヒーをすすった。眉間に
しわが寄っているのは、クリーミングパウダーを入れなかったせいだ。
 俺はカフェインを摂取する間に仮想の興奮を抑え、天下布武の旗印を降ろした。
「でも、もしあれが成功してたら、おそらく俺たちだって死んでたはずだ」そこで真弓の反応を見て、
なにもないとわかってから続ける。「だから、俺は失敗してよかったとおもってる。失敗はしたけど、
あれで連中は慎重になった。あの部屋の蛍光灯は全部割ってあったし、部屋中が小麦粉だらけ。
その足止めのおかげで逃げられたわけで、成功してたらおそらく逃げ道を失ってた」
 真弓が声を出さずに小さく頸突く。さきほどまでと比べて、どことなく全身が小さくなったような気
がする。いつもの抜け殻に戻ってしまったのだとすると、俺の言葉は正しかったのか間違っていた
のか、よくわからなくなる。
 俺はさらに続けた。「俺だって本音をいえば、保田のことが心配でたまらないよ。一緒に逃げて
いたらって、何度もそうおもった。でも、現実はもう俺たちではどうにもならないことになってる。飯
田さんだってそうだ。飯田さんはおそらく自分で決めたんだとおもう。だから、結婚を発表した。妊
娠が本当かどうかは知らないけど、本当だとしたら、飯田さんにとってはいい降りどきだったって
ことになるし、嘘だとしても、それも飯田さんの決断したことだ。ニュースで話題になれば、しばらく
は注目が集まる。正体不明の組織がそんな彼女を狙うとはおもえないし、私は降りましたっていう
意思表示にもなってるはずで、逃げるよりも降りる方が何倍も賢明だとおもう」
278 :名無飼育さん :2010/07/13(火) 16:19

 飯田の結婚や妊娠の話題は避けたかったが、いつのまにか勝手に言葉が出ていた。
 真弓にとっては直視したくない現実に違いなく、抜け殻の理由もそこにある。
 俺は大きくため息をついた。真弓は両手でカップを抱えて、そのカップをゆっくりと回し、中の液
体の揺れるさまを見つめている。どうやら新たなフェチに目覚めたらしい。
 真弓はなにも答えなかった。しばらくカップを眺めていたが、やがてカップを置き、そのまま立ち
上がると、ふらふらと左右に揺れながら部屋から出て行った。すぐにドアの開閉音がしたから、お
そらく寝室として使っている隣の部屋に向ったのだろう。時刻はまだ昼の三時だが、どうせ俺たち
にできることは寝ることくらいしかなく、しかし寝たところで果報が待っているはずもなく、椎葉もど
うせ数日は帰ってこない。
 俺は残りのコーヒーを少量ずつ口に含みながら、自分にできることをかんがえてみた。
 しかし、タバコを買いに出ること以外にやれそうなことはなかった。
 飯田や保田の安否を確認したいというおもいは強いが、逃亡中の身としてはこれ以上の接触は
避けるのが常道で、こちらの生存は向うにも伝えてある。敵の組織のことは半分プロのような椎葉
が調べていて、俺たちの出る幕ではない。すべての発端となった金印のことにしても、いかに歴史
学科卒とはいえ、俺の研究範囲ではなく手も足も出ない状態だ。
 結局、俺は買い物に出ることにした。
 食料はまだ二、三日はもちそうだったが、俺の肺はもう新鮮な自然の空気に飽き飽きしていた。
椎葉はかなりの軍資金を置いていったから、一気に十カートンまとめ買いなんてのもありかもしれ
ない。肺癌や肺気腫のリスクなど、間近で銃口を向けられたことに較べたら屁でもなく、そもそも俺
は長生きが許されるほど役に立つ人間ではない。そんなことは大昔から知っている。
279 :名無飼育さん :2010/07/13(火) 16:20

それでは再びコーヒーをどうぞ。。。
280 :名無飼育さん :2011/12/21(水) 19:34
ショックもありつつすごく面白いです
できたらまた続き読みたいなあ・・・
コーヒー飲みながら待ってます
281 :リッチワン ◆Rich1NDNCw :2012/01/24(火) 02:48
もう半分近く設定や構想を忘れたけど、
でも初回からすでに最終回だけはがっちり出来てるので、
そこに向けてなんとか続けたいなあという気持ちもなくはないんだけど、
でも小説を年百冊近く読んでた当時と違って、
今じゃせいぜい年三冊ペースなので、
書こうと思い立っても書けないんだよねえ。
前回追加した分がまったく面白くないように。。。
玉乃島が引退しちゃったように。。。
垣添が幕下に陥落してなお負け越しを続けてるように。。。
でもまあ、未だに読んでくれる人がいるというのは嬉しいもので、
検討するだけなら検討してみようかなあと。
ということで、さめたコーヒーでよければ。。。
282 :名無飼育さん :2012/01/24(火) 07:17
続き読みたいです
283 :名無飼育さん :2012/01/24(火) 23:26
さめたコーヒーじゃなくて冷えたビールが飲みたいです

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